攪拌するかのように疼く、胸のごく浅い場所。  
 
それをより明確に自覚するようになったのは  
禍々しい筈の彼の赫い双眸がどこか懐かしい何かに似ていると、  
気がついたから。  
 
**  
 
シルメリアの魂魄が幽閉されている巨塔へと突入する前に  
万全の態勢を整えようと許す限りの物資を補給しに  
アリーシャ達一行が向かったのは、ディパンの滅亡に伴って  
経済の根幹が急速に崩壊し始めていた港町ゾルデであった。  
 
神具の魔力を宿す破片の力で一瞬で辿り着いたのだが、  
街そのものが思った以上に早く衰えていた姿に、  
この場所を選んだアリーシャも僅かに眼を細めた。  
 
 無我夢中に振るった剣。  
 耳に残る魔物の咆哮と、かたちある物の砕ける音。  
 眼底にこびりつく鮮血の色。  
 怒涛のように流れる時間。  
 
 それらを癒すには、一夜という時間は余りにも短い。  
 
つい数ヶ月前まで、この街から随分と離れた場所に  
うすら寂しく建っていた古城に幽閉されていたとは誰も思えまい。  
アリーシャ自身ですらも。  
 
 
この街に訪れると決まって利用する宿で、いつものように部屋を取るのだが  
休まねばならないのに、そんな時に限って眠れない。  
ふかふかのベッドに潜り込んでみても、  
部屋の灯りという灯りを全部消してみても、一向に睡魔が擡げてくる事はない。  
 
「……もうっ」  
と、跳ねるように飛び起きたアリーシャは  
宿に備え付けられている夜着の上に薄手のショールをおもむろに羽織る。  
 
湯を浴んで軽く湿り気を帯びたままのプラチナブロンドの先を軽く組紐で結ってから  
この部屋の鍵と外出用のカンテラ、  
今はもう存在しないディパン王家の紋が鞘に彫られている護身用の短剣を持って。  
足音を極力立てないように、そっと部屋を出て行った。  
 
階下に降りてみると、簡素なカウンターの灯りだけが煌々と輝いている。  
人影らしきものはない。  
表の入り口は既に施錠されていて出れないようで、  
部屋の鍵と一緒についていた夜間外出用の裏口の鍵を開けると、  
思った以上に肌寒い外気に触れて、軽く身震いする。  
一瞬、外へ出るのを止めようかと思ったが、  
それでもアリーシャはショールを羽織り直してとぼとぼと歩き始めていた。  
 
目的という目的は、特にない。  
カンテラの灯りに照らされて幽かに見える古い石畳の模様を辿りながら歩を進める。  
 
どれくらい歩いたかは、よく解らないが  
いつのまにか波の音がより大きく耳を撫でている。  
気がつくと、街の中心部から少し離れた港の堤防まで歩いてきていた。  
 
ふと、先の方へと視線を渡す。  
船の向こう、水平線の先から幽かに見えていた美しい魔道の灯も最早失せ。  
黒くうねる波は港の薄い松明の灯を反射する程度にとどまっている。  
漁船すらも出て行く気配はない。  
 
 
瞼の奥がジンと熱くなるのを感じて、波の音に背を向ける。  
 
 後ろを向いている暇など、もうありはしないから。  
 けれど…。  
 
 こんな時 必要以上に気にかけてくれたのは…  
 
 
丁度アリーシャの肩ほどの高さにある石の堤防に凭れて  
何かに誘われるかのように夜空を仰ぐと、  
海の匂いと一緒に疎らな星がちらほらと瞬いていた。  
 
空の端から、薄暗い靄のようなものが見える。  
一際暗く、近いうちに雨をもたらすであろう雲が  
不気味な速さで移動しているのを、ただじっと見つめている。  
 
 
すると。  
 
 
「…こんな所で何をしている」  
 
 
幽かに聞こえてきた、低く響く声。  
ルーファスではない。アリューゼでもない。  
 
目の前に突然、闇より深い闇が滲み出てきて、その闇から浮かび上がったのは。  
 
赫い輝きがふたつ。  
次いで姿が現れる。  
紛れもなくそれは、不死者王ブラムス。  
 
人ならざる存在である彼は、同行しているレナスやアーリィと同じように  
街中では別次元へと姿を隠しているかと思っていたのに。  
余りにも堂々とその巨体を現したものだから、アリーシャは驚いて思わず辺りを見回した。  
 
「他の人間には見えぬし、聞こえぬよ」  
「…っ」  
 
見透かすように言ったブラムスの声にアリーシャはかっと頬を朱く染めてから、  
ブラムスの降ろしてくる視線と声から逃れるように俯いた。  
 
「少しでも休んでおいた方がいいのではないか?」  
 
気配で解る。  
気配と云うには余りにも濃く、存在の強靭さから発散される熱気だろうか。  
それを容赦なく纏ったブラムスは、アリーシャの隣りに。  
 
ブラムスの問いに答える声はない。  
代わりに波の音が規則正しく押し寄せてくるのみ。  
 
「あの……、私、あなたに聞きたい事があるんです…」  
 
波の音に揺られる押し黙った空気に終止符を打ったのは、  
一際音を強めた、アリーシャの震える声。  
石畳の模様を睨みつけていた視線をブラムスの方へと向ける。  
 
迷った末にとうとう意を決して言い出した、かのような緊張感を含む声。  
それを嫌でも感じたブラムスだったが、特に言及する訳でもなく、  
次にアリーシャが零すであろうことばを待った。  
 
「マテリアライズされた時から…  
意識は『彼』ではなくて『あなた』だったのですか…?」  
 
理由が、あった。  
どうしてもそれをブラムスの口から聞かねばならない。  
 
攪拌するかのように疼く、胸のごく浅い場所。  
 
 『ディパンの皇女でなくても、シルメリアの宿主でなくても……』  
 そう云って、大きな手はアリーシャの右手を取り、  
 慣れぬ剣を一心不乱に振るい続けた挙句、いくつも肉刺(まめ)が出来、出来た端から潰れて。  
 魔法の力を以ってしても僅かな痕としこりが消えぬままの小さな掌を  
 何度も撫でながら、その手の甲に軽く唇を寄せた。  
 
 『俺は、あなたを敬愛している』  
 
 低く響く、重厚だけれど優しい声。  
 それは、眼前の不死者王と確かに同じ響きの声。  
 
 最初は、意味そのものが理解出来なかった。  
 
 肉親にすらも見放された忌々しい存在である自分を  
 『敬愛』などと云う形容で表現された事など一度たりとてなかったから。  
 ただただ狼狽して、淡い感触の残る手の甲と『彼』の面差しとの間に  
視線を泳がせる事しか出来なくて。  
 
 『彼』はそれを見、口許だけ薄く笑んでいた。  
 きっとあれは、苦笑だったのだろう。  
 
 その意味が少しだけ、解るようになった今。  
 『彼』が自分に向けてくれたあたたかな感情は、ルーファスが同じように向けてくれている。  
 それを感じて、素直に嬉しいと思えるようにもなれた。  
 
 それでも尚、『彼』のあのことばは、アリーシャにとっては途方もなく大きな意味を持つ。  
 育んだのがルーファスであったとしたら、  
 『はじまり』を与えたのは、紛れもなく『彼』なのだから。  
 
 そして『彼』が、眼前の不死者王であったというならば…。  
 
互いの間に長く横たわったかのような沈黙だったが、  
それはほんの数瞬でしかない。  
 
見上げてくる深く清廉な蒼が幽かにしずくに潤され  
それを見せまいと我慢しているのか、  
アリーシャは口を真一文字にきつく結んでいる。  
しかし無情にも、ころりころりとアリーシャの目尻からは  
小さく清らかなしずくが幾つもまろび落ちてきた。  
 
突然視界が滲んだのに慌ててアリーシャは瞼を伏せる。  
 
ひとりで受け止めるには大きすぎる事態が続いて、  
僅かではあるが、張り詰めた空気から解放された所為なのか。  
しずくは止まる事無く、後から後から溢れ落ちてくる。  
 
 
その一部始終を無言で見つめていたブラムスは徐に身を屈める。  
瞼と共に顔を伏せてしまった少女に自らの掌を寄せようとしたが、  
それは美しいプラチナブロンドに触れる直前で動きを止めた。  
 
 
 くすんだ肌の色に、鋭利に尖った爪。  
 これは切り裂き、破壊する為に存在し、決して他者を癒すようには出来ていない。  
 
 人間の身に憑依して『彼』の内側に在った時とは、違うのだ。  
 
 
一瞬惑うようにして空に止まっていたが、  
やがてアリーシャの目尻に親指が慎重に触れて、蟠るしずくを攫っていった。  
 
プラチナブロンドを軽く撫でながら耳に触れる大きな掌の気配は  
あのオーディンとも互角に渡り合うという、戦に飢えた『不死者王』の称号とはおよそ似つかわしくないもので。  
じわりと拡がるぬくもりは、寧ろ人のものよりも熱くさえ感じる。  
 
不意にもたらされた感触にアリーシャは恐る恐る瞼を開くと、  
大きな掌はそれに気付き、そっと離れようと気配を薄めていく。  
しかし、大きな掌の纏う気配が失せてしまう前に、  
闇の中にそっと浮かびあがる淡い色彩が、それを引き止めた。  
 
大きな手の甲に乗せられた淡い色は、アリーシャの小さな手。  
 
軽く頭(かぶり)を振る。  
背中の中ほどにまで伸びるプラチナブロンドがその動きを追って左右に揺れる。  
 
攪拌するかのように疼く、胸のごく浅い場所。  
何かに共鳴するかのようにそれは歓喜し、別の場所へと瞬く間に伝染していく。  
 
「冷たい手だな。これではまるで死人のようだ…」  
 
低く響く、重厚だけれど優しい声。  
口許だけに浮かぶ薄い笑み。きっとこれも、苦笑なのだろう。  
 
 同じ響き。同じ笑み。  
 
 待っていた?そう、待っていたのだ。  
 
 何を?  
 
その答えを自ずと導き出したアリーシャは、  
迷う事無くどこか心地よくさえ感じる熱気の中心へ身を躍らせた。  
 
細い肩に羽織っていたショールがふわりと夜の闇に舞って、  
石畳へと落ちてしまう前に先に手に取ったのは、ブラムス。  
 
アリーシャは、その小さな両の手をブラムスの首の後ろできつく繋ぎ、  
厚い肩に顔を伏せながらも何度も首を横に振った。  
 
言葉にならないことば。  
後から溢れてくるしずくと嗚咽に遮られ。  
たった一言。  
 
「行かないで」が、ことばとして頑として成らない。  
 
胸を苛む甘い痛みは、未だ外へ外へと伝染していく。  
 
 
そのままの状態でどれくらい在っただろうか。  
 
アリーシャの頭の上からひとつだけ、深く息を吐く音が聞こえた。  
それと同時にショールを肩から羽織らせたその上から  
熱く逞しい腕によって抱き寄せられたのにアリーシャの方が困惑を覚える。  
 
そのベクトルに従い、ブラムスの分厚い胸板に耳が触れる。  
 
 冷たいものだと思っていたのに、  
 それはこの身をまるごと飲み込むかのような熱気を孕み。  
 
 聞こえないものだと思っていたのに、  
 それは確かに向こう側で息づいている。  
 
「離れるな」  
 
低い声が近くに這ったと同時に、心地よい熱気が不意に収束していくのを感じる。  
その代わりに瘴気ほどの禍々しさはないものの、生ぬるい気配を感じ、  
これから何が起こるのかまったく見当もつかないアリーシャは  
こくりと頷き、云われた通りにブラムスにしがみつくしか出来なかった。  
 
キンと耳が軽く痛み、一瞬でその痛みが霧散して。  
囲っていた腕が外れて収束していた熱気がまたじわりと溢れてきたのでアリーシャはおもむろに顔を上げる。  
 
そこは外よりも薄暗く、けれど見覚えのありすぎる場所。  
 
アリーシャはただ言葉もなく見回すだけだが、  
この景は間違いなく、これから休む筈の宿の部屋。  
ご丁寧に自分はきちんとベッドの上に鎮座していた。  
あの軽い耳の痛みは、ブラムスが身を置く空間へと足を踏み込んでしまった際の代償と云ってよいだろう。  
 
外から直接この場へ戻ってしまったものだから、  
ふかふかのベッドの上にサンダルを履いたまま腰を下ろしてしまっている。  
 
「そろそろ眠っておけ。明日に障る。」  
 
そう云われてアリーシャはのろのろとサンダルを脱ぎ、  
邪魔にならないように向きを揃えてベッドの下へ仕舞いこんでから  
再びブラムスを見上げ、また何度も首を横に振った。  
一際大きく空気を吸い込み。  
 
「行かないで……」  
 
漸く紡がれた一言が、部屋の中に波紋のように薄く響いた。  
 
「…自分の云っている事が判っているのか?」  
覚えている筈の声音に僅かに凄味が含まれる。  
背筋に軽い悪寒が走ったが、アリーシャはその震えを悟られないように  
奥歯をきつく噛みながら、ひとつだけ頷いた。  
 
「私は不死者だ。お前を愛で愛すようには出来ていない。」  
「…私も、ヘイムダルに『似非不死者』と云われたわ。」  
思わぬ一言に眉を顰めたのはブラムスの方だった。  
 
 
 自分にだけ与えられた特別な時間を不特定多数の為に浪費し  
 それでいて自らには何ひとつ残しもしないこの徒花は  
 
 なんと哀れで なんと果敢無く  
 なんと美しいのか  
 
 宿ったシルメリアもシルメリアなら 宿主も宿主だ  
 
 
「…私がお前に満足に与えられるものと謂えば『傷み』くらいでしかないだろう。  
それでも構わないとでも云うのか?」  
 
戦に飢えた不死者王の赫い双眸の輝きを禍々しいとは思わない。  
その理由をふと思い出した。  
 
 大好きな、大好きだった母が美しく着飾る時には  
 いつも胸元に飾っていた大きなルビー。  
 『ピジョンブラッド』と称されるその色と見紛うほどの美しい輝き。  
 
低く響く、重厚だけれど優しい声。  
この声に自らの名を呼ばれるのが好きだと気がついたのは、どれくらいか前だろう。  
 
頬に熱気の宿った掌が添えられてその心地よさに初めて自分の頬がひどく冷えている事を知る。  
そして知らぬ間に頬が濡れていた事にも。  
 
 
 
「『あれ』は、紛う事無く私の意志だ。嘘偽りはない。」  
 
 
 
丸ごと熱気に包まれるのが解る。  
身体すべてでそれを感じ取れる。  
密着する箇所が今にも燃え上がりそうなほど熱くて一気に昂ぶる。  
 
息が絶え入りそうになるその前に。  
「名を、呼んで……」と、そっと耳に吹き込んだ。  
 
目尻を潤すしずくを軽く唇で拭ったその後に、望む響きで。  
 
 
「アリーシャ」  
 
 
鼓動が一層早鐘を打ち始めると同じく、  
思考が粉々に砕け落ちそうなほどの強烈な眩暈を覚えた。  
 
 

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