「あ〜あ〜、真っ黒…」  
フライパンの中身を見て雪平は呟く。  
その中には、火加減さえ上手く調節すれば、極上のハンバーグになれたであろう、肉塊。  
 
20分前、嬉しそうな顔でやたらとたくさん買ってきて、  
10分前、「見よ、俺のこの手つきっ」とか言いながら楽しそうに挽肉をこね、  
5分前、丁寧に形を整えた挽肉を自信満々にフライパンに投下し、  
そして今、ひどくしょんぼりしている三上のつけた、くまさんエプロンが遠くから見えて、  
申し訳ないと思いながらも安藤はくすくす笑った。  
 
「…どうする?」  
「どうするったって…」  
三上と雪平は顔を見合わせる。  
選択肢は彼らの中で合致したが、それを口に出すのは安藤に対してあまりにも申し訳なかった。  
「…いいですよ。行ってきてください」  
変な沈黙が流れたが、それを破ったのはベッドで寝ている安藤だった。  
「…でも…」  
「でもったって、仕方ないでしょう。僕なら平気ですから」  
「…ごめん」  
「行ってらっしゃい」  
 
申し訳なさそうに出て行く二人を笑顔で見送ったものの、  
急に静かになった部屋に、安藤は少し寂しさを感じた。  
 
そもそも自分が雪平家の、雪平のベッドの上にいる理由。  
自分が、彼らとともにもつ兵衛に行けない理由。  
 
それは全て、先日の出来事がもたらしたものだった。  
 
牧村紀世子は誘拐犯の一人だった。  
警察の謝罪が無いと知った瞬間彼女は倒れ込み、慌てて支えようとした安藤の脇腹に銃口を当てた。  
そして、彼が状況を把握したかしないかのうちに、引き金を引いた。  
 
非常に、貴重な体験をした。  
あんなにも間近で撃たれておきながら、生還したのだ。  
 
彼は素直に、思う。……ホント、死ぬかと思った。  
 
 
 
覚えているのは脇腹から流れていく血の鮮やかさと抜けていく力、それから電話越しに聞こえる声。  
 
 
 
気持ち悪さと息苦しさの伴う最悪の目覚めの中で最初に見たものは、雪平の真っ青な顔だった。  
彼女は目を見開いて彼を見つめ、それから言った。  
「……安藤………この、馬鹿っ!!」  
「…雪平、そりゃないよ…」  
…この目覚めの中で、その言葉はあんまりだ、と思った安藤の気持ちを代弁してくれたのは、  
安堵の色を顔中に出した三上だった。  
けれど雪平はなおも続ける。  
「いや、馬鹿だね。馬鹿。ほんとに、馬鹿だ、おまえは……」  
そう言いながら、彼女は泣きそうな顔で、笑った。  
 
なんだか左手の自由がきかないのは、  
雪平が両手で自分の左手を握りしめていたからだ、と安藤はその時初めて気がついた。  
 
 
 
 
「それにしても、ホントよく生きてたなぁ…」  
思わず口から漏れる独り言。  
あと数センチで内臓を貫通し、ここにはいなかったかも知れなかった。  
 
…当然、あんなところで死ぬわけにはいかなかった。  
彼にはあそこで死ねない理由があった。  
それはけして、明るく輝く未来のため、などという類のものではない。  
もっともっと暗く、イメージで言うならどす黒い紅。  
あの日の、あのときの、自分の半身、とも言うべき存在の胸に広がる深紅に、  
黒い絵の具を混ぜ込んだような。  
 
撃たれるって、こんなに痛かったんだ。  
 
そう思ったら、怖いと感じるより憎いと感じるより、哀しいとなぜか彼は感じた。  
 
 
…なんだか今日は、疲れた。  
 
 
「じゃね、薫ちゃん」  
「おう」  
短い挨拶を交わして分かれ、雪平は暗証番号のボタンを押した。  
いらない、と言うのに三上はいつも自分を家まで送る。  
なんで、とぶっきらぼうに問うと、彼はいつもこう答えるのだ。  
おまえも性別だけは女だからな。  
 
3つ並ぶ電気のスイッチをいつも通り平手で3ついっぺんに叩こうとして、寸前でその手を止めた。  
人差し指で、なるべく音が出ないように、上と真ん中のスイッチを押す。  
ベッドルームを除いて部屋を明るくした彼女は、真っ赤なソファに体をしずめた。  
 
ふう、とため息をついて、事件について考える。  
 
自分の娘を誘拐したのは、他でもない、娘の理解者だった。  
動機はきっと、本当はとても優しいであろう、牧村自身の悲しすぎる過去。  
目的のために、美央の理解者を装っていた、だけなのかも知れなかった。  
それでも美央は彼女を100%信頼し、彼女もまた、美央を傷つけなかった。  
 
 
確かに、美央が無事でよかった。  
 
…けれど。  
 
 
彼女はたまらなく悲しい気持ちになって、ベッドルームを振り返った。  
 
 
 
 
安藤は、眠っていた。  
軽く目を閉じて、全身でその疲れを癒すように。  
病院にいたときよりもだいぶ顔色はいいが、本調子からは程遠い。  
 
…当然か。体に穴空いてんだもんね。  
 
彼女は悲しい気持ちのまま、眠る安藤の傍に座った。  
なんとなく不安になって、彼の手に自分の両手を重ねてみる。  
彼の手が温かいことが、彼女を少し安心させた。  
 
「雪平さんの気持ちにもなってあげてください!」  
圧倒的な権力の差を考えもせず、山路管理官の肩を掴む彼。  
 
「雪平さんも休んでください!このままだと雪平さんまで倒れちゃいます」  
捜査を続けようとする自分に、元夫の傍にいるようにと進路を塞ぐ彼。  
 
「雪平さん。…美央ちゃんのこと、絶対助けましょう」  
証拠が見つかった、署に来てくれ、と電話の向こうで早口でまくしたて、最後にゆっくりと言った彼。  
 
 
 
真っ直ぐ。  
彼には、そんな言葉がよく似合う。  
 
 
 
不快になる、無機質な声を聞いた、あのとき。  
 
「蓮見んとこ行って、犯人の居場所突き止めて!」  
「はい!」  
 
上司として当然の命令だし、そのあとの彼の行動も、部下として当然だった。  
 
…当然?  
いや、違う。  
 
彼女は自分の行動を振り返りながら思う。  
あのとき自分は自分で犯人を突き止めようとせず、指定された場所に直行した。  
 
あのとき、自分は、「刑事」ではなかった。  
 
このひとがいたから。  
このひとがいたから自分は、美央たちがいるであろう場所に、行くことができたのだ。  
犯人のことは彼に任せて。  
 
このひとがいたから、あのとき、自分は「母親」になれたのだ。  
 
 
けれど。  
だから、彼は。  
 
 
安藤一之というこの若い刑事に一生残る深い傷を負わせたのは、  
「刑事」から、うっかり「母親」に戻ってしまった自分自身なのだ、と思う。  
 
 
誰かに言ったら、絶対に、「それは違う」と言われるだろう。  
自分だって、きっとそう言う。  
 
けれど、それでも彼女は許すことができなかった。  
 
 
謝ることさえできないほどの、後悔。  
 
 
「必ず証拠を掴んできますから。雪平さんの……」  
佐藤の傍にいるように言ったあのとき、彼は言葉を飲み込み、  
「美央ちゃんの、ためにも」と言った。  
 
雪平さんの、……の後に続く言葉は、何だったのだろう。  
 
 
規則正しい安藤の寝息を聞きながら、彼女は目を閉じた。  
 
 
 
…目の前にいるのは、優しい顔立ちの彼。  
弟であり、仲間であり、親友だった。  
心を許せるたった一人の存在だった、彼。  
 
彼は、哀しい顔をしている。  
けれど、何も言わない。  
 
…何でそんな顔してんだよ。  
 
そう言いたいけれど、声が出ない。  
 
 
やがて、彼の胸に赫い赫い花が咲き、だんだん広がっていって、そして…………  
 
 
 
「っ!」  
息をのみ、彼は目を見開いた。  
 
荒れている呼吸。じっとりとした、冷たい汗。  
…夢だと分かって、ひどく安心した。  
 
額の汗を拭おうとして、安藤は左手の自由がきかないことに気がついた。  
 
顔を向けてみると、ベッドのふちに突っ伏して、座ったままの姿勢で眠る雪平がそこにいた。  
自分の左手に、彼女の両手が重ねられていた。  
 
 
さらさらの髪がひろがり、長い睫毛が白い肌に影を落としている。  
 
 
…女神のようだ、と思ったあとで、なんて安っぽい表現なんだろうと少し笑った。  
 
 
「…雪平さん、風邪引きますよー…」  
そう呟いて、ベッドの脇に雑に置かれた毛布に向かって手をのばす。  
少し動くだけで信じられないぐらいの激痛が走ったが、自分の腹より彼女の毛布だ。  
やっとのことで毛布を引っ張ると、右手だけで不器用に、雪平の肩にその毛布を掛けた。  
左手は、動かしたくなかった。  
「ん…」  
彼女が小さく小さく声を漏らす。  
 
 
 
安藤はなんだか哀しい気持ちになって、そっと左手を引き抜いた。  
 
そのまま、雪平の髪に左手をのばし、静かに梳いてみる。  
彼女の髪は思ったよりもずっとさらさらで、とても心地よい手触りだった。  
手を離すと、彼女の髪の一束が、名残惜しそうに指に絡みついた。  
 
 
嫌な夢を見た。  
そして、その夢を自分に見せるようにしたのは。  
 
自分を一筋の光もない暗がりへ突き落としたのは、雪平夏見というこの女だ。  
 
 
けれど、今は考えたくなかった。  
隣で何も知らずに眠る彼女の顔を見ていると、あたたかくて穏やかな何かが心の中を流れる。  
それからその何かは、どんどん熱を帯びていって、熱くなったまま鈍い痛みに変わる。  
 
「切ない」という気持ちは、この痛みのことを言うんじゃないだろうかと彼は思う。  
 
安藤はただひとつの目的のために、自分自身の感情を殺した。  
雪平夏見への復讐、ただそれだけのために。  
自分自身が人間でなくなっていくような、そんな喪失感があった。  
でも何度も、そんなことどうでもいいと、自分に言い聞かせていた。  
 
けれど。  
まだ、自分は感情を持っていた。  
 
それも、「誰かを好きになる」という、尊い感情だ。  
 
そのことに気づかせてくれた。自分に微かな、光をくれた。  
それも、確かに、雪平夏見というこの女であるということが、安藤にはよく分かっていた。  
 
 
 
 
 
 
 
大きな窓から、光が差し込んでくる。  
朝になればまた、雪平は事件の解明に100%の力を注ぐ。  
そして自分は死人でお留守番だ。  
 
 
それまで、もう少し、もう少しだけ。  
そう思いながら、安藤は目を閉じた。  
 
 
 
 
 
 
夜が、明けていく。  
 
 
 
真実は、もうすぐ光の下に。  
 
 
 

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