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彼女は唱える。ゆっくりと一言一言確実に……麻子の写真を見詰めながら。
「オン シチュリ キャラロハ ウンケン ソワカ…………呍…」
声が途絶え、辺りが静寂に包まれる。だが、彼女は確信していた。
「成就……」
自分でも何故だか解らなかったが、彼女は夏休みからこちら、家に在る旧派真言宗の書物を読み漁り、
それを半身半疑ながらも試してみる事で、異常な霊力、法力の高まりを見せていた。
彼女の精神はそんな半身半疑の方法を試さねばならぬ程に追い詰められていたのだ。
彼女の今迄の呪詛の成就率は100%。今回も失敗する筈は無かった。
「!?親父!!」
「来た!」
人形の胸が突然裂けた事に潮は驚き、うろたえた。紫暮は迫る呪詛の気配を読み、それに備える。
「大威徳法だと!?」
紫暮は右手で左手を包み、真言を唱えて対抗する。
「ナンモ サマンタン バサラダン オン キリク シチュリキ ビキリ タダノウ ウン サバセトラク ダシャリ サハバヤ サハタ サハタ ソワカ!呍!!」
意識の無い麻子の体がガクガクと激しく揺れる。
「ゲホッゲホッ!ごぼっ!」
「麻子!!」
見ると麻子は咳き込んでおり、その口の中は血で真っ赤に染まっていた。
「潮!医者を呼んで来い!早く!!」
「解った!」
潮は大慌てで病室を出る。
「…………」
紫暮は信じられなかった。先程麻子に届いた呪詛は大威徳法と呼ばれる、位の高い明王の力を行使する呪術だ。
そして、自分も同じく大威徳明王の力を行使して、怨敵退散の真言を唱えたにも関わらず、結果として打ち破られた。
自分は光覇明宗の中では、最大の法力を持つ僧だ……二代目お役目・日崎御角と三代目お役目であり、己の妻である蒼月須磨子を除いては。
それが、呪詛を防ぐ処か、その方向を追尾する事すら出来なかった。
紫暮は、今回の件を甘く見ていたと痛感した。
在り得ない。それは絶対に在ってはならぬ事だった。初めて呪術が成就しなかった。
憧子は呪詛返しとして寄って来た低級な妖を、法力を込めた手で握り潰す。
本来なら肺が破裂してもおかしくない程の思念を送ったにも関わらず、麻子の呪殺には失敗したらしい。
それなら次のターゲットを先に殺せば良い。憧子は引き出しの中のケースから、一本の髪の毛を取り出した。
放課後、誰も居ない学校で集めた中の一本を。
「オン マン ハツ メイ 呍……」
井上真由子は夢を見ていた。とらの背中に乗り、雲一つ無い星空を駆け回る夢。
とらに話したら、「餓鬼臭え」と笑われるだろうか。だが、それでも真由子には幸せな夢だった。
「ねえ、とらちゃん、お星様掴めないかな?」
そんな事は無理だと分かっていても、訊かずにはいられない程美しい星空。
「そんなに掴みてえなら、すぐ傍迄連れてってやるぜ」
ぐん、と高度を上げ、雲の上に出る真由子ととら。
「わあ!とらちゃん凄い!凄い!」
真由子は子どもの様に両手をばたつかせてはしゃぐ。すると、
ピィィーーンン
突如、上空の星明かりが消え、今迄彼女が乗っていたとらも居なくなる。残されたのは、自分と足元の雲だけだ。
だが、彼女は不思議と落下する事無く、ふわふわとその場に浮かんでいた。
「とらちゃん?」
キョロキョロと辺りを見回すが、とらの姿は無い。何処に行ったのか、探そうとして彼女は気付いた。
地に足が着いていない所為か、その場から動く事が出来ない。只宙に浮かぶだけで、移動は出来ない様だった。
「とらちゃーん!何処ー!?」
置いていかれた様な寂しさに襲われ、大声で彼の名を呼ぶ。だが、どんなに呼んでも返事は無い。
その時、雲の向こうからこちらへと歩いて来る者の姿が在った。
「とらちゃん?」
ぼんやりとしか見えないその姿を目を凝らして見る。
「!!!!」
『彼女』だ。彼女がゆっくりとこちらへ近付いて来る。
「嫌!嫌!来ないで!」
真由子は必死で逃げようとするが、幾等足を動かしても、その場から動く事は出来なかった。
「あ…あ……」
『彼女』は徐々に、だが確実にこちらへ向かって来ている。
「助けて…潮君…とらちゃーん!!」
「呼んだかよ?」
気が付くと、真由子はベッドの上に居り、窓際に座っているとらが不思議そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
「とらちゃん…来てくれたんだ」
「何言ってやがる。わしゃ潮に頼まれてだな……」
「ううん。それでも良いの。とらちゃんが居てくれたら私、何も怖くないよ」
真由子はうっとりとした表情でとらの逞しい腕を抱き、そっと目を瞑った――
「ひっ!」
次の瞬間、驚いて目を開ける。
「何だよ?騒がしい女だな」
「ち、違うの……と、とらちゃん……」
目を大きく見開いた真由子は、震えながらとらの腕に縋る。
真由子は見てしまった。目を閉じた暗闇の中、『彼女』の姿が映り、それが徐々に近付いて来ている。
『彼女』は目を瞑っている間しか近付いて来ない様だったが、『彼女』が目の前に来た時、
何か嫌な事が起こりそうな確信は在った。
その事をとらに話すと、とらは額の上で稲妻を爆発させ、全身の毛を逆立たせた。
「何ィ!?あの女、やっぱりわしを嘗めてやがる!!女ァ!墨と紙持って来い!」
とらは、『彼女』が潮が居れば何もしないのに、自分が居ても構わず呪詛を送り込んで来る事が我慢ならなかった。
怒りの籠った筆で、半紙に八角形と方位を書き込んで行く。
「とらちゃん…それ、確か鏢さんが持ってた……」
真由子はとらが『彼女』に対して怒り、自分に味方してくれている事で少し落ち着きを取り戻していた。
そして、とらが描いたそれは、遁甲盤と呼ばれる、占いの道具の図形だった。
「この真ん中が、今わしとおめーの居る場所、この一辺が一里よ。次にあの女がちょっかいかけて来やがったら、
こいつで位置を探って、後悔する間も無く喰らい殺してやる……!!だからおめー、絶対くたばんじゃねえぞ。おめえはわしが喰うんだ!」
真由子はこんなにも恐ろしい顔をしたとらを見た事が無かった。
「うっうっ……倉本ォ」
「どうして死んじゃったの、豪ィ」
倉本豪の通夜会場。そこには2年3組の彼の友人達が集まっていた。
親族から順々に線香を上げ、彼女の番が来た。彼女――杉本茜は、
豪と―若気の至りだが―将来を誓い合った仲だ。その悲しみは計り知れなかった。
「豪……また、逢おうね」
線香に火を灯し、茜が動かない彼に背を向けたその時――
ボンッ!!
線香か蝋燭の火が何かに燃え移ったのだろうか。祭壇が一瞬にして炎に包まれ、会場はパニックに陥った。
「火を消せ!早く!」
「豪ィーー!!」
「火の勢いが強い!逃げろ!!」
茜はその状況を見て、早く火から離れようと走り出す。だが、火を消しにかかった親族達とぶつかり、転倒してしまった。
彼女の体を何十人もの足が踏み付けて行く。
火は何とか消し止められたものの、会場には数人の重傷者が出てしまった。
茜も例外では無く、全身を襲う激しい痛みに耐えていた。
「先生!!娘は!!娘はどうなんですか!?」
「現在、肺からの出血を吸引して、呼吸器の補助を行っています。一先ずは安心と言った処でしょう」
麻子の病室の前で歓声が上がる。廊下には麻子の友人、両親、担任が集まり、喜びを分かち合っていた。
しかし、その中に在って、浮いている影が二つ。潮と紫暮は、喜ぶ気にもなれなかった。
「潮、ちょっと来い」
「何だよ?」
紫暮は潮を廊下の曲がり角の処迄連れて行き、
「潮、麻子ちゃんを守りたいか?」
と尋ねた。
「当ったり前だろ!俺は何をすりゃ良いんだ!?」
「しっ!大きな声を出すな。私は今から少し、麻子ちゃんの周囲を調べてみる。だから、御前が麻子ちゃんに付いててやれ」
「解った。でも俺、何も出来ないぜ……」
潮は俯き、先程の自分の無力さに拳を握る。
「念じろ。麻子ちゃんが助かる様にな。呪いも念ならば、御前のその思いも念だ。それに、こう言う時一番大事なのは、
本人の気力さ。だから、御前が付いててやるんだ」
「あぁ、そうするよ。時に親父、さっき言ってた何とか徳法ってのは?」
元気を取り戻した潮は、麻子に掛けられた呪いについての疑問をぶつけ、紫暮はそれを噛み砕いて説明してやる。
「大威徳法か。御前には言っておかねばならぬな。大威徳法とは、大威徳明王と言う……まぁ、何だ、閻魔様の強力な奴だな。
戦を司る明王で、死を降ろす事を業としている。本来ならば軍勢に対して行使するその力を個人に向けると、
その人間は血を吐いて死ぬと言われている」
「って事は親父……」
「あぁ、敵方も法力使い――それもかなり手練の様だ。なるべく早くに戻るつもりだが、
もしも間に合わなかったら、その時は照道さんに連絡しろ」
紫暮はそれだけ言うと、既に宵闇に包まれている町へと駆け出して行った。