目覚めると真っ白い世界にいた。  
……ああ。死んだの、か。やっぱり。  
イージスごめんなさい。ありがとう……。  
ざっと風が舞う。一瞬の突風を受けて目を開けると、花の咲く美しい野原がどこまでも広がっていた。  
穏やかな景色とは裏腹に重い息をつく。  
イージスやゾルデの民に病が感染していないかと心配ではあったが、ここに留まっていてもしょうがない。  
歩を進める。当然ながら浅葱色を纏う戦乙女の迎えはない。  
さて、今度の死はどうなるのだろうか。  
不安に満たされていると、ふっと、いやに濃い人影が浮かび上がる。  
ずっと逢いたかった男が目の前にいた。  
あの人だった。  
驚くと同時、もう何かやらかして死んだのかと呆れる。  
もっとも人のことなど言えた義理ではないのだが。  
緊張しつつもそっと距離を縮める。  
声をかけようか迷っていたら振り向かれて目が合った。  
どぎまぎしていると小さく微笑まれて心臓が止まる。  
その面持ちを崩さないまま、向こうから近寄ってくるのが信じられなかった。  
手のひらがふわり、と頬を撫でる。  
驚いたけど嬉しくて  
嬉しくて  
男の手に震える自分の両手を添える  
嬉しい  
足が震える  
嬉しい  
心が震える  
嬉しい………  
「本当だ…」  
「え…?」  
「誰だっていいんだな」  
幸福に浸るセレスの世界が一気に暗転する。  
どさり、地べたに投げ出された。  
拒否する間も与えられず覆い被さられて呼吸が停止する。  
汚れた白布の上。  
あの仄暗い天井。  
嗤っている。  
顎をくいと掬われるとあの死神も嗤っていた。  
「良かったな」  
動けない  
叫べない  
『誰だっていいんだな』  
違う  
 
違う  
わたしは  
 
 
 
 
あなたを  
 
 
 
 
 
 
「―――――あっ!!あああ!!!いやっいやあああやめてえええええええぇえっ!!!!」  
悲痛な叫びが辺り一帯を劈いた。  
 
「セレス!」  
椅子に座ってうとうとしていたイージスが跳ね起きて、慌てて肩を抱いてくる。  
それでも興奮は止まらない。夢から覚めやらぬ四肢を闇雲に振り回し、無我夢中で暴れまくる。  
「あっああっいやっ!!いやあああぁああああぁあぁぁああああ」  
「セレス大丈夫だ、大丈夫だからセレスっ!!」  
魔術師は必死に落ち着かせようと試みるがパニック状態のセレスには何も届かない。  
もみ合っていると、突然イージスの体が乱暴に押しのけられた。  
バシッ!  
突然現れた看護師らしき女が問答無用でセレスの頬を張り、がなり立てた。  
「うるさい!!黙れッ!!ガキどもが起きるだろっ!!」  
唖然とするセレスとイージス。お構いなしに往復ビンタが炸裂する。しかも3往復。  
「おっおい!何すんだ病人だぞ!」  
我に返ったイージスに羽交い締めにされても看護師の暴走は止まらなかった。  
拘束されてもなお殺気だった顔をぬうっと近づけてくる。  
絶句するセレスにドスのきいた声で状況説明を叩き込んできた。  
「ここはゾルデで生きてる最後の診療所よ。  
 貴方はこのクソ忙しい中、勝手にお兄さんより先にこんな死地へ来て、  
 勝手にストレスで病気になって、担ぎこまれて3日間意識不明だったの。  
 お兄さんはアンタみたいな馬鹿な妹にずっと看病で付き添ってくれてたのよ。さあ理解できた?」  
聞き取りづらい早口でまくしたてた後、呆然自失のセレスにさらにずいっと迫る。  
「わ・か・っ・た?」  
両眼は殺気立ち、憎悪を帯びていた。  
「ちょ、おいっ!いい加減……!」  
流石にイージスが咎めようとしたのと同時。  
「ご…ごめんなさい。もう大丈夫、です」  
自分を取り戻したセレスがしゅんと萎れた。  
それを確認すると鼻息荒くイージスを振り払い、看護師はどすどすと出て行った。  
「な…何だあれ!あれでも看護師かっ!」  
「いいの。……人手が足りなくて疲れているんでしょう。目が血走って真っ赤だったわ」  
その台詞を裏付けるように、看護師を求める幼い患者達の悲痛な声がいくつも響いた。  
セレスが発した絶叫に怯えてしまったのだろう。  
流石に胸が痛み、無意識だったとはいえ反省の念が浮かぶ。  
個室。そよぐカーテンの向こうには港町と海景色と死んだ故郷。  
頬に触れれば肉は薄く、頭を撫でれば毛髪はほんの少ししかない。  
苦い現実をはっきり理解した後、謝らなければならないもう一人を躊躇いがちに見やる。  
「イージスも……ごめんなさい」  
故意ではないとはいえ暴れた時に何発か殴ってしまった。頬や腕が一部赤くなっている。  
だがイージスはまったく気にしていないといった様子のまま、優しく頭を撫でてくる。  
「よしよし。目が覚めて良かった」  
温もりに安堵して糸が切れる。  
夢中で縋りつき声を上げて泣いた。  
最早異性であるという事実さえ考慮する余裕がない。  
 
 
 
看護師の言った通り、目覚めた時は丸3日が過ぎていた。ずっと昏睡状態だったらしい。  
汗だくの身体は石化したように重かったが、心なしか気分はすっきりしていた。  
半時もせずにあの看護師が再来した。  
少し落ち着いたようで、先程の暴力と暴言を謝罪してきた。  
見るからに疲労が色濃く、目の下にはぶ厚いクマができている。どちらが病人だかわからない。  
申し訳ないがつい他患者への医療過誤を心配してしまう程だ。  
顔をよく見ると、アリーシャと共に行動していた頃、すれ違ったり波止場や教会で見かけたりと、幾度か  
この地で見たことのある女だと気付いた。  
あの頃はもっとふっくらして言動にも余裕のある美しい女だった。  
ディパン崩壊後も逃げ出さずゾルデに残り、残った民のために尽力しているのでは、この変化も無理がない。  
感心はするが同情も隠し得ない。  
彼女に殴られた両頬は熱をもって痛んだが、とてもではないがなじる気にはなれなかった。  
 
たった一人の老いた医者とやらもてんやわんやらしい。  
患者の雨は一点集中で降り注いでくるのに、物資の支給等、助けはほぼ途絶えている。  
心労も重たい程伝わってきた。  
「いや、妹には俺が話すんでお気遣いなく」  
イージスが気を遣ったのか、断りを入れて看護師を退室させた。  
二人きりになったのを確認後、疑問を口にする。  
「妹って……?」  
「あー、いや。すまん。成り行きでそういうことになっちまった」  
申し訳なさそうに頭をかく。  
「なんせ死にかけの女おぶって突然現れた余所者のヒゲのおっさんだろ。医者もあの看護師も警戒しやがってよ。  
 どういう関係だって質問されて、面倒だったからつい妹だって言っちまったんだ。  
 暇な婆さんどもも詮索しまくってくるからうるさくて敵わねえしよ」  
先刻の看護師の説明に合点がいった。  
嘘がうまいというか、機転の利く男だ。  
何となく感心する。  
「さて、と…」  
居住まいを正したイージスが、  
「病状なんだが」  
唐突に切り出してきた。  
きたか。  
セレスは小さく頷き、己を蝕む病を受け止める覚悟を示した。  
「オブラートはいらないわ。病名を率直にお願い」  
だがイージスの態度は彼女とは真逆だった。  
「ああ。包む程のこともねえからな」  
「え?」  
そうして魔術師は、セレスが数日間恐れ続けていた病名を、いとも簡単に答えた。  
「ヘルペス。って知ってるか。ああ、まず人には感染しない病気だから安心しろ」  
「ヘルペス…」  
聞いたことのある病名だった。  
「精神的にやられたりして過度のストレスで弱ると、身体ん中に潜んでる水疱瘡のウイルスどもが、  
 今なら勝てる!って神経沿いに出てくるんだとよ。上半身の片方だけ症状酷かっただろ?それが特徴だとさ。  
 そんでお前ひっかいただろ。水泡を潰しちゃいけなかったんだよ。細菌入って悪化しちまった、と」  
目をぱちくりさせる。  
数秒の沈黙の後、肩の力ががくりと抜けたセレスの一言。  
「…そ、それだけ?」  
「それだけって、お前なあ。個人差ってもんを考慮しろ。お前は明らかに重篤の部類だぞ。  
 高熱も出てたし、ひっかいちまってたし、一秒でも早く医者にかかんなきゃいけなかったんだ」  
「………」  
絶句せざろうえなかった。  
外部から植えつけられた菌で命に関わる病を患ったと思いこんでいただけに、正体に思わぬ拍子抜けする。  
「……ヘルペスって、老人のかかる病気かと思っていたわ」  
「そうでもねえらしぞ。若くても結構患者は多いらしい。稀にまだ水疱瘡にかかってねえガキがなることもあるとか何とか」  
予想外に平凡な実態。  
では本当にエルドのせいではなかったのか………  
エルド。  
その名を思い出すと同時に目が見開き心臓が跳ね、全身が凍結する。  
続いてこれでもかと悪寒が走り、思わず身体を抱きしめていた。  
「――――っ」  
叫び出したいのをぐっと堪える。  
セレスにやりたい放題して身体も精神も汚していった、嗤いながら毒矢を射る残酷な死神。  
まざまざと甦る記憶を必死に押さえ込む。  
大丈夫。そうだ。これだけやりたい放題していったのだから。  
飽きたはずだ。完全に。二度と会うことなどないはずだ。  
突然固まってしまったセレスの様子を見守っていたイージスが、さも言いにくそうに重たく口を開く。  
「アドニスと何かあったんか?」  
 
まったく関係ない、いやそこまでまったくとも言い切れないが、別の男の名を出されて、セレスは悪寒から解き放たれる。  
「ど、どうしてそんなこと聞くの?」  
「アドニス助けてって、ずっとうなされてたから」  
無意識状態というのは何と正直なのだろう。  
凄まじい羞恥に襲われた。耳まで赤くなる。  
私という女は、どこまで。  
「あ、あの、でも。彼と何かあったとか。そ、それだけは違うから。本当よ。信じて。  
 むしろ何もなかったからこういうことになったの。……詳しくは話せないけど」  
想い人にかかっている疑惑をしどろもどろになりながらも慌てて解く。  
そんな自分が情けなすぎて、目を伏せ自嘲のため息をついた。  
「とことん無様ね」  
「何で」  
何で、と突っ込まれても。  
「しっかし、本当に惚れてんだなあ……」  
それこそ肉親のような優しい声が、困って俯くセレスの耳をくすぐった。  
長嘆息する。  
どうせあの死にもの狂いな呼び声を聞かれてしまったのだ。隠し通せるものでもない。  
観念して事実を認める。  
「そうよ。おかしいわよね。あれだけ斬るとかブチ殺すとかって言われてたのに、いつの間にか好きになってたの」  
「別におかしかねえよ」  
同情的な反応を想定して身構えていたのに、あっさり肯定されたので目を丸くする。  
「別におかしくないって…まさか、イージス。前から気付いていたの?」  
「え。うん。なんだ、その。まあ。わかるというか。むしろひょっとしてそれは隠してるつもりなのか?というか。  
 寧ろ気付いてない奴一人もいなかったんじゃね?っていうか」  
「そ、そんなに…」  
想いを皆に知られていたかもしれないという事実は、セレスを熟した果実のように赤面させた。  
「恥ずかしがるこたねえって。むしろ皆であたたか〜く見守ってたんだぜ」  
生温くの間違いじゃないのか。  
恥ずかしさと戦いながらも伏せ目がちに会話を続ける。  
「…そうよ。あの人は自らの手で決着をつけたかっただけのことなのにね。大事にされたと勘違いしてるの」  
「いや、つーか、されてただろ。これでもかという程。大事に」  
先程からイージスの応答はセレスにとって驚くものばかりであった。  
彼女の自嘲を真顔で、すべて平然と肯定してくる。  
「素直じゃねーからなーあいつ。表現も笑えるし」  
からからとした笑い声が、寝台にいる女の態度により、だんだん色を失くしていった。  
「おいおいまさか本気で嫌われてるとか思ってたのか?」  
流石に少々呆れたといった顔つきになる。  
「マジかよ。ちょっと鈍感すぎだろ」  
「そんな…」  
「いや、だってよ、普通にさ。全身全霊で俺の女に手を出すなってカンジだったじゃんあいつ」  
俺の女。  
俺の獲物の間違いだろう。  
「それは……ないわよイージス…」  
「どう見てもあいつの方がご執心だったろ。しかも一目惚れっぽかったぞ?話聞いてると」  
一目惚れ。  
カミール丘陵で視線が交わった、あの一瞬か。  
……有り得ない。  
「と、とにかく。そんな事実は一切ないわ。だいたい、顔を合わせる度にいつも嫌味言われたり、  
 死ねだの殺すだの散々怒鳴られたりしていたのよ」  
「何だよそんなの。ザンデがふざけて『好きです!大好きです!あなただけです!結婚してください!!』とか  
 超正確に翻訳してたじゃん」  
確かに言っていたが。そして怒気で燃え上がるあの人に追いかけられていたが。  
動揺するセレスに、魔術師が優しい追い討ちをかける。  
「お前きっと心ではさ、あいつが本当は何を言いたいのかわかってるんだよ。  
 すげーアレな表現の数々でも、あれだけの熱い想いを差し出されたら心が動くのも当然だ」  
「……でも」  
「人を好きになるのにさ。いちいちこうだから駄目ああだから駄目なんて規制かけんのは無理だぜ」  
 
「……」  
言うことはいちいち尤もなのだが、現況のセレスにその実感を伴わせることは不可能だった。  
「治ったら会いに行くといい。その前にここに来るかもしれねえけど」  
「無茶言わないで。私は嫌われてるのよ」  
「んなことねえって。第一……」  
「イージスッ」  
ヒステリックな声が空気を劈く。  
「やめて…気持ちは嬉しいけど、わかってるの」  
イージスの諭す真実を素直に受け入れることなど、今のセレスにはできなかった。  
先程見た悪夢が深くセレスを苛んでいたからだ。  
あれは夢であり、現実。  
言われた一言。  
誰だっていいんだな。  
違う。違うけれども、実際とった行動はそれを裏付けるかのようなものでしかない。  
打ちのめされているセレスにはそうとしか思えなかった。  
何も考えたくなかった。  
「いや、別に持ち上げてるとかじゃなくて、本当にな……」  
縮こまるセレスに困り果ててボリボリ頭を掻くと、魔術師は薄い苦笑を浮かべた。  
心機一転とばかりに膝を叩く。  
「そうだな!話はみんな、治ってからにしようか!」  
 
 
 
頼る人間のいるありがたさを感じつつ数週間が過ぎた。  
水疱はその後も皮膚の上で猛威を振るったが、だんだんと白濁し、つぶれてゆき、痕を残すのみとなった。  
だが祝福されるべき退院時にも老いた医師の表情は渋いままだった。  
掻き壊した傷があまりに酷かった所為だ。  
尽力至らず、上半身の広範囲にわたって若い女の肌に汚い痕が残ることが確定してしまっていた。  
患部に触らず、この診療所にすぐ駆け込んでいれば、苦痛も少なく、病後も跡形もないはずだった病。  
「医療系の魔法をもっと叩き込んどくべきだった」などと舌打ちしつつ、イージスも書物を引っかきまわして頑張ってくれたが、  
不衛生な場所でいつまでも晒していた傷跡はどうすることもできなかった。  
不満げな医師と、同性としての同情を隠し切れない看護師を前に、衣類を身につけながら、  
「命があっただけで良しとします」  
セレスはそう微笑んだ。  
どうせ二度とこの身を愛される予定もない。  
イージスに付き添われて病床を後にする。まだ少しふらついていた。  
雲ひとつない空は明るい水色。  
隣りには支えてくれる仲間の微笑み。  
イージスは本当に良くしてくれる。  
年代が違うとはいえかつて仕えたディパンの王女だった女である。それ故の特別視も加味されているのだろう。  
この時ばかりは流れる血を感謝した。  
嫌な記憶しかない家を出て、イージスの近所へと引っ越した。  
皮肉にも人のいなくなったゾルデの家並みはがらがらで空き放題なのが幸いした。  
気になる頭髪はどうしても目立つので、生え揃うまで海賊巻きにすることで凌ぐ。  
自暴自棄だったとはいえ、見事に剃り上げてある箇所もある。我ながら大胆にやってしまったものだ。  
いっそ丸坊主にしてしまおうかしらと残された赤糸を撫でていたら、イージスにやめてくれ!いややめてください!!と  
マジ泣きされたからやめた。  
新居には二匹の先住の猫がいた。最初は毛を逆立てられて威嚇を受けたが、彼等とも少しずつ仲良くなり出した。  
イージスが暇そうな子供達を調達してきて、本当にピクニックに連れていってくれた。  
広がる花畑。ほんのり甘い花の香り。どこまでも続く青空。  
静かに終わりゆく港町で、絵に描いたような優しく楽しい時間が過ぎていく。  
緩やかに世界が廻る中、悪夢の時間は終わったのだと思い始めた時だった。  
 
 
 
その夜は豪雨だった。  
「参った…な」  
 
これからイージスと夕食なのに。  
熱を帯びる頬と肢体。思うままにいかない動作。ふらついてテーブルに寄りかかる。  
連日、セレスは嘲笑うような疼きに悩まされていた。  
あの悪魔に仕込まれた体は情けない程熱をもっていて、心底認めたくないのだが、狂おしく男を欲しがる。  
何事もなかったようなふりをしていても数週間にわたる陵辱の後遺症は深刻だった。  
死ぬ程欲しいのに、死ぬ程怖い。  
癒えるどころか、膿んでいる。  
植え付けられた生々しい記憶は日常生活にも支障をきたす。  
体重はなかなか元の数値に戻らない。  
安堵したことと言えば二つだけだった。  
一つ目はイージスに齎された情報により、他の仲間達が自分を見捨てていったのではないとわかった事。  
勝手に疑ってしまった己を恥じる。  
二つ目は数日前にやっと月のものが巡ってきた事。崩れ落ち、長い間咽び泣いた。  
―――――傷物。というやつなんだろうな。  
二ヶ月前まで当然のようにしていた挙措端正な振る舞いは彼女からかき消されていた。  
生きているだけでつらい。突発的に死にたくなる。  
本当は死にたい。もう消えて無くなりたい。  
だが不要の存在だったとはいえ、解放され生き残ってしまったのは事実。  
つらくとも凌がなければ……生き抜かなければ。  
それが生き残った者としての現世との楔。  
それがなかったら既にこの世のものではなかったことだろう。  
全力でサポートしてくれているイージスには絶対に言えない真実だった。  
でも、口にしなくても気付かれてしまっているのだろうとも思う。  
 
数日前。  
気がつくと真夜中の森だった。  
ざわめく木々の合間を縫って、イージスにおぶさり、ゆったりとゾルデへの帰路を辿っていた。  
「わ…たし……?」  
「ああ、起きたか」  
耳を撫でる優しい声音。  
実兄の背中にいるような夢見心地を味わっていたセレスだったが、すぐに消沈する。  
「私、また何か?」  
「んー…」  
言いにくそうにしていたが、状況的に隠しても無駄と悟ったらしい。  
「俺んちに宿屋の彼女が駆け込んできて。  
 妹さん、剣だけ持って森ん中へふらふら歩いていったが大丈夫なのか、って。わざわざ」  
愕然とした。まったく覚えていない。  
今日は何をしていただろうか、慌てて記憶の糸を手繰る。  
夜になってから孤独と辛さでいつものようにひとしきり泣いたと思う。  
そしてまた、月明かりの下で想い人を待った。  
月がきれいだった。濡れた頬を照らされていたら何となく気付いた。  
彼は来ない。  
もう二ヶ月経ってしまった。過ぎ去った日数からは、どう考えても嘗ての妄執は感じられなかった。  
多分探してすらいない。再戦から逃げ出した斬鉄姫は呆れられてしまったのだ。  
でも、認めたくなかった。  
そうだ。もしかしたら道に迷っているんじゃないか、だから来ないんじゃないかなどという、  
あてつけに近い馬鹿なことを思いついた。  
早く迎えにいかなきゃ、なんて。  
そこでぷっつり切れている。  
気付いてしまった。  
彼は来ない。  
心の何処かで、ずっとずっと、早くきて殺してくれないかなと願っていた。  
自分という存在に欠片でも固執してくれるならもう何だっていい。  
早くきて。  
でも、  
彼は来ない。  
 
「そうだっ!剣…ムーンファルクスは……!?」  
弾けるように大声をあげた。  
「ああ、悪いがさっきお前見つけた場所に置いてきた。俺が明日取りにいくよ」  
「降ろして。あれがないと私」  
病床後のセレスは肌身離さずその剣を持ち歩いていた。  
身を守る意味もあったが、女神の残してくれた譲渡品だという過剰な依存心もあった。  
慌てふためくセレスを魔術師が宥める。  
「じゃあ引き返そう」  
くるりと向きを変え、セレスを運ぶ乗り物はもと来た道を戻り始めた。  
冷静な応対を受けてセレスは情けなさを覚え、さらに消沈する。  
「ごめんなさい。ほんとに迷惑かけっぱなしね」  
「気にするなって言ってるだろ」  
そう優しく言う男が心底から疲れているのがわかって居たたまれなかった。  
その後は長く無言でいたが、  
「貴方は頭のいい人だから、何があったかなんて、もう大体察しはついてるんでしょうね」  
以前から不安に思っていたことを切り出した。  
「うん」  
否定しない。  
「相手が誰だか、も?」  
「うん」  
だろうな、と思う。  
解放された男エインフェリアは裏表なく真面目で正義感の強い者が多い。  
セレスに危害を加えたい人間なんてかなり限られる、というか想い人をのぞいたら該当はほぼ一人で確定だ。  
「……」  
あの死神は何をしでかすかわからない。  
気まずくとも、全て話しておかなければ。  
「…あの夜。皆、いなくなってしまった後。私すごく不安だった。  
 そしたら、…その人が戻ってきてくれて。  
 愛してるって言ってくれたの。だからどうしても助けたいって。私、もう舞い上がってしまって」  
「うん」  
「嬉しかったのもあるけど。私って生前ディパンやラッセンを裏切ってロゼッタについたのは知ってるわよね。  
 自分の理想実現のために勝手なことばかりして、大事な人達をたくさん傷つけた。  
 今度の生では自分に好意を寄せてくれる人を、二度と裏切りたくなかった。  
 自分の気持ちなんて二の次だと思った。だから受け入れて、手を取って、一緒に逃げ出したの。  
 自分を愛してくれてる人と」  
「うん」  
「でも」  
言葉が続かなかった。情けなくて限界だった。  
「…嘘だったの。……それだけよ」  
そう零して、終わった。  
「うん…」  
まさかそれ程親しくもなかったこの先達に、こんな話をする日が来るとは。  
肩を掴む骨ばった手が震える。  
潤み声の恨み言がぽろぽろ落ちた。  
「物好きな男。私なんかを。他の女エインフェリアは美人で可愛い子ばっかりだったのに、ほんと、物好き」  
そこまで零してからハッとした。  
「あっ、別に他の子が身代わりになればよかったとか、そういう意味じゃ……」  
「大丈夫。わかってるよ」  
「……」  
何を口にしても惨めだった。  
「私……戦わなかった。嵐が過ぎ去るのを間抜けにずっと待っていた。…壊されるまで、続くに決まってるのに」  
鼓動が荒い。涙がかさかさになった頬を伝って落ちる。  
毎日が限界だった。  
「もう嫌だ。もう死にたい。もういや。苦しい」  
縋り付いて、震える唇からついに死を強請った。  
「楽にしてイージス。お願い。私に…即死魔法を……」  
「セレス……」  
 
亡国の元王女を一人で支える魔術師は心底から困り果てていた。  
長期にわたる先の見えない介護の疲労。支えても支えてもいつまでも軽くなる兆しのない回復の遅さ。無理もなかった。  
凭れ掛かり過ぎていたのにやっと気付いてセレスは動揺する。  
「ご……ごめんなさい。もう二度と言わないわ」  
「セレス」  
離れていってほしくない。たった一人の味方。ひたすら謝り続けた。  
「ごめんなさい、ごめんなさい。許して。嫌いにならないで」  
まるで大好きな兄に嫌われるのを恐れる少女のようだった。  
 
回想を終えてから醜い失態続きの日々にふうと息をつく。  
―――――まさにあの人の吐き捨てる『うぜぇ』といったところか。本当にただのお荷物だな。  
自分の存在の何もかもが重苦しかった。  
扉にしっかりと鍵をしてイージスの帰りを待っている。  
彼が戻ってくるまでたかが数分のことなのに。どこかで己を嘲笑っている。  
現在のセレスは生前やエインフェリア時代とは別人といってもよかった。  
仲間内でも格段に際立っていた凛々しさが嘘のように、不必要な程おどおどしていた。  
時折、フラッシュバックを起こす。  
その度にあの不快な熱を思い起こし、不安があっという間に広がり、息がうまくできなくなる。  
残されたのは肉体的な問題だけではなかった。  
ゆったりした日常には残酷なものなど何一つもないのに、記憶の闇は比重を増し、無慈悲に圧し掛かってくる。  
さらに認めたくないが、調教を受けた体が異性を求めて強烈に疼く。  
欲しい。  
流石にこればかりはイージスを頼れない。  
飽きるまでといいつつそういう風にしたのは実にあの悪魔らしいとも言えた。  
飽きた後の獲物のことなんて考えもしないのだろう。  
自分で慰めるのも何だか気が咎める。結局あの冷たい手を連想してしまい余計に惨めになるからだ。  
舐めあげられた肌を全部削いで、下半身を丸ごと切り落としたかった。  
生き地獄。  
これはがんばって何とかなる苦しみではない。  
「……っ」  
激しくかぶりを振ると、やっと伸び始めた赤髪が小さく揺れた。  
もう忘れよう。クレセントやクリスティや、他の子達が標的になったんじゃなくて良かったと思うようにしよう。  
大丈夫。あっちだってもう忘れている。  
今頃はもっと若くて可愛い女の子たちに囲まれて、ちやほやされながら楽しくやっているんだろう。  
昔からそうだった。  
整って中性的な、どちらかというと女性寄りで幼さを残す整った顔立ちは、ロゼッタ城にいた若い異性の多くに人気を博していた。  
一度、占領したラッセンから戻ってきていると聞き、これからは同じ国に属する者同士だししこりは無くしておこうと思い、  
自ら挨拶に出向いたことがあった。  
多少は絡まれるのを承知で部屋の前に到着すれば、扉の中からは女達の艶かしい笑い声がする。  
続いて卑猥な喘ぎ声、悦ぶ言葉、それについていく幾つもの、羨ましげな強請り声。  
流石に耳を疑った。  
真っ昼間から。  
ゼノンの愚痴でかなりの猟色家とは聞いていたが。  
僅かに漏らしてしまった動揺の気配を悟られる。  
扉が開く。腰に布を巻いただけの姿は、性に関して非常に貞淑だったセレスの表情をこれでもかと歪めた。  
行為中特有の色を纏う男は女を惑わす小悪魔そのもの。  
セレス的には最高にお近づきになりたくないタイプだった。  
萎えたのもある。お取り込み中なんで出直すわと言った。  
が、無視され、品定めをするような視線で舐め回された後、遊んでかねえかと誘われた。  
剣と鎧に身を包み女からは掛け離れている自分に、半裸の艶やかな女達から朗らかを装った嘲笑が聞こえる。  
馬鹿にされている。  
眉を顰めたが、ここで動揺を増したり、むきになったりしたら負け。  
静かに誘いを断ったがさらに食い下がってきて、邪魔なら追い出すからと立てた親指を彼女達に向けた。  
当然のことながら女達からは一斉に睨まれる。  
それだけでも不愉快なのに、次の日には宮廷魔術師殿の情婦やら、誰にでも腰を振る売女やらと  
出所がわかりすぎる陰口を叩かれている。  
 
面倒そうなため息を漏らすゼノンに軽率だったと頭を下げる。  
数日後には彼女達は暇を出されて城からいなくなっていた。  
暇を出されたというのは本当なのだろうか。本当はどうなったのだろう。  
戦の只中では侍女の行方など確かめる暇もなかった。ただただ後味の悪さだけが残った。  
「……」  
汚された身体を抱く。  
そうだ。  
あの男の容姿と纏う雰囲気なら、今の生でもよりどりみどりなはず。  
ここまでしたのには安易な憎悪では出来ないはずだ。  
やはり生前からずっと、どこか鼻持ちならない女だと嫌悪されていたのだろうか?  
そうとしか思えなかった。  
ディパンでは国に。ラッセンでは領主である夫に。ロゼッタではゼノンに。今はイージスに――――。  
歴史書の中で華やかに描かれる自分。  
褒詞の限りを尽くされる剣技も采配も、讃えられる戦士としての覇業も将軍としての功績も、何もかも。  
結局自分は、どこにいても誰かに守られていただけの愚かで世間知らずな女だったのだなと実感する。  
少しばかり剣技や戦略に長けていても、所詮多くの良質な材料を与えられた上でのこと。  
己だけでは何もできないくせに、いい気になっていただけだ。  
こうやって一人にされたらあっさりあんな男の甘言にひっかかって。  
長期にわたる性暴力を無様に受け続け、異常を来たしたことに相手が気付いて止まるまで、ずっと何もできなかった。  
私は―――――無力だ。  
自尊心は削り取られて最早見る影も無い。  
以前持ちあわせていたはずの揺ぎ無い確固たるものは、今や砂塵と化して風に舞い散った。  
そこにはかつて私に続けと兵をわかせた勇将の姿は既になかった。  
女神の翼から零れ落ちた哀れな女が一人いるだけだった。  
劣等感を必死に霧散させる。  
悪い方にばかり考えてしまう。気をまぎらわせるために食事の準備へと戻ることにした。  
今日はイージスが鍋料理を持ってきてくれた。  
「精がつくぞ!」とにこやかにテーブルへどかんと置いた後、「おっと隠し味を忘れたぜー」とこの嵐の中飛んで帰っていった。  
すぐ戻ってくるだろう。  
だが、しかし。  
これは。  
……果たして胃薬で間に合うのだろうか。  
イージスの料理は豪快かつ独創的で、ある意味、非常にある意味芸術であった。  
ごぽごぽ煮え立つ鍋からは異臭が漂い、異形の深海魚が顔を出し、何を入れればこの色になるのかというぐらい  
不気味な汁色をしている。  
これを食すのか。思わず口を押さえて後ずさった。  
そういえば。  
イージスの率いた部隊は、何か薬品投与でもしてるんじゃないかってくらい屈強だったとか何とか。  
命日になるのを覚悟してしまう至高かつ究極の料理。  
これか。これなのか。  
気持ちは嬉しいのだが、はっきりいって食べられそうもない。腹を下すならまだしも別の生き物に変貌しそうだ。  
ため息をついた時。  
不意に、地獄に張り付けられていた記憶が鮮やかに甦ってきた。  
「……っ」  
しゃがみ込んで体をぎゅうっと抱き締める。  
落ち着いて目を開けられるようになった頃には冷や汗をかいていた。  
診療所で目覚めてからずっと続く迷惑な症状だった。時折唐突に苦しめられる。  
あの男も、またこんな風に突然現れるのではないか――――不安と直結して吐き気を催す。  
消えた振りをして不穏を内包している男。  
セレスが回復したと知ればまた姿を現すやもしれない。寒心に堪えず身を震わせる。  
死ぬ程つらいができる限り早いうちに、もっと正確に、自分の身に起こったことをイージスに話しておく必要がある。  
何かあってから情報不足を悔やんでも仕方ないからだ。  
「……」  
だめだ。追い出そうとしても頭にこびり付いている。  
ひどい扱いを受けた。  
以前はちゃんと女だと思われているかすら疑問に思うこともあったのに、嘘のようだ。  
 
ただ、殴られたり蹴られたり、そういう系統の暴力を受けたことだけは一度もなかった。  
あれだけの言葉の鎖でつながれては当然だが。  
執拗に弄ばれたとはいえ、最中に興奮されて刺されなかったのは良かったと思うべきところか。  
ふと、怒鳴りつつも焦燥して壊れた女を心配するような仕草が脳裏をよぎる。  
………。  
そんなの。私がされるがままだったせいだ。  
お気に入りの玩具が壊れるのは誰だって嫌だろう―――――  
顔を覆う。  
嗚呼いやだ。あの男のことなど考えたくもないのに。  
イージス、早く戻ってきてくれないかしら。落ち着かない視線がドアに注がれる。  
気がつくといつの間にか壁を背にしているようになっていた。  
イージスですら背後に立たれるのは怖い。  
本当は今もまだ、怖い。  
一人が怖い。  
夜、横になる時などは最悪だ。  
寝台で寝起きできるまでには回復したが、闇に染まる部屋を今でも這いずり回られている気がする。  
天井を見上げると縫い付けられているような感覚に陥り、あの圧し掛かってくる姿がまざまざと甦る。  
嗤う口元が嫌でも逃げられなかった。  
ああもう、いい加減にしろ、私。  
記憶の魔の手を遮断する。  
そう、これから楽しい夕食ではないか。  
たくさん食べよう。凄まじい闇鍋だが。ひょっとしたら泡を吹いて死ぬかもしれないが。それはそれで。  
片付けは陽の光が射し込んでからでいい。  
今日は軽くお酒をいただいて。楽しい気分のまま、すぐに眠ってしまおう。  
悪夢に魘される夜はもうたくさんだ――――  
そうやって、何とか恐怖を払いのけた瞬間だった。  
ぴちょん  
それは赤い水玉が落ちて床で破裂した音だった。  
豪雨の中、有り得ない程によく響いた。  
突然だった。  
何処から入ってきたのだろう。  
一瞬の雷光。  
全身ずぶ濡れで立ちすくむエルドが室内に照らし出されたのだ。  
真っ青になる。  
全身の血が凍る。  
夢じゃ、ない。  
「まったく―――――」  
だが気を失って倒れるわけにもいかなかった。  
「何処まで馬鹿にしてくれれば気が済むのかしら」  
望まぬ再来は想定内ではあった。  
立てかけておいたムーンファルクスを勢いよく抜き放つと、切っ先を悪魔に向ける。  
「出ていって。早く」  
真正面から向かい合うと、その全身図に思わず後ずさった。  
いつと雰囲気が違う。  
さらに濃い闇を纏っている。  
顔に貼りついた髪と、その向こうでぎらつく双眸。荒れる海から這い出してきた死体のよう。  
腕や足が腐食に負けて今にもぼとりと落ちそうな、そんな冒涜的なこの世ならぬ者の匂いをしていた。  
よく見たら弓も矢も持っていない。  
しかも足元をよく見ると、雨水に赤が混じっている。  
不死者にでも身を堕としたかとすら思わせる姿態で、ふら、と一歩踏み出してきた。  
「近寄らないで。斬るわよ」  
威嚇しても策は読めない。  
ククク…  
何が可笑しいのかさっぱりわからない。本気であちらの世界に行ってしまったようにも思える。  
死神は慄くセレスを嘲笑うかのように、あっさり間合いに入ってきた。  
そして向けられていたムーンファルクスを躊躇いもせずぐっと握った。  
剣をつたって鮮血がつたい、滴る。  
 
「ちょっと……!!」  
理解の範疇を越えたリアクション。身構えていたセレスも流石に動揺する。  
そのままぐいと力任せに剣を投げ降ろし、バランスを崩したセレスとの距離をさらに殺してきた。  
視線が交わる。  
深すぎる闇色まじりの瞳。  
毎夜味あわされた恐怖が瞬時に暴発する。  
いや。  
もう、嫌だ――――――!!  
「あああっ!!」  
恐怖に惑わされて喚くとともに、無意識に振り回した剣が相手の横腹に入った。  
雷が二人を照らす。  
目を見開くセレスと、表情を変えない死神。  
やがてニタリと嗤うと、防具を纏っていたため体には届いていなかったその剣を、ぐいと自身に押し入れた。  
「!!」  
狂気の沙汰としか思えなかった。  
驚愕で固まった身体を体重任せに押し倒される。  
剣が抜け、床に投げ出されたことで、容赦なく鮮血が迸った。  
打ち付けられた痛みすら感じる暇のない混沌。  
顔が迫ってきたかと思うと、口内に鉄を帯びた赤い味が広がる。  
こんな時までか!!  
遠のいていた狂気が血と共にその場に溢れ返る。  
「あ…!ああ……っ」  
恐怖による麻痺で呻くしかできないセレスの耳元で、ぼそぼそ何か呟いている。雷雨の中聞こえるわけもない。  
頬をぬるりと指が這う途中、一言だけ耳に届いた。  
「セレス…」  
場違いすぎる甘く切ない呼び声はあまりに愛おしげで、ただ戦慄するしかなかった。  
闇の深い、澱んだ目がセレスを捕らえる。  
「く…っ」  
それでも諦めてなるものかと歯を食いしばる。  
力を振り絞って渾身の平手を喰らわすが、その手すら捕らえられた。  
血の流れる己の頬に押し当てて笑っている。  
壊れた狂気に当てられてどうしようもない無力感が湧いてしまう。  
だめだ。  
狂ってる―――――  
あまりのおぞましさに身体が硬直し、完全に言うことを利かなくなる。再度の絶望がセレスを襲う。  
血の混じった雨水がぬるりと胸元を汚す。  
「あっ、…」  
息すらもうまく出来ない。見開いた両眼から涙が零れる。  
もう嫌だどうしてこんな  
どうして  
血まみれた手が、ゆっくり、伸びてきて――――――  
『クールダンセル!!!』  
怒涛が起こった。  
勢いよく舞い上がる氷精がドアを大破する。  
「イージス!!」  
魔術師が室内に走りこんでくる。電霆が彼に従う蒼く透き通る女を照らし、恐ろしい程に輝かせた。  
異界の女は三度舞った。  
一度目はドアを破った勢いのまま、最早異形と呼んでもいいエルドに体当たりしてセレスから引き離した。  
美しい蒼の女がその反動で高く舞い上がる中、息継ぐ暇もなく召喚者が進み出て容赦ない蹴りを飛ばす。  
さらに女からの掬いあげるような一撃が見舞われ、獲物の身体が軽く浮いたところへ、更なる蹴撃が襲い、叩き落とす。  
連携する鮮やかな動作は水に近い魔術師故のものなのか、理解も追い着かないままセレスは目を奪われていた。  
女はもう一度舞い上がると勢いをつけて突進した。  
防御もままならない獲物はされるがままで、吹き飛ばされて壁に激しく打ち付けられる。  
役目を終えた氷霊はそのまま地面に溶け込むようにすっと消えた。  
「イージス!」  
「セレスっ!!」  
大きな手が震える肩を抱き寄せる。  
 
「大丈夫だ、もう大丈夫」  
信頼できる人間の登場で緊張の糸が一気に解け、安堵で崩れ落ちた。  
「イージスっ……」  
「よしよし。でもちょっと待ってな」  
縋り付いてくるセレスを宥めて体を離すと、先達はゆっくり立ち上がった。  
「…あぁ。やっぱり犯人はこいつだったか」  
広がる血だまりも気に止めず、冷めた目で見下ろしている。  
ここしばらく明るく優しい一面しか目にしていなかったため、セレスには豹変と言っていい程より凶悪に映った。  
そうだった。  
このイージスという男も、どちらかといえば闇の眷属の人間。  
セレスから離れ、血を吐く男の前で仁王立ちする。  
「そういやお前、氷属性への耐性低かったっけ――――――なぁ?エルド」  
一瞬の雷が二人の顔を照らした。  
セレスにはイージスの背中しか見えなかったが、互いに殺気が漲っているのだけは痛い程に感じられた。  
張り詰めた空気が場を支配する。  
「あ」  
セレスの心に不安が過ぎった。  
ケガをしているとはいえ、エルドは魔術師を狩る者として恐れられた暗殺者。  
イージスの不利を心配したからだ。  
だがその必要はまるでなかった。  
反撃を起こそうとしたエルドの手を容赦なく踏み付ける。  
「ぐぁ…っ!!」  
それでも起き上がろうとしたエルドの顎を遠慮なく蹴り上げた。  
苦痛に歪み、血で塗れた床の上を弱々しく蠢くエルドを嗤う魔術師は、  
「ははっ」  
少し、壊れていた。  
「イージス…?」  
「はははははははははははははははははははははは」  
天井を仰いで高らかに笑う。  
直後。  
エルドの襟元を勢い任せに掴みあげた。  
「お前さ。女には優しくしろよ。かなり洒落になんねえんだけど」  
地面にはエルドの震えるつま先しかついていない。意外に強い腕力にセレスすら身震いした。  
「影でコソコソ動き回るしか能がねえくせに」  
目が座っている。  
「どこまでもうす汚ねえドブネズミだ なっ!!!」  
手を離した瞬間、まるで球技のごとく思い切り蹴り飛ばした。  
普段は身軽な弓闘士が重たく床を転げ、赤い液体をまきながら、雷鳴にまぎれてびちゃびちゃと嫌な音を立てた。  
起き上がろうとするも、行動は常にイージスの方が早い。  
今度はあの鍋の取っ手を引っ掴んだのである。  
「ちょっ、イージス!!」  
何をするか気付いたセレスの制止も虚しく、鍋は舞った。  
異臭の元が高熱を保ったままぶちまけられる。  
まともにくらったエルドから猛雨さえ掻き消す断末魔の悲鳴が上がった。  
「チッ……モタモタしてたら少々冷めちまいやがったか」  
絶句するセレスの前方からイージスの冷酷な舌打ちと、残念そうな愚痴が漏れた。  
どこまでも一方的な虐待を続ける魔術師は、すたすたと歩いていって当然のようにエルドを足蹴にする。  
踏まれる男はぴくぴくと小刻みに震え、最早抵抗すらままならない状態にあった。  
「逝くのか。ヘルんとこ。ならダルマで逝けや」  
冷たく暴虐を宣言し、闇の中から拾い上げられた鈍色の名剣を振りかざす。  
「イージスッ!!」  
散々世話になったこの魔術師さえ狂気の向こう側へ行ってしまいそうに思えて、セレスは必死で呼び止めた。  
濁った光を宿す瞳がゆっくりとセレスを映す。  
「ああ。セレスごめんな。つい頭にきてお前のこと忘れちまった」  
笑顔さえ冷たく煌く。  
有り得ない程態度を軟化させ、有り得ない程にこやかにムーンファルクスの柄を差し出してきた。  
「とどめ刺しな」  
 
発された言葉はあまりに重く、理解に数秒を費やした。  
「それとも、今日なら海に捨てりゃわかんねえし―――生きたまま放り込むか?溺死は苦しいぜ。俺が保証する」  
「イージス…」  
「ま、浮かんできた所でただのどざえもんだけどな。ならず者の」  
「イージス、待って」  
「こんなクソ野郎のために悲しむヤツなんて何処にもいねえもんな」  
「イージス!」  
「ああ――――くそ―――そうか――こんな蛆虫野郎がいたか―――――」  
こめかみに拳を押さえつける。  
会話も成立しない。怒りを抑えきれない様子が手にとるようにわかる。  
そんな中、実にタイミング悪く、ぴくり、血みどろの弓闘士が動いた。  
上目づかいに睨めつける双眸は怒りに震え、闘志滾る挑発的な炎が燃え盛っている。  
それがイージスの堪忍袋の尾をぶつりと切った。  
「んだそのツラはぁあっ!!簡単に死ねると思うなボケッ!!」  
「イージス!!」  
「てめええぇええっやりたい放題やっといて自分は簡単にくたばってんじゃねえぞカス野郎!!」  
「イージスやめて!!」  
「てめえこのクソドチビッ!!全員そろってたらリンチなんてもんじゃねぇぞ畜生が!!」  
怒りに支配され常軌を逸した仲間の叫びは壮絶だった。  
「イージス―――ッ!!!」  
今のセレスでは己の混乱状態さえ治めることができず、ただ仲間の名を呼ぶしかできなかった。  
叩きつけるかのような罵声。  
割れる食器。  
外は嵐。  
乱れ落ちる雷。  
地獄絵図だった。  
「女の髪刻んで何がおもしれえっ!!」  
「違う!髪は違うのっ!!私が自分で」  
真実を言っても怒りの向こう側に届かない。  
このままでは数分後には死体ができる。このままでは――――  
「あいつが知ったら――――――」  
「イージス!!もうやめて!!気絶してるわっ!!」  
気がついた時、いつの間にか絶叫していた。  
蹴られ放題だったエルドに無我夢中で覆い被さり、血まみれの彼を身を挺して守りながら。  
「セレス!」  
「憎いわよ!!憎いけどっ!!殺すほどじゃない……っ!!」  
その台詞と、エルドに抱きつくセレスの姿は、イージスにとってこの上ない冷却剤となった。  
信じられないものを見たといった表情で長い間固まっていた。  
過ぎ行く時間とともに、ゆっくりと呼吸が正常に戻ってゆく。  
そして言った。  
「同情ならやめとけ」  
一言が心に刺さる。  
己にはまったくそういう意識はなかったのだが、的確な表現だったのだろう。  
何に同情しているというのだろう。よくわからなかったが、考えている時ではなかった。  
「どくんだ」  
どいたら、死がこの小さな男を飲み込むことになる。  
少し迷った後、首を横に振った。  
「マジかよ……」  
重い溜め息が頭上で漏れる。  
「……誰にも祝福されない相手はどうかと思うぞ」  
この言葉にさえショックを受けた自分が意外だった。  
もうわからない。自分のことさえ、もう。  
落ち着いたイージスはもう一度ため息をつくと、身を翻した。  
「わかった。そのどぐされに少し時間をやろう。……変なモン連れてきてねえか見回ってくる」  
嵐の中へイージスが消えてしまうと気が抜けて卒倒しそうになったが、ぐっと堪える。  
すごかった、な。  
まだ心臓が激しく脈打っている。  
 
先達はとても熱いものを秘めた人だった、とは知っていたが。  
だがあの攻撃力にはセレスを支える際に湧く、大量の我慢と苛立ちも加味されていたのだろう。  
そう思うとエルドに悪い気もしてきた。もっともセレスをそうさせたのはエルドなのだが。  
安堵に浸る暇はなかった。  
何とか立ち上がると、死にかけているエルドのために、しまっておいた薬士の秘薬を取り出そうと急いだ。  
 
 
 
嵐が去ると打って変わった静寂が街を包み、朝がきて、昼になり、また夜を迎えた。  
ある意味豪雨の只中での騒動で良かったのかもしれない。  
他のゾルデ住民にあんな修羅場を聞かれていたらどう思われていたことか。  
大破したドアは破壊した主がすぐ手配してくれた。  
ありがたかったが、新品すぎて古ぼけた家にそぐわない。小さく苦笑した。  
星屑煌く闇夜。  
セレスは椅子にもたれたまま、ぼうっと彼の男を見下ろしていた。  
どす黒い元暗殺者は現在包帯の白い清浄に埋もれている。  
診療所では先日、過労により医師も看護師もついに倒れた。  
怒気を燻らせている魔術師も現況では頼れない。  
薬を塗って傷を塞ぐくらいしかできなかった。  
秘薬では間に合わない程に外傷だらけだったがどうしようもない。自ら剣を押し込んだ傷の深さも笑えない。  
内臓は大丈夫だろうか。障害が残らないといいが。  
エルドはセレスの記憶にある姿よりかなり痩せていた。  
あれから一ヶ月、一体何をしていたのか。  
思案に暮れていると、包帯に包まれていない片目がうっすらと開いた。  
と思ったら、瞬時に青い炎が燃え上がる。  
「野郎っ!!」  
「動いちゃ駄目よ」  
慌てて押し止める。  
今にも暴発しそうな殺気を漲らせていたが、セレスに咎められると舌打ちして素直に横になった。  
「……生きてんのか俺」  
状況を瞬時に理解するところは流石といったところか。  
「大丈夫よ。何処も千切れてないわ」  
流石に怪我人だと思い、気遣いを添えて優しく伝えると、  
「…何だ治してからゆっくりダルマにでもするつもりか」  
大きな目でぎょろりと睨まれる。  
ボロボロになっても減らず口は変わらない。  
「ちょっと…とんでもないこと言わないで」  
怯んで身を引くと、  
「じゃあ何で生きてんだよ」  
とさらに睨まれた。思慮のない言動はそのままだ。  
「何でって言われても」  
「殺してえ程憎いくせに。何で生かしてるんだよ」  
「別に殺したくはないわ。目の前からは消えてほしいけど」  
セレスの返答はこの弓闘士には実に気に食わないものらしかった。  
「……だせェ」  
心底から嫌そうに一人ごちる。  
「貴方こそ何故戻ってきたの?」  
あまり答えを聞きたくない質問を投げかけてみる。  
「いや、ただ気ぃ抜いてたらそこらのしょぼい魔物にやられて大怪我したから」  
「したから?」  
「お前、とどめ刺したいだろうなぁなんて思いついて。せっかくだからついでに」  
極論すぎて呆気にとられるしかない。  
「何それ」  
「何それとか聞き返すな。聞かれたから答えただけだ」  
血でにじむ包帯の痛々しさとはかけ離れた口調。  
 
「……それなら何で押し倒してきたのよ」  
「ケチケチすんなよ。命くれてやるんだから最期くらいちょっと触らせてもらったっていいじゃねえか」  
「ケチケチって…」  
困る。どうして。  
そんなに理解し難い言動しかしないのだ。  
萎える心をそのまま表情に映すセレスを見て、死神の眉間に皺が刻まれる。  
「なら訊くんじゃねえよ。どうせどうでもいいくせに」  
この時、あ、まただ、とセレスは感付いた。  
時折、常時見せている歪んだ顔つきとは別の色に出くわす。  
いや、ただセレスがそれに気付くようになっただけかもしれない。  
子供丸出しの幼い表情。  
少量の会話でも疲れたのか、じっとセレスを映していた瞳が瞼に覆われ、程なく寝息をたて始めた。  
……活動時の凶悪な言動とこの少年くさい寝顔の落差を何とかしてほしい。  
どっと疲れる。  
溜め息をついて退室するとイージスが廊下の壁に寄り掛かっていた。  
表情には苦渋の色が浮かんでいる。  
「わり。聞いちまった」  
「構わないわ」  
「ったく、帰郷早々穏やかじゃねぇな〜。っていうか、」  
やってらんねーと言わんばかりに大袈裟なため息をつく。  
「よりによって、アレか……」  
「ごめんなさい」  
「何で謝るんだよ」  
苦笑めいた声を出しても表情はまったく笑っていなかった。  
「つーかさ。望み通りにしてやった方がいいんじゃねぇか。あれ」  
殺せということか。  
「お前のためにも」  
「……」  
すぐに反論ができなかった。  
口ごもるセレスに正論が畳み掛けられる。  
「なあセレス。解放されたって人間なんてそんな変わらないぜ……所詮死神は死神だ。  
 どうせいつか何かやらかして、お前まで巻き込まれる」  
あまりにも可能性の高い予測を示され、さらに口ごもるしかない。  
「あいつの場合は職業柄なだけじゃねえだろ。好きなんだよ―――殺しが。  
 死をそこら中に撒き散らして、他人の魂を喰らうことで自らの存在を保ってるような奴だ。  
 女関係だってそうじゃねえの?うわべだけで引き寄せるのは得意でも長くは続けられない。  
 誰といても満たされない」  
「……」  
セレスとて、そこまでエルドという人物を把握しているわけではない。  
だがイージスは今、的確な指摘を連発しているのだろうと思う。  
「死神や悪魔に比喩する前に、あれはガキだ。クソガキ。年齢だけ重ねても内実が伴わない。  
 あれの手の内にいれば、奴は遊んでるつもりでも血まみれになってる。いつか嬲り殺されるぞ」  
ただただ、その通りだと思った。  
「どうしようもない人間ってのはいるんだよセレス。あれを生かすってんならお前にも責任が生じるぞ。  
 お前に飽きた後は次のターゲットを欲するだろう。使い棄てて次にいく。そうならないようにできるのか?」  
不安を煽られまくってぐうの音も出なかった。  
「俺もそこまでは面倒見切れねえよ」  
沈黙が長く続いた。葛藤はやまない。  
「なあセレス、話は済んだんだろ?」  
業を煮やしたのかイージスから切り出してきた。  
「殺そう。俺が殺ってくる。お前は何も悪くない」  
「待ってお願い」  
答えが出せないまま、ドアの取っ手に手をかけようとしたイージスを引き止めた。  
「これだけ酷い目に遭ったわ。一緒にいたいとかでは絶対ないから。ただ…そう、どうしても聞きたいことがあるの。  
 だからお願い、もう少しだけ……」  
「……わかった」  
それでも強行に移されるのではないかと案じたが、魔術師はものわかり良く一旦退いてくれた。  
 
「一応は大丈夫そうだから帰る」  
「あ…イージス、あの……キュアプラムスを」  
「あー」  
視線を彷徨わせたが、  
「お前に負担かかるのはどうかと思うところもあるが、悪いが全力で拒否する」  
「やっぱり?」  
肩を竦めるセレス。  
「俺は今猛烈に苦しめばいいさと思っている」  
だろうな、としか思えない。  
玄関まで見送る。挨拶を交わした後、もう数え切れない程の嘆息を二人でつき合った。  
「復讐する権利なんて。ずいぶんはた迷惑なプレゼントを持ってきてくれたものだわ」  
「そんなの建て前に決まってるだろ。あんなん何だかんだ理由つけても、ただ……」  
これを言っていいものかという感じで言い淀んだが、小首をかしげるセレスを見やると仕方なさそうに呟いた。  
「……お前の顔見たかっただけさ」  
 
 
 
「虚しくねえ?自分を強姦した男介抱してて」  
無遠慮すぎる言葉の棘に思わず全身が強張った。  
あの嵐の夜から数日経過した。汚れた包帯をほどき、新しく巻き直している最中でのことだった。  
高慢な患者がずいと顔を近付けてきた。  
必死に平静を保って作業を続ける。  
「仕方ないでしょ。他に誰もいないんだから」  
「へえ。お優しいことで」  
小馬鹿にしている態度。  
さらに距離を縮めてこられては、引き攣った表情で身を引くしかない。  
それを嗤う。  
「これは治ったらまた纏わりついていいってことだよな?」  
「……ふざけないで」  
嫌悪剥き出しで睨みつけても顔色一つ変えない。確かに虚しさが軽く過ぎった。  
「……本当に馬鹿よね。何してるのかしらね私」  
だが負けてなるものか。包帯を荒く巻き終え、薬箱を手に立ち上がる。  
「冗談じゃないわ。治ったら出て行って。そして二度と私の前に表れないで」  
身を翻した瞬間。  
二の腕を掴まれたかと思うと、怪我人のものとは思えない力で寝台の上に引き倒された。  
薬箱の中身が派手にぶちまけられる。  
「何するの!傷が開くわ!!」  
「かまいやしねえよ。何やらかしたって、どうせまた手厚く看護してくれるんだろ?お姫様」  
「…あなたって人は」  
「喚くなよ」  
胸元の布がはだけたが、重ね着をしていたために肌色は広がらなかった。舌打ちが響く。  
「ガードかてえな」  
「あんな目に遭ったら当たり前でしょ!」  
身体を起こそうとするも阻止される。  
「じゃあ今度こそよくするからさ」  
こんな状況下で真剣味を帯びる声はまさに狂人を思わせる。  
服越しに痩せて薄くなった胸を揉み込んできた。手の平から痛々しい程の荒い鼓動が伝わってしまう。  
「大事に、するから」  
言葉とは裏腹、語気は抗うなとばかりに威圧的だった。  
恐怖に支配されかけたが何とか力を振り絞って手を払いのける。  
「…いやだってば」  
「へえ抵抗すんのかよ」  
包帯まみれの男に浮かぶ冷笑。  
「意外だな。カナヅチのチンポはそんなにいいのか?」  
「!!」  
 
「どうしてもらってる?参考までに教えてくれよ」  
「馬鹿っ!いい加減にして!!」  
「イカスミ鎧野郎の次はヒゲ面の溺死体かよ。本当にお前は趣味が悪りいな」  
方向は違っても大切な人間である二人を馬鹿にされ、思わず怒りが口を突く。  
「二人ともあなたよりずっとマシだわ」  
「それはそれは」  
口端の歪みと共に押さえ込む力が強くなる。  
首筋を這う唇は不快な程に熱かった。  
「いやっ!」  
迫りくる顔面を必死になって押し退けると、  
「ならやめさせてみろよ」  
その手首をとられた。  
視線が交錯する。  
片目とはいえ、こんな至近距離で長々睨み合いの視線を交えるのは初めてだった。  
病的で凍りついた目は相変わらず鋭利だった。  
闇が濃く、底無しに深い。  
助けようと手を伸ばしたら逆に引きずりこもうとする手。  
「何で殺さなかった」  
負の波動に耐え切れず目を逸らしたら、顎をつままれて強引に前を向かされた。  
「そんな目で睨むくせに何だよこれ」  
腹立たしげに問うと、巻かれたばかりの包帯に手をかけ、思いっきり乱暴に引き裂いた。  
「ちょっとっ!!何してるの!?」  
「むかついてるくせに。汚されたとか陵辱されたとか思ってんだろ?あれだけ悦んで喘いでたくせによ!!」  
沸点の低い男だ。声がだんだんと怒りを増していき、語尾でついに怒鳴り声となった。  
包帯はあっという間に噴き出す血を吸い上げ、紅い雫をぽたぽたと滴らせる。  
「どうせみんな俺が悪りいんだろ?何もかも。あれだけ大事にしてやってもッ!!」  
「やめて!!」  
あまりの妄挙に恐怖が迸る。  
捕らえた女を下にして、その怯える様を鼻で嗤う死神。  
獲物の震える頬に赤が一滴落ちた。  
「だよなぁ。怖いよな。所詮お姫様ごときに俺が飼えるわけねえよな」  
「エルド…」  
「だから、ほら」  
有無を言わさずナイフを握らされる。  
「なっ何……」  
「刺せよ」  
「やめてってば!!」  
「殺らねえなら生きてやる。死ぬまでつきまとってやるからな」  
最悪な展開だった。  
どう考えても助けたはずの男から受ける仕打ちではない。  
せり上がる後悔と共に、何もかも投げ捨てて叫び出したくなった。  
だが助けようと決意したのは他でもない自分なのだ。この男相手なら如何なる時でも暴走は想定内としなければ。  
大きく深呼吸してから呟いた。  
「…何も、言ってくれないのね」  
「何?」  
「私なりに調べたのよ。気になった点を」  
負けてなど、やるものか。  
「私のところへイージスが来るように誘導してくれたのは、貴方ね」  
図星をついたのだろう。表情に驚きが混じり、軽く狼狽して身が少し離れた。  
「様子のおかしい赤い髪の女がいて、しかも病気にかかっているらしい情報をイージスへ伝わるように仕向けたのも、  
 イージスが入って来れるように私がきっちり閉めておいたはずの鍵を開けておいてくれたのも、貴方なんでしょう」  
死神が無言になった。そこを勘付かれ、突かれるとは思っていなかったらしい。  
「何か言ってよ。理由がわからないのに殺すもへったくれもないわ」  
自暴自棄だった視線が泳ぎ、大きな動揺を伝えてくる。  
セレスは間をおいてから、どうしてもエルドを憎み切れない理由を伝えた。  
「助けてくれたのね?そうじゃなきゃ、こんなに沢山ある空き家の一つでぽつんと死にかけてた私なんて、いくら  
 イージスでも間に合わなかったと思うわ」  
 
眉間の皺が更に深く刻まれる。  
「…………今更、そんな話してどうすんだよ」  
苦渋に満ちたエルドから、搾り出すような返答が返ってきた。  
逸らした目の中を泳ぐものは明らかに後悔の念だった。  
「話したら許されるのかよ。…………許せるのかよ」  
「わからない、けど。話してもらわなきゃ始まらないわ」  
「無駄だろ」  
「どうして勝手に結論を出してしまうの」  
「うるせえっ!!」  
「ぐぅっ!!」  
全身が反り返った。  
至近距離での大声に体内の傷が呼応して酷い痛みを吐き出したからだ。  
思わず顔を歪め、乱れる息に苦しみ胸元に拳を当てた。  
一瞬、セレス以外の何もかもの時が停止した。  
「…何だその反応は」  
答える余裕がない。波打つ痛みに耐えかねて必死に呼吸を繰り返す。  
理解しかねるといった間があき、やがて勝手な結論に到達したらしく推測を吐き捨ててきた。  
「演技かよ。案外セコいな」  
軽視の視線を落とされたのでむっとして言い返す。  
「違うわよ。病気の後遺症で神経が痛むの。結構しつこく残る痛みみたいだから仕方ないじゃない」  
言った瞬間、目が見開く。  
何を言ったのか自分でも一瞬わからなくなる程愚かしい発言をしたことに気付いた。  
身体が完治しておらず、未だ弱っていることを自ら晒してしまったのである。  
見る見る間に血の気がひいていく。  
察したのか、数秒後エルドの顔色も一変した。  
下にした獲物の上着を容赦なく引き千切る。  
「や…っ」  
思った通りの行動かと思われたが、彼の真意は違った。  
「何だこれ」  
露わになった上半身。その痩せた体躯の、かなりの範囲を占める傷跡の酷さに絶句している。  
「いやっ!!」  
思わず隙をついて突き飛ばした。  
押しのけることに成功して寝台から転がり落ちる。  
追撃はしてこなかった。  
疼痛と震えを我慢しながら荒い息を繰り返していると、背後から疑問が投げかけられる。  
「おいまさかそれ……………痕…残るとかいわねえだろうな」  
「見ればわかるでしょ」  
即座に答えを投げ返されて、ただでさえ白い顔がさらに色を無くしていく。  
衣服の下に隠していた事実は、意外にもセレスもびっくりする程のダメージを与えたようだった。  
「何で治療しねえんだ」  
「してもらったわよ。でも治療って言っても限界があるわ。汚れた爪で何度もひっかいて、丹念に作ってしまった傷だもの……  
 完全に元に戻すなんていう方が無理でしょう」  
「……」  
包帯男は呆然自失状態のまま髪をかき上げる。ほんの少し震えているのが見て取れた。  
「おい……マジで冗談だろ。勘弁してくれよ」  
勘弁してほしいのはこちらだ。  
「…これでもイージスが一生懸命回復関係の魔法を勉強してくれたから、かなり良くなったのよ。  
 何度も言うけどこれが限界だったの。  
 後は時間が経てば自然治癒で少しくらいはきれいになるかも、…そのくらいよ」  
「本当にもう手の打ちようがねえのか」  
無言で頷く。  
重苦しい沈黙の中、渋い顔つきのまま固まっていた死神は、力尽きたとばかりその場にばったりと倒れた。  
受け止めた寝台が不満げに軋む。  
「流石のあなたでも萎えたかしら」  
自嘲しながらの問いに、寝台からの答えは戻ってこなかった。  
下手に抵抗するより反撃力が大きいとは。そんなに酷いのか、と少し悲しくなった。  
 
だがエルドにとっては萎えたなどという問題ではなく。  
己の所業により大事な女の肌に広範囲の傷跡が汚く残った―――この罪悪感のとてつもない重さを、セレスには理解できなかった。  
「クズだな」  
その言葉は身体を中傷されたのかと受け取ってしまったセレスを軽く傷つけたが、  
「…俺は」  
付け足された一言により、自嘲なのが明らかになった。  
すっかり意気消沈したエルドを確認すると、セレスは息をつき、乱された衣服を整えた。  
倒れていた椅子を立て直して腰を下ろす。  
本当に手のかかる男だ。  
昔からそうだった。仲間達からの有益な助言すら必要ねえ話しかけるなと撥ね付けてしまう。  
結局それを又聞きしたセレスが助言の活用を勧める。そうすると次に使役された時取り入れている。  
天井を仰いでいた片目がゆっくりと移動し、赤い短髪を映した。  
彼の目には不健康に痩せて怯え傷ついた元同僚が映っている。  
凛とした雰囲気も振る舞いも美貌も、何もかもが失われ、退色していた。  
「私達、何でこんなことになっちゃったのかしらね…」  
その女の艶やかだった唇から、自然な嘆きが漏れた。  
知らぬ間に捻りあげてしまっていた女は虚ろな抜け殻のようだった。  
「……ぁああくそっ!もう何でもいい」  
沸点の低い男の拳が白布の上にばふんと落ちた。  
「どうせくれてやろうと思ってた命だ。刺す気ねえなら何でも言うこと聞いてやる。これでどうだ」  
行き当たりばったりの突拍子もない申し出。だがセレスにとって悪い発案ではなかった。  
「じゃあ、早く良くなって何処かへ行って」  
「芸がねえな。もっと面しれえこと言えよ」  
何でもと言っておきながら即否定。期待もしていなかったが。  
「かっさばくか?噴水みてーで面白いぞ」  
喉元に親指を突き立て、刃物に見立ててぐいっと空を切った。  
命と引き換えのショーの提案。当然ながらセレスは蹴った。  
「見慣れてるわ」  
「そうだったな」  
失笑が漏れる。  
「ひでえツラだな。笑えよ」  
台詞と言い方に軽い苛立ちがわいた。  
「どうやって?」  
「どうやってって……」  
「笑えないようにしたのは貴方じゃない。ねえどうやって?私の方が訊きたいわ」  
強い態度で問い詰めると、意外にも勢いに押されて黙り込んでしまった。案外猛攻されると弱いようだ。  
会話は途切れ途切れだった。  
いい加減向かい合っているのも嫌になってきた頃、この男にしてほしいことが一つあったのに気付く。  
「じゃあ一つ言うことを聞いて」  
「…何だ」  
「昨晩私の耳元で行った言葉。もう一度、言って」  
頼んだ瞬間、明らかに相手の目が泳いだ。  
「それは……」  
「何でもって言ったわ。私の名を呼んだその後よ」  
強い態度で請う。どうしても聞きたい言葉だった。  
長い長い躊躇の後、その言葉はぽつりと投げ出された。  
「……………………ごめんな」  
そう。  
あの時、耳元でそう呟いたのだ。  
「うん」  
舌打ちの後、部屋は静かになった。  
波の音だけが耳を撫でる。  
そんな一言で許せるようなことでは決して無い。  
ないけれども、この男が吐いた小さなその一言はとても大きかった。  
寝台の上から幾度目かの重苦しい嘆息が漏れる。  
「結局俺のものにはならなかったな。……お前の勝ちだ」  
意外な一言が耳に届いた。  
 
呟きにはこの男なりの精一杯の気遣いが感じられた。  
持ち上げて、この堕ち切ってしまった女を少しでも浮上させたいと思っているのだろう。  
「やめてよ。勝ち負けとか。そういう問題じゃないでしょ」  
「へえへえ。わかってるよ。どうせもう何言っても無駄なんだろ」  
下手に出たのにはたき落とされたのが気に食わないのか、不貞腐れてごろりと背中を向けた。  
子供か、この男は。半目で背中を見つめる。  
……子供なんだろうな。  
吐いた言葉をまとめて整理すると、論理は滅茶苦茶だが、一連の出来事に本当に悪気はなかったらしい。  
最初の脅迫すら口説き落とす為の一環なのだろう。言動に善悪の見境がなさすぎる。  
「エルド」  
静かに名を呼ぶ。返事はない。  
だいぶ迷ったが、こうしていても仕方ないという諦めが言葉になる。  
彼は自分に許しを乞うている。  
「もう少し良くなったら、いいわよ」  
信じられないといった面持ちが、ものすごい勢いでセレスに向き返った。  
「本気かよ」  
「本気よ。……当然だけど本当は嫌よ。死ぬ程嫌だけど、でも」  
膝の上に置かれた拳が固くなる。  
「二度目の人生が始まったばかりなのよ。この先ずっと貴方の影に…貴方の手に怯えて暮らすのはごめんだわ」  
このまま関係を終わりにしたのなら、仲間に騙され犯され壊されただけの哀れな女のままでしかいられない。  
そこまでの害意がなかったこと、懺悔し清算したい気持ちがあることの二点がわかった今。  
「悪気がなかったと言うのなら、普通に付き合って、……あの一ヶ月はその中のほんの一部だったことにして、  
 普通に別れたいの」  
納得できる形という精神の安定を求めていた。  
良くない選択肢であることは重々承知だった。だがこれ以上惨めにならないためにはこれしか残されていないのだ。  
「優しくしてくれるんでしょ?」  
セレスの申し出に、  
「する。絶対する」  
案の定思い切り食いついてきた。  
真顔。  
こんな時だけ邪悪さがごっそり抜け落ちて、本当に子供のような顔をする。  
ずるい男だ。  
「今する」  
先程の強引さはなかったが、手をとられて引っ張られた。  
「ちょ……いっ今っ?そ、それは無しでしょ」  
「忘れるなら早い方がいいだろ」  
至極真剣な表情だった。  
「傷つける気はなかったって証明する」  
彼にとってはこの上ない汚名返上のチャンスなのだろう。  
拒絶する間もなく、解けかけた包帯をだらしなく纏う男が手の甲に口付けを落としてきた。  
ぞくっとする。  
退廃的な仕草も格好も無駄に似合う。  
「ちょっと。身体の状態考えなさいよ。本気で死ぬわよ」  
「構わねえ」  
とんでもない返答しか返ってこないのはこの男の仕様なのか。  
「戦乙女なんぞにもらった命だ。誤解解けてくたばるんならもう二度目の人生それでいい」  
なんぞって。  
「ちょっ…は、話全然聞いてないでしょ!?こらっ!」  
好機を逃すまいとどんどん迫ってくるので咎める暇もない。  
「だめ!我慢しなさい!腹上死なんてお断りだからね、ちょっと!」  
きつく叱っても勿論止まらない。  
身を乗り出してきたかと思ったら唇を重ねられた。  
ただ柔らかく触れ合っただけで瞬間的に悪寒と吐き気が走る。  
駄目だ。  
いくら体が疼いて欲していても、まだ、無理だ。精神が受け入れられない。  
突き飛ばしたかったが穏便に済ますため、隙を見逃さずに言い放つ。  
「本当に悪かったと思っているなら放して」  
 
動きがぴたりと止まった。  
しばらく葛藤していたようだったが、明らかな物足りなさを充満させつつもゆるゆると身を引く。  
それはセレスに申し訳なく思う気持ちがあることの証明だった。  
それでも口を尖らせ恨めしげに睨みつけていたが、  
「ケチ」  
捨て台詞とともに、拗ねて毛布を深くかぶってしまった。  
そしてものの数分後には寝息を漏らしている図太さを見せた。  
ケチって…と呆れつつ、簡単に引き下がった事実に驚きつつ、ほっとする。  
また性懲りもなく無理に迫ってくる可能性もあったからだ。  
心臓が破裂寸前なのにやっと気がつく。  
気持ちが悪いが、今のうちにまた包帯を巻き直さなければならない。  
彼が無理をした所為で裂けた傷はそれ程でもないらしいことに、安堵していいのか悪いのか。  
散らかった薬箱の中身を拾い上げる。  
多分、戻れない沼地の道へ足を踏み入れたことを、噛み締めながら。  
 
 

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