: 140%"> うしおととら

タイトル「雨上がり」  

-1-  

「だからぁ、婆ちゃん90超えてるんだからぁ。何もこんな足元悪いときに行くことねえってよ」  
ヒロシは下平の婆さんに今日三回目になるセリフを繰り返した。じりじりと太陽が照りつけるなか、二人は向き合って立っている。  

林道にはヒロシが婆さんを連れてきた軽トラがとめてあり、それを背に婆さんが立っている。腰は曲がり、杖を突いて。目は開いているのか閉じているのかもわからない。  

「…」  

下平の婆さんが口のなかでもごもごとつぶやいた。通してくれ、といっている。ヒロシはまだ24歳の若者だが、この村の生まれだから言っていることはわかる。同じ歳の都会の若者にはまったく聞き取れないだろう。  

ヒロシは小さな登り口を背に立って必死に婆さんを説得している。下平の婆さんは肉親ではない。だが同じ村の年寄りをみすみす危険にさらすわけにも行かない。  

あの事件以来、ヒロシの村では…日本中そうだったが…古い伝承や迷信が復権した。同時に年寄りの地位が次第に高くなっている。まして下平の婆さんはこの村一番の年寄りなのだ。ヒロシとしては放ってはおけなかった。  

その一方で、ヒロシは自分が重大な危機に直面しているのもわかっていた。彼は理由はどうあれ、村の年寄り衆に背いているのだ。下手をすると村八分ですまないかもしれない。なにより、今立っている場所そのものが彼の胸を重苦しく締め上げ、嫌な脂汗を流させる。  

彼はその場所にいてはならない。禁忌なのだ。  

下平の婆さんと呼ばれるこの老女は毎日この登り口を通って山に登る。それは最年長者である婆さんが村に対してもつ権利であり、また義務でもある。  

そして村の年寄り衆が承認した正式な政(まつりごと)でもあった。無論90歳を超える老女に無理のできようはずもなく、天候の悪い日や体調の悪い日は代役…これも80を超える年寄り…が上ることになっている。  

だが、基本的に第一権利者は下平の婆さんであり、彼女が上るといえば誰も止めることはできない。これがしきたりだった。5日降った雨が漸くやんだ今日、彼女は自らの義務を果たすためにここに来ていた。  

ヒロシは村が交代でつけている運転手の一人であり、ここまでは黙ってつれてきた。だが、雨をたっぷりと吸い込んだ森や、石の表面の苔を見るにつけて婆さんでは危ないと思ったのだ。  

滑って転びでもしたらえらいことだ。無論、彼が登れはこの100m上の滝までは造作もない。だが、それは重大な破戒行為であり、字義どおり神仏をも恐れぬ悪行だった。許されない。  

ヒロシは10分ほどして説得をあきらめた。この日差しの下に老女を立たせておくのもひどい話だ。なにより今では村の宗教となった滝参りを阻止することなどできるはずもない。  

「じゃぁ婆さん。俺ここで耳を澄ましてるから、何かあったら大声だせよ。」  

老女は何も言わず、しわだらけの顔の奥にかすかに笑みを浮かべると、意外なほどしっかりした足取りで登山道…参道を登り始めた。  

その背中が見えなくなると、ヒロシはその場を離れて大きなため息をついた。説得できなかったことを愁うより、禁忌の場から離れることができたことにほっとしていた。軽トラの荷台に上ると小さな日陰に身を隠すように腰を下ろした。  

-2-  

その滝は参道を登ること500m、垂直距離にして100mほどのところにある。落差30mほどだがそこそこの水量があるこの滝は、残念ながら交通の便がわるいため観光資源にはなりえなかった。  

ひっそりとした山奥のその場所は登山コースにもなっていない。だが山林の手入れのコースになっており、週に1度、人が歩く程度の行き来はあった。  

滝に男がいるのが見つかったのは「あの事」から半年ほど経った年の瀬近い頃だった。山林の手入れに入った村人が滝に打たれる巨漢を発見したのだ。  

その巨漢は目を閉じて胃のあたりで掌を合わせ、仁王立ちで滝に打たれながらこの国の者なら子供でも知っている光覇明宗の経文を唱えていた。  

滝の水音が轟々と鳴り響いていたにもかかわらず、そのとき発見者である村人…吉田んとこの俊三…は経文があたりを圧するかごときに覚え、その場から動くことができなくなってしまった。  

漸く体が動くようになってほうほう体でその場を離れたのは15分ほどしてからのこと。慌てて家に逃げ帰ったのは言うまでもない。  

黙っていようとは思っていた。だがあまりに様子がおかしいことを心配した嫁の口から話が漏れ、やがて近所の年寄りが事情を聞きにやってきた。  

そのとき話された内容は村人達には明らかにされていない。吉田の俊三も話そうとしない。その日、村中の年寄りが集まって相談事を行い、このときが村に年寄衆とよばれる半公式の共同体ができたときであった。  

年寄衆の結論は単純だった。その巨漢は立派なお坊さんに違いない。吉田は滝壷の横にぼろぼろの黒い衣服がきれいにたたんであるのを覚えていた。法衣だろう。  

そしてぐにゃりと曲がった棒が突き出た、大人の胴体ほどもある鉄の塊。これはきっと武法具であろう。  

年寄りたちは吉田の話を聞いてこう結論付けた。かの巨漢は光覇明宗の僧であろう。あの事があったときにこの国に住む生き物どもの為に戦ってくれた僧に違いない。その偉いお方が何の理由があってかこの村の滝の水に体を打たせている。  

ありがたい話だ。すぐにご挨拶をせねば。年寄りたちの動きは速かった。戸惑う村人たちをせっつき、準備を整えた。白米が炊きだされ、握り飯が握られ、殺生はまずかろうということで山菜料理が用意された。  

翌日80歳以上の年寄だけで滝まで登った。残りの村人たちは同行を申し出たが激しい口調で退けられた。  

その日、僧と年寄衆の間にどのような話があったか。やはり村人は知らない。ただ、山菜料理はすべて年寄りたちが持って降り、握り飯だけを置いてきたようだった。それから毎日、年寄りたちは握り飯を届けに登山口から登った。  

登山口は参道となり、村人たちは入り込むことを禁止された。これが1年前なら年寄りが何を馬鹿なことをと一笑にふされただろう。だが、村人たちは恐る恐る従っただけだった。皆、覚えていた。白面のものの恐ろしい眼を。  

以来、僧を目にしたのは五本の指で足る程度の老人だけである。彼らは自分が見たものを決して口にしない。ただ、胸の中にしまっている。  

-3-  

下平の婆さんは汗をかきかき、漸く滝にたどり着いた。木々に囲まれた滝壷は夏とはいえひんやりしていた。参道を登って来たのは重労働だったはずだが、老婆の顔には苦痛の色はなく、ひたすらに厳粛な表情で足を運ぶ。  

年寄衆はすでにこの巨漢の僧を生き神のように敬い、老婆は紛れもなくその神に仕える巫女だった。  

僧はたいてい滝に打たれているか、大岩の上に座って経文を唱えているかのどちらかだった。まれに瞑想していることもある。  

今日はあたりに響き渡る声で経文を唱えていた。僧は法衣を脱ぎ、ふんどしひとつで東に向かって胡座をかいており、老婆はやや斜め前からその姿を目にする。  

この角度からだと頭の半分ほどを覆う禍禍しい染みもよく見えない。だが、腹部に残るまるで何かで穿ったような大きな傷跡ははっきり見えた。  

いつのまにか供え物を置く場所になった大石の前に座り、背嚢から取り出した握り飯をおく。握り飯は大きなものが必ず四個。竹の皮を開いてその場に恭しく置くと、下平の婆さんと呼ばれる老婆は経文の邪魔にならぬよう口の中でもごもとと僧に話し掛けた。  

曰く、五日の間雨で来ることができず申し訳なかったこと、この雨で今年は日照りの心配はなさそうであること、上の畑の三次の嫁が臨月であること、明日は替えの法衣を持ってくること、僧のおかげで村は平穏であること。  

大きく低い声で唱えられる経文の下で一通りの報告と感謝をすますと、老婆は深々と一礼した。その場を辞するために立ち上がると、驚いたことに僧が口を利いた。  

「婆さん無理をするな。年寄りの冷や水はよくないぞ。代わりを遣わすことだ。」  

低く、よく響く声だった。相変わらず眼は閉じたまま。こちらを振り向きもしない。何事もなかったように中断した経文を唱えはじめた。しばし呆然とした後もう一度深々と礼をすると、老婆はその場を去った。  
僧が村人と言葉を交わしたのは1年半で実にたった二回。一回目は「握り飯だけおいていけ。あとはいらん」。年寄衆がはじめて挨拶に登ってきたときのことである。滝壷のそばに庵を建てる申し出は黙殺された。なんにせよこの僧、口を利いたのは1年半ぶりである。  

-4-  

老婆が参道を降りてから30分ほどして、滝壷の脇の木の枝の上に小さな影が現れた。じっと様子をうかがうことさらに30分。影が用心深く、しかしながらすばやい動きで日の下に進み出る。  

イタチ、と知らぬ人なら言うだろう。だが、切れ長の目や這うような走りは動物の専門家なら即座に首を振るに違いない。実のところ、この生き物は世界中のどの動物図鑑にも記載されていない。  

イズナとよばれるその生き物…あやかし…は、握り飯の前で立ち止まると、じっと僧を見つめた。そうして決して僧から目を離さないよう用心深く握り飯に近づくと、ひとつを抱えて電光のような動きで藪に戻り、身を隠した。  

藪の中からそっと僧を見る。僧は動いていない。それどころか経が途切れることすらなかった。  

ほっと一息ついた瞬間、予想もしなかった出来事にイズナは思わずかかえていた握り飯を取り落とした。  

「ひとつでいいのか?遠慮するな」  

怪異なことである。1年半ぶりに口を利いた男が、同じ日に今度はあやかし相手に飯を持って行けといっている。返事を待つでもなく、何事もなかったように経を読んでいる。目も開かなかったに違いない。  

(食ってもいいのか?)  

イズナは腹が減っていた。彼は一族を連れて新たな住処を捜し歩いているのだが、ここ数日の雨であまり食い物を取れずにいた。食い物はガキ共にまっさきにくれてやるので彼のような頭(かしら)ともなると飯抜きのことも多い。それが嫌なら一族を率いたりしないことである。  

腹を減らしているのは彼だけではない。食い物は多いほどいい。この山も人間の手がかなり入っており、彼らの口に合いそうなものはあまりない。すぐに立ち去るとはいえ、当座に何か腹の足しになるものが必要だった。  

じっと僧を見る。禍禍しい頭の染み、太くつりあがった眉、意志の強そうな口元、盛り上がった肩の筋肉、ごつごつした腕、よく見ると法衣から覗く肌はどこも傷だらけである。そして巨大な武法具。  

考えるまでもなく、これまで数多の妖怪を調伏してきたのであろうことがわかる。だからこそ握り飯を一個だけ奪って走って帰ってきたのだ。欲をかいて殺されてはたまらない。  

しかし、イズナには僧の殺気を感じ取ることができなかった。無論、殺気など発する奴はたいした事はない。なんの殺気もなく殺されていった仲間の話は何度も聞いた。それでも、この僧がイズナを罠にかけているとは見えない。  

再び藪から出ると、イズナは握り飯のところまで走っていく。そしてじっと僧を見つめた後、空に向かって一声あげた。すると、周囲の藪から4匹ほどのイズナが用心深く駆け寄ってきた。  

一族の若者のうち、特に目をかけている連中だ。いずれはこの中の誰かが彼を追い落として一族の長になろう。しかし、今は有望な跡取として育てなければならない。  

短く声を交わすと、若者がさっと握り飯を奪い、藪の中へと去っていく。頭であるイズナはその間僧と握り飯の間に立ち、何かあれば時間を稼ぐ準備を怠らなかった。だが、それも杞憂だった。結局イズナどもが神経をすり減らしただけで僧は経をよどませることもなかった。  

やがて配下のものどもが首尾よく藪の奥に消えると、頭のイズナも後ろを気にしながら藪に駆け込んだ。  

滝は再び僧一人になった。轟々と唸る滝の音と、かつては凶羅と呼ばれた僧が唱える経だけが滝壷の周囲の空間に満ち溢れる。  

が、再度藪がざわめくと、イズナが飛び出した。頭である。握り飯を抱え、走り出ると用心を怠らない目つきで僧を見つつ握り飯を竹皮の上に置く。そして一声も発することなく藪の中に消えた。  

雨上がりの滝。強い日差しの下、僧が目を閉じたまま口の端に笑みを浮かべた。  

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「雨上がり」 了  

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