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それから幾日か経った、或る日の昼過ぎ。潮達や雷信達の暮す山奥から程無い処に在る大型書店。
「イラッシャイマセ」
店内に入って来た、人とは思えぬ程の美貌を持つ女性客を無機質な人工音声が迎える。
今日は今年大学生になった涼子にとって、初めてのレジ打ちのアルバイトの日。初日から失敗をする訳にはいかない。
彼女は緊張しつつも張り切っていた。だが、この時間帯は客も少なく、本を買いに来る者など稀である。
(思ったより、退屈な仕事なのね)
暇を持て余した彼女は、店内の疎らな客を観察する事にした。
料理本を品定めしている新妻風の女。資料探しをしている作家風の男。
昼休みに抜け出して来たので在ろう、中学生の5人グループ。
(あぁ、研修で言われたのは、あんな子達の事か)
この手の中学生グループは、大量に漫画本を万引きして読んだ後、古本屋に売って金にする可能性が在るので、研修時に特にマークする様指示されていた。
その時、彼女の目の前を先程の女性が通り過ぎる。
(派手な格好した人…でも、あれが大人の色気って奴なのかしら?…って、え?え?えぇぇぇぇ〜!?)
その女性は、臆する事も無く、堂々とアダルト書籍コーナーに向かっているでは無いか。涼子の視線は、その女性に釘付けになった。
「えぇと…あ!これなんかどうかしら。あ、こっちの本も良さそうね」
その女性は、そんな独り言を呟きながら、料理本を品定めするかの様に、アダルト書籍を見比べている。
一頻りコーナーを見渡した女性が、手に大量の商品を抱えて涼子の担当するレジへ向かってくる。
「これ、全部下さい」
「…………あ………い、いいいいらっしゃいませ!」
『週刊プレ●ボーイ』、『200人女のクリトリス絶●体験』、『10分でわかる女性器の●密』、『10分でイケるS●X絶頂体験』、『SEX愛液たっぷりマニュ●ル』etc...その数何と、20冊以上。
女性の差し出した本のタイトルの数々を見て、彼女は赤面してしまう。
「あ、あありがとうございました!」
動揺の落ち着かぬ声で、女性客に頭を下げる。
「又、良い本探しに来るわ」
女性客――かがりはそう言って涼子に微笑み掛け、店を出て行く。人の世事に疎い彼女は、女性がその手の本を大量に買う事で、周囲にどう思われるかを全く考えていなかった。女性で無くとも、目立つだろうが…。
「アリガトウゴザイマシタ」
人工音声は入って来た時と変わらぬ口調で、彼女を送り出した。
「き、綺麗な人なのに…」
涼子が漸く平常心を取り戻し、周囲を見渡した時、既に先の中学生グループの姿は無かった。
コンコン…
台所で、昼食の後片付けをしている小夜の耳に、勝手口の扉を叩く音が聞こえる。
「?…潮君かしら?」
潮は先程、昼食を済ますと直ぐに、「俺、夕食になる様な山菜探してくるよ!今夜は鍋にしよーぜ」
と勇んで出て行ったのだが、そんなに早く戻って来る筈も無い。不思議に思った小夜が勝手口を開くと、そこに立っていたのは、小夜ですら気付かぬ程に気配を消したかがりだった。
「潮様は居らっしゃらないかしら?先程、出て行かれたみたいだけど…」
彼女は先日とは全く逆の問いを小夜に発する。
「潮君が出て行く迄、気配を消して待ってたんですか?でも、一体何故?」
かがりは、その問いに答える代わりに、大きな袋の中身を台所に並べて見せた。
「え?何ですかこ………………キ!」
並べられた妖し気な書籍を見て、悲鳴を上げようとした小夜の口をかがりが慌てて塞ぐ。
「そんな声を出したら、潮様がお気付きになってしまう。私は貴女の為にやっているのよ」
「でも、でも何で?こんな本、私に何の関係も…」
小夜の顔は今にも火を吹かんばかりの色をしている。
「『潮様の気持を、貴女に向けさせる積もりだから』よ。女は度胸よ。良い?私は貴女の話を聞いて、
貴女なら潮様を幸せに出来ると感じたから、こうして協力する気になったの。貴女には、私と同じ失敗はして欲しくないしね」
世事には疎い癖に、妙に人間被れした言葉を知っているのも、かがりの奇異な点だ。
「それで、人間の男女関係について調べてみたんだけど、人間は愛する人と、この本に載っている様な行為をするみたいだから、貴女が巧く、それが出来る様にと思ってね……潮様に気付かれると、厄介だから、私はこれで。又来るわ」
呆気に取られる小夜。だが、暫くしてかがりの気持を理解した彼女は、何だか暖かい気持になり、それ等の本を手に取って読んでみた。
説明するのも憚られる様な内容が、小夜の目に飛び込んで来る。だが、不思議と嫌な気持にはならなかった。
自分の為になるのかは判らなかったが、かがりの気持は嬉しかった。
そして、ハッとして、かがりが『これ』を書店で求める姿を想像し、彼女の事が心配になった。
「今度来た時、注意してあげよう」そう思って、小夜は『かがりの買って来た物達』を台所の流しの下に隠した。
(御免ね、潮君。貴方に隠し事をする積もりは無いんだけど…)
この15年以上、引っ込み思案で『悪い事』の経験が無かった小夜は、産まれて初めての背徳感を味わった。
「小夜さん、この山凄え!食いもんの宝庫だよ!」
山菜を集めに出ていた潮が、興奮気味に小夜に土産話を聞かせる。
だが、隠し事をした後ろめたさからか、小夜の頭には、潮の話の内容の1割も入って来なかった。
「そう…良かったわね」
「でさぁ、こっから少し行った所に小さな川が流れてて――」
「そう…良かったわね」
「――で、小夜さんもちょっと、一緒に来てみてくれよ」
「そう…良かったわね」
「…?小夜さん、俺の話聞いてる?」
「え?ええ、一緒に山菜採りに行くのね。判ったわ。ちょっと待っててね」
「玄関で待ってるから、準備出来たら、来てくれよ」
「はぁ…やっぱり慣れない事は駄目ね」
小夜は山歩きに相応しい服を選びながら呟く。
(別に潮君が困るって訳じゃ無いんだけど…罪悪感ね)
「小夜さんまだぁ!?」
玄関から、待ち草臥れた潮の催促が聞こえて来た。
「はーい!今行くわ」
小夜は小走りに玄関へ向かった。
「お待たせ」
「随分時間懸ったなぁ。何してたの?」
「女の準備は時間が懸るの。そんな無粋な事訊いちゃ駄目よ」
その言葉を聞いて、潮の心境に変化が起こる。
(あれ?俺、どうしたんだろ?急に小夜さんの顔見られなくなっちまった)
彼には理解出来なかったが、それは今迄『友人』としてしか見ていなかった小夜の事を『一人の女性』として見た事に因る変化だった。
そして、一人の女性として見た場合、彼女は余りにも魅力的過ぎた。
「ご、御免。じゃ、行こうか」
傾いた陽が照らし、優しい橙色に染まった山中。潮の言う通り、その山は天然の山菜屋だった。
「こっちが青みず。で、これは細竹。俺は調理法知らないけど、前に麻子の母ちゃんが料理してくれた時ゃ、凄く美味かったんだぜ」
潮は終始笑顔で小夜に説明して聞かせる。それは、以前の様な空元気では無く、小夜の大好きな潮の笑顔だった。
小夜は、そんな潮を見て、彼が元気を取り戻しつつある事に安堵し、また、自分が力になれている事が嬉しかった。
「それじゃ、今夜も頑張るわ。楽しみにしててね」
潮につられて、小夜も元気が出て来る。周囲の人間に元気を分け与えると言う事が、本来の潮の魅力だった――
それは、まるで月を明るく照らす太陽の様に…。
「小夜さんの料理、美味いもんなぁ」
「うふふ…もう、あんまり煽てると、木に登っちゃうわよ」
こうして潮と小夜が笑い合うと言うのは、初めての事だった。二人が出会った時は、小夜が自分の存在意義に疑問を持ち、悩んでいたし、二人が再会した時には、潮は周囲の人間から忘れ去られた事で塞ぎ込んでいた。
(何て…良い気持。もっと、もっとこの気持が続いて欲しい)
小夜の悩みは既に消えかけていた。
ガラガラガラ…
「たっだいま〜!!」
7月に入った或る日の事――居間でかがりの買って来た本を読んでいた小夜の耳に、既に日課となった山菜採集から帰って来た潮の声が届く。
体の弱い小夜は、毎日は潮に付き合う事は出来ず、そんな時はこうして待っているのだった。
潮がこちらに走って来る音を聞いて慌てた小夜は、読んでいた数冊の本を隠しに、台所へ急いだ。
「今日も沢山採って来たぜ…あれ?どうしたの?そんな赤い顔して」
「いや、何でも無いの。本当よ。本当に何でも無いの」
明らかに普段の小夜では見せない態度が気になった潮は、
「その背中で庇ってる流しの下、何か在るんじゃ無いの?気・に・な・る・な・あ」
と少し意地悪に訊いてみる。
「本当に何にも無いんだって!」
「じゃあ見せてみてよ」
「何も無いんだから、見せても仕方無いじゃない」
「何も無くても見てみたいんだよ」
非力な彼女を押し退けて、力尽くで流しの下を覗く事も出来るが、彼女を『女』として意識してしまった潮が彼女の秘密を知るには、この押し問答に勝つしか無かった。だが、その後の小夜の一言で、それすらも不可能になった。
「もう!あんまりしつこいと、晩御飯作ってあげないよ!」
その言葉は、小夜が予想していたよりも遥かに大きな力を持っていた。
蒼月潮は自分の部屋に籠り、小夜には秘密で制作中の彼女の似顔絵を眺めた。
(怒らせちまったのかなぁ。俺、小夜さんに嫌われるのは嫌だな。どうしたら、機嫌直してくれんだろ?)
溜息を一つ吐き、ゴロリと横になると、迷ひ家の天井が見える。迷ひ家もまた、どうしたら良いか悩んでいる様であった。
「糞っ…こんな事で悩むなんざ、俺らしくねーな」
潮はそう言って気付く。「らしくない」悩み方をした事が、1年近く前にも在った事に――
それは、旭川からの旅を終えた潮が、小夜以前に、女と認識していた人間、中村麻子に再会した時の事。
折草と言う、麻子の従兄に当たる男が、
「麻子は俺の女だ」
と潮に宣言した時の事だった。
「本当の事を本人に聞いてないから、ムカムカするんだと思うよ」
その時相談に乗ってくれた、親友・真由子の言葉も思い出す。
(聞こうにも、訊いたら怒り出したんだもんなぁ)
そこ迄考えて、初めて麻子と小夜を並べて見ている自分を知る。
だが、それに気付いた処で、悩みが深まる事にしかならないのだった。
(潮君、私が怒ったなんて思ってないかな…冗談の積もりで言ったのに、部屋に籠っちゃって)
鷹取小夜は今正に潮が悩んでいる事を考えていた。それでも、夕飯を作ろうとするが、どうにも手が進まない。
ジャガイモを流しの下から取り出そうとして、そこに隠された「原因達」が目に入ると、更に気が沈んだ。
涙が流れてくる。それ迄異性と深い付き合いをした事が無かった小夜には、こんな時、どうして良いのか判らなかった。
(かがりさん、御免なさい。私、駄目みたい)
そんな事を思っていると、昔、潮が自分を闇から救い出してくれた時の言葉が蘇って来た。
「ダメだよ、そんな簡単に謝り捲っちゃよ」
その記憶は、小夜を元気付ける。そして、同時に妙案が浮かんだ。
ジャガイモの代わりに、「かがりの贈り物」の中の一つと、「迷ひ家が気を利かせて創り出した物達」を取り出す。
もう彼女の目に涙は無く、代わりに期待が溢れていた。
「潮君、起きてる?」
襖の向こうで、小夜の声がする。
「あ、あぁ起きてるけど?」
小夜の声から感情が読み取れない不安で潮の声は震えている。
「ちょっと、お外を歩かない?」
襖を開けた小夜が言う。表情から察して、怒ってはいない様だった。
その事に安心した潮がと反論する。
「いや、良いけど。もうこんな時間だし、危ないぜ。明日にしねえ?」
(それに晩飯食ってなくて腹が)
と言いたかったが、先の件を思い出して止めておいた。
「大丈夫よ。私が良く知っている場所に行くの」
(そう、『私達』が初めて出会った場所に…)
満月が照らし出し、深い青紫色に染まる山中。「目的地」へ向かう二人に会話は無かった。
だが、目的地に近付き、小夜の「目的」が見えた時、潮が口を開いた。
「あ…ここって…」
「そうよ。私達が初めて出会った場所。あの時潮君ったら…」
「御免…」
「良いのよ。あの事が無ければ、私は潮君に出会えなかったから。すぐに謝っちゃ駄目なんでしょ?」
その言葉を聞いて、潮は真っ赤になる。小夜の言葉は、遠回しに潮に出会えて良かった、と言っている様な物だった。
どちらから言うでも無く、二人は裸になり、天然の温泉に浸かった。この温泉には、普段は人間は来ない。
来るのは、猿や鹿、熊と言った山の動物達である。ここでは、熊の様な獰猛な肉食動物も、他の動物を襲う事は無く、同種同士の場合を除いての干渉は殆ど無い。
それが、暗黙に決められた山の掟だった。潮達も「山の動物の一員」としての待遇を受ける。
「でも、小夜さん、俺と風呂入るの嫌なん…」
小夜が人差し指で潮の唇を塞ぐ。
「そんな事無いの…あの時は、びっくりしたから。今は、『潮君になら』裸を見られても平気よ」
「……………………」
バシャーン!
先刻の小夜の言葉と言い、興奮が限界に達したのだろう。潮は温泉の中に倒れ込んでしまった。
「起きよ 起きよ 塒の雀
朝日の光の 射し来ぬ先に
塒を出でて 梢に止まり
遊べや雀 歌へや雀」
半覚醒状態の潮の耳に、童謡『ちょうちょ』が記憶に在る美しい声で聞こえて来る。
目を開くと、潮の頭を撫でている小夜の顔が、温泉の蒸気の所為かぼんやりと見えた。
「気が付いた?潮君、お湯で上せちゃったみたいね」
(そうじゃ無くって…あれ?)
潮は裸の小夜に膝枕されている事に漸く気付く。
「わゎっ!」
驚いて飛び退く潮。そして、改めて小夜の裸体を見る。
色素を殆ど含まぬ、透き通る様に真っ白な肌。併し、それは病弱さなど感じさせぬ程の肌理の細かさを持ち合わせている。
「少女」から「女性」へと変わりつつ在る乳房は、適度な張りを持ち、小さ目で、色の薄い乳輪は上を向いている。
細く、優しい曲線を持つ両脚の間には、透明と言っても差し支えの無い陰毛が控え目に茂り、陰部を隠す役目を果たしていない。
その陰毛の向こうには、軽く脚を開いているにも関わらず、ぴったりと閉じている陰裂が見て取れる。
土手焼けと呼ばれる色素沈着すら無いその部分は、柔らかそうな膨らみを持ち、潮を誘っている様に見えた。
それ等は、白い髪の一族でなければ決して得られぬ美しさだった。
「そんなにジロジロ見られたら、恥ずかしいよ。ほら、湯冷めするから、潮君も入ろ」
小夜は、両腕で胸を覆い隠し、湯に身を沈める。潮もすぐ隣に腰を降ろした。
「潮君、背中流してあげようか?」
潮は唐突な小夜の申し出に驚くも、小夜の表情から彼女もそれを望んでいる事を酌み、同意した。
小夜の視界は、潮の広い背中で占められている。
小柄に見える潮の背中も、こうして見ると意外な程広く、発達した筋肉に覆われている事が判る。
その表面には無数の痛々しい傷跡。それ等の殆どは、彼が他者を救う為に受けた、名誉の負傷だった。
小夜はそんな彼の背中に男らしさを感じ、しばしば背中を洗い流す手が止まってしまう。
彼の背中に愛しさを感じた彼女は、その傷跡の一つを指でなぞる。まるで、彼の傷を癒すかの様に…。
「ちょっと…擽ったいぜ。ちゃんとしてくれよ〜」
そんな潮の言葉もクラクラしている頭には入って来ない。
(あぁ、本当に愛しいわ)
理性を失いかけた小夜は、潮の逞しい背中に抱き付いた。