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 ザァァァァァァーーーー……カッ!! 
突如、薄暗い町を激しく照らす稲光。 
土曜日の朝、潮が病室の椅子で目を覚ますと、辺りは雷雨に見舞われていた。 
米次と麻沙子は隣の介護者用ベッドで泥の様に眠っている。 
「やっべ…寝ちまった」 
一昨日からの疲れが出ているのだろう。それでも潮は、一晩中握っていた麻子の手は放していなかった。 
「お早う、潮」 
現代医学が呪術に対抗出来たのだろうか。 
治療の甲斐在ってか、麻子の赤紫色に凸凹した皮膚は一部を残すのみとなったし、肺からの出血も止まっている様だった。 
「あ、あぁ、お早う。治ってるみてえで、良かったじゃねえか」 
麻子を元気付けようと、にっこり微笑み掛ける。 
だが、麻子はそれには答えず、窓の外を見て呟いた。 
「雨ね。本当、嫌な雨」 
 
 
「雨ね。本当、嫌になっちゃう」 
真由子はキッチンで簡単な朝食を作りながら呟く。とらの存在で恐怖は薄らいでいるものの、あの後彼女は一晩中眠る事が出来なかった。 
とらはと言えば、まだ怒りが治まらない様子だが、どうしても欠かせないのだろう。居間で朝のワイドショーを熱心に見入っている。 
勿論、テーブルの上には昨日遁甲を描いた紙を置いてはいたが、今は大人しく真由子が朝食を作り終えるのを待っていた。 
チーン! 
「あ、パン焼けたみたい。とらちゃーん、ご飯出来たよー!」 
パンを2枚の皿に取り分け、バターを塗っていく。フライパンの上の目玉焼きも程好い焼け具合になっていた。 
「えへへ…何かこうしてると、新婚さんのカップルみたいだねえ」 
「馬鹿言ってんじゃねえよ。大体何だ、その蚊振るってのは?」 
「もう、とらちゃんったら、まだ片仮名の言葉に弱いんだね。カップルよ、カップル。キャッ!」 
恥ずかしがる素振りを見せつつも、真由子は楽しそうに朝食を採る。 
彼女は昨日からの不安も在るには在ったが、だからこそ今、こうして明るい雰囲気に浸っていたかった。 
とらも不思議とそんな真由子を見るのは悪い気はしなかった。  
 
「ごちそー様!とらちゃん、後で麻子のお見舞いに行こうね」 
「けっ!馬鹿馬鹿しい。病人見たって、そいつの治りが早くなるわきゃねーだろ」 
「そんな事言わないの。誰だって、弱ってる時にそうやって心配されたら嬉しいんだよ」 
珍しく、きつい口調でとらに説教する真由子。 
「へいへい。わしゃ妖だからな。人間の事なんざ解りたくもねーな」 
ピィィーーンン 
とらがそんな調子で真由子をいなしていると、彼の耳に不思議な音が聞こえて来た。 
「おい、女。どうやら、見舞いとやらには行けなさそうだぜ。こいつ、今度はわしが狙いらしい」 
真由子には何が何だか解らない。 
とらは今、緊張した様子で、食べ終わった朝食の皿が乗ったテーブルの向こうの空間をじっと見詰めている。 
真由子にはそこに何も見る事が出来なかったが、 
テーブルの上の遁甲を描いた紙の一点がブスブスと煙を上げているのを見、今起こっている事を理解した。 
 
 とらは今、テーブルの向こう側の『彼女』と対峙していた。 
相手の出方を見ようと思ったが、『彼女』は無表情にこちらを見ているだけで、自分から仕掛けようとはしない。 
「その目が気に入らねえんだよ!!」 
とらの先制攻撃。大きく開かれた口から、地獄の業火の如き高熱を宿す炎が吐き出される―― 
その間際、『彼女』の両手から漆黒の二つの四角形の光が彼に向かって放たれた。 
漆黒の光など、存在する筈も無いのだが、それは確かに光を放ち、とらの炎を封じる。 
「ぐ…おぉぉぉぉ……!!」 
「とらちゃん!!大丈夫!?」 
真由子には『彼女』もその光も見えないが、とらの体が在り得ない位に締め付けられ、変形している。 
苦しそうに食い縛った歯の間からは血が流れ、息も上がっていた。 
「寄るなっ!!おめえはわしが喰うんだからな」 
そう叫んで、テーブル上のティッシュペーパを取り、良く動かぬ指で、口から流れる血を取り、それに文字を書き込んで行く。 
「これでも喰らえ!禁!!」 
文字を描かれたその紙は一直線に彼女に向かい、それがぶつかると同時に『彼女』の姿は消えた。 
 
「とらちゃん!」 
「生霊にゃ、こいつが良く効くみてーだな。だが、痛み分けって処か……まだくたばっちゃねえな」 
漆黒の結界から解き放たれたとらは、テーブルの上の遁甲を取り、焦げた一点を確認する。 
「西に半里……女、わしはあの野郎に思い知らせて来る。おめーは、ここで大人しく待ってろ」 
「私も行く!」 
飛び立とうとしたとらの髪を掴み、背中に乗る真由子。 
「馬鹿!おめえが来たって役に立ちゃしねえよ!」 
「それでも!……それでも許せないもの!とらちゃんを苛めて……麻子にあんな事したのも、あの女の人なんでしょ!?」 
昨日の夕方、眠っている様に見えた真由子は、傍らで交わされる潮ととらの会話を聞いていた。 
その時から、自分も何かしたいと思っていたのだ。 
「聞いてたのかよ。だがな…降りろ!おめえはわし……」 
「『わしが喰うんだ。人間は死んぢまったら不味いんだぞ』でしょ?だったら、とらちゃんと離れて、家で待ってる方がすーっと危ないよ?」 
得意気に微笑み、ウィンクして見せる真由子。この娘は、事態の重さを解っているのだろうか。 
「ちっ!おめー、ずっりぃよなぁ。飛ばすからな。落ちて死ぬんじゃねーぞ!」 
「えへへ。とらちゃん、大好き!」 
とらは渋々真由子を背中に乗せ、雷雨の中に疾風の如く飛び出して行った。  
 
 
「潮君、差し入れ」 
「礼子さん、有難う」 
病院の廊下で、間崎と共に見舞いに来た、礼子から差し出された握り飯を美味そうに頬張る潮。 
昨夜から麻子は回復の兆しを見せ、呪詛が届く様子も無かったので、彼にとっては一息入れられる貴重な時間だった。 
「麻子の様子はどう?」 
「あぁ、元気も元気さ。来週には学校行けるんじゃねえかな。煩くなりそうだよ」 
「蒼月も素直じゃねえな」 
「ん?何?」 
「いや、何でも無えよ」 
「ふふっ…賢ちゃんだって人の事言えないんじゃない?」 
「う、煩えな!」 
そんな他愛無いをしていると、階段を上って来る影が在った。 
「間崎君、礼子さん、悪いがちょっと……潮、ちょっと良いか?」 
紫暮は間崎達から少し離れた場所へ潮を呼び出し、昨夜一晩懸けて調べ上げた書類を見せた。 
「御前の学校の生徒――倉本豪が先日亡くなったのは知ってるな?彼の死因を調べてみたんだが、原因不明の肺出血による、窒息死。 
昨日の麻子ちゃんも、肺からの出血だったな? 
そして昨夜、彼の通夜で突然祭壇が燃え上がる騒ぎが在り、7人の重傷者が出た。その名前をリストに纏めて見たんだが、 
奇妙な事に全員が彼のクラスの友人だったのだ。私には彼等の繋がり迄は把握出来なかったが、御前ならと思ってな。これを見て何か判らんか?」 
潮は渡された重傷者の名前リストに目を通す。 
 
阿南京子―13歳、みかど中学2年3組所属。 
飯尾千夏―14歳、みかど中学2年3組所属。 
片山隆―14歳、みかど中学2年3組所属。 
杉本茜―14歳、みかど中学2年3組所属。 
野田美智子―13歳、みかど中学2年3組所属。 
畠山耕太―14歳、みかど中学2年3組所属。 
町田葉月―14歳、みかど中学2年3組所属。 
 
その中の3人の名前は記憶に無かったが、他の4人は記憶に在る。 
特に、杉本茜に関してはは去年、自分が殴り飛ばした事を今も鮮明に覚えていた。 
「これってまさか……でも……それなら解らなくもない。親父、判った。行くぜ」 
麻子の病室へと戻り壁に立て掛けてある獣の槍を取る。すると、ベッドの上の麻子がその様子に気付いたのか、目を開ける。 
「潮、何処行くの?」 
「あ?あぁ、ちょっとな。すぐに戻って来るさ」 
「そう……気を付けてね」 
病室を出る潮の背中を見ながら、麻子は何故か解っていた。彼が、自分の為に何かしようとしている事を。 
そして、麻子は彼の身の安全を念じた。 
「潮が無事、帰って来ますように……」  
 
 
 血が止まらない。憧子の右腕には、大きな裂け傷が出来ていた。最初は力試しに麻子に式神をぶつけた。そしてそれは成功した。 
そして、次に真由子に生霊を使って呪念を運んだ。だが、何故か自分の勘の様な物が、彼女を攻撃する事を躊躇わせた。 
その為、彼女は後回しにして様子を窺うに止め、倉本豪を呪殺する事にした。この呪詛の成就は、憧子に自信を齎した。 
続けて麻子を更に苦しませるべく呪念を送り込んだが、ここで奇妙な術を使う妖の邪魔が入った。 
そして、それは次のターゲットの真由子の傍へと移動した様だった。 
そこで憧子は、先に麻子に止めを刺す事に決めたのだが、ここに来て、初めて呪詛が成就しなかった。 
どうやら彼女の周囲に、自分と同じく呪術を使う者が居る事を悟った。 
仕方が無いので、自分を苛めて来た数人の生徒を後で纏めて呪殺する為の準備として、彼等を残らず病院へ送り、 
そして先程、真由子の呪殺の前段階として、例の妖を排除すべく、生霊を送り込んだ。 
だが、その妖の知識と強さは、憧子の予測を遥かに上回っていた。 
あの妖は、今迄自分が呪詛返しに寄って来た為に排除して来た様な、低級な妖とは訳が違う。 
そしてどうやら、自分の位置を探られたらしい。麻子の成就を邪魔した者も、その内自分に気付くかも知れない。 
憧子は今、自分が置かれている状況に恐怖した。顎が旨く噛み合わない。冷や汗が止まらない。 
自分がして来た事は間違っていたのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎる。その時 
―ヤツラガニクイカ?― 
頭の中に低く、力強い声が響く。 
「えぇ、憎いわ、とても」 
憧子はこの声に聞き覚えが在った。 
「でも、私もここでお終いかも知れない」 
―オクスルナ。コンドハワレガチョクセツチカラヲカシテヤロウ。ヒツヨウトアラバヨベ。ソレガワレノソンザイリユウナノダカラ― 
それ切り頭の中の声は消えた。だが、憧子の顔付きは、先刻迄のそれとは明らかに違っていた。 
彼女は包帯を腕に巻き付けると、蝋燭を抱えて中庭へと出て行った。 
 
 
「待ちな!」 
病院の門を抜けた潮と紫暮はその声に振り向く。 
「何処行くか知らねーし、何事かも解らねーが、足が在った方が良いだろ?」 
そこには、バイクに跨る間崎とサイドカーに乗った礼子の姿が在った。 
「潮君、槍を持って緊張してる風だし、誤魔化しても駄目よ」 
礼子も潮と紫暮にバイクに乗る様促す。 
「駄目だって。二人に迷惑掛ける訳にはいかねえよ!」 
「だけど、付いて行くんなら勝手よね?」 
「う……だけどさ……」 
潮は礼子に簡単に言い包められてしまう。すると、その様子を見ていた紫暮は間崎の横へと歩いて行き、 
「成る程、確かに足は必要だし、君等の気持も嬉しい。だがな……」 
そこで言葉を切り、力の籠った目で、間崎を睨み付ける。 
「……う…あ…?」 
間崎はその瞳に魅入られ、思わすシートからずり落ちてしまった。 
「気持だけ受け取っておくよ。私も潮も、君達を巻き込む事は耐えられぬのでな。潮、乗れ!!間崎君、少し借りるぞ!」 
そう言って、紫暮は持ち主の離れたシートに跨り、エンジンを吹かす。礼子は状況を察し、サイドカーから降りた。 
走り出したバイクに追い付き、そこに乗り込む潮。 
「親父、運転なんて出来たのかよ!?」 
「なーに、これでも若い頃は、随分乗り回した物よ。……但し、少々荒っぽいがな。落ちるなよ!」 
間崎と礼子は只、走り去った二人の背中を見詰めていた。 
「ちっ……蒼月ィ、まだ借りは返し切ってねえぞ」  
 
 
「こっちで良いのか!?」 
紫暮はシートの上で錫杖を振るい、寄って来る低級な妖を払いながら尋ねる。 
その数は目的地に近付くにつれ、徐々に増えて行った。 
「あぁ!ここをずっと真っ直ぐ行って、地蔵が見える角を左に曲がると、デカい家が見える!」 
既にサイドカーの上の潮の髪には妖気が集まり、久し振りに力を発した獣の槍は妖達を薙ぎ払って行く。 
そんな中、潮は一つの疑問を抱えていた。彼女が今回の件の黒幕だとしたら、麻子や真由子迄標的にされたのは何故だろうか、 
もしかしたら、全く別の件なのでは無いか。だが、どちらにしても潮が彼女に用が在る事に間違いは無かった。 
目的地に更に近付くと、今度は次第に寄って来る妖も少なくなり、遂には全く居なくなった。 
紫暮と人の姿に戻った潮は巨大な門の前に立つ。 
その家は、この雷雲に包まれた暗い空の下でも、一際暗い空気を放っていた。 
 
 キィィ…… 
二人は門を開けて庭を抜け、家の中へと入る。家の扉に鍵はされていなかった。 
潮がここへ来るのは半年振り位だろうか。だが、家の中の空気は明らかに以前とは違っていた。 
暇を出されたのか、小間遣いの姿は一人も見当たらず、真っ暗な家の中は荒れ放題になっていた。 
ガッ 
何かにつまづいて、潮は足元を見る。 
「!?……うっ!!」 
4頭分の犬の頭。それがどす黒い血に染まり、床に放置されていた。 
「そんな……緋崎がやったのか?」 
内気で優しかった頃の彼女しか知らない潮には、今目の前に在る事実が信じられない。 
「惨い事を……。 
衆生は無邊也、誓って度わん事を願う。法門は無邊也、誓って學ばん事を願う。菩堤は無邊也、誓って………」 
紫暮は犬の生首に向かって手を合わせ、念仏を唱えると更に奥へと進んだ。 
 
「これは……!?」 
憧子が居るものだと思いドアを開けた彼女の部屋に彼女の姿は無く、 
代わりにおぞましい光景が潮の目に飛び込んで来た。 
吐き気を催す腐敗臭。何かの実験室の様な薬品類やビーカー、シャーレ、試験管。 
シャーレの中で培養されている、得体の知れぬ細胞塊。首の無い3頭の犬の死体。 
床に散らばった大量の麻子や真由子、豪の写真。 
彼女がここで呪術を行っていた事は明らかだった。 
「嘘だろ、緋崎?御前がこんな事するなんて……」 
ここ迄来ても、潮は信じたくなかった。 
去年、自分と親しくなってからは、性格も明るくなり、良く笑う様になった彼女がこんな事をしていると考えるのは、耐えられなかった。 
ふと、彼女の机の上の唯一散らかっていない一角に大事そうに写真立てに入れられている写真を手に取る。 
そこには今年の春休み、潮が横尾、厚池等と共に彼女と遊園地に行った時の写真が飾ってあった。 
写真の中の遊園地のベンチで潮の隣に座る彼女は、カメラに向かって優しい笑みを返していた。 
「!!」 
その時。法力の気配に気付き、紫暮の表情が緊張した面持ちになる。 
「潮!中庭だ!あ奴はそこで法力を使っている!」  
 
 中庭の泉の脇に在る、屋根の下で三角形に並べられたベンチ。 
その三つの角に大きな蝋燭を立て、その中に首の無い犬の死体を放り込んで周囲を小さな蝋燭で囲む。 
そして、彼女が印を組み、真言を唱えようとした時だった。 
「緋崎!」 
ハッとして振り向くと、そこには雨に濡れる事も厭わず、息を切らせて立っている潮の姿。 
「あ、蒼月君?」 
潮にだけは、自分がこんな事をしている処を見られたくなかった。 
それは、間違った事をしているのかも知れないと言う自覚――彼女に残された最後の良心なのかも知れなかった。 
「喝!!」 
憧子が潮に気を取られている隙に背後に忍び寄った紫暮が、ベンチに供えられた蝋燭の火を残らず消し去る。 
「ここ迄だな。もう終りにしたらどうかね?」 
憧子が気が付いた時には、彼女は中庭の中央で二人に挟まれ、どうにも逃げ出せない状況に置かれていた。  
 
「緋崎、本当に御前がやったのか?」 
「何を」とは敢えて訊かない。潮はまだ、彼女の事を信じていたかった。 
「蒼月君……全部、知っちゃったんだ」 
「本当に…本当に御前なのかよぉ!?」 
目を伏せ、罰が悪そうに答える憧子に、潮は今にも泣き出しそうな顔で再度問い掛ける。 
「そうよ。だって、あいつ等は殺されても仕方無かったんだもの」 
紫暮は二人の遣り取りを静観している。この娘の力の大きさは充分過ぎる程に判っている。 
そして、その力に比して経験は未熟だと言う事も。今、彼女を怒らせ、力を暴走させるのは得策では無かった。 
「蒼月君、前に私に言ったよね?『苛められっ放しじゃ駄目だろ。自分で闘わなきゃ』って。 
だから、私は闘ったんだよ。自分の力で。なのに、褒めてくれないの?」 
先程迄は潮に向けて悪戯の見付かった子ども顔をしていた憧子の表情が徐々に笑顔に変わって行く。 
「私、やったよね?だってあいつ等、蒼月君に話せない位酷い事、私にしたんだよ?」 
狂気。潮はその気配に戦慄した。彼女は明らかに狂っていた。 
「だからね、これから自分の力で欲しいものを掴むの」 
その場で動けなくなった潮の前で、憧子は真言を唱え始める。 
「オン シチュリキ キャラロハ ウンケン ソワカ……!」 
カッ!ズシン!! 
彼女と潮の間に大きな稲妻が落ち、その硝煙が薄くなるにつれ、中から三対の腕、脚と三つの鬼神の如き顔を持つ巨人が姿を現す。 
三階建ての屋敷の屋根に頭が達する程の巨人の足元に立ち、憧子は潮ににっこりと微笑みかけた。 
「この力を使ってね。ここで止める訳にはいかないの」 
 
「召喚!?大威徳明王をか!!」 
事態の急変に潮の傍らへ飛び、その巨人の姿を確認した紫暮が驚愕の声を上げる。 
紫暮は信じられなかった。召喚は神仏の力を行使する方法の中でも、直接それを使役する、最も高度な技術だ。 
それをこの14歳の少女が到底使いこなせるとは思っていなかった。だが、それと同時に己の不利も悟っていた。 
明王である大威徳明王には、仏の力を借りる法力は通じないし、仏僧である自分が歯向かう訳にもいかない。 
潮も、その姿に何時もの妖とは桁違いの妖気を感じ、全身に鳥肌が立つのを覚える。 
…と、明王はゆっくりと歩を進め、二人の頭上を乗り越えて行こうとする。 
「緋崎!?御前何を!?」 
「もう、まどろっこしいのも飽きちゃった。だから、手始めに杉本達を……その次は中村さんと井上さんかなぁ?あ、後あの黄色い妖もね」 
クスクスと楽しそうに笑う憧子。その言葉で、先程迄呆気に取られて何も考えられなかった潮の怒りは頂点に達した。 
「……てめえ、マジかよ……だったら俺はもう容赦しねえぞ!!!!」 
キィィィィィィィィ…… 
潮の手に握られた槍がその呼び掛けに応えて鳴く。明王に潮への敵意は無いにも関わらず、槍は潮の怒りに応えている。 
自分では為す術の無かった紫暮はその奇跡に賭けた。 
「緋崎ィィィッ!!」 
ドンッ! 
と力強く地面を蹴り、漆黒の髪を靡かせて明王を操っている憧子へと飛び掛る。 
潮は槍の柄を先にして握っていたが、その先端が憧子に届こうとした瞬間―― 
ギャカ! 
彼女の先端が黒く光り、潮はそこから発せられた一対の黒い呪縛に挟まれてしまう。 
「が……あ…」 
「蒼月君、お話は全部が終わった後にしようね」 
指一本動かせず、空中で静止する潮。だが、彼の目は諦めておらず、槍もまた、それに応じて鳴き続けている。 
紫暮は今度こそどうしようもないと悟り、その場にがっくりと膝を着く。明王が彼を越えて行こうとした時、 
カッ! 
思わず目が眩む様な稲光が起こり、視力が戻った時、憧子は信じられない状況を目の当たりにした。 
明王が倒れ、崩れた屋敷の外壁の中に埋まっている。 
「女ァ!まどろっこしいのが嫌だって?違え無えな。そいつぁわしも同意だぜ」 
そして、彼が元居た場所に浮かんでいたのは、少女を背に乗せ、禍々しい程の怒りの表情を浮かべた金色の獣だった。  
 
「とっ…とらぁ!」 
憧子が驚きの余り解いてしまった呪縛から放たれた潮が驚きと安堵の歓声を上げる。 
だが、真由子を背から降ろしたとらは彼には目もくれず、一直線に憧子の方へと飛び掛った。 
そして、 
「はっはっは!女ァ!ちぃとわし相手に調子に乗り過ぎたなぁ!どれ……生きた侭ゆっくりと喰らってやるとするかよ」 
憧子の顔を右手で掴み、宙に持ち上げると、高らかと言い放つ。憧子は恐怖の余り抵抗も出来ず、只脅えるばかりだ。 
そして、彼の左手が彼女の肩に掛かろうとした時―― 
ぷすぅ 
「いだだだだだ!!潮ォ!何しやがんでえ!」 
「おめえは人を喰うなって何度言や分かるんだ!?」 
見ると、とらの尻に獣の槍が突き刺さっている。呆気に取られ、間の抜けた表情でその遣り取りを見詰める憧子、真由子、紫暮。 
「そんなのわしの勝手だろぉ!!大体この女はだなぁ……」 
「どんな事情が在っても駄目なもんは駄目っつったろ!緋崎を放せよ!」 
「おめえこそ、この糞忌々しい槍を抜きやがれ!大体、どっちの味方だよ?わしゃ、助けてやったんだぜ?」 
「おめえの助けなんか要らねえな!阿呆妖怪!」 
「そうかよ?大『ぴんち』とやらに見えたがな、チビ槍人間」 
<雄雄雄雄雄!!> 
そんな非生産的な会話をしている二人を起き上がり、憧子のコントロールを離れた明王の六つの拳が襲う。 
だが、二人は全く動じずにそれをかわし、潮は憧子を放り投げたとらの背中に乗る。 
「何にしても、取り敢えずはあいつだ!行くぜとらぁ!」 
「指図してんじゃねえ、潮!」 
 
 明王の頭上で構え、対峙する潮ととら。 
「あー……何つったっけなぁ?こいつ、どっかで見た覚えが在んだよ」 
闘いの緊張感も無く、ボリボリと頭を掻き、記憶を辿るとら。彼は、この明王に見覚えが在った。 
「知ってるのかよ、とら?」 
「あぁ、思い出した。ヤマーンタカだ。名前以外は思い出せねえがな」 
それは、とらがシャガクシャとしてインドの小国に住んでいた頃の事。 
大威徳明王こと、ヤマーンタカはその国の戦の守り神だった。 
その利益は覿面で、その国は戦に負ける事が無く、徐々に領土を拡大していった。 
だが、ある時ヤマーンタカは更なる力を欲し、その国を離れて仏門に下ってしまう。 
そして、その夜、一夜にして敵の軍勢に国を滅ぼされてしまったシャガクシャは、自らが生んだ憎悪の塊、白面の者を倒す為、旅に出た。 
旅の途中、中国に辿り着いたシャガクシャは、寺院で信じられない物を見た。 
そこには、大威徳明王として、ヤマーンタカの姿が祀られていたのだ。 
「なーんかこいつにゃ恨みが在った様な気がすんだよな。ま、良いや。忘れといてやるぜ」 
<どうした、若く未熟な妖よ?先程の拳はこけおどしか?来ぬのなら、我から行くぞ!> 
とらの体程も在る、大きな拳が襲い掛かる。挑発に乗せられたとらも拳を突き出し、 
「んだと糞爺い!オオオオッ!!……!?」 
両者の拳がぶつかる。だが、今度は弾き飛ばされたのはとらの方だった。 
ガシャァッ!! 
屋敷の2階の窓に突っ込み、背中の潮は廊下に倒れ込む。 
「ちぃっ!わしに力比べで勝つたぁな……面白えじゃねえか」 
「大丈夫かよ、とらぁ!?」 
「何だったか忘れちまったが……因縁でよ、こいつとはわしがやろうかな。おめえはすっこんでな!」 
「お、おい、待てよ!とらァッ!!」 
潮に起き上がる暇を与えず、とらは窓から飛び出して行った。 
 
<未熟な妖よ、思ったよりは頑丈な様だな。我を楽しませてくれそうだ> 
戦を司る大威徳明王は、目の前の黄金の妖との闘いが楽しくて仕方無かった。 
「へっ!おめえこそ、簡単にくたばんじゃねえぞ!」 
そしてとらも、新しい玩具を手に入れた子どもの様に嬉々とした表情を浮かべ、明王に向かって行った。 
「ウオォォォォォォォ!!」 
稲妻を纏い、雄叫びを上げながら飛び掛る。だが、その手には血で文字が描かれたガラスが握られていた。 
「十五雷正法!四爆!」 
<うっ!……むう!> 
そのガラスを一直線に放り投げると、連鎖爆発が起こり、明王にはその中を向かって来るとらの姿が見えない。 
どんな力にも屈さず、幾多の闘いを潜り抜けて来たとらの経験は、 
一度力で負けた相手に正面から向かう様な愚かしい真似はさせない。 
「おめえみてえなのを何て言うか知ってるか?力馬鹿ってんだよ!」 
ボン!! 
明王の顔の前に辿り着いたとらの口から特大の火球が吐き出される。三つの顔を焼かれ、膝を着く明王。 
<おぉぉぉ……何故我がこんな若造に……?> 
「力に屈した小者にゃ解んねえよ!」 
とらは両手を振り翳し、雷雲から特大の稲妻を呼び寄せ、その両手を振り下ろす。 
ズズン!! 
「オラ!爺い!もう息が切れたのかよ!?」 
とらは、稲妻に身を焼かれ、完全に圧倒されている明王に向かって行った。  
 
 とらが明王と闘っている最中、中庭ではもう一つの闘いが行われていた。 
 阿謨伽 尾盧左曩 摩賀母捺羅 摩尼  納摩 入縛羅 羅襪多野 吽!」 
「オン シチュリ キャラロハ ウンケン ソワカ………」 
「お、おじさん……貴女ももう止めて!!麻子に何かしたら、私許さないからね!!」 
泣き叫ぶ真由子を庇う様に立つ紫暮と、その真由子を狙う憧子の間に凄まじい空気のぶつかり合いが生じる。 
大威徳明王の復活で気力を取り戻した憧子は、現場にやって来た最終標的の一人である真由子を直接呪殺しようとしていた。 
紫暮は彼女を止めようとしたが、彼女の呪詛を防ぐのに精一杯で、それも次第に押され始めていた。 
「くっ!これ迄か……」 
背後ではとらが大威徳明王と闘っている為、真由子を逃がす事も出来ない 
――尤も、呪詛に距離など関係無い為、逃げた処で何も変わりはしないのだが。 
紫暮が諦め掛けたぞの時、 
「緋崎!!」 
憧子の背後の窓から飛び出した潮が憧子を押し倒した。潮は悲痛な声で組み伏せた彼女に呼び掛ける。 
「もう止めてくれよ!俺、耐えられねえよ!!」 
潮の下から状況を覗くと、明王は劣勢で今にもとらにやられてしまいそうだ。 
既に彼女は冷静な判断が出来なくなっていたが、、せめて真由子だけでもと思い、召喚を中断して、呪詛に法力を集中させた。 
とらが止めを刺そうとしていた大威徳明王の姿が消える。 
「もう……遅いよ。私の真言は完成しているんだから……」 
黒い光で潮を弾き飛ばし、立ち上がった彼女は、両手を真由子に向けると、最後の呪詛を放った。 
「しまった!!」 
紫暮が慌てて印を組もうとするが、間に合わない。 
「成就……」 
憧子が勝ち誇った様に微笑む。次の瞬間。 
「けほっ!けほっ!」 
何と、真由子は軽く咳き込んだだけだった。そして―― 
ギャン!! 
真由子の体から凄まじい速さで黒い光が跳ね返り、憧子へと向かう。その光を浴びて、憧子の意識は遠のいた。 
全ての呪詛には「呪詛返しは、術者と被術者の霊的な縁の距離に反比例する」と言う共通の大原則が在った。 
その場の誰もがその事に気付く由も無かったが、憧子や真由子の嫌な予感とはこの事だったのだ。 
 
 
「緋崎!緋崎!!」 
雨が体を叩く感覚が在る。自分を呼ぶ声がする。憧子は、どうやら自分はまだ生きていると認識した。 
手足に力が入らない。薄らと目を開けると、心配そうに覗き込んでいる潮の顔が在った。 
「蒼月君……」 
まだ中庭に倒れ込んで、それ程時間は経っていないらしく、雨はまだ激しく降り続けていた。 
「気が付いたか……良かった!」 
「心配してくれるの?」 
手足はまだ動かないが、徐々に意識がはっきりとして来る。 
「井上さん、御免なさい。私……」 
「ねえ、何でこんな事したの!?貴女だって、悪い事だって解ってたんでしょ!?」 
涙目で自分そっくりな顔を覗きこむ真由子。 
「そう…ね。私、蒼月君が好きだったの。蒼月君、こんな形でしか、気持伝えられなくて残念だけど……大好きだよ」 
「馬鹿野郎!だからってこんな事する奴、好きになれる筈無えだろォ! 
苛めた奴等にしたって、こんな仕返ししなきゃならなかったのかよ!?」 
潮は自分に向けられた想いに初めて気付き、それをどう処理して良いか判らずに、自分の心情をぶち撒ける。 
「御免なさい。もっと早くに言っておけば良かった……」 
ガクン! 
「がっ!ゴボッ!!」 
言葉を言い終わらぬ内に、憧子の体が大きく揺れ、口から大量の血を流す。 
別次元に還された大威徳明王が力を取り戻し、呪詛返しの力を行使し始めたのだ。 
「私、救急車呼んで来る!」 
その場から立ち上がり、屋敷の中へと駆け出す真由子。 
とらは、騒いでいる潮と紫暮を尻目に、憧子の顔を覗き込むとこう言った。 
「あのな、人間。良い事教えてやらぁ。乗りてえ風に乗り遅れた奴ァ、間抜けってんだ。 
おめえはもう、乗り遅れたのかよ?」 
それを聞いた憧子の目には雨に混じって涙が光っていた。  
 
 
「親父、緋崎はどうなるんだ?」 
「人を呪い殺してはいけないと言う法律は無いから、当然裁く事は出来ん。 
だが、彼女も自分のした事は解ってるだろうよ」 
救急病院の手術室の前のベンチに座る、潮と紫暮。 
紫暮は宗派間の確執を避け、今回の事件を本山に報告しなかった為、 
この件が光覇明宗の記録に残る事は無かった。 
「そっか…助かると良いな」 
「体もだが、心もな。御前は先程、彼女のした事を責めたが、それは怨みを抱いた事の無い者の戯言だ。 
怨みを抱き、復讐にしか生きられぬ者を御前も見て来ただろう? 
彼女の体が回復したら、次は御前が心を治してやる番だ」 
潮は獣の槍を見詰めギリョウやの事を思い出していた。 
彼等は一生を捨てても構わない程の怨みを抱き、それに命を賭けている。 
は今日も何処かで、妻子を殺した妖を追っているのだろうし、 
ギリョウは今、こうして潮が握っている槍の中で、白面が滅ぶ日を待っている。 
もしかしたら、獣の槍になる為に炉に飛び込んだ決眉ですら、穏やかでは在るものの、 
内には激しい怨みを秘めていたのかも知れない。だが、それでも潮には納得出来なかった。 
 
 
 夕刻、病院の屋上。空は晴れ上がり、秋特有の美しい色合いを見せていた。 
「なぁ、とら……」 
「何だよ?」 
潮はフェンスに凭れ掛かり、屋上の水道タンクを興味深げに観察しているとらに声を掛けた。 
「俺は緋崎にあんな事言っちまったけど、人から好かれるって、嫌な気持ちしねえよな?」 
「あ?わしが知るかよ、馬鹿もん」 
「言うと思ったぜ……」 
沈み掛けた真っ赤な太陽は潮の顔を優しく照らし出していた。 
 
 あれから一週間、潮は気拙さから、麻子と憧子の入院している病院へ見舞いに行く事が出来なかった。 
そして、日曜日の朝。 
「蒼月君……」 
「…ん……?」 
不思議な声に呼ばれ、目を開ける潮。 
そこには、輝く朝日の中、優しい笑みを湛えた美しい少女が立っていた。 
「あ…緋崎」 
潮が彼女の名前を呼ぶと、その姿は朝日の中に霧の様に消えて行った。 
「あれ?何だったんだ?」 
起き上がった潮が見た物は、枕元にそっと置かれた可愛らしい便箋。 
 
 
[Dear蒼月君 
 
 私はあの後二日して意識を取り戻し、見舞いに来た両親に転校する様言われました。 
今回、私がした事を考えれば、妥当な措置と言えるでしょう。 
今では、あの時私がした事は許される事では無いと思っています。 
死んでしまった倉本君への償いとして、自殺も考えましたが、それは安易な逃げだと思い直し、 
別な償いの方法を探しているところです。 
 私がこんな考えを持つに至ったのは、中村麻子さんの御陰です。 
隣の病室の彼女に、今回の件をすっかり――蒼月君に話してないところまで――話すと、 
彼女は怒るどころかあっさりと許してくれ、それからは毎日、動けない私の病室を訪ねて来てくれます。 
もう、彼女の優しさに感激する毎日です。こんな人を憎んでいた自分が嫌になりましたが、彼女にそれを話すと、 
「間違いなんてみんなするから気にしちゃ駄目。その後どうするかが大事」と励ましてくれます。 
彼女に私の蒼月君への想いを話すと、それから彼女は毎日の用に、 
「あんな奴の何処が良いの?」とからかいつつも、その度彼女と蒼月君の惚気話を聞かせるので、 
少し妬いています。長くなりましたが、麻子さんも私も待っています。是非、病院へ遊びに来て下さい。 
 
P.S.I like you. 
何時か私が自分のした事を償えたと思った時、改めて蒼月君に私の想いを伝えます。 
私は転校してしまうけど、私はそこでもう一度やり直すので、忘れないで下さいね] 
 
「とらー!病院迄乗せてってくれよー!!」 
「あぁ?わしゃタクシーじゃねーぞ!」 
空は何処迄も高く高く澄み渡っていた。  
 

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