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 その日は前日の夜中から雨を降り続かせる、嫌な雨雲が空を覆っていた。 
「うしおー!!学校遅れるよー!!」 
玄関から良く通る大きな声が響く。こんな日でも、麻子は雨雲すら吹き飛ばさんばかりのテンションだ。 
「へいへい、今行くよ」 
槍を布に包み終え、潮は階段をノソノソと降りて来る。こちらのテンションは雨雲にばっちり取り憑かれ、 
お世辞にも絶好調とは言えない。 
「もう!朝からそんな調子でどうするの!?今日、6時限目迄在るんだからね」 
麻子は、夏休みを終えてから1箇月も連続して休んでいた潮の出席日数が心配で堪らなかった。 
実際には中学校は義務教育である為、出席日数など足りなくても、大抵は担任が何等かの理由を付けて進級させるのだが、 
麻子はそんな大人の事情を知らない。 
「今日はわしも付いて行こうかな」 
「珍しい事も在るもんだな、とらー」 
「今日はとら君の大好きな歴史の授業が在るもんね」 
そんな他愛の無い会話をしながら、芙玄院の門を抜けると、向こうから真由子が右手を大きく振りながら駆け寄って来た。 
「麻子、潮君、とらちゃん、おっはよー!」 
井上真由子。中村麻子と同じく、幼い頃から潮と親しく付き合い、先日は彼女と共に獣と化した潮を救った少女である。 
「えへへ。寝坊しちゃった」 
「来ないと思ったら……明日から真由子も起こしに行ってあげようか?」 
潮が再び学校に通うようになってから、彼が一日足りとも休んだりしない様、 
毎朝家迄迎えに行くのが、ここの処の彼女等の日課だった。 
空には、相変わらず晩秋に似合わぬ雲が立ち込めていた。  
 
 通学路を、降り続く雨の中、顔を俯かせながら登校する生徒達。 
雨の日は気が滅入るとは言え、この雨には何か特別な力が在るのかも知れなかった。 
その中に在って、明るく会話を交わしている麻子、潮、真由子、とらのグループは奇異に映った。 
「昨日の怪談特集見た?あれ、作り話なのが見え見えだったよねー」 
と麻子。 
「えー?私なんて、怖くて眠れなかったよー」 
真由子はその内容を思い出したのか、涙目になる。どうやら寝坊の原因はそれらしい。 
「おめー、散々怖え目に遭って来て、まだあんなのが怖えのかよ?」 
ふわりと潮の肩から、真由子に飛び移るとら。現代に解き放たれた彼はすっかりTVっ子で、暇さえ在れば常にTVに齧り付いているのだ。 
当然、昨日のその番組も見逃す筈は無い。昨夜は絵の創作に勤しんでおり、それを見ていなかった潮は、独り会話に参加出来ずに不機嫌だ。 
「一体何だってのよ、おめーら?ちぇっ…俺を退けもんにすんじゃねえよ」 
「あっ。ごめーん」 
こう言った事には気の利く真由子が、その内容を掻い摘んで説明する。 
それは、社会に見放され、男に見捨てられた女が、世間を呪いながら野垂れ死に、 
その後彼女に関係していた人間が次々と不可解な不幸に見舞われる、と言った、有り触れたパターンの話だった。 
「何でえ、馬鹿馬鹿しい!んな事在る訳ねえじゃんか」 
折角真由子が怖いのを我慢して説明したのに、潮は一笑に付してしまう。それを聞いたとらは、 
「おめーもこいつも馬鹿だなー。長い事生きて来たわしに言わせりゃ、そう眉唾な話でも無いんだぜ」 
と講釈を垂れ始める。 
「世界中に呪いってもんが無い文化はねえだろ。人の呪いってのは厄介だぜ。出来ればわしも関わりたかねーな」 
とらの言葉にうんうんと頷き、不安げな表情を見せる真由子。元来怖がりな彼女は先日、鏡魔の呪いを目の当たりにしたばかりなので、 
その怖がり方は尋常では無かった。そしてそれは、彼女の特異な能力でこれから起こる事を察知していたのかも知れなかった。  
 
「…と言う事で、これより仏教の世界では大乗仏教と呼ばれる物が主流になる。ここ迄良いか?」 
と社会科教師の石崎は黒板に『大乗仏教』と書き、生徒を見渡した。 
「こらっ!蒼月、寝るな!」 
潮にとっては退屈な時間。こうして眠ってでもいなければやっていられない。 
とらはと言うと、熱心に石崎の話を聞き漏らさぬ様、意識を集中している。 
潮が寝ている事に気付いたとらは、 
「おめー、面白いのに、寝てたら勿体ねーぞ」 
と小声で囁いて、潮を小突く。 
「るせーな、御前には面白くても、俺にはつまんねーの」 
「では、今迄勉強して来た宗派を復習するぞ。……空海の真言宗。これなんかは、密教と呼ばれる、典型的な小乗仏教だ。 
要するに自分の為に修行すると言う訳だな。密教と言うのは真言と呼ばれる一種の……」 
石崎の解説を右から左に聞き流しながら、潮は窓の外の陰鬱な景色に目をやった。雨雲は晴れる処か、一層その濃さを増している様に思えた。 
 
 夕闇に血の様な紅色に染まる雨雲。ようやく雨は止んだ物の、空は晴れ渡る事は無かった。 
美術部の活動を終えた潮はそんな空の下、陸上部の部室へと向かった。 
とらはと言えば、歴史の授業が終わるや否や、学校を後にし、家へと帰って行った。何でも気になるTV番組が在るらしい。 
何時もの事だが、妖は気楽な物だ。 
「よっ!もう練習終わったのか?」 
着替えを終えて出て来た麻子に声を掛ける。 
「グラウンドがベチョベチョだったから、今日は体育館で筋トレしただけだったしね。で、何の用?」 
「いや、別に。俺も今部活終わったし、暗いから送ってってやろーかと」 
潮のその何気無い一言に、麻子はボッと顔を赤らめる。だが、沈みかけた夕日の光に同化して、それが潮に悟られる事は無かった。 
「とか言って、私と一緒に帰りたいだけなんじゃないの?仕方無い、一緒に帰ってあげますか」 
嬉しくて堪らない癖に、どうしても照れ隠しに思ってもいない事を口にしてしまう。 
だが、口ではそうは言っても、その表情は嬉しさを隠し切れないでいた。 
潮は、夕日に染まるそんな麻子の顔がこの上無く麗しく思えた。  
 
「もうちょっと待っててね。もうすぐ出来るから」 
エプロン姿でうきうきと鍋を繰っているのは真由子。その傍らに立つとらは、腹を押さえて呻いている。 
「おめ、何度失敗してんだよ。さっきから食いもんの匂いばっかで、わしゃ生殺しの状態なんだぞ」 
お気に入りの番組を見終え、潮も帰って来ないし、特に目ぼしい番組も見付からなかったとらは、 
暇潰しと空腹を満たす為に井上宅にお邪魔していた。 
「ごめーん、何だか今日、調子悪いみたい。今度麻子にちゃんと習っとくよ………!?」 
ふと、真由子が何かに気付いた様に鍋を持つ手を止める。 
「ほう、散々妖に関わった所為か、大分勘が鋭くなって来たじゃねえか」 
「とらちゃん、何だろ?物凄く嫌な感じがする」 
Rururururu! 
その時、居間の電話が突然鳴り始めた。 
 
 それは、みかど市の大通り、麻子の家である、青鳥軒の在る通りに潮と麻子の二人が差し掛かった時の事だった。 
「じゃ、私はここで。明日も迎えに行くから、寝坊しないようにね」 
そう言って、傍らを歩いていた麻子が潮の目の前に立った時―― 
バン! 
つい一瞬前迄、潮の前で微笑んでいた麻子が目の前を舞う。潮は何が起こったのか、瞬時に理解出来なかった。 
見ると、真っ赤な乗用車が麻子の立っていた先に在る薬局に突っ込んでいる。麻子はそれに吹き飛ばされたのだった。 
「麻子!麻子!!大丈夫か!?」 
何処からか血を流し、気を失ってはいるが、息はしている。取り敢えずは無事な様だった。 
通り中の人々に騒ぎが広がり、皆何事かと近寄って来た。潮は麻子をその中の一人に任せ、乗用車の方へと向かう。 
車内には人影は見当たらなかった。ふと、礼子の父親の事を思い出す。あの時も無人のトラックが自分に襲い掛かって来たのだ。 
だが、獣の槍は沈黙を保っていた。やがて、知らせを聞いた米次と麻沙子がやって来た。 
集まった人々は無人の乗用車と言う不気味な存在に例外無く落ち着きを無くし、混乱していた――只一人を除いては。 
そして、潮がやって来た救急車に麻子と共に乗り込もうとした時、彼の耳に声が聞こえて来た。 
「そのまま死んでしまえ……」 
その声は低く、くぐもっていたが、喧騒の中でもはっきりと潮の耳に届いた。  
 
 
 救急病院に搬送され、手当てを受けた麻子は、ベッドに寝かされていた。幸い、左腕の骨折と軽い鞭打ち程度で済み、 
命に別状は無いとの事だった。いまだ目を開けない麻子を心配そうに見詰める米次と潮。 
「おじさん!麻子は!?」 
先の潮からの電話で麻子の事態を知った真由子が、息を切らせながら病室に駆け込んで来る。 
その肩には興味津々な様子で麻子を覗き込むとらの姿。 
「あぁ、真由子ちゃんかい。わざわざ悪いね。大丈夫さ。こいつは俺の娘だぜ」 
米次はそう言って、腕に力瘤を作ってみせる。とは言え、目に入れても痛くない愛娘が事故に遭ったのだ。 
その心配のしようは、隠し様が無かった。その時、麻子が目を開けた。 
「あ……お父さん、真由子、潮。、私、確か……」 
「麻子!私……私……」 
「中村!気が付いたか。いきなり車に撥ねられちまうんだからよ。驚いたぜ」 
「何でも撥ねた野郎は車を乗り捨てて、逃げちまったらしいが、その内捕まるさ。ま、ゆっくり寝てな」 
麻子を見守っていた面々は口々に麻子に声を掛ける。これで一安心と言った処だ。 
潮はあの車に誰も乗っていなかった事を、米次に話していなかった――信じて貰える訳も無いし、万一巻き込んでは事だからだ。 
潮は父、紫暮に相談しようと思って電話したのだが、頻繁に家を空ける彼がそう簡単に掴まる訳も無く、 
明日以降にしか戻らないとの事だった。そんな事を考え、麻子の方を向くと、そこに居るのは明らかに何時もの彼女では無かった。 
何かに脅えた様な目をし、歯を鳴らしている。 
「どうした、中村?」 
「違う…私、車に撥ねられたんじゃ無いわ。私見たもの……何か、おぞましい獣と、それに乗った白い服を着た女の人。 
ねえ!私それにやられたのよ!」 
「何言ってんだ?俺ぁちゃんと御前を撥ねた車も見たし、潮ちゃんも含めて現場を見た奴は皆、御前が車に撥ねられたっつってるぜ。」 
麻子の様子に驚いた米次が横から口を挟み、彼女に寝る様促す。麻子の表情は怪我の所為も在ってか、異常に憔悴している様に思えた。 
潮の頭の中で、ぐるぐると思考が渦まく。彼女は、自分に見えない物を見、それにやられたと言っているのだ。 
自分に見えなくて、麻子に見える妖が存在すると言うのだろうか。潮にはそれが信じられなかった。  
 
 「潮ちゃんも真由子ちゃんも、明日学校在るだろ?今日はもう帰って寝な。俺は母ちゃんが交代で来る迄、麻子看とくからよ。 
今日は有難な。麻子も、こんな良い友達持って幸せだろうよ」 
午後8時過ぎ。再び眠りに落ちた麻子に布団を掛けながら、米次は二人に帰る様促した。二人の気遣いは父親として本当に嬉しかったが、 
それで迷惑を掛ける事だけは堪えられなかった。 
「潮ちゃん、真由子ちゃんを送ってってやんな」 
「あ……うん」 
潮は悔しくてならなかった。麻子は自分が付いていながら、こんな目に遭ったのだ――送って行ってやる、と迄言ったにも関わらず。 
悔し涙を堪えながら帰り支度を済ませ、真由子ととらと共に病室を出ようとすると、 
「待って!!」 
振り返ると、麻子が目を開け、上半身を起こして、こちらに縋る様な目を向けている。 
「お願い。怖いの。そこ迄来てる……」 
麻子は言い終わらぬ内に気を失い、ベッドに倒れ込んだ。 
「麻子の奴、疲れてたんだろ。気にしないでやっとくれ。悪いな、潮ちゃん。今日は有難よ」 
そう言って、二人を見送り、米次は病室へ戻った。 
 
 潮、真由子、とらの三人は一言も交わさず夜道を歩き続けた。 
「じゃ、私はここで。明日も麻子お見舞いに行こうね」 
「あぁ、お休み」 
「お休みー!明日からは私一人だけど、麻子の分迄潮君起こすから、覚悟しといてよー」 
井上宅の手前の通りで潮と別れ、真由子は独り、自宅へ向かって歩き始めた。 
何だか今日は妙に疲れる。麻子の件も在ってかも知れないが、それ以前 
――思い返せば昨夜からずっと、何かに力を消費し続けている感じを覚えていた。 
ピィィィィーンン…… 
曲がり角を曲がった瞬間、耳の奥で何やら奇妙な音が鳴った様な気がする。 
周囲に気を配ると、8時過ぎの住宅街だと言うのに、聞こえるのは自分の足音と生温い風の音だけ。 
ふと、後ろから誰かに付けられている気がする――潮では無い。人かどうかも判らない。 
人外の者だとしても、とらでも無い。何故だか解らないが、『それ』は明らかに自分に悪意を抱いているのが判った。 
そして、真由子の防衛本能は、自分が『それ』に気付いている事を『それ』に悟られてはいけないと叫ぶ。 
真由子は努めて平静を装い、しかし、足早に自宅へ向かった。  
 
 ガチャ……バタン! 
両親は旅行に出掛け、大学生の兄は都会で独り暮らしをしていて居ない。独りには慣れている真由子だったが、 
今日はそれが無性に怖かった。玄関を開けると、急いで扉を閉め、鍵を掛けて一息吐く。 
全身にグッショリと嫌な汗を掻いている。心臓も鼓動が体を揺らす程に激しく脈打ち、息も上がっている。 
真由子はそこで気が付いた。『それ』は自分を先回りして、家の中迄入り込んで来ている事を……。 
彼女には、何故か『それ』が玄関を入って左側の台所に居るのが判った――勝手口から自分を追って入り込んだのだろう。 
「ひ……」 
声を上げまいとしても、どうしても息が漏れ、歯が鳴ってしまう。 
もう、向こうには自分が気付いている事を悟られているのかも知れない。 
目からは涙が零れる。それが床に落ちると同時に、真由子は自分の部屋に向かう階段を駆け上がった。 
 
 「なぁ、とら、おめー病院で一言も喋んなかったけど、どうしたってんだ?」 
芙玄院へ向かう真っ暗な坂を歩きながら、潮はとらに問う。麻子を見てからの彼は、明らかに様子が変だった。 
妖絡みの事件なら事件で、その相手との闘いを楽しむかの様な嬉々とした表情を見せると言うのに、 
今日は全くの無表情で沈黙を保っている。潮にはそれが気になって仕方が無かった。 
「今回、わしゃ手伝わねえぞ」 
「あ?何の話だ?何時もの台詞か?」 
「……と言うより、手伝えねえんだよ」 
そのまま二人は芙玄院の門をくぐり、玄関の戸を開ける。 
「どう言う事だよ、そりゃ?」 
靴を脱ぎながら、不可思議そうな顔をして問う潮。だが、とらも自分の言った事に自信が無いのか、 
それに答える様子は無かった。  
 
 
 ガチャガチャ! 
井上真由子は焦っていた。自室のドアの前迄辿り着いたのに、手が震えて、焦れば焦る程ノブが回せない。 
『それ』は先程から真由子が二階に上がったのを気付いている様で、ゆっくりと階段に近付いて来ていた。 
ドアノブを回し、手前に引くと言う、何時もならば一秒と懸らない動作。真由子は近付いて来る気配に脅える。 
ぎしっ…ぎしっ… 
一段一段階段を踏み締める音が近付いて来る。 
先程迄は第六感と言うか勘の様なものでしか『それ』の存在を感じていなかった真由子の恐怖は、 
そのあやふやな存在をはっきりと認識した事で限界に達していた。 
追いつかれたら殺されるに違い無い。そんな思考が真由子の脚から力を奪う。 
「あ…あ……」 
床にぺたんと尻餅を付き、それでもドアに縋り付く。その時、ようやくドアノブが回り、ドアが開いた。 
だが、真由子は見てしまった――視界の端に映る白い布を纏った女の姿を。 
眼球の動きのみで、視線をそちらにやる。『それ』は腰迄掛る全く梳いた跡すら見えない乱れた黒髪を垂らし、 
ゆっくりと階段を上って来る。その黒髪の間から覗く顔は、眉の色と眼鏡を架けている他は自分と瓜二つだった。 
だが、真由子では絶対にしない様な薄暗い陰鬱な表情で、『それ』は真由子の視線に気付いたかの様に顔をこちらに向け、 
目を合わせると、口の端を持ち上げて仄暗いじっとりとした笑みを浮かべた。 
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 
真由子は解ってしまった、『それ』の意図を。彼女は何故だか自分に対して怨みを抱き、追い詰める事を楽しんでいる。 
腰が抜けた侭、両手で這って自室に転がり込むと、急いでドアを閉め、施錠した。 
 
 そのままベッドの上へ這い上がり、布団を頭から被る。 
ぎしっ…ぎしっ…ぎしっ… 
静まり返った家の中に、『それ』の足音だけがやけに大きく響く。 
真由子にはあれが人間では無い事が解っていた。何故だか解らないが解っていた。だからと言って、とらの様な妖とも違う。 
先程見てしまった彼女は妖の妖気とは異なる力を全身に纏っていたし、向こう側の壁が透けて見えた。 
ぎしっ…ぎ……… 
『それ』は階段を上り終えた様だ。そして―― 
ぎ…ぎ…ぎ… 
新たに一歩一歩近付いて来る音が聞こえる。真由子は昨夜見た怪談特集のTV番組を思い出していた。思えば、あの時から何かがおかしかったのだ。 
確か、あれは番組が終わろうとしていた時の事だ。 
急にTVに砂嵐が映ったかと思うと、すぐに画面が戻り、 
白い布を纏った黒髪の女が暗闇の中に立っている映像に切り替わると、その女はゆっくりと画面に近付きはっきりとこう言った。 
 
「あなたが死んでしまえば良いのに」 
 
そして、画面が切り替わるとCMが始まり、番組が終わっていた。 
あの時は番組の演出だと思っていたが、今、真由子は確信していた。あれはあの女だ。恐らく、自分や麻子にしか見えていない。 
今朝、麻子に確認しておけば良かった。麻子が心配になりはしたが、今は自分の事しか考えられなかった。  
 
 
「あんた、麻子の様子はどうだい?」 
店をすぐに開け放す訳にもいかず、米次が病院へ麻子と共に向かった後、一人で店の後始末を終えた麻沙子が病室へ入って来る。 
「あぁ、ぐっすり眠ってやがる。こいつの寝顔見るのなんざ、随分と久し振りだな」 
米次は麻子に穏やかな顔を向け、その絹の様な美しい髪を撫でる。 
「こいつも若い頃の御前に似て来たな。きっと物凄え美人になるぞ」 
「やだね、あんたったら。だったら何だい、今のあたしゃ美人じゃ無いってかい?」 
「い、いやそんな事は……」 
そんな冗談交じりの会話を交わす中村夫婦。だが、彼等は麻子を襲う次なる不幸に気付いていなかった。 
「お?麻子の奴、頬ににきびが出来てるぞ」 
「この子も思春期だからねぇ」 
それは、ほんの小さな赤紫色の吹き出物の様に見えた。 
 
 
 キャンバスに向かう潮の、余り回転が宜しくない頭の中を様々な思考が巡る。礼子の父親の事。麻子を襲った赤い乗用車の事。麻子の容態。 
今朝の真由子の異様な怖がり方。自分には見えずに麻子には見えた妖の事。 
「あーぁ、こんなんじゃ筆も進まねーや。もう寝るか」 
とらは何処かへ出掛けており、家には潮一人だ。家の中に、潮の歯を磨く音だけが響いた。 
ジャー 
それは、口を漱いで顔を上げた時の事だった。潮の視界の端、鏡を通じて何か白い影が見えた。 
「ん?」 
父が帰って来たのかと思い、先程の白い影の居た場所を調べるが、そこには誰も居ない。 
玄関にも紫暮の履物は帰って来ていなかった。 
「今日は色々在ったから、疲れてんのかも。明日、麻子に見舞いに似顔絵渡しちゃろ」 
電灯を落とし、布団を敷いてその中に潜り込む。 
「お休みー」 
潮は誰に言うともなくそう言うと、すぐに深い眠りに落ちていった。その時、潮には聞こえぬ程微かでは在ったが、確かに家の中に響く声が在った。 
「お休み」 
と。その声がした後、家は再び静まり返り、辺りにはコオロギの鳴き声がするばかりだった。  
 
 

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