『紫色の霧』 
 
  序章…発生 
 
 その日、山蕗町警察署は朝から大忙しだった。 
「殺人が五件、未遂が十二件。で、強姦が六十件にその未遂が七十二件。障害が、殺人未遂 
のものを除いても三十四件……お前、寝惚けてるのか?」 
日高鉄二は、叩き上げのベテラン刑事で、今年で定年を迎える、署内で一番の古株刑事だ。 
若い頃に妻を亡くし、今では息子達と離れ、山奥にひっそりと独りで暮している仙人の様 
な人物で、性格も一癖在ると、若手署員から恐れられる存在である。 
だが、四十年以上警官として奉職してきた結果培われた経験は、誰もが頼りにし、その眼 
光は未だ衰えてはいなかった。 
「ふぅっ!……で、その強姦が全て逆レイプ――女性によるものだと、そう言いたいんだ 
な?加えて、殺人、障害も全て――未遂も含めて――女性が犯人、と?」 
その、ぎょろりとした恐ろしい眼光で、部下の田山を睨みつける。 
内心竦み上がっている田山としては、一刻も早くこの場を立ち去りたいのだが、この小さ 
な警察署内では、管轄といったものは最早有耶無耶にされてしまっており、どんな事件も 
取り敢えずは日高にお伺いを立てる事が暗黙の慣習となってしまっているのだ。 
「え、えぇ。取り敢えず、今の取調室の状況を見て戴ければ、お判り頂けますかと……」 
 
 日高はデスクから渋々立ち上がると、何時に無く大繁盛の取調室へと向かう。小さな町 
の小さな警察署。それが、こんなに賑わう様な事は、日高の四十年にも及ぶ刑事生活の中 
でもそうそう記憶に無かった。増してやその取調べを受けているのが、全て女性だという 
事など、皆無だったのだ。 
前代未聞の大盛況を見せる取調室の一室に入ると、 
「お早う御座います。日高さん、ちょっとこれは……」 
と何処か疲れの見える若い女性署員が彼にボソボソと声を掛けた。 
日高は、その精悍な風貌と硬派な態度、そして、未だ衰えぬ捜査の勘から、署内の女性署 
員には年齢にも関わらず、頼りにされる存在だ。 
だが、そんな日高も今朝の彼女の要望には何処か艶やかさを感じずにはいられなかった。 
そんな思考を頭の片隅に追いやり、ふと目の前の優男の男性署員に目をやると、彼自身も 
かなり困惑した様子で、殺人事件を起こした中年の女性に事情を伺っているのだった。 
 
「日高さん、ちょっと……」 
その男性署員――確か岡部と言った――に呼び出され、日高は彼と共に取調室のドアの向 
こうへと消えた。  
 
「妙なんです。」 
「妙ってのぁ、どういう事だ?」 
「いえ、被疑者の女性に話を伺っていたんですが、彼女、自分がやった事はアッサリと認め 
るんですよ。唯……」 
「唯?」 
「動機が無いんです。と言うも、黙秘しようとする態度すら見られないのに、何故か殺人の 
過程の状況が全く聞きだせないというか……彼女の言い分を信じれば、過程は全く覚えて 
おらず、気が付いたら包丁でグサリと……」 
「嘘が巧そうには見えなかったがな。処で岡部……」 
日高は、彼の襟に隠れた首の付け根に幾筋もの引っ掻き傷を認め、不思議そうに眺めた。 
「彼女と喧嘩か?」 
ちょいちょい、とデスクに向かって、これまた何時もより派手な化粧をしている風の高田 
純を親指で指しやる。 
彼女と岡部は署内恋愛で署員公認のカップルとなっており、日高もそれを知っていて彼に 
問うたのだ。 
「あはは……いや、その……昨夜は彼女、自分の家で二人で過ごしたんですが、何と言うか 
……何時もより激しくて、その……まぁ、男としては嬉しい様な……アイタタタ…腰が…」 
硬派な日高の性格を彼の不機嫌そうな顔で思い出した岡部は、腰痛を理由に取調室へと戻 
って行った。 
 
後に残された日高は、仏頂面でオドオドとこちらを伺っている田山をどやしに戻った。  
 
 
  其の壱……崩壊 
 
「潮―!!おめーって奴は、タイミング良いよなぁ!」 
今日は、みかど市立光陽中学校の集団宿泊研修の初日。蒼月潮にとっては、北海道旭川へ 
の旅を終えた直後の旅行となる。 
真の事情を話していない周囲の友人達から見れば、今迄ズル休みだの、口からうんこの出 
る病気だので学校に来ていなかった潮が、この為に帰って来たかの様に見えてしまうのも 
仕方が無い。 
だが、潮もその友人達も久々に友達に逢えた嬉しさから、その目には限り無い喜びが湛え 
られていた。 
何しろ、この二年七組という学級は、蒼月潮、中村麻子の両名が居なければテンションが 
上がらないのだ。それ程に、この二人は、クラスメイトから必要とされている存在だった。 
その片割れ、中村麻子も先の一角の事件以降、学校をサボる様な事は無くなり、クラスは 
元の活気を取り戻していた。 
 
宿泊研修とは、言って見れば三年次に行われる修学旅行の予行演習の様な意味合いも兼 
ねており、普段余り一緒に過ごす事の無い者同士の親睦を深めるという目的も在った。 
その為、普段の学校生活での主題である勉学といったものの色合いは薄く、生徒にとって 
は楽しい楽しい一大イベントである。 
「宜しくお願いしまーす!!」 
潮らを乗せたバスは、予定より幾等か遅れたものの無事にこれから二泊三日の間世話をし 
てくれる宿泊施設、青年自然の家へと辿り付き、学校代表、施設長の挨拶等、生徒にとっ 
ては非常につまらない慣例事項が住んだ後、直ぐに夕飯となった。 
到着の遅れにより、初日に自由行動を取れない事に文句を言う生徒も多かったが、本番の 
お楽しみは明日だ。 
ここは俗世間から隔離された様な山の中。普段とは違う状況に胸をときめかせる生徒が大 
多数であり、潮もそんな中の一人だった。 
だが、彼等は知る事は無かった……自分達が、どんなに運が良かったか、三日間とはいえ、 
離れる事になる故郷にどんな事件が起こっているかを。 
 
 みかど市のある、西側の山間には、血の様に真っ赤に染まった太陽が今、正に沈もうと 
していた。  
 

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