廃都に異変が起こったのは次の日のことだった。
朝焼けが空の片隅で始まったばかりのうちに目が覚めてしまい、仕方なく起床する。
寝ぼけ眼で朝食の準備にとりかかる。
手を動かしながらイージスに何と説明しようかと頭を悩ましていると、表がなにやら騒がしい。
窓を開ければ人々の畏怖の念が海上に注がれている。
「セレス」
険しい表情のイージスが窓辺に近寄ってきた。
「どうしたの?」
「わからねえ」
どよめきが起こる。
目を戻すと重い衝撃音とともに海の上の故郷で何かが砂煙を上げた。
こんなに離れていても肉眼で確認できる変事。
立ち込める緊迫感はディパンが一晩で壊滅したあの日を髣髴とさせた。
セレスが目を見張る横で、イージスが頭を掻き毟る。
「崩壊したとはいえディパンもいろいろ問題残したまんまからな」
「……」
やがてゾルデの久しく静かだった広場ががやがやと騒がしくなる。
ざわめきは徐々に旅支度を整えた一団を形成していった。
「ディパンに残っている人達の救援に行くのかしら?」
「ああ。それに今ディパンにいるのはそいつらだけじゃねえらしいんだ。
崩壊した時に着の身着のままで慌てて逃げた連中が、丁度荷物を取りに戻っちまってるとか」
「何ですって?」
タイミングの悪い。
それともその中の誰かがこの騒ぎの原因を持ち込んだのだろうか。真相は海の向こうで不気味に蠢いている。
魔術師が渋い顔で躊躇いがちに呟いた。
「それでな。どうやらあのガキどもも、その一行に紛れてついていっちまったみたいなんだよ」
あのガキども――――。一緒にピクニックに行ってくれたあの子供達か。
塞ぎ込んでいたセレスと違ってイージスとは以後も交流があったらしい。
ほとんどが孤児。多少なりとも情が移っているのだろう。
「流石に見捨てちゃおけねえ。俺も行ってくる」
「えっ」
予想外の一言に戦慄が走った。そう言われてみるとイージスもがっつりと装備を整えている。
信頼を置く男がいなくなろうとしている。しかも今すぐに。心臓を掴み上げられた気がした。
だが引き止めることなどできない。
「そ、そうよね」
と頷きつつも、こんな大変な時にさえ私情でそばにいてほしいなどと思ってしまう自分に、苛立ちを感じる。
何を勝手に見捨てられたような気分になっているのだろう。つくづく自分が嫌になる。
覆い被さってまであの弓闘士を助けたのは自分ではないか。
目を泳がせるセレスの肩に手をおき、イージスは真剣な表情で言った。
「じゃあ俺は行くけど。わかってるよな?セレス」
「え?」
「用件とやらが済んだら殺すんだぞ」
強い語調の一言は容赦なくセレスの動揺を射抜いた。
「兄さん…」
「あれは絶対にお前のためにならない」
「兄さん、あの」
「手負いの畜生野郎にとどめ刺すぐらい、お前なら簡単だよな?斬鉄姫セレス」
ぐっと詰まる。
イージス的には激励のつもりだったのだろうが、今その二つ名を出されてもセレスには重荷でしかなかった。
私はそんなに強い女じゃない。生前ならともかく、今の私なら尚更――――。
つい平静を失い、反論めいた言葉を紡ごうとした時。
「おいいつまでくっちゃべってやがんだ。本当に行く気あんのか?」
一団のまとめ役らしき戦士からイージスに乱暴な呼び声がかかった。
「ああ悪い。わかったすぐ行く。――――それじゃあなセレス」
そうしてイージスはセレスに軽く手を振ると杖を手に行ってしまった。
背中を見送りつつ、急な展開と喪失感に襲われ、セレスは深い寂しさにかられる。
私は一体何をしているんだろう。
ぽつんと取り残されたセレスは、現在の自分の立ち位置に至極情けないものを感じざるを得なかった。
エルドという怪我人を抱えているのはわかっているし、今の自分では足手まといなだけ。置いていかれるのは当然だ。
だがこんな一大事に、将軍職に就いたことのある戦士の自分が頼られず、声すらかからないとは。
さらにディパンは崩壊したとはいえ実の故郷だ。それなのに。
甲冑に身を包んで共に急いでいなければいけない立場ではないのだろうか。惨めな思いに包まれた。
朝日に包まれて救援隊の一行は異変の巻き起こる国へと旅立っていった。
そしてなかなか帰ってこなかった。
残されたゾルデの民の不安と心配をよそに幾度となく夜は訪れる。
セレスもまた、海に浮かぶ栄華の残骸を見つめていた。
大きな変化はあの日だけだった。だがイージス達は戻ってくる気配がない。
不死者か魔物か。とにかく何者かが蠢いているようだ。イージスや子供達、その他の人々の身を案じる。
ドラゴンオーブ不在期間の影響はあまりにも大きい。
魔物の動きが活発化し続ける現状も合わせると得体の知れない恐怖にかられる。
ディパンには特に大きな不穏が内包されている。
地下、魔物の徘徊する背徳の実験場の、あの最奥部。
後日の再訪時には鍵がかかっていて入れなかった。
別の未来から来訪したあの創造神はディパンについて何か知っていたのだろうか。多少なりとも訊ねておけば良かった。
拳を握る。
本当は追いかけたい。しかし今の自分ではディパンに辿り着けるかどうかすら怪しい。
辿り着けたとしても役に立てるのかどうか。
無力。
現実が重く圧し掛かる。
「気になるのか」
不意にエルドが尋ねてきた。
ちゃんと食べて養生している分セレスよりずっと回復が早く、完治といってもよい状態にまで仕上がっていた。
どうも精神的に受けた打撃のレベルが全然違うらしい。セレスは未だに弱っているのにエルドは平然としている。
打たれ強さの面では勝負にならない。
「気になるかなんて……当たり前でしょ」
ぶっきら棒に答えると、
「冷てえな。俺ら一応付き合ってるんじゃねえの?」
さも嫌そうに口を尖らせる。
現実を直視させられる。そう、今現在セレスは紛う事なくこの男の恋人というポジションにいるのだ。
「一応でしょ。…本当に、形だけ」
自分から言い出したはずの関係なのに、実に偏屈な返答だった。
エルドの表情に明らかな不服の色が混入する。
しかしどう努力しても乱暴される以前のような目ではエルドを見れなかった。
彼に掲げた提案は、考えが甘かったというより、無理があった。
いくら頑張ったところでエルドはセレスを騙して危害を加え、死を考えるまでにいたぶってくれた、残忍な加害者なのだ。
だが今更、己が言い出したことを放り出すわけにもいかない。
欠けた月、揺らめく黒い海、死んだはずの故郷。
重苦しく嘆息する女の頬を、紛い物の恋人の指の背がそっと触れた。
「ちょっと!」
驚いて即座に払いのけた。だがエルドの表情は変わらない。
「ちょっとじゃねえよ。そろそろいいだろ。やらせてくれよ」
あまりにも直球な要求に青くなると同時、ついにきたか、とも思った。
治ったら。
そう、まさにそれだけのために、この男は長い間大人しく介抱を受けていたのだから。
「でも、まっまだ…私、心の準備が……」
動揺を隠せないセレスに迫る男がきっぱりと言い放つ。
「これ以上待たされたら老衰で勃たなくなる」
どういう表現だと思いつつも、覚悟を決める時だとも思わされる。神経からくる痛みもだいぶとれてきた。
しかしせり上がる嫌悪は否定しようもなく、どうしても決意を鈍らせる。
「…もう少しだけ待ってほしい……」
か細い声で拒絶を示し、戸惑いをそのままに目を泳がせていると、
「いいか、もう一度だけ言うぞ」
ずいっと顔を近づけられたので、思わず目を瞑ってすごい勢いで逸らした。
そんなセレスの態度を気にも留めず、加害者は噛み砕いて咀嚼させるように諭してくる。
「お前を気に入ってるってのは誓って嘘じゃねえ。傷つける気なんてさらさらない。
むしろまさかこんなことになるとは思わなかった。
俺とやった記憶が今のお前を蝕んでいるってんなら、一秒でも早く解放したいんだ。
誓う。今度は絶対に優しく、大事にする」
言葉の一つ一つが真剣で、真摯だった。だがこの男の口からではあまりに真実味が弱い。
更に間を詰められて息をのむ。無意識に押し退けようと手をあげてしまった。
程なく手首を取られる。
「暴力反対」
その一言がセレスの癇に障る。
「…暴力反対、ですって?」
思わず声が殺気を帯びる。
「殴ったり蹴ったりだけが暴力だと思ってるの?あれだけ酷いことしておいて良くそんなこと…っ」
「わかったからそんな怯えてんじゃねえよ」
「怯えてなんて!」
否定したかったが、ぐっと身を乗り出してこられると小さな悲鳴と共に身体が退路を求めた。
けれど逃げ道はない。
「体だってそろそろ限界だろ。楽にするから」
未だ継続中の激しい疼きを勘付かれている。ボッと耳まで火照る。死ぬ程恥ずかしかった。
そんな彼女の目前で、エルドは一刻も早い名誉挽回を望んでいる。
「それともまさか『大人しく寝かしつけとく為の嘘でした』とか言わねえだろうな」
静かに唸るような問いかけをされる。どうやらもう避けようがないらしい。
観念して呟く。
「…わかったわ」
それに、この毎晩の疼きから早く解き放たれたい。それは嘘ではなかった。
窓辺の椅子からすっと立ち上がる。
寝台に腰を下ろすと衣服を脱ぐ。少しずつ本来の肉付きを取り戻してきた肌が露になる。
だが表面はどうしようもない。先日干からび切った大きなかさぶたがやっと自然にとれたばかりだった。
そこまで酷いというわけでもないが、気にするなというには広すぎる傷痕。
月光の中、やるせなさで視線を伏せつつ自嘲を零す。
「……こんな体に欲情できるの?」
「もうしてる」
隣りに座った男の即答に呆れる。
「そうだったわね。貴方は物好きな上に並々ならぬ変態だったわね」
「うるせえな。何言ってもそんなツンツン返しじゃ俺だって何て言やいいんだよ」
口をつぐんで答えない女の顎をつまむ。
「愛してる。 ………って言えばいいのか?」
女の顔が一気に苦味で歪んだ。
現在のセレスにかける言葉としては、愛の告白は良い選択肢とは言えなかった。
緊張さえ瞬時にほどけて気持ちが萎える。
「そんな見え透いた嘘を喜ぶとでも?」
「決め付けかよ」
眉根を寄せるエルドを更に睨みつける。
「愛してる女にあんなことする男なんているのかしら?」
「……。ま、そうかもな」
やったことが酷すぎて言い争いでは勝ち目がない。エルドは半目を閉じ、ため息をついた。
「そんじゃお姫様に気持ち良く感じていただけるよう気合入れて真面目にやるか」
顔にかかる茶色の髪を乱雑にまとめ上げ、後頭部で縛りつける。
束からこぼれた髪がぱらぱらと頬に落ちた。
男の意気込みを感じるとセレスは逆に顔面蒼白となった。深呼吸をし、耐え凌ぐ体勢を整え始める。
本当にするんだ。また。自分を騙して生き地獄を与えたこの男と。
心の何処かで己の選択肢が信じられなかった。
もう拒む余地はなかった。静かに白布の海の上へ横たえられる。頬を優しく撫でた後に短髪を梳いてきた。
唇が近づく。
激しい嫌悪に襲われて顔を逸らす。
「キスなんかしなくていい」
「何で」
「してほしくない」
愛情の証など、いくつ唇に落とされてもどうせ嘘まみれだ。
「…わかった」
納得いかないといった顔のまま、エルドは身を引いた。
気持ちがまったく噛み合わないまま行為は始まった。
慣れた指先が首筋を流れ落ち、ぷるんと揺れた乳房をむにゅと柔らかく鷲掴む。
皮肉にも胸部の果実には傷一つない。
だがセレスの内側では、あっという間に恐怖が蘇り始めていた。
「あ。…あっ」
身じろぐ女からは喘ぎ声ではなく、痛々しい呻き声だけが悲しげに漏れる。
「何だその鳴き声。色気ねえぞおい」
「無理…言わないで…っ」
「こっちは全力で気持ち良くさせようとしてんだから無駄に怯えるなよ」
がくがくと震える身体にそっと唇が落ち、ゆったりとなめらかに滑る。
「は…っ、あ、あ」
両眼が勝手に潤む。胸の鼓動がこれでもかと乱打する。
逃げ出したい気持ちをシーツをぎゅっと掴むことで必死に押さえつける。
我慢しなくては。ここで逃げたらまた記憶に蝕まれる生き地獄が待っているだけだ。
乗り越えなくては。
「そんなに怖ええか」
「怖…い…」
今更強がったところでどうしようもない。素直に認める。
男は困惑と同情が入り混ざった微妙な面持ちで頭をがりがりと掻いた。
体も心も傷つけた女のまったく癒えていない現状が、予想以上に酷かったからだろう。
「焦らさ、ないで」
「わかってる」
「卑猥な言葉も言わないで」
「ああ」
諸悪の根源はセレスに請われるまま、全ての要求を呑み込むしかなかった。
震える長い睫毛の真横に、唇への降下を許されない口付けが甘たるく落ちる。
「そういや生前は俺の方が一つ年上だったのに」
「やっ、ん…んんっ…!」
「選定まで二年ブランクあったから肉体年齢は今じゃお前の方が一つ上か」
「と…年なんてよく、あっ、覚えて…。…っ」
「何となく気に食わねー」
「ああ、あっ」
手馴れた指先がやわやわと蠢く。
肌が焦げつくぐらいに熱い。叫び出したい程怯えているくせに、しっかりと性的快楽を感じている身体が憎たらしい。
上半身を汚す苦悶の名残。そっと触れてエルドは後悔を零した。
「…これ、ぜってー痕、残るな…」
未だ肢体に生々しく残る傷跡達。原因を作った男は舌打ちをするしかない。
「何もひっかからねえ位滑らかで白かったのに」
「ああっ」
「俺も結局しっぺ返し食らったってとこか」
死神の舌がすっかり硬くなった乳首を何度も執拗に舐めあげる。
「あ…ぅう、はっ」
ざらりと、熱い。
「まあ傷に関しちゃ俺もこんなだが」
言葉につられてふと目をやって、セレスの顔面から血の気が引いた。
エルドが自分で押し込んだ脇腹の傷はおかしな色をしていて、明らかにイージス鍋を喰らった影響を思わせる。
そこも酷いのだが、全身に古傷がありありと残っているのにも驚いた。
「包帯を巻いていた時も思ったけど、…本当に酷いわね」
自分に残る傷跡の比ではない。セレスの驚愕の視線とは真逆、エルドは呆れ顔を作る。
「包帯巻いた時じゃねえだろ?もっと前に気付いてただろ。何回寝てんだよ俺と」
むっとして言い返す。
「寝たくて寝たことなんか一度もないわ。合意があったみたいに言わないで」
過酷な現実からずっと顔を逸らしていたために相手の顔はおろか体などほとんど目にしていなかったのだ。
そう言い返されてしまうとエルドは詰まるしかない。
「…っとに、気のつえぇ女」
苛立たしげな視線が落ちてきてかち合う。
「それより、その傷跡……?」
「ああ。ガキの頃な」
子供の頃、か。あまり深く踏み込むのは失礼だと思いながらも本音が零れる。
「顔はきれいなのにどうして身体だけ……」
すると明らかに『これだからお姫様は』とでも言いたげな蔑視と嘲笑がエルドの表情に混ざった。
「身体なら服で隠れる。他人には見えねえだろ」
その台詞は加害者が身内であることを暗に示していた。
「大したこたねえよ。ガリガリで骨と皮だけだったこともあるしな」
「…意外だわ」
「そうか?いかにもだろ。普通の家に生まれて普通に育てられてたらこんな性格になるかよ」
凍りついた瞳で、平然と嗤う。『こんな性格』――――。どうやら己の性情に自覚はあるようだ。
「まあとにかくこの体で『ごめん。やっぱ…気持ち悪いよな』とか俯くと大抵の女はコロッと騙されて
『そんなことないわ!』だの何だの言って心も股も開いてくれるわけだが。普通は。」
「相変わらず最悪な思考ね」
「予想通りのお答えありがとよ」
本性を知っているのに同情などするわけがない。あまりの馬鹿らしさを一蹴した。
「おしゃべりが過ぎたな」
突然会話を強制終了され、不意に脚を開かされた。心臓が跳ねて思わずぎゅっと目を瞑る。
そこは前戯により既に十分なほどほぐれ、濡れそぼっていた。
そうでなくても日々強烈な疼きに悩まされていた躯、認めたくはないが明らかに悦んでいる。
エルドからまた何か心無い嘲笑を受ける悪寒がして、震えながら身構える。
「心配しなくとも別に何も言わねーよ」
だがセレスに圧し掛かる男は彼女の心情を見透かしてきた。
指先でちょんと紅い花芽をつつく。応じるように女体が反って甘い嬌声を漏らした。
「女の身体は貞操の危険を感じると防衛本能で濡れるんだよな」
「……」
その言葉には、自惚れ屋の男の後悔が感じられた。
「力抜け」
一言だけあっさりした忠告をすると、襞や茂みを巻き込んで苦痛を伴わないよう気をつけながら、ゆっくり自身を挿入させてきた。
「あ……っ」
言うとおりにしようとしても、寸止めや焦らしを超えたお預けの経験から、どうしても不安で胸が重くなる。
「大丈夫だから」
安心を誘うはずの優しい言葉は、やはり記憶のせいで言い様の無い嫌悪にすり替わってしまい、ぞわっと総毛立つ。
耐え抜かなければ。ここを過ぎればきっと楽になる。
ぎゅっと歯を食いしばったが、すぐに緩んだ。
「んっ。……あっ…はあ、はあっぁあん、あ…ん…あん…っ」
喉を鳴らす音は気持ちとは裏腹だった。
ここしばらく体が熱烈に要求していた異性との結合。
疼きがあっという間に満たされ、悦びの感覚が全身にじんわりと熱っぽく広がっていく。
だがそれはどうしても魂と噛み合わずに不協和音を奏でる。
体が艶やかに色付いても熱い涙は悲しい色をしたままぽろぽろと落ちた。
その落涙を舐め取る男に耳元で慰めるように囁かれる。
「ゆっくり、動くからな」
反り返る身体に緩い律動が絶え間なく波打ち、無理のない速度で高みへと誘う。
「あああっんんっ、う…ん……っ。…はっ、あっ、あああ、あ…っひゃん、あっあっあっ」
戸惑いつつも更に熱くなっていく息、紅潮する頬。
潤む瞳からまた一滴、頬をつたう。
「あっ」
片乳首に強く吸い付かれて思わず仰け反る。
瞬間、視界が真っ白になって、達したのを感じた。
「イったな?じゃ終わり」
セレスがぐったりしたのを確認すると、エルドは以前の執拗さが嘘のように、簡単に手放した。
脚をそっと閉じられる。まるで生娘に行うような交わりは終わった。
無事に事が済んで安堵する。
とても慎重だった。出し入れするだけ。確かに大したことではない。
激しさは欠片もなかった。エルドが傷ついた女に対し優しくしてくれたのはとてもよくわかった。
が、記憶はそれを超えられない。セレスの顔面は火照っているのに青ざめていて、非常におかしな色をしていた。
「どうだった?」
と問われたので、
「気持ち悪い……」
と素直に返した。
「へえへえ。所詮下賎の輩じゃ何やってもお姫様のお気に召しませんか」
男が卑屈に不貞腐れたので、そういうわけじゃないと否定しようとした時だった。
「う……っ」
「おい」
ぎょっとして固まるエルドを尻目に、吐き気を押さえきれずセレスは寝室を飛び出した。
階段を駆け下り、放置してあった水汲み用の桶を引っ掴む。
吐瀉物とともに、有無をいわさず生理的な涙があふれる。
悪寒と震えが止まらない。むしろ凶暴に強まる。暴発して嗤い出しそうな自分を必死で抱き締めて言い聞かす。
「大丈夫…大丈夫…大丈夫…大丈夫…大丈夫…大丈夫…大丈夫…大丈夫…大丈夫…………」
呪文のように繰り返す。背後から小さな舌打ちが聞こえた。
早く元に戻りたいだけだった。
早く這い上がりたいだけだった。
だが、傷の癒えていない心と体では、何もかもが早すぎた。
再度の情交は癒えかけの心傷をさらに深く抉っていった。
セレスは己の人としての価値をすっかり見失っていた。
自分を大切にするという意味さえ霧中に迷わせてしまう。
散りばめられた星屑の下。
セレスは上着を脱ぎ捨てて素肌を晒し、下着一枚という大胆な格好で男の首に手を回す。
双球が柔らかに押し当てられてもエルドは無表情だった。
この女らしからぬ異常を言動に感じているからだろう。
「しましょ」
「俺は全然構わねえが」
誘うような仕草をしていてもガタガタと震える肌は負った傷の大きさを伝えてくる。
「いいの。……早く、慣れたいの」
あんな一ヶ月は大したことじゃなかった。一刻でも早くそういうことにしたい。
寝かされて首筋に口付けられる。
男は静かに、やっと眉にかかりそうな程度に伸びた紅色の短髪を撫で付けた。
「ほんと、何でこんなことになっちまったんだか」
同情雑じりの言い方にぴくりと苛立つ。
「他人事ね。まるで自分には何も関係なかったとでも言いたげじゃない」
「そんなつもりじゃ」
「あなたは…女が死にそうになる事を遊びでする人だものね」
「やめろよ」
死神の表情に一瞬で青筋が走った。
一気に死の匂いを漂わせ睨めつけてくる暗殺者の視線。
有無をいわさぬ気迫に押され、セレスの恨み言は喉の奥で萎れるしかなかった。
「…何よ。気に入らないことがあるとそうやって威圧で黙らせるくせに」
「喧嘩なんざしたくねえんだよ」
舌打ちしてから、気まずい空気を保ったまま行為は始まった。
全身を丁寧に愛撫されしっかりと濡らされて準備を整えられた後、静かに、ゆっくりと挿入された。
男のそれの感覚。思わず強張り抗いたくなる己を必死で制止する。
それに気付いたエルドが汗の浮かぶ額を撫でてきた。
「動くな。ちゃんと優しくしてやるから」
…優しく?
……………ちゃんと?
言葉通り、気遣いがわかる律動の波を感じる。
けれども。
――――――馬鹿じゃないの。
「ううっ、…」
女は反抗するように、ぎこちなくも乱雑に腰を振った。驚いたのはエルドである。
「おい何してやがんだ」
「そんなんじゃ全然足りないわよ。もっと激しくしてよ貴方らしくもない」
「何言って…」
もうどうしようもない。
内側からざわざわする。
優しくしてくれているのはわかっている。
けれど、どうしても、どうしても許せない。
「いつも通り嘘をついて!押さえ付けて!逃げられなくして絶望させて、淫乱だって言えばいいじゃないっ!!」
交わる度にセレスの何もかもが狂気をはらんでいく。
「今更優しくなんてしてくれたって…!」
辻褄が合わないのは理解しつつも、しかし止まらない。怒りも、悔しさも、涙も。
「もう…遅いのよ…っ!!」
この世に深淵があるとしたらこんな感じだろうか。
暗い部屋でぼうっと天井をながめている。
力無く横たわる女体の上には男が一人。
一言ねだれば律儀に応じて覆い被さっている。感情は読めない。ただ優しく抱いてくれる。
――――堕ちるところまで堕ちた。そう思う。
エルドもそろそろこんな病的な女に付き合うのも耐え兼ねるレベルだろう。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
覚えていないし、調べる気にもなれない。
傷ついた肌を舌が這う。
あれからずっと、どんなにセレスが荒れても八つ当たりしてもエルドは何も言わず、ずっと優しい褥を提供してくれた。
意外だった。絶対に逆ギレすると思っていた。どうやら本当に心底から反省しているようだ。
種を蒔いた張本人とはいえこの男にしては本当に頑張ってくれた方だと認めざるを得ない。
潮時だな。そろそろ解放してあげよう。
そんなことをうっすらと考えていたら、体重減によりまた薄くなり始めた胸を揉み込む手が止まった。
「あのよ」
きた。
次の言葉で別れを請うてくる。
そろそろ勘弁してくれ、かな。いい加減にしろ、とかかな。
何でもいい。わかったわと言おう。
構えるセレスの耳に予想外の一言が落ちる。
「無表情のまま泣くのやめてくんねえか」
「……」
言われて初めて気付く。まなじりから数滴の雫が流れていた。
けれどそれが何だと言うのだ。
目をこすりながら皮肉混じりに吐き捨てる。
「正直に気色悪いって言えば?」
そうしたいわけではないのだが、口から吐き出される返答は何もかもが刺々しかった。
痛々しい女をずっと見つめていたエルドがぼそ、と呟く。
「つらいならちゃんと泣けば良かったのに」
小さな一言だったが、それはセレスにとっては危険すぎる火種だった。
「…なに?」
「ちゃんと泣かないから、まだ余裕があるのかと思ってた」
何を言い出すのか。
「何よそれ。余裕があったら三週間もあんなことしていいっていいの?」
「違うけどよ」
「ちゃんと泣けばって一体どういうことよ。ちゃんと泣かなかった私の方が悪いって言うの」
「そうは言って―――――」
苛立ちは増すばかりだった。むくりと起き上がってエルドを邪険に押し退ける。
「泣けないわよ。泣けなかったわよ。泣いたらさらに付け込んでくるんでしょ?貴方って人は」
「んなことするかよ…」
うんざり顔で視線を逸らせる。それがまた腹立たしかった。
「それにお前、逃げ出したりもしなかったし」
「逃げたらもっと酷いことするって脅したじゃないっ!!」
「そりゃ言ったがよ」
どんより重苦しいのに一触即発の張り詰めた空気が更に濃度を増す。
「言ったが、何よ!」
「俺達一応は仲間だろ。…脅したって、んな度を超えたひでーことなんかするかよ。するわけねえじゃん。
…そんなことくらい言わなくてもわかってくれてると思ってた」
目の前で疲労の滲む大きな溜め息をつかれた。
呆れられている。
あまりに勝手な言い分だとは思いつつ、何故か情けなさがこみ上げてきて身の置き場がない。
「何…よ。馬鹿……っ」
あまりの惨めさを受け止めきれず、女は震えながら咽び泣いた。
やっと回復を始めたはずの身体はまた少しずつ痩せ衰え初めている。
少し経ってから死神からぽつりと意外な言葉が呟かれた。
「反省はしてねえけどすげー後悔してる」
「何よそれ…」
「夢中だった」
「夢中って」
「だから。お前のことは以前から気に入ってたし。手に入れて浮かれてた」
「何…言ってるの」
「だから…」
察しの悪い女。平常心も欠いている。エルドは率直な言葉を告げようとした。
「俺はずっとお前のことが」
「つまらないお芝居はやめてよ!!あれ程拒絶してたのを気付かないわけないわっ!!」
薄汚れた告白など最後まで聞くのも馬鹿らしい。セレスは感情のまま怒鳴り声を飛ばした。
「本当に好きだって言ってくれるのなら、私ずっと嫌だって言ってたのにどうしてやめてくれなかったの!?」
「…そのうち、よくなるかと。大切に抱いてたし」
たどたどしくも偽り無い答えを差し出す。律儀とも言えたが、セレスには過酷なだけの音の束でしかなかった。
強姦で感じる淫乱のくせにと言われた気がした。
萎れる女から止め処なく涙があふれる。
「私…あなたの背中に腕を回したこと一度だってない…頬を撫でたことも一度だって…、寝台の上で笑ったこともないのに。
いつも泣いて、やめてって言ってたじゃない。嫌がってるのわからないわけないじゃない」
もういくら頑張っても脳裏から剥がれ落ちない。
夜の闇に行き着く度、受け入れ難い激しい羞恥に苛まれた。
宿屋に宿泊する日など最悪だった。
聞かれたくないのに止まらない喘ぎ声。余所余所しい宿主。他客からの汚物を蔑む視線。にやつきながら口笛を吹く男達――――
あの生き地獄に悪意が無かったなんて有り得るものか。
だがエルドはそれでも更に得手勝手を並べた。
「それはそうだけど。…毎回結構感じてたし。そのうち素直になるかと」
「素…直、って……」
返答にひたすら萎えると共に、あの密偵の少女のことを思い出していた。
性奴隷にでも仕込み上げるつもりだったのか。彼女と同様に人間としてすら扱われていなかったとは。
嗤いの滲む口元をさらに歪め、傷負いの女は加害者への失望を口にした。
「…ほんとに、道具なのね。あなたにとっての女って」
「違う。少なくともお前は違う」
「嘘つき」
「嘘じゃねえよ。本当に嫌だったらもっと暴れると思ってたんだ」
エルドは真剣になると言葉の選び方が上手くない。
「まさか斬鉄姫ともあろう女がただ耐えてるだけなんて思わなかった」
セレスの全てが硬直する。
その本音を吐露してしまうのは失言にも程があった。
ああやはりこの男は、私を壊れにくい玩具としか見てくれていなかったのだ。
どこまで人間離れした屈強な女だと思われていたのだろうと、どん底だと思っていた所よりもっと下まで突き落とされた。
「どうやったら……どうやったらそんな解釈ができるのっ!?
どうして!貴方はっ!!どうして…
……どうして…私は必死で耐えて震えてたのに、何で貴方は笑っているの…………」
「だから、」
勢い任せに包帯まみれの顔を上げたが、切れかけているセレスに反論はまずいと悟ったのか、そのまま力無くゆるゆると俯いた。
「……ごめん」
呟くと、それきりただでさえ小さめの身体を丸め、ちんまりしてしまった。
この男が心からの謝罪を口にする、それが滅多に無い、重みのあることなのはセレスにもわかっていた。
けれど。
ずるい。
いつもと全然違う。
その容姿で、そんな風に叱られた子供のようになってしまわれたら、こちらは怒りのやり場がない。
「やめてよ。謝ってもらって何か変わるの。謝るくらいなら最初からしないで」
心からの謝罪を受けてもどうしても許せなかった。最早支離滅裂である。
そして息切れる喉からついに本心を音にして吐いた。
「嫌い…大っ嫌い……」
絞り出すような声を耳に受けても無表情のままエルドは嗤う。
「んなこた知ってるよ」
それは落ち着いて聞いたなら、とても悲しい気持ちを反映した一言だった。
だが今のセレスにはその傷だらけの自嘲もそうとは聞こえなかった。
セレスの中に張ってあった最後の一線がぶっつりと切れた。
咄嗟に腕が勝手に拳を作り速度を上げて空を切る。
頬を殴った。
男の体が衝撃でどさりとシーツの上に投げ出される。
狂気と苛立ちがにやつきながらセレスに問いかける。
一発だけ?
まさか。
――――まさか!
「知ってるならっ!!」
圧し掛かり、馬乗り状態のまま力の限り殴り続ける。
「何で!!!何でええええぇえっ!!!!」
悲鳴に近い金切り声が空間を劈く。
血走った目は既に正常からかけ離れていた。
目の前にある憎たらしいサンドバックを問答無用で打ち続ける。
奇声と鮮血が交互に舞った。
不意に視界の端にあるナイフが目に入った。躊躇いもせず掴み取り、柄を握り締める。
初めて犯された夜。そうだ、あの時もナイフを手にするチャンスがあったのに無様に逃してしまった。
あの時躊躇ったからこんな目に遭ったんだ。
そうだイージスの言う通りだ。生かしておいても何の意味もない男。それどころかそこら中に悪意を飛散させる男。
そう。いっそ殺した方が!!
ナイフが頭上に振りかざされ、勢いのまま落下しようとした時だった。
血まみれ男は何の抵抗もせず空を仰いでいたが、死を前にして、一言だけぽつりと呟いた。
「じゃあな」
冷たすぎる別れの挨拶は逆にセレスを冷静にさせ、融点まで引き戻した。
我にかえると状況を理解するのに数秒を要す。
「あ…」
呆然としていると、乱暴に押し退けられる。
「…ったく」
突風のような暴行劇は終わった。
血反吐を吐いて口を拭うが、後から後から溢れてくるのでまったく拭えていない。
突然の暴行に怒りと青筋の浮かびまくる横顔。
殺意をぎっちりと濃縮した視線にギョロリと射抜かれてセレスの心臓が止まる。
が、
「――…馬鹿力」
とだけ呟いて、反撃など何もせず、血まみれの死神は視線を逸らしただけだった。
女の全身に震えが襲ってくる。
血まみれの手が痛い。
吐き気がする。
謝罪が喉まで出かかったが、自分を強姦し続けた男にそんな必要があるのか判断しかねて言葉にはならなかった。
それでも折れた歯を鮮血と共に吐き出すエルドを目の当たりにすると罪悪感が迸る。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「ごめ、な、さ」
ただ理解できるのは、自分がもう人として駄目だということ。
狂ってる――――この男も、私も……。
「うっ、うう…っ」
イージスが助けにきてくれたあの時の、あふれ出る安堵とはまったく違う。
本当の絶望を感じる。
声を殺して泣く女と血を拭う男。用無しのナイフだけが床の上で月明かりを反射していた。
嵐の後はいつも、とてもとても静かだった。
慣れない暗闇の只中。セレスの全ては疲弊の極みに達していた。
光一筋さえ射さない濃暗の空間。実妹に敗北後の二年間でさえ到達し得なかった世界。
エルドはこんな世界で生きて平然としている。もう人間としての根本的な性質が全く異なる。
こんな男と渡り合おうなんて本当に甘かった。
無言で俯いたまま何も語らないセレスを淀んだ片目が映している。
彼女に制裁を喰らった男はやれやれといった風にため息をついた。
「別に俺はそんなダメージも受けてねえから落ち込むなよ」
声は平素と変わらないが、外見はとてもそうは見えない為にギャップが激しい。
セレスが泣きながら半狂乱で巻き上げた包帯が逆に痛々しさを煽る。
「闇は俺の世界だからな」
口元に薄ら笑いを浮かべる余裕がある程落ち着いている。その姿はまさに死神だった。
そっと触れるとそっと手を重ねてくる。
「痛い、わよね」
「いてえけど」
「けど?」
「慣れてる」
「……」
手を引っ込めるとセレスは先日、宿屋の女主人から何気なくもらっていた情報を提供した。
「今、宿に回復魔法が得手な魔術師が宿泊してるって聞いているわ。呼んでくる。さし歯、とかも入り用、でしょ」
この年だからまず永久歯だろう。美形が取り得の一つでもある男。取り返しのつかないことをしてしまった。
だがエルドは彼女の後悔の念をあっさり踏み躙る。
「いらねえよ。ここまでボコる程憎い男だ。ずっと怪我癒えない方がざまぁって思えるんだろ?」
「…」
嬉しくない。ぜんぜん嬉しくない。
嫌味にしか聞こえない台詞を受けてもセレスはかぶりを振るしかできなかった。
「気は晴れたか?」
「……晴れるわけ、ない」
「そりゃねえだろ…」
流石にがっくりとうな垂れるエルドに、暴力を振るったことでやっと悟った事実を伝える。
「あなたを傷つけても私は元には戻れない」
もうこの闇から這い上がるのは無理だとしか思えなかった。
「最初に乱暴された夜に見切りをつけるべきだった。普通に交わることで上塗りしようとしたって消せるわけなかったわ。
…本当に、無様」
「こっちは乱暴したつもりはねえんだがな」
「…まだそんなこと言うのね」
口元が勝手に歪む。嘲笑するしかない発言ばかりだった。
「あなただってもうキレそうなんでしょ」
「別に」
「だから、同じことしていいわ」
状況や理由はどうあれ暴力は暴力だ。
もう謝罪する気にはなれない。だから報復を受ける覚悟をした。
既に歯を食いしばる気力もない。何もかも投げやりな身体を差し出す。
この陰湿な男のことだ、『同じこと』ではおさまらないのは覚悟していた。
想定する最悪の状況を更に上回る仕打ちを覚悟して目を閉じる。
目玉も潰されるだろう。
「片目は残しておいてね。歩けないのは困る」
「…んなことしねえってば」
舌打ちの後、血の乾きゆく指先でそっと頬に触れられた。
「じゃあ何してもいいんだな?」
「拒否してもするんでしょう」
数秒後、寸前で少々躊躇ってから、そっと唇を重ねられた。
その柔らかい感触に女は顔を顰める。
同時に、それはそうか、と他人事のように思った。女を傷つけられる方法といえばまずこれだろうから。
拒み続けていたのでキスはずいぶんと久しぶりだった。何度か啄ばんでから舌と共に唾液が混ざる。
今回も嵐の夜に無理やりされたキスと同じように血の味がした。
この後は舌を噛み千切られるか、シーツを押し込められて窒息させられるか。それとも―――
悪い最期を巡らせて震えるセレスを察してか、血塗れた銀糸が躊躇いがちにつうと引く。
「ひでえことは絶対にしねえって何度言やいいんだよ」
途方に暮れたような、そんなため息がセレスの耳を障っていった。
「…髪を撫でていいか?」
「いちいち訊かなくていいわ」
短髪を指で梳き、優しく撫でた後、女体をするりと両腕で巻いて抱き締める。女の口元が嫌悪で歪んだ。
「最期まで辱めないと気が済まない?」
「違う。ただ……ただ、…大切だから。だから抱き締めたいんだ」
信じようのない穢れた愛の言葉。それを嘲笑う女の声もだんだん掠れていった。
「何で抱き締めてんのに消えちまいそうなんだよ…」
切なくほろ苦い煩悶がエルドの口から小さく投げ出された後は、長い間ただただ抱き締められていた。
静かだった。
微かな体温。
冷たい抱擁。
ぽたり、ぽたり落ちる鮮血。
最初にこんな風に優しく抱き締めてもらえていたら、血など関係ない世界で笑い合えていたのだろうか。
セレスは戦友でもあるこの弓闘士との間に、最早修復不可能な亀裂を感じていた。
「…昔はもっとあなたのこと身近に感じてた。今は、こんなに近いのに、すごく遠い」
本音が囁きとなって力鳴く零れた。
数分後。
「…あ……」
ゆっくり体重をかけられ横たえられたことで体が硬直し、小さな怯え声が漏れる。
本当にするんだ、と確信して心臓が波打った。今回ばかりは本気で何をされるかわからない。
だが死に行く身だとしても怯えを二度と悟られたくなくて、強めの語調で吐き捨てた。
「…中で出していいわよ」
と。
「何で。ガキでも出来たら困るのはお前だろ」
「関係ないでしょ。今更余計な気遣いは無用よ」
荒ぶるセレスに憮然としたままエルドが指摘を返す。
「ずいぶん死にたがりになりやがったもんだな」
この行為を終えた後にセレスが自身をどう扱うか、死神にはしっかりと読まれていた。
「自分の始末はつける。無抵抗でこうべを垂れている相手を殴打した。私はもうとっくに終わってるわ」
「だから俺は別に構わねえって」
「もういいの。もう、疲れた……」
エルドの台詞に被さるようにして、潤み声が生きることを否定した。
「安心してよ化けて出たりなんてしないから。こっちだってあなたの顔を見るのはもうたくさん」
「セレス」
「あなたは本当に死神よね。命を弄んで嬲り殺すまで嗤ってるものね」
会話など成立させる気すらなかった。ただ一人投げやりに恨み言を垂れ流す。
「これはあの人から逃げ出した時に決まってしまっていたこと。もう仕方ないのよ」
そして陥った惨状を無理矢理に結論付けた。
イージスの予言通りになってしまった。
自分は無様にこのまま死んで、この悪魔を野に放ってしまう。死を覚悟した女にはそれだけが気がかりだった。
震える手で男の腕を掴む。
「…ねえ。何でも言うことを聞いてくれるんでしょう。だったら今度は、…これからはできるだけ、殺さない生き方をしてよ」
言うだけ無駄な気もしたが、気力を失い横たわる今のセレスにはそうする他なかった。
「それから、イージスには何もしないでね」
エルドの眉間が更なる皺で刻まれる。
「おいこんな時まであの水死体かよ。あれはお前を見捨ててディパンに行っちまったんだぜ?」
「それが何よ。私みたいなどうしようもない女より未来ある子供たちを優先するのは当然だわ」
噛み付くような反撃にエルドはあっさりと押されて閉口した。
「それから。…あの人に会うことがあったら、この無様な二回目の人生を伝えて。きっと喜んでくれるから……」
彼のことを想うとどうしても悲しくなってしまうのをぐっと堪える。
「もう数ヶ月過ぎたわ。私が行き着く場所なんてどう考えてもここだけよ。なのに。
…来て、もらえなかった。本当にその程度の存在だったのよね、あの人にとっては」
切ない苦笑が漏れる。
こんなに後悔するなら告白してしまえば良かった。ただ拒絶されて傷つくのが怖かった、それだけの為にしなかった。
生涯の後悔につながる大事を察せなかったなどとは、なんと愚かなのだろうか。
セレスが並べた願い事に良い返答は一つとして戻ってこなかった。
そうだろうなとも思う。セレスは無力感でさらに精彩を失った。
沈黙が訪れる。虚ろな目で窓の外に目をやる。
「星、きれいね。数百年前に一緒に見た星空と同じ」
生前のセレスが選んだ道は真っ直ぐなようでいて見事にひずんでいた。
写本という強大な力の下に集った仲間。そして実妹により暴かれる写本の正体。愚かなロゼッタ劇場の終焉―――
重いため息のあと、
「星は同じだけど、私達は変わってしまったわね」
胸に広がりゆく空虚を口にした。
「セレス話を聞」
「もういいわ。だって貴方が何をいったところで、私が応じさえしなければ防げたことだもの」
相手の言い分など何も聞く気はなかった。
「あなたの言うとおりよ。好きな男がいるのに他の男の手をとったわ。自業自得よ。だから、もういいわ」
もう終わりが近いせいか後悔ばかりが込み上げ、行き場なく漂う。
「…私は誠実じゃなかった。だから、もう……」
エルドはしばらく弱々しい女の独白に眉根を寄せているだけだったが、
「一つ、訊かせろ。何故俺の手をとった」
と訊ねてきた。
「嬉しかったから…」
「嘘つけ」
即時の否定にむっとして睨み上げる。
「ここまできて嘘なんかつかないわ。あの時、みんな笑顔で行ってしまった。お門違いも甚だしいけれど寂しかったわ。
そんな中で貴方だけが手を差し延べてくれた。私は本当に嬉しかった」
「嬉しかったなら、なんで」
「普通に時間をかけて関係を築いていってくれるものだと思っていたのよ。
だから、私なんかを好きになってくれる人がいたのなら、応えなきゃ、信じなきゃって手をとった。
でも貴方は簡単に裏切ってくれた。…結果このザマじゃない」
「じゃ何だ?ちゃんと時間かけて口説き落としてりゃこんな悲惨な状況にはならなかったとでも言うのか?」
「他に何があるの?」
強い口調の疑問詞はほぼ断言だった。
エルドに纏わりつく苛立たしげな気配が不発のままゆるゆると萎んでいく。
「そんなこと…今更言われたってよ……」
煮え切らない口調に苛々した。ああもう、今更何なのだろうこの男は。
「とにかく。あなたは、こんなことしなくても女の子の方からいくらだって寄ってくる人なんだから。もう、しないで。
私みたいな女を騙さなくても十分第二の人生を謳歌できるでしょう」
念を押してもどんな言葉を連ねても、やはりこの弓闘士には無駄な気がして、至極虚しかった。
こういう男は女をものにすること自体が目的ではない。陥れて征服感を得ることに意味を感じているのだ。
「…言ったこと全部守ってくれるのなら、私のことは忘れてくれていいわよ」
やりとりに疲れ果てて潤んだ瞳を閉じる。無力を感じている女はそこまで譲歩してしまった。
「……話すことはもうないわ。じゃあ、先に冥界で待ってるわね」
言うだけ言った。もう伝えることはない。訪れる死を見通して目を閉じる。
そうやって暴力を覚悟し待っていること数分。
一向に激痛が降ってこないので薄目を開けると同時、彼女に圧し掛かる男が意外な行動に出た。
「ごめん。悪かった。反省する。頼むから許してくれ」
哀れっぽい湿り声。
頭を垂れて謝罪を連呼する姿はセレスを拍子抜けさせた。気がふれたかと疑った程だ。
だがすべてが軽薄で嘘くさい。
すっかり興が削がれたので男を押し退けて身体を起こす。
「どうしたのよもう。貴方らしくない」
「だからごめんっつってんだよ。お前がそんな状態だと、ほんとに、ヤバい」
「別にもうどうでもいいわよ。どうせ今の私ではあの人を斬れないし。…少し長く生きただけだわ」
遣る瀬無く俯く。
「おい、俺はお前の為にずっと言いなりになってたんだぞ。何で逆に悪化しちまってんだよ」
「あなたが下手糞だからでしょ」
すさんだ精神が直球で嫌味を言うが、
「…初めて言われた」
目を丸くして心底から驚かれただけだった。
騙すのが趣味のようなこの男のこと、場の空気作りも天才的だろうから、異性に拒まれたことがほとんどないのだろう。
……じゃあ、何で私は?
言動の一つ一つが癇に障る。
「下手糞もいいとこよ。ずっと不安で、怖くて、緊張ばかり強いられて、いつも気持ち悪かった。
上手な人ってもっと心も酔わせてくれるものだと思ってたわ。何よいつもくだらない下品な中傷まがいの戯言ばっかり。
下手糞。下手糞。ドヘタクソ。大嫌い」
爆発する不満はエルドに大変容赦ない痛烈なものだった。
数多の女を啼かせて築き上げられた自信に真っ向から砲弾を連射して瓦解を喰らわせる。
「……ごめん」
少々よろめきながらも倒れることは何とか回避しつつ、男は弱々しくも会話を続ける。
「…なあ、頼むから、こんなにボロクソに殴って罵ったんだし、そろそろ機嫌なおしてくれよ」
この男ときたらまだそんなことを。
機嫌をなおす、とか。
そんなレベルの話をしているんじゃないのに。怒りで拳が震える。
ここまで忌避すべき存在だとは思わなかった。
「本当に…何も聞いてくれていないのね。永遠にお別れだって言ってるのよ」
「聞いてる。だが死ぬなんて言うなよ。…なあ本当に一体どうすればいいんだよ?」
「知らないわよ。したいことがあるなら貴方らしく気の済むまで酷いことすれば?」
「しねえよ。お前のことは絶対殴らないって決めた」
さっきからずっと情けない音ばかり溢れ出している口元が、多少しっかりと言葉を連ねた。
「怒鳴ることも。悲しませることも、泣かせることもお前がかばって助けてくれた時に、絶対にしねえって決めたんだ」
普通なら感動を呼んでもいいレベルであろう誓いの言葉達。
「一体どこがよ」
だがエルドが言ったのでは速攻でツッコミが入る。
「口ばっかりね。だから貴方に期待なんて何もできないのよ」
「……お前ちょっと容赦なさ過ぎだろ」
いたたまれないのか激しくかぶりを振った。
「だから…本当に悪かったって言ってるじゃねえか。こっちだって打ちのめされてるんだ。これ以上どうすりゃいいんだよ…」
語気の弱い、情けなくか細い声。まさかこの男からこんな声を聴く日がくるとは。
ほとほと参り果てているといった感じだった。
「何度でも言う。ごめん。悪かったよ」
普段のエルドとはかけ離れた態度は、本当に本人なのかと存在すら疑うものだった。
何もかも投げ出して赦しを請う姿はどう見ても明らかに別人のもの。
きれいなエルドなど腹の底から信じ難い。
「…貴方って人はまだ何か企んでるの?こんな死にかけの女捕まえて」
嫌疑を向けると、
「違うっつってんだろ。ほんと、勘弁してくれ、何て言えばいいんだよ……」
疲労し切った顔を片手で覆う。
「お前がそんな状態だと、本気でつらい」
本心などわからない。
「お前が泣いてる方が痛いんだよ」
ただわかるのは、己が傷つけた女を前に、ものすごく一生懸命だということ。
そしてセレスは一生懸命に何かをしている人間が嫌いではない。
「くだらない冗談ね」
一蹴して嗤いつつも、その一方で死神を撥ね退ける堅固な何かが音を立てて崩れ始めていた。
「でも今となってはそんな嘘でも嬉しいわ……」
「嘘じゃねえよ」
「嘘よ」
エルドは断言に反発しようとしたが、分の悪さを感じたのか舌打ちしただけだった。
「じゃあそれでいい。嘘でいいから受け入れてくれ」
どういう屁理屈だとセレスが言葉を挟む余地はなく。
「気付くのが遅かった。俺はお前が本当に大事なんだ」
そして告げた。
「……好きなんだ」
鼻で笑いたくなる。
優しい言葉の何と浅薄で、似合わないことだろう。
けれど。
死にかけの仲間を前に、少しでも本当の意味で反省して、気遣っていてくれているのだとしたら。
生かそうと繋ぎ止めてくれているのだとしたら……
セレスの双眸に光が弱く点り、揺らいだ。
以前の彼女であったなら、自分を辱めた男の甘言もどきに弄されることなど決してなかったのだろう。
だが、襤褸切れの心で死を望む程の極限状態に置かれた彼女では、まともな判断力は一切機能していなかった。
孤独はまるで縋りつくように、何もかもを受け入れる。
「嘘ばっかりね」
ほんの少し残されていた理性が崩れ去る。
「でも、わかったわ。どんな思惑があるのか知らないけれどもう少し付き合ってみようかしら」
「本当かっ!?」
諦めかけていたエルドが子供のような仰天顔で身を乗り出してくる。
演技ではないと思うが、切り替えが早すぎる。少年の表情で目を輝かせている。
いつものあの表情。
ずるい男だ。
「どうせもう私は取り返しがつかなくなっちゃってるからね。…もうちょっとくらいは」
薄く苦笑うと、強い語調で共に在る為の条件を突きつけた。
「二度と酷いことしないで。二度と裏切らないで」
「裏切ったつもりは」
異議を唱える前に睨み上げられて、死神は渋々ながらも引き下がる。
「…わかった」
口約束は成立した。
男の言葉の中に潜むあまり良質ではない甘味が溶け出して、傷ついた彼女に染みていった結果だった。
見せかけの優しさでもいいと思った。
どんなに小さな温もりでもいいと思った。
さらに歪んでしまうのをわかっていて、震える腕を男の背中に回す。
もういい。もう何もかもどうでもいい。
何もかもを委ねて、初めてその存在を受け入れる。
少し見つめ合ってからどちらともなく接近し、唇を重ねる。
啄ばみ合ってから次第に深く交わってゆく。しばらくすると女側の震えも消えた。
「…ごめんなさい」
「もういい」
息継ぎの間の会話は少しだけ穏やかだった。
キスが長い。
血が甘い。
十分絡み合った後に赤く濁った銀糸をひいて離れる。
エルドはそのまま女の涙を舐め取ると、頬から首筋にかけて自然に唇を流していった。
「う、ん…」
包帯まみれの後頭部と項を抱く。一枚だけの衣類を脱がされながら再度寝かしつけられた。
衣擦れの音にはもう抵抗がない。
「んっ、待って……魔術師に怪我を診てもらってからにしましょうよ……」
「嫌だ。今したい」
「腹上死なんて嫌よ」
「わかった。腹上死しない」
気遣いさえ撥ね退けて、相変わらずの強引ぶりを発揮する。
男は死ぬ間際本能的に種を残したがるというが、それではないかと心配した。
けれども一秒でも早く精神的に和合したい気持ちも伝わってくる。
「優しくする。絶対に傷つけたりしねえから」
拒絶する理由も既にない。しかも言い出したら大抵止まらない性質の男。
ため息をつき、自ら抱き寄せて男を招き入れる。
「一回だけね」
呆れ顔のセレスにもう一度口付けて、包帯まみれは行為を開始した。
受け入れられた喜びが肌越しに伝わってくる。
「はあっ、あ…」
つうと流れた蜜を舐め取り、流れた跡を追いかけて舌が滑っていく。
身悶えて喘ぐことで甘く応える。
ほぐされ、十分濡らされるといつものように気遣いながら挿入ってきた。
「ん…」
律動の末に軽く達して頭の中が真っ白になった。
痩身をぎゅっと抱き締められる。
「愛してる…」
告白に、潤む瞳を閉じて失笑を漏らした。
「嘘つき」
その後は自分からたどたどしくも無我夢中で腰を振り、波を与え合った。
もう正常な精神など、己が何者であったかなど、ましてや倫理観なんて、欠片も気にしない。
べったりと赤を塗りたくられながら包帯まみれの男に抱かれる。
「ああっ、エルド………っ」
嗤い出したくなった。
気が違ってしまったんだ。
どうせ汚い。
どうせ醜い。
どうせ
あの人も来ない
だったらもう
何もかも
壊れてしまえ
迷い込んでいく――――
「はあっ…」
高波の絶頂を迎えると太ももを白濁で汚される。
甘美な痙攣が緩やかに鎮まる頃、ぐったりと果てた身体をやっと離された。
髪と頬に落ちる後戯のキスは柔らかい。
「…約束、守ってね?」
「ああ」
抱き合う。
堕ちて少しだけ、わだかまりが溶けた気がした。
最後に軽く啄ばみ合って行為を終える。
まだまだいちゃつき足りないらしいエルドを押し退けて衣類を身につけ、慌てて屋外に飛び出した。
宿屋に駆け込むと、女主人の紹介を受けて一人の魔術師が現れる。
その若者が医療関係に精通した魔術師だったのはセレスにとって幸運だった。
連れて帰路を駆け戻る。
若者がエルドを診ている間、ずっと怯えていた。傷は癒えるのだろうか。障害が残ったりしないだろうか――――
数分後、罪悪感に震えるセレスに投げかけられたのは、「大丈夫。傷も残りませんよ」という優しい微笑みだった。
急激な安堵で力が抜け、その場にへたり込む。
「良かった…」
そうして小一時間も経たないうちに、何もなかったというぐらいに、エルドはすっかり全快した。
当のエルドはどうでもよさそうに残りの包帯を外し始める。
性格にそぐわない大きな瞳と幼い顔立ちには確かに痕が残っていなかった。
無表情でいても陰湿で影のかかる顔。
これさえなければそれこそ年の割りにお人形のような男。
やせ我慢をして強がっているのかもと思っていたが、本当にあっけらかんとしている。
この男は精神的な衝撃や肉体的な暴力にとても強いのだ。それを再認識させられる。
過酷な状況下というものに本当に慣れているのだろう。多分、暗殺術を身につけるずっと以前から。
鈍い痛覚。
心さえも痛みに鈍感な仕様でなければ生きてこれなかったのかもしれない。
同情はするが、肉体的な快楽に心までついてくるなどと本当に思っていたのだろうか。
付き合わされるこちらはたまったものではない。
「本当に良かったわ」
気を取り直して隣りに座り、心底からの安堵を伝えると、
「見れるツラに戻ったか?」
変わらぬ挑発的な態度で迫ってくる。
先程までの弱気は何処へやら。その上あんな目に遭ったのにまったくめげていない。半ば呆れて手のひらで押し返した。
「貴方が美形なのは認めるところだからね。流石に安心したわよ」
生前は顔も大事な商売道具の一つだったのだろう。これからだってそうだ。
いつだかはわからないが、自分と別れた後で必要になるだろうから。
いつだかは、わからないが。
「マジで別に治さなくてもよかったのに」
面白くなさそうに半目で不貞腐れる。
「もう何言ってるのよ。傷を残してメリットなんてないでしょ?」
「あるさ。ちょっとばかり顔面変形でもすりゃ罪悪感が鎖になってお前を縛れる」
心底から呆れ返るしかない言い草。そんなことを考えていたのか。
「馬鹿なことばかり言ってないで」
注意をにやつきではぐらかされ、隙を縫って口付けられた。不意を突く甘い啄ばみに心臓が跳ねる。
好きな女に心を許されたためかエルドは少々浮かれているようだ。
これは和解と言えるのだろうか。腑に落ちないが今はあまり深く考えたくなかった。
「もうっ!やめてよ人の前で!」
慌てて押し退けて立ち上がり、
「ご、ごめんなさい」
一人放置してしまった物腰柔らかな魔術師に詫びた。
「構いませんよ」
真っ直ぐな目をして柔らかな微笑を湛える年若い青年だった。
ほんの少し、姪が熱をあげている吟遊詩人に似ている。
「おい、この女の方は本当にどうにもならねえのか」
エルドが唐突に割って入り話を変えてきた。この男は恩人に敬意を表す気すらない。
エルド受診後、彼の強い希望でセレスも傷痕の診察を受けていた。その答えを急いているのだ。
ダン!!とテーブルを叩きつける。
おもむろに拳を退けたその後には、数個のきらめく石が残されていた。
「冗談抜きでいくらでも出すぞ」
「エルド……」
「お役に立ちたいのは山々なのですが」
魔術師の面持ちが翳った。
「どうしようもありません。時間が経過しすぎてしまっています。後は自然治癒に任せるしかないでしょうね」
「ケッ。何だよ役に立たねえな」
吐き捨てると大してがっかりした様子も見せず、舌打ちして背を向けた。
藁にも縋る思いだったのだろうが、本当は答えなど最初からわかっていたのだろう。
ああもう、と軽く苛立ちながらもセレスは魔術師に向き直る。
「重ね重ねごめんなさい。どうか気にしないでください。彼はちょっと気が立ってて。本当に感謝してるのよ」
寛容な青年は、特に気にも留めていない様子のまま微笑んだ。
「ええそうですよね。今、大変ですものね。ディパンは本当にどうなっているのでしょう」
そして最後の言葉で微笑みを消した。
途端、セレスは真っ白になった。
海の向こうで奮闘しているだろうイージス達をすっかり忘れていたのだ。
魔術師の言葉から察すると未だに戻ってきていないのだろう。
心底から恥じて赤くなり、直後に真っ青になる。
そんなセレスに魔術師が問いかけてきた。
「貴女はディパンに渡らないのですか?」
「えっ」
「戦士なんでしょう?立ち振る舞いでわかります」
ばれている。
だがここしばらく己の無力を実感していたので、戦士の面影を見出されたことは少し嬉しかった。
「実は僕達も今更ながら増援に向かうんですよ。仲間の一人がディパンの出身でして。
もしこれからディパンに向かわれるのであれば、宜しければ僕達とご一緒しませんか?」
願ってもない申し出だった。
本当はこの好機に飛びつきたい。イージスの元にすぐにでも駆けつけ役立ちたい。
「気持ちはありがたいのだけれど……」
が、身体は衰弱したきりで、戦士としての機能がまったく期待できない。
でも心身ともにすっきりして持ち直した今なら気力で何とかならないだろうか――――
どう考えても無理なのについ思案している隙に、蚊帳の外にしておいたエルドが報復を画策していた。
いつの間にか背後に忍び寄られ、項に口付けられて思わず悲鳴をあげる。
「さっきの続きするぞ」
「ちょっ」
「世話になった」
女の腰を抱き、最早邪魔者でしかない魔術師には無理やり宝石とオースを押し付けて冷笑する。
余計な詮索をするな。とっとと出て行け。
という言葉の代わりにしか受け取れない行動だった。
度を過ぎる無礼を慌てて取り繕おうとしたセレスの口が塞がれる。
魔術師はやれやれといった苦笑を灯して戸外に出て行き、気を遣って静かに扉を閉めた。
多分、少し変わってはいるが普通の恋人同士だと判断したのだろう。
食糧が底をついた。
お腹を空かせているとエルドが木の実を採ってきた。
旬の果実が大小様々ごろごろころころとテーブルに放り出される。
熟れた果肉の甘い芳香が嗅覚をくすぐる。
一つとって軽く拭き口に運ぶと爽やかな甘酸っぱさが広がった。
甘い。蜜がたっぷり入っている。
しゃりしゃりと良い音を立てるセレスの姿にエルドから安堵の嘆息が漏れる。
「やっと食った」
「何よ」
「今まで俺が何を持ってきても食わなかったじゃねえか」
むっとする。
「…食べなかったんじゃないわ。食べられなかったのよ」
逃げられないという絶望に満たされて食欲など欠片もわかなかった。
思い出すと表情が硬く、暗くなる。
「勿体無いなら持ってこないでって言いたかったけど、また怒鳴られそうだったし」
「あーわかったわかったもういい」
会話をぶつ切ると、墓穴を掘ったことに不貞腐れて赤い実に向け大口を開けた。
しゃく、と小気味良い音とともに果実を頬張る男を見つめる。
小柄で女顔をした男だ。髪型も女のようなのに、どこか野生的で、性別的にはちゃんと男をしている。
今セレスはこの生前からの知人である男の、女を誑かした優雅な戦歴にまんまと加わろうとしている。
星の数の一人になろうとしているのを感じ、微かな抵抗を感じた。
こんな甘たるいことをしていても、飽きたら急に冷たくなって、とっとといなくなるのだろう。
関係に先のある男ではない。
そんな男に引っかかり、今もこうして寄りかかっている。
不安が過ぎったが頭を軽く振ってかき消す。
たとえ自分を陥れた相手だとしても、後悔し、今の自分を支えてくれているのは紛う事なき真実。
今はもうこんな自分のそばにいてくれるなんて奇特な人間など、この男しかいないのだ。
そんな葛藤も知らずにエルドは肩を抱いてくる。
「そっちも少し分けてくれ」
かじっていない箇所を差し出す前に、唇をぺろりと舐められる。
濃厚な赤い実の味と混じる。
眉根をよせつつも、さらに深く交わってきても拒絶はしなかった。
旅立ってから一ヵ月ほどでイージスが戻ってきた。
出掛けた時とは違い、集団の真ん中にいる。というか追いやられている。
助けに行った子供達は全員無事らしかった。イージスの両脇にて満面笑顔でじゃれついている姿に安堵する。
胡散臭そうに彼を見ていたゾルデ住民達の態度は一変していた。まるで取り巻きのようにすら見えた。
中心にいるイージスだけがその大量の親愛の情に応えて作り笑いを四方に飛ばしつつ、困った顔をしていた。
表立ってちやほやされるのは苦手な英雄。だが今回は能ある鷹は爪を隠す、というわけにはいかなかったようだ。
どうやら彼中心に計画が組まれ物事が進み、成果を収めたのだろう。
そんなイージスがセレスの家にやってきた。
「おかえりなさい兄さん」
「ああ、ただいま」
疲れた顔に微笑を湛える。
一躍英雄へと転身した魔術師は少し痩せていた。
茶で一息つくと、徘徊する不死者や魔物といった輩が急増した悲惨なディパンの現状や、
今回の件に関しては建物・備品の損壊等の他は被害の拡大防止を図れたこと等を、丁寧に報告してきた。
「結局最初のあれは何だったの?」
「わかんねえ。その場にいたらしき数人はみんな死んじまってたし。でも多分」
納得いかない、といった顔で廃都を睨む。
「地下のなんかが、出てきちまったんじゃないかな」
セレスも怪訝な顔になった。
ディパンが崩壊し、王呼の秘法が発動した後。
あれからあの邪悪な魔術師二人も、そして望まぬゾンビパウダーで壊れてしまったのであろうアリーシャの幼馴染も、
何もせずに野放しだ。
彼等を考慮しないとしても、あの地下には不気味な実験体が大量に放置されている。
奇妙に光る水槽の中で蠢く異形達がまざまざと思い出された。
神妙な面持ちを続けていたセレスに、突然話題の切り替えが襲ってくる。
「それはそうと――――死体どうした?ちゃんと始末できたか?」
まるで妹にお片付けができたか、と問う兄のように、こそこそと耳打ちしてくる。
殺害を完遂したと当然のように思っているようだ。
「あ、あのね…」
セレスが顔を上げ、説得を開始しようと意を決した時。
「悪かったなちゃんと腐乱死体になってなくてよ」
彼女の声に被さって、家の奥から勝ち誇った声が這い出てきた。
イージスが目を見開き硬直する。
多分イージスが今最も生きていてほしくない弓闘士が、全快の上に余裕綽々などという最悪な姿で闇から現れた。
「おっと」
元ディパン兵士が反射的に元王女を庇おうとしたが、悪者の方が一瞬早かった。
ぐいと引っ張られたセレスがエルドの腕の中に収まる。
「おいおい勝手にきったねえ手でさわんじゃねえよ。人の女に」
強調された最後の言葉に、イージスの眉間の皺が深く刻まれる。
「お前何を……」
「見ての通りだ。正式に俺のお姫様になったんだからよ」
セレスを掴めなかった手が伸ばされたまま硬直している。
「セレス…」
イージスには信じられないといった表情が張り付いていた。
「エ…エルドッ!」
すっかり勢いを殺がれてしまい、イージスの視線に言いつけを守らなかった時の実兄を思い出し、目を逸らしてしまう。
「そういうこった」
魔術師の胸中を見透かした残酷な肯定が叩きつけられる。
「もう!奥にいてって言ったじゃない。ややこしくなるのよ」
「いいじゃねえかお姫様。一緒にいてえんだよ」
イージスの後悔を煽るためだろう、これみよがしにべたべたと抱きついてくる。
兄代わりの男は即時厳しい表情に戻ったが、流れを読んでいたエルドの方が先制した。
「勘違いしてんじゃねーよ糞髭野郎。なんかほざける立場だとでも思ってんのか?
わきまえろ。テメエはこいつを見捨ててあの廃都にのこのこ出向いていっちまったんだぜ」
押し戻そうとするセレスを強引に抱き寄せ、その白い首筋に顔を寄せながら嘲笑う。
「不安定になってるこいつのそばにいてやるより見ず知らずのバカどもの英雄になる方をとったんだろ?
まあそりゃそうだよな。テメエは余生をこの死地でこそこそ生きてくんだ。他の連中に力の程をみせとかねえとな」
軽蔑の視線がお互いに容赦なく注がれる。
「斬鉄姫なんて二つ名で買い被りすぎたな。こいつ結構要領悪りいだけのただの女だぞ」
「ちょっとどういう意味よ」
手中の女から反発を受けながらも魔術師への嘲りは絶やさない。
「手前の煽りも入れ知恵もなしでこいつに俺が殺せるかよ」
凶悪な形相を隠そうともせずある意味での真実を口にした。
「セレス、そいつは」
「みんな手前のせいだ」
「エルド!」
「何だよお前だって言ってたじゃねえか。あいつは死にかけの自分なんかより子供達をとったんだって」
「ちょ…っ!馬鹿っ!!」
セレスの口から咎めの声が上がるのと、イージスの表情が凍り付いたのが同時だった。
ここぞとばかりに追い討ちをかける。
「精神的にも参ってるのわかってたくせに。俺が危険な因子だとわかっていながら二人きりにするなんざ、見殺しとどう違う?」
貶めた相手は、二の句が告げられない、そんな顔をしていた。
エルドの顔いっぱいに満足げな嗤いが広がる。
明らかなる死神の勝利だった。
「エルド!いい加減に――――」
抗う女を抱えたまま魔術師を強引に家から追い出し、ドアを閉める直前にもう一度嘲笑った。
「せいぜい悔しがってろ。クソの役にもたたねえ屑が」
「エルドってば!」
バン!!
ドアの強打が外界とセレスを遮断した。
「見たかよあのツラ」
唖然とするセレスを離すとエルドはこれでもかと高笑いした。
自分への態度は大幅に軟化したが他人にはこれといって変化はない。
あの穏やかな若い魔術師の時も感じたそれを、セレスは改めて確認する。
「あんな言い方しなくていいじゃない!」
「怒んなって。俺にとっちゃ嬲り殺しかけてくれた仇敵だぞ」
双眸には褪せぬ怒りが燃えていた。
「おいこの件に関しては咎められる筋合いはねえぞ。お前がうるせえからこの程度で我慢してやってんだぜ?必死によ。
本当は何日もかけてじっくりぶっ殺してえんだ。あれくらいは見逃してくれよお姫様」
顎をつまむ手を払いのけ、セレスはイージスの後を追った。飛び出す時に舌打ちを背後に感じつつ。
だが、ごく僅かな時間差でも命取りだった。
イージスは既に敬意の眼差しの群れにあっという間に取り囲まれてしまっていた。
壁は厚く二人を阻む。
待ち侘びた帰還だったのにさらに遠くに行ってしまった気がして、セレスは意気消沈した。
また、後にしよう。人気者に昇格したイージスを前に、そう思う他なかった。
しょ気返ってとぼとぼと帰路につく。
頭の中では選んだ男の半端ない陰険さを再認識していた。
多分、現状で出来うる限りの辛辣な復讐を果たしたのだろう。
放つ言葉まで鋭く、当然のように人を裂き、傷つけていく。
セレスは自身もまたその切っ先に傷つけられることを予感していた。
遠ざかるイージスが人ごみの向こうにちらと見えた。
横顔には心底からの疲労が湛えられていた。セレスは彼の善導を振り切って死神側についたのだ。
様々な意味で申し訳なくて心臓が痛かった。
『兄さん』は、時代を超えても変わらず英雄のまま。
現在の自分との明らかな隔たりを感じた。
生前ついた何倍もの嘆息をこの数ヶ月でついたことにふと気付く。
人の女、か。
潮風が凪いだ。
本当にそうなったんだな……。
言霊は力を持つ。
翌日にはセレスとイージスは以前と同じように会話し、談笑していた。
だがエルドが蒔いた種は発芽し、根付いて二人の間にできた亀裂を固定し、なかなか萎れることがなかった。
暮れ泥む空もやがては星と月を招く。
波の音が子守唄を歌う。
満点の星空の下で交わるのは何度目だろうか。もう数えることもできない。
「ね…聞いてるの?」
窓の向こうに広がるは月夜の海。
懐かしい潮の匂いが穏やかな二人を優しく包みこんでくる。
最早この男と裸で抱き合っている状態を、覆い被さられている事実を、否定する気すら起こらない。
当然のように一つの寝台の上で蠢いている。
「イージスと仲直りしてよ」
「知るか」
セレスの発する懇願はことごとく撥ね返されていた。
砂糖の塊のような甘たるい情事は滞ること無く進行する。欲のままに、強く抱き締められて両胸を潰されるのにも慣れた。
「ひあ、ああっ、あぁぁ……っ」
胸の頂きに急に強く吸い付かれて思わず仰け反る。
既に体中満遍なく撫でられ舐めあげられた。身体の表面で指と舌を這わされていない箇所はもう無いだろう。
ほんのり色付いた女の肢体を大事に抱きかかえ、
「ベッドの上で他の男の名前なんざ出すからだ。仕返し」
悪戯っ子のように口端を歪めた。
「ばか……っ」
体の相性がいいとか悪いとかなんてさっぱりわからない。
が、この男はものすごく上手いのだけは認めざるを得ない。
暗殺の為に散々利用して磨き上げた快楽の手管。食い扶持と直結していたそれは、とても実用的なのだろう。
「ああ…ぁん」
必死で抑えようとする喘ぎ声とともに布の海がうねる。
「イイか?」
少し不安げに問われたので、愉悦の合間に必死で頷く。
童顔がふ、と薄く安堵に染まった。
邪気の少ない、少しだけ優しい笑み。
どうやら。
傷つける気はなかった、それだけは本当らしい。
肉体的な快楽より何よりセレスが一番嬉しいのはそれだった。
少なくとも精神的な面で加虐対象でなかったことだけは彼女を深く安堵させた。
最初からこうあるべきだった関係。ここまでくるまで本当にこじれたな、とも思う。
「エルド」
主導権は常にエルド側だが、セレスが後頭部に手を回されて引き寄せたところで何の抵抗もない。
「不安か」
見透かされたので正直に頷くと、
「当分はしょうがねえな。ゆっくりと優しくするから」
傷だらけの女体を強めに抱き締める。
「うっ」
未だ残る痛みが灯り、小さく呻いた。即座に男の両腕で作られた輪が緩む。
「まだ痛むのか…」
「大丈夫よ。もうかなり良くなってきてるんだから」
と苦笑しても、彼女が気を遣っているのは明白だった。
そっと抱きかかえ直される。今度は柔らかく、優しくだった。
「約束する。二度と傷つけるようなことはしねえ」
「…うん」
本当だろうか。信じ切りたくてもどうしても疑惑は消せない。
でも、それでもいい。
「んん…」
愛戯は続く。二の腕を寄せて作られた深い谷間に男の頭部が遠慮無く埋もれる。
「ああ…エ…ル、ド…ッ」
吐息を漏らす女には大きな傷があるとはいえ非常に扇情的で、異様な程の妖艶が漂う。
鎖骨を舌でゆっくりなぞられると、それはそのまま首筋を這い、耳に辿り着いた。
「はあ…っ」
初夜には考えられなかった甘い喘ぎを吐く。
「キスして…」
即座に応じて顔が近づき、唇が重ねられる。
あれから褥での要求は何でも通してくれるようになった。
余計な言葉は機嫌を損ねることを学習したのだろう、卑猥な台詞も一切吐かなくなった。
ただ優しく、それでいて濃厚な交わり。
「んんっ」
口付ける間にも活動を続ける指先がするすると腹を伝わり、緩い刺激を与えながら降りていく。
「あ…っ。や、ん」
脚の付け根にある花芽を何度も愛撫されると耐え切れず、火照った体が蠢き仰け反った。
さらに芽の真下をじゅぷ、ずちゅぐちゅ……と指にかき混ぜられて水音が響く。
「ああぁあっ」
酔わされる泣き声と啼き声。女に心身の十分な潤みを確認すると、男は静かに自身を挿入してきた。
不安による胸の鼓動を鎮めるように優しく指を絡めてくる。
緩やかだが何度も奥まで届く律動は次第に彼女を融かしていった。
その間にも音を立てていくつも肌に落ちる口付け。
とてもとても大切にされているのがわかる。
「はあっあんっあ、あん、ふぁ……」
正常位の体勢で体をぴったり密着させて、尻を鷲掴みにして引き寄せながら、ゆっくり根元まで
押し込んでは戻る。時間をかけてそんな出し入れをした。
セレスが必要以上に怯えることなく、必ず感じるやり方。
「はぁっ、はっ…ああっ。イイ…の……っ」
女が乱れ、水音が淫猥に響く。
己の快楽よりずっと優先されているのがわかった。
行為そのものより、相手が自分を気遣っている、その事実が何よりも嬉しかった。
けれど毎度の褥で自分ばかりがこの調子だとさすがに悪い気がしてくる。
「言いたいことがあるなら言え」
戸惑いを勘付かれ、問われた。
「もうすれ違ってややこしくなるのはごめんだぜ」
首筋を舌が這う。
「ん……っ」
「どんなキモくてデカい化け物よりお前のヒステリーのが万倍怖えーよ。さ、言え」
「何よその言い方……あっ。ちょ……。も、うっ」
耳朶を食まれた後にそっと項を舐めあげられた。
次の言葉を誘うかのような仕草は至極甘たるい。
優しくした後はじっと顔を見つめてくる。
「何だよ。早く言えって」
「…貴方はいいのか、と思って」
「お前は?」
「私は言うことないけど……」
「ならそれでいい。余計な気ぃ遣うな」
セレスの戸惑いを一蹴すると、更に高く昇る為の本格的な愛撫を始める。その度に女体が応じて弓なりに曲がる。
「あぁっ!ん、…んん…はあっ、は…エルド。…んっ、エル、ドぉ……っ」
うわ言のように名を呼んでいたら、
「セレス」
耳元にて掠れ声で名を呼び返されて飛びそうになり、ぎゅっと目を瞑り己を留めた。
初めて行為中に名を呼び合ったのが何だかこそばゆい。
濡れそぼった秘裂から蜜の纏わる指を引き抜いてから、もう一度だけ耳元で囁いた。
「じゃ…俺も少しばかり良くなっていいか?」
頷く。
座位の体勢を求められたので言われるがままに体を預ける。
まず口付けをして、糸を引く。
甘く融けた女の瞳には恍惚の炎がちらちらと揺れている。
同時にその光源が諦めと深い悲しみであることもわかった。
「……」
理由を知るエルドは不満に満たされる。
それでも彼は迷うことなどしない。大事な女。頬にも鎖骨にも口付けを落とす。
やっと手に入れ、和解まで漕ぎ着けた。言葉などなくてもいい。手の内に居さえすれば、今は。
「ああ…、んっ」
セレスは相手の思惑など気付かない。最早気付こうともしない。
胸を両脇から寄せ上げることで一段と深くなる峡谷。埋もれる男の後頭部をぼうっと見つめている。
腰を浮かせと言われたので言う通りにすると、それの先端が当たった。
挿入される男根の記憶だけ先行して、ぞくりと波打ち、熱く疼く。
「捕まってろ」
腕を回すと腰を抱かれた。始まるのだと震える。
「大丈夫だから」
「…うん」
一つ頷いてから静かに腰を沈めた。
甘い蜜がけの言葉を紡ぐ唇が、かすかに触れたのを感じて静かに目を閉じる。
大きな波が来て、昇りつめたら優しい後戯を受けて、枕元でいくつか吐息混じりの言葉を交わした後、
潮騒を子守唄に抱き合って眠る。
甘さに紛れて毒を仕込んであることくらいは知っている。
後から効いてくる厄介な毒であることも気付いている。
これに溺れたらどこまでも身を持ち崩すことも、わかっている。
でも、それでもいい。
「あっ、エル……あっ、ひゃんっ…熱いっ、熱い……っ」
快楽に逆らうことなく身をくねらす。
大事にしてくれるのなら、都合の悪いことはもう何も見ない。
「あ…ん」
ぐちゅぐちゅと乱れる水音と共に何度も何度も出し入れされる。
耐え切れずに落ちた腰がそれを根元まで飲み込んだ。
「ぁああぁぁあんっ!!」
ひときわ高い嬌声には抗いがもう含まれていない。
荒い息をしたままぎゅっと抱き締められ、ゆっくり寝台に降ろされて正常位になった。
尻肉を鷲掴まれて再度ぐっと引き寄せられると、蜜に促されてより結合が強まる。
そこにさらなる律動。
「あぁ…エルド、エルドすごっ、あっふぁっごめっ、もう…だめぇ……ッ!はぁあっ!イッちゃうっ、あっ、ああ…。お願い……っ」
切なげな懇願はすぐに叶えられる。
「―――――…っ…」
速度を上げられると声もあげる間もなく絶頂を迎えた。
終わった後も余韻を味わいつつ唇を重ね合わせ、ぴちゃぴちゃと水音を響かせる。
足掻かなければ本当に濃密で優しい時間。
「どうだった?」
「…うん……すごく気持ち………よかった」
欲しがっていたお強請りだって卑猥な台詞だって惜しみなく吐いてやる。
悦んでくれるかと思っていたのに、ふうと一つ息をつくとエルドは不満を漏らした。
「こんな大事にしてやってんのにいつまでも悲しそうな顔してんなよ」
「え…っ?」
驚くしかない指摘だった。己ではまったく自覚がないからだ。
卑猥な快楽にどっぷり溺れていると信じ込んでいる。
「そんなことないわよ」
だが本心は違う。
不安定な宙吊りの精神ではとても邂逅と呼べるものではなかった。
微笑みはとても悲しげで、無理をしているのがよくわかるものだった。
でもそうしていないと本当に壊れてしまう。
「そんなことより。……もっと、して」
自分を陥れた男に抱きつき、惨めにならないために必死で正当化しようとしている。
もうそれさえ認めることができない。
「大丈夫なのか」
「してほしいの」
「けど」
流石のエルドも自暴自棄がちな女の態度に躊躇したのがわかった。それを無理矢理引き寄せる。
「いいから、忘れさせて。みんな……忘れさせて………」
「…………わかった」
了承して、またゆっくりと覆い被さってきた。
そして何度弾かれても諦める事なくその言葉を紡ぐ。
「愛してる」
「わ…わたし…、……っ」
同意を返そうとしたが、うまく言えなかった。
溺惑しようとしても心の中でまだ何かが抵抗しているのを感じる。
心の中にいる誰かが、岸の向こうから戻ってこいと手を伸ばしている。
多分、あの人は……
そんな揺らめくかげろうを必死に振り払う。
今そばにいて、離れないでいてくれる男が耳元で吹き込んでくる甘い言葉に、何とかして酔おうとしている。
エルドは完全に心を許されていない現実に少々不満げな色を醸しつつも、行為を続ける。
半ば狂ったような嬌声。セレスに備わる喜びの機能が変質し、正常を失っていく。
蕩けてゆく。腰の感覚がなくなってくる。思考も想いも何もかも剥がれ落ちてゆく。
けれど、いい。
そのうち勝手に淫猥が言葉となって口からこぼれ落ちるようになるのだろうから。
何も拒まない。
何も考えない。
明日がどういう日になろうが、もう何とも思わない。
暗い海に映る月が崩れ、ゆらゆらと揺れている。
私はこの男が好きなんだ。
この先に何があろうとも、
それでいい。
それで……