「死にたい」  
 
 というのが自分の口癖であるのは、自分をよく知る人間にとっては既に周知の事実であり  
 自分自身もそれを否定することはしない。間違いなく自分の口癖は「死にたい」である。  
 ただ一つだけ訂正を加えるとするのであれば、この言葉は彼女にとって口癖で『あった』と過去形にするべきであるということだ。  
 自分、宮守夏音は自他共に認める邪悪系少女だ。 目を合わせれば呪われ、近くにいると悪いことが起き、話せばその邪悪が伝染する。  
 ……というのが既に過去のものになりつつあるという事もまた、自他共に認める事実である、と思う。  
 少なくとも、少し前のように目に見えて自分を避ける人間は減った。  
 クラスで事務的なことがあれば普通に話せるし(前は目をそらされながら話されるのが大体だった)  
 班分けをする時もちゃんと声をかけてくれる女子もいる(前は必ずクラスで最後の一人になった)  
 それに何よりも、胸を張って友達と呼べる子たちも増えた……と、思う。  
 まあとりあえず何が言いたいのかというと、自分は既に「死にたい」などという言葉を頻繁に口にしていた頃の  
 何事も後ろ向きに考えて、すぐそんなことを言うような人間ではなくなりつつあるのだということだ。  
 それはほんの少し前、正確に言えば夏休みの時期に出会った一つの出来事。  
 それが世界にとって大きいか小さいかはさて置いて、自分にとってはかけがえのない人や物との出会いだった……が  
 きっかけとなった事は、自分の中で否定の仕様がないし否定する気もない。  
 そのきっかけ、彼女たちとの出会いや別れ、そしてその中で育まれた思い出は、きっとこの先自分が生きていく中でも  
 とても大きな意味を持つ大切な宝物であるはずだろうと自分は思うから。  
 さて、自分がこんな長ったらしい前置きをひと夏の美しい思い出まで持ち出して語ったのにはもちろん理由がある  
 要するに自分が言いたかったのは……既に二度目ではあるが、自分がもう「死にたい」などという言葉は滅多に口にしないと言う事なのだ。  
 そして、それを分かった上で今現在言わせてほしい言葉がある  
 
「死にたい」  
 
 いや、分かっているとも。 あれだけ長くもったいぶった事を言っておきながら、結局変わっていないではないかと。  
 気持ちは分かる。自分だって第三者の視点から今の自分を見たら皆と同じようにズッコケた後で盛大に己を非難している事であろう。  
 が、それを踏まえた上でも言わせてほしい。言わなければやっていられないのだ。「死にたい」と  
 だって、そうだろう……  
 
「…………こ、小島?」  
「…………すう」  
 
 そろそろ夏も本格的に終わりが見える(といっても天神子島の夏の終わりは多くの人が思い描くソレとは少し勝手が違うかもしれないが)頃  
 程よい陽気の気持ちよさと、網膜を刺激する陽光を受けてまどろみから覚めた自分の目の前に……ああそう、目の前だ。紛う事なき目の前だ。  
 距離にして10cmもない、それこそ神経を少し尖らせれば呼吸すらも感じてしまえるその距離に、彼氏の寝顔があったりしたら  
 しかも、何故か自分の体はその彼氏の腕にがっちり腰やらどこやらをホールドされて動けないなんていう状況になったら  
 ……ええ、はい、もう一度言わせてください。  
 
 
 
 
 
『死にたい(↑)』  
 
 
 
 
 
 そもそも、どうしてこんな事になっているのか思い出す事を、目覚めた瞬間のパニックで忘れていや夏音は  
 今一度、それをするために自分の心を落ち着かせてみることにした。 深呼吸深呼吸、と小さく呟く。   
 
「すぅー、はぁー」  
「んぅぅ」  
(うふぇあいひゃぁ!)  
 
 およそ、年頃の娘が発するものとは思えない奇声を、心の中と表情だけで発するという器用な真似をしながら夏音は驚く。  
 自分が深呼吸をしようと思ったところ、その息が小島の前髪を撫で、その髪が彼の顔をくすぐったところ  
 そのくすぐったさに耐えかねたのだろうか、眠っていて無意識の小島が身じろぎをした。  
 無論、ほとんど隙間なく密着しているような状態でそんな事になれば夏音の体にも色々と影響があるのは道理という訳で  
 
(ぎゃー! ぎゃー! 近い近い! さっきより近くなってるぅー!)  
 
 その結果、小島の顔は先ほどよりも僅かではあるが確実に近い位置まで来てしまっていた。 だいたい5〜6pあるかないかというところだろうか。  
 そんな状態になってしまってリラックスなどできよう筈もない。  
 顔をゆでだこさながらに真っ赤にした夏音がその数分後ようやく落ち着けたのは、そのパニック状態にとって体力の大半をどっと奪われたからに他あるまい。  
 
(な、なんでこんなことに……)  
 
 今度こそ夏音は落ち着いて思い出してみた。 目を瞑って小島の顔を見ないようにする。  
 視覚という感覚器官を閉ざしてしまったが為に聴覚その他が鋭敏になってしまい  
 小島の匂いやら寝息やら、自分の丘に打ち上げられた魚以上にびちびちと跳ね上がる心臓の音まで明確に感じるようになってしまった気がしたが  
 そこはもう気合で無視することにした。 でないと結局このまま堂々巡りだということは夏音にも分かったからだ。  
 だがその分、顔の赤さがさらに増すのは避ける事が叶わなかったが。  
 
(え、えーと……)  
 
少しだけクールダウンした頭で必死に状況を整理する。 確か今日は……そう、ウチで勉強会をするという話であったはずだ。  
 夏休みを終えてからしばらくが過ぎ、そろそろ今後の進路などのことも含め勉強をしないと洒落にならない時期である  
 という事はほとんどの学生が抱えるそれと同様のように、夏音や小島にとっても大きな懸念の一つであった。  
 (とは言うものの、天神子島の学生たちは島外の大学などと言った、いわゆる上を目指す事をハナから念頭に置かず  
  最初から家業を継ぐつもりの者も決して少なくはないので、この言い方にもややの語弊があるかもしれないが)  
 まあそういう訳で、夏休みの宿題をほぼ手につけていなかった夏音、最近成績がやや下降気味の小島  
 そして二人の共通の友人であるところの鈴木の三人が、一緒に勉強会を開こうと相成ったのは自然の成り行きと言えるところだろう。  
 あと一人、大島が参加を激しく熱望していたが、どうしても外せない用事が入ったために床を踏み抜きそうな程の地団太を踏んでいた事をここに記しておく。  
 勉強会の場所が夏音の家になったのには大した理由はない。三人が問題なく場所を知っていて、行った事がある場所、と言う事で殆ど流れのように決まった。  
 ……ただ、今思うとどうにも鈴木による巧妙な誘導が行われたように思えて、夏音は眉を顰めざるを得なかった。  
 いや、得なかったと言うよりは鈴木から『ごめん、今日行けなくなった 二人で勉強頑張って』というメールを受けた時にほぼ確信に変わっていたが  
 まあとにかく鈴木への次に会った時の対処やらなにやらは置いといて、とりあえず小島がここにいる理由はちゃんと思い出せた。  
 ならば次はお互いにこんな体制になっている理由だ。 夏音はもう一度思考を落ち着かせて黙考する。  
 鈴木が来ないというトラブルには見舞われたものの勉強会自体は問題なく進行していたはずだ。  
 自分の分からないところを小島に助けてもらい、小島のひっかかっているところは自分も一緒に考える。  
 そんな風にお互いに補い合えているのだなという過程はとても心地よく、楽しくて……いや、今はそれはどうでもいい。いやよくない。いややっぱいい。  
 とりあえずそんな多少のことは置いておくとしても、勉強会自体は普通に、滞りなく進行していたはずなのだ。 ならばなぜ  
 そう思って、首をかしげるようにした夏音の目に、密着している自分たちの右隣、居間のほぼ中心に鎮座している卓袱台の上に置かれた  
 麦茶が入った茶瓶と空のグラス二つが飛び込んできた。 それを見た瞬間、夏音は大体のことを思い出す。  
 
(ああそっか、確か休憩挟もうと思って)  
 
 確か小島が大きな欠伸をしたのが理由だったはずだ。   
 目をこすりながら何やらうつらうつらし始めた小島と「眠い? 疲れた?」「いや、大丈夫」というやり取りをしたのを憶えている。  
 それでもやはり疲れた様子の小島を見かねた夏音がここらで一度休憩にしようと提案したのだ。  
 小島はほんの少し渋った様子だったが、大した異議も唱えずに夏音のその意見に賛同した。やはり疲れていたのだろう。  
 自分が麦茶を出すために小島を居間に待たせて台所の冷蔵庫に向かったのも夏音は憶えていた。  
 小島が、夏音とささいなすれ違いを起こしてしまったあの日以来、それまでに増して熱心に勉学に励むようになった事を夏音は知っている。  
 その理由が、小島が小さく漏らした学力不足の愚痴であった事、本人にそのつもりはなかったとは言えそれが夏音を僻むような物言いになってしまった事。  
 そしてそれを言ってしまった小島がその事をとても重く、決して二の轍は踏むべきでない事柄であると受け止めているという事を、夏音は感じていたし、確信していた。  
 別に自惚れている訳ではない。そも夏音にしてみればあの喧嘩、そしてすれ違いはすべて自分の責任だと思っている程なのだ。  
 自分の人を好きになること、なられることへの怯えが招いてしまった、そのせいで小島を傷つけてしまった自分の咎だと。  
 ただ、小島はそうは思わなかったようで……いや、内心思っていたとしてもまずは自分から変わるべきだと考えたのであろう。  
 そもそも自分が妙な僻みを持たなければ、それで夏音に不快な思いをさせない男であったならば……そう考えての行動に違いない、とは流石に鈴木の弁だ。  
 まあ、元々彼が変に責任感が強いというか、妙な事まで背負い込んでしまう性分なのは夏音も知っていたので、特に否定する事はしなかったが。  
 というか、正直そう思うとすごく嬉しいところもあったりで  
 
 閑話休題。  
 
 と、そんな感じで毎日勉強に勤しんでいて疲れているであろう小島を休ませるために休憩を提案した夏音は  
 台所で使い慣れた茶瓶とグラスを盆に乗せ、居間へと戻った……のだが  
 
「あれ?」  
「すぅ……すぅ……」  
 
 そこでなんとも穏やかに寝息を立てながら眠ってしまっている小島を見つけたのだ。  
 
「……なによ、やっぱり疲れてたんじゃん」  
 
 怒ることはしなかった。  
 少し自分に、引いては小島に甘かったかもしれないが、今日の分で目標にしていたくらいの勉強はほぼ終えたつもりであったし  
 何より、傍目に見てもとても深い眠りに入っている小島を起こすことが夏音には躊躇われたからだ。  
 机に突っ伏すように、ではなく、床に完全に体を預け、赤ん坊が母の胎内にいる時のそれと同じような格好で眠る小島を見て  
 夏音は彼の体に自分が思っていた以上の疲労が溜まっていたのだろうなと結論付け、柔らかく微笑んだ。  
 小島を何かの拍子に起こしてしまわぬよう静かに盆を卓袱台の上に置き、同じように小島の隣にすっと座り込む。  
 隣で眠っている小島は本当に気持ちよさそうで、先ほどとは打って変わっていたずらをしてやりたい衝動に襲われる。  
 もちろん、さっき寝かせてやりたいと思った矢先そんなことはしなかったが、夏音はどうしてもその衝動自体を抑えられなかった。  
 
(かなりぐっすり寝てるし、大丈夫だよね)  
 
 身を屈め、自分の顔を覗き込むようにして小島のそれに近づける。  
 なんだか小さい子供が、親にばれないようにいけないことをしているようなそんな愉快な気持ちが沸々と湧き上がり  
 夏音は頬が緩んでしまうのを止められなかった。  
 恐らく鈴木あたりが見れば夏音にしては珍しい表情だと驚きながらも、まあ小島くんの前なら〜と納得をしたことだろう。  
 しかし、夏音のそんな表情は彼女が小島に徐々に近づくにつれてなくなっていった。  
 
(……前から思ってたけど、こいつ男のくせにやたら細いし輪郭とか綺麗……うわ、睫毛なが)  
 
 茶目っ気のある幼子のような顔から、やや恍惚の気配を帯びた少女の物へとなっていく。  
 夏音自身は気づいておらず、また気づいても必死で否定したであろうが。  
 そのときの夏音の状態が俗に言う「見蕩れる」と呼ばれる物であるということを、十人の第三者が見たら間違いなく十人ともが否定をしないだろう。  
 もちろん、現実問題としていまこの場には夏音と意識のない小島しかいない訳なので、そんな事を言っても詮無き事ではあるのだが。  
 
(……)  
 
 そう、今この宮守家には夏音と小島の二人しかいない。  
 本来は夏音と小島、それに大島と鈴木の四人がいたはずだが、先述した通りの理由で後二人はここにおらず  
 加えて夏音の母、宮守都も今日は所用がどうとか言うことで出かけて夕方近くまで戻らないと言っていた。  
 この辺りにもまた鈴木と母の妙な画策というか企みを感じずにはいられなかった夏音だったが、今の状況を鑑みるに結果としては良かったのかもしれない。  
 何しろ今の蕩けた目、上気した頬、何度も噛み締められる唇、そんな自分の姿を見られていたら、夏音は死にたいなどという台詞を言うその前に  
 自分自身が海に飛び込んでいたかもしれないからだ。  
 
「小島……」  
 
 知らず知らずの内に名前を呼んでいた。小島は答えない。  
 もちろん夏音もそれを見越していたのだろう、特にうろたえることはしなかった。  
 しかし、その瞳に寂しさを称えたような翳りがやや現れ、潤んでいた目がさらに潤んで輝きを増す。  
 かなり鈍い反応ではあったが、ことここに及んで夏音は自分の思考を睡魔が支配しつつあるのを自覚していた。  
 小島ほどではないにしろ、自分も長時間集中して机に向かっていたために疲れが累積していたのであろう。  
 それに小島が眠ってしまっても無理のないほどの程よい気温が、夏音のその睡魔と思考の靄に拍車をかけた。  
 その時の夏音は、自分が眠くなっていくのを自覚しながらもそれを止められず、しかして体はそのぼやけた思考に従って動くという  
 なんとも奇妙な状態ではあったが、故に誰も、夏音自身も夏音の行動を止める事は叶わなかった。  
 
「小島……」  
「……」  
 
 やはり返事はない。  
 夏音はその空しさや寂しさを紛らわせるかのように……否、それらの穴を埋めるものを求めるかのように  
 小島のその薄く開かれた唇へと自分の唇を近づけ……近づけ……  
 そこで、夏音の記憶は途切れた。  
 
      *    *    *            
 
(…………いや、いやいやいやいやいやァァァァ!!)  
 
 回想というなの場面を跨いで引き続き、夏音が心の中でのみ挙げている悲鳴である。  
 ここまでくれば器用の一言で、よくそこまでの叫びを心の中だけで留めておけるものだなと  
 夏音はどこか人事のように思っている自分がいることに気づいた。というかそうでもしないとやっていられなかった。  
 
(ま、待って!? ひょ、ひょっとして私……こ、小島にき……ききききす、きす……)  
『鱚?』  
(いやそっちでなくて!)  
 
 いきなり脳内に現れてまた素っ頓狂な切り返しをする今は遠いところにいる親友の幻影にツッコミを入れながらも  
 内心はそんなことしている場合じゃないだろうとばかりにパニックに陥っていた。  
 その感情の乱れっぷりたるやかつての邪悪モードやセドナの精神汚染の比ではない。文字通り『壊れた』と形容して差し支えないだろう。  
 小島と抱き合うような形で横になっている事、彼の寝顔に我を忘れて見蕩れていたこと、あまつさえ彼と唇を触れ合わせ  
 しかもそれらすべてが(確固たる正気でなかったとしても)自分の意思と行動によって齎されたことであるということ  
 そのことを自覚した夏音の心境は『穴があったら入りたい』そのままで、さりとて体を目の前の彼にしっかりと固定され穴に入る事も許されない  
 もう何が恥ずかしくて何が恥ずかしくないのかすら分からなくなってきそうな羞恥の中で夏音はやはりこう呟いた。  
 
「…………死にたい」  
「ん……」  
 
 ビクッ、と自分の体がはねたような感覚に夏音は襲われた。  
 当然だ、こんな状況のこんな体制、しかもこんな顔の自分を彼に見られたら今度こそ自分はどうなってしまうのかが分からない。  
 その羞恥と恐れが自分の体を跳ね上げさせた……ような、気がした。  
 実際のところ、夏音が自分で思ったほどには体は動かなかったらしい。その証拠に小島は目を覚まさず、少し息を吐いたのみだった。  
 
「はあ……」  
 
 夏音は安堵のため息をつくと、自分が先ほどよりかは幾分落ち着いていることに気づいた。  
 恐らく、先ほどの小島の寝息で彼が目覚めてしまうのではとゾッとしたせいだろう。いわゆる血の気が引くというやつだ。  
 先のような状態がずっと続いていては自分の身が持たなかったであろうことは容易に察せられたので、どんな形であれ落ち着けた事には夏音はほっと息をついた。  
 それから、そのようやく少しばかり落ち着いた思考で改めて今の状況を思う。  
 
(私が寝ちゃったのは分かったけど、そもそもなんでこんな体制に?)  
 
 そう、確かに自分が小島のすぐ隣で寝入ってしまったのは思い出せたが、さりとて何故こんな体制になっているのかは分からない。  
 自分でそうした口付け……はまあ、ともかくとしても、流石に抱きついて一緒に眠ろうとするような勇気は寝ぼけ眼の自分にもない筈……だと思いたい  
 
(ん、抱きつく?)  
 
 そこではたと夏音は気づいた。  
 そうだ、自分がなぜ先ほどから動くことすら叶わないのか、それは自分ではなく小島の方が夏音を離さないとばかりにその両腕で抱きしめているからだ  
 つまりこの体制は、自分ではなく小島の方から齎された行動の結果と言うことになる。  
 一瞬夏音は、まさか小島が狸寝入りをしていて自分の口付けの後に眠りについた自分を抱きしめたのでは、と思ったが、次の瞬間に却下した。  
 小島はそもそもそういうタイプの人間でも、そんな演技ができるような器用なタイプでもない。  
 自分が心地よさそうに眠る小島を確かに見たというのであれば、それが恐らくは全てのはずだ。では何故、と考えて  
 
(ひょっとしてこいつ……寝相、悪い?)  
 
 という結論に至った。  
 やや突飛な発想ではあったものの、他に思いつく候補がなかったので恐らくはこれが正解だと見て間違いないだろう。  
 考えてみれば当然のことで、小島には眠っている女子を不意打ち気味に抱きしめたりといったハングリーな面はない  
 消極的というわけでないにしろ、積極的なわけでもないのだ。そのくせ、衆人観衆の前で告白するという変な強引さは持ち合わせているが。  
 
「……ぷっ」  
 
 そう思うと、なんだか途端におかしくなって夏音は小さく噴出してしまった。  
 寝ぼけてすぐ近くにあるものを抱いて寝てしまうなんて、まるで子供のようではないか。  
 なまじ、小島は童顔気味で声も高いので、そのイメージが妙にハマってしまってまたおかしさを誘う。  
 ひょっとして家では抱き枕なんかを使っているんじゃないか? などと思うとくつくつと笑いを堪えずに漏らしてしまっていた。  
 
「んっ、ぅ……」  
 
 その笑い声を受けてだろうか、小島がまたも身じろぎするが流石にもう夏音はうろたえなかった。  
 先ほどから何度もバカのようにこの過程を繰り返して慣れたというのもあるが、小島がほとんどの確率で起きてこないだろう事が分かったからだ。  
 小島は多分、一度眠るとどっぷりと熟睡するタイプだ。夏音自身も結構その系統の人間であるので、その辺りはだいたい分かる  
 このテのタイプはよほど気合を入れて起こそうとしない限り反応はしても決して起きない。  
 逆に言うと、規則的な生活を送ろうとする分には体が欲しい分の睡眠をきっちりと取るので丁度いいと言えるのかもしれないが  
 今の小島はその規則的な生活を変えてまで勉強に打ち込んでいるのだ、尚のこと簡単には起きないだろう。  
 流石に頭も冷えて冷静に思考できるようになってきた。さて、そろそろ真面目にこの状況から抜け出す手を考えないと  
 
「み……や、もり……」  
 
 前言撤回。頭が一瞬で沸騰しかけた。  
 え、なんで? まさか起きた? さっきの笑い声で? いやいやアレだけして起きなかった人間がそれだけで起きるとは  
 じゃあ何? 実は思ったとおり最初からずっと狸寝入りだった? いやそれこそまさか、いやしかしだとしたら  
 自分がしたことは全て彼に見られていたということに、覗き込みも、赤面も、きっ、ききききき、きっ  
 
『鱚?』  
 
 いやだから違うって!  
 などと、そんなことをぐるぐると考え、今度こそ夏音が思考のループに突入しようとした時  
 
「ぐう」  
 
 と、そんな暢気な声とも音とも取れない寝息が再び聞こえてきた。  
 
(ね……いき?)  
 
 そう、寝息である。  
 さっきまで自分の名を呼び、目を覚ましたのではないかと自分を極大のパニックに陥れた張本人は  
 相変わらずそこで幸せそうな寝息を立てながら眠ったままでいた。  
 
(な……なんなのよぉ……)  
 
 今度こそ体から力が抜けたようにぐったりとする夏音。  
 こんなにもどっしりとした倦怠感に包まれるのはセドナに闇の波動をかけられて以来だ、と割と本気で思う。  
 ……いや、というか待て、と夏音ははっと気づいてもう一度小島の顔を見やる。  
 
「……」  
 
 寝てる。確かに寝てる。何度でも言うがこれがフリだとは考えられないほどの完全な熟睡ぶりだ。  
 では先ほどの自分を呼ぶ声はなんだったのか、そう夏音が再び考えを巡らせようとすると再び  
 
「みや……もり……」  
 
 呼ばれた。やはり寝息などを聞き間違えた訳ではない。確かに自分の名前を彼は読んでいる。  
 しかしながら、彼はまぶたを閉じたまま意識を戻していない。ここから導き出される、あまりにも簡単すぎる結論、それは  
 
(…………寝言?)  
 
 それ以外にはないのだろうな、と夏音は思った。  
 よくよく考えてみれば当然のことなのだ。明らかに深い眠りに入っている人間が、言葉を発するその意味。  
 寝言。あまりにも簡単すぎる結論で、夏音はなんとも言えない脱力感を味わう。  
 先ほどの自分はそんな簡単なことにも考えが回らないほどに慌てていたのだろうか、なんとも情けない話である。  
 
(死にたい……)  
 
 本日何度目であろうか、この状態になってから心の中で繰り返し唱えすぎてもはや回数を把握していない。  
 ……何か、無性に昔の自分に戻って邪悪オーラに身を委ねたい衝動に襲われている自分がいる事に夏音は気づく。  
 といってもまあ、自分で意識できてはいる辺りそこまでひどい類のものではない。  
 ただ単純に、小島が目を覚ましたときにちょっとキツめの恨み言の一つや二つぐらいぶつけてやりたいなと思ったぐらいだ。  
 それぐらいなら許されるであろう? 自分がこれほどまでにてんてこ舞いな状況に置かれて四苦八苦しているというのに  
 目の前のこの男ときたら幸せそうに寝息を立てるのみでこちらの苦労など知りもしない。ちょっとぐらいは文句だって言いたい。  
 過去の一件以来、夏音は小島との些細なすれ違いを起こさぬように、出来るだけ誤解の受けるような行動派は慎むようにしているが  
 それでもここはひとこと言ってやらないと気がすまないと夏音は思っていた。  
 何もそんな大げさな話ではない。ちょっとふくれっ面をして、小島に対して人の家で寝入ったことをほんの少し指摘してやれればいいのだ。  
 それで円満解決。喧嘩だって起こらないだろうし小島だってすまなそうに笑って謝ればそこでおしまい。後腐れなどなし、という考えだ。  
 自分にしては珍しい考えと行動だなと夏音は自分でも感じてはいたが、それはきっと  
 いや、決して悪い方向に自分が変わったのではない、むしろいい兆候なのだろうと…………そう思う。   
 と、なにやら思考が綺麗に纏まりかけていたその時、そんなようやく纏まりかけていた彼女をの思考をも吹き飛ばす出来事が起きた。  
 
「……ん、みや、もり」  
 
 寝言だ。流石にもう動揺しない。  
 声の出方や息の入り方、微妙なイントネーションの違いからでもそれが寝息であることは十分に分かる。問題はそこでなく  
 小島がその発した寝言と同時に起こした行動の方にあった。  
 
「んひっ」  
 
 え、これ自分の声? と疑うような高く普段の彼女からは想像しにくい嬌声が夏音の口から漏れる。  
 そんな声が漏れたのは、小島が寝言を呟きながら右腕で掴んでいた夏音の腰を強く引き付けたからに他ならず  
 そしてまた、それによる身体的密着がさらに増えたことへの夏音の驚きの声でもあった。  
 
「ちょっ、ちょっと……あぅ」  
 
 分かってる。小島は眠っている。だから自分のこんな蚊の鳴くほどの声で抗議したところで意味はないであろうことは  
 しかしそれでも漏れてしまった。小島の吐息や鼓動、ともすれば血の流れまでを今までにない距離で感じてしまっているような気がした。  
 逆にそんな状況で声を出さずにいられる者がいるというのなら、是非ここにきてそのコツを自分に教えてくれと思う。  
 
「宮守……みや、もり……」  
 
 嗚呼、と夏音は唐突に、しかし同時に嫌と言うほど再確認した。こいつの寝相の悪さは筋金入りだ。  
 きっと夜眠る前はベッドから落ちないようにと戦々恐々としているに違いない。  
 
「宮守」  
 
 ドクン  
 
 そしてもう一つ……再確認する。こちらは本当に唐突だ。悪く言ってしまえば脈絡がない。  
 さっきまで目覚めた目の前の男に恨み言の一つでも言ってやろうと思っていた口で何をと思われるかもしれない。  
 だが、それでもその時、例え唐突だったとしても、夏音は確かに強く再認したのだ。  
 嗚呼、私は……彼に、とても強く想われているのだと。  
 だって、そうであろう? いったいどんな夢を見ているというのか  
 寝言で恋人の名前を呼ぶなどと、まるで少女漫画のような事をするような男が現実に目の前にいる。  
 それと同時に、まるでその声に呼応するかのように、自分を呼ぶ度に強く自分を抱きしめる腕がそこにある。  
 そしてそれらは全て、彼の、自分への想いが為している業なのだということを、これでもかというほど強く実感させられた。  
 確たる理由なんてない、例え夢の中でも、夢の中の自分にさえそんな声で、そんな力で接してくれる彼をすぐ近くで感じて  
 それで、どうやって彼の気持ちを無視しろというのだろう。  
 そんな、いっそヤケクソとも言っていい思考が、彼女の中の迷いという名の歯止めを壊すのに、さほど時間は必要なかった。  
 その堤防は、彼女の心から溢れる好意という波によっていとも容易く決壊する。  
 嗚呼、拘束されたから、そのせいで恥ずかしい思いをしたから彼に仕返ししてやろうなどと思っていた自分がどこか遠くに感じる。  
 今自分の中には嬉しさと愛しさしかない。そうまでして、自分なんかを求めてくれる彼への気持ちしか……  
 
「こ……じま……」  
「みや……もり……」  
 
 繰り返すが、小島の方は寝言である。  
 それでも尚、自分の声に反応したかのように呼び返してくれた小島に夏音の鼓動は跳ね上がる。  
 ほとんど距離など存在しないような間隔で、夏音は小島の顔を見上げる。  
 先ほども見た長い睫毛に、整った輪郭、髪は適当に切りそろえてあるのであろうか、少なくともきちんとしている風ではない  
 それから、唇。  
 その一点の部位を見つめた瞬間に、自分の顔の体温がまた爆発的に上昇したのを感じる。  
 さらにそんな真っ赤な自分の顔が、すぐ目の前にある小島の眼鏡のレンズに反射され、はっきりと自分で確認できてしまったのが  
 夏音の顔の赤みによりいっそうの拍車をかけた。だがしかし、その赤面は羞恥ではあっても躊躇いではない。  
 
「小島……」  
 
 夏音は、愛しい者の名を呼びながら、その彼自身の腕の力に従うようにして近づき  
 そして、ゆっくりと目を閉じた。  
 
 
 
 
 その決定的な瞬間がくる少し前  
 時間にしてコンマ一秒にも満たないであろう時間の中で、夏音は誰に言うでもなく心中で宣言した。  
 
 訂正する。  
 死にたくなんてない。  
 今死んだら、それこそさっきなんかよりもずっと、死にたいほど後悔するから。  
 
 だから……自分が今、どうしようもなく幸せに生きていると、そう感じさせて。  
 愛してる。  
 

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