良い剣というものは鞘に収まっているものだと昔何処かで聞いたことがある  
馬鹿らしいと鼻で笑った  
抜き身で結構だ  
ずっとそう思っていた  
たとえ生涯をともにする女が出来たとしても  
 
 
気がつくと面白い程赤い世界にいた。  
突如襲ってきた化け物どもと、それに乗じて隙をつこうとしてきた馬鹿どものが肉塊となり、  
だだ漏らす体液で赤く辺りを染めている。  
つい先日まで仲間ごっこをしていた男の胴に蹴りを入れる。  
報酬配分が気に入らなかったのだろう。  
――――何匹つるもうが雑魚の火力で俺の相手になるか、屑ども。  
空は夕焼け。焼け付くかのように赤い。  
普段の夕暮れは彼女を思い出すのだが、今日の空から振る赤はあの女を思い出させる。  
侵攻先でずっと焦がれていたあの女に会った時は、幾度となく窮地に追い込まれ、脱してきた自分にさえ鳥肌が襲ってきた。  
長かった。  
とことんまで追いつめられてやっとお出ましになった。  
ずっとずっと、先の大戦で目にした時から、その麗姿が脳裏に焼きついて離れなかった。  
紅く鮮烈で、そのくせ嘘のように清廉。自分という存在の何もかもを狂おしいほど滾らせた。  
煉獄に放りこまれたかのような灼熱の緊張感はあまりにも心地よく、内でたぎる炎火をさらなる業火へと煽る。  
この女を形成した全てに、この女に至るまでの脈々たる血流に、この女が自分と対峙する運命に感謝した。  
口角がつりあがる。  
干戈を交えると魂にまで打ち響いてくる。  
熱源から全身に行き渡り、滞りなく燃焼していく。  
剣戟の響きの何と心地よいことか。  
最高だと思った。  
死んでもいいと思った。  
ほんとに死んだ。  
 
「しっかし」  
赤い海原に立つ漆黒の死神は、亡骸に囲まれつつもため息をついて空を仰ぐ。  
実力に差がありすぎて張り合いがない。  
「つまらねえなあ……」  
正直、彼女のビンタの方がよっぽど痛い。  
そういえば一人逃がしてしまった。常時おどおどして役に立たない年若い男だった。顔も覚えていない。  
何故だろう。以前なら大喜びで追い殺しにいくのだが、元気が出ない。面倒くさい。  
生前はそうした容赦のない残虐さにより名の上がっていくことに喜びを感じていたが、  
そんな殺戮家業を二度目の生でも続けるのは流石に疲れる。  
俺も年か。  
いや違う。あれだ。  
苦しまないようにしてだの殺戮よだの結果は見えていただの、離れていても彼女が耳元でぎゃんぎゃんとうるさいからだ。  
アホか。殺し合いにモラルもクソもねえだろ。殺らなきゃ殺られるだけだ。うぜえんだよ本当にテメェは―――――  
エインフェリアになってからはいつもそんな言い合いをしていた。  
怒鳴り返しても怯えすらせず、さらに綺麗事を並べて噛み付いてくる。  
うんざりするほど煩い女だった。  
解放されたら即刻ぶった斬って転がった首を足蹴にしてやる。  
何処へ行きやがっても必ず見つけ出して復讐を、必ず――――  
ずっとそう思ってきた。  
認めたくはないが、以前から自分が彼女に病的な執着を持っていることは薄々感じていた。  
その膨らみゆくばかりの熱を、殺されたのだから当然のことだと必死で思い込もうとしていた。  
記憶の中で紅い髪が揺れる。  
同じ色をしていても、自分の目玉とは質が違うといつも思っていた。  
絶対に相容れない赤だとばかり思っていた。  
それが彼女の赤だったのか、あの女の赤だったのかは、覚えていない。  
 
 
 
名はアドニス。歴史に悠然と名を刻むカミール17将の一人である。  
名を刻むとはいっても、アドニスの場合は限りなく悪名に近い。  
前世では黒刃という二つ名を与えられる程、金とともに戦場を与えられるごと、傍若無人に暴れ回っていた。  
 
……どうでもいいけど俺の二つ名って何て読むんだ?  
こくじん?こくは?くろやいば?  
本人も知らない。  
ぼったくり設定資料集ではちゃんとふりがなふれよ!  
そして自慢ではないが、といいつつ自慢だが、当時最強の戦士だったとも言われている上、  
歪んだ世界樹で最終決戦寸前まで一軍に在籍していた唯一のエインフェリアでもある。  
…変態と本格的に戦りあう前に御役御免にされてしまったが。  
あれはそう、ラスボス戦である対変態2戦目の直前。  
エインフェリア解放とヴァルキリードーピング作業中の話だ。  
最早女を捨てたといっていい程にムキムキマッチョメン化してゆくヴァルキリー。その勇姿を横目に、  
他のエインフェリア連中と共に自身まで解放されてしまうことについて、アドニスは激しく噛みついていた。  
「ふざけんな!ここまでやらせた俺まで解放するっていうのか!?最後までやらせろよ!!」  
捕らわれのレナスを解放するため、レザードを攻撃して生まれる少しばかりの合間に結晶を叩くという、  
地味で苛立つ作業をずっと強いられてきたのだ。  
これからだという時に解き放たれるというのである。  
納得がいかない。  
願い叶わずなのは薄々予感していたが、それでも冗談じゃねえぞとしつこく粘った。  
腕組みした不死者王が尊大な面持ちのまま、ゆっくりと口を開く。  
「何ゆえに死に急ぐ…」  
「へっ。何だよ説教か?俺は戦れれば何でもいいんだよ!その先に何があろうが知ったこっちゃねえ」  
戦うためにエインフェリアになったのだからリスクなど当然のことだ。  
どうせ死んで悲しむ人間もいない。  
聞き分けのないアドニスに小さくため息をつき、目を閉じると、ブラムスは歪んだ世界の天井を仰いだ。  
「“死”を…感じる……」  
「……それちょっと台詞早いだろ。つかごまかすなコラ」  
ツッコミを食らうと、ブラムス、いや元ディパンの賢王は、何かよくわからんが  
姿勢を正し深々と丁寧なお辞儀をしてきた。  
「いたらない上にはねっかえりにも程がある子孫ですが、どうぞ末永く可愛がってやってください」  
あまりの意味不明さにむしろ脱力する。  
 
「…………………何言ってんだ?じいさんついにボケたか?」  
訝しげにブラムスの顔を覗き込もうとしたら、  
「あああぁあうるっせええっ!!ぐだぐだ言ってないでとっととミッドガルドもどれ!!おらっ餞別だぁ!!」  
あさっての方向から矢が二本飛んできて、アドニスの兜に容赦なくぶっ刺さった。  
「ぎゃあぁあぁ何すんだヘタレ半妖精!!俺の選び抜かれた兜が!洗練されたフォルムがああ!!」  
「ヘッ!即席ウサ耳だ!ただでさえ中ボスみたいな見た目なんだからこれで何とか可愛がってもらえんじゃねーの」  
まだひこ●ゃん兜を装備させられる方がいい。  
ていうか、可愛がってもらえって、誰に!!  
「てめ、ルーファス…!」  
胸ぐらを掴もうとしたら、  
「いいじゃんか!行けるんだからとっとと行けばいいだろぉおおっ!?」  
半狂乱に叫ばれて先に掴み上げられてしまった。  
「俺だって!俺だって、ホントはっ!!アリーシャ連れて逃げてーんだよぉおおぉ!!」  
「新主神本音&半泣き自重」  
「おおお俺なんかっ、まだキスさえしてないのにオワタんだぞ………。  
 越えてはならない一線どころの話じゃねえよあぁああ俺のアリーシャアァアあああぁあ」  
大絶叫の背後でアリューゼが体育座りでずーんと落ち込んでいる。  
「ルーファスはまだいいじゃねえか、よせあげネーちゃんトコ行くんだから…。  
 俺なんかお供はオーブだぞ…球だぞ…ツンデレ長女フラグがボッキリ折れたのに、玉だけ3つあっても…」  
「お前ら5周目だからって余裕ありすぎだ」  
落ち込む二人に毒づくと、猛烈な反撃が返ってくる。  
「うるせー!アドニスのくせに生意気だぞ!」  
「そうだそうだー」  
「いてっ!いていてっ!……てめーら俺をのび太ポジションにするとはいい度胸だあぁあぁあ!」  
アリュアンとルー夫とのびニスが無駄に争っている地点から少し離れたところで、  
他エインフェリア達の解放作業は着々と進んでいる。  
最早お祭り騒ぎである。  
ええい、こいつらではラチがあかねえ!  
そう判断したアドニスは、今やガチムチの兄貴さえときめくであろうヴァルキリーをギロリと睨んだ。  
 
「おいシルメリアいるんだろ!何とかいえ!シルメリアオラッ!!早く出てきやがれシルメリアど畜生が!!」  
一番付き合いの長い戦乙女の名前を連呼し、朝のトイレ争奪戦よろしく鋼鉄のヘアバンドを高速ノックする。  
しばらくすると、限りなく春日部市の幼稚園児を思い出させる声が重々しく響き渡った。  
「うるさいわね。入ってるわよ。そして痛いわよ。何よアドニス。  
 新作で自分のターンがこなかったアーリィが最高に機嫌悪いんだから静かにしてよ」  
「何を言うシルメリア!私は三姉妹として当然の権利を主張しているだけだろうがっ!何もおかしくない!!  
 ……わ、私だって! 私 だ っ て な ぁ あ あ ぁ 」  
「落ち着いてくださいアーリィ次出るのは外伝じゃないですか、ねっ?きっといつか皆が待ち望んでいる神シナリオと  
 神システムと神演出と神その他で邪神じゃない等身大神フィギュア付き超豪華特装版VP−長女−が出ますよ…ねっ」  
「下手な慰めはよせアリーシャ!だいたい、だいたいだな、レナス…  ま た お 前 か ッ ! ! 」  
「アーリィ…出れれば良いというものでもないわよ…私次回作こそ絶対に穿いてないわ」  
四人の言い争い…もとい、かしましいお喋りは傍から見ていると、完全に一人芝居にしか見えない。  
「と に か く っ ! !」  
話が盛大にそれているので大声を上げて軌道修正し、面倒そうなヴァルキリーに血走った目でこれでもかとガンをつけた。  
「いいから俺も連れてけやシルメリア」  
「駄目よ。命を無駄にすることないわ。早くミッドガルドへ戻りなさい」  
「ニーヴァレまでのつなぎくらいはできる!!」  
「イラネ」  
「即答かー!!」  
さすが主人公の扱いを受けなくてもモッコス後継者にされても耐え凌いだ強靭な戦乙女シルメリア、非常に容赦ない。  
「いいの?」  
ブチ切れ寸前のアドニスの目前に、指を一本すっと立てる。  
依代の大事にしている指輪が優しくきらめいた。  
「あなた、本当はもっと話をしたい人がいるんじゃないの?」  
一瞬目の泳いだアドニスを確認して、運命の女神は目を細めた。  
「今誰かよぎったでしょ」  
「別に…「大丈夫よ。あなた結構変わったもの。正直、解放して大丈夫かなって心配なうちの一人だったのよ。  
 一人だと心配だけど、二人でなら解放できるわ……」  
「…何だ二人でならって」  
「言わせたいの?」  
一人の女から四人分のくすくす笑いが聞こえるのは多分気のせいではない。  
「じゃ、そゆことで」  
「コラ!勝手に話を終わらすんじゃねえ!待たんかしんメリアー!!」  
 
掴みかかろうとしたら、あさっての方向からグングニルが飛んできて衝撃を起こし、会話を遮断される。  
「話が進まあぁあん!!」  
次の瞬間には、全てを超越した変態…………いや、破滅を求める変態に胸ぐらをつかまれて激しく揺さぶられていた。  
「お情けで行かしてやろうと言っているのだぞ!早く戻って虫けらどもで最後の告り合いでも楽しむがいい!!」  
「ぐあ!やめろレザード!変態が伝染る!」  
「うおおお!!万能たる神の私がフラれたのに何故貴様ごとき蛆虫を想う女がいるのだあああ!!!」  
「あーわかったわかった三周目はエインフェリアクリアで転生できるよう頼んでやるから!来世でがんばれ!なっ!」  
「嫌だあぁっ!レナスでなければ!レナスで…我が愛しき女神でなければ何の意味もなぁあい!!  
 今の貴様にならわかるだろう黒い蛆虫!!」  
「だあぁあぁっ!いい年した男が泣くなぁあ!あーもう時間!時間だから!!スタンバってろホレっ!!」  
「ふじこおおぉおおぉ」  
必死に変態を定位置に押し戻してから一息つき、さあ再度ヴァルキリーに詰め寄ろうとしつこく決意の顔を上げた途端。  
「いい加減にしないかアドニス!さあ来るんだ!!」  
醜態を見かねた元赤光将軍によって羽交い絞めにされた。  
「ぐあ!やめろエーレン!老け声が伝染る!」  
暴言を吐いたら、そばにいたエーレン信者のお嬢様に殴られた。  
「殺すぞ貴様!せめてナイスミドルボイスと言え!」  
「ナイスじじいボイス」  
「貴様ー!!」  
「よさないか二人とも………」  
この義理の親子(と言うとクレセントは不満げだが)とアドニスの関係は、生前から何も変わっていない。  
「エーレンやっぱり止めることないわ!とっととシルメリア様達と行かせてしまいましょうよこんな奴!」  
暴言ながらもクレセントが自分の味方をしている。やはりここは異世界だ。  
そんな彼女を、彼女が慕う男は眉をひそめて軽く諌めた。  
「何を言っているんだクレセント」  
「だ、だって」  
鼻息の荒さが失せて、見る見る間にしょんぼりする。  
「セレス様のためにも行かせちゃった方がいいと思うんだけどなあ……」  
初代黒光将軍を毛嫌いしていた白光将軍は、二代目とは結構仲が良かったらしい。  
ぴくりと反応する。  
「おお、そうだ。あの女のためにも俺を行かせちまった方がぜってーいいに決まってるだろ?  
 なんせ解放されたら首落とさなきゃなんねえからな!」  
陰湿なにやつきを浮かべながらそう言っても、エーレンには失笑を、クレセントには嘲笑をかっただけだった。  
「「どうせ斬れないくせに」」  
「ハモるなあぁああぁっ!!斬る!斬るっつったら斬 るッ!!」  
 
怒声を張り上げると、クレセントからいつも通り、汚物を睨め付ける視線を容赦なく注がれる。  
「あーあやだなあもう…最悪。こんなウロコイカスミ鎧つけたゲス野郎の一体どこがいいのかしら…。  
 セレス様絶対どうかなさっちゃってるのよ。そうよ。きっと一時的な気の迷いなんだわ。  
 決して“ボディパは強いけど男の趣味はエインフェリア史上最悪”とか、そんなことないのよ!  
 これから時間はたっぷりあるんだし、もっとゆっくり探せばきっと釣り合うステキな人がいるのに…。  
 かといってエーレンは駄目だけど…」  
むくれるクレセントの肩にエーレンの手が添えられる。  
「そういうなクレセント。大事なのはお互いの気持ちだろう?元は同じロゼッタの仲間、応援してやろうじゃないか」  
「う〜。エーレンがそう言うなら…。う〜でもやっぱりやだなあセレス様にこんな珍獣…やだなあ…泣きそう」  
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!!俺は残るぞ!」  
あからさまに周囲に気持ちがダダ漏れてしまっている現状がいたたまれない。  
さっきから何なんだ、みんなして、まるであの女もこっちのことを、みたいな言い方ばかりしやがって。  
そりゃあそんな奇跡みたいなことが起こるのなら、戻ってやるのも一興だが…。  
駄目だろ。無理だろ。殺すだの斬るだの実は重戦士のくせに誤魔化すなだの散々怒鳴り散らしてきたのだ。  
奇跡は起こらないから奇跡という、の典型的な一例だ。  
つうかそんなことが起こるなら、今死んでもいい。  
その隙を、アドニスが前世で最後に仕えた男の、眉毛を伴わない片目が見逃すはずもなかった。  
『スピリチュアルソーン!』  
「ぐわあああっ!!」  
見事に即死魔法が炸裂し、身体から動く力が失われる。  
「あとでエヴォークフェザーしてあげますからねーアドニス」  
「ア…アンタなあ…」  
ぼやけゆく視界で、ゼノンがにっこりと、さよ〜なら〜とばかりに手を振っているのと、  
「せいせいしたわホントに」  
最早癖になっているのか、ただの本心か、クレセントがお決まりの台詞を吐いたのと、  
「さあ早く連れていこうか――――彼女の元へ」  
エーレンが(老け声のくせに)爽やかに自分を担ぎ上げるのを感じたのを最後に、がっくりとうなだれた。  
遠のく意識の中でオマケとばかり、クレセントの諦めを含んだ大きなため息が聞こえた。  
 
 
「………」  
回想を終えると頭痛を感じていた。  
今思うと、エインフェリア連中のみならず、シルメリア達にまで強力に背中を押されていたらしい。  
いくらアドニスとはいえ多少の気恥ずかしい思いで満たされる。  
ちっ、おせっかいどもが。誰もんなこと頼んでねーよ。どいつもこいつも死ね。  
 
とは毒づいても、連中にとっては予定調和だったのだろうその奇跡は起こってしまったわけで。  
らしからぬ重いため息をつく。  
他人に道を作られるのは好きではない。  
「………………」  
もうすぐ、ヴィルノアに到着できるだろう。  
彼女の元へ戻る。  
復讐の相手ではなく、自分の女になってしまった彼女の元へ。  
―――足が重い。  
現状に、自分の選んだ道に、本当にこれで良かったのだろうかと思う。  
空からの赤が静かに失われてゆき、闇が広がる。  
地面を汚す体液の赤だけが残されて、何だか取り残されるような気持ちになる。  
光というのは、去っていくものなんだな…  
そんな、自分らしくないことを感じるようになった。  
己が人間として輪を形成できない異端な存在であることはわかっている。  
皆と同じ行列に並べるような性格でもない。  
理解なんぞされたいとも思わない。  
生前なら孤独を感じた時は酒でも女でもいいからその場を凌げればよかったし、  
鮮血に呼ばれて絶叫を引きずって恨まれ嫌われ憎まれて、  
今も昔もこれからもずっと一人だと思っていた。  
おいシルメリア。  
何が大丈夫だ、何があなた変わっただ。  
やっぱり俺は普通の生き方ってのに全然向いてねえぞ。  
他人を大事にすることなんてガラじゃねえんだ。  
適当なこと吐いて、結局は体のいい厄介払いしたかっただけなんだろ?  
戦乙女さんよ―――  
答えが戻ってこないのをわかっていて空を仰ぐ。  
宵闇が視界にも心にも忍び込んでくる。  
―――多分。  
自分が選んだ女の中には、大きく分けて二人存在する。  
一人は早く戻ってきてねと微笑むが、一人はさようならと言って微笑む。  
今こうしている間にも、少しずつ、あの女を殺していることを感じる。  
本当にちょっとずつ。  
ゆっくりと、静かに、寝かしつけるように。  
本当はそんなことは欠片も望んでいないのだが…。  
かぶりを振る。  
悩んでいても仕方ないと思考を遮断する。とりあえず帰宅しよう。  
「あー…」  
重苦しい息をつくと本音までぼとりと落ちた。  
「おっぱい揉みてー………」  
 
 
目が覚めると陽は昇り、窓から明るい光をこぼしていた。  
ヴィルノアへの帰路、小さな村にある宿の一室。  
外からは子供達の無邪気な笑い声がする。  
 
混沌とした世界がほんの少しずつだが安定を取り戻しゆくのを感じる。どうやらアリーシャ達はうまくやったらしい。  
あれだけやる気だった自分を放り出しやがった雇い主なんぞもう知ったことではないが、一応は褒めてやる。  
ため息をついて頭をかく。  
気を許した女との二人寝の味を知ってしまうと、一人の床がどうも空虚に感じる。  
欠伸の後、性格を体言しまくる威圧的かつ凶悪な緋色のツリ目がぎょろりと動く。  
全体的に見ればかなり美形の部類ではあるのだが、普段の黒い防具と持ち前の粗雑な性格で常に台無しである。  
ふと、幼い声に名前を呼ばれた気がして、窓の下に目をやる。  
兄弟だろうか。年端もいかない少年が二人、木の棒を振り回して遊んでいた。  
ちっこい方が弾丸のように猛突進してゆく。  
「このげどーめ!おまえのあくじもここまでだアドニちゅ!かくごー!とりゃー!」  
「ぐあああああっ!せ、せれすきさまー!やーらーれーたー」  
兄らしき少年の方がわざとらしい呻きと共に首をおさえて膝をつき、「ばたっ」と口で言って倒れた。  
弟はふんぞり返って棒を高々と掲げる。  
「せーぎはかつ!」  
…………。  
薄ら笑いと青筋が浮かぶ。  
悪鬼扱いなのは別に構わない。事実だから。  
悪者扱いなのも別に構わない。似合うから。  
だが目の前でやられると結構むかつく。  
自分達が派手に戦り合っていた時代から既に数百年が経っている。  
後世に語り継がれている姿としては、嫁は英雄で自分は悪魔である。  
どうでもいい。  
先達の偉人なんぞ、正義か悪かどちらかに大きく偏っていた方が、頭を使わず扱いが楽なのだろう。  
実際にはあの女もあっち行ったりこっち行ったりと十分にアレな人生だったと思うのだが――――  
まあどうせあながちは間違っていないのでどうでもいい。  
いいのだが。  
…一騎打ち自体は俺の方が圧倒的有利だったんだ。想定外の信じらんねー一発逆転劇だったんだ。  
ちょっとは史実どおりにやれ。つうかやられたなんて言ってるヒマあるか。首とんだんだぞこのクソガキども。  
鼻水たらしてねえでちったあ勉強しろ。  
と怒鳴りたいのを必死で堪える。  
もっとも――――――。  
ヴィルノアに構えた新居では、その首ちょんぱ女が自分の帰りを待っているのだから、事実は小説より奇なり、なのだが。  
「…………」  
本当に。  
…何でこんなことになってしまったのだろうか。  
 
まさにぬるぽと言えばガッと返される仲になってしまった。  
時々自分に用意されている人生選択肢の凄惨さに眩暈を覚える。  
いつ俺はこんなトンデモフラグおったてたのであろうか。  
そう、確か。  
生前の(逆)恨みから絶対復讐してやるといろいろとちょっかいを出しているうちに何故かそんなことになってしまっていたのだ。  
男と女なんて本当にいつどう転ぶかわからない…としか言い様がない。  
解放後、水鏡の破片からミッドガルドへ放り出されてからの経緯としては下記のとおりである。  
決着を着けるべく正々堂々と果し合いを申し込んだところ、  
『私じゃもうあなたに敵うわけないから体で許して!』と懇願するので仕方なく妥協してやったら、  
『本当はずっと前から素敵な貴方が好きだったの!離れたくない……!』と縋りついてきた為、  
まあいいかとそばにおいてやることにしたのだ。  
ただし、これは黒刃菌による都合のいい脳内変換が95%ほど行われているため、事実とは徹底的に異なる。  
そんなわけでとりあえず一緒になった。  
だが、二人だけになり、剣も交えず、普通に自分の隣りを歩かれるのは最高に落ち着かず、むずがゆい気分だった。  
正直とんでもないことになったと一夜のあやまちを後悔し、トンズラしてやろうと思った回数は片手では数え切れない。  
刃で結ばれた間柄とはいえ根本的な人間としての種類がまったく違う。  
無理だ。絶対うまくいかない。いくはずもない。  
そう常々思ってはいても。  
夜半、伏せ目がちに寄り添われ薄紅の頬でOKサインを出されては、  
すいません俺が悪かったですありがたくいただかせていただきます状態へ、べしっと簡単に叩き落とされる。  
少し歯止めがきかなかった日でも、終わった後には疲れきった顔でそっと微笑まれる。  
その繰り返しである。  
めちゃくちゃな組み合わせは意外にも相性が良く、しばらくは何事もなく世界をぶらついていた。  
それが崩れたのは、大きな仕事を果たして依頼主の村に戻った日の夜だった。  
村人達から割れるような拍手と歓声で出迎えられる。  
無駄に纏わりつかれるのが心底嫌いなので、自然と人目を集めてしまう彼女の輝きが非常に助かる。  
それでも自分におべっかを使いに数人が近寄ってきたが、  
彼等に美人だきれいだと相棒を褒められるのは決して悪い気分ではなかった。  
いい…。  
とてもいい。  
やはりこいつを斬らなくて正解だった。  
俺一人でも十分大量破壊兵器だが、こいつがいれば天下さえもう一度望めそうな気がする。  
このままどちらかがくたばるまで一緒に、ずっと無双っていたい――――  
この女と一緒なら何だってできそうな気がしていた。  
とにかく非常に気分が良かった。  
良かったのに。  
 
眠りにつく前、何か言いたげだったので吐かせてみたら、実はもう剣を置きたい、とぽつり呟いた。  
耳を疑うと同時に、やはりか、という交わらない二つの感想が頭に浮かんだ。  
この女が剣を持つ時には何か大きな理由が必要で、その為だけにあの鮮烈な剣技は現れる。  
持ってしまえば潔いもので迷いはない。だが、本音は持ちたくはないし、できる限り戦場から遠ざかりたい。  
だいぶ前から気付いてはいた。  
この女は自分と違って剣を振るうことに恍惚を感じていない。  
本当によくわからない女だ。天武の才を投棄する気らしい。それだけの腕をドブに捨てると言うのか。  
それを喉から手が出るほど手に入れたい輩が一体どれだけいると思うのか。  
…いや。自分には理解し難いが、結局はそういうものなのかもしれない。  
それ以前に。  
すぐにでも剣を置きたい今現在、持ち続けている理由は、  
……………俺のため、か。  
舌打ちする。強気で身勝手なくせに変なところだけ献身的で気色が悪い。  
沈黙していると、『ちょっとそう思っただけだから気にしないで』などと見苦しい言い訳をしてくる。  
こいつぁもうだめだと思った。  
これ以上やらせると彼女は自分でも気付かぬうちに、戦い続ける程、己を追い詰め削っていくのだろう。  
紅い花は己に宿る烈火に喰われてゆく。  
本能的にもう戦いたくないのだ。  
沈黙の後、『じゃあどうすんだ』と訊ねたら、『…できれば何処かに落ち着きたい』と珍しく弱腰に答えた。  
『なら好きにしやがれ。別に無理して付き合えなんて一言も言ってねえぞ』と返した。  
『でも』  
『でももクソもねえ。んな半端な奴に付いてこられてもこちとら迷惑だ』  
『…私は大丈夫よ、だから』  
『大丈夫ってほざく時点でもう駄目だな。つーかうぜえ。疲れたからもう寝るぞ』  
遮断してベッドに潜り込むと、隣りでうつむいていたセレスがぽつり呟いた。  
『…たまには会いにきてくれる?』  
『あぁん?何勘違いしてんだ?お前が住むのは俺の家だボケ』  
この台詞がほとんどプロポーズみたいなもんだったことに、吐いた本人が気付いて茶を吹くのは、かなり後である。  
資金が貯まるまでのつなぎとしてヴィルノアで借りたのは、古ぼけてお世辞にも立派とは言えない一戸建てだったが、  
彼女はいいと言った。  
こんな調子で、いつの間にやら事実婚といっていい関係になってしまっていた。  
誓う神などいない。  
誓ってやってもいいたった一人の女神である戦乙女はもういない。  
互いのみだという契約のようなものだろう。  
 
戦士だった女が慣れない手つきで家事を始める姿は実にたどたどしかった。  
壁や家具の破損を伴う度重なる凶悪な失敗に、がんばれ借家成仏しろよ家具、と何度も思ったものだった。  
出される食事もけして美味くはなかった。  
最初に出された夕食で泡をふいた時は正直謀られたかと思った。  
しかしどの失敗にもあまり強くは言えなかった。  
元は身分の高い女、他人がやって当たり前の世界にいたのだから、家事など初めてなのだろう。  
それでも懸命に頑張っているのは伴侶をしていればよくわかる。  
しょげる彼女に(ツンデレ全開で)次がんばればいいと(力いっぱい遠まわしに)言った。  
仕方ないので泡を吹いた次の日は何百年かぶりに自分で料理した。  
何とか喰えるだろうという大雑把な野郎料理そのものだったが、彼女はいいと言って微笑んだ。  
彼女は本当に何も文句を言わなかった。  
安い服、きたない家。昔なら食べる心配も無い栄華の頂点で皆にちやほやされながら生きていただろうに。  
ふと、思い出したくもない糞野郎がセレスをからかってお姫様などと呼んでいたことを思い出す。  
そうだ…こいつお姫様だったんだよなあ。………………かなり規格外だが……。  
仮にも現在も続くラッセンの元領主夫人、滅びたとはいえ出身は王家。  
メイドの一人も雇えないのかこの甲斐性無しとなじられるかと恐れていたが、彼女はやはり何も求めてこなかった。  
あまり欲を示さない。  
同じ屋根の下で生活していると色々なことに気づかされる。  
戦姫だったとはいえ立ち振る舞いに気品が染み込んでいて、育ちのよさをうかがわせる。  
彼女には何気ない動作なのだろうが王家仕込みの優雅で上品な作法が垣間見え、粗末な部屋と雑種な旦那にまったく合わない。  
そんなのを嫁にしてしまった。  
非常に落ち着かない。  
そんな姿を見ていると心なしか哀れになってきて、彼女にそんなミッドガルド版神田川を強いている自分が情けなくなり、  
逆に何も期待されていないのかと焦りを覚え、  
自分の妻になった女なのだから、メイドは雇えなくてもせめて少しは良い家を与えようと思うようになった。  
ある程度の生活はさせてやりたい。  
別に惚れた女には良い暮らしをさせたいとかそういうのでは決してない。  
あんまり貧乏生活させてるとそのうち書き置き残して逃走されるとか危惧したわけでは絶対にない。  
とにかく金がほしい。金は幾らあっても困りはしない。  
酒場で受けた簡単な仕事の後、遠くだが割の良い仕事が見つかったので、そのまま現地へと流れた。  
気がつくと数ヶ月が経過していた。  
 
 
宿を出る頃には、先ほどの兄弟は友達を交えてニブルヘイムの霧ごっこに没頭していた。  
午前中は自分だった少年が、昼下がりには英雄ディーンと成り代わっている。  
 
そう、その程度なのだろう。  
カミール17将などと讃えられても所詮歴史という記憶を綴るひと欠片でしかない。  
現在ではその肩書きすら使えない、一介の戦士だ。  
彼女も、もう―――  
一人の女でしかないのだ。  
理屈はわかっているつもりなのだが、実際にはうまく融合してくれない。  
 
 
ヴィルノアが一歩一歩近づいてくる。足も重いが気も重い。  
この数ヶ月、彼女から離れることで薄々と気付き始めてしまった問題がある。  
自分が執着している女はやはり“斬鉄姫”ではないかということだ。  
再会して現在の彼女にがっかりするなどという事象が起こったら、一体どうすればいいのだろう。  
認めたくないのだが、ほんの少し、ほんの少しだけではあるが、恐れていた。  
乱雑なため息をつく。  
腐れた運命とけなしてはいたが、エインフェリアであった頃は良かったと今ではつくづく思う。  
悩む必要など一切なく、戦乙女の形成する輪に属し、戦い、文句を言っているだけでよかったのだから。  
あの女が一緒なのも、嫌だが仕方ない、で済ませられる空間だった。  
共に呼び出されて使役されるのも然りだ。  
速い。  
何故、自分のものより一回りほど小振りなだけの大剣で舞えるのだろうと戦慄する。  
何十匹に囲まれても気迫だけで魔物どもをたじろがせる、その圧倒的な存在感。  
相手を真っ直ぐに見据える静かすぎる冷たい瞳は同時に紅蓮の炎を巻き起こしている。  
動けば苛烈。それでいて艶麗。走る鮮紅は囚われることを知らず、消えた瞬間に映り、  
驚愕する相手の血でもって更なる赤を誘う。  
しなやかで残酷。  
地べたに転がるのは必ずその双眸に映された方――――  
赤い雫を滴らせる剣にただ恐怖しているだけの連中には反吐が出た。  
最高にいい女じゃねえか。  
この良さがわからねえ弱虫どもは勝手にキンタマ縮めて怯えてろと鼻で笑っていた。  
彼女の宿敵であると同時に、彼女の理解者を気取っていた。  
だが、彼女は剣を捨てて変わってしまった。  
言葉遣いからは剛毅が失せ完全に女のものになった。  
剣を捨てることなど決してできない同類、というわけではなかったのだ。  
結局何もわかっていなかった。  
―――それが悔しい。  
今の彼女は時折別の生き物のように映り、そのギャップが非常に受け入れ難い。  
 
とはいえ。  
どちらかを選択しなければならないのだったら、正解は自分の選んだ選択肢だろうという確信はある。  
鋭い眼光をちらつかせることはあるが、長い睫毛に大き目の緑色をした瞳、基本的に顔立ちの整ったとてもきれいな女だ。  
脱いだら下乳のネーちゃんと肩を並べてエインフェリア第二位のナイスバディを誇り、  
87・61・85などという、まったくもって実にけしからん(ry   
もちろんよせてあげるアレなど一切不使用の天然ものゆえ、逆に厄介である。  
あまり、いやかなりモテるタイプではなく、むしろ逃げられるか拒絶される、限りなく真性喪男に属するアドニスとしては、  
自分を想ってくれるなどという奇跡の女との出会いはまさに一期一会、絶対に逃せるはずもなく、  
いつかきっと商売女以外に相手にされる日がくると信じて三十路近く、  
さらに死んでから数百年、待って待って待ち続けて、  
人生で一瞬だけモテる瞬間というヤツがやっときたと思ったら  
前世で自分の首を刎ね飛ばした女だった。  
皮肉なのかそれとも己のギャグ体質が招きよせたのか、  
待ち焦がれていた運命の相手は前世で自分を首ちょんぱして真っ赤に染めた女だった。  
おでん(故人)を心底呪った。何の罰ゲームなのかと思った。  
こいつか。こいつなのか、俺の紅い星は。ほんとに赤いじゃねえかいろんな意味で。  
魅かれている部分もあったのは認めたくない事実だが、正直、悩んだ。  
前世で殺されたという因縁の壁を超えられない。  
一度は拒絶した。  
 
が。  
普段強気な女に傷ついた顔をされ潤んだ目で見上げられる(オプション:全裸)などという反則技を用いられては、  
素直に投降するしかないというものであった。  
だいたい重装備の女が一糸まとわない姿になるというだけでも既に万歳三唱モノなのに、  
そこに加え強靭なバネで跳躍し飛びかかってきやがる忌々しいあの二本の脚も、  
褥では長く艶かしい別の意味での凶器に変化していた。  
そういえば俺らエインフェリアのキャラデザインはエロ絵師だった。脱げばすごいに決まっているではないか。  
ハッ!!しまった迂闊だった!これは罠だ!!孔明だ!!と気づいた時には既に遅かった。  
ぬれた唇の下で深い谷間が刻まれているという絶景強力コンボをモロにくらい、  
普段はまとめられている長い髪が肌にかかっている妙になまめかしい全身図はまるでクリティカルミスティファントム、  
どうせ全部胸筋なんだろと馬鹿にしていたら、実は大変たわわに実った素晴らしいモノをお持ちであったなどという  
驚愕のボディパッセージこの世の楔たる銀の以下大変お見苦しい表現により略。  
秒殺フルボッコである。  
ボイン好きとして、エロい人として、巨乳属性として、その壮絶たる色香の前に  
ただ打ちのめされひれ伏すしか術がなかったのである。  
不可抗力である。  
俺は悪くない。  
あいつがエロいから、そう、エロいからいけないのである。  
うん、そうだ俺は悪くない。  
まったくもって恐ろしい女だ!!  
勿論、納得いかない部分が無いと言えば嘘になるのだが…。  
結局は『ま、嫁にしたんだから俺の勝ちだ!』というご都合主義な極論に達するしかなかったのだった。  
 
 
…………………。  
…………………おい。  
なんだよその蔑んだ目は。  
ああそうだおっぱいに負けたんだよまた負けたんだよあの女によなんか悪いか文句あんなら表へ出ろこのやろう  
 
 
いつの間にかヴィルノアへと到着していた。  
…真面目に悩んでいたはずなのにいつの間にか変な方向へねじれた気がする。さすが俺。しかし気にしない。  
だいたいそんなことで頭使う性分でもねえんだよなぁ……。  
 
街道を歩く。商業の都に軍事色の強まる気配は未だ継続され、活気の中にも微妙に歪んだ空気を醸し出している。  
四宝の一つが戻ってきたところでこの流れは変えられないのだろう。  
徴兵なんぞ喰らう義理もない。  
まだしばらくは大丈夫だろうが、今後の情勢によっては彼女を連れてとっとと別の地へ流れることも考慮している。  
それにしてもかつての黒刃が生きていて、しかも宿敵の斬鉄姫を妻にしたなどと、  
この大量の人間の中でも誰が信じるだろうか。  
本人もたまに信じられなくなるから無理もない。  
未だに実はバーボンハウスのサービステキーラでアホな夢見てるだけじゃねえのか、と己を疑う時がある。  
ざわつく街並みを歩いてゆくと、例の花売りが相変わらずの笑顔を振りまいていた。  
真横を通り過ぎると、  
「あっ!セレスさんの旦那さんお帰りなさい!」  
などと声を張り上げるので、思わずこけそうになった。  
嫁はこの花売りの常連客だ。  
アリーシャが贔屓にしてた花売りさんだから…とかいうわけのわからない理由で、  
小額とはいえ無駄金をはたいて買い続けている。  
追悼のつもりだろうか。馬鹿馬鹿しい。  
とは思うものの、季節の花を手にして微笑む嫁の姿も悪くないので放っておいている。  
それに、彼女にとってはアリーシャは実兄の子孫。以前アリーシャには兄の面影があると目を細めていたことがある。  
自分とは捉え方が違うのだろう。  
………。  
セレスさん……か。  
それは未だ数える程しか呼んだことのない彼女の名前だった。  
剣を置き、殺気の充満する世界から解き放たれて、彼女は緩やかに変わっていった。  
もともとあの破天荒熟女の姉とは思えない程落ち着き払った女ではあったが、  
それに加えてしっとりとした雰囲気を醸すようになった。  
それでいて今までどおり強く、女らしい深さを持ち合わせている。芯が一本通っているせいだろう。  
そして。  
選んだ相手――つまりアドニスに対して、とても真っ直ぐ、誠実になった。  
エインフェリア時代から自分をちゃんとかまってくれる女など彼女くらいのものだったが、さらに真摯になった。  
認めたくはないが、…………非常に認めたくないが、……可愛い女になった。  
彼女と違い、こちらは名前すらちゃんと呼べない体たらくぶりだった。  
呼ぼうと思ってもどうも息がつまる。  
何かきっかけがあれば違うのだろうが、待っていてもそれは来ない。  
男は愛には素人だとどこかで耳にしたことがあるが、多分そんなものなのだろうと思いこむようにしている。  
自分でも認めるが、良い旦那ではない。  
彼女が伝えてくる気持ちにまともに返事をした覚えがない。  
仕方ない。性分だ。  
彼女もそういう男だということはきっちり踏まえた上で一緒になったはず。  
 
言い訳を並べていたらいつの間にやら家の前に到着していた。  
迷いは持て余すものの、やはり数ヶ月ぶりの再会は心躍るものもあることを認めざるをえない。  
とりあえず数カ月分まとめてヒィヒィ言わせてやらねえとな、などと下卑た思考で脳内を満たしたままドアを叩く。  
それにしても今回は少々遠出をしたため時間を空けてしまった。  
予定を告げてもいないが、連絡もしていない。  
さすがに寂しい思いをさせただろうか。  
………。  
ま。  
そうだとしても。  
浮気なんざ、あのお堅い女に限ってねぇわなー。  
つうか、あいつ俺にベタ惚れだしな。  
フン。やれやれだぜ…と思いつつドアが開くのを待つこと数秒。  
勢いよく開け放たれたドアから信じられない生き物が元気に出迎えてきた。  
「はーいっ!どっなたですかー!!」  
ちょ  
「ザ」  
待  
「ザン…デ…」  
裏の裏の裏の裏をかかれたとはこのことなのか――――違ったそれは逃げ足魔導師だった  
きょとんとした顔をして、蒼剣グランスティングの英雄・ザンデが立っていた。  
視界が暗転する。  
…間男いたよ間男。  
嘘だろ。  
よりによってこいつかよ!!どんな趣味だよ!!  
こんな頬に渦巻き書いたらすげー似合いそうな奴のどこがいいんだ!?  
母性本能がくすぐられるとかいうヤツなのか!?  
それとも意表を突いて、とぼけた顔してモノは人妻殺しマグナムとかなのかッ!!  
「おー!アドニスじゃないか!あははおっかえりー!!」  
当のザンデはこちらの気もしらないで、硬直する肩をばんばん叩いてくる。  
「相変わらず真っ黒いなー。洗濯したらホワイトアドニスになるのかなこれ」  
意味不明な暴言とともに高らかに笑う。蹴り殺したくなる。  
何が悲しくて、帰宅したら半裸の野郎におかえりを言われるなんていう拷問を受けなければならないのか教えてほしい。  
全力で罵声を浴びせ問い詰めようとした瞬間、新たなる刺客が視野に入ってきた。  
「帰ってきたのかアドニス!久しぶり元気だったか」  
同じくヴィルノアに住んでいる堅物ローランドが爽やかに手をあげた。殴り殺したくなる。  
「何だぁ?アドニス帰ってきたんか?邪魔してるぜ」  
ひょっこりと出て来たのはむさ苦しいヒゲを生やした海の男イージス。沈め殺したくなる。  
 
唖然とする。  
かつての仲間も今のアドニスには不貞の淫棒どもとしか映らない。  
何故俺の家から茸が生える。何故こんなわらわらと吹き出てくる。  
お…俺の嫁が、  
俺のみさえがそんなふしだらな……!!  
アドしが状況をけ止められずにいると、騒ぎを聞きつけて奥の台所からその嫁が現れた。  
ヴィルノアに住む同年代の女と同じ服をきているが、遠目からでもどこか違う雰囲気を漂わせているのは、  
内に潜めてある強い煌きがどうしても滲み出てしまうからかもしれない。  
単に旦那の欲目という説もある。  
「アドニス…?」  
姿を確認すると表情に花が咲いた。  
「おかえりなさいアドニス」  
その表情を見れば彼女の心が誰のもとにあるかなどすぐにわかるはずなのに、  
憤怒の塊と化したアドニスには、家庭を夢見る男なら誰でも憧れるその微笑みも目にはいらない。  
「テメエこのひまわり女っ!!なんだこの状況はぁっ!!」  
「は?」  
「ちょっ、おい!待てって!」  
彼女に詰め寄ろうとしたアドニスを、ローランドが慌てて止めに入った。  
「おいおい何だよ何だよ」  
セレスに一番近かったイージスが丸腰の彼女をかばう形で立ちはだかる。  
血管が切れる。  
何故伴侶である自分の方が悪者になっているのか、理解できるが理解したくないのでしてやらない。  
「てめえ斬鉄姫!!そんなに若い男がいいかあああぁあっ!!」  
「落ち着けアドニス!装備がおっさん臭いがお前も実はまだ若いじゃないか!」  
天然のローランドは悪気がないので本当に一言多い。  
「放せっ!あああほんっとにうぜえなあこのカミナリ野郎はっ!!  
 アリーシャ狂いのテメェを同じ街に置いとけばいくらか安心だと俺は踏んでたんだぞ!!  
 何がっつり参加してんだよっ!!畜生所詮男かテメェも!!」  
「落ち着けって!意味がわからん!あとアリーシャ様またはアリーシャ王女と呼べこのイカスミ星人!!」  
「だいたいテメェは口ばっかりで実際に何とかしてくれたためしが殆どねーじゃねーかっ!!  
 俺がバカだった!!まったくもって安心できねー!!」  
「何だと!?お前正直者すぎるにも程があるぞっ!!」  
八つ当たり先のローランドとの衝突が起きようとした瞬間、ザンデが突然頭を振りながら雄たけびをあげた。  
「駄目だダメだだめだあアドニス!ずっと待たせてた奥さんに酷いこと言っちゃだめだー!!」  
誰 の せ い だ  
 
「違うだろおぉお!?やっと帰ってきて久しぶりの再会なんだからさあっ!!  
 もっとこう、逢いたかったとか!愛してるとか!それからこう、ぎゅー!とか!!ちゅーとか!!」  
「アホかボケこのザンデ流が!俺が街中でそんなことしたらわいせつ物陳列罪でしょっぴかれるだろうが!!」  
「罪状が違うぞ。強制わいせつ罪だ」  
「いやあながち間違ってねーと思われ」  
「うるせーぞエリンギ二本!!」  
「ああぁあっ!その態度…さてはまったく反省してないなあ!?ここは一発お仕置きだああぁ!!ザンデ流!」  
諌める間も与えず、バカの身体が回転しながら空高く飛び上がる。  
「オリハルコンチョ――ップ!!」  
自分めがけて振り下ろしてきた。  
向けられた害意を目の当たりにして、アドニスの、腕っぷしだけではない、戦乱の世をたくましく生き抜いた  
強靭な戦士の頭脳が高速で回転する。  
―――――え?チョップて……  
大剣もってる俺にチョップで対抗?  
無謀すぎるだろ!実はなにか計算があるのか!?  
はっ!  
しまった!  
そうじゃない!!  
こいつは本物のバカだった!!――――(この間約0.8秒)  
……まともに戦略を計算しかけた自分が情けなくなった。  
それが苛立ちと連動する。  
「ああぁあもう糞うぜえんだよとりあえず死んどけゴルァ!!」  
大剣を振り上げ迎撃用の構えをとると、  
「ばかっ!本気になるなよ!!」  
ローランドに邪魔されてしまって舌打ちした。  
フン、だがな!俺のこの選び抜かれた黒い兜にチョップかましたところで痛えのはそっちの方……  
などと鼻で笑っていたら、背後からイージスに補助魔法を叫ばれた。  
『マイトレインフォース!!』  
こ の 溺 死 野 郎   
避けることも防御することも許されぬまま、1.5倍に増強されたザンデチョップが容赦なく振り下ろされる。  
勝敗は決した。  
「ローランドサンキュー!イージスナ〜〜〜イス!」  
「やっぱり仲間とする連携は最高だな!」  
「や〜エインフェリア時代を思い出すな〜」  
ぷすぷすと煙を上げている自分をよそに、朗らかに笑い合っている三人が忌々しい。  
予想外としか言いようのない帰宅の洗礼に震える拳を握り締めていると、  
「アドニス」  
目線の先で紅糸がさらりと揺れる。  
「何してるの……もう」  
思い切り呆れ顔のセレスが、膝をついて自分を見おろしていた。  
 
目にかかる髪を耳にかけて髪留めで押さえているため、今は両目が自分を見据えている。  
長い指先が一撃を食らったあたりを心配そうに撫でてくる。  
珍しいまでにあでやかな朝摘みの薔薇色をした長髪、素でも十分に華やかな顔立ち。人目を引く美しい女なのは認める。  
しかしだからといって浮気をしていい免罪符にはなるものか。  
「てめ…っ!元はといえばてめえが…!」  
肩をつかもうとした瞬間、夫婦の間を一本の古ぼけた杖が遮断する。  
ぎょっとして顔を上げた先には、ミスタークゥルダンセル・ミトラが非難めいた渋い顔をして立っていた。  
「騒々しいと思ったら…。まったくいつまでも落ち着かんなお前は」  
「ぎゃああ!!決して若くない男までいやがるのかー!!」  
嫁の守備範囲の広さに驚愕して思わず絶叫する。  
「何だその言い草は。私とて肉体年齢はお前と6つしか違わないぞ」  
とてもそうは見えない貫禄の魔道師は、たくわえたフサフサのヒゲを撫でつつ、諭す。  
「手を出す前に、まず話を聞いてやりなさい。彼女はお前の妻となり剣を置いた身なのだぞ。  
守るべき立場のお前がそんな簡単に手をあげてどうするのだ」  
ぐっとつまるアドニスの背後で、  
「お〜さすが年長者は言うことが違う」  
先ほどのチョップトリオから拍手が起こった。  
「うるせえ!説教なんてきかねえぞ」  
自慢ではないが、ていうか当然のことだが、手を上げたことなど一度もない。斬ろうとはしたが。  
「そう大声でわめくな。ほら聖水やるから少しは落ち着かんか」  
「そんなすさまじく疑わしい聖水いるかー!!」  
何なんだこのメンツは。何でこんな連中が集ってるんだ。理解できない。  
「おいてめえ!何でこんな、男ばっか生えてんだよッ!!」  
そう嫁に怒鳴りつけると、間をおかず反論が飛び掛ってくる。  
だがそれは嫁の声ではなかった。  
「女もおりますよ。奥様とお昼の支度をご一緒させていただいておりました」  
いつのまにかセレスの隣りにきていた青い髪を束ねた女が、はっきりした口調で言った。  
ぴしりとした態度に一瞬詰まったが、顔に見覚えがなかったのと、セレスを奥様と表現したことより、  
家政婦か何かの類だと判断する。  
「おいっ!!勝手に家政婦なんて雇ったのか!」  
怒鳴りつけるとセレスの顔から速攻で血の気が引き、女の顔には弱く苦笑が浮かんだ。  
「あら…うふふ、覚えていただいていないようですね」  
「もう!あなたって人はホントにっ!ああ…ごめんなさい気を悪くしないで」  
「構いませんよ。彼とはあまり交流もなかったし、鎧を脱いでしまったらわかりませんよ」  
どうも知人らしいその寛容な女は、聞き覚えのある上品な声で朗らかに笑った。  
「お邪魔しています」  
ここでやっと記憶がつながる。  
白銀のリシェルだ。  
 
彼女が丁寧に頭を下げると、嫁とは対称的な青い艶髪がさらりと揺れた。  
ずいぶんと印象が違う。セレスよりさらにお堅いなどという論外な女だと思っていたのに。  
芯の強さは感じさせつつ、楚々として流麗な女だ。  
嫁が夫の無礼を必死で謝罪している最中、当の馬鹿旦那はというと、  
…こんな綺麗な女だったっけか?と目を丸くしていた。  
これは盲点だった。  
「一緒に戦った仲間を覚えてないなんて」  
嫁には非難がましい視線を浴びせられたが、  
そんなこと言われたって当時はほぼ尻しか見てなかったからわかるわけねえだろ   
とか言ったら包丁でボディパられるのでやめておく。  
リシェルは微笑を絶やさぬまま、落ち着いた物腰で何気なく説明を入れる。  
「驚かせて申し訳ありません。ゾルデとコリアンドルあたりに住んでいる者達で、こちらに遊びにきたんですよ。  
 本当に、奥様とローランド殿のご好意に甘えさせていただいてばかりで。心から感謝しております」  
だからどうぞご安心くださいね、と言わんばかりの美しい微笑みに押されて、口ごもってしまった瞬間だった。  
屋内から何もかもをぶち壊す、母譲りを隠そうともしない一陣の風が吹く。  
「セレス伯母様どうされましたー?あっ!ああああっ!!やああっと帰ってきたんだこの首もげ野良亭主!!」  
派手なピンク色のフリルふりふりエプロンを装着したクリスティが飛び出してきて、物凄い勢いで絡んできた。  
「ねーねーアドニスアドニス〜アタシやっぱりアドニス伯父様って呼んだ方がいい?  
 でもアドニスって伯父様ってカンジじゃないよね!屋台のおじちゃんみたいだよね!  
 ねじり鉢巻とかすっごい似合いそうなんだけど。だからもうアドニスでいいよね!!ねっ!  
 本当はさあアタシ的にはセレス伯母様にはもっとステキな人がいいって思うんだけど、良かったねアドニス!  
 あっはははは棚からぼた餅ってヤツ?あっ違うかあ猫に小判?いや豚に真珠かなー!!?」  
「ほっとけ!!」  
「ああ〜んそうそうそうなのよアドニスなんかホントどうでもいいの!それよりさそれよりさ〜〜聞いてよお!!  
 またはぐれちゃったの!!愛しのセルヴィア様とお!!セルヴィア様見なかった!?」  
あのやかましい義妹と双子同然な姪が、自分のまわりをくるくると回る。  
そういえば水上神殿の近くを通りがかった時に緑色の物体が蠢いているのを遠目で確認したが、  
あれはひょっとしてこちらに手を振っているセルヴィアだったのだろうか。  
確証はない。違っていて八つ当たられたらムカつくので黙っておく。  
どうせ手がかりがなくても地の果てまで追いかける気なのだこの娘は。  
「ねえねえアドニスってばー」  
にしてもうるさい。  
セレス達曰く、『母と同様で自由奔放だが誰からも愛される性格』らしいのだが、アドニス的にはただの騒音である。  
 
ハエを振り払うのごとく怒鳴り散らす。  
「うぜえ!しらねーよ!ファーラントの野郎なら鉱山の入り口でショートして煙吹きながらぶっ倒れてたが」  
「ええっ!たっ倒れてたんですか!?」  
「ちょっと!まさかそのまま放置してきたのっ!?」  
「サイテー!オニー!アクマー!」  
リシェルの驚き声とセレスの怒った声とクリスティの煽りがセットでアドニスを責める。  
余計なことを口にしてしまった。  
「知るか!そこら辺で拾った戦士の秘薬恵んでやっといたからいいだろ!何で野郎なんぞ助けなきゃなんねーんだよ!」  
本当はあっさり元気になったファーラントに  
『久しぶりにセレス様にもご挨拶に伺いたいからついていっていいか?』と尋ねられたのだが、  
嫁に会わせたくないから振り払って帰ってきたなんて言えない。  
ファーラントは(脳みその構造はともかく)熱血漢な上に顔立ちも良く、子供向けの正義のヒーローを絵に描いたような男だ。  
自身を殺めたクレセントにも、裏切り者なはずのセレスにも寛容で態度が良い。  
散々苦労したはずなのに欠片も捻くれていない晴れやかな笑顔が気にくわない。  
というか、その気がなくてもセレスに馴れ馴れしい野郎などみんな敵だ。  
『いいじゃないか連れてってくれよー』  
笑顔でだばだばと追いかけられて必死で逃げた。  
『うぜええっ!!どうせならお嬢様んとこ行きやがれ!精霊の森だ!10オースくれるぞ!がんばって海泳いでけ!!』  
まるでロケットランチャー無しでタイラントに追われるジルの気分だった。  
奴の自慢の逃げ足を振り切るのは非常に困難だったが、裏の裏の裏の裏の裏をかいてマッハアドニスとなり何とか煙にまいた。  
なんてことをしたら当然ながら非難の的である。  
その場にいる全員にぎゃんぎゃんとわめかれ、逆ギレゲージが順調にたまっていく真っ只中、  
ほれトドメとばかりに、大あくびをしながら最終兵器が現れた。  
「エルド……」  
少年の容姿に似合わぬどぎつい漆黒を纏った元暗殺者がふと立ち止まる。  
アドニスとはロゼッタ時代からそりが合わない男だった。荒くれた気性が同じなのだ。  
ラッセン襲撃時、半分ほど、いや半分以上見殺しにしてくださった、目障り極まりないクソ同僚である。  
快く思っていないのは相手も同じようだった。  
眠そうな顔から一転、苦虫を噛み潰したような表情になり、心底からうざったそうに吐き捨てる。  
「帰ってきやがった」  
しつこい汚れを発見したような視線を浴びせられる。  
自分の家に戻ってきたことがそんなに悪いのか。  
「テメェ…何でこんなところにいるんだよ」  
「はぁ?お姫様んとこ遊びに行くって声かかったから来ただけだ。なんか悪りぃのか?」  
何でこんな奴に声をかけたああぁっとばかりにローランド達にガンと飛ばしたが、みんな一斉にそっぽを向いた。  
今にもブチ切れそうな怒り心頭の夫と、その隣りで困り顔をしている妻の顔を交互に見比べた後、つばを吐いて毒づく。  
「こんな深海で蠢いてそうなムラサキイカスミのどこがいいんだか…」  
 
「あぁ!?何か言ったかこの ド チ ビッ !!」  
言ってはいけない言葉を一文字一文字正確に発音して堂々と投げつける。  
ゴゴゴゴゴゴゴゴ という擬音の醸す威圧感とともに、病的で凶暴な瞳がギョロリと動く。  
互いに外見がJOJO化するのをやめようともせず一触即発の言い争いは開始された。  
「人のこと言う前にその変態全開のむさ苦しい装備何とかしろよ!キメェんだよその胸当てッ!早いとこまた首もげろ糞がッ!」  
ドドドドドドドド  
「ヘッよくもまあ偉そうに小人の分際でッ!とっととセラゲ行って純白の腰布でも巻いてハムに噛まれつつ犬小屋覗いてろッ!」  
┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨  
「アドニス、エルドもやめて」  
セレスが割ってはいると、喧嘩相手は面白くねえとばかりに舌打ちをして目をそらした。  
それすらも癇に障る。  
「おい何故そこで言うことを聞くチンピラ暗殺者!かかってこい」  
沸騰して大剣を構えるアドニスにエルドは呆れ切った顔を向けていたが、  
直後に悪巧みを思いついた表情になって口元を歪める。  
「あーあ!そりゃこんなクソ旦那じゃ余所見したくなるのも無理ねえよなー!」  
「何だと…」  
人妻の肩ををぐいと抱き寄せ、耳元でわざと聞こえるようなささやきを漏らす。  
「続きは後でな。お姫様」  
その場にいる全員がピシッと固まる。あらま、と口に手を当てたフィレスの娘以外は。  
セレスに手を振り払われるとククッと陰湿に嗤い、再度けだるげな欠伸をしながら立ち去ろうとした。  
「テメェっ!!誰が逃がすか…」  
怒りに任せて後頭部を鷲掴んでやろうとしたら、即座に振り返られ、その鋭い眼光と火花を散らす。  
だが先ほどと違い、相手の声色は既に落ち着いていた。  
「ならちゃんとそばにいてやれよ。連絡もしねーで長らく一人きりにしとく方が悪りぃに決まってんだろ。  
 此処もナリ潜ませてた連中がずいぶん出しゃばってきてるじゃねーかよ。  
 こんな状況の街に剣置いた自分の女一人ぼっちにしとくか?ばっかじゃねーかこのビチグソイカスミ」  
無駄に正論を含んだ毒を吐くだけ吐くと、  
「ほんと男の趣味悪すぎ。AAA史上最悪」  
後は振り返りもせず人ごみに紛れてしまった。  
しばし呆然と立ち尽くす。  
何故だ。  
何故あんなドチビにダメ出しを喰らわなければならない。  
何故目の前で他人に嫁の肩を抱かれなかればならない。  
何故『今のはエルドが正しいわな』と言わんばかりの視線を方々から注がれなければならない……!  
心底困り果てたといった様子の嫁の手を振り払う。  
 
全身から瘴気を放出しながらずんずんと歩き出す。  
「何処行くの!?」  
「とりあえず殺してくる。話はそれからだ」  
「ちょっともうっ!」  
「ガタガタ言うな死なねえよ殺すだけだ」  
「「子供かお前はっ!!」」  
一歩進む度に一人制止してくるので、七歩進んだ時にはもみ合って丸めた団子虫のようになっていた。  
その神レベルのうざさに、ただでさえ短い導火線が終了の合図を告げる。  
絡みつく連中を乱暴に振り払っって牙をむいて吼える。  
「出て行け!!どいつもこいつも俺の家から出て行けえええぇぇええ―――――――ッツ!!」  
その気迫は赤の他人になら身も竦むような鬼神の咆哮なのだろうが、彼をよく知っている仲間達には、  
ただただ場を白けさせるだけのものであった。  
円陣を組んだ一同により、ヒソヒソと会議が始まる。  
「ま〜たご乱心だよ」  
「ブチ切れはこいつのお家芸だから」  
「ほんとセルヴィア様とは大違い!」  
「だーいピーンチ!」  
「自分は連絡もせずブラブラしてたのは本当なくせにな」  
「身勝手なくせに嫉妬深いんだよこういうヤツって」  
「きっと俺らのことも淫棒×5とか思ってるぜ」  
「皆さん下品です…」  
「まったくあんな男のどこがいいんだねセレス」  
「ホントホント〜セレス伯母様どこがいいのー?」  
「たまには息抜きにゾルデ里帰りするか?無理しない方がいいぞ」  
「え?ええっと…やっ、そんな皆で……えっと。そうねえ、多分無意味に黒いところ。かな?とか、素敵?なのよ?」  
「そんなの絶対気のせいです夢です蜃気楼ですセレス様byクレセント」  
「でも本当に、うまく言えないけど、良いところもあるのよ…」  
「つーかそんなんで選んでもらえるのなら私も10分後にはカノンローブ着用なわけだが」  
「俺漏れも」  
「愛って難しいな!」  
「ああーんセルヴィア様ー!!」  
「そういえばリシェル殿、俺も先日ゴーラ地方へ行ってきたんですよ。土産の銘菓カノン焼きを後でお渡ししますね」  
「まあありがとうございますローランド殿、苦しまないように頭からかじるといたします」  
「ところでどうするこれから?」  
「誰か聖水いらんか?」  
「一時撤退だな」  
「一時じゃねえ!!永久に撤退しろ!!つーかいい加減にしろテメエらあああああぁぁあ―――っ!!!!」  
「セぇルヴィア様あああっあぁあぁああ―――――――っ!!!!!!」  
流石にこれだけ騒いでいると人の目が気になり始める。  
それぞれ不満を口にしながら、ローランド宅へと撤退していった。  
「待てそこの俺の嫁!!お前は残れ殺すぞ!!」  
「えー」  
「えーじゃねえこの豚野郎!!」  
 
 
 
 
 
 
苛立ちが止まらない。  
去り際にカナヅチが小声で、大丈夫かと声をかけていた。  
心配しないで、ありがとうと小さく微笑む。  
何が心配しないでだ。何がありがとうだ。  
何もかもが気に入らない。  
家の中に足を踏み入れると、相変わらず小奇麗に片付いてはいた。  
ウォルターから贈られた“結婚生活に福を呼ぶ”らしい観葉植物が、今日も不気味に蠢いている。  
使われなくなった剣が立てかけてある。隕石から作られたと言われている鈍色の名剣ムーンファルクスだ。  
解放時にセレスが持たされた刀剣である。  
シルメリアやキルケ・ソファラといった女エインフェリア達が、セレスのために選んだ。  
故に、剣を捨てた今でもとても大事にされている。  
特記事項は聖属性+30。  
さらに『ファルクス』とはアドニスと同じ場所でマテリアライズできるもう一人の英霊の名。  
セレスは否定するが、アドニス的には聖属性−30の自分への集団嫌がらせの何者でもないと信じている。  
室内は荒れてこそいないものの、多くの人間がいた形跡が当然とばかりに残っていた。  
雷鳴まんじゅうだの聖水お得用タイプだのがテーブルの上を我が物顔で占領している。  
来客の目を楽しませるためか、中央では白い花が普段の数倍咲き乱れていた。  
外した防具を力任せに投げ捨てて騒音を立てつつ、留守を任せておいたはずの嫁をギロリと睨む。  
「何だこの惨状は」  
「何だもなにも。見ればわかるでしょ。ゾルデとコリアンドルあたりに住んでるもしくは生息してる  
仲間達が遊びにきてるのよ。リシェルもそう言ったじゃない」  
冷静な対応がアドニスをいっそう煽る。  
「百歩譲って女どもはいい!!野郎泊めるなんて何考えてんだ!!」  
「泊めてないわよ。男はみんなローランドの家。今は食事にきてただけ」  
拍子抜けな事実に勢いを殺がれて沈黙する。  
腕組みしたセレスが重いため息をついた。  
「これでOK?心配しなくてもあなたに顔向けできないようなことは何もなかったわよ」  
いだいていた疑念の内容が筒抜けである。  
そして実際、本当に何もなかったのだろう。自分の妻とは思えないほど貞操観念のしっかりしている女だ。  
「いいじゃないの知らない仲じゃないし。宿代だって馬鹿にならないのよ」  
頭ではわかっているのだが、どうしても納得がいかない。  
「……じゃあ一万歩譲ってあの連中も許そう」  
大きく息継ぎして腹の底から叫ぶ。  
「あのドチビを入れるなあぁあ!!」  
「もう怒鳴らないでってば。正直私もエルドが来るとは思わなかったわよ。こういう集まり好きそうじゃないし。  
 でも来ちゃったなら無下にはできないでしょ」  
当のセレスはどうでもよさそうな口調だが、あの男に関しては苛立ち以上にどうしても不安が募る。  
 
「おい…マジに何にもなかったんだろうな」  
滝のように汗を流しながら問いつめたら平然と言い返された。  
「そりゃちょっとくらいは迫られたけど」  
「な、なんだってー!お前まさか‥‥!」  
「馬鹿な心配してないで。応じるわけないじゃない。  
 あの人別に私がどうこうじゃないもの。ただまとまったものを引っかき回して、壊したいだけよ。困った人よね」  
とは言われても動揺の火はなかなか消えてくれるものではない。  
「だいたいだな続きってなんだ続きって!何してたっ!」  
「もう、見事に惑わされてないでよ。あくびしてたでしょ。  
 あの人昨夜はローランドの家に泊まらないで夜中ずっと遊び歩いてたみたいよ。  
 うちに来て朝食食べてからずっとソファで寝てたもの。続きも何もないわ」  
「だが……!」  
「アドニス」  
以前は交えることを躊躇うこともあったその視線は非常に潔く、迷いなく自分に注がれる。  
「エルドの性格はわかってるでしょ?あなたがそうやって反応するから喜んでああいう嘘つくのよ。少しは落ち着いて」  
閉口する。あまりにもその通りなのだが、何も悪くないのに叱られたようで気に食わない。  
「…前から思ってたんだが、あいつ実はお前を」  
「ないない。ないない。私なんか。それにエルドってかなりモテるみたいだしね」  
この嫁の何気ない一言が、傷口生々しい生前の記憶を否応なしに呼び起こす。  
そう、あの糞野郎は妙に女に人気があった。あんな女顔したミラクルドチビの何処がいいのかさっぱりわからないが。  
エーレンも適度にきゃあきゃあ言われていた。クレセントが殺気を放出して蹴散らしていたが。  
ゼノンにいたっては状況に合わせて不気味な眉ナシ顔と美形な眉アリポリゴン顔を使い分けるといった人外な凄まじさだった。  
他の連中には黄色い声援が飛び交うのに、自分だけウホウホ動画だった将軍時代のつらく悲しい過去が抉り出される。  
現実に打ちのめされる旦那の周囲に縦線が何本も入って人魂が浮いているというのに、  
「ロゼッタのみんなとも集まる機会があるといいわね」  
のほほんとクレセント頑張ってるかしら?などと言っている嫁の姿には実妹と同じ血を感じる。  
つい嫌味を言いたくなる。  
「いいご身分だな。旦那が稼いでる合間に何匹も男連れ込んでよ」  
さすがのセレスもこれにはムッとしたらしい。  
「そんな言い方しないで。本当は日程とか相談したかったのよ?でもあなた、ちっとも帰ってきてくれないんですもの。  
 みんなの都合もあるし延期はどうしても出来なくて」  
「俺のせいだっつーのかよ」  
「そうじゃなくて……!」  
「ケッ。何本咥えこんでたんだかな」  
それは言ってはならない一線を越えてしまった一言だった。  
身持ちの固いセレスには余計に残酷である。  
目を見開いたまま硬直していた表情は、だんだんと悲しげに歪んでいった。  
「ひどい‥‥」  
 
うつむく彼女から目をそらし、  
「あーあー!俺も遊んでくりゃよかったな」  
大声で嫌味を吐き捨てる。  
流石に傷付けているのはわかるのだが、止まることができない。  
「やめてよ皆に失礼じゃない!私なんか…」  
斬鉄姫として恐れられ続けていたせいなのか、嫁はどうも容姿の割に女としての自己評価が低く、ちぐはぐに感じる。  
それさえもアドニスには他の男どもを庇ったように聞こえて、さらに機嫌の悪さを増すばかりだ。  
暴言を続けようとしたら、キッと顔を上げたセレスに先制された。  
「何よっ!アドニスだって!!」  
「おお何だ俺がなんだ!俺は潔白だぞテメェと違ってな」  
「聞いたんだから!キルケやクレセントに飽き足らず、手当たり次第声かけてたでしょ!?」  
…チッ。  
バレてら。  
「ソファラに『今日はちゃんと穿いてんのか』とか馬鹿なこと聞いてスクランブルガストされたでしょう!!」  
「なっ!待て!違う!」  
「『姉さんに失礼なこと言わないでください!』って怒られてミリティアにもスクランブルガストされたでしょう!!」  
「それはあくまで絶対領域による一部庶民への破壊的効力について考察するべき永劫の螺旋へと続く純粋なる探究心でだな!」  
「仕舞いにはゼノンにも『セクハラはいけませんねアドニス』って制裁のグランドトリガーくらったでしょうっ!!」  
「つーか本気で冷えるんじゃねえかと心配しただけだ!!無実だ!!濡れ衣だ!!」  
「嘘 つ き っ ! 何でそんなこと言えるのよ信じられない馬鹿!変態!ドスケベ!!最っ低!!  
 そんなんだからエインフェリアセクハラ四天王の不動の一人に数えられてるのよばかばかばかっ!!」  
口げんかのボルテージが上昇するといつも思う。  
や っ ぱ り 斬 り た い   
逆ギレも兼ねてテーブルを思い切り叩きつける。  
「ああわかったぞこのクソ女が!!ケンカ売ってんなら全力でかってやるぞ剣を持てコラあ!!」   
「何よばかっ!そんなこと言ってるとまた首飛ばすわよっ!!」  
「上等だてめやってみろこのやろ偶然の産物とかほざいてたくせに」  
「何よばかばかっ!!そんなんだから聖属性−30なのよ!!」  
「何だコラ!全属性抵抗+5だのボディパだのクソ優遇設定だからって威張ってんじゃねーぞ!!」  
「やっ!ちょっとムーンファルクス持たせないでよ!!あなたホントたまにドSなんだかドMなんだかわからないわ!!」  
「生前は漢の中の漢を極めてたテメェにとやかく言われたかねー!!」  
とても前世で英雄だったとは思えない夫婦の低レベルな口喧嘩が展開される。  
こうなるとどちらも退く気ゼロだからタチが悪い。  
それが幸運にも一時停止されたのは、ぎゃあぎゃあともみ合っているうちにアドニスの荷物がどさりと落ち、  
オースと戦利品がぼろぼろとこぼれ出たのがきっかけだった。  
 
通貨とともに、価値を知っている者なら生唾ものであろう珠玉や金銀財宝が床の上に撒き散らかされ、  
ある意味夢のような世界が広がる。  
宝石が一つ転がっていってセレスの足元を小突いた。  
「ケッ!真面目に稼いで戻ってきてやったらこのザマだぜ!やってらんねーったく」  
「…」  
大人しくなった嫁の手が大粒の宝石を一つ、つまみ上げる。  
フン所詮女だな光り物で黙りやがった――――――  
アドニスが鼻を鳴らすと同時に、宝石はテーブルの上にコトンと置かれてしまった。  
二つの瞳は相変わらず自分を見つめている。  
「…どうして連絡をくれなかったの?私は酒場で受けた仕事だけかと思ってた」  
「ヘッ!別に関係ねーだろ俺が何やってようとテメェにはよ。お楽しみだったんだろ?」  
「いい加減にしてよっ!!」  
突然の悲痛な叫びに耳をつんざかれる。  
そのあまりに痛々しい音に面食らって暴走を止めた時、己のせいで嫁が深く傷ついてしまった現状をようやく理解した。  
…ヤバい。あっちもブチ切れ寸前だ。  
血の気がひく。  
あっという間に重苦しい空気に支配されてしまった。  
下手をすれば離縁がチラつく絶体絶命の真っ只中、セレスが先に沈黙を破る。  
「…言わないと溜まっちゃうから言わせてもらうけど」  
「ケッ!」  
つっけんどんな態度を取りつつも、何を言われるのかと焦燥して身構えていると、  
「私は。たくさんのお金より、一日でも早く無事に帰ってきてくれる方が。…私は、嬉しいのよ…」  
意外にも素朴で可愛い答えが返ってきた。  
…いかん。抱きしめたい。でも我慢。  
「おいせっかく稼いできてやったのに何だその言い草は」  
「わかってる。わかってるから、だからもう怒らないで。やっと戻ってきてくれたのにケンカなんてしたくない」  
気づくと距離をつめられている。  
胸に手を添えられて、そのまま自然な流れに乗って抱きしめられていた。  
「会いたかったのよ…」  
こうされると口ごもるしかない。  
嫁は明らかに狂犬旦那の扱いに慣れている。  
「みんなとは本当に話をしていただけだから」  
仲間内からは狂犬馴らしのゴッドハンドと評される手が頬をなでる。  
いいように宥め賺されているのはわかっているが、悪い気分ではない。  
「フン…」  
「近況とか、後はエインフェリア時代のこととか。思い出話をしてただけ」  
完全に手玉に取られている気がしないでもないが、悪い気分ではない。  
けれども。  
夫をゆったりとほぐしていく中、奥方は一つとんでもない墓穴を掘ってしまった。  
 
「私も、ラッセンでどんな生活してたのかとか。それだけよ」  
セレス的には、平穏な生活という他愛無い話題だったと言いたかったのであろう。  
だがしかし、ラッセンという単語は彼女の現在の伴侶にとって激しくNGワードであった。  
何故なら、  
ラッセン(ぽく)  
領主(ぽく)  
前の旦那(ちーん)  
という脳内展開がなされてしまうからである。  
「…へえ。………前の旦那がどうしたって?」  
引っ込めかけていた黒いものが勢いよく噴出し、笑顔が壮絶に引き攣っている。  
「ちょっ…何でそうなるの!?待ってよ!あの人のことはもう……」  
「 ア ノ ヒ ト だ あ ? 」  
心底どうしようもない男だと言わざるをえない。  
「冗談じゃねーぞ」  
兜を乱暴に投げ捨てる。  
いくら嫁が猛獣調教のゴッドフィンガーでも、旦那は射殺処分相当レベルの珍怪獣である。  
無造作に伸びた髪からのぞく血色の目がぎょろりとセレスを捕らえる。  
「忘れさせてやる」  
「ちょっ」  
乱暴に引き寄せようとしたが相手が身を引いたため、胸元の布だけが裂けて手の内に残った。  
反射的に胸元を覆う彼女の肩を捕らえて抱き寄せ、鼻先で睨みつける。  
「思い出だぁ?ふざけんなそんなもん全部消せよ。つーか俺が今潰す」  
生前は『こんな女を娶らなくちゃならねえなんてな』と同情と嘲笑対象だった男が死ぬほど憎い。  
生きているなら今すぐにでもブチ殺しにいってやるのによ―――!!と思う程に。  
既に消えていて危害を加えられないその存在に、腹の奥から煮えたぎる。  
「いいかわかってねえようだから教えてやるぞ」  
ギリギリまで顔を近づけてから、彼女の身に叩き込むかのごとくはっきりと言い放つ。  
「お前は俺のもんなんだよ。何もかもだ!!余計なモンはとっとと捨てちまいやがれ!!」  
この俺様暴言に、セレスの表情がすっと曇って冷気を帯びた。  
「物扱いしないで」  
その言葉とほぼ同時。  
容赦ない膝蹴りがアドニスの某所に打ち込まれた。  
それは剣を置く彼女に護身術としてアドニスが教えこんだ、必殺の殺人技だった。とても男性限定的な意味で。  
結果、己に使用される回数がどう見てもダントツ一位です本当にありがとうございました。  
悶絶してぶっ倒れるしか術はない。  
 
「てめ…お前のモノでもあるんだぞこれは…」  
「ええよく知ってるわよ。不必要なくらいタフな息子さんよね」  
M属性なら瞬間昇天ものの冷ややかな視線が降り注ぐ。  
このクソ女、嫁になって本物の鬼女に昇格しやがった……。  
「俺はどうなってもいい‥‥息子にだけは手を出す‥‥な‥‥‥‥」  
バターンと床に沈む夫を無視して、付き合ってられないわとばかりにため息をつく。  
「もう乱暴なんだから。これお気に入りなのに…繕わなきゃ…針仕事苦手なのに」  
そんな嫁の豊満な胸の揺れを察知して、まだ終わらねー!とばかりに夫は復活する。  
「捨てちまえよ。じゃなきゃ雑巾にでもしろ。服なんざいくらでも新しいの買えばいいだろ」  
「そんな勿体無いことできないわ」  
「金なら持ってきてやる。だから浮気だけはすんじゃねぇ」  
「そういう問題じゃ」  
「当然別れてもやんねーからな!!ざまあみろ!!」  
語気を荒げると、ほとほと呆れ果てたといった顔をされた。  
「もー…どういう反応すればいいのよ私は…」  
「知るか!」  
誰に似合わないだの不釣合いだの言われようが知ったことではない。  
手放すつもりなど毛頭ない。  
自分にこんな手をして触れてくる女は何処にもいないのだ。誰が放すか!  
片腕で乱暴に抱きしめる。  
「抱くぞ。文句ねえな」  
「何言ってるの皆が」  
予想通り血の気を引かせて拒絶しようとしたので、有無を言わさず唇を塞いでやった。  
「んっ、んふ…。んんっ」  
息継ぎのために離しても、抗議の声をあげられる前に再度強引に吸い付く。  
「やっ!待っ、こんな所で‥!」  
抵抗など無視して壁際に追い詰め、押さえつけた。  
首筋に舌を這わせ、布ごしに柔らかく白い膨らみを揉みしだく。  
数ヶ月間焦がれていた肌はとても甘く感じる。  
止まれるわけがない。  
「や…っ」  
女の匂いと感触。柔らかな唇。息遣い。小さな抵抗。欲情するなという方が無理だ。  
「待って、お願い後にしましょ?久しぶりなんだからゆっくりじゃないと……」  
「好き勝手しといてんなこと言える立場か?あぁ?」  
「そんな」  
「気ぃ立ってんだ大人しくしとけ」  
「…」  
多少のねじれはこの際気にしない。  
 
「ここじゃなきゃいいんだな?」  
逃げられないよう肩をきつく抱いたまま寝室まで直行する。  
「痛い!!やめてよ本気でいやだってば!ちょっとっ!!」  
ベッドの上へ乱暴に押し倒すと邪魔な衣服を剥ぎ取りにかかる。  
脱がす手間も面倒だ。苛立ちから力任せに布を裂く。  
「ちょっ!やだっ!」  
全身で拒絶されても構わずに事を進める。  
脱がせかけの半端な着衣が余計に色づいて見えたが、端麗な顔立ちは焦りと恐怖で歪んでいる。  
「やだってば……!こんなのやだ、…いや!!」  
「何でやなんだよ。なんも後ろめたいことねえんだろ」  
ぐっと顔を近づける。  
「なら全部くれよ。俺に」  
自分でもずるい言い方だと思った。  
「……」  
戸惑う表情が好きなのでつい困らせるのをやめられない。  
口ごもってしまったのを確認し、返事を待たず続けようとすると、  
「で、でも…お願いちょっとだけでいいから…待ってよ」  
消えそうな震え声で懇願された。  
「ねえ……っ、アドニス……!」  
いつまでも抵抗されていると流石に癇に障る。  
切れやすい血管がブチッと音を立てた。  
「うるせえってんだろが黙ってろ!!そんなに嫌なのかよっ!!」  
破裂音に似た怒声が響き渡る。  
それをモロに浴びたセレスは反射的にぎゅっと目を瞑った数秒後、抑揚のない呟きを漏らした。  
薄く開いた両眼からは光が失せている。  
「わかったわよ。もう…知らない。好きにすればいいじゃない」  
それだけ伝えると、そっぽを向いてしまった。  
許可が出たのに、逆に手を止めざろう得ない。  
…。  
拗ねやがった。  
……しまった。ヤバい。やりすぎた。  
この女、こうなるとハンパなく面倒くさい。  
「…おい。こっち向けよ」  
慌てて呼びかけても、案の定思い切り顔をそらせてこちらを見ない。  
白いうなじと胸元が艶かしいが、この状態では顔を埋めるわけにもいかない。  
 
「いいから早く終わらせて。我慢してるから」  
言葉に棘があってムッとする。  
「人形みたいにしてればいいんでしょ」  
だがそれは、吐く本人をも傷付ける棘であることを知っている。  
「誰もんなこと言ってねーだろ!おい顔そらすな」  
「何よ顔なんて。あなたは女なら別に、私なんかじゃなくたっていいんでしょ」  
とんでもないことを言い出した。  
糸が切れてしまったようで、彼女の口からは不満が留まることなく溢れ出す。  
「私…だって、ずっと心配してたのに。ケガしてないか、また何か抜けたことして首飛んでるんじゃないかとか」  
余計なお世話だ。  
「私に飽きて他の人のところへ行ってしまったんじゃないか、とか」  
待て。それは俺の悲しいまでの非モテを知ってていってんのか。  
「やっぱり私じゃだめだったんだ…とか……」  
はぁ?  
の連続としか言い様がない吐露だったが、態度に出すのは押し留める。  
意外だった。何だこいつ。そんなに不安だったのか。  
どうせどーんと構えていると思っていたからこそ癪だから連絡しなかったのに。  
夫婦関係は彼女の方がずっと余裕を持っていると思いこんでいた。  
俺の手綱持てるトンデモ女なんてお前くらいじゃねーかボケ。何故それを理解しようとしない。  
こっちだって待たす女など初めてなんだ。気の使い方がわからないのだ。  
それ以上に、自分が彼女でないと駄目だという事実が伝わっていなかったのに驚いた。  
「やっと帰ってきてくれたと思ったら、身に覚えのないこと大声でまくし立てられたって、  
 一体どうすればいいのかわかんないわよ」  
声がやり場の無い感情に震え、凍えている。  
できた女だとばかり思っていたが、彼女もまた弱い部分を持ち、些細なことで揺れ動く脆い人間なのだろう。  
だめだ。  
これ以上怒らせたら実家のディパン(は崩壊したからゾルデ)に帰るとか言い出す雰囲気だ。  
勝負あり。黒子がこちらに白旗をあげる。  
陥落を余儀なくされた。  
舌打ちしてから抱きかかえる。  
「わかった!わかったから機嫌直せ!顔見せろよ」  
「知らない…」  
「首おかしくすんぞ」  
「おかしくなった方が気が晴れるんじゃないの」  
ひどく悲しげなくせに、自嘲気味にそんなことを言う。  
「おい…!!」  
流石にこちらにも青筋が浮かぶ。甘言を弄するなど自分にできるはずもない。  
危険だ。これ以上こじれるとお互いに引けなくなる。  
もうこれは奥の手を叩きつけるしかない。  
 
覚悟を決めたアドニスは大きく息を吐いてから、  
「セレス!」  
何ヶ月ぶりかで妻の名前を呼んだ。  
「…なによ」  
反応して顔がこちらを向くが、淡く潤んだ瞳が睨みつけてくる。  
「わかった!ああクソわかったっつってんだろ!!いつまでもんな顔してんじゃねーよ」  
「誰のせいよ…」  
「俺だ馬鹿野郎!いいから一体何ヶ月ぶりだと思ってんだよちゃんと俺を見ろ!おいセレス!」  
当惑しているのがわかる。感情がごちゃついて思考停止状態なのだろう。  
「…ほんとに、ずるい人。こんな時だけちゃんと名前呼んで…」  
「わかった。これからは根性でいくらでも呼んでやる。だから速攻で機嫌直せ」  
顔はこちらを向いたものの、目は以前合わせようとしない。  
ああもう面倒くせえ!  
これでも喰らえこのひねくれ女とばかりに額と額を押し付け、至近距離でもう一度名を呼んだ。  
「セレス!」  
ああ糞畜生言わせるのか  
俺にこれを言わせるのか  
「―――――悪かった!今度からはちゃんと連絡入れればいいんだろこの糞豚野郎が!!」  
彼女に対して初めて非を認めた。  
はたから見るとその必死さは、おいたをした後に必死でご主人様のご機嫌をとる駄犬そのものな気がしなくもない。  
しかしてその懸命さが効いたのか、それとも内心哀れになったのか。  
行き場に困って泳いでいた女の視線が目の前の相手の元にゆっくりと戻る。  
「してない、私。浮気なんて絶対にしてない。信じて…」  
「だー!わかってるっつーの!そんなんテメェのお堅さ思い知らされてる俺が一番よく知ってるわッ!!」  
「そう…って、え?」  
一瞬呆気にとられた後、悲しげな顔が一気に怒りで燃え上がる。  
「ちょっとっ!!な…何よそれ!?これだけ怒鳴り散らしておいて!!」  
「仕方ねーだろが!嫁が他の男どもにちやほやされてんの見たら普通むかつくだろ!俺は悪くない!!」  
実際には勿論ちやほやのちの字もされていない。  
独占欲の強い男の嫉妬フィルターは恐ろしい程にどうしようもなかった。  
「……」  
いろいろ言いたげな顔つきをしていたセレスだったが、やがて諦めのため息を漏らす。  
「そうよね。こういう人だったわ……」  
「あんだよ」  
「ううん。もういいの。何だか馬鹿らしくなってきちゃった」  
みもふたも無い結論をはじき出された。  
 
波乱が去ると気まずい雰囲気だけが残される。  
触れようと手を伸ばすと身を退かれてしまった。  
「…嫌か」  
大きく頷かれる。  
非情なお預け宣言にがっくりと項垂れたが、  
「でも、一回だけね」  
意外にもお許しが出た。  
「だよな。お前だって本当は待ちわびてたんだろ?」  
二ヤついて顎をつまみ上げたら、  
「っていうか…もうどうしようもなさそうなんだもの」  
視線をそのまま真下に落とされ、またため息をつかれた。  
そっち見んな。  
「…仕方ねえだろ。男なんだからよ」  
「あーはいはいそうねその通りよ」  
嫁、全力で投げやり。  
「…」  
激しく仕方なさげに口付けを求めてきたのでそれに応じつつも、気が治まらないため、  
とりあえずもう一度だけ念押ししておく。  
「男がほしいなら俺にしとくんだな」  
「まだ言うのね……‥」  
タチの悪い嫉妬深さに辟易しながらも、嫁は瞳にちらりといたずらっぽい光を宿した。  
「―――でも私には男でもあなたでも、結局同じことだと思うけど?」  
「何だと?」  
何を言い出すのかとぎょっとするアドニスを確認すると、  
「私の男はあなただけだもの…。ね。同じでしょ」  
仰天顔をした自分の男ににっこりと笑いかけた。  
「びっくりした?」  
「てめ…っ」  
「ふふ。お返し」  
癪だがここは耐え忍んでおく。  
再度互いの視線が絡まると、引き寄せられるように距離が縮まった。  
「…触れてほしいのも抱きしめてほしいのも。あなただけよアドニス」  
唇が接触する寸前での会話は互いの心臓に穏やかに響く。  
「抱いてほしいのもか?」  
「愚問ね」  
 
頭が冷えると、今の彼女にとって、苛立った男が無理に迫ってくるのはさぞ怖かっただろうと気付く。  
少しばかりはひどいことをしたと思う。  
その一方で、裂けた衣装からこぼれる久しぶりの白い肌に劣情をかきたてられる。  
光の加減でできる陰影がまた艶かしい。  
とにかく触れたい。ただそれだけが脳内を支配する。  
ずっと我慢してきた。  
早くこの女が欲しい。  
「ん…」  
しばらくは水音だけが甘く小さな音を立てていた。  
口内で十分交わると、そのまま潤んだ目からこぼれようとしていた涙を舐めとる。  
そうしてもう一度白布の上へ身体を寝かせた。  
何の抵抗もしなくなったことに安堵する。  
両肩に手が置かれると、片方は後頭部に、片方は背中にするりと伸びた。  
どうやら機嫌はなおったようだ。  
だが、下手に欲望に走ると行為後に荷物をまとめられる恐れもある。  
今日は念のため優しくしておくのが最善という判断の下、もう一度口付けた。  
「あなたも脱いで…?」と請われたので素直に応じておく。  
旦那が体を離したその隙をついて、嫁もいそいそと脱ぎ始めた。  
あっコラッ!お前はいい俺が脱がすから!と言いたいところだが今回は我慢しておく。  
馬鹿旦那の恨めしげな視線をモロに浴びつつも、セレスは最早ボロ切れと化した服を  
やれやれといった顔つきで自身から剥がしていく。  
あらわになっていく自分の為だけの造形美は嬉しいのだが、一連の流れにより、嫁を持つ心労をしみじみ感じた。  
先に脱ぎ終えていたセレスから、少々苦笑気味の笑顔を湛えられたまま、手のひらを差し伸べられる。  
とって、腕にかき抱く。理想的な曲線を描いた体が手の内に納まる。  
相変わらずの肉感的な姿態だ。  
自分の厚く硬い胸に柔らかな双球が押し当てられて軽く悦に入ったが、  
肌が交じり合うと、相手が小刻みに震えているのに気付いた。  
「コラ何で俺の腕ん中きて怯えてんだよ」  
「そういうわけじゃないけど。さすがに、久しぶりだし…」  
顔にかかる長髪を耳にかけつつ、言葉を濁す。  
もちろんそれもあるだろうが、一番の原因は先程までの乱暴極まりない言動の所為なのは言うまでもない。  
伝わってくる鼓動も荒い。  
「…お願い優しくしてね」  
不安げに呟かれると多少の罪悪感と気まずさを感じる。  
「―――わかってる。すぐによくしてやる」  
 
これはまず少しほぐさなければと思い、もう一度最初からの気分で、赤い髪を撫で付け、ゆっくり顔をうずめる。  
この女は口付けられるのと、髪をいじられるのがとても好きだ。  
高い所で結わえて一つにしてあった髪をするりと解く。  
いつもきっちりしている彼女にこれを出来るのは、本人の他には自分だけである。  
肌や布地の上に流れた長い紅糸を一房束ね、口付けてから表情をのぞくと、案の定照れて目を泳がせている。  
髪の毛など血も感覚も通っていないのに、これの一体何がいいのか、実は未だによくわからない。  
けれども喜んでいるのは確かなので、抱く前には必ず同じことをしている。  
そのまま耳の裏の皮膚へ辿り着き、耳朶を甘噛みしてから頬、首筋へと舌を流す。  
浮き出た鎖骨が嫌に艶かしい。  
柔らかい。白い。自分を当然のものとして受け止め、いざなってくる。  
何の香りもつけていない清潔な肌の匂い。  
既に理性が吹き飛びそうなのに、吐息をついて後頭部を抱かれたので、胸の谷間で軽く窒息させられる。  
優しくしてとかほざきながら狂わせる気かと思う。  
張りのある双球の先端を摘み、指で擦り上げ舐めつけて、丹念に愛撫する。  
自分の大きな手でも包み込みきれない量感を味わう。  
指の合間からは真珠色のなめらかな柔肌がこぼれている。  
無骨な指を深く沈めてしまう程に柔軟な双球に酔いしれる。  
嗚呼……小難しいことはこの際どうでもいい。  
で か い   
なんという満足感。なんという弾力。なんというフワフワ。  
「くっ…!」  
心底からこう思わざるを得ない。  
やっぱ斬らなくて良かった………!!  
「…あの。……ア…アドニス?」  
「あぁん?」  
「…大丈夫…?」  
あまりにも陶酔しすぎていた為、気がつくと持ち主に訝しまれていた。  
 
熱っぽさをはらんでゆく視線が多少不安げに見えたので、ごまかしも兼ねて、唇を軽く啄ばんでやる。  
「ん…」  
口付けは何度受けても嬉しいらしい。安堵により体の力が抜けたのがわかった。  
二の腕を持ち上げて脇にも舌を流し、上半身のすべてをたっぷりと撫で上げれば、柔肌がゆっくりと色づいていく。  
「う、ん…っ」  
腰に添えていた片手を内股へとなだらかに移動させると、しなやかな裸体に多少の緊張が戻る。  
茂みを柔らかく撫でつけ、つうと割れ目をなぞると、面白い程にびくりと反応した。  
最初は指で。  
入り口の周辺と花弁を撫で回した後、とろとろと溢れる蜜で潤っているのを確認して、慎重に挿れてゆく。  
緩やかな抜き差しを繰り返し、慣れてくるのを見計らって時折鉤状にしたり回転を加えたりしてみた。  
数ヶ月ぶりだがいつもと同じ行為。  
「……」  
感じている。  
不安と悦の入り混じった切なげな表情が、豊かな双丘の向こうに見える。  
さらに早く挿入可能な状態に持っていきたくなって、舌と唇での愛撫に移ることにした。  
じゅる、くちゅ…と、わざと音を立てて舌技を駆使する。  
「…あ、やだ…もう…っ。…んんっ」  
嬌艶な喘ぎ声を耳に受けると、流石に自身の方が苦しくなってきた。  
太ももに定評のあるディパン王家の女、その二本の脚に挟まれているとなると、いっそうだ。  
普段から前戯には時間をかけているのでもう少し余裕を持って行為にふけりたいところだが、などと思っていると、  
「も、いいのよ……」  
察しているのかそんなことを言ってきた。  
そうしたいのはやまやまなのだが、ちゃんと濡れてもいないのに突っ込んで苦痛に歪まれてはうれしくない。  
無視をして濡らすための愛撫をぴちゃぴちゃと続けつつも、  
悪い癖で、気遣いを逆手にとってつい訊いてしまう。  
「何だよもう欲しいのか?」  
「……欲しい…」  
下からの熱にうかされながらも必死で答えてくる。  
今日はずいぶん素直だなと思っていたら、  
「私は………あなたを、いつも、…ほしいと思ってるわ」  
なんか物凄いことを言い出すので耳を疑ってしまった。  
「……おい。てめ、わかってて言ってやがるだろ。ちょっとは空気読め」  
「いや。あなた勝手なんだもの。私だって好きなこと言う」  
この野郎………と眉間に皺を寄せると、頬に手を添えられた。  
「できるだけでいいからそばにいて…」  
既に自分が投げかけた性的な意味合いを軽く吹っ飛ばした所で会話をしている。  
メチャクチャなくせにまっすぐに視線を注いでくるから、硬直してしまいすぐに返せない。  
男を二人しか知らないせいだろうが、選んだ男に時折子供のように純真な想いをぶつけてくる。  
 
まったく、ああ言えばこう言う――――落ち着いてるふりをしていつだって斜め上をかっ飛んでいく。  
血なのだろうか。…血なのだろうな。  
勘弁してほしい。  
求められたのが軽く挑発のように感じて、つい真顔になり答える。  
「…そうやって挑発してやがれ。嫌だっつってもくれてやるからな」  
獰猛な旦那を溶かす小さな微笑みが注がれる。  
「ちょうだい」  
言い合いはともかく目を閉じて身を委ねられたのが大変ありがたかった。  
痛いくらいの限界がきている。  
濡れた花弁の内に自身を押し当て、少しずつの挿入を開始した。  
「んっ!」  
まだ少し強張っていた身体がびくりと反応したが、  
「大丈夫…」  
気遣われる前にぎゅっとしがみついてきた。  
そこそこ収まってから息をつき、緩く律動を始めた。  
熱を帯びた秘肉が優しく絡んできて、だんだんと締め上げてくる。  
溢れる蜜に促されてさらに奥へと侵入してゆく。  
「ひあっ、あ…あんああっ……、んんっ」  
喘ぎにも色が増す。  
淫らに開脚した脚ががくがくと揺さぶられる。  
結合部が熱い。既に互いにじっとりと汗ばんで、淫蕩な空気を漂わせている。  
「ああぁ、はあっ。はっ…」  
こぼれる吐息と喘ぎがアドニスの耳をくすぐる。自分のモノで女が感じている、その事実がより高揚させる。  
息を整える暇など与える気もない。  
腰を使うと、  
「ああ…ん――…っ」  
期待通りのひときわ高い喘ぎ声が響いて口角がつり上がる。  
ニヤつきながら仰け反って無防備になる首筋に顔をよせる。  
既に心も身体もまったく拒絶を示さず、むしろ奥深くへ誘いこんでくる。  
何度も貫いたのに新鮮な交わり。  
久しぶりだからなのか、交わる度にもっと深いところへ囚われていくのかはわからない。  
本当によくわからない女だ。いつまでも捕らえどころがない。  
そこがいい。  
「あっ、ああ…っ」  
しがみついてくる女が心から嬉しげなのは、決して思い込みではない。  
熱い吐息と共に呟かれた。  
 
「逢いたかった…」  
おかしな世界へ誘いこむ扇情的な表情が、より濃く甘くなる。  
その一瞬、直感的にヤバいと感じたが、どうすることもできなかった。  
達して中で放つ。  
脈打つのを制止などできず、中でドクドクと注いでしまった。  
しばらくは抱き合ったまま互いに荒い息をしていた。  
「ちっ…」  
舌打ちをする。先に達してしまうのはあまり好きではない。  
身体を離すと、後悔しているアドニスに反して、セレスは旦那終了のお知らせにホッと息をついている。  
…。  
ムカつく。  
出せればいいというものではない。  
共に昇りたいのだ。  
「楽になってんじゃねーぞコラ。まだこれからだ」  
色づいた裸体に再度のしかかり、片胸の膨らみを鷲掴む。  
「あんっやだ…ばかっ一回だけねって言ったじゃない」  
「ナシだナシ!それかまだ一回目の続きだ」  
「もう…!」  
「うるせーテメェまだ全然イってねーだろガタガタぬかすな」  
「……」  
約束を破る気満々の旦那に、嫁はジト目のまま眉根を寄せている。  
数ヶ月ぶりだってのに鬼かお前は!いや鬼だが!!  
とは思うものの、この状態で無理に事を進めると三行半の実刑確定のため、面倒だが同意を得なければならない。  
「んなツンツンすんじゃねえよ…久しぶりなんだからよ。いいだろセレス」  
懐柔しようと耳元で囁いたのが予想外だったらしく、セレスは小さな悲鳴を飲み込んでぎゅっと目を瞑った。  
むしろこちらが驚いて目が点になる。  
その凝視から逃れようと慌てて逸らした横顔が、耳まで真っ赤になっている。  
はっと気付いた。  
そうか。こいつは名を呼ばれることに慣れていないのだ。  
……。  
これは面白い。  
熱した耳たぶの裏で出せる限りの甘い声で頼み込む。  
「なあセレス…いいだろ」  
「ちょっ…」  
「セレス」  
「やめ」  
「せーれーすー」  
「もうっほんとにあなたはっ!遊ばないでよ!」  
ニヤニヤしていたら盛大に平手打ちを食らった。  
 
派手に手形がついたが、セレスの頬もこれでもかと赤くて、痛みより可笑しさがこみ上げる。  
「ったく、ほんっとどうしようもねーなテメェは。そんなに俺がいいのかよ?」  
からかう反面、気持ちは何か心地よいもので満たされている。  
そんな自分と相反して、嫁は思いっきり三白眼になって今にも噴火しそうだが。  
「…いいわ。何よ。悪いの?」  
「ムキになんなって」  
面倒くさいので口を塞ぐ。  
―――やっぱ、こいつといるのは悪くねえなどと思ってしまっている。  
もう一度指で犯したくなって、引き抜いたばかりのそこへそっと忍び込ませた。  
十分に濡れているのですんなりと受け入れられる。  
「…」  
嫁は少々眉をひそめたが、観念したのか、旦那の身勝手ぶりを諦めたのか、抵抗はしてこなくなった。  
指を動かす度、卑猥な水音とともに溢れかえる熱に惑わされ、表情が色艶を増す。  
「んんっ、あ、ふああっ…」  
自分の指の動きに合わせて反り返ったりよじったりする。  
昔から魅惑的に視線を誘う太ももを満足いくまで撫で回し、足の付け根に向けて順々と跡をつけていった。  
「ああっん、あっ、やあっ……っ、」  
悩ましげに乱れゆくのがたまらない。  
ただでさえ柔らかい身体の、さらに柔らかい箇所をすべて揉みしだいて堪能する。  
「うん…っ、や…そこ…っ。ああ…っ!」  
身悶えて、切なげな吐息がかかる。  
後頭部と背中に回される腕の温もりと、  
その豊かな胸に埋もれていると、帰ってきたことを実感する。  
寝乱れる姿に相変わらずいい女だなどと満悦しながら  
沸き起こる乱暴な衝動をこらえつつ、耳元に舌を這わす。  
嬌声は肉体的な快楽だけでなく、好きな男に抱かれて最上の空間を彷徨う女のものなのは間違いようもなく、  
それがさらなる昂りを誘う。  
「うう…っあっああん、は…んっ、アドニス」  
熱でうかされた表情は本当にそそる。  
「…んだよ?」  
訊き返すとうわずった吐息を漏らしながら、ぎゅっと抱きついてきた。  
「好き………」  
間違っても同じ言葉など吐いてはやらないが、  
「…んなこた知ってら」  
一言くらいはぼそっと返してやる。決して上手い言葉ではないが。  
それでも返事があったことに安心して彼女は微笑む。  
 
照れ隠しに事を早め、両脚を割ってもう一度挿入した。  
「ああ…ん…っ」  
指とは明らかに体積の違うそれは彼女をゆっくり満たした後、緩く律動して少しずつ攻め立て始める。  
「んっ、んん」  
片足を肩にかけると、  
「ひゃん…っ!」  
より深く咥え込まされた身体が跳ねて、耐え切れずにぶるるっと震えた。  
「はっ、ああ、……ん…ああっああっ!!…はぁ、はっ……」  
突く度に発されるあられもない嬌声が耳を刺激し、そして弾む豊かな乳房が視覚的にも興奮を呼ぶ。  
だんだんと激しく腰を使うと、応じるように喉からの音が高くあがる。  
片胸の頂きと結合部の上にある芽を同時に押し潰してやると、ついに軽く達したのがわかった。  
同時にこちらからも思わず呻きが漏れる。  
「く…っ、おい、んな締めつけんなよ…っ」  
「はあ、はっ、そ…んなこと、言われても…っ。あっ」  
突き続けていた腰を繋がったままで少し休めていると、相手はじらされたと感じたらしい。  
「や…!まだ…!も…っと、して……っ」  
ねだられるのは好きだ。たまらない快感を煽る。  
言われずともなのだが、せっかくなので「仕方ねえなあ」などともったいぶってみた。  
「そんなにいいか?」  
「……」  
紅の頬をしたセレスが首を縦に振るのを見届けてにんまりと笑い、求めに応じてさらに覆い被さる。  
すっかり淫らになった身体がさらなる恍惚を欲し、自身の腰をも揺らめかす。  
そんな凄艶につられ、いつの間にか突き上げ方が激しさを増していた。  
「ああっ、あん、あああ‥あっ!!…――いやっ待っ、ダメ!だめっ!だめえぇっ…」  
濃厚な悦楽に翻弄され、泣きそうな声を上げながら必死でかぶりを振っている。  
己の手の内で恍惚に惑う女を楽しみ、その顎をつまんでからかった。  
「相変わらずお前の口走る“ダメ”は“イイ”としか聞こえねーなぁ」  
目の前で、ほてった頬がさらに赤くなる。  
「ばかっ!!もうっ何でそう意地悪……なの…っ!」  
―――――お前が可愛いからに決まってるじゃねーか、このばか  
決して言葉などにはしてやらないが、顔面を押しのけようとする手のひらさえ、愛おしい女。  
また喧嘩に発展しそうな空気を、弁解もせず、快楽で押し流す。  
二人で夢中になって互いに溺れ、獣のように貪り与え合って、  
狂おしいほどの熱と想いがとめどなく溢れては交わり、滴る。  
繋いだ手が汗ばんでいる。  
魂を区切る肉体さえ邪魔に思う。  
もっと欲しい。  
 
「ア…ドニス…ッ!」  
余裕のない淫美な震え声で名を呼ばれて、限界が近いと知る。  
一緒に。と言うのだろう。  
「はあっ、んんっ‥…はっ、…好き…、ん!あああっ!」  
抱きしめれば縋りつかれ、さらに縺れて絡み合う。  
「…はあっ、ああっ、あ、うれ…し、はあっ、はっ……」  
一瞬、目が合った。  
動きも喘ぎ声さえもない小さな間がおかれた後、耳元で甘たるく囁かれる。  
「好きなの…」  
頬が触れる。  
正気ががくんと揺らぐ。  
腰をつかむと何度も強く突き上げ、彼女を連れて一気に高みへと昇りつめる。  
「ああっ!やっ、あん!あっああっいやあっ!!  ――――――っ……!!!」  
彼女の中で爆ぜ、果てた。  
昇りつめると荒い息をしたまま、何の遠慮もなく中で出せる喜びを感じつつ引き抜く。  
秘所からこぼれる白い液体が彼女の肢体を伝いゆく。  
この瞬間。  
かつて自分の首を落としやがった女を下にしているという征服感と、それでいてこの女を愛おしいと思う感情、  
大事な女だという普段は絶対に認めたくない想い、それらが不思議なほど溶けあってたまらない。  
飽和しているのを感じる。  
くたりと力の抜けた女の身体を強く抱きしめる。  
行為を終えたばかりの心中に凶悪な独占欲が渦巻いている。  
俺のものだ。  
誰が獲りにきやがろうが絶対に渡すつもりはない。  
されるがままに口付けの雨を降らされていたセレスが、うつろな目でつぶやく。  
「満足した……?」  
「冗談だろ。まだだ」  
「…」  
「空になるまで搾り取ってくれよ」  
本気で呆れ果てたといったセレスの顎を、ニヤつきながらつまんだ時だった。  
 
こそこそした気配が家の中へと侵入してきたことに気付く。  
「セレス伯母様?」  
「…大丈夫ですか…?」  
廊下の向こうから、やっと耳に届く程の小声が忍び込んできた。  
アドニスを刺激しないように女二人がこっそりと様子を見にきたのだろう、  
どちらもひどくセレスを心配しているようだ。  
「はーい!」  
自分を押し退け、慌てて起き上がろうとしたセレスを力任せに押し戻す。  
「駄目だ」  
まだ繋がっていたい。  
「ちょっ…アドニス…」  
「このまま三日三晩喘いでもらうぞ」  
「いい加減にして。皆が来てるのよ」  
「ほっとけ」  
真面目な顔で迫る。  
「お前は俺だけ見てりゃいいんだよセレス」  
口が恥ずかしげもなく本音をだだ漏らす。  
半目の嫁は静かに眼を閉じ、ふう、とため息をついた。  
「言う事きいてりゃキリがないわね…」  
刹那。  
かっと見開かれた双眸に閃光が走る。  
気づいた時にはもうガードの余地はなかった。  
「あ ん ま り 調 子 に 乗 っ て ん じ ゃ な い わ よ」  
ドゴッ!!  
気持ちのいい効果音と共に、横っ面に思い切り鉄拳を喰らい、吹っ飛ばされていた。  
「おま………せめてビンタにしろよ…」  
間違いない。剣を捨てた分、拳やら蹴りやらがやたら強力になってきている。  
「え、だって。息子には手を出すなって言ったじゃない」  
答えになっていない。  
「あーもうこんなところにまで」  
鏡に映る無数の小花に愚痴をこぼしつつも、  
ささっと身体を拭き箪笥から服を取り出し身につけ、髪を整える。  
最後に夫の頬に軽い口付けを落として微笑んだ。  
「お昼よ。あなたの好きなもの手早く作っておくから。早く着替えてきてね」  
その後は『お待たせ!ごめんなさい!』と声を上げながら、お嫁様はあわてて出ていってしまった。  
……久しぶりに“あの女”にも逢った気がする。  
取り残された夫はベッドの上でばったりと倒れた。  
「な……」  
認めたくはない。  
「な ぜ 殺 た し」  
認めたくはないが、明らかなるカカア天下である。  
 
 
 
女達の笑い声(8割方クリスティ)が壁の向こうから聞こえる。  
澄んだ月夜。  
『皆に顔を出してよ』と何度か呼ばれたものの不機嫌を理由にガン無視を決め込んでいた。  
よって、帰宅したばかりの夫はこの時間までほぼ放置プレイを受けている。  
「よっ大将。メシ食ったか?機嫌直ったか?首ぐらついてねーか?」  
カーテンのそよぐ窓から汚らしいヒゲ面が現れた。  
「イージスか…丁度いい。チョップの礼だ。死ぬかくたばるか殺されるか好きなの選べ」  
「いい年して八つ当たりは勘弁しろよ」  
氾濫するどす黒い殺気を夜風と共にさらりと流される。  
「ところでお前ファーラント置いてきたんだって?可哀想なことすんなよ」  
「うるせぇ!知るかあんな電波ゆんゆんの仮説大好き野郎!……って、何で知ってんだ」  
「さっきローランドんとこへこっちに向かってるって手紙来たんだよ」  
セレスの元へ送ると誰かさんに破り捨てられそうなのを察知しての措置だろう。  
「もうかなり近くまで来てるみたいだから迎えに入ってくるわ」  
「迎えだぁ?何だよキメェなあんなん迎えが必要な年じゃねえだろ」  
「あーいや、正確に言うと……」  
心の底から面倒臭いと言わんばかりの巨大なため息が吐き出される。  
「…エルドが 大 喜 び で迎えに行っちまったから止めに行ってくる」  
「………」  
生前自らの手で仕留められなかった獲物を前に、フル装備かつ闇夜よりも黒い笑顔で疾走するドチビの姿が目に浮かぶ。  
…二度と戻ってくるな。  
むしろ行き先間違えてツナギの男に公衆トイレにでも引きずり込まれろ。  
「そういうわけだからよ、無駄な心配させるといけねーから女達には朝になったら伝えておいてくれ。  
 俺ら四人で何とかしてくるから」  
「ケッ。ほっときゃいいのにご苦労なこったな。用件はそれだけか?ならとっとと消えやがれ」  
不貞寝続行体勢に入ると、背後でぼそりと呟かれた。  
「水は方円の器に随う…とはよく言ったもんだ」  
「…今なんか言ったか」  
「水が器の形状によって姿を変化させるように、人も交友や環境で変わるって例えさ」  
カナヅチとはいえ名を馳せた智将、小難しいことを口走りやがる。  
「何が言いたい…」  
「いやいやお前なんぞどうでもいいんだけど、セレスがさ。笑顔がすげー柔らかくなったなーって」  
感慨深げにうんうん頷いている。  
「愛の力は偉大だなあ」  
…なんだ。何なんだその反応は。  
 
「…おいカナヅチてめえまさか」  
威嚇を受けてもヒゲ面の英雄は微量すら動じない。  
「睨むなって。そんなんじゃ全然ねえからよ。  
 ほら俺もとりあえずは生前ディパンの兵士だったしさ、一応な。  
 王女様だったセレスのことはどうしても気にかかっちまう仕様なわけよ」  
そういえばそんな設定だった気もする。  
「ま、そうは言いつつも、こんな半端なこと言ってると、忠誠心の塊みたいな当時の同僚どもに殺されそうだけどな」  
「…本当にそれだけだろうな」  
「心配か?ははっ美人の嫁をもらうと気苦労が絶えないってヤツか。 ざ ま み ろ 」  
今すぐ持てる力のすべてで樽の水に漬けてやりたい。  
「てかよ、そんな常時気にかけてなくても大丈夫だって。彼女にはお前しか映ってねえよ。  
 お前戻ってきてから笑顔の輝きが全然違うってさっき皆で言ってたところだ」  
「…フン、当然だ」  
来客は軽く苦笑すると窓から離れる。  
「じゃあな。明日の夜には戻るから、夕飯は俺ら六人分も頼むって伝えてくれよ」  
「…」  
何だかしこりが残る  
言うだけ言って去ろうとした魔術師の横顔に、そのモヤつきを投げかけた。  
「ケッ…お気楽なこった。いいのかよ。  
 俺みてーなのと一緒になっちまったの見逃してたら、またあの世逝った時その同僚どもに確実にボコられるぜ」  
去りかけたイージスの動きが止まって、しばしの沈黙が訪れた。  
「…こりゃ驚いた。何だ。多少は気にしてんのか。美女と野獣なこと」  
「答えろ!」  
やれやれといった表情のまま、杖で肩をぽんぽん叩く。  
「ま、正直すげーことになっちまったなぁって気はすっけど。今の俺がどうこう言える立場じゃねえな。  
 それに――――落花流水の情をかき回すわけにはいかねえだろ?」  
アドニスが日本語でおkという顔をするので苦笑して説明する。  
「枝から散り落ちた花は水に浮かんで流れたいと思い、水は花を乗せて流れたいと思っている。  
 早い話互いに想い合う仲だってことだ。四文字で説明するとラブラブってこと!」  
「な…っ」  
「ま、それでもボコられちまうってんなら仕方ねーんじゃねーの?甘んじて受けるさ」  
淡い月明かりに照らされた男がニヤリと笑う。  
「…」  
「おっと、追いつけなくなっちまう。そんじゃあな。無用心だから窓閉めとけよ。  
 お前のことだから正当防衛の名の下に嬲り殺してもいい泥棒でも待ってるんだろうけど、今はセレスがいるんだからよ」  
「うるせぇ!消えるならとっとと消えろ!沈めるぞ!!」  
「泣かせたらエターナルフォースブリザードな〜」  
言うだけ言って、本格的に噛みつかれる前に身を翻して行ってしまった。  
 
舌打ちする。かなり意外な伏兵だった。  
あんな奴がセレスを見守っていたなんてまったく気付かなかった。  
バカじゃねーのかおせっかい野郎。  
…。  
布の上に拳を乱暴に落とすと、衝撃でベッド自体が震える。  
そんなこと言われなくてもわかっているのだ。  
花はもう、どう頑張ったところで、枝には戻せないのだろう。  
 
星を撒く満月の光が夢のほとりへといざなう時刻。  
女達の談笑も消えた。  
不貞寝を継続していたらセレスが入ってきたので背を向ける。  
「まだ怒ってるの」  
「ケッ」  
「というか、さっき誰かと話をしていなかった?」  
「気のせいだ。いいから窓閉めろ」  
言われなくても、といった感じで窓に近づいていき、  
「きれいな満月」  
と呟いてから窓を閉めた。  
背中の向こうで、ベッドの端に座ったのがわかった。  
「もう、感じ悪いわよ?そんなに心配しなくても数日後にはお別れなのよ。みんなあなたの話聞きたがってるわ」  
髪をなでてくるので舌打ちをして振り払う。  
「勝手にしろ」  
「勝手にする」  
頭の回転が速いので突き放そうとしても即座に切り替えしてくるのがムカつく。  
そっと背中に絡みついてきた。  
白い手が伸びてきて自分の手の甲に重なる。  
この豚野郎…と思いつつも、とりあえず不満をぶつける。  
「だいたいだな…あんな連中、たかが数回一緒に戦ったくれーの間柄じゃねーか」  
「数回一緒に戦った、大切な仲間達よ」  
「ザンデ流とカナヅチと、あと聖水の親父か。ここらはともかく…  
 ローランドの野郎としり…………シェルは敵じゃねえかよ。  
 あのギャーギャーうるせー姪だって、所詮お前の死因になる致命傷与えた女の娘だろ。よく話なんぞする気になるな」  
「アドニス‥‥‥」  
文句を言う時だけ非常に滑舌が良い、そんな手のかかる旦那にそっと疑問を投げかける。  
「それを言ったら私達はどうなるの?歴史に残る一騎打ちをした気がするんだけど」  
「俺らはいいんだよこういう間柄になっちまったんだから!関係ねえ!」  
「そうよね、もう関係ないわよね昔のことなんて」  
顔は見えないが、にっこりと破顔したのがわかる。  
うまく誘導されたようで癪に障る。  
 
「ねえアドニス」  
甘えて背中に顔を埋めてきた。  
「みんな、鈍感な私達がうまくいくようお膳立てしてくれた人達よ。大事にしなきゃ」  
「お断りだ」  
「奇跡みたいじゃない私達がこうしているなんて。そうでしょ?  
皆が遠まわしに手引きしてくれたからこそこうしていられるんじゃない」  
「だが断る」  
「私達だけだったらお互い嫌われてると思い込んでて話し合うこともせず、今頃どちらかは骨だけになってた」  
子供丸出しの返答をしていたが、その台詞だけには律儀に反応して、ごろりとセレスの方へ身体を向ける。  
「どちらかだと?ふざけんな違うだろ。テメェだ」  
「そうね」  
苦笑しつつ、放置してある空になった食器に目を移して微笑む。  
「どうだった?」  
「ケッ」  
認めたくはないが非常に美味かった。  
「…食べてほしい人のこと考えながら作るといいって、教えてもらったから」  
可愛いことを言われてしまうとどうもつまってしまう。  
料理の腕前はずいぶんと上達していた。確かにがんばったのだろうと思う。  
もう『頼むから食えるもん作ってくれよ』とからかっても、  
憤慨されて『今に見てなさいよ』とおたまを投げつけられることもないのだろう。  
食えるもんを出されるのはありがたいが、少し寂しい。  
女が家にいろなんて言うつもりはさらさらないけれども、  
多分これが、本来彼女が焦がれ、なりたかった姿なのだろうと思う。  
でも  
「……」  
どうしても時折、あの女がよぎる。血腥い戦場で凛と咲いていたあの赤い花を。  
この刃で絶対に手折ってやるつもりだったそれを、そうすることで永遠に自分のものにするはずだったそれを、  
うまく、諦めきれない。  
拭い去ることができない未練を持て余す。  
結局どう取り繕うとも心のどこかで焦がれているのだ。  
あの真紅に―――――――  
あれが自分の前に現れてくれることはもう二度と無い。  
深い深い奥底で静かに眠ってしまった、いや、眠らせてしまった。  
彼女が目覚めるのは多分以前と同じように、力を求められた時。何かを助けたり、守ったりする時なのだろう。  
そしてそれはまず無い。その前に自分が剣を振りおろしているだろうから。  
…そう。結局、自分があの女の枷なのだ。  
 
そろそろいい加減にしろ、と自分を戒める声がする。  
こうさせたのも、こうなるのを許したのも自分であるというのに、我ながら勝手が過ぎるのを感じざるを得ない。  
何もかもが今更だ。  
殺すか、受け入れるか。どちらかしか選べなかったのだ。  
そして殺したところで、動かなくなった彼女を見て自分が何を思うかなど目に見えていた。  
あの時点で既に選択肢は一つしかなかった、それだけのことだ――――。  
記憶の中にいる金髪の戦乙女が勝手に現れて、優しく微笑んだ。  
舌打ちする。  
そうだ。  
自分も変わってしまったのだ。  
刃か、鞘かで、鞘を手にしたのだろう。  
この渇望は鞘を選んだ代償、彼女が差し伸べた手をとった代償―――微笑まれるための代償だ。  
守らなければならない者を得て、守ることの本当の意味を知ってしまったのだろう。  
矛盾しているのは百も承知だが、それでも時折とても逢いたくなるのも覆せない事実。  
整理などつれられるはずもない。  
このモヤつきは死ぬまで続くのだろうと思うと正直気が滅入る。  
「なあに」  
顔をまじまじと見つめていたらよりそってきた。  
糞ったれが。誰のせいでこんなに悩んでいると思ってやがる。  
心の中でそう毒づきつつも、認めたくないのだが、正直たまらなく可愛い。  
「…てめぇが何考えてやがんのかさっぱりわかんねえ」  
「そうかしら。……どこが、わからない?」  
セレスを押しのけ、身体を起こしてぼそりと呟く。  
「俺でよかったのかよ」  
「勿論」  
即答には迷いの欠片もない。それがくすぐったくて、ついまた背を向けたくなる。  
「昔は近寄るのも嫌なんだと思ってた。ましてやこんなふうに寄り添えるなんて、今でもたまに信じられない」  
告白される台詞の一つ一つに愛情を感じて非常にこそばゆい。  
聞かなければよかった。  
適当に流し聞くフリをしつつ赤い髪を一束つまんで弄ぶ。それを見て、優しく笑っている。  
「私はなんだかんだいっても勝手だからね。自業自得な面も大きいし。解放されても相応の人生しか望んでいなかった。  
 戦いの運命から離れて、亡霊みたいな静かな生活…激しい運命から放たれる代わりに、希望も持っていなかった。  
 こんな風に誰かのそばで幸せでありたいって願える日がくるなんて思わなかった……」  
口を塞いでやりたいと思い始めた矢先、急に相手の声のトーンが落ちた。  
 
「あなたこそ私で良かったの」  
突然問いかけられて内心で焦る。  
「別に……俺には選択権なんてねーからな」  
彼女と違って、気の利いた返答などできない。  
そんな伴侶の回答にセレスは苦笑いを浮かべつつ、  
「そうね……剣を持ってない私なんかじゃね」  
自嘲して軽く俯いた。  
ぎょっとして思わず目を見開く。  
嫌な女だ。がっつり察してやがる。  
落ち着かない沈黙の後、セレスはふと天井を仰ぎ見て、幾分か晴れやかを装った声でこう告げた。  
「やっぱり、私――――もう一度剣を持とうかしら?そしたら前みたいにそばにいれるしね」  
その態度に、彼女に断腸の思いで剣を置かせた夫は軽い苛立ちを覚え、咄嗟に拒絶を叩きつけてしまう。  
「おい―――やめろ。そんなフラついた心構えで適当なこと吐いてんじゃねえよ」  
叱られて、瞬時に表情が暗く翳る。  
「そんなつもりじゃ…」  
二人の間に音を立てて亀裂が走ったのを否応なしに感じた。  
動揺で言葉が見つからずに沈黙が続く。  
「…いつまでもそんな顔してんじゃねえ」  
それでも何とか言葉を吐くと、セレスは少し寂しげな微笑みを浮かべ、間を埋めるように再度寄り添ってきた。  
「…私、あなたのそばにいていいのよね?」  
当然だろう。  
「聞くんじゃねえそんなこと」  
だが口からはぶっきら棒で曖昧な答えしか出てこない。  
どうしてこんな時にまでつれない素振りしかできないのか、己に苛立つがどうしようもない。  
「…私はかわいい女じゃ決してないけど」  
不安を隠し切れない様子だが、  
「誰よりもあなたのことが好きよ…」  
照れの入った小声で囁いてきた。  
フン、と鼻を鳴らす。  
だから捨てないでとでも言いたいのだろうか。  
別れる気などないとさっき言ったばかりだというのに。  
「そんな蚊のなくような声じゃ聞こえねえな」  
調子に乗ったわけではないのだが、重くなってしまっていた場の雰囲気をはぐらかすためにそう言う。  
怒るかと思ったが、この状況下のせいもあり、性根が真面目なセレスは真に受けてしまったらしい。  
その陰りの無い緑色の瞳で真っ直ぐに見上げてくる。  
「愛して……います」  
 
仰天して一瞬石化してしまった。  
初めて敬語を使われた気がする。  
気持ちとは裏腹に、照れ隠しでメチャクチャに罵倒してやりたい欲望がわきでてくる。  
必死で葛藤していると、  
「いいの。答えなんかいらない」  
と先手を打たれてしまった。  
そう言われても、何となく負けた気がして気に入らない。  
かといって自分もだといえるような性格でもない。  
何か別のことを、何か、言わなければ。  
「突然わけのわからねーこと言い出すんじゃねえよ!!死ねッ!!」  
言った。  
互いに閉口する。  
うわーすげえ。有り得ないだろ俺。脳内で冷静な自分がツッコむ。  
「ごめんなさい。私も調子にのりすぎね」  
怒鳴られた嫁は作り笑いの貼り付いた顔を逸らしてしまった。  
消えてしまいそうに寂しげだ。  
彼女なりに頑張っただろうに、己の最悪な旦那っぷりに腹が立つ。  
まずい。まずすぎる。  
これ以上の不協和音を奏でたら本気でオワタルート直行の刑が待っている。  
慌てて背後から抱きしめて繋ぎとめた。  
「…別に謝るこたあねえよ」  
腕の中に納まっている女から一気に肩の力が抜ける。耳に届いた一言に安堵したのだろう。  
旦那のごつい腕に指を添えて、嬉しげに鈴の音で笑う。  
「あなたの大きな手、好き」  
正気が揺らぐのを奥歯を噛み締めることで凌ぐ。  
何なんだこいつ。  
頼むから突拍子もなく可愛いことをいうのはやめてほしい。  
「…さっきね」  
「あ?」  
「さっき。私が投げやりに、好きにすればって言った時。やめてくれて、宥めてくれてうれしかった。  
 意地張っちゃってごめんなさい」  
「…」  
一瞬意味がわからなかった。  
いや、あの終了寸前の状況に陥ったらそうする他ねえだろ…常考。  
 
「よくわかんねーが、そこはテメェ的にはうれしいところなのか?」  
「だって。本当にあのまま無理矢理されるのかと思ったもの。  
 怖かったし…つい、やっぱりその程度の存在なんだって悪い方に考えちゃって、泣きそうだった」  
「………」  
何故そうなる。納得がいかない。  
アドニス的には初夜からずっと大事にしているつもりなのに。あくまでアドニス的にはだが。  
さらに強く抱き寄せて自分の方に顔を向けさせる。  
「コラ。テメェの中でどこまで見境のねえ発情ザル設定なんだ?俺は」  
「そういうわけじゃないってば。ただ帰ってきたばかりだったし仕方ないのかなって…  
もう、うれしかったって言ってるんだから素直に受け入れてよ」  
やはりそうだ。  
以前から気付いてはいるのだが、嫁から求められている物事のレベルが全般において、かなり低い。  
明らかにいろいろ期待されていない。  
求められすぎると振り払いたくなるが、求められなさすぎるのもおいちょっと待てである。  
眉間に皺を寄せていると頬を撫でられ誤魔化された。  
しかし驚いた。あんなでかい剣豪快に振り回してた分際で、案外繊細な女だ。  
下手な男よりずっと男前な性格だと思っていた。  
好きだの何だの言うのも、自分の名をしっかりと呼んでくるのも、不安からきていることにやっと気づいた。  
自分と同じく駆け引きができる女でもない。  
彼女なりに関係を円滑に繋ぎとめるために一生懸命やっているのだろう。  
理解してしまうと、この数ヶ月、自分を待っていた彼女の心情が手を取るようにわかり、少々いたたまれなくなる。  
いかん、本気でいかん。このままではダメダメ旦那の烙印を押される。  
いや既に特大のを押されている気がする。  
つーか何か基本的に噛み合ってない。  
これはまずい。  
男として、伴侶として安心させてやらなければ。  
そうだ一言でいいのだ、これを言えばこの女は絶対に喜ぶ。  
ただいま、と。  
「た」  
ただいま。  
「た?」  
畜生…………言えねえ…………………  
「明日は少しくらいは連中と話をしてやってもいい…」  
結局そんな無難な言葉しか与えてやれない。  
「そうしてくれるとうれしいわ」  
それでも彼女はいいと言ってくれる。  
 
だが夫婦になった以上、その優しさにいつまでもぶら下がっているわけにはいかない。  
決意して、優しく束縛を解いて離れようとしたセレスを再度抱き寄せた。  
「待て!俺も、何か言ってやる。聞いていけ」  
「へ?」  
その爆弾宣言は、嫁を喜ばせるよりもむしろ心配させた。  
「…無理しなくていいのよ?あなたそういうのに向いてないんだから」  
「うるせー男ナメんじゃねーぞ」  
「いやナメるとかそういう話じゃ…あーはいはいそれじゃ聞いてくわよ……」  
かくして。  
己で招いた流れで勝手に溝にハマリ、アドニスは愛の言葉を紡ぐなどという一世一代の大作業に入った。  
ある意味人生最大の難関ktkrといった具合である。  
なんせ彼女の想いを受け入れた時の台詞さえ、  
『俺も(テメェと同じく頭が)イカれてるってこったこれでいいか豚野郎』などという男なのだ。  
しかしここで退くわけにはいかない。  
だが、何を言えばいいのだろう。  
「何でもいいわよ」  
明らかに旦那の焦燥を感じている嫁から横やりが入る。  
かといって、たとえ筋肉の塊だったとしても俺はお前のことを とか本音を言っても絶対ボコられるだけであろう。  
何を言えばいい。  
一体、何を―――。  
―――………。  
沸点の低い頭がだんだんイライラしてくる。  
面倒くせぇ。何故俺が。何でこんなことに。  
だいたいこいつが無駄に心細そうなツラを晒すから悪い。  
“落花流水の情”であることなんぞわかりきってるじゃねえか。  
そうだ。  
一言言っておかなければ。  
「いいか耳かっぽじってよく聞けやこの豚野郎」  
気がつけば趣旨の違えた結論を唸り声で搾り出そうとしている。  
やれやれやっぱりトチ狂ったかと先読みしている嫁に向かって言い放った。  
「お前がここにいるんなら、たとえ刺されようが抉られようが俺はぜってーここに戻ってくるんだ!!  
 無駄な心配してんじゃねえぞ!!わかったかボケ」  
途端。  
セレスの呆れ顔が瞬時に色を変え、丸くなった瞳が驚きに染まる。  
その表情を確認した次の瞬間、アドニスは自分が何を口走ったのか理解した。  
後悔の大波が襲ってくる。  
今、俺、ものすごく似合わない台詞をゲロってしまっ…た、よう…な……  
 
「…ぷっ」  
硬直時間が解けたのはセレスの吹き出しが合図だった。  
「テっテメェ!!そこで笑うか!!」  
「あはははごっごめんなさい、でもあなたの顔ったら」  
嫁はスイッチが入ってしまったかのように笑い転げている。  
笑わせたかったわけではない。  
アドニスは羞恥と怒りで溶鉱炉のように熱していたが、その爆笑が別の感情を隠すためだということはわかっていた。  
「あーこのアホいちいち潤んでんじゃねえよバカヤロー!!軽く流せっつーの!!泣きたいのはこっちだ!」  
「だって、うれしいんだもの…」  
狂ったように笑ったまま、首に抱きついてくる。振り払おうとしても絶対に離れない。  
赤い髪が鼻をくすぐる。  
ため息まじりに天井を仰ぎ、観念してひっぺがそうとする手を止めた。  
「やっぱ、お前なんだよな……」  
「え?」  
「何でもねえよ」  
そのまま唇を奪って舌を絡ませる。  
息継ぎの合間につぶやく。  
「帰ってきたんだなと思っただけだ」  
年貢の納め時がきた。そう相手の体温を感じながら思う。  
そろそろ現実を受け止めよう。  
こうやって抱きしめているだけでも、いや抱きしめているだけの時間の方が大事になってきているこの現実を。  
不安も不満も未だ大きい。ただそれはこの女だからだ。  
どうでもいい相手ならすぐ別れてそれきりにするだけの話。  
選んだ女だから惑うのだろう。  
大丈夫だと確信する。  
帰ってきていざ彼女と向かい合ってみると、ホッとした。  
その声、その姿、浮かべる笑顔でわだかまりが一気に溶けてしまった。  
心底、認めたくないのだが―――――  
自分が本当に大事なのは斬鉄姫ではなく、このセレスという女らしい。  
宿敵だった彼女だけではなく、言葉を交わしたり、睨みあったり、ずっと隣にいた女だ。  
つまりはそういうことだったのだ。  
…認めたくはないし、死んでも口になど出してやらないが。  
「何だよお前。ひょっとして俺がどっかトンズラこいちまうとか余計な心配してやがったのか?」  
図星と言わんばかりに目を伏せるセレスの額に人差し指を突きつける。  
「らしくねえな。だったら普段から離れてもちゃんと戻ってくるようにしときゃいいじゃねえか。しっかりしろよ」  
二度と剣を持ちたくないというのであればそうすればいい。  
変わるというなら、そうなりたいというのであれば、好きな様になればいい。  
 
「ったくよー、縮こまってるお前なんぞ張り合いなくてつまらねえんだよ!  
 逆境でも無意味に踏ん反り返ってムカつく程図太いのがお前だろ!」  
「…酷い言われ様」  
「おおそうだな。俺もずいぶん素直な正直者になっちまったよなー」  
挑発的にニヤリと笑う。  
セレスはしばらくふくれていたが、ずっと不安げだった面持ちに数秒後、夫と同じ類の笑みを浮かべた。  
「何よ。言ってくれるじゃないの。別に言われなくても放してあげるつもりなんてないわよ。絶対にね」  
「望むところだ」  
肩に顎を乗せ、後頭部をぽんぽんと叩いた。  
戸惑うこともあるだろう。  
でも  
「…正直に言うわね。ずっと不安だった。剣を持ってない私なんて、あなたには…それにやっぱり私は、生前あなたを…」  
受け入れてやる。  
「だー!まだそれ引きずってんのか!!ほんっとテメェは豚野郎の分際でいつまでもうじうじしつけえな〜!  
 テメェの目の前にいんのは誰なんだよ?俺だろ?その俺が気にすんなっつってんだから気にしてんじゃねえよボケ!」  
変わらずに想っててやる。  
そう思えるようになった。  
「…ありがとう」  
唇からこぼれた小さな礼とともに、再度首に手を回してゆっくり寄りかかってきた。  
甘い香りが漂ってきて、多少平静を失う。  
「まあだから。何が言いたいかっつうと。テメェがどうなろうが知ったこっちゃねえぞと。関係ねえぞと。  
 別に俺はかわんねえぞと。…好きな様にやれよと」  
「うん」  
さらに強く抱きついてくる。  
うん、ねえ…。  
ずいぶんと懐かれたもんだな、と少々気が抜ける。  
「うれしい…」  
幸福で満たされた呟きが耳をくすぐる。  
ぐっとつまる。こういうのは苦手だ。胸が変にしめつけられる。  
別に、俺は悪くない。どこもおかしくない。  
俺はどうもこいつに弱いんだ。ただそれだけのことだ。  
口付けたままここぞとばかりに体重をかけ、ゆっくりと押し倒した。  
「ん…。ちょ…っと」  
胸元に指を忍ばす。  
「お前がでけぇ声で鳴かなきゃいいだけの話なんだろ」  
拝み倒す前に『またこの男は……』という顔で眉をよせられてしまったので、拒否される前にすごむ。  
「わかってる!ゆっくり!優しく!すりゃいいんだろっ!つまんねえが仕方ねえ妥協してやる」  
 
目を丸くした後、怪しんで顔を覗き込んでくる。  
「………本当ね?」  
「嘘つきゃ顔見せなくなるんだろ」  
口を尖らせて愚痴ると、下に寝かせた女の表情が緩む。  
「ばかな人」  
「うるせー豚野郎」  
安心しきった微笑みを浮かべてくすくす笑っている。  
確かに以前よりずっと明るい笑顔で、たくさん笑うようになった。  
俺を選んで何故そうなる。  
変な女だ。  
理解し難いその柔らかな微笑みを絶やさぬまま、セレスは窓の方に目をやった。  
「…覚えてる?初めて一緒になれたあの日も、今日みたいな満月だった」  
「あぁ?そうだったかぁ?くだらねえこと覚えてやがんなテメェは」  
もちろん覚えている。  
結局あの後は二人とも眠れるわけもなく、かと言って言葉を交わす気にもなれず、  
満ちた月の下でぎこちなく横になっていた。  
同じ布の下で寝ている。  
だんだん信じられなくなってくる。  
いつもの都合のいい夢でも見てるだけなんじゃねーか俺、という気になってきたので  
隣りで天井を見ている女の頬を撫でてみると、紛れも無い人の体温が伝わってきて、現実を実感する。  
少し戸惑ったような視線もそろそろとついてくる。  
間をつめてみても何の拒絶もなく、髪を撫でてもまた少し距離が狭まるばかりで。  
奇跡と信じていたそれは実はあまりにも身近で二人を手招いていた。  
長い夜の果て、暖かい光が密やかに降り注ぎ始める頃、  
腕の中にいる女からの安らかな寝息が耳に届く。  
―――そうだ。  
あの時の気持ちをどうして忘れてしまっていたのだろうか。  
無理やり押さえつけなければ手に入らないと思っていた奇跡が目の前で起こっているのに。  
認めたくはないが生きてゆく上でもうこれ以上の幸運は二度と訪れないだろうと、  
認めたくはないがもう何もいらないとすら思わされたその出来事を――――。  
 
あの時から片方が欠けるはずだった未来は常に交じり合い、跡には一つだけの轍を刻み続けている。  
結局。  
こいつなら勝てなくてもいい、  
こいつがいれば何だっていい、  
そんな恐ろしい状態にまで突き落とされてしまった。  
まったく、こっちはいつ愛想をつかされるかとひやひやしてるのに。  
当たり前みたいに人を変えていくくせに、  
ちょっと連絡しないぐらいのことで傷つきやがって。  
むかつく。  
むかつくから、本音など生涯口になど出してやらない。  
いつまでもそうやって存在のすべてで俺を惑わしていい気になってやがれ。  
いつまでもそうやって、  
俺のそばで、  
俺を求めていろ。  
そうさ冗談じゃねえ幕が降りるまで  
くたばるまで素直になってなどやるもんか。  
どうせ今回も俺の方が先に死ぬんだろうが  
絶対忘れることのないように俺を刻んでいってやる。  
ばーか。  
ざまあみやがれ。  
「おかえりなさい……」  
耳元で吐息まじりに囁かれるのは、自分だけが聞ける優しい音をした甘い言葉。  
「……あなた」  
そうやって気付かない間に溶かしてしまう寸法なのだろうが、そうはいくものか。  
初めて関係を持った夜から少しも変わらないのは、長いまつげがふちどる瞳から注がれる視線。  
いつものように不器用に逸らしつつ、内心では彼女という存在のすべてに大きくため息をついている。  
悩んだだけ無駄だった。  
我慢などせず、とっとと帰宅すればよかった。  
変わってゆく彼女に惑ったところで、どうせ気持ちは変わらない。  
こうやってやっと一つわかりあえて、道はずっと続いてゆくのだろう。  
急いでどうなるものでもないようだ。  
 
微笑む口元に引き寄せられて気付くのは、結局はずっとその存在に捕らえられている真実。  
視線を逸らせ、己の陥った現状にため息をつく。  
 
 
まったく  
せっかくつながった首にも  
首輪が巻かれてるときた  
 
 
 
終  
 

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