唾を吐き捨てると、朽ちかけた身体を強引に抱き寄せられる。  
「疼くんだろ?しゃべる元気があるなら相手してやるよ」  
瞬時に石化する。本気かと耳を疑った。  
抱き締められ、あばら骨の浮き出た体をまさぐられる。  
「う!……ん、ふ…っ!」  
口付けられると甘い酒の味がした。  
本当に残忍な男なのだと思い知る。  
「あっ、あ」  
あまりのことに声が出ない。  
しばらく水浴びも、ましてや清拭すらしていない。汚れているのにお構いなしで迫ってくる。  
弱く首を振る。  
「いやっ、いや、だ」  
抵抗されても構わず抱きついてきて、肉の削げた肌を蹂躙する。  
「やめてぇっ……」  
性欲でもなく征服欲でもなく、ただ傷つけるために繋がろうとしている。  
そうとしか思えなかった。  
「助けて…だれ、か、たす け、 て」  
助けて。  
助けて………  
「アドニス…………」  
その一言は、空気も、動作も全て停止させた。  
「アドニス…アドニ、ス」  
ただ震える唇から漏れる消え入りそうな小声だけが、一人の男の名を愚か者のように復唱していた。  
この状況で他の男の名を呼ぶことがどういう仕打ちにつながるかは流石に予想がつく。  
だが止められなかった。  
一度声に出してしまうとどうしようもなく内側から波打ち、特別な人間なのだと思い知らされる。  
逢いたい男。愛おしくてどうすることもできない男の名。  
「アドニス…」  
届けられない想いが喉を嚥下してじんわりと温かく広がり、沁みる。  
もうすぐ二度目の死が訪れる。  
なら、一つでも多く口にしよう。  
最後に。  
「…アドニス……」  
何度も何度も好きな男の名を重ねる度、目の前の男の表情が見る見るうちにさらなる凶悪へと重ね塗られてゆく。  
嗚呼、死ぬんだと他人事のように思う。  
怒号とともに滅多打ちにされる、そう覚悟した。  
心のどこかで、そういえば殴られるのは初めてだなと意外なことに気付いた。  
これが、初めて、で、最後、か。  
瞼を閉じた。  
だが感情のままに殴打するのだろうと思った手は、セレスを乱暴に突き倒しただけだった。  
「そんなに好きならケツでも振ってりゃ良かったじゃねえか!!どうして俺の手をとった!!」  
「……」  
答えようとしても声がもう出ない。  
「ばかやろおぉ泣きてえのはこっちだこのクソアマっ!!散々期待させといて被害者面してんじゃねえぞ!!」  
猛獣のごとく牙を剥いて罵って、腹の底から、吼えた。  
「言われなくてもてめえみてえな辛気くせえ女こっちから願い下げだ!!!」  
そう捨て台詞を残して、荒ぶる死神はやっと、やっと出ていった。  
ホッとして床に崩れ落ちた。  
張っていた糸がぷつりと切れ、力なく垂れ下がった。  
涙一粒とともに、笑いが漏れた。  
助かったからではない。  
自分を殺したがっている相手に助けてなどと縋ってしまう、己のあまりの哀れさがおかしかった。  
 
そして、己の中にいる彼の、あまりの存在の大きさも。  
 
 
 
残忍な手から解放されても、体内の熱源は炎を灯すことなく、さらに冷えてゆく。  
惨憺たる姿を毛布にくるみ、セレスは唯一人死に行く街に取り残されていた。  
精神状態は荒廃した焼け野原そのものだった。  
今更解放され、一人残されたところで、絶望で満たされた魂では逃げる気力も起こらない。  
本当はここを動いた方がいい。エルドのことだから、セレスが自分の思い通りにならなかった腹いせに  
他の男達にでもこの場所を言いふらしている可能性がある。  
もう性的な玩具にはならなくても、鬱憤晴らしのサンドバックくらいにはなる。  
嬲り殺されるまで、違う女を腕に絡みつかせながら、ニヤついて見おろしているのだろうか。  
……。  
本当に。  
この程度の存在だったんだなあ………。  
好かれているとまではいかなくてもそれなりの信頼を置かれていると思い上がっていた。  
死線を共に掻い潜ってきた、絆があると。  
「馬鹿みたい」  
ぼそりと自嘲した。  
動けない。  
ボロボロだった。  
動かなくても身体がきしむ。何だか神経が痛み、いやに肌が痒い。  
下半身には毎夜弄ばれていた故の強い異物感が残り、数日経過した今でも未だに犯されている感覚がある。  
肉が固まり、血潮が濁り、内臓が腐敗していく感覚が進行してゆく。  
蹂躙された事実を振り払いたくて、そんな体を掻き毟る。  
戻りたい、あの日、あの満月の夜、あの瞬間へ。  
どうしてあんな奴の手をとってしまったんだろう?  
後悔で満たされていると、ふっと記憶の中にいる女神が心に現れる。  
―――――あなたはどこか、危ういのよ。  
シルメリア・ヴァルキュリア。  
もう彼の戦乙女とも繋がっていない。  
彼女という大木から転げ落ちて腐り果てるのを待つだけの果実なのだろう、私は。  
人を思う女神の温もりを思い出し、ひどい喪失感に満たされる。  
波打つ金髪の美しい三女は、無表情に見えるが、悲しい顔をしている。  
ずっと昔。  
まだ魂が劣化していない頃。  
使役された後、あまりの残忍さを注意されたエルドが癇癪を起こして何処かへ行ってしまったことがあった。  
その後セレスが受けたのは、事を荒立てたくないので、探して連れ戻すのを手伝ってほしいとの命令だった。  
何故私が?と返すと、彼は貴方の言うことなら聞くからと、優美な眼差しに困惑の色を雑じらせた。  
捜索しながら歩いていると美麗な女神からため息が漏れる。  
『…何だか、やっぱり失敗したかしらって思ってしまうわね。働き者ではあるけれど、いつまでも反抗的だし』  
『そういう人間も混じるのが貴方の選定の味だと思うわ』  
おぼつかないフォローに苦笑すると、シルメリアは考えあぐねたように見据えてきた。  
『昔、彼に訊ねられた。あなたが死んだらエインフェリアにするのかと』  
『そう。それが、何か?』  
『え、何かって…』  
人の機微を大事にする女神と、他人の機微に非常に疎い英霊。会話は絡まなかった。  
『あなたって、こういうことに関しては本当に少女のままよね』  
遠まわしに伝えたいことの端っこにさえ気付かないセレスに、困ったように眉根を寄せる。  
セレスの方は小馬鹿にされたように感じてしまい、主人とはいえ少々むっとしてしまう。  
その不満に気付いてか気付かないでか目を逸らすと、美しい戦乙女は小さく俯いた。  
『でも、こういうことにあまり私が出しゃばるのもフェアじゃないかしらね……』  
『?』  
しばらく悩んだあげく、女神はこう言った。  
『頼んでおいて何だけど』  
白い布がふわふわと揺れている。  
『セレス』  
金色の髪がさらさらと揺れている。  
『…彼には気をつけて』  
翠の瞳に宿る強い光は明らかに警告を発していた。  
 
そういう、ことだったのか。  
己の愚鈍を思い知る。  
警告は現実となり、彼女に再生された肉体は今や穢れきっている。  
シルメリアが何を言いたかったのか今更理解しても、後悔がせり上がるのみ。  
けれども、仲間だと思っていた。信じていたのだ。  
愚劣すぎた。人などそう簡単に変わるわけがなかった。  
私なんかを愛してるなんてそれこそ有り得ないのに、あんな安上がりな甘い言葉に簡単に酔わされたのだ。  
絶望とともに羞恥と己への激しい怒りが襲ってくる。  
情けない。なんという甘さだったのだろうか。  
痒い。痛い……。  
別の痛みで隠そうとして、肌を掻く。  
涙の代わりに血が滲む。  
孤独が重くのしかかる。  
帰れる場所なんてない。  
もう、何処にも戻れない――――――――――  
 
 
 
最後に一度だけ、エルドが戻ってきた。  
恨み言をこぼす気力もない。黒の外套を纏った姿を確認すると、無言で視線を逸らした。  
「もう行くから」  
余計な気遣いを鼻で笑う。  
姿を見せないでくれるのが一番ありがたいこと位わかっているはずだ。  
セレスは嗤った。  
解放される前だったら彼女が浮かべることなど有り得なかった、歪んで淀みきった嗤い。  
「正直に 言っ…ら ど…なのよ。どうなったか 見に きた…でしょ?」  
挑発的な物言いにエルドは不機嫌な顔をさらに顰める。  
「何だと?」  
セレスはもう恥じらうこともないとばかりに上半身を晒した。  
途端、エルドの目がかっと見開いた。  
「う…っ」  
口に手をあて後ずさる。  
それ程に酷かった。  
広範囲にわたり赤く発疹し、その上細かい水庖が大量に浮き出て、まさに目を背けたくなる惨状をしていた。  
「何だよそれ…」  
慄く演技が実にわざとらしい。面白がっているくせに。  
「訊きた…のは私の方、よ。見た目、だけじゃ ないわ。身体中、折れるよ に痛い……何したの。これ、何なの?」  
一瞬ぽかんとしたが、自分に嫌疑がかかっているのに気付いたエルドは更に顔を歪めた。  
「おい!!俺がやったっていうのか!?ふざけんなよ何もしてねえよ!!」  
「何言ってんのよ……期待どおりの 症状…な の?」  
咎める女は既に目つきがおかしい。  
「嘘つき……」  
飽きたら奴隷市場に売り飛ばされる可能性もあると危惧していたが、まさかここまでされるとは思わなかった。  
「…これ、どう なるの?私………どうなるの?」  
震える己を抱き締める。  
惨めすぎて笑いたくなった。  
張り詰めた空気を割って、手の平を死神に差し出す。  
「どうしたの……しましょうよ」  
来ないのをわかっていて半笑いで誘った。  
数秒後に伸ばした手がくたりと床に落ちる。  
「おめでたい…わよ ね。…貴方にまで、ここまで 嫌…れてるなんて…思いも、しなかった…」  
乾いた紫の唇から常軌を外れかけた狂気まじりの嗤いがぽろぽろと転がる。  
空間は汚濁し、淀んでいる。  
弓闘士が目を伏せ長嘆息を漏らした。もうだめだと判断したのだろう。  
「もういい。しゃべるな。医者行くぞ」  
そう言って近づき跪いてセレスに触れようとした。  
迫る指先に苛立ちがボッと燃え上がった。  
医者?  
わざとらしい。一体誰がここまで追い込んだというのか。  
 
それとも、いざ病魔に侵された姿を見たら哀れになったんだろうか。  
勝手すぎる。  
「貴様からの施しなど受けるかっ!!!」  
思わず叫んだ後は当然のように激痛が襲ってきた。あまりの苦痛にそのまま倒れて床に突っ伏す。  
「は…はぁっ、う……っ」  
叫びさえ、ちゃんと言葉になったかどうかもわからない。  
エルドはそんなセレスをしばらく表情も灯さず見つめていたが、  
「勝手にしな」  
立ち上がって外套を翻した。  
逃がしてなるものか。もう思考回路も滅茶苦茶だった。  
ふわりと舞った外套の端をしっかと掴む。  
「待ちなさい よ……。責任、取って、いってよ。散々…遊んだんだか、ら」  
「…責任?」  
足を止め見下ろす死神に、悲しい要求が投げつけられた。  
「殺していって」  
瀕死の女に睨み上げられている男は幾度目かのため息を漏らすと、慣れた手つきでナイフを取り出した。  
首にそっと刃が当てられたのがわかる。  
この男は人体から魂を切り離すための刃の入れ方を知っている。  
どっと安堵感が溢れた。  
やっと死ねる。そう思ったからだ。  
「何か言い残すことは」  
言われて、少し考えた。  
いろいろある。  
けれど、何よりも一番大きく心を占有するのは。  
「……」  
姿を思い浮かべるだけでとても悲しい気持ちにさせられる、一人の男のことだけだった。  
「……ごめん…な…さい………アドニ…ス…………」  
掠れた涙声には深い愛情が詰まっていた。  
その一言に、エルドの影は濃いが端正な顔立ちが、これでもかという程ひしゃげて歪んだ。  
「冗談じゃねえ」  
そう吐き捨て、ナイフを引っ込めてその狂気じみた現場から早急に離脱してしまった。  
愕然とする。  
何故。  
血が好きなはずなのに。  
「こんなめんどくせえ女なら手ぇ出すんじゃなかった」  
吐き捨てて、あっという間に出て行ってしまった。  
今更。  
「ふ…」  
これだけしておいて。  
今更、それか。  
「ふざけるなぁあっ!!ちゃんと……ちゃんと、殺していけぇ――――――――――――!!!!!」  
死んだ港町に、かつて栄えた国で王女だった女の絶叫が轟いた。  
 
 
 
あの活気に溢れたゾルデも昔の話、現在は疲れきった老人や行き場のない子供が大半を占める過疎地域になっていた。  
あっという間の閑散。  
林立する帆船もかき消えた。  
後は静かに廃墟へと姿を変えてゆくのみなのだろう。  
その港町の片隅で、一足先に深い暗闇へと飲み込まれ、確実に消えていこうとしている女がいた。  
大剣を振るっていた勇猛な姿は既に見る影も無い。  
病状は激しく悪化していた。  
発疹も水疱も容赦なく広がり、白くなめらかだった肌を我が物顔で浸食していく。  
「そりゃ、そう よねー」  
人間どうしようもないと笑うしかない。  
独り言が多くなった。  
他人の目に触れれば哀れな狂女にしか見えないだろう。  
 
「好きな人…いる のに、 …他の男、手、とっ ちゃ」  
水疱を爪が掻き壊し、肉まで薄く抉る。滲んだ血が粒になって滴る。  
「…有…得ないわ …よね」  
もう声らしい声も出ない。独り言がちゃんと音になっているのかも疑わしい。  
乾いてひりつく喉が熱い。  
発疹は現在のところ胸部や腹、背中だけだが、下半身や顔にもそろそろ回ってくるのだろう。  
度々激痛が突き抜ける。  
得体の知れぬ病に侵された恐怖が重く纏わりつく。  
一体どうなってしまうのだろう。  
このまま全身を侵されてしまうのか。それともあまりの苦悶に発狂してしまうのだろうか。  
まさか、腹を喰い破って化け物が………。  
悪い予想ばかりが巡る。  
ふうと息をついた。  
潮時だな、と思う。  
どうなろうとゾルデへの害悪にしかなり得ないようだ。  
残された弱き民達に迷惑をかけるようなことがあってはならない。  
猫が鳴く。姿は見えない。置いていかれた猫だろうか。  
連れて行こうとしても行かなかったのかもしれない。猫は家につくというし。  
嫌いではないが、構う元気など既にかけらもない。  
死にかけた元英雄は鞘に納まった剣を抱いていた。  
名剣ムーンファルクス。  
あの弓闘士に捨てられたのはわかっているのだが、物音がする度怖くて手放せない。  
もっとも迎撃できるのかは定かではない。  
ふと、己の技術は愛する人のためだけにあると言い放ったキルケの、毅然とした態度が脳裏に浮かぶ。  
かっこよかったな。黒刃、相手に。  
斬鉄姫なんかより、ずっと。  
ああいう方が、余程かっこいい。  
「私 は…」  
何もせずただ愛している人から逃げ出した。  
努力さえしなかった。  
嫌われていても誠実でいることは出来たはずなのに―――――  
「…何処まで、 駄目な女…なのか…らね…」  
いつ、こんなに駄目になったのだろう。  
もう少しばかりは賢く強い女だと、自負していたのだけれど。  
自惚れていたのか。もともと駄目だったのだろうか。  
様々な予測が脳裏をよぎったが、本当の理由は何となくわかっていた。  
恋をしたからだろう。  
解放後に再戦する為とはわかっていても、顔を合わす度にあの人に守られて、助けられて、手を差し伸べられて。  
大事にされることに信じられない程慣れてしまっていた。  
生前あんなに多くの男達から恐れられていたのも忘れて、恥ずかしい勘違いをしていたのだ。  
自嘲する。  
王子様が助けにきてくれるお姫様などではないなんて、わかりきっているのに。  
剣をぎゅっと抱いた。  
もし機会があるのなら今度こそ大切な人に誠実でありたいと切に願う。  
そしてその機会は来世であることを予感していた。  
いよいよ高熱にうなされて眩暈を頻発し、幾度も幾度も白い世界に迷い込む。  
小虫が飛んでいる。羽音が煩い。  
己が招いた災難という意識が強いためか、あの弓闘士を恨む気持ちは薄い。  
ただ、寂しい。  
惨めだな。  
自身の愚かしい選択のせいで、何百年が過ぎても、念願だった解放を迎えても孤独のままで。  
こんな煩わしい記憶を抱えたまま生きていくのも、これ以上、無様に生き恥を晒すのもごめんだ。  
「……」  
弱く笑う。  
ほんの少しだけ、これで良かったのかもしれないという安堵のようなものがあった。  
疑問があった。  
例え戦乙女に仕え、尖兵の任を果たし解放された後だとしても、私には幸せになる資格があるのかという疑問。  
 
勝手なことばかりしていた。  
大戦に参戦し、反旗を翻し、実妹の片腕を落とし。  
そしてそんな斬鉄姫を裏切り陥れたのは、信頼していた仲間の弓闘士。  
まさにいい気味という奴なのかもしれない。  
ゾルデから、海の向こうの祖国から、王家や民衆の割れるような嘲り笑いが聞こえるような気さえしていた。  
「さて、と」  
大きく息をつき、背を伸ばす。それだけでもう全身が悲鳴を上げる。  
もうここまできたら。  
「大人しく、死ぬか…」  
掻き毟って傷だらけの身体を起こす。  
セレスは病気の正体も知らずに、始まったばかりの新しい生を放棄しようとしていた。  
「……」  
こんな結末を迎えるくらいならいっそ気持ちを伝えてしまえば良かった。  
抱いていた剣を抜く。  
月から落ちてきた石で作られたという剣。独特の刃文が妙にあたたかく思えた。  
「流石に。貴方も、こんな…有り 得ない選択まで は、フォローできなかっ…かし ら」  
剣に向かって力無く話しかけた。  
この剣を入手するために材料集めに奮闘したのが懐かしく回想される。  
その間中ずっと、あの人と一緒に使役された。  
だからくれたのだろう。  
『大丈夫よ。きっとうまくいくわ』  
解放時にはこの剣を与えると約束してくれた運命の女神が小首をかしげて微笑む。  
『何がうまくいくの?』  
激励したつもりだったのに、察しさえしない英霊のあまりの鈍感さに、流石のシルメリアも言葉に詰まる。  
『………ええと、ほら、あれよ。ある世界では、月の光は愛のメッセージって言うらしいわよ。そんな感じ』  
『ぶぶぅっ!!』  
背後でキルケとソファラが勢いよく吹き出し笑い転げている。  
『え?何?何?』  
『手放しては駄目よ?きっと正しい方向へ導いてくれるわ』  
『だから何?』  
『きっとうまくいくわ』  
「…」  
なんだろう。  
剣に視線を落としたまま、セレスは濁る意識の中で疑問を抱いた。  
キルケも、ソファラも。シルメリアも。  
なんだったんだろう。あれ。  
なんで…笑ったのかな。  
どうして…嗤ったのかな……………  
気にかけもしなかった主と友人達の言動が、急に不安なものになる。  
打ちひしがれた精神は記憶の中にある朗らかな笑い声さえ嘲笑に変える。  
気付いていたんだろうか。みんな、私の有り得ない恋心を。  
彼女達も、本当は馬鹿にしていたんだろうか。  
いたたまれなくて記憶を霧散させる。  
無様すぎる。  
息をつくと、思考が愛する男のところへ戻る。  
もうあの広い背中を見つけられる気すらしない。  
「俺から 逃げ切…ると思うなよ…じゃ、なかったの…しら」  
追ってくる兆しすらなかった。直前逃亡した仇敵など、愛想が尽きたのかもしれない。  
「その為 に、ずっと、…私を、助けてく……たんで、しょう?」  
遠い昔、早く立てと差し延べられる大きな手がとても嬉しかった。  
「…早く、殺しにきてよ」  
そばにいれる、近くにいられる、それだけで幸せだった。  
「……怖かった の。あなたに、踏み躙ら る自分が、…ひどく、惨めに思えた…のよ。  
そうやって 逃げ…結果は、この通り 惨め なんてもんじゃ…ないけれど、ね」  
失笑して、  
「戦わな…ても、もう ずうっと 前から、……あなたの勝ちよ……」  
一人、負けを認めた。  
 
微笑みがすうと消える。  
「だから、もう…いいわ、よね。もう 待って…られないの。私が、私でいられ る うち、に、…終わらせ、なきゃ」  
届かないのをわかっていて呟く。  
「私…………貴方のこと…………」  
だが、言葉は最後まで続かなかった。  
彼から逃げ出した誠意のない自分に、届かないとしても告白する資格など与えたくなかった。  
もうどうしようもなく汚れている気がして。  
生まれてはじめての恋。  
そんなもの、するんじゃなかった。  
斬鉄姫がそんなものしてはいけなかったのだ。  
「さよなら」  
衰えのせいでムーンファルクスを持ち上げることはもう叶わなかった。  
虚ろな目を閉じ、首筋にナイフの刃を当てる。  
ずいぶん長いこと情けない姿を晒してしまった。  
こんな状況でも素直に助けてと思えない相手に心を奪われたなんて、本当にどうかしている。  
けれど。  
好き。  
やっぱり好きだ。どうしようもないほどに。  
今は何処にいるのだろうか。  
最後に  
一目でいい  
逢いたい  
な……………………  
「セレス…」  
最期を迎えようとしていた女の淀んだ目がゆっくりと見開く。  
声  
あの人の  
――――追ってきたんだ  
光芒一閃。  
急に光が射した気がしたと同時に、嗚呼、ついに気が触れたのかとそんな自分を哀れんだ。  
あの人は自分のことを名前で呼んでなどくれない、わかっているのに。  
そう思いつつ、ふらつく身体で部屋を飛び出す。  
来てくれたんだ。  
もう恥も外聞も無い。  
倒れても必死になって這いずり、少しでも距離を縮めたくて前方に手を伸ばす。  
斬り捨てられてもいい。  
幻でもいい。  
そこにいて  
お願い  
そこにいて  
「アドニス……!!」  
かくして、男が一人立っていた。  
開け放たれた玄関のドアから数歩進んだところで男が一人、とんでもないものを見た形相で固まっている。  
「セレス………か…?」  
「イー…ジス……」  
かち合ったのは、髭面の魔術師。  
極寒の谷でマテリアライズされた最後のエインフェリアが古巣のゾルデへ戻ってきたのはしばらく経ってからだった。  
予想外のお互いの姿に衝撃を受け、硬直から解けるのに十秒程度を要した。  
「え……と、赤い髪の女が住んでるって聞いたから…まさかとは思ったが…」  
イージスは呆気に取られていたが、やがて視線を外し、頭をボリボリかいた。  
「あ…と…わ、わりぃなアドニスじゃなくて」  
申し訳なさげな言い方をされ、セレスのこけた頬にさっと赤みがさした。  
こんな情けない姿を見られた、という気持ちで満たされ錯乱する。  
返事も返さず来た道を戻ると乱暴にドアを閉めた。  
「セレス!」  
失言したとでも勘違いしたのだろうか、魔術師が慌てて階段を駆け登ってきたのがわかった。  
ドア一枚隔てて気まずい雰囲気が立ち込める。  
 
「セレス、その、何だ…」  
話しかけてくる声もしどろもどろだった。  
「し、新居はここなのか?いや〜奇遇だなあ!俺実はここの生まれなんだよ!は、ははっ!  
 エインフェリアの頃はあんま交流なかったがこれからはよろしくな!」  
悪気はない、むしろ気を遣いまくりなのだろうが、どうしてもわざとらしい明るさが耳を障る。  
「帰って」  
「セレス」  
「帰って!!」  
身体に響くのも忘れて、枯れた錆声で絶叫する。  
「お願い… 放っ、て、おいて…」  
容赦ない疼痛が跳ね返ってきたが、必死で耐えつつ懇願する。  
怖かった。  
既に男が求めてくるような身体でないことはわかっていたが、気を許したら豹変するのではないか、  
地獄を見た後では仕方のない恐怖にかられていた。  
十数秒の沈黙の後、ドア越しの男はため息をつく。  
「よーし聞けよセレス。知ってのとおり、ゾルデはもうじじいとばばあとガキばっかりだ」  
「…?」  
何を言い出すのかとつい耳をそばだてる。  
「悪りいがはっきり言うぞ。変な病気持ってる女にいつまでも居着かれちゃ困るんだよ」  
「……」  
「同じ戦乙女に使役された縁だ。死に水なら俺がとってやる。開けて話を聞かせてくれ」  
感情論だけではどうにもできない、迅速な対処を要する状況下。  
人の上に立ったことがある者として、その気持ちは理解できた。  
「……はっきり 言っ…くれる、のね」  
苦笑するとほんの少し気持ちがほどけて和らいだ。  
イージスは正しい。  
そうだ、この男も確か即死魔法を修得しているはず。申し訳ないが世話になろう。  
どのうち拒否してもドアを蹴破られるだけなのを察知して、骨の浮き出る体に毛布をかけ、深めにかぶる。  
ゆっくりと、おそるおそるドアの錠を外すと、  
「いい子だ」  
出迎えた男がにかっと破顔した。  
ああ。  
普通の笑顔。人の笑顔。久しぶりに見た。  
まるで光そのものだった。  
イージスは特に美形という男ではない。  
むしろエインフェリア時代はまばらに生えた髭が汚らしいだのむさ苦しいだのと女達から悪い意味で大評判だった。  
でも、とても眩しい。  
温度のある笑顔。  
「いい子 って…」  
苦笑すると、  
「なんだよー!えっと、もう、なんか、ほら!俺らずっと戦乙女の中にいた間柄じゃんか!もう兄貴みたいなもんだろ!なっ?」  
安心させようとしてくれているのか、先程から言動にかなりの無理が混じっている。  
気持ちはうれしいのだがそんな気遣いをしなくてはいけないような惨状なのかと情けなくいたたまれない。  
そんなセレスを前に、イージスの方もあっという間に曇る。  
「はは。…なんつってな。交流もほんとどなかった奴に突然馴れ馴れしくされても困るよな」  
「そんなこと…ない わよ?何度か…一緒、呼び出されたわよね?私…が 動きやすいよ…に、援護…  
 いろいろ 気を配ってくれて…いつも 助かって…わ」  
「うわぁ…おい、気付いてるなよ。覚えてなくていいってのに。参ったな」  
後頭部を掻きつつ照れまくる髭面の目が泳ぐ。  
「まあ、ホラ。知らないかもしれねーが、俺はディパンの兵士だったんだ。」  
「もちろん 知ってる…わ」  
「そ、そうか」  
歴史書で何度も名を目にしたことのある祖国の智将が、嬉しげに顔を綻ばす。  
ゴホンと一つ咳をすると、きりっとした面持ちで向き直る。  
「とにかく、その。信頼してほしいっつーか。何かどうもいろいろあったみてえだけど。俺はお前の味方だから」  
数秒の沈黙の後、セレスはそっとその好意を受け入れた。  
「ええ。 信じるわ。…人を信じ……なくなっ…ら、終わり、だものね…」  
 
半分は己に言い聞かせるためにそう口にした。  
「面倒…かけて、ごめ…なさい…」  
ぜえはあと息遣いが酷い。  
「…悪りい。本題行く前に遠回りしすぎた。あまり長く話させてえ状態じゃねえし、簡単に状況説明してくれるか」  
「私、…悪い、病気なの。も 駄目なの。どんな 症状が出るかも、わからない、だから早く、何とか…しないといけなくて…」  
息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。  
「そう…だ」  
ふらふらと危うげに振り返り、室内にある宝物の剣を指出す。  
「あれ…受け取ってほし の。どうか 大切に…し…てね」  
「…」  
魔術師は無言でムーンファルクスを見やる。  
その近くに投げ置かれているナイフが少量の鮮血で汚れているのを発見し、眉を顰める。  
セレスはもうそんな機微にも気付けない。  
「近場…そう、お花畑が…あったわね。そこ…行…ましょう。死んだら 灰に…るまで 焼 いて。  
 お墓 …なんていらない から。捨て…置 いて、ね」  
ふらつく足取りで室内に戻り、もう二度と世話になることがないと思っていた外套を纏う。  
「行き…しょう か。大丈夫……歩ける」  
イージスはやり切れないといった表情で首を振り、腰に手を当てた。  
「……せめて理由ぐらい聞かせてくれよ」  
「大方は……自業自得」  
顔を伏せて自嘲する。  
気まずい沈黙が支配する。向かい合っているだけでいたたまれない。  
非常に頭の回転の良い男だ。状態や口にするいくつかの言葉だけで、大抵のことは読み取ってしまう気がする。  
現に、先程目撃されてしまった、一番気にかかるはずである頭髪について何も聞いてこない。  
「そうか。言いたくなきゃいい」  
しゃべる度に魔術師の声が優しくなる。いたわりは伝わるのだが、同情も心に刺さる。  
恥ずかしい。情けない。  
これが、斬鉄姫、だなんて。  
早く消えたい。  
ぐらりとよろめく。  
「セレス!」  
抱きとめられて、魔術師のむき出しの手が頬に触れた。  
温かい。  
違う。あの男とは、全然。  
人間の体温。  
ギリギリで持ちこたえていた線が信じられない程あっさり切れて、とめどなく涙があふれる。  
「ううっ、あ、ふう…っ」  
「セレス…」  
遠慮なしに号泣したのはあの壊された日以来だった。  
イージスは抱きとめた状態のまま、慟哭する女の扱いにおたおたと困り果てていた。  
が、、  
「さわっちゃ、駄目っ!!伝染性 病気だっ ら大変!!」  
はっと気付いたセレスに慌てて突き飛ばされた。もっとも今のセレスではほとんど力はこもらなかったが。  
「そんときゃそんときだ」  
アバウトすぎる即答に思わず気が抜ける。  
「俺のことはいい。お前のことを聞かせてくれ。症状はどんな感じなんだ」  
躊躇ったが、弱まっている精神は呆気なくイージスの真剣な表情に押される。  
「すご く、痛…の…。赤く発疹して、そ…そこに気持ち悪…水ぶくれ、いくつも…潰しても潰しても…」  
「水ぶくれだと?」  
セレスの答えに軽く動揺し、慌てて咎める。  
「おい、だめだそういうのは潰しちゃあ。悪化するかもしれねえし余計に広がるだけだ」  
「え……」  
「つうか、なんだ?他に原因の心当たりあるのか?」  
「…………。わから…ない……」  
答えられるわけもない。  
 
息遣いが本気で危うくなってきたセレスを見かねたイージスは、天井を仰ぎふーと息をつくと、  
「さて、医者が残ってるといいが」  
玄関のある方角に目を向けた。  
「え」  
困ったように眉根を寄せるセレス。  
「イージス…気持ち 嬉し…けど、私はもう…」  
「『もう』何だよ?俺達は解放されたばっかだ。世界に慣れてねえ。出だしで一歩躓いただけだろ」  
死に水を取る。優しい嘘をついた主はふんぞり返った。  
「第一俺が可哀想だろ!大事な仲間にそんなことさせるのか!?なんて可哀想な俺!」  
「イージス…」  
へへっと笑うと、セレスの肩に手を置く。  
「よくここまで頑張ったな。もう大丈夫だ」  
そんな風に言ってもらえるとは夢にも思わなくて、目が丸くなる。  
「その花畑にはさ、治った後に暇なガキどもでも集めてピクニックに行こうぜ!」  
もはや涙腺は崩壊し子供のように泣きじゃくるしかなかった。  
耐え切れず、再度魔術師の胸にしなだれかかる。  
「怖かった……」  
「ああ」  
「怖くて…… 動けなかっ た…」  
「よしよし。とりあえずちょっと水飲め。な」  
寝台に誘導されて腰を下ろした。  
震える手は水筒もまともに持てない。あまりの状態の酷さにイージスの面持ちが更なる深刻を含んだ。  
「横になって待ってろ。医者呼んでくる」  
「いや……!行かな…で…一人に、しないで……っ」  
一歩踏み出したイージスに必死で縋りつく。  
「セレス…」  
最早大量に注がれる哀れみすら気にかける余裕がない。  
そんな女に薄い毛布が被せられた。  
「そうだなあ…。お前が一つ、悪かった所といえば。…不安な時はできるだけ大勢に相談しないとダメだな」  
本当にその通りだった。  
誰にも迷惑をかけてはいけないと気負った所為で、結局この男一人に多大な迷惑をかけている。  
「ごめんなさい…」  
「謝らなくていい。さあ行こうぜ」  
素直に従い、イージスにおぶさった。  
「うお、軽…っ」  
女とはいえ成人した人間の重さを覚悟していたのだろう、痩せ細った仲間の軽さに突飛な驚嘆の声を漏らした。  
存在の温もり。  
イージスとは逆に、セレスは散々迷惑をかけた兄の背を思い出さずにはいられなかった。  
「兄さん……」  
「ん?おお兄ちゃんだぞ。これからは俺がお前の兄ちゃんだ」  
何か勘違いをしたらしいイージスから優しい返答がきた。  
訂正する前に、小さな微笑と大粒の涙とともにセレスは意識を失った。  
本来ならそこまで悪い病気ではないことも、死神の蒔いた種ではないことも、何も知らずに。  
 
 
 

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