積み上げてきたものが大きな人間ほど、足元をすくわれると見事なほど簡単に崩れ落ちる。  
陥れられた、その先。  
強すぎる理性の持ち主には破滅だけが嬉しげに手招いていた。  
 
闇夜に小雨が降っていた。  
可愛らしい鈴の音が鳴り、田舎の小さな宿屋に久しぶりの来客を招き入れる。  
少年と女。宿主の目には最初そう映った。  
ご時勢もあるので軽く警戒しつつ、「いらっしゃい」と一応の挨拶を投げかける。  
「ああ」  
声を聞くと、男の方も女と同じくらいの年齢であることが察せられた。  
男女の二人連れ。だったら用意する部屋は一つで十分だろう。  
「ご一緒で?」  
とりあえず確認の問いかけをしてみると、  
「……別々で」  
男からではなく脇にいた女から返答があった。  
暗く重い注文だった。  
明らかに様子のおかしい女。訳ありの不穏な匂い。  
宿屋の主人は眉を顰めたが、対処の反応は男の方―――――エルドの方の機転が早かった。  
「迷惑はかけない。明朝早いうちに発つ」ときっぱり宣言し、有無を言わさず金を握らせる。  
宿主はちらりと視線を落とし、握らされたオースが多めなことにほくそ笑むと、「それでは」などと至極簡単に懐柔された。  
こんなものなのだな、と女の方―――――セレスは心の片隅で思う。  
一週間前に初めて乱暴された時の宿も、あれだけの大声をあげたにも関わらず、様子を見にすらこなかった。  
その上宿を発つ際も挨拶にも出なかった。厄介者が早く出て行ってくれることを願っているばかりだったのだろう。  
あの夜は窓もドアもがっちり施錠し閉め切っていたにも関わらず襲われた。  
屋根裏等からの侵入を疑ったが、実際の経路は入り口のドアから堂々と、だった。  
ケンカをしてしまった恋人と話をしたいから。  
そんな安っぽい嘘をそのまま鵜呑みにし、いや鵜呑みにしたフリをして、宿の主人が金と引き換えに鍵を売った仕業だった。  
旅人に義理立ての必要などない。  
ただでさえオーブ不在で荒廃したミッドガルド。そうでなくても世の中のシステムとはそんなものなのだ。  
エルドの方が何枚も上手、いや変わらない世の常を知っていた。  
「こいよお姫様」  
腕をひかれたので振り払う。  
階段を登り切るまで、中年の宿主がねっとりした視線で羨ましげに舐め回してくるのが心底不快だった。  
部屋に入り扉が閉まると、ここが今日の拷問部屋かと心が沈む。  
兜に手をかけられてビクッと後ずさる。  
頭部を保護していたそれをゆっくり取り上げられ、雨で少し水分を含んだ赤い髪が揺れたが、その向こうにある表情は更に冷たく硬い。  
「脱がせ方覚えちまったぞ」  
エルドはそれを嗤う。  
「いいな。この、余計なモン取り外してく感覚」  
セレスを守る甲冑が一つまた一つと剥がされ、その度に、ごとっ、と床に落ちる。  
「……っ」  
嫌で仕方ないのに、抗えない。未知だった屈辱は予想以上にセレスを萎縮させていた。  
初めて乱暴を受けた夜、気を抜かずにちゃんと鎧を纏って剣の柄を握り締めていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。  
そんな後悔をしたところで今更だった。  
エルドはセレスから鎧を剥がせるだけ剥がすとそのまま寝台に向かい、腰を降ろして、  
「こいよ」  
依然戸口で立ちすくむ彼女を偉そうに呼びつけた。  
無理やり引っ張ったり、寝台に投げ出したりなどという、自分の手を煩わせることはしない。  
行動を選ばせる。もっとも選択肢はすべて強要的なものでしかないが。  
「立ったまんまがいいならそれでもいいが?」  
セレスからしたら論外でしかない下品な媾合も、この男なら本当にやりかねない。  
渋々近づいてきたセレスの手をとり甲に口付けを落とす。演出のわざとらしさに虫唾が走る。  
「何ぼけっとつったってんだよ。とっとと脱いで横になれ」  
要求は率直だった。  
迸る嫌悪を抑えきれない。服に手をかけて躊躇していると、男の声色が低くなる。  
「あんまり焦らすならひん剥くぞ」  
「……っ」  
 
自分は散々焦らすくせに。  
そう反発を覚えつつも、また服を切り裂かれてはたまったものではない。  
震える手で衣服に手をかける。  
当然ながら言いなりになどなりたいわけではなかった。  
だがこの男は気に入らない相手には本当に何をするかわからない。  
それに加え、残念だが連れ出してもらっていなければ確実に死んでいたのは事実。  
下着を外す。  
欲望が満たされれば絶対にすぐ飽きる性癖の持ち主。特に女は一人に執着しない。  
生前ゼノンに漏らされた愚痴。それだけが救いだった。  
二度目の人生。先は長い。できるだけ無傷でこの災難を凌ぐべく、生存確率の高い選択肢を選ぶ他なかった。  
「いい脱ぎっぷりだ」  
嫌がっているのをわかっていてそう囃し立てる。  
肌から最後の布が滑り落ちた。  
肉感的な裸体が弱い月光に照らされ、波打つ白布の海に横たえられた。  
惨めだった。  
だが、二人がかりで―――――それだけはどうしても、絶対に嫌だ。  
気持ちをばらされて、そうだったのかよと、嗤いながら、など。  
それだけは、どうしても。  
「するなら早くして。…早く終わらせて」  
「早く?」  
顔の両脇に手をつき、ぎしりと覆い被さってくる。  
「嫌だね」  
「んっ」  
乱暴に花唇をこじあけ、噛み付くような口付けをする。  
歯列をなぞり奥を貪って、まるで獲物に牙を突き立てるごとくの情欲を示す。  
「んむっ、はっ……」  
そうやって開始の合図から既に耐え忍ぶだけの悪夢の時間が始まった。  
糸を引いて離れた後に強く睨みつける。  
「口付けなんて、しないでいいわ」  
「何で」  
「私のこと別に好きでも何でもないんでしょ」  
おかしな要求をする女をしばらく半目で見下ろしていたが、いつも通り口元を歪めると、  
「却下」  
拒絶を叩き潰しにかかってきた。  
ぐいっと水筒をあおったかと思うとそのままもう一度口付けられる。  
「ぐっ」  
強い酒が注き込まれて喉を焼いた。  
「けほっ、げほっ!な……に……っ!」  
「いつまでもつんつんしてんじゃねえよ。せっかくだから楽しもうぜ」  
むせ返る裸体の女に圧し掛かる男も、構造のよくわからない服を手早く脱ぎ捨てた。  
華奢で小枝のようだとばかり思っていた身体もしなやかに筋肉がついていて、男だということを強く認識させられた。  
裸身が重なるのが死ぬほど嫌だった。  
胸の柔らかみを揉みしだいて突起をつまみ上げ、いじり倒して堪能している。  
しばらく上半身を弄ぶと足を割り、顔を埋めてきた。  
「ん…んん」  
淫靡な水音に頬が紅潮する。  
指を挿入されるのも嫌だが、舌を駆使されるのももっと嫌だった。  
太腿に伝った愛蜜まで舐め啜る。  
生前だったら自刃を厭わぬレベルの屈辱を必死で堪える。  
生き残ってしまった。己よりずっと後に生まれた小さ姫、今の王女であるはずの彼女が使命を完遂して逝ってしまったのに。  
だったら、何としてでも生き抜いて新しい生を全うしなければならない。  
腰を撫でていた手がふいに進路を変えて形の良い臀部をさする。  
白桃と比喩してもいいそれの、さらに割れ目へと突き進み、  
「こっち処女だろ」  
蕾を優しく撫でてきたので思わず目を見開いた。  
「やめてよっ!!」  
有り得ない場所に触れられて、血走った目で蠢く片手を叩き落とす。  
 
「変態っ!!何するの!?」  
冷静さを欠き、ささくれ立った精神は、まるで追い詰められて怯えて唸る獣そのものだった。  
荒ぶる様子を男は残忍に嘲り嗤う。  
「そんなこと言わねえでさ。やらせてくれよ。気持ち良くするから」  
「いやっ!!」  
憎悪の眼差しを心地よさげに受け止める死神。  
「……普通に、やればいいでしょう。変なこと、…しないで」  
「成程。お姫様的には普通にこっちにぶちこんでほしいと」  
秘裂に指をつうと滑らす。  
「ひっ…」  
「斬鉄姫様ともあろう御方がそんなに怯えなくたっていいじゃん」  
面白くて面白くて仕方ないといった様子だ。  
「何かお前っていじめたくなるよなぁ」  
「………っ」  
「まあいい。やめといてやるよ。今はな」  
今は。  
言葉の意図を考えたくもなかった。  
暗殺のための一手段として培われた巧みな性技を容赦なく浴びせてくる。  
唇も下も両手も脚も、怯える女の上で触手のごとく這い回る。使えるところはすべて使って責め立ててくる。  
「せっかくエロい声してんだからもっと鳴け」  
囁く声さえ悪質な凶器。  
ただ押し寄せる荒波をすべて受けるしかなかった。  
「はあっ、はっ、……ああぁあっ!!…っは、ううっ…ん、くっ。んん……」  
高低をつけ弛張する喘ぎ声は痛々しく、凍える吐息は閉ざされた空間に行き場無く吐き出される。  
白い太股が絶え間なく溢れさせられる愛液で汚され続ける。  
甘い毒に己を見失わないよう強くシーツを握り締めた。  
何故こんな男の前で足を開いているんだろう。正気に戻ることは辛過ぎてできなかった。  
「嘘つき…」  
思わず小さく罵ると相手は嘲笑を色濃くした。  
「あっ」  
びくりと仰け反る。十分に濡れた入り口へ男根を押し当てられたからだ。  
「……」  
震える瞼を落とし、さらに耐える態勢に入ったセレスを嗤う。  
挿入ってきた。  
「あ…ぁああああっ…!」  
何度も突かれてその度に声にならない悲鳴が上がる。  
起こる摩擦の熱は至極不快でも、交わっている現実だけは残酷に思い知らされる。  
最早どこから声を出しているのかさえわからない。  
停止を忘れた機械のように壊れた音をあげている。  
「あっ、ああん…あん、んっ、はあっ。あっあっあっ」  
ぐりぐりと腰を押し付けられて飛びそうになる。  
どうしても嬌声を留められないのが悔しかった。  
肉体は魂の足枷――――――今、心底からそう思う。  
そうやって、高めるだけ高めておいて寸止めをされるのが、夫以外を知らなかったセレスには限りなく苛酷だった。  
「んんっ…はあっ、はっ、んはぁっ…、早くっ、早くエルド…」  
結合部からぞくぞくとせりあがってくる快楽に悶えるしかない。  
酒のせいもあるのだろう。疼いて疼いて仕方ない。  
「ああっ、は…ん」  
「ほしいモンがあるならちゃんと言わなきゃ駄目だろ?ちゃんと強請らねえとやらねえぞ」  
「や…あぁ」  
くねる女体からは止め処なく潤滑の蜜が滴る。  
「駄目っ、苦…し……っ、エル…ド………っ」  
「ほら。挿れてください、は?」  
「エルド……」  
だがこの駆け引き自体は、玩具が壊れてしまうのを危惧したエルドの方が毎回先に折れる。  
「っとにしぶてえな」  
不平たらたらで突く速度をあげ、腰も大きく揺らめかせて回転が加わった。  
 
「あっ!?ひああああぁっ!!」  
出来上がっている体は到達も早い。  
終わった後に汗がどっと吹き出す。  
毎回最後は必ず絶頂させてくれはするのだが、不安で満たされている精神では恍惚とは程遠い交わりだった。  
そして達しても悪夢の終わりはこない。  
間をおき、少し休んで落ち着いたのを見計らって再度覆い被さってくる。  
「ちょ、ちょっとっ!?もう、や…っ!」  
「次は俺の番だろ」  
「なっ」  
抱き方が更に手荒さを増す。  
「あっ、いやっ、ぁぁああっ!!」  
脚をぐっと倒されて受け入れたくないものがさらに深く挿入される。  
痛いならまだいい。むしろ大きな快楽に変わるのが耐えられなかった。  
「乱暴にした方がいい声聞けるな」  
「あっ、やめっ…!んっ」  
この時、激しく突かれた上に角度も悪かった。  
先端が子宮に達したのに容赦なく突かれてしまったのだ。  
「うああぁぁああああああぁあっ!!!」  
内臓に衝撃を加えられた故のとんでもない激痛が走り、耐えようと思う間もなく絶叫する。  
「あ―――――ワリ」  
流石のエルドも失敗を認める。責め立てるのを停止して、早々に自身を撤退させた。  
「……」  
痛みの波が余韻となって全身に響き、びりびりと痺れがとれない。  
顔面蒼白でぐったりと横たわる女には生気が薄い。  
「おい本当にわざとじゃねえぞ」  
気まずく感じたのかエルドは故意ではないことを強調してくる。  
ほんの少しだけ申し訳なさげに髪を撫でられた。  
嬉しくも何ともない。逆に小刻みに震える肌が粟立つ。  
「わりい。痛かったよな」  
エルドがどうやってご機嫌を取ろうとしても、セレスには拒絶を続けることへの報復にしか思えなかった。  
その無言が、欲情している男には都合よく映る。  
慰めのつもりなのか豊潤の肉体を散々撫で回す。  
そして弾力と温もりに埋もれた後で、勝手に我慢の限界を超えた。  
「…ほんと、悪りいな。もう一回だけ」  
戦慄したが、仕置きともとれる激痛を与えられた後で拒否など出来るはずもなかった。  
歯を食い縛る。  
身勝手な男は表面的なだけの拒絶の無を、勝手に了承として捉えた。  
「お姫様は本当にいい女だな」  
嬉しげに首筋へ唇を滑らす。  
こんな時の褒め言葉は何度耳にしても馬鹿にされているようにしか聞こえなかった。  
交わる度に恐怖と痛みの傷口ばかりが抉られ、嫌悪の記憶だけが濃密に積み重ねられてゆく。  
エルドが多少は自重した為そこまで深くはなかったが、抜き差しを連続する行為は灼熱の悲鳴を呼んだ。  
「あっ、ああ!!あああああああぁああっ――――!!」  
淫を含む水音。  
狂気と隣り合わせの嬌声。  
その音に含まれる艶に惑って、背徳を犯す男の何かがぷつんと切れたらしい。  
「セレス」  
動きが急に本能任せになり獣じみて止まらなくなった。  
「あっ」  
変貌を感じても下にされている女はついていけない。ただ、怯えて呻く。  
「セレス」  
むしゃぶりついてくる。  
怖い。  
ただ、怖い。  
 
精神が現実逃避して女の目を瞑らせる。  
それでも狂おしい熱は追いかけてきて炙り上げる。  
囁かれる、場に似合わぬ甘たるい呟き。  
「好きだ……」  
嘘だ。  
牡獣が達するまでの短い時間、叫び出したいのを必死で耐え抜いた。  
終わった後にぶちまけられた白濁液が腹をつうと滑っていく。  
満足げに荒い息をする目の前の冷酷な男と、頼れる仲間であったはずの男が、どうしても一致しない。  
「エル………」  
呼びかけて、やめた。  
いくら名を呼んでも無駄なのだろうと悟った。  
仲間だと思っていたのはこちらだけだったことを思い知らされる。  
恐怖と絶望で凍える瞳から大粒の涙が落ちた。  
「…っとに、そそる泣き顔するな」  
満足した男は女の為に後戯を丹念に行った。  
繋がれたと自惚れていた。心さえも。  
涙はただの快楽からくる生理的なものだと都合のいい解釈をしていた。  
その一粒に閉じ込められているどしゃ降りの驟雨を理解しようともしなかった。  
セレスは静かに壊れ始めていた。  
圧し掛かられたままで何処に引きずられていくんだろう。  
あとどれくらい闇の中で目を閉じればいいのか、見当もつかなかった。  
 
 
 
気がつくとキセナ草原を歩いていた。  
広がる大地と穏やかな海原。太陽の光が何の障害もなく降り注ぐのに、セレスの視界は暗い。  
記憶がブツ切りにとんでいて道程をほとんど覚えていない。  
この頃になると抵抗する力はほとんど絡め取られていて、ただ呆然と道を歩いていた。  
感情を表に出すのが下手で溜め込んでしまう性格がまた悪循環を生む。  
表面的には少々疲労が見える程度だったが、内側は既に繕えぬ程ボロボロだった。  
セレスと真逆にエルドの足取りは軽い。はしゃぐ子供のように。  
手に入れた玩具がいたくお気に入りらしい。  
矢筒に巻かれた青い布がひらひらとそよいでいる。  
身体的特徴を罵るのはあまり好きではないが、こんな小さな男に好き勝手されている現実を思うと殺意がわくのを止められない。  
わくのだが、同時に何故こんな惨状に陥ったのかという原因―――セレスはそれを己の落ち度と思っている―――を考えると消沈する。  
そしてその苛立ちと同じくらい悲しい気持ちも溢れてくる。  
エインフェリア時代は彼の背後に回ることはほとんどなかった気がする。  
いつも神がかった弓技で援護してくれたあの頃が嘘のようだった。  
今は、暗くなる一方の表情にも、燃料だと思って必死に口にしていた食がついに細くなったことも、何も勘付いてはくれない。  
この程度の存在だったのだな。ただ悲観に満たされる。  
「グエェエッ!!」  
ぼーっとしていたら頭上から醜く短い絶叫が轟いた。  
セレスの足元に射抜かれた鳥の魔物が落下する。  
ピクピクと絶命までの数分を過ごす魔物。  
霧のかかった思考が、この生物に頭蓋骨をカチ割られた方がましじゃないのかと呟いている。  
「礼くらいねえのかよ」  
紫黒色の禍々しい弓をおろしたエルドから不満が漏れた。  
無言で旅路に戻るセレスに舌打ちするも、  
「ま、いいけどよ。そんじゃ夜覚悟しとけ」  
嗤いを漏らしながら先に行ってしまった。  
 
エルドのしたことはどう考えても詐欺だった。  
だがセレス一人ではあの場から去ることが出来なかったのはまぎれもない事実である。  
けれど、ここまでして生きていて、何の意味があるんだろうかとも思う。  
疑問と焦燥に苛まれたまま、あっという間に時間だけが過ぎていった。  
一体何時終わってくれるのだろう。  
潮風に吹かれて、失意に翳りゆく瞳から、一粒だけの涙が落ちた。  
 
 
 
目が覚めると朝陽が射し込んでいた。  
潮の香りが鼻をつく。  
アリーシャが不安と共に門をくぐり、あの半妖精と出会った、始まりの港。  
終焉した故郷の見える街。  
セレスは消え行く街ゾルデに行き着いていた。  
「着いたぞ」  
数日前、声をかけられてふと顔をあげると、見たことのある街並みが目下に広がっていた。  
「ゾル…デ……?」  
「何言ってんだよ。とった経路でわかってただろ」  
今更何を、といった怪訝な顔つきで腕組みされた。  
呆然とした。  
何故、よりにもよって、ゾルデ。  
ゾルデと言えば祖国ディパンが近い。  
復讐相手の足取りが途絶えたとなれば、あの人も情報を求めて必ず立ち寄るであろう。  
とてもではないが逃亡劇の末に腰を落ち着けるような場所ではなかった。  
「故郷が見たいかと思って」  
優しげに伝えられた理由もつまらない嘘にしか聞こえなかった。  
敢えて見つけやすい場所に捨てる、か。  
やはり助けてくれる気など欠片もなかったのだと理解する。  
だがもう双眸に虚ろな光しか灯らない女にはどうでもよかった。  
やっとこの死神とお別れできる。  
「…それ、じゃ」  
ふらりと歩を進めると、  
「おいおい今更つれねえこと言うなよ。もうそんな仲でもねえだろ?」  
すぐに間を詰められて、すっと手をとられた。  
何も食べていないのに吐き気がする。  
何処かへ辿り着いたとしても、エルドから逃げられないことは薄々感づいていた。  
終わりは彼が抱く自分への興味が完全に失せた時なのだろう。  
手をつなぐという薄汚れた手錠をされたまま、ふらふらと街の中へ吸い込まれた。  
空き家を与えられ、夜は同じように犯されて数日が経過した。  
「……」  
鮮やかな朝焼け。  
きれいすぎて自分がいっそう惨めになる。  
昇る太陽を見てこんな気持ちになる日がくるなどと思ってもみなかった。  
日中、エルドが何をしているのかさっぱりわからない。  
好きな時間にふらりと現れる。勝手なことをして、迫ってきて、いつの間にかいない。  
セレスは虚脱感ですっかり投げやりになっていた。  
もともと貞淑な女、通常の生活もできなくなる程に、与えられたダメージは大き過ぎた。  
着いた先で犯されるために歩くような日々が延々続き、辿り着いた先でも未だ解放されないのだから無理もない。  
籠の中の鳥を思い出す。  
いや、鳥ならかわいい。私など、牙の欠けた醜い獣だ。  
しかも檻の鍵はかけられていないのに、連れ戻されて折檻を受けるのが怖くて動けない。  
……。  
違う。  
そうじゃない。  
哀れな獣にすらなれない。  
私は逃げ出したのだ。  
立ち向かわなければならない現実から裸足で逃げ出した。  
 
そして深い森に迷い込んで、出られなくなった。  
もう逃げ道はない。  
俯いていると昼が過ぎ夕暮れがきて夜になり、自分にこの家を与えた主が現れた。  
「ずいぶんと暗れぇな。無事に逃げおおせて気が抜けたか?」  
不遜な態度は留まることをしらなかった。  
顎をつままれる。  
病的な笑みが映る。  
もう振り切る気力もない。  
そのまま接吻を受ける。  
もう抵抗する余力も残っていない。  
何故。  
何故こんな男を信じたのか……  
「…いや」  
寝台へと誘われたので小さく身を引く。  
「床の上がいいのか?俺はいっこうに構わねえが」  
「も…いやだ……」  
かぶりを振るも、  
「いやだいやだってガキじゃねえんだから」  
相手は真逆に、心からこの状況を楽しんでいる。  
「しょうがねえな」  
動こうとしないセレスを軽々と抱き上げて、ふわりと寝台に下ろした。  
「………」  
これからまた乱暴されるのかと凍えても、無力感の支配は強く、もう身体を強張らせるしかできない。  
嫌だと言っても聞いてくれるような相手ではない。  
口内を犯されつつ服の上から双丘をたっぷり揉みしだかれた後、はだけゆく胸元に冷気を感じて慄く。  
いくら言っても無駄だとわかっているのに定期的に口が拒絶を示す。  
「やめて…」  
「そう言われてもなぁ。俺今お前にすげーハマってるし」  
今日もまた男の傲慢が当然だと言わんばかりに覆い被さる。  
近づいてくる嗤いが嫌で顔をそらすが強引に顎をつままれた。  
「お前さ、嫌がってるフリするわりにはよく鳴いてんだけど」  
退廃を誘う、奪い尽くすような口付けがとても嫌だった。  
「ん、ふ」  
「ちょっといじっただけで乳首もこんなになってるしよ」  
胸の突起を指の腹で散々撫で回した後、ぐりっと押し潰した。女体が反応して反り返る。  
「あんなエロい顔して散々いやらしくイキまくってたのに、今更」  
仕込みあげられた体はエルドの思うがままに感じ、くねり、跳ねる。  
「イイんだろ?そろそろ素直にならねぇ?お姫様。ほら」  
「ぁああっ!!…………や…っ。あっ、はぁっ、も、やめ…て……」  
おかしな薬よりよっぽど酷い。  
望まぬ快楽は容赦なく投与され続け、精神と争って辛過ぎる煩悶と化す。  
「そろそろ素直になれよ。もっとして欲しいくせに」  
耳を穢す戯言の束に耐え切れず目を伏せる。  
睨みつける気力もとっくの昔に費えた。  
「…嘘つき」  
小さな反撃も簡単に一蹴されるだけだった。  
最近はただ天井をずっと見つめている。  
自分と体を重ねている男の顔すらしばらくまともに見ていない。  
背中に手を回したこともない。  
まぐわっている時の互いの表情すら知らない。名を呼び合うことも、求め合うことも、微笑み合うこともない。  
自分はずっと笑っていないけれど、相手はずっと嗤っている。  
犯されているんだな、と現実を認識せざるを得ない。  
だが意識を遠くにやろうとしても、長い指を付け根まで埋め込まれて反応しないなど無理に等しい。  
「ひっ…。あっ、あ…ああん…。はっ……うぅ…ん」  
悲しい程ビクビクと反応してしまう。  
まさに犯すように、ゆっくりと中で蠢く。応じて、さらに愛液と喘ぎ声が溢れるのを感じる。  
「ふぁっ…。んっ、あぁ…ん」  
 
じゅぷ、と音がして指が増える。その合間にも乳首に吸い付かれて硬くなった頂きを容赦無しに舐め上げられる。  
気持ちが悪い。  
歪む顔が懇願する。  
「も…っ、やめ…て…」  
「お前マジに可愛いな」  
セレスの全身を舌技で悪戯しつつ、醜態を嗤う。  
「いやなわけねえよな。こんな赤く腫らしといて。大したことしてねえのに毎回毎回すげー濡れてるし。  
 なあ?もっといろいろやってみたらこのエロすぎる体は一体どうなっちまうんだろうな?」  
耳元で卑猥な台詞をいくつもいくつも吹き込む。  
快楽に溺れさせるためか、赤く色付いた肉芽をねぶるのは特に念入りだった。  
「ふっ、んん…っ。あっ、はあっ、はっ。うん…っ」  
愉悦を抑えきれずに腰をくねらす様子を楽しんでいる。  
どんなに嫌でも触れられる度に艶っぽく彩りを増してしまうのは隠しようがない。  
散々愛撫した後、次に舌で秘裂の内をかき回され、愛蜜を強く吸い上げられた。  
「あ、ひっ!!いやぁああっ!!」  
悲鳴じみた嬌声が喉を振るわせる。  
「もうちょっと色気ある鳴き声にしてくれよ」  
文句を言いつつも、ぴちゃぴちゃと舐めて濡らし急に吸い上げる行為を執拗に繰り返す。  
女の抱き方も彼の粘着な性質を色濃く反映していた。  
「ん、あっあっ…やめて…もういや……はあぁっ、んんっ!…っく、…もう…」  
震える腕では抵抗にもほとんど力が入らない。  
それでも、まさかこのまま延々と地獄が継続されるのではと恐れる精神が必死で別れを請う。  
「…今日で終わりにして」  
「何で」  
「んっ、すぐ飽きるって、く……っ、言ったわ。もう二週間経った」  
「素直になれって」  
「だから……あっ、あぁあん!!はあっ、ぁあ…いや…いや、いや…、いやあっ、…っも、やだ……っ」  
「っとに強情だなお前。じゃこいつでどうだ」  
「ぁああぁあああああっ!!」  
快楽を貪って、自分を陥れた男の下で身をよじり仰け反って高らかな艶声をあげる。  
不快の只中で軽く達した主に悪魔が囁いた。  
「わかるだろ?もう俺無しじゃいられねえ体だってこと」  
「ふあ…っああ…」  
男の思惑とは裏腹に、痙攣している女からは微弱な抗いが続いていた。  
「いいけど。素直になるまで続くぜー」  
襞を巻き込まないように気遣いながら男根を突き挿してきた。  
貫かれる。  
「やぁ…っ!!」  
慣れた女体は意思とは真逆、あっという間にそれを飲み込んだ。  
「ああっ…」  
両胸を鷲掴まれたまま律動されると陵辱を受けているのを実感する。  
「うぁあっ!あああぁあんっ、あん、あん…」  
突かれる度に反応する己が至極情けなかった。  
もう、いっそ、舌を噛み切って―――――  
「知ってるか?ここ絞めるとすげえいいんだぜ」  
思考は遮断された。  
火照りと蒼白が混じった彼女の首に指が絡みついたからである。  
絶望する瞳に映る男は嗤っている  
いつまでも嗤っている。  
「………」  
何を言っても揚げ足を取って実行するのはわかりきっていた。  
来るであろう死と隣り合わせの行為を耐え凌ぐため、ぎゅっとシーツをつかんだ。  
エルドへの感情はただただ嫌悪しか残されていなかった。  
面白がって絞め殺してもそのまま嗤っているのだろうな。  
本当にただの快楽人形にしか思われていない。  
だがエルドは歯を食いしばるセレスに目を丸くすると、絡めた指をすっと解いた。  
「冗談だって。本気にすんなよ」  
 
「……」  
冗談。  
命に関わる行為の提案を、冗談。  
安堵なのか怒りなのかもうわからない。大粒の涙が数滴、震えて落ちた。  
もう言葉を交わすことさえ恐ろしかった。どの会話が暴虐を誘うかわからない。  
「おい冗談言ったぐらいでそんな怒るなって。つうか嫌なら言わなきゃわかんねえだろ」  
嫌だと言ったら、必ずするくせに。  
「悪かったって。ほら気持ちよくしてやるから」  
侘びのつもりなのか、この日だけは過ぎた焦らしはしなかったので、障害なく昇りつめられた。  
規則的に寝台が軋む。  
「ああ、あっ…あっあぁ…ぁ…っ」  
きっちりイかされた後に吐き出された白い暴力がセレスの胸元を汚した。征服欲を煽るのだろう。  
「機嫌直ったか?お姫様」  
「……」  
「睨む元気あるならまだ大丈夫だな」  
また、覆い被さってくる。  
限界だった。  
「も…許して…」  
自分でそう懇願しておいて、何を許されるのかわからない。もうよくわからない。  
もう、動けない。  
残酷な愛撫を続ける手がふと停止した。  
「…少し痩せたか?」  
今更そんなことに気付く。  
「ちゃんと食えよ。痩せるとこっから減るんだからさ」  
豊かにふくらんだ片胸を柔らかく揉まれた。  
比較しようのない汚辱を被る日々では、何度交わっても恍惚は訪れなかった。  
嬌声は悲鳴まじりで痛々しく、支配欲に養った精神と心さえ蝕まれる。  
地獄の終わりを月に願う。  
「……いやだ…」  
こんな情事になんて慣れたくない。  
快楽と理性のギリギリを彷徨わされ、ただただ早く飽きてくれるのを待つしかなかった。  
そんな時間が過ぎていくと、そのうち抗うのも馬鹿らしくなってしまった。  
 
 
 
エルドからしてみれば、もうそろそろ心さえも手元に堕ちてくる頃合だと踏んでいたのかもしれない。  
セレスの状態がその思惑とは正反対に進行していることを、かどわかした男は理解していなかった。  
彼には自分が悪い蟲だという意識はまったくなかった。  
裸体に喰らいついては正常を噛み千切って、そこら中に撒き散らかしているのを気付かなかった。  
何度無理やり絶頂へ連れていっても、心を置き去りにしたままではただの地獄なのを、認めなかった。  
撫で回す手のひらは熱すぎて女を爛れさせてしまっていた。  
とにかく我慢強く耐えてしまうセレスには、快楽に墜ち果てることも許されなかった。  
もらった命だと思えば自ら断つことも躊躇われる。  
食欲はすっかり減退し華やかな顔立ちにも大きな陰りができ、精神を蝕み確実な異常をきたし始めていた。  
そらした横顔は虚空を見つめ、言葉数も激減し、表情が失われていく。  
透明感を纏っていた肌からは生気が抜け、鈍色に劣化した。  
弱々しくも必死で抵抗していた両手も次第に動かなくなった。  
真っ直ぐな眼差しも虚ろに濁り、常時俯いているようになってしまっていた。  
そうやって一ヶ月も経たないうちに、最早カミール17将に数えられたかつての勇将には見えなくなってしまっていた。  
 
 
 
呼ばれて隣りに座ると、古ぼけた寝台が聞き慣れた音を立てた。  
さも満悦げな薄笑いが横にいる男に浮かんでいる。  
やっと自分の言うことを聞くようになり始めた、などと勘違いしているのだろう。  
エルドには右目に髪のかかるセレスの表情は見えない。  
上機嫌で腰を抱き、首筋に口付けてから髪をかき分けて耳を食む。  
 
「やめて」  
セレスの乾いた唇からお決まりの文句が零れる。  
いつもなら構わずに事を進めるのだが、今日はとても掠れた小声だった。  
普段の彼女の喉から出る凛とした音が死んでいることをエルドは訝しむ。  
「おいずいぶんひでえ声だな。風邪でもひいたのか?」  
投げかけられた質問を無視し、セレスは何故か脈絡のないことを、突拍子なく喋り始めた。  
「私は本当に好きでいてもらえたんだと思ってた。  
 そうよね。あなた女に人気あるものね。そうよね。女の方から寄ってこられる人だもの。  
 私みたいな女に、本気なわけないわよね」  
縮こまる身体がかたかたと震えだす。  
「私…馬鹿すぎるわね……」  
涙声とともに、膝においた手の甲に水滴が落ちた。  
雨漏りでもしているんだろうか。的外れな思考がよぎったが、数秒後には己の落涙だと悟った。  
既に精神も肉体も襤褸切れだった。  
もう、心の奥から溢れてくるそれを耐えて留めることなど無理だった。  
セレスはやっと、何百年かぶりに素直に泣き出した。  
「…どうした。何だよ?戦乙女に捨てられてホームシックか?」  
のぞきこんできたので嫌悪に任せて顔をそらす。  
からかいではなく本気で言っている。ここまで空気の読めない男だとは思わなかった。  
苛立ちも大きかったが、もう自分は駄目だという諦めがそれを上塗りする。  
怖かった。  
あの人を呼ばれてもっと酷いことをされるかもしれないという恐怖に苛まれ、どうしても逃げることができなかった。  
もともとはあの人から逃げるためだったのに、何故こんなことに。  
彼女の最大の誤算は、頼った相手への過剰過ぎた信頼だった。  
「もう誰もいねえんだぜ。俺以外はな」  
知ってか知らずか追い討ちをかけてくる。  
言葉による足枷は透明だが頑強でずしりと重かった。  
そうだ。誰も巻き込むつもりはなかったが、誰にも手を差し伸べてもらえなかった。  
ゼノンもクレセントもエーレンも、友達だと思っていたソファラもキルケも、他の皆も。  
ただ笑って去って行ってしまった。  
再戦によって確実に死に至るであろう自分を残して。  
本当は、誰も私のことなど心配していなかったのかもしれない。  
「邪魔な連中が誰もいなくて言うことねえな」  
耳障りな男の声が追撃を加える。  
何もかもを削り上げられてしまっていた。  
そんなセレスのどん底も知らず、愚かしい男は手中にした震える女をぎゅっと抱いて囁く。  
「お前と、ずっとこうしたかった」  
甘い言葉を与えたはずなのに、さらに縮こまり本格的に泣き出してしまった女に男は戸惑う。  
「何だよ本当に。わけわかんねーぞ」  
「うっ、うう。ふっ…」  
「よくわかんねえけど、ほら―――慰めてやるから」  
押し倒されて硬直するセレスの唇に同じものを重ねられる。  
丁寧な口付け。でもまったく嬉しくない。  
涙をこぼす虚ろな目に、曝け出された乳首を口に含まれ、ねぶられているのが映った。  
割られた足。いてほしくないのに存在する男。  
いつも通りの気持ち悪い浮遊感を味わう。  
「うっ、う……はっ、ああ…っく、…ぅん…」  
当然だが強姦が慰めになるわけもない。哀れな女は止め処なく泣き続けていた。  
耐え凌ごうと思いつつも自制が利かず、もうどうにもならない。  
べたべたと震える肌を撫で回す手は、多少は気を遣っているのだろうという動きだった。  
その小さな気遣いさえ嫌で嫌で仕方なかった。  
「ひっ…っく、うう…」  
「おいそろそろ泣きやめよ。こっちまで暗くなるだろ。なんかあったなら聞くから」  
初めて見せる一面に困惑しつつも脚を持ち上げてくる。  
「俺がいるだろ。何でも言えよ」  
「……あ…っ」  
深く挿入ってきたので、顎が仰け反る。  
 
「お前のこと、これからはもっと理解するようにするから。  
 体の方もお前がもっと気持ち良くなるように、知るから。  
 お前もいつまでも恥ずかしがってないでどうしてほしいのか言えよ」  
恥ずかしがっている、とか。  
失望が一段と増す中で、また深すぎる挿入で激痛を与えられるのではないか、十分に濡らされても  
経験してしまった体は常に怯えている。  
本当に、自分のような女を下にして面白いんだろうか。  
面白いんだろうな。こういう男には。  
どんな汚い手を使って捕らえた獲物でも手中におさめたことには変わりない。  
なんせ、斬鉄姫、だ。  
打ち負かし地べたを這いずらせて征服欲を満たすには申し分ない相手に違いない。  
もうそんな肩書きなど当の昔に散ってしまったのに。  
ただの女なのに。  
だから手をとったのに。  
本当にただの性処理用の道具なんだな、と感情が死んだ部分で思う。  
ずっと一緒にいるような雰囲気を漂わせていても、過度の心配無用とばかりにもうすぐ飽きがくる。  
近いうちに別れが訪れるだろうことはわかっている。  
自分が生きているか死体になっているかは定かではないが。  
馬鹿な女だったとそこら中で笑い種にするんだろうな。  
その頃、私はどうなっているんだろう…………。  
「あ…っ」  
己を犯している男を感じて我に返る。  
こんなに密着して熱を与えられているのに、どうしようもなく冷たい。  
愛してる、か。  
…有り得なかった。  
「んんっ」  
逃避する思考が数百年前に愛した男の元へ漕ぎつく。  
ラッセン領主であった夫。  
とてもとても優しい人だった。  
政略結婚だった。  
期待など何もしていなかった。  
斬鉄姫などという珍獣を伴侶にしなくてはならないなんて、なんて可哀想な人。  
夫婦生活はきっと上手くいかないだろう。  
潔く表面だけの関係を受け入れるつもりだった。  
そんなセレスをラッセンで待っていたのは、美しいだの私は果報者だの、気恥ずかしい言葉の洪水を  
遠慮なしに垂れ流す風変わりな男。  
夫は微笑む。  
私のような女を受け入れてくれたのに――――  
自分が裏切った男の懐の深さと優しさを痛感し、いっそう沈む。  
あの人の腕の中は幸せだった。  
優しくて温かくて。  
抱き寄せられてその胸に埋もれると、男の人っていいものだな、と初めて思わされた。  
幸福に抱かれて意識がまどろむ。  
そんな毎日だった。  
あれから夫はどうなったのだろうか。  
きっと、今度こそ良い妻を迎えて、幸せな生活を送ったと信じたい。  
「……」  
罪には罰。  
だったら、これは罰なのだろうか。  
そう思うと、では仕方がないか、というおかしな納得が、死んだ魚の目の中をよぎる。  
それだけのことをした。  
差し出された愛を捨てて、平和と統一の理想を求め、あの宮廷魔術師の下へと寝返り、無様に負けた。  
本当に。  
あの一騎打ちで、死んでいればよかった、な。  
 
そういえば。  
何で、今、我慢してるんだっけ。  
そうだ。  
あの人を。  
一騎打ちの相手を、呼ばれてしまう。  
会いたい。  
でも、もうこんな姿では。  
力が入らないから剣も持てない。  
もう、あの人にとっても、何の価値もないだろう。  
じゃあ、何で…………  
辻褄が合わない。  
もう何が何だかわからない。  
―――考えたくもない。  
今目の前にいるのは、夫でもあの人でもない。  
気をやる寸前でいつも通り焦らされ、苦しい思いをするのだろうという現実がにやつきながら待っている。  
生き地獄でしかない。  
悲観にくれていると、危惧していた通りに寸前で焦らされる。  
もう体の感じるところ全てを把握されているのだろう。  
深いところで留まっている。締め付けられているだろうに、平然としている。  
「あぁ…」  
全身が火照って熱い。玉の汗が流れる。  
「さて、俺もそこまで悠長じゃないんでな。よくしてやるからさ。今日は言えよ」  
どうしてもおねだりを言わせたいらしい。  
言葉で示される屈服を待ち焦がれているのがわかった。  
これがまだ、見知らぬ男の蛮行だったら、どうとでも対処できた。  
最悪なことにエインフェリアとなってから戦場にてずっと信頼を預けていた男だった。  
これだけされてなお、満足したらやめてくれるのではないか、心の片隅でそんな考えが蠢いていた。  
それがついに進出してきて理性とプライドを押し出す。  
既に自尊心すら脆く崩れ始めていた。  
「言ったら…これで終わりにしてくれる?」  
泣き方と同じで、セレスという女には似つかわしい、幼い喋り方だった。  
陵辱を行う主に半目で見下ろされながら頬を撫でられる。  
「お前がそれでいいならな」  
ひと時の安息でもいい。  
この男から解放されたい。  
「…じゃあ、言うわ。…約束…よ。守ってね」  
「わかった」  
幼いが邪悪のこもる顔立ちが嬉しげに笑う、それが嫌に悲しかった。  
「そうだ、それでいい。素直になるのはいいことだぜ」  
口付けを受ける。零した涙の味がした。  
満足させればきっと終わる。もうそんな確定事項ですらない希望に縋りつくしか術は残されていなかった。  
好きでもない男の下で裸身をさらし、胸を潰され脚を広げて、面白がる指で声を上げて。  
必死に耐えてきた。足掻く力はもう残されていない。  
どうせ。  
もう、駄目になってしまっている。  
ふるふると震える唇を開いて、  
「…………挿れて、くださ、い」  
言った。  
「動いて、イかせ…ださい…もっと突いて……ぐちゃぐちゃに、…………かき回して、…」  
足りないとか、もっと言えとか、催促を受けるのが嫌だった。  
だから、今まで言えと促された卑猥な言葉を、思い出せるだけ、すべて口にした。  
それはもう、悲しいとか、悔しいとか、浅い感情からくる言葉の綴られ方ではなかった。  
本当に打ちのめされた人間ののどから出る、血反吐を吐くような、傷だらけの涙声。  
「言ったわ…。早く……して」  
尊厳は死んだ。必死になって感情を押し潰す。  
繋がったまま。後は突かれてお仕舞い。  
これだけしたのだからきっと守ってくれる。  
 
「早く…っ、…お願い…だか、ら」  
約束。  
「守って…………」  
ここで評価し、優しく懇請を叶えてやれば、また違う結末が待っていたかもしれない。  
彼女にそれを言わせたことの重みがわかっていれば、普通はそうするだろう。  
だが根っからの愚かな男はここで欲を出してしまった。  
「何だよそれ」  
セレスの努力を信じられない程あっさりと踏み躙った。  
「そんなんじゃ言ったうちに入んねえな」  
それが崩壊の合図だった。  
一つ要求をのんだらまた次がある。駄目になるまでこうやって弄ぶ気だ。  
セレスにはそうとしか思えなかった。  
心の中で、ただ楽になりたいがためだけに堕落を口にした己を罵った。  
耐え抜いた日々がたった一度の躓きで全部無駄になった気がした。  
愚かすぎる。  
約束を守ってくれるような人間ではないと、わかっているのに。  
二人は久しぶりに正面から互いの顔を見つめていた。  
月明かり。  
女の目の中は底無しの闇だった。まったく光が映らず、泣き腫らしたように真っ赤な目元をしていた。  
そこから数え切れない程落とした涙の粒が、また落ちる。  
「…そんな顔すんなよ。いじめてるみてえじゃねえか」  
胸を締め付けられたらしい。慌ててセレスの頬に両手を添える。  
「一言でいいんだ。な?一言くらい俺を喜ばせてくれたっていいだろ?」  
生前星の数の女にそうしてきたように、質だけはいい声に甘みを足して促す。  
「言ってくれ」  
けれども、そんなもので女がみんな一律平等に落とせると思ったら大間違いである。  
返答は狂ったものだった。  
「殺して」  
ドスのきいた拒絶。エルドがぎょっとして身を退かせた。  
「…何言ってんだよ」  
「もう、殺して」  
「おい!」  
「お願い殺して」  
これ以上玩具にされたくない。逃れられないのならと幕引きを願う。  
エルドは明らかに引いていたが、深呼吸すると勝手に気を取り直す。  
「わかったわかったイかせてやるからもう喚くな」  
やれやれといった感で体勢を整える。  
焦らしたのでヒステリーを起こしたものと都合よく判断したようだ。  
命がけの懇願を軽く流されて驚いたのはセレスの方だった。  
「や…!嘘っ、もう、やだっ、話を聞………っ、ぁあ、ああぁあっ!!」  
手首をとられ押し付けられると潤ったそこに熱い刺激が走る。  
心は拒否していたが体はどうしようもなく欲しがっていて、挿入を悦ぶ。  
「んんっ、うぅうん…やっ、いやあ、あああぁ、いやっ」  
突かれて角度を変えられて揺さぶられて、呻く。  
「やめてぇえ…っ」  
心は拒絶していても、体はあっという間に達したのがわかった。  
引き抜かれた後はいつも通り、肌に情欲を撒き散らされる。  
「ほら良かっただろ」  
「う…うう…」  
自分では優しくしてやったつもりなのだろう。セレスの態度に、ほんの少しだけ気分を害した素振りを見せた。  
「何だよ殺してって。そこまでいくとドン引きだぞ」  
咎めを受けること自体が信じられなかった。  
ついに死を望んだことさえ、この男の耳には戯言としか届いていない。  
 
涙が溢れ出そうとするのを必死で堪えたが、つらくて勝手に溢れていく。  
ひたすらに惨めだった。  
「何だよ具合でもわりいのか?」  
萎びるセレスの姿が理解できないのか、ばつが悪いとばかり頭を掻く。  
「そういう時はちゃんと言えよ。言えばしねえよ」  
それはまるで合意の上、恋人同士の褥のような発言だった。  
これだけ残酷な仕打ちを続けている口が、平然と『普通の情交だろうが』を垂れ流す。  
「どうしたんだよ――――」  
髪を撫でられた時にぶちっと切れた。  
「触らないでっ!!!」  
腹の奥から出てきた、それでいて絹を裂くような獣の怒声だった。  
空間が静まりかえる。  
「…気に入らなくても、約束は約束だわ。…ずっと我慢した。もういいでしょ。これだけ、踏み躙れば、もう」  
セレスの突然の変貌に目をぱちくりさせてきょとんとしているエルド。  
「う…ううっ…」  
ひび割れて原型をとどめるだけの心が軋む。  
「すぐ飽きるって言ったのに。……だから…我慢したのに…どうして……」  
自然と恨み言が零れてしまう。  
ぽかんとしていたエルドも流石にむっとしたらしい。  
「我慢て。どこが我慢してたんだよ。すげーよがってたくせに」  
今のセレスにその追い討ちは過酷だった。  
「…そうね。私は、どうしようもない淫乱だわ。それで、いいんでしょう」  
認める返答は棘だらけで冷え切っていた。  
それは何もかもを諦め尽くした肯定だった。  
「好きな、人が、いるのに。私、汚れてる。私…もう……」  
「おい何なんだよ。いいだろ?毎回お前優先ですげーよくしてやってんだから」  
「……………」  
セレスはそれきり、身を丸めて泣いているだけの状態になってしまった。  
エルドは身の置き場が無いとばかりに目を泳がせ、悪態をついた。  
「ったく色気もクソもねぇな」  
思い描いていた堕落像とあまりにかけ離れているせいだろう、焦燥が見える。  
明らかに自分の手中には堕ちてきていないからだった。  
エルドが騙した女は墜落した。  
だが受け止められるのを拒絶して、壊れてバラバラになってしまった。  
彼はそれをまったく理解していなかった。  
セレスは自分がもう終わってしまっていることを自覚した。  
気まずい空気がこもったまま、窓の外はだんだん白んでくる。  
咽び泣く声もだんだんと小さくなり、消えた。  
秀でた将軍だったはずの女の背中はひどく小さく見えた。  
エルドはわざとらしいため息をついた後、投げやり気味に言葉を吐き出す。  
「悪かった。そんなに嫌ならもう焦らしたりしないから機嫌直せよ」  
口だけの謝罪は、仕方がないから我儘なお姫様に譲歩してやると言わんばかりの傲慢なものだった。  
当然ながら返事はない。  
居心地の悪さと返答をもらえない苛立ちに業を煮やし、  
「おいってば」  
女の肩に手をかけた。  
ごろん、と何の抵抗もなく仰向けになる。  
男の目に、いつもは逸らしていてあまりよく見えない女の表情が入った。  
瞬時、男の目が大きく見開かれる。  
夜の帳という魔法が解けると女の肢体は急激に変化した。  
焼け付くかのような鮮やかな緋色の髪は力なく布の上に流れ堕ち、光の射さない瞳はただ天井を映している。  
「お、い………」  
衝撃に、ごくりと勝手に喉が鳴った。  
「な…んか、また痩せねえか…お前…」  
目の下はクマがぶ厚く、口元はだらしなく緩んでいてまったく彼女らしくない。  
ここまできてエルドは、セレスの様子がおかしいという現実を漸く受け入れ始めた。  
 
「セレ…ス?」  
エルドの血の気をなくした顔からどっと冷や汗が吹き出す。  
「セレス?」  
ふざけて『お姫様』と呼べる空気は既に無かった。  
「セレス、おい」  
肩を揺さぶっても名前の主からの反応はない。  
「ちゃんと食えって言ってんだろ。食いたいもんあるなら何だって買ってやるから」  
食欲を失わせている犯人であることに、やっと気付いたらしい。  
認めたくなかったのだろう、大声を張り上げる。  
「おいきいてんのか、セレスッ!!」  
数秒後、虚ろな女の唇が、僅かに細く開いた。  
「髪には……」  
「何?」  
「髪にはさわらないで……」  
消え入りそうな懇願だった。  
必死になっていて気付かなかったようだが、エルドは長い赤髪を束にして握っていた。  
「…何でだよ。理由は?」  
訝しげな表情を浮かべる男に説明する気にはもうなれなかった。  
「…お願い」  
ただ、そう頼んだ。  
「お願い……」  
潤む瞳は必死だった。  
だが身勝手な弓闘士には、彼女に完全に拒まれている事実を認めることが、どうしてもできなかった。  
「理由がわからねえんじゃ聞けねえな」  
そう言って束に口付けた。  
セレスは心のどこかでああ、やっぱりそうだろうなと納得する。  
そんなささやかな頼みごとさえ聞いてもらえない関係なのだと、今更だと感じつつも悟ってしまった。  
「きれいな髪だ。触るななんて言うなよ。な?」  
ご機嫌取りとばかりに甘く優しく口付けられる。  
おぞましさが走った後、そこで、ぷつりと切れた。  
ついに忍耐の限界を超えた。  
 
混沌の調べが彼女の旋律を叩き壊すまで、ゆうに三週間。  
 
本当に大事に思うなら、エルドは気付いてやるべきだった。  
蝋燭の炎が最後に強く燃えるような。  
落日が消え入る一瞬強く輝くような、そんな号泣の理由を。  
今まであっさりと自分に体を許した女達とは違う種類の女だということも、  
拷問に近い虐待をしていたことも、  
判断を誤ったことも、愚かな男には理解できなかった。  
犯されるのが回避できないのなら、どんな小さな頼み事でもいいから、自分の言うことを聞いてほしいと  
願う女心がわからなかった。  
もう彼女には何も届かないことを気づこうともしなかった。  
花を無理やりに咲かせた代償がどんなに重いものか。  
彼の最大の誤算は、強すぎた自惚れと、セレスが心の中にいる男を真剣に愛しているという事実だった。  
 
 
 
調達できる限りの食糧を抱えて男が戻ってゆく。  
こぼれ落ちそうな程の量は、彼が一夜で爆発的に抱かざるを得なかった不安の大きさに比例していた。  
あの日。女を手に入れたその日から、男はずっと楽園にいた。  
熟れて食われるのを待っていたかのような、甘ったるくて肉感的な体。  
ずっと触れてみたいと思っていた女の肌の上――――――  
少し酷いことをしたのは最初だけのはず。  
色々としてみたかったができる限り優しく抱いたし、顔をのぞきたかったが、あまりしつこくしないようにした。  
睦言も常時与えている。  
惚れてないなら口付けるなと睨まれたので、星を降らせるように口付けた。  
 
抵抗は弱いし、重なる度にとても感じている。良い鳴き声も聞けている。嫌では決してないはず。  
これだけ大事にしているのだから、言葉などにしなくてもこちらの気持ちはわかるだろう。  
もうすぐ訪れる邂逅の時。そうしたらいろいろ進展もできる。  
落ちれば。  
笑うだろう。  
理解はできないが、あんな男ごときに注いでいた情熱を、夢の中でしか見たことのない笑顔を、丸ごと自分に。  
嫌がるそぶりを見せていても本当は悦んでいるのだ。  
そう、ずっと思っていた。  
つい小一時間前までは。  
現実は容赦なく矢の雨となって降り注いできた。  
腕の中には彼女がいる感覚はない。それを否定したくて作る虚像はあっさりと溶け消えてしまう。  
誰か嗤っている。  
恐らくあの歪んだ異世界でヴァルキリーに消滅させられたのであろう、未来から落とされた狂気の塊。  
正体が晒される以前から時折滲み出る本性が気色悪くてたまらなかった、あの魔術師。  
眼鏡の奥から『同類』の必死を心底から嗤っている。  
苛立ちかぶりを振ると、途端に彼女の惨状がよみがえる。  
喘ぎ声がいつまで経っても悲しげだったことも、背中に手を回されたことがないことも、  
そう、あの日から一度も笑ってもらってないことも。  
思わず帰路を加速する。  
まさか。  
まさか  
まさか本当に嫌だったのか  
ずっと一緒に戦ってきた仲間なのに  
それに  
…それに、  
好きだって、ちゃんと伝えたじゃねえか  
息を切らして帰宅すると勢いよく扉を開けた。  
「おい、早く何か食……!」  
言葉が途切れた。  
目の前に広がるのは、血だまり。  
衝撃が喉をつこうとした次の瞬間に、視覚が正確な情報を脳に届ける。  
その紅をもたらしている正体が血液ではないことを判断する。  
それは切り落とされた彼女の髪の毛。  
それが赤い海を作っていた。  
代償に、頭部には少量の毛髪しか残されていない。  
切る時に皮膚まで裂いたのだろう、本物の血が流れた跡がある。  
「セレスっ!!」  
駆け寄って膝をつき、  
「誰に…っ!!」  
怒りを露わにして犯人を聞き出そうと二の腕を掴んだ。  
だがその凶行は他人の加害ではなかった。  
ナイフが被害者であるはずの女の手に握られていたからである。  
「…セレス」  
愕然としたまま搾り出すような声で名を呼んでも返答はない。  
その日からセレスは何もしゃべらなくなった。  
 
無理やり凭れ掛かっていた。  
女が潰れて地べたに投げ出された時、泥まみれになった男はやっと気付いた。  
何のことはない。  
女を踏み台にして作った薄っぺらの楽園がはらりと散った。  
 
 
 
エルドと言えど、流石に女が衰弱していく様子を楽しめるような性癖はないらしかった。  
常時浮かべていた余裕の冷笑は現実に叩きのめされて欠片も残っていない。  
逃れようの無い死から助け出したはずの女は、食べるものも、言葉も、ほとんど口にしなくなっていた。  
豊麗の肉体が短い期間で嘘のように削げ落ち、か細く貧相に成り果てた。  
 
廃人寸前の女に水が差し出される。  
「水だけでも飲め」  
「…」  
何も映らない瞳。こけた頬。憔悴しきった姿。  
艶やかだった唇の紅は失せ、死んだ紫に変色していた。  
寝台があるのに部屋の隅で毛布にくるまっている。  
寝台で横になるのが嫌だった。時折、与えられ続けた地獄が不意に甦ってくるからだ。  
水を与えようとしている男が業を煮やして口移しで飲ませてくる。  
「んっ」  
だが酒を飲まされて犯された悪夢が脳裏に焼きついてしまっているセレスは、反射的に吐き出してしまった。  
「くそ…っ」  
げほげほとむせているセレスに苛立ちながら、死神は顔にかかる髪をかきあげる。  
仕草にはもう一粒の余裕も見当たらなかった。  
奪った命は星の数だが介護などしたことがない。慣れない対応への緊張と疲労でエルドも限界だった。  
男の気持ちは女にはもう伝わらない。  
すべてが淀んでいた。  
小刻みに震える女の肩が痛々しい。  
「…何が気に入らねえんだよ」  
精神の崩壊は着実に進み、生気さえ残酷に奪っていく。  
「おいいい加減にしろよ!!全部俺が悪いみてえじゃねえかっ!!」  
悪くないつもりらしい。  
脳内では既に正当な取引だったという図式が出来上がっているのだろう。  
「別にひでえことなんて何もしてねえだろ!?一度…一度だけ失敗したが、それだけだ!!  
 むしろずっと大事にしてやったんだぞ!?あれだけあんあん啼き喚いといてふざけんなよッ!!」  
ぼうっとしている。  
牙をむいて怒鳴られても、何を言われているのかよくわからない。  
「おい………まさか陵辱されたとか思っちゃいねえだろうな」  
していないと、言うのか。  
「その泣き方やめろっ!!」  
そう怒鳴られても落涙している感覚さえ既に無い。  
「そんなに嫌ならちゃんと言やいいだろうが!!こっちだって言われなくちゃわかんねえよッ!!」  
言い草はすべて、まるで合意があり、和姦の末こじれただけのように感じられた。  
何度。  
何度拒絶しただろう。  
どの魂の叫びも本気ではなかったとして、たったの一つもカウントする気がないのだ。  
「なあっ!!返事しろよ!!」  
何もかもが強い女だとでも思っているのだろうか。  
「………返事してくれよ」  
彼にとって自分は普通の女であってはならないのだろう。  
「頼むから………っ」  
珍獣はそうでないとおかしいのかも知れない。  
強姦でも動物のように喘いで、求めて、悦ばなければいけないのだろう。  
もっと、もっとと猫の発情期のような嬌声をあげながら強請らなければいけないのかもしれない。  
無理だ。  
剣も鎧もなければただの女なのに―――――  
「セレスッ!!」  
大声で怒鳴られる。  
これだけしておいて、思い通りにならなかったからと怒っている。  
―――こんな男の手をとったのだな。  
己がいかに世間知らずで愚鈍であるか、その自覚が、またセレスを追い詰めてゆく。  
「しっかりしろよ――――――おい、斬鉄姫っ!!」  
こんな時に、その二つ名で呼ぶか。  
あちらも意地になっているのを感じる。  
あの人に斬り捨てられるか、このどん底か。  
果たしてどちらが良かったのかなんて、もうわからない。  
 
ただわかるのは、手を重ねた時点で健全な未来への道はすべて断たれてしまったことだけだった。  
 
 
 
月と星屑がきらめく。  
すっかり生気が抜けて痩せ細った女を照らす。  
まるで別人のようになっていた。  
人目を引く美しい女だった面影は欠片も残っていない。  
エルドも流石に触れてはこなくなった。  
長く艶やかだった赤い髪は無残に切り落とされていた。  
口付けられた嫌悪が妙に生々しかった。もう汚れてしまったからいらないと衝動的に切り捨てた。  
それはいつの間にか自分自身も、もう、いらないという答えにまで達してしまっていた。  
そういえばあれは何時のことだったろう。  
何があったかは覚えていない。とにかく戦闘があった。そこそこの強敵。  
それが終わって、疲労困憊でただ立ち尽くしていた時だと思う。  
まとめた髪をぐい、と思いっきり引っ張られた。  
痛みとともに、引っ張った主の身体にどんとぶつかる。  
あの人だった。  
…………………豚野郎、といつも通りに罵った。  
またいつもの嫌がらせかと思って睨み上げると、感情のない目で見下ろされている。  
内心で少々驚く。見たことのない表情だった。  
ぽつりと、髪だけは綺麗だなと吐き捨てて放すと、さっさと行ってしまった。  
髪?  
何だったんだろうと唖然としつつも胸は高鳴る。  
綺麗。  
当然だが彼からそんな褒め言葉を与えられたのは初めてだった。  
髪だけは気に入られているのか。変な気分だ。  
でも、それでもいい。身体の、存在の一部でも好かれているのなら。  
いつかまた触れてもらえる日がこないかと、解放後、仄かな期待を込めて櫛で梳いた。  
あの人の双眸と同じ色をした髪がさらりと揺れる。  
今では何もかも馬鹿らしい。  
珍しい色をした髪ぐらいしか見所がない女だという嫌味だったのかもしれない。  
むしろそちらだろう。  
でも、とても嬉しかった。  
何もかもを嫌われていると思っていたから。  
そんなことを考えていたら泣きそうになる。  
やっぱり、好きなんだ、という自覚。  
あの頃は、よかったな。  
無条件で近くにいれて。  
でももうあの頃とは違う。  
汚れてしまった。  
戻りたい  
戻りたい……  
またそば  
に  
きて  
……  
くれないかなあ…………  
「何考えてる」  
不意に沈黙を破られたので顔をあげた。  
牢獄の看守がこちらを見つめている。  
月を背にして窓辺に寄りかかる姿は魂の刈り取りを待つ死神そのものだった。  
「…みじめな …願い事…を」  
乾いて嗄れた声。涙が頬を伝い、雫となって落ちる。  
泣いてるんだと他人事のように思う。  
あの人のことを考えるとつらい。だから考えないようにしていたのに、少しでも彼の影を思うと想いが止め処なく溢れてしまう。  
嫌われているのはわかっている。こんな状況下でも心に想うことすら、ましてや助けてほしいとさえ願えない存在。  
 
それどころか今のセレスの悲惨を知ればざまあみろと思うのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。  
もうお仕舞いだ。  
「嫌われ てること…ぐらい、…何百年も前から、… わかって る…」  
「わかってんならとっとと諦めて捨てろよ」  
「わかってるわよ… でも」  
膝をぎゅっと抱いた。  
「私は…」  
あの  
「好きなの……」  
愛しい手のひらが  
「馬鹿じゃねえか」  
一途な想いを、冷酷な一言が温もりごと容赦なく叩き落とす。  
「馬鹿よ。わかって…わ そ…なこと。 ……わかってる」  
縮こまって震え続け、これ以上の惨めさの侵攻を必死で防ぐ。  
小さく漏れ行く嗚咽が月夜の晩に痛々しく響き続けた。  
しばらく間が置かれた後、その疑問はぽつりと相手の耳に届いた。  
「あの人は いつ… 来るの?」  
「……何だと?」  
「呼ぶん、でしょ。…最後に は」  
存在を踏み躙る最後の仕上げに、彼が現れる。  
エルドへの不信感はそこまで育て上げられてしまっていた。  
「顔が…見たい。早く して」  
狂っているとは理解していても素直な気持ちが口から零れる。  
嗄れ果てても想い人を想う故に優しくなる声色に、エルドのこめかみがピクリと反応する。  
「へえ。呼んでいいのかよ。もともとはあの黒いのから逃げるためだったくせに?本末転倒だな」  
「私はもう、駄目だ もの。なら…あの人の気が 済む なら…もう、それ で …いい」  
「……意味わかんねえ」  
どこまでも棘だらけなエルドをよそに、セレスは懺悔に近い心情を紡ぐ。  
「私…また…、 大 切な人に 誠実じゃな …かった…。  
 呼んでよ。まだ私が…私を、保ててるうち、に、呼んで…」  
沸点の低い男には青筋が浮かんでいた。  
「そんなにやられてえか」  
嬉しいわけがない。好きな人に乱暴されて嬉しい女などいない。  
それでも。  
「逢いたい……」  
命懸けの懇願に耐え切れなくなったのか、舌打ちして窓辺を離れた死神は、  
セレスの前で仁王立ちして軽蔑の混じる視線を落としてきた。  
「久しぶりにベラベラしゃべったと思ったら男の話かよ」  
どうしていちいち心を抉る言葉を選ぶのだろうと思う。  
「頭おかしいだろ。顔あわす度に斬るだの殺すだの言われてたくせに何でそんなことになってんだよ」  
「わからない ……」  
「何だよそれ」  
「わからない。…変だって、悩ん…ことも、あった。でも心までは どうしようも…な かった」  
不明瞭な返答が至極気に食わないらしい。不機嫌丸出しで吐き捨てる。  
「第一、俺があの糞野郎の居場所なんて――――――知ってるわけねえだろ」  
やはりか、という失意と、一筋の希望が失われたことで、痩せ細った女は一気に落胆した。  
エルドが彼との連絡手段を特に持ち合わせていないことは薄々勘付いていた。  
二人がかりで、などというのも、まったくのはったりだったのだ。  
「…なら、…」  
騙された女は震えながら顔を上げる。  
「なら。 ねえ、もう…いい、でしょ?ずっと、我慢……わ。 これだけ やればも…い でしょ。  
 もう、…弄べ…よ、な、体じゃない。こんな…なった今でも、…疼いて苦しい」  
己を抱き締める。  
「私は、 手を差し伸べても えた時、とっても、嬉し、かった…本当に助けてもらえるんだと思ってた…  
 貴方…こと、信じてた……。だから今、死ぬほど……惨め、だわ。  
 ね?だから、もういいで…しょ…もう…いなくなっ てよ……」  
解放されたい、ただそれだけを願う必死の懇請も、相手の苛立ちと闇を濃くしただけだった。  
 

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