白面との最終決戦が、刻一刻と近付いていた。
光覇明宗最大の作戦会議を明後日に控え、
総本山には全国各地から法力僧がぞくぞくと集結する――。
関守日輪はその日の夕刻、光覇明宗総本山へと到着した。
獣の槍伝承候補者には滞在中の居住場所として、
総本山敷地内の離れにある庵がそれぞれに割り当てられていた。
世話役の僧に案内された庵に荷物を置くと、日輪は本堂へと向かう。
執務中の僧上・和羅や蒼月潮の父・紫暮に到着の報告を手短に済ませ、
庵へと続く石段を戻ってきた日輪は、
上がり口の植え込み脇に置かれた庭石に腰掛けている人影に気付く。
「誰?」
鋭い声に人影が振り向いた。
「よぉ、日輪」
革ジャンにジーンズ姿のラフな格好の男が、
人懐っこそうな笑みを浮かべ軽く手を上げる。
「ああ、何だ……流か」
「何だとは何だよ。ご挨拶だな」
反動を付けて庭石から降りると、流は日輪の側までやって来る。
「あんたにしちゃ随分早く来たじゃない。まだ杜綱兄妹も来ていないのに」
「へぇ。あのふたり、まだ来てないのか」
「明日の正午までに来るようにとの指示だから、それまでには来るだろうけれど……。
流、あんた本堂の僧上様に到着の報告は済ませたの?」
日輪の問いにひょいと肩を竦め曖昧な笑みを浮かべたところを見ると、
どうやらまだのようだ。
「ああ、まぁ……。それよりおまえ、今時間あるか?」
「取り立てて今しなければならないことはないけど……。何?」
「たまにゃおまえと、話でもしようかと思ってよ」
そう言って流は背後の庵を指差す。
「どういう風の吹き回し?」
「いやー、別に」
表情からは、何も読み取れない。
流はいつも……本心を決して露わにしない。
相変わらずだ。
「お茶の一杯くらいなら、付き合ってあげてもいいわ」
「そうこなくっちゃ」
ぱちり、と指を鳴らした流と連れ立って、日輪は庵へと続く小道へ足を踏み入れた。
和室の中央には小さな囲炉裏があり、
その上に提げられた鉄瓶からはゆっくりと湯気が上がっている。
庵へ案内してくれた僧が、日輪が本堂へ出掛けている間に室内を整えていったようだ。
湯呑みをふたつ並べ、慣れた手つきでお茶を入れる日輪に、
流は意外だとでも言いたげに目を細める。
「なぁ」
「何?」
「俺さ、白面の側に付くことにしたからよ」
お茶を注いでいた手が止まる。
急須を手にしたまま、日輪は窘めるような表情で流を見つめた。
「……今のこの時期に、そういう悪い冗談はよしなさいよ、流」
日輪の言葉に、流は例の如く飄々とした笑みを浮かべる。
「おっと、そう怖い顔するなよな」
きっと睨みつけた日輪におどけた様子でそう言うと、伸びをしながら流は続けた。
「いやさ、数日前なんだが、白面の使いとかいう女が俺のところに来たわけよ。
で、まあ退屈しのぎに話だけは聞いてやったんだが……」
そこでちょっと言葉を切って、流は日輪の顔をまじまじと見つめる。
「……何? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
憮然とした表情を浮かべたまま、
日輪は流の前にとん、とお茶の入った湯呑みを置いた。
「……おまえは、俺より強いな……」
ぽつり、と零れた言葉に日輪は頬にさっと朱を上らせ、きりきりと流を睨む。
「獣の槍の伝承候補者の中で最強とも謳われるあんたが、私にそんなことを言うの?」
日輪の険のある視線をさらりと受け流し、流はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「そうじゃねぇよ。俺の言ってる強さは……法力とかそういうことじゃねぇんだ」
流の言葉に日輪は一瞬、呆けたような表情を見せる。
「……意味が、分からない……」
「分からないなら、それはそれでいいんだ」
小さく笑んで流は湯呑みを手にすると、ゆっくりとお茶を飲む。
「うん、美味い」
黙ってお茶を飲む流をじっと見つめたまま、日輪が硬い表情のままぽつりと言った。
「……裏切る、の?」
「裏切る、ねぇ。ま、そう取られても仕方ないよなぁ」
「何故……」
「何でかねぇ。自分でもバカなことをしようとしてるとは思っちゃいるが……」
のらりくらりとした流の答えに日輪が激昂し、ばん! と両手で畳を叩いた。
その衝撃で畳の上に置かれていた日輪の湯呑みが倒れ、
囲炉裏内に零れたお茶が水蒸気となる。
「うわっ! そんなに興奮するなよ」
流が慌てて倒れた湯呑みを起こした。
「あんたは光覇明宗の法力僧で、獣の槍の伝承候補者でしょ!
それなのに……白面側に付くですって? 本気なの?」
食って掛かる日輪の言葉が流の耳に鋭く突き刺さる。
立ち込める白い湯気の向こう側で、痛みを堪えるかのように流が眉根を寄せた。
「冗談で言っていいことと悪いことがあることくらい、俺だって分かってるさ」
きっぱりと言い切った流に、日輪は探るような視線を向ける。
「……何でその話を、私にするわけ?」
「何となく、な。おまえなら……分かるんじゃねぇかと思ってさ……」
「おめおめと白面に寝返るような奴の気持ちが、私に分かるはず……」
怒りに満ちた瞳を正面から捉えて、流はひどく静かな声で言った。
「日輪……おまえ、前に言ってただろ? 本当は男に生まれたかった、って」
「そ、れは……」
日輪の胸に苦いものが込み上げる。
幾度となく父から言われた言葉。
――お前が男だったらなァ…女はダメだなァ…――
槍の伝承候補者に選ばれたとき、選ばれなかった他の僧から投げつけられた言葉。
──女に何が出来る! 女のくせにでしゃばるんじゃねぇよ!──
自分の努力ではどうにもならない部分で判断されることが悔しかった。
性は選べない。どうすることも出来ないことだ。
女であるというだけで、何度も嫌な思いをしてきた。
戦いの才能があれば男も女も関係ない。
そう信じて……今までずっと歯を食いしばって、人の何倍も努力してきたのだ。
唇を噛んで俯いた日輪を見つめながら、流が口を開く。
「おまえはそれでも、そういう自分に折り合い付けて頑張ってるもんな。
だけどよ……俺にはそれが、どうしても出来ねぇんだよなぁ……」
手にした湯呑みを側に置くと、流は両手で包むように日輪の頬に触れた。
俯いた顔をそっと上向かせると、怒ったような瞳が流の視線を正面から捕えた。
「……どういうつもり?」
「……キスする時くらい、瞳は閉じるもんだぜ、日輪」
「何を……」
流の指が日輪の唇を撫でる。
「餞(はなむけ)に、貰っていくぜ……」
温かな唇は、触れるだけのキスを日輪の唇に落とした。
流はその後に訪れるであろう派手な音と衝撃を覚悟していたが、
一向にその気配はない。
見れば頬を叩こうと振り上げた日輪の手がぶるぶると震えていて、
大きく見開かれた瞳にはみるみる涙がふくれ上がる。
振り上げられた腕をゆっくりと引き降ろした流の大きな手は、
そのまま日輪の肩に触れ、震える小さな身体ごとそっと胸元に引き寄せた。
「涙なんて、おまえらしくないな……」
瞬きするたびに日輪の頬を伝う涙を指先で拭いながら流が言う。
「……ら、しくないのは、あんたも同じでしょう」
「いやー、俺らしいと思うけどなぁ。俺は何でもやればそこそこ出来るからよ。
出来ないことや、なれないものがあるのが、どうも許せないみたいだ」
「……男なんて、分からないな……。
下らないプライドなんて、捨ててしまえばいいのに」
ふ、と諦めにも似た色が流の顔を掠めた。
「今更?」
「今更だろうが何だろうが、捨ててしまえば楽になれるじゃない! 何故そうしない?」
「もう……遅いんだよ……。俺が俺であるためには、もう……」
「……馬鹿……」
流は日輪の言葉に淡く笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近付けると再び唇を重ねた。
「俺が戻ったら……続き、教えてやるぜ、日輪」
腕の中で身体を強張らせたまま、日輪は言う。
「あんたは戻ってくるつもりなんか、ないんでしょう?」
「さぁな。俺は勝てない勝負をするつもりは、ねぇけどよ」
「……嘘吐き」
流が無事に戻るということは、白面が支配する世界が訪れるということ。
今までずっと獣の槍を手に白面を倒すために、
ただそれだけのために生きてきた日輪にとって、
それは到底あってはならない未来。
でも……。
胸がきりきりと痛むのは、何故だろう。
「引き止めても無駄でしょうけど……。どうしても行くというのね?」
「ああ」
「なら……戻ったらなんて言ってないで、今ここで、続きを教えなさいよ」
涙に濡れた瞳が挑むように流を見つめている。
「おいおい、俺を色仕掛けで引き止めるつもりか? 日輪」
流の言葉に日輪は首を左右に振る。
「違う。あんたが確かにいたということを……私が、覚えておきだいだけ……。
あんたが白面側に付くなら、どのみちあんたとはこの後……
生きて会うことはないんだから」
「随分はっきり言ってくれるんだな」
「当たり前でしょう! あんたが無事に戻ってくるなら、
私はとっくに白面に殺されてるわ。……違う?」
「まぁな。ここに集まってる連中は、戦いの最前線に立つことになるだろうからな」
日輪は自嘲気味に笑うと言葉を続けた。
「今くらい、自分が男だったら良かったのに、と思ったことはないわ。
男だったら、あんたを殴ってでも引き止めるのに」
日輪の言葉に流が小さく笑う。
「俺が殴り合いで他の奴に負けるかよ」
「それもそうね……」
日輪が目の前の引き締まった胸元にこつりと額を寄せると、
流の鍛えられた腕が華奢な身体をそっと抱きしめる。
日輪の身体も鍛えられてはいるが、それとは全く違う太く逞しい腕。
抱かれる腕の中はこんなに温かいのに───。
この温もりに触れるのは今夜が最初で最後だということを
日輪は寂しいと思うと同時に、そう思った自分自身に酷く動揺した。
次の間へと続く襖を開けると、部屋の中央には既に一組の布団が敷いてあり、
枕元に置かれた小さなスタンドの淡い光が部屋を満たしていた。
自分から誘ったとはいえ、すっかりお膳立てが整った寝室を目の当たりにして
日輪は急に怖気づき、足が竦んだように動けなくなってしまった。
腕の中の身体がぎゅっと強張ったのに気付いて、流が日輪を窺う。
「なぁ、おまえ……本当は無理してんじゃねぇのか?」
問い掛けに無言で首を振るが、日輪の足はそれ以上前へ出る気配がない。
(やれやれ。こういうことになると……いつもの威勢のよさはどこへやら、だな)
内心ひとりごちて、流は小さく笑うと日輪の身体を軽々と抱き上げる。
「なっ、何を……」
不意を突かれた日輪は思わず流の首筋に腕を回してしまう。
視線がぶつかって、日輪は慌てたように目を伏せた。
その妙に初々しい仕草に思わず笑みが浮かぶ。
「こんなとこへ突っ立ってたって、コトは進まないだろ?」
出来るだけ軽く響くように明るい声を出しながら
流は部屋へと足を踏み入れ、敷かれた布団の上に日輪をそっと下ろす。
「さて……どうする?」
「ここまで来て、今更止めるなんて言わないでよね、流……」
見上げる上気した顔は強張ってはいるが、後悔の色は見えない。
射るような視線に小さく頷くと、流は襖を閉め日輪の隣に身体を横たえた。
枕元に手を伸ばし灯されている明かりを消すと、部屋の中に夜の帳が下りた。
ざああ、と庵の裏手に茂る竹林が風に揺れる音が遠く聞こえる。
暗い部屋の中、闇に紛れて互いの表情を窺うことは出来ない。
何をするでもなく、何を言うでもなく、流はただ黙って日輪を抱きしめていた。
「流……」
「ん?」
「その……」
腕の中で日輪が小さく身じろぐと、おすおずと伸ばされた腕が流の背中に回る。
抱きしめる腕にほんの少しだけ力を入れてやると、
日輪は流の胸に頬を寄せて小さく溜息を吐いた。
「日輪」
名を呼ぶ声に上げた顔に手を添えて、流はゆっくりと唇を重ねていく。
少しずつ上昇していく体温。欲情に小さく火が灯る。
流の大きな手が日輪の首を強く引き寄せると、腕の中の身体がびくりと震えた。
触れるだけのキスが徐々に深く激しいものへと変化し、
流の舌が小さな唇を割ると口内を柔らかく蹂躙していく。
濡れた音を立てて唇が離れると、日輪は大きく胸を喘がせる。
いちばん上まできっちりと留められたブラウスのボタンを
流の指先がひとつずつゆっくりと外していく。
「あ、あの……流、いいよ、服くらい自分で脱ぐから……」
ボタンを外す手を押し留めて、慌てて身体を起こそうとする日輪を
流は簡単に身体の下へと組み敷いてしまう。
「女にポンポン服脱がれちゃ、ムードも何もあったもんじゃないからな」
暗がりに慣れた目がにやりと笑う流の顔を捕える。
「馬鹿!」
そう言ってそっぽを向く日輪の顔はたちまち耳まで赤く染まった。
手際よく服を脱がせていく流の指先が微かに震えているのにふと気付く。
日輪は小さく目を見開くと口元に淡く笑みを浮かべ、
流に全てを委ねるように目を閉じ、身体の力を抜いた。
ひんやりとした夜気に小さく震えた身体に布団が掛けられた。
素肌を柔らかく包む暖かさに安堵の溜息を吐きながら、
日輪は自分に背を向けて黙々と服を脱ぐ流の後ろ姿をぼんやりと眺める。
露わになった広い背中には無数の傷跡が残っていた。
法力僧として幾多の妖と戦ってきた証としての、傷──。
くるりと向き直った流と目が合った。
頬を染め目を伏せた日輪が布団を小さく捲り、仕草で中に入るよう促す。
無言のまま隣に滑り込んできた身体は火傷しそうな程に熱く、
それでいて酷く優しく日輪を包んだ。
肌と肌が直に触れ合うことが、こんなにも身体中の血をざわめかせ、
切ないくらいに胸が締め付けられることを……日輪は今、初めて知った。
「大丈夫か?」
そう言って心配そうに覗き込む流に、日輪は小さく頷く。
もうずっと……本当にずっと一緒にいたのに、
流がこんなに優しい目をするなんて、今の今まで知らなかった。
ごつごつとした大きな手がそっと髪を梳いていく。
露わになった額に柔らかく落とされた唇からゆっくりと熱が伝わる。
まぶたに頬に小さく落とされるキスに思わず綻ぶ口元。
笑みのかたちを湛えた唇が唇によってそっと塞がれた。
鍛えられているとはいえ、
それでも抱きしめた身体はまるく柔らかな女らしさに溢れていた。
滑らかな肌や淡く漂う甘い匂いに、自分とは対極の性であることをひしひしと感じる。
こんなにも柔らかで何もかもが細いこの身体で、
大の男でも根を上げるようなあの厳しい修行に付いて来ていたのかと思うと、
流は組み敷いた女の秘めた強さに内心舌を巻く。
その強さこそが──自分と日輪との決定的な違いであり、大きな隔たりなのだろう。
拒絶するのではなく、それを受け入れ、自身の糧とすること──。
それは互いの性のあり方と不思議とよく似ていて、
そのことに気付いた流は口元にちらりと自虐の笑みを浮かべた。
まるみを帯びた身体の、そのかたちをなぞるように両の手のひらで撫で、
ゆっくりと開かせていく。
時折漏れる日輪の小さな吐息が、じわり、と劣情を煽った。
腹の底がじりじりと焦げていく。
急激に高まっていく欲望を奥歯で噛み殺しながら、
流は殊更ゆっくりとした動きで愛撫を続けた。
日輪があんなに厭うていた女の性を、
流の手が指が触れた肌から伝わる体温が、いとも容易く歓びに変えていく。
意思とは無関係のその性急な反応に、日輪はただ大きく胸を喘がせることしか出来ずにいた。
無骨な手が思いの外繊細に動くことも、
その指先がもたらす熱が「女」としての己の身体を少しずつ解いていくことも――。
日輪にとっては何もかもがはじめての感覚だった。
するり、と滑っていく手が足の間に割り入り、潤み始めた身体の中心に触れる。
「あ……」
思わず漏れる細い声に流の手が止まった。
「……怖いか?」
怖くないと言えば嘘になるが──日輪は目の前で心配の色を湛えている瞳に小さく首を左右に振る。
「無理、すんなよ」
「うん……」
流は身体を起こすと日輪の足の間に身体を入れ、そっと左右の足に手を掛けた。
肌の上を滑っていく手が、ふくらはぎの辺りでふと止まる。
「傷…残っちまったんだな……」
「囁く者たちの家」で受けたゴーレムの振動波で、膝から下の皮膚はずたずたに裂けた。
白面の遣いにあれだけの攻撃を受けたのだ。
むしろ命が残っていることが不思議なくらいだった。
低い声に日輪が小さく笑った。
「仕方ないわ。それが私の役目だもの。それに……あんたも同じじゃない」
ひんやりとした手が伸ばされ、流の身体に残る傷跡にそっと触れた。
指先に触れるざらりとした感触に日輪の胸の奥がちりりと痛む。
獣の槍の伝承候補者になった時点で命なんて捨てたはずなのに、
それでもこうして失わずに済めば──惜しんでしまうのだ。
「あの時、蒼月がいなかったら……あんたと一緒に死んでたかもしれないわね」
日輪の言葉に不意に流の瞳が翳りを帯びた。ひとつ小さく息を吐いて、流が口を開く。
「……いいか?」
「ん……」
流は小さく頷いた日輪の足を抱え上げ、潤みを湛えた場所に猛り立った己を押し当てた。
そのままぐっ、と体重を乗せ、流は日輪の隘路を半ば力任せに押し開いていく。
「……っ!」
きつく目を閉じ唇を噛んでいる女の苦しげな表情に、流は罪悪感と同時に妙な高揚感を覚える。
冥い目をしたまま、流は黙って組み敷いた女の柔らかな胎内に深々と己を突き立てた。
「う…ぁ……」
小さく息を吐いて、日輪が閉じていた目を開けた。
噛み締めた唇にうっすらと滲んだ血を、流の指先がそっと拭う。
「……悪ぃ」
「謝る、な……。分かっていたことだ、から……」
日輪は目の前で泣き出しそうな顔をしている流に淡く笑んでみせた。
伸ばされた白い手が愛しげに頬を撫で、唇を辿る。
「私に、教えてくれるんだろう? だったら……」
途切れ途切れの言葉に、流は今はもう何もかもが足りないということに気付き一瞬呆然とする。
組み敷いた女に自分が教えてやれるのは痛みだけで――
その先にあるはずの甘やかな幸福感や目眩めく快感を、
日輪が「自分以外の誰か」によって知るということにふと思い至る。
そのことに激しい嫉妬と落胆を味わい、
この期に及んでも尚、醜く身勝手な自分自身を流は胸の内で嘲笑った。
引き裂かれるような痛みは馴染んでいく互いの体温と共に緩く解け、
少しずつ甘い痛みへと摩り替わる。
未知の感覚に眉根を寄せて、日輪は小さく声を上げた。
「んんっ、あぁ……」
背中に回された日輪の手にぎゅっと力が篭り、立てた爪が皮膚に喰い込んだ。
締め付けられるような胸の痛みを振り切るように、
流は殊更乱暴に腰を振り、組み敷いた身体を突き上げる。
眉を顰めた顔。浅く早い呼吸。
痛みで苦しいだろうに、日輪は今まで見たこともないような
優しく穏やかな笑みを浮かべながら視線を合わせる。
(ああ……何だってコイツは……)
絶頂に向かって加速度を上げて高まっていく快感に
流は息を詰めて「その時」を少しでも先延ばしにしようと足掻く。
「っ…、な、が…れ…っ」
名を呼ぶ掠れた細い声が、残っていた掛け金を弾き飛ばしていく。
「日輪…オレ、もう……」
白くなっていく視界に小さく頷く日輪が見えた。
組み敷いた身体をきつく抱きしめながら、流は抑えていたものを解き放つ。
言葉にならない思いは白い奔流となって日輪の胎内の奥深くへと注ぎ込まれた。
は、と短く息を吐いて崩れ落ちた温もりを、日輪は両腕でそっと抱きしめる。
呼吸も荒くふたりは重なり合ったまま、乱れた布団の上にぐったりとその身を沈めた。
「……もう、行くのね……」
身じろぎした流に向かって、日輪が掠れた声で小さく言った。
「……悪ぃ、起こしちまったか……。いつまでもこうしているわけにゃ、行かないからな」
「そう、か……」
「お偉方連中には、お前から伝えてくれるか?」
「……分かった」
「済まねぇな、日輪」
「謝るくらいなら……」
思わず縋ってしまいそうになる日輪の言葉を流はやんわりと、しかし有無を言わさず遮る。
「それでも俺は、行かなきゃならねぇんだ。でないと、俺は……」
日輪を抱く流の腕に力が入る。
そっと目を閉じて、日輪は流の厚い胸に頬を寄せると小声で言った。
「蒼月に怒鳴られて、とらに……雷を落としてもらえばいいわ。
それで正気に戻って……帰ってきて……」
薄暗がりの中、流が大きく目を見開いた。
「……今のは独り言。忘れてちょうだい……」
「……ああ」
日輪を包んでいた温もりが離れ、身支度を整える微かな衣擦れの音もやがて止み、
流がふぅ、と大きく息を吐いた。
「じゃあな、日輪」
襖の閉まる音がして、板の間の廊下を足音が遠ざかっていく。
もうすぐ夜が明ける。白面との決戦の日は近い。
(泣くのは、今夜限り……。朝日が昇ったら、もうあいつのことでは泣かない)
布団の中、両腕で自身の身体をきつく抱きしめながら、
日輪はひとり、声を殺して涙を流し続けた。
翌朝。
紫暮は泣きはらした目で誦経院に現れた日輪に気付いた。
隣に立つ和羅の目配せに小さく頷くと、互いの口から重苦しい溜息が漏れる。
全国各地から集まってくる法力僧の中に、秋葉流の姿は───なかった。
(……不憫な、ことよの……)
仔細は不明だが、大方の予想はつく。
おそらく流は、白面の策略に乗ったのだろう。
(人の心につけ入り弄ぶ……流ほどの法力僧であっても抗えない……)
身体や技術を鍛えることは比較的容易だが、心となるとそう簡単なことではない。
ましてや人心を操る術に長けた白面が相手となれば、
紫暮や和羅であっても篭絡される可能性が高い。
それほど人の心は脆く、流され易い。
しかし、それを責めることなど出来はしないし、責めたところでどうにもならない。
「僧上様……」
紫暮の声に和羅は厳しい表情のまま頷く。
「うむ。今まで以上に気持ちを引き締めてかからねばな」
目元を紅く腫らした日輪は、それでも俯くことなく強い瞳で真っ直ぐに前を向いていた。
そのことに安堵し、また救われたような気持ちで、
和羅は集まった法力僧に打倒白面の作戦について話し始めた。
───今はただ白面を倒す。ただその一念で、私はここにいる───
哀しさも悔しさも全てを抱えたまま、
日輪は来るべき白面との戦いに備えて自らの身を石と化した。