ヴェカンティ。巨大な廃墟と化した王城。
主を失って久しい玉座へと通じる回廊に立ち並ぶ黒大理石の柱の列に、
血の色のように赤く濁った月の光が降り注ぐ陰鬱な夜。
(・・・・やはり、一筋縄ではいかぬか・・・・まぁ・・・・十分に予想出来た事態ではあるが・・・・)
(・・・・当然だろう・・・・何しろ、相手はリアリティにいるのだからな・・・・)
(・・・・直接、手を下すのは・・・・我らとて不可能に近い・・・・厄介な話だ・・・・)
互いに自分の居場所を悟られまいと、
黒ずんだ墓標を思わせる石柱の陰に身を隠し、絶え間なく位置を変えながら、
最低限の言葉だけしか交わそうとしない、<彼ら>。
それでいて、ある程度は会話らしきものが成立しているのは、
この場にいる全員が、あたかもゲームか何かのように、自分の発する言葉への相手の反応を確かめつつ、
その手の内を読み取ろうとしているからに他ならない。
(・・・・然り・・・・)(・・・・同意する・・・・)(・・・・何とも、もどかしい限りよ・・・・)
いずれも抑揚に乏しい低い声が、ゆっくりと尾を引きながら廃墟の中で反響し合う。
その声の主たる<彼ら>、すなわち、<暗黒界の後継者たち>・・・・
ログレス、メガス亡き後のヴェカンティの覇権を巡り、角突き合わせる仲の<彼ら>の望みはただ一つ。
この場にいる誰よりも先に、「ヴァリスの戦士」たるリアリティの少女を葬り去り、
己の力量が、暗黒界を統べる帝王としてふさわしいものだと証明する事である――――。
(・・・・その上・・・・あの娘はヴァニティの庇護の下にある・・・・)
(・・・・麗子・・・・あの、糞忌々しい裏切り者の事か・・・・?)
(・・・・そうだ・・・・我らの枢機にも精通した・・・・「ヴェカンタの黒き戦士」・・・・)
その名を口にする時に限っては、<彼ら>の口調からも、お互いに対する不信感が影を潜め、
ヴェカンティに生を享けた者としてのストレートな感情が表に出る。
かつて、彼らの上に君臨し、絶対的権力を欲しいままとしていた、暗黒王ログレスその人に見出され、
ヴェカンティの"戦士"として、望むもの全てを与えられながら、
あろう事か、「ヴァリスの戦士」に誑かされてヴァニティに走った、唾棄すべき裏切り者・・・・。
加えて、<彼ら>の目には、自らの手の内を知り尽くした彼女の存在は、
ある意味、「ヴァリスの戦士」以上に、危険で厄介なものに映るのである。
(・・・・彼奴の介入を阻止する事・・・・それなくして、「ヴァリスの戦士」を葬り去るのは不可能だ・・・・)
(・・・・然り・・・・何としてでも、あの娘が手出し出来ない状況を作り上げねばならぬ・・・・)
(・・・・どうする・・・・?どうすれば・・・・「ヴァリスの戦士」から、あの女を遠ざけられるのだ・・・・?)
リアリティ。私立聖心学園高等部。体育館。
先日のボヤ騒ぎによる混乱もようやく一段落し、
火事に巻き込まれ、大量の煙を吸って長期入院を余儀なくされた不運な数学教師の話が、
関係者の間で話題となる事もめっきりと少なくなった頃。
出火場所の――――結局、火事の原因は警察や消防の実地検分でも不明のままだった――――体育用具室が、
安全上の観点から別の場所へと移転させられたため、以前に比べて、幾分広さが増した体育館内では、
今、新体操部の部員達が、翌月に迫った地区大会に向け、練習に汗を流している。
「・・・・麻生さんの身体、すごく柔らかいのね。ホントに新体操は初めてなの?」
光沢感のある空色のレオタードを身に着けた部員の一人が感嘆の言葉を漏らす。
視線の先では、白を基調としたシンプルな図柄のレオタードを纏った少女が、
ブリッジの姿勢から誰の助けも借りずに背筋の力だけで立ち上がり、周囲を驚かせていた。
「ええ、本当よ。体育の授業で少し習った事があるだけ」
目を輝かせる質問者に、少し気恥ずかしそうな微笑を浮かべながら受け答えする少女――――麻生優子。
運動の邪魔にならないよう、紐で括ってポニーテールに束ねた豊かな蒼髪がサラサラとなびき、
微かに甘酸っぱい、健康的な汗の匂いが広がっていく。
目立って長身という訳でも、胸や腰の発育が進んでいる訳でもない優子だったが、
すらりとした脚線美の下半身と適度な充実感を帯びた上半身とが絶妙なバランスを保っているせいだろう、
パール・ホワイトと呼ばれる、光沢感のある白いレオタードが実によく似合っていた。
――――本来、新体操部の所属ではない優子が、部員達に混じって練習に参加しているのは、
地区大会を目前にして、団体種目に参加する2チーム12人の選手のうち、5人までもが、
各自の事情によって、出場できなくなってしまったためだった。
生じた欠員のうち、4人までは部員達の中から補充する事が出来たものの、
残る一人については、どうしても新体操部内で適格の人物を見付ける事が出来ず、
やむなく、(部外者という一点を除けば)要求される選手の条件に最も近いと判断された彼女に、
助っ人を依頼する、という、異例の事態が生じていたのである。
新体操(Rhythmic Gymnastics)における団体種目は、通常、総合競技と決勝競技の二つに大別される。
6名の選手によって編成された1つのチームが、
1試合につき2回、各々2分から2分30秒の持ち時間内で演技を行い、得点を競うのが総合競技であり、
その上位8チームのみが参加資格を得て、最後にもう1回演技を行い、
総合競技のポイントとの合計により、最終的な順位を決定するのが決勝競技である。
個人・団体種目共に、演技の場となるのは、幅5センチのラインで区切られた12メートル四方の床面であるが、
団体種目の場合は、50センチまでのライン・オーバーは減点の対象にはならない。
ワールドカップなどの国際大会では、総合競技の2回の演技は異なる床面で行われる事になっているが、
それほど規模の大きくない国内大会の場合、2回とも同じ場所を使う事が多い。
選手達は、ロープ、ボール、フープ、クラブ、リボン、の5種類の中から、試合毎に選定される手具を用いて、
隊形の変化や手具の交換といった要素を織り交ぜた複雑な演技を、制限時間内に演じ切らねばならない。
たとえば、ボールを用いた演技においては、「つき」「転がし」「投げ」の三つの要素が必須とされ、
これらのうち一つでも欠けていれば、減点の対象となってしまう。
この他に、「回し」「振り」「手で保持しながらの動き」等の動作を取り入れ、一連の演技を組み立てる訳であるが、
それらに関しても、得点の付け方が詳細に定められており、
高得点を狙うならば、必然的に、難度が高く、高度な技術が必要とされる動きが要求される事になる。
一般的に、新体操選手にとって最も重要な能力は、柔軟性だと言われているが、
それ以外にも、身体の重心を常にコントロールし続けるバランス感覚や、
5種類の手具を素早く正確に扱う手先の器用さ、演技内容に合わせてテンポ良く体を動かすリズム感など、
必要とされるものは多く、それら全てを兼ね備えた選手はほとんどいないと言っても過言ではないだろう。
まして、団体競技においては、他の集団スポーツと同様に、選手間の呼吸の統一が重要とされるのは勿論、
それ以前の問題として、選手達の体格や運動能力がある程度均等化されていなければ、まず成功はおぼつかない。
すなわち、チームに必要なのは、突出した能力を持ったソロ・プレイヤーではなく、
あくまでも、安定した能力を持つ6人の選手であるという訳だった。
これは、同時に、あまりにも欲張り過ぎて、選手の能力を大幅に超える演技を要求すれば、
失敗のリスクは格段に大きくなるという事をも意味している。
各々の選手の能力の範囲内で、なるべく高い得点を狙える演技を実現出来る組み合わせが望ましいのだが、
これは、選手達にとっても、彼女達を指導する監督やコーチ達にとっても、実に悩ましい問題であり、
とりわけ、予定していたメンバーが、出場出来なくなるケースでは、
入れ替わりで入ってくる選手に合わせて、折角時間をかけて練習してきた演技内容を変更したり、
場合によっては、出場選手の顔触れを一から考え直さねばならなくなる事すら起こり得る。
――――今回の聖心学園新体操部のケースもその例外ではなかった・・・・。
「・・・・ッ!?・・・・ああッ・・・・み、見て、あそこッ・・・・!!」
「・・・・エッ!?・・・・あ、あれって・・・・白影先輩じゃないッ!?」
「・・・・うわぁ・・・・臨時コーチを引き受けるって話、本当だったんだぁ・・・・!!」
突如として、新体操部員達の間を大きなどよめきが走り抜ける。
体育館の入り口、開け放たれた両開きドアの向こうに姿を現した一人の女性・・・・
彼女に向かって、先程、初心者とは思えない優子の身のこなしに対して発せられたのとは明らかに異なる、
憧憬と羨望、更には、畏怖までもが綯い交ぜとなった視線が集中する。
そして、その女性が館内に足を踏み入れるやいなや、優子を取り囲んでいた人垣はあっという間に崩れ去り、
次の瞬間には、部長を先頭に、練習用のフロアー・マットの前に出迎えの列が出来上がったのだった。
(・・・・あの人が・・・・白影麻美・・・・?綺麗な人ね・・・・しかも、すごい威厳を感じるわ・・・・)
半分呆気にとられつつも、おっとり刀で部員達の列の端に加わる優子。
白影麻美。聖心学園高等部の卒業生で、新体操部の元キャプテン。
現在は天神大学の新体操部に所属、幾つもの大会で優秀な成績を収め、
次のオリンピックでは日本代表の一人に選ばれるのでは?とまで噂される才媛である。
今回、出場予定選手の半数近くが欠場するというアクシデントに見舞われた新体操部が、
かろうじて地区大会への出場自体をキャンセルせずに済んだのも、
古巣からのSOSに応えて母校を訪れ、右往左往するばかりだった教師やコーチ達に、
プロの立場から的確な助言を与えて立ち直りのキッカケを与えた彼女の存在が大きかった、と言われている。
「・・・・・・・・」
列の前まで歩いてきた麻美は、しばし無言で、後輩にあたる新体操部員達と対峙する。
取り立てて厳しさを感じさせる訳ではないが、その視線に、じっ、と見つめられると、
微かな威圧感と共に、心の奥底まで見透かされているような感覚が湧き上がってくる。
傍らには、顧問の教師や専任のコーチもいるのだが、
彼女と比較すれば、その存在感はまるで空気か何かのように希薄なものにしか感じられなかった。
(・・・・この感じ・・・・少しだけど・・・・前世の麗子に似てるかな・・・・?)
ふと、懐かしい感覚に包まれて、そっと目線を上げる優子。
明るい灰色のトレーニング・ウェアに包まれた長身の体躯は180センチ近くもあるだろうか、
日本新体操界の新星と噂されるのにふさわしく、美しく伸びた手足が印象的である。
よく引き締まった健康的な顔立ちには威厳が溢れ、淡いラベンダー色の瞳には強い意志が輝いている一方、
水晶の塊を彫り抜いたかような繊細な目鼻立ちと柔和な微笑みを湛えた形の良い唇とが緩衝地帯となって、
ともすればきつくなりがちなその表情に、一定の歯止めを与えていた。
(・・・・凄いな・・・・まるで、スクリーンの中の女優さんみたい・・・・)
思わずため息が漏れる程、麻美の姿は美しく、そして、眩しかった。
新体操の選手にしては珍しく、腰に届くほど長く伸ばしたブラウンの髪は、
薄いピンク色のリボンでポニーテールにまとめられ、
窓から差し込む午後の陽光を浴びて、柔かい赤銅色の光を放っている。
手入れの行き届いた色白な肌は肌理が細かく、しっとりとした美しさに満ち溢れ、
トレーニング・ウェアの表面には、皺や汚れは勿論、塵一つ見当たらなかった。
ジャージの下には、レオタードを着込んでいるのだろう、
開いた襟元から、落ち着いた光沢を帯びたパープルの薄い布地が見え隠れしている。
正確なプロポーションは、服の上から見ただけでは判別出来なかったが、
何の変哲も無い練習着を身に着けていてさえ、見る者の視線をこれだけ釘付けにするのだから、
衣服を脱ぎ去ってレオタード姿になれば、その美しさは神々しいばかりのものに違いない。
「はじめまして。白影麻美です。
本日、先生方から、正式に臨時コーチのお話を頂きました。
地区大会に向け、微力を尽くさせて頂く所存ですので、皆さん、どうか宜しくお願いいたします・・・・」
よく通る声が体育館の中に響き渡った。
物腰はあくまで丁寧だが、口元から発する単語の一つ一つに明瞭な意志の力が宿り、
堂々とした態度と相まって、有無を言わさぬ気迫が伝わってくる。
彼女の言葉に耳を傾けるうち、『麗子に似ている』という第一印象の誤りに気付いた優子は、
ほっとしたような、それでいて、少し残念なような複雑な感情が湧き上がるのを感じるのだった。
(・・・・よく分からないけど・・・・こういうのが、『体育会系』っていうのかしら・・・・?)
確かに、口ぶりや態度は、かつての麗子のそれと似ていなくも無いのだが、
前世の彼女と決定的に違うのは、それが、自分の価値に対する揺ぎ無い自信に起因している点だった。
自らの内実が、(周囲の人間が思っている程には)堅固でも安定的でもない事に焦り、絶望し、
何より、その事を他人に気付かれる事を恐れて、必要以上に虚勢を張り続けていた麗子とは異なり、
麻美の自信は、天賦の才能と弛まぬ練習の積み重ねによって明瞭に裏打ちされ、
しかも、強い自己抑制の働きによって、不遜な態度となって外に顕れるような事は一切無かった。
「・・・・では、最初に、バーを用いた練習から始めましょう。
バー・レッスンには、演技の基礎となる立ち姿勢や跳躍時のポーズを整える以外にも、
新体操に必要な筋力や持久力を効果的に鍛える、という重要な目的があります・・・・」
練習メニューについて話す内容も、簡潔明瞭で非常に理解し易い。
どうやら、麻美は、新体操のプレイヤーとして第一級であると同時に、
その指導者としても、並々ならぬ才能の持ち主であるようだった。
レクチャーが終わると同時に、自分達のすべき事を正確に把握した少女達は一斉に動き出し、
身長別に3つの組に分かれて、それぞれ腰の高さに調整された台座付きのバーを並べ始める。
(・・・・きっと、何にどう取り組めば良いのか分かったせいね、動きが見違える程良くなってる。
こんな短い時間で、みんなのヤル気を引き出すなんて、まるで魔法みたい・・・・)
麻美の指導能力に舌を巻いた優子も、2番目に高いバーの組に入り、
静かに呼吸を整えながら、整然と並んだ新体操部員達の列に視線を伸ばす。
色とりどりのレオタードに身を包んだ部員達は、
自分達より僅かに2、3歳年上なだけの、まだ少女の面影さえ残る臨時コーチに対して、
顧問の教師や専任のコーチに対する以上の敬意を示し、次の指示を心待ちにしているようだった。
中には、新体操部の生ける伝説たる大先輩から、直に指導を受ける事が出来る喜びに涙ぐんだり、
緊張のあまり、身体中がガチガチに固まって、膝頭の震えを止める事が出来ない者まで見受けられる。
「・・・・まずは、右脚を前に蹴り上げ、そのまま静止させて下さい。
支えが必要な人もそうでない人も、左手はバーの上に置いて。・・・・では、始めッ!!」
号令を合図に、少女達の細長い左腕が一斉に木製のバーへと伸び、
一呼吸置いて、レオタードの股ぐりから健康的に伸びた、およそ三十本の右脚が、ググッ、と持ち上げられる。
中には右腕を添えなければならなかった者もいたものの、
大半の部員は、バーに置いた左腕と左脚とでバランスを保ったまま、Y字型の開脚ポーズを作る事に成功し、
伸縮性に富んだ滑らかな布地に包まれた肢体を、降り注ぐ陽の光でキラキラと輝かせながら、
新任のコーチに自分の魅力を訴えるべく、めいめいのやり方で精一杯の自己主張を試みる。
「・・・・次は、左脚。今度は、もっと長い時間頑張って」
きっかり1分後、再び麻美の声が響き渡ると、
新体操部員達は急いで身体の向きを反転させ、今度は右手をバーの上に置いて左脚を上へと持ち上げた。
再び出来上がる美しいY字脚のアーチ・・・・だが、今度は、1分を過ぎても、一向に麻美の声は発せられなかった。
10秒20秒と時間が過ぎゆくにつれ、少女達の表情からは笑いが消え、疲労と困惑の色合いが増していった。
三列縦隊のあちこちで体の重心がぐらつき始める者が現われ始め、
ついには開脚姿勢を保てなくなって、脚を下ろしたり床に座り込んだりしてしまう者が続出する。
かろうじて堪え続けている部員達の中にも、股関節への負担に息を切らし、
顔面を紅潮させて、額に汗を滲ませている者が多かった。
(・・・・まずいわね。予想した以上に、基礎体力が出来てないわ。
筋力トレーニングを軽視して、小手先の技術だけに頼る演技をしてきたせいね)
表情こそ変わらないものの、その惨状を眺める麻美の視線は苦々かった。
一般に、新体操の競技においては1つのフォームに費やされる時間は最長でも20秒から30秒程度であり、
それ以上の時間、同じ姿勢や動きを取り続ける事はまずあり得ないと言って良い。
従って、練習に際しては、1つの動作を長く保つ事より、
連続した複数の動作をスムーズに展開していく事の方に重きを置かれる傾向がある。
勿論、それはそれで、新体操の演技には欠かせない要素ではあるのだが、
そこには、持久力をはじめとする基礎体力の鍛錬がおざなりになり易いという落とし穴が存在していた。
(筋力の基礎が出来ていないから、動きに力を必要とする演技が苦手になり、
それを技術でカバーしようとして、ますます体力が落ちていく。
誰でも一度くらいは経験する事だけど、手遅れになる前にどうにかしないと大変な事になるわね・・・・)
口の中で苦虫を噛み潰しながら、麻美は、なおも無表情を保ったまま、
両脚を交互に持ち上げて静止させる、という、単純な、だが、それ故に誤魔化しの効かない動作を通じて、
目の前に居並ぶ新体操部員一人一人の身体能力をチェックしていく。
対する少女達は、時間の経過と共に容赦なく体力を奪われていき、
だらしなく開けた口元を金魚のようにパクパクさせながら、弱々しい悲鳴を漏らすようになり、
中には、先程までの熱烈な歓迎ぶりは何処へやら、麻美に対して露骨な反感を示す者まで現れる始末だった。
・・・・と、その時、一人の少女の姿が麻美の目に止まった。
(・・・・この子は・・・・たしか・・・・?)
じっと見つめる視線の先では、パール・ホワイトのレオタードに身を包んだ蒼髪の少女が、
周囲とは明らかに異なる見事なバランス感覚で、開脚姿勢を保持していた。
さすがに、涼しい顔で、とまではいかず、額には白く輝く汗の粒が浮かんでいるものの、
若鹿のようなしなやかな右脚はピンと伸び、爪先はピタリと静止して微動だにしない。
何より、他の少女達と違って、息切れもなく、表情にも仕草にも険しさは殆ど見当たらない。
(・・・・正中線がしっかりと通って、全身の重心がほとんどブレてないわね。
新体操は体育の授業で習っただけという話だけど・・・・ひょっとして、何か武道でも嗜んでるのかしら?)
どちらかと言えば、ほっそりとした、華奢な体つきなのだが、線が細いという印象は受けない。
かと言って、スポーツや武道で鍛え上げられた肉体とも違って、
光沢のある純白のレオタードから覗く色白な手足には、
しなやかさと共に、適度なふくよかさや柔らかさも同居している。
小首を傾げつつ注視を続ける麻美の姿に、周囲の部員達も、何事か、とざわつき始めた。
(いずれにせよ、逸材には違いないわね。
・・・・まったく、こんな子が、今まで一度も本格的に新体操を習った事が無かっただなんて・・・・)
嘆息を交えつつ優子を観察するうち、麻美の好奇心は驚きへと変わり、
ほどなく、これは掘り出し物だ、という確信へと至った。
柔軟さと力強さがバランスよく同居する身体に、抜群の平衡感覚。
プレッシャーに打ち負かされる事無く、自分の演技に集中できる強い意志の力。
いつしか、麻美の意識は、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄の如く、優子へと惹き付けられ、
気が付いた時には、彼女のすぐそばまでやって来てしまっていた。
「・・・・あ、あの・・・・コーチ・・・・ええと・・・・私の格好、何か変でしょうか・・・・?」
麻美自身の驚きも大きかったが、優子のそれは彼女以上だったらしく、
慌てて演技を中断し、手足を下ろすと、緊張しきった眼差しでおそるおそる麻美を見上げる。
あるいは、憧れの先輩から直接指導を受ける事になるかもしれない、と、一応の予想はしていたものの、
さすがに、彼女が、部長や上級生のレギュラー選手達を素っ飛ばして、
真っ先に自分の所にやってくるなど想定外であり、心の準備など何処にも無い。
むしろ、しどろもどろとはいえ、一応の受け答えが出来ただけでも上出来と言って良く、
ロング・スリーブのレオタードに包まれた細い肩は小刻みに震え、
Vネックの襟穴から垣間見える小さな鎖骨の窪みも、ヒクヒクと不安げに収縮を繰り返していた。
「・・・・そんなに固くならなくていいわよ。
もう一度、脚を上げてみせてくれないかしら?・・・・出来れば、バーから手を離して」
動揺していたのは同じでも、様々な経験を積んでいる分、感情の切り替えは麻美の方が素早かった。
対する優子は、緊張のため、何を言われたのかも理解出来ず、きょとんとした表情を浮かべ続けていたものの、
周囲の視線が一斉に自分に集まった事で、かろうじて、何か演技をするよう指示された事だけは理解出来た。
・・・・その後は、もう無我夢中で、体の何処をどう動かしたのかすらも分からなかったが、
気付いた時には、右足を、猛烈な勢いで、天井めがけて放り上げていたのだった。
(・・・・な、なんて事なのッ・・・・この子、もしかしたら、本物の天才かもしれないわッ・・・・!?)
急激な動作に伴う反動を一気に受けて、大きく後ろに仰け反ってしまう少女の上体。
常人ならば、そのままバランスを崩して転倒している筈だったが、
丈夫でしなやかな優子の背筋はそれを見事に食い止め、全ての衝撃を見事に吸収しきって、
さらに、あろう事か、彼女の身体を、その姿勢のまま、静止させてしまっている。
・・・・否、それだけではない。
一見、優子の体を支えているのは、床の上に残った左脚一本のみに見えるが、
麻美の鋭い眼力は、白い化繊の布地の下、やや控え目な大きさながら申し分なく愛らしい柔尻の付け根で、
括約筋と腰椎とが絶妙な均衡を保ち、背後に倒れ込もうとする力とそれに反発する復元力とを巧みに相殺させて、
プロ顔負けの美しい開脚フォームを維持し続けている事を見抜いていた。
(・・・・凄いッ・・・・こんな事が現実に起こり得るなんてッ・・・・!!)
目の前の少女の身体能力に身震いすら覚えた麻美は、もはや驚きを隠す事なく、優子に駆け寄り、
美しいアーチを形作るしなやかな身体に手を触れて、その状態を確認し始める。
これだけの事を、誰からも教わらず、天性のカンと体のバネだけでやってのける人間が存在する事実に、
もはや、驚きを取り越して、嫉妬に近い感情すら覚えずにはいられなかった。
と、その時だった。
(・・・・・・・・んッ?・・・・何かしら・・・・これは・・・・!?)
薄い布地越しに優子の背中に触れた指先に伝わる、微かなひくつき・・・・
筋肉ではなく、皮膚から――――より正確には、その中を走る交感神経から――――発する微弱な電気信号。
常人の目にはまず映らない、映ったとしても窮屈な姿勢への反発としか理解出来ない筈の、その小さな震動は、
しかし、麻美にとって、ある意味、優子の身体能力に対して感じた以上の驚愕をもたらすものだった。
(・・・・この子・・・・もしかして・・・・!?)
ラベンダー色の瞳の奥で、小さな稲妻が閃光を発し、鋭い雷鳴が轟き渡る。
思考が追いつくよりもずっと早く動き出した麻美の手は、
優子自身は勿論、周囲で息を詰めて見守っている部員達にも決してその真意を気取られないよう、
細心の注意を払って指先のわななきを隠しつつ、レオタードの表面をなぞっていく。
毛玉もささくれも無く、滑るような、という形容詞がぴったり当てはまる合繊製の布地
・・・・その薄膜の下に隠された瑞々しい柔肌の弾力が伝わって来るたび、
麻美の心はさざ波立ち、えもいわれぬ興奮と期待感とが、着実に潮位を増していく。
――――――――ピクッ!!ピクピクッ!!
・・・・案の定、返ってきたのは、先程よりもずっと明瞭な手応えだった。
我が意を得たり、とばかり、心の中で大きく頷いた麻美は、
唇の端をそっと吊り上げ、密やかな期待を込めて、目の前の少女に視線を這わせる。
だが、こちらの予想は完全に外れで、優子の顔には特段の変化が現れている様子はなく、
どの角度からも、美しく反り返った姿勢の保持に全神経を傾注し続ける真剣な表情以外は窺えなかった。
(・・・・フッ・・・・成る程、そういう事・・・・。
・・・・要は新体操と同じ・・・・素質は充分、経験はまだまだ、って訳ね・・・・)
すっ、と細められ薄紫色の瞳孔の奥で、秘められた欲望が赤黒い焔を灯して燃え上がった。
先刻までとは、全く別の意味において、鋭さを増した眼差しが、
軽く突き上げられた頤から、透き通るように白い喉元を薙いで、
浅いVネックの襟元で規則正しい収縮を繰り返している鎖骨の窪みへと滑り降りる。
湧き上がってくる生唾を、何度となく、音を立てぬよう細心の注意を払って嚥下しながら、
麻美は、まるで何かに取り憑かれたかのように、純白のレオタードに包まれた少女の肢体を凝視し続けた。
ぴっちりと肌を覆った布地によって締め付けられ、本来よりもずっと体積を減少させているにも関わらず、
なおもふっくらと盛り上がったバストは、充分に魅力的な曲線を描いて自己主張している。
ニプレスの下に隠れて、直接目にする事は出来ないが、
可愛らしい乳首が桜色に色付いている姿が目に浮かぶようだった。
ウェスト周りはよく引き締まって、余分な脂肪は一片とて見当たらない一方、
愛らしい丸尻と、その根元から伸びる一対の太ももは、
反対に、非常に力強く充実した感触に包まれ、これと好対照を成している。
・・・・そして、それらに囲まれた三角形の囲僥地。
学校指定のクラブ活動用のレオタードである以上、やむを得ない事とはいえ、
極めて控え目なカーブを描くクロッチと、その下のアンダーによって厳重に覆い隠された禁断の花園は、
高々と持ち上げられた右脚が、ガラス窓から差し込む陽光を遮り、影を落としている関係で、
一面、白い輝きに覆われたカンヴァスの中で、唯一、そこだけが、ややくすんだ色合いを帯びている。
だが、その翳り具合が、却ってこの場所の淫靡さを醸し出しているように感じられて、
麻美の中では、何としてでもその秘密を暴き出し露わにしたい、という堪え難い欲情が、熱い火照りと化して、
禁欲的なジャージの下に隠された熟れた肉体を妖しく包み込んでいくのだった。
(・・・・ふふッ、こんな可愛いカオしてるのに、カラダの方は随分と敏感なのね・・・・。
誰だか分からないけど、仕込んだのは、きっと相当なテクニックの持ち主ね・・・・
コツコツと時間をかけて、少しずつ馴らしていって、ここまで仕上げたのに違いないわ)
その部分だけ、燻した純銀を連想させる複雑な光彩に包まれた、股布の盛り上がりを眺めながら、
唇の端を小さく吊り上げ、声を立てずに笑みを漏らす麻美。
若々しい面貌にはおよそ似つかわしくない、ある種の老獪ささえ内包した表情を浮かべつつ、
傍目には少女の姿勢を確認する意図で行った行為としか映らない筈の、何気ない動作の中に紛れ込ませて、
ピン、と張り詰めた太腿筋に沿い、人差し指の先を、つつぅ〜〜っ、と滑らせていく。
「・・・・あッ!?・・・・ふぁああッ・・・・!?」
無論、優子は、全ての注意力を演技に集中し、完全に無防備な状態だった。
全く予想もしないタイミングで、快感のツボを的確に刺激されてはひとたまりもなく、
全身を走り抜けた甘い痺れの前に呆気なくバランスを崩すと、フロアー・マットの上に大きな尻餅をつく。
それを助け起こすフリをしながら、誰にも見付からないよう、もう一度だけ、その肉体を満喫した麻美は、
最後に小さく頷き、そして、熱い滾りに支配された胸の奥で決意を固めた。
――――――――この娘が欲しい。どんな事をしてでも手に入れてみせる。
と。
「・・・・なかなかスジが良いわね、麻生さん。これなら、今すぐ入部しても立派に通用するわ。
いいえ、もう少し練習を積めば、控え選手どころか、レギュラーの座だって充分に狙えるわよ」
瞳の奥で燃え盛る欲情の炎を気取られないよう、努めて冷静な口調で話しかける麻美。
まだ太腿の裏側に残っている、妙にねばついた指先の感触に微かな違和感を覚えて、
一瞬、怪訝そうな表情を浮かべかけた優子だったが、
直後、(麻美の計算通り)周囲を取り囲む新体操部員達から湧き上がった盛大な拍手と歓声とによって、
折角芽生えた警戒の感情をたちまちのうちに掻き消されてしまう。
「・・・・もし良ければ、今度の週末、私の家にいらっしゃい。
色々話したい事もあるし、貴方の意見を聞きたい事もあるんだけど、今日はもう時間がないから。
住所と道順は、後で部長に言託けておくわ」
続けざまに発せられた麻美の言葉に、周囲の興奮は更に過熱する。
意図的に作り出され、煽り立てられた周囲の熱狂は、
優子の心から、彼女の一連の行為に宿る不自然さを冷静に感じ取る余裕を失わせただけでなく、
たとえ週末に何か予定があったとしても、彼女の誘いを拒む事を事実上不可能にしていた。
と同時に、優子自身もまた、母校の誇る立派な先輩であり、
その美しさと内に秘めた強さとに強く惹き付けられたアスリートと、膝を交えて語らい合う機会を、
漠然とした不安感だけを理由に、フイにする事など到底不可能な事だった。
「ハ、ハイ。喜んで伺わせていただきます、白影先輩」
嬉しさと感動と気恥ずかしさとで、両頬を熱く紅潮させながら、深々とお辞儀をする優子。
爽やかな笑顔で応えた麻美は、だが、口の中にねっとりとした笑みを忍ばせている。
と同時に、彼女は、部員達の中の幾人か――――主に、3年生を中心としたベテラン選手達――――が、
新たな"スター"の誕生に熱狂する1、2年生達の輪の外に佇み、
チラチラと優子の方を窺いながら、仲間同士、意味ありげに視線をやり取りしている事にも勘付いていた。
・・・・目の前の少女に、その事に気付いた様子が全くない事にも。
(・・・・ッ・・・・!!・・・・くッ・・・・んんッ・・・・うううッ・・・・!!)
胸の奥で息づく密やかな興奮が一気に勢いを増して、
トレーニング・ウェアの下の火照った肢体を舐め尽していく。
紫色のレオタードの下で、じゅん、という、湿り気を帯びた小さな音がしたかと思うと、
いやらしい体液の滴が、アンダーを着けていないため直に素肌に接している薄布の繊維に染み広がり、
ただでさえ幅が狭くタイトなクロッチ部分が締め付けを増して、大陰唇に容赦なく食い込んでいく。
喉元までこみ上げてきた喘ぎ声だけは、かろうじて押し戻したものの、
さしもの麻美にも、これ以上この場所に留まって練習を続ける事は不可能だった。
「・・・・そ、それでは・・・・今日はこの辺で失礼させて頂きます。
みんな、練習の後はしっかりと体をほぐして、疲れを残さないように・・・・分かったわね?」
「お疲れ様でしたッ!!」
部員達と互礼を交わし、白いレオタードに身を包んだ蒼髪の少女に向かって微笑みかけた後、
玄関まで見送ろうとする部長と顧問の教師の申し出を礼儀正しく謝絶し、
やや西に傾きかけた太陽を仰ぎ見ながら、校舎の中を、一人、足早に歩いていく臨時コーチ。
一歩進む毎に、クレヴァスの間から生温かい液体が滲み出し、
濡れそぼったレオタードに押し包まれた花弁の狭間で、熱く固い秘芯がもぞもぞと蠢く。
・・・・と、唐突に、その歩みが止まった。
(・・・・私は、一体、何をしているの・・・・?これは、本当に、私が望んでいる事なの・・・・?)
胸の中に湧き上がってくる、漠然とした疑念と違和感、
・・・・そして、何か、とても大切な事を忘れているのではないか、という途轍もなく巨大な空白感・・・・。
((・・・・案ずるな。汝は己の欲するがままにせよ。全ては上手くいく・・・・))
頭の中に聴こえて来たのは、空耳か、あるいは、幻聴か?
・・・・だが、その囁きには、彼女の心を衝き動かす、抵抗し難い力が込められている。
夢遊病患者のような、ぼうっとした眼差しを浮かべつつ、再び歩き出した麻美の姿は、
やがて、黄昏色に染まりゆく風景の中に呑み込まれ、消え失せるようにその中へと溶け込んでいった・・・・。
――――――――――――TO BE CONTINUED.