今日の戦いはことさら疲れた。
自分の部屋に入って、日輪は一息ついた。目に映るのは簡素な炊事場。小振りな箪笥がひとつ。整頓された小物入れがひとつ。壁に掛けられた飾り気の無い鏡がひとつ。
あとは白い壁。壁。壁。
ここは日輪の実家にある離れの一つだ。今はやや改築を加えて、日輪の個室になっている。
関守の家は貧しさとはほど遠い。それどころか有数の法力僧を輩出する関守は、光覇明宗の後ろ盾もあり、宗教界でも屈指の名家である。部屋数など気にする事が誤りなほどだ。
何故わざわざ離れを改装してまで部屋にこだわったのかは、ひとえに日輪の気性にある。彼女が若干排他的な面を持っていることも理由のひとつだが、それ以上に屋敷の者が日輪から距離を置きたがったのだ。
常日頃から他人の倍、自らに厳しい日輪だったが、己の半分でさえ整然とせぬ者に対する日輪の目は冷たかった。自分がそういう意味で孤立していることを感じていた日輪は一層自身を律し、法力僧の修行に入魂していった。
結果、家人との溝は埋め難い深さになっていたのだが、それでも良かったと彼女は思う。自分の存在意義の大きな範疇を、光覇明衆の法力僧としての大義が占めている証であった。
日輪の父もけして無能な法力僧ではなかった。たしかに法力は他の者に劣るところはあったものの、術法の技術においては、蒼月時雨に及ばぬまでも確実に群を抜いていた。
にも関わらず、日輪の父は堕落した。なまじ己が秀でていることを知っていただけに、獣の槍伝承候補者の席にこだわり、こだわり過ぎ、超えられぬ壁を思い知った時、彼の心は酒に逃げ込んだのだ。
父の代でやや精彩を欠きはしたが、関守の家の隆盛は未だ衰えることは無かった。次期頭首の日輪が、歴代の誰よりも強い法力を見せたためである。
関守家は以後も強力な柱として宗教界に鎮座するに違いなかった。
殺風景な部屋だと自分でも感じている。およそ女らしさというものが欠けている。身だしなみに関する物品にしたところで最低限のものしかあるまい。同じ光覇明宗の尼僧たちでも、ここまで徹底しているのは尼僧頭の老婆くらいのものだ。
日輪と同じ年頃の者たちなら、一般の同世代とは比べるべくも無いが、プライベートな自室などでは娘らしい一面もあるに違いない。
それが、日輪にはほとんど欠落している。髪を整える櫛にしたところで、彼女にとっては必殺の法具だ。
同じ槍の伝承候補者の秋葉流が「槍を継承したら、ありゃあ槍で髪を梳いちまうぞ。」と口走り、継承候補者の筆頭である杜綱悟が真顔で「日輪ならやりかねん」心配したという話は、若い僧の間では有名な笑い種となっている。
杜綱は法力においても体術においても自分に匹敵する逸材だが、やや真面目過ぎて融通が利かぬ点がある、と日輪は評している。
勝手な言い草だと思う。
確かに自分は女であることを忘れ、戦いに身を研ぎ澄ませている。「女だから・・・」という理由で低いレベルで見られたり、ましてや憐れまれたりするのはまっぴらごめんだ。性別の差があらかじめの評価の差であることなど耐えられない。
しかしそれは女として低く見られたいということではない。戦いの場において女性というハンデを負いたくないのであって、美しくてはいけないという法もないだろう。
無論、自分はそれを二の次にしている。自分は人生をかけて仏の道を歩み、力を蓄え、白面の者を打ち倒す剣の一振りなのだ。
ただ、その剣が、敵を討つという目的の武具であるにも関わらず戦いの場とは別で人を引きつけるように、魅力あふれる自分でいてもいいとは思う。
日輪は自分が充分に魅力的な娘だと知っていた。特に、西洋かぶれで化粧やファッションに気合を入れる杜綱の妹ごときには負けぬ器だと思っている。
誰にも話したことは無いが、白馬の王子様が来てもまあ良いか、ぐらいの娘心は持っているのだ。
ぼんやりとした考えを頭から追い出し、日輪はさっさと部屋に足を踏み入れ、上着とスカートをハンガーにかけた。その際の動作も実にてきぱきとしている。
下着だけの姿になるが、尊敬する先達である蒼月時雨の家に滞在していた折でも、一日中ジャージでうろついていた彼女だ。誰もいない部屋の中で衣服に気をつけても仕方なかろう。
こういった考え方が、日輪から魅力はともかく色気というものを奪っているのだが、その点にはまったく気づいていない。
「・・・喉が渇いたな」
思えば今日はハードな日だった。法力を暴走させて自爆しようとまでしたのだから、これまでで最も危うい戦いだったといってもいい。
最終的には日輪も流も死なずに済み、白面の使い・斗和子は倒され、光覇明宗の汚点とされてきた「囁く者達の家」は破壊された。
若い法力僧が幾人か犠牲にはなったが、騙されていたとはいえ今回のキリオによる獣の槍破壊計画に積極的に加担してしまった結果のことだ。不本意ながら光覇明宗内部の引き締まりも度合いが違ってくるに違いない。
全部をひっくるめて見れば大変な戦果を上げた言っても良かろう。
だが、日輪は事件の前後もずっと張り詰めた己を崩しておらず、一度も休憩を取っていない。もちろん、給水も最小限に抑えていたので、緊張を解いた今、急激に渇きを覚えたのだ。
殺風景なキッチンに立ち、色気どころか若さすら失われそうな黒い湯呑みに水を注ぎ、一気にあおる。
飲み干して一息つく。
が、全然足らない。
もう一杯飲む。やはり足りない。三杯目を注ぐ前に、持ち前の気の短さも手伝い、蛇口にかぶりつくように水を飲み始めた。
喉を鳴らしてそのまま数秒、日輪は異変に気づいた。渇きが癒されるどころか、ますます水が飲みたくなるのだ。
(・・・・何!?)
異変に気づいた瞬間、右手の感覚が消失した。
驚きを抑えて己の右手に目をやれば、更なる驚愕が日輪を襲った。
右手が勝手に動きだしているではないか。
自分の意志にそむいて動く右手は、水道のまわしをつかみ、蛇口を全開にした。
(これは一体!)
舌も動かぬまま心の中だけで叫んだ日輪の言葉に、答える声があろうとは。
<そうでしたわね。あなた、この状態でも意識がハッキリしてるんでしたわ。>
聞いた声だった。敵として対峙し、戦った時間こそ短かったが、いつも小馬鹿にしている獣の槍正統後継者に助けられるという非常に後味の良くない戦果を与えてくれた人造の怪物だ。
(貴様!!)
<キサマ、じゃありませんわ。私はメイ・ホー。もっと正確に言いますと、メイ・ホーの一部ですわ。本体はあなたに吹き飛ばされてしまったんですもの。本当の私は半分の、半分の、そのまた半分くらいになって引狭さまの書斎を掃除しているわ・・・あなたのせいでね>
語尾に明確な殺気のこもったメイ・ホーの言葉に、日輪は身構えることもできず、とっさに乗っ取られた右手に注意を払った。すでに魔物に乗っ取られた右腕はゆっくりと空手でいう抜き手のような構えを取った。
<たしか、こう・・・でしたわね>
しかし日輪には、それが決して抜き手そのものでないことは分かっていた。それは印だ。法力を扱う際に集中する型のひとつである。
(しまった。こいつは・・・)
日輪は思い出した。この怪物は、愛用の櫛に法力を込め、自分の首を落とそうとしたではないか。
<そう。あなたはもうお忘れかも知れないけれど、私は入った人の能力なら、全て扱わせていただけるのよ。>
抜き手に似た型の右手は、ゆっくりと持ち上がり、それに伴って日輪の全身も持ち上がる。その動きは意図につられた人形のようにギクシャクしていた。
日輪は自分のあごが勝手に動くのを、触感によらずして感じた。そこまで簡単に操られていること怒りで気が遠くなりそうだった。
<そして、こう、ね。>
右手は、ある一点を指し、次いで日輪の口が開閉する。
「・・・土剋水」
−ボッ−
普段の日輪ならばありえないほど弱い法力が微光を放つ。しかしいくら弱いとはいえ伝承候補者の一撃である。無防備な人間ごときひとたまりも無い威力を秘めていた。
だが、その一撃は日輪の予想とは外れ、彼女自身には及んでいなかった。
光は、全開になっていた蛇口に命中したのである。蛇口は耳障りな音を一瞬だけ響かせ、自らの存在意義に嫌気がさしたように千切れとんだ。
水量を調節するという機能に。
留め金を失った水が噴出し、半裸の日輪の全身をぬらしてなお広がった。さして強くも無い水圧に押され、日輪の体は人形のように仰向けに倒れた。
身体と床に広がる水が下着に染み込み、内側の色をわずかに透かせる。肌に張りつく冷たい布の感触は、決して心地よいものではない。
(何のつもりだ、貴様!)
<キサマ、じゃありませんわ。私はメイ・ホー。・・・でもそう、今でも一所懸命おそうじしてる本体に悪いから、私はメイ・ホーUということでいいですわ。どっちがどっちか分からなくなってしまいますものね。>
話がまるで噛み合わない。もしくは、最初からこちらを無視しているのか。
くやしさとまどろこしさに歯噛みしたくてもすでにあごの自由さえ奪われている日輪には怒りをぶつける場が無く、暗い炎は内側にたまっていくのみだ。
そこでふと気が付いた。昼間は確かに体を操られながらも、抵抗はできた。このような屈辱を味わう前に自分の首を飛ばすくらいのことはできたはずだ。
それにこいつは怪物の、そのまた一部に過ぎない。
体内に何らかの形で潜んでいたとしても、身近にいながら妖気も感じないほどの小妖に、なぜこうも簡単に自分が捕らわれているのか。いくら疲労しているとはいえ・・・
(・・・おかしい。)
<あら、ちっともおかしくありませんわ。だって私たち「囁く者達の家」の住人は、あなたたちの言う妖怪とは違いますから。>
(何!)
<引狭さまに教えていただきました。気が溜まって自我を持った妖と違って、私たちは半分以上科学力で造られた存在だから、妖気に左右されにくいんですの。>
そういえばこの娘の姿をした怪物は、日輪の身体を介してとはいえ、陰の気の集合体である妖怪にとって正反対の力、法力を使いこなしていたではないか。
<さらに言えば、私、メイホーは
私自身を形作る「水分」さえあれば、何だって、
どんなことだってできますのよ。九印にだって負けないんですから。>
実に楽しそうに、誇らしげに語る怪物の言葉に、日輪は戦慄を覚えた。
つまりこのバケモノは妖気の大小に関係なく、周囲に水がある限り、
桁外れに強力になっていくということではないか。
ならば、部屋が水浸しになっているこの状況は危険すぎる。
<あら?「おかしい」っていうのは、私名前の話でしたの?>
考えに没頭して無反応な日輪に、
メイホーは返答を誤ったのかと疑念を抱いたらしい。
<だってあなたの身体の中に染み込んだ「私達」は、
もう小さくなりすぎて「私」とはいえませんもの。
それにその子たち全員に名前をつけるには多すぎるわ>
ころころと笑う、という雰囲気そのままで、メイ・ホーUが答えた。
身体はともかく、日輪の精神から、さぁっと血の気が引いた。
思考が断ち切られ、一瞬にして現実に引きずり戻される。
(・・・お前・・・今、何と言った・・・?)
<はい?私の分身たちに名前を付けるには多すぎて・・・>
(違う!その前だ!)
<・・・ああ。>
メイ・ホー2の声色に笑いが混じる。
<あなた、私がどこに隠れてたのか、
どうやってあなたの身体を意のままにしてるのか、
気づいてらっしゃらないのね。>
それは快い笑みではなかった。嘲笑と呼ぶにふさわしい。
<あなたが引狭さまの書斎を荒らしてから今まで、
私、地道にずぅ〜っと働いてましたのよ。
あなたの体の隅々まで「私達」が届くようにって。
でも、やっぱり粘膜からだと吸収が良かったみたいですわね。
今はもうみんな、あなたの体に馴染んでるみたい。>
絶望的な台詞だった。
知らぬ間に、自分は体中怪物に支配されているというのだ。
柄にも無く、日輪は気が遠くなった。
気力で意識をつなぎとめると、
今度は内に溜まっていた怒りの炎が猛然と吹き上がった。
こんな弱小妖怪に肉体を乗っ取られるなど、
ありえないことだったからだ。
(コソコソ隠れず堂々と出て来い!
正面から来たなら、そうしたら・・・)
無意味な台詞だと分かっていたが、
それでも叫ばずにはいられなかった。
「・・・簡単に叩き潰してやれるのに!えっ!?」
いきなり自由が戻った舌に、日輪自身が声をあげて驚いた。
体に自由が戻ったのかと全身に反撃の力を込めるが、
首から下は相変わらず動かなかった。
<首から上だけは返してあげます。
表情がないと面白みにかけますからね。>
余裕を持って自分を嘲っているのだ。
と日輪の心に炎が勢いを増した。
「正々堂々と勝負しろ。
貴様がどこに隠れているのかは知らんが、
私が貴様ごときに遅れをとるはずが無いんだ!!」
<あなたお馬鹿さん?
本当に私がどこにいるか分からないの?
それとも、知ってて考えたくないの?>
「どういうことだ!」
<まぁいいわ。今、出て行ってあげますわ。>
「だからどういう・・・ひっ!」
日輪は言葉を続けられなかった。
原因不明の不思議な感覚に襲われたのだ。
感覚は腹から響いて来ている。
浜辺に押し寄せる波のように、
日輪の知らないその感覚は
一定の間をおいて断続的に彼女を締め上げた。
「ひっ・・・・・・ひ・・・・あひっ」
感覚が、ひと波ごとにその周期を短くしてくる。
日輪の口から意味をなさないうめきが漏れた。
昼間、魔道仕掛けの巨大人形に鷲づかみにされた時でも
こんな声は漏らさなかったのに。
<これは・・・少々・・・手間取りますわね・・・
きつくて・・・もうちょっと・・・>
「・・・ひぃ・・・あひっ・・・あ・・あ・ああああ・・・」
下腹部から文字通り突きあがる未知の感覚に翻弄された。
倒れたままの日輪の足が突っ張って、
腰を浮かしているのは彼女の自力か、
それともメイホーの命令かは分からない。
<もうすぐ・・・あ>
「あああぁあああああああああああああ!!!」
日輪の絶叫が響いた。
意識を白い波が押し流し、
視界までもがホワイトアウトする。
全身から脱力した日輪は両足を力なく投げ出した。
−プシャアアアア・・・−
水道水でずぶ濡れになっていた日輪の白い下着が、
股間を中心に見る間にかすかな黄色に染まっていく。
薄い布で覆いきれるはずも無い水量は
あっという間に下着の許容量をこえ、
浮いた腰の下、
既に水溜り化している床を下着と同じ色に染めた。
「あああ・・・・・・」
初めは何が起こったのか分からず、
感覚の余韻に泳いでいた日輪だったが、
「!」
数秒後には目に意思の光を取り戻した。
失禁。
ありえない。考えられない。
こんなことがあってはならない。
顔が朱に染まり、それを通り越して青く染まる。
唇が震え、歯の根が鳴った。
「・・・うぅ」
喉から漏れた声が
小さな呻きだけだったのは、幸か不幸か。
この状況が信じられなかった。
目を瞑って悲鳴をあげ、
目の前の全てを否定したかった。
だが、日輪自身の強い精神力は
彼女を現実に繋ぎとめてしまう。
幾多の妖怪との戦いの中で磨き上げられた理性が
自失する彼女の心を叩き起こしてしまうのだ。
『あらまあ、だらしのない。お漏らしして良いのは、2歳までですわ。』
<あの女!>
その声を耳にした瞬間取り戻したばかりの意識が怒りに跳ね上がる。
しかしそのために、今までどこか遠彦のように頭の中に響いていたそれが、
実際の聴覚を通して届いたことには気がつかなかった。
日輪の頭が跳ね上がる。
「貴様、よくもこん・・・」
視界一杯に瞳が映っていた。
メイホーであった。
昼間「囁く者達の家」で遭遇した少女メイドの姿をした妖怪は、
あの書斎で出会った時と同じ笑顔で、そこにいた。
但し、大きさだけが違う。
<しまった、そうか・・・水!>
破裂した水道管の水を吸い上げたのであろう液状の妖怪は、
けっして狭くは無い日輪の私室いっぱいに変化していた。
日輪の頭より大きな瞳の中に、彼女は自分の顔を見つめた。
怒りと驚きが入り混じって引きつった、奇妙な表情。