人生に用意された蜜月は短い。  
無理のある結ばれ方をした二人なら、尚更。  
 
 
 
心根のしっかりしているセレスが壊れていられる期間は短かった。  
どん底から幾許か這いあがることができると、あっという間に視界は拓ける。  
「んっ…」  
初夏の宵闇。室内に忍び込んでくる夜気。  
月明かりの下、二人は静かに唇を重ね合わせていた。  
啄まれながら両耳をそっと塞がれる。  
音が籠もり、交わる舌の音が大きく聞こえて、より淫猥に心臓に響く。  
甘たるいのだがこの男相手では毒味も強い。渦巻く熱に悪酔いしてしまいそうだった。  
「んっ」  
舌を絡める間にも手のひらが女体を降下してゆき、指先でいやらしくまさぐってゆく。  
「ちょっ…!んんっ…、も…少しは手加減してよ……っ」  
一糸まとわぬ裸体。背にした壁がひんやりと冷たい。  
今宵の二人は寝台の上にいなかった。  
エルドから立ったままを求められたからだ。  
初めての体位。  
壁を背中にしているので逃げ場がない。不安と愉悦で身じろぎするセレスを責め立てる死神がじっくりと愉しんでいる。  
数週間前に和解した。そして正式に恋人同士になった。  
だから少しでも相手の欲求を満たしたいと思い、望まれるがままに同意した。  
が。  
「はぁっあんっあっあぁっ!…エルドっ、やっ、―――あああぁっ!!はっ激し……っ!」  
あまりに容赦ない。  
月光に晒されて連なる影が鳴動する。  
「ひぁああっ」  
びくりと波打つ。突然両胸の頂きを摘まれたからだ。  
豊かな乳房が弾んで揺れる。セレスの肢体は以前の曲線をだいぶ取り戻していた。  
死神はそのたわむ果実にゆったりと埋もれた後、先端をたっぷりと唾液をつけて舐め上げ、口に含んで吸い付く。  
もう片方には途絶えることなく指先での刺激を与えつつ。  
「はぁあっ!…くッ……ぅん…」  
いつも見ている天井ではなく、部屋を見渡せる体勢。視界が違うと気分も昂ぶる。  
凄まじい羞恥の襲来を、壁にしっかりと張り付くことで耐える。  
そんな女の上気した肌を弄ぶ手が更にするすると滑り落ち、長い指を茂みに辿り着かせた。  
「あっ」  
緊張を含んだ吐息が甘く男の耳を撫でる。  
濡れた秘部を茂みごと包み、芽と秘裂の上で指先を踊らせる。  
「や、エル…ド」  
「大丈夫だからじっとしてろ」  
くちゅ、じゅぷ、とたっぷり濡れた秘部から零れる淫猥な水音。  
すっかり慣らされた入り口は男の中指を一本、あっさりと付け根まで飲み込んだ。  
「んんっ!」  
思わず顎を反らす。  
中で蠢かれると身悶えるしかできなくなる。  
「エ、ルド…っ。こ…いうの初めてなのっ、あんまり激しくしないで」  
煩悶の合間に必死に懇願しても、  
「いろいろやった方が早く慣れるって」  
要求は聞き入れられない。絶え間なく蜜が溢れ、つうと下肢を伝ってゆく。  
「あっ…はんっ、あっ、あ…ふぁ………」  
彼女の中でいやらしく蠢動して執拗に鳴かせ続ける。  
やがて完璧に準備の整った女体を確認すると、淫猥な指はゆっくりと引き抜かれた。  
片足を持ち上げられて、同じようにゆっくり、滾ったそれを挿入される。  
「いやっ…」  
指とは明らかに体積の違う熱い異物の感覚。思わずぶるるっと震えたが、  
「ずいぶん慣れたな」  
何度も夜伽を重ねたそれの持ち主に、半目で薄く嗤われただけだった。  
 
まったくその通りで、セレスの体は男のそれを受け入れる態勢が早くできるようになり、事後の異物感すら  
薄くなるまでになっていた。  
まったくその通り。  
なのだが。  
「やっ!」  
荒く突き上げられる。激しい快楽を纏った衝撃がずん、ずん、と重く、何度も全身を走る。  
「はあっあっ!あああぁっ!激しっ、て、あ、ああぁあん!!も……もう、あっ、だめだって、ばぁ……っ!」  
およそ彼女らしくない泣き言が、根性のひん捻じ曲がった男を更に煽る。  
紅潮した頬に生理的な涙がつたう。  
壁に張り付くのは限界だった。ただ男に凭れ掛かり、波が来る度ぎゅっと抱きついて、翻弄され続けるしかない。  
「ほら。イけよ」  
女の表情に限界が近いことを感じたらしい。ぐっと大きく角度を変えて、彼女の弱い所を突き貫いた。  
「あぁあ――――――…っ!!……」  
ひときわ高い嬌声と共に絶頂へと達し、くたりと力が抜けた。  
秘裂のすぐ外で精を吐き出される。愛液と交わり、混じった熱が滴り落ちた。  
汗がどっと噴きだす。艶やかな荒い息遣いだけが一人分だけ大きく響いた。  
セレスはエルドに寄りかかったそのままの体勢でずるずる崩れ落ち、ぺたんと座り込んでしまった。  
床の冷気が下半身をひんやりと冷やす。  
体内を巡る恍惚の余韻は砂糖菓子のように甘たるい。すっかり蕩かされた体は痙攣が止まらない。  
「ベッド行くぞ」  
そんなセレスに更なる快楽の続行が求められた。  
ぎょっとして身を引こうとしても完全にエルドの手の内である。  
「やっ、もう無理だってば」  
「却下」  
焦燥まみれの拒絶は無視される。  
床から掬い上げられると、抱きかかえられたまま、すぐ近くの寝台へ投げ出された。  
「エルド!」  
愛おしげに口付けられても誤魔化されるわけにはいかない。  
「待ってよ!も、今日は終わりにしてよ。やだってば。ほんと、無理…っ」  
顔を押し退けても、  
「だらしねえなったく。じゃあこれで最後な」  
『最後』を強調され、不満顔の男に脚を折られてしまう。  
「……っ」  
ついていけなかった。  
終始押され気味で抗う隙も与えられない。  
おまけに。  
時折フラッシュバックを起こしてしまい怯える様相を呈すと、苦い顔つきで舌打ちをされる。  
あの一ヶ月をとっとと忘れない方が悪い、と言わんばかりなのだ。  
やはりセレスはエルドという男をまったく理解していなかった。  
なんという短い反省期間なのだろうか。やっぱり演技だったんじゃないかと勘繰りたくなる。  
「ああっ、はっ、…ぅうん……」  
そんな相手とでは己の喘ぎ声さえ虚しく感じられた。  
ただ最後と言ったらそれだけは必ず守ってくれるので、そんな時は彼が果てるまで待つしかない。  
ひたすら情火に身を焦がすだけだった。  
そんな交わりを幾度となく続けていくと、過ぎ行く時間も手伝ってセレスの頭は冷静になっていく。  
何してるんだろう――――私。  
そう、率直に現状を疑うようになってしまっていた。  
あまりにも不誠実なエルドへの依存心は瞬く間に消え去っていた。  
行為が終わると解放に安堵してぐったり横たわるだけだ。  
事後の余韻は確かに甘いのだが、何だか無性に切ない。けだるさと虚しさの区別がつかない。  
ただ肉欲があるだけで、愛し合っているという感覚がまったくない。  
その上、真横からは不満をたっぷり纏った低い唸り声が響く。  
「あ―――クソつまんね―――気ィ遣いすぎてハゲそうだマグロ最悪」  
これだけやっておいて、その態度。  
セレスが空虚に支配される理由は、彼女の精神状態がある程度安定したと同時、相手がこのとおり  
あっという間に本性を現してきたせいでもあった。  
マグロ。それぐらいのスラングは知っている。  
そんな罵り方をされてはセレスも流石にふくれっ面になるしかない。  
 
「悪かったわね。最悪で。……少しは本音隠しなさいよ」  
「じゃあそろそろマグロは卒業して俺にも何かしてくれよ」  
「…なんかって、何よ」  
「言わせるのか?」  
嘲笑に近い、にやけた声色が耳を障る。  
気分を害して背を向けたセレスに、逃さないとばかり、男の腕が触手のごとく絡み付いてくる。  
「教えてやるからさ。それこそ手取り足取り」  
言い草に生理的嫌悪を感じる。  
和解してから一ヶ月も経っていない。  
いないのに、セレスは既にこの男の不実さに辟易していた毎日を送っていた。  
「何だよまたご機嫌ナナメかよ」  
不機嫌を察したのか、背中の向こうから文句が垂れ流される。  
「だから二人でイきてえって何度もいってるだろ。俺ばっかじゃん。がんばってんの」  
そう言われても、女の方から何かするなどとは、褥でも優しい夫しか知らないセレスには未知の領域だった。  
だが確かにエルドばかりが努力しているのは褥での否めない事実。  
セレスは息をつくと、恋人という名を冠した死神の腕をほどき、寝返りを打って向き直った。  
「……そこまで言うなら私も頑張るわよ。…でもあんまり度を越えたことはできないからね」  
頬を薄く赤らめつつ、行き過ぎた行為を強要されることへの牽制をすると、  
「何想像してんだよ」  
相手から心底面白がる視線を注がれた。  
脳裏で蠢く苛立ちが声になろうとしたが、何とか仕舞い込んだ。  
そんな毎日が否応無しに積み重なる。セレスは文字通りうんざりしていた。  
ああ――――嫌だな。  
この男のこういう、先回りして見透かしたようなことを言って得意げになってるところ。  
和解したからといって傷が癒えるわけでもない。セレスは以前よりずっとすさんだ女になっていた。  
けれど。  
「そうよねぇ……貴方、そういうところがいいってロゼッタでは大評判だったものね」  
生前のこの男を取り巻く環境を考慮すれば、納得せざるを得ないところもある。  
若い女達の熱い視線。正にモテモテという表現がぴったりだった。  
そういう経験をしてしまうと脳内回路がもう普通の男と違うのだろう。  
というか、そう思わないとやってられない。  
だが赤い髪を指に巻きつけていたエルドは、セレスからの言葉を耳にした途端表情を失くした。  
そして少々間をおいた後にぼそっと零した。  
「その割にはどの女とも続かなかったけどな」  
「え?」  
細身に見えて頑強な身体を起こし、水差しから行儀悪くそのまま水分補給する。  
「覚えてるか。お前が俺の部屋来た時、俺と一緒にいた侍女どもいたじゃん。  
 あいつらお前の悪評広めたからってゼノンに速攻で牢屋ブチ込まれちまいやがってよ」  
「えっ」  
突然の吐露に思わず目を見開いた。  
「俺にも原因あったしな。結構気に入ってた女どもだったし。仕方ねえ、流石に後味悪りいから逃がしてやったんだ」  
唖然とする他なかった。  
こんなところで生前気がかりだった事件の顛末が聞けるとは。  
あの侍女達は逃がされたのか。セレスの内側で少量の安堵がじんわりと広がった。  
ロゼッタでのセレスは正に女神扱いだった。あの黒刃を討ち取ったという功績も追い風だった。  
勝利への象徴とも言うべきひときわ煌く存在。  
そんな女の醜聞を城内で広めた。ただで済むはずがないのが常識だ。  
「半端ねえ馬鹿女どもでこっちが驚いたっての。あんな状況下で斬鉄姫様の悪口なんざ死刑宣告も同然だろ」  
エルドは忌々しげに吐き捨てるが、多分彼女達は青光将軍のお気に入りという後ろ盾を強く感じていたのだろう。  
虎の威を借る狐とも言えたが、年若い女達では無意味に気が大きくなってしまうのも無理がない。  
「何処へ逃がしてあげたの?」  
「知らねえよ。金目のモン俺から巻き上げて捨て台詞たんまり吐いてから勝手に散ってった。  
 …………あー思い出したら腹立ってきた」  
「そうだったの…」  
エルドは立腹していたが、彼が侍女達を救ったのは事実だ。そんな彼をセレスは少し見直していた。  
「糞女どもが。マジで背中に一発ずつブチ込んでやればよかった」  
速攻でがっかりした。  
 
ふうと息をつくと死神は天井を仰ぐ。  
「ま、そんなモンだ。俺に近付いてくるのなんて一時の優越感味わいてえだけの我の強い女ばっかだったってこと。  
 エーレンだろ、本当の意味で人気あったって言うならよ」  
驚愕が続く。エルドがあの正義を体言したような天眼の戦士を認めるとは。  
どうもセレスに拒絶されたことがかなり強烈だったらしく、考え方を根本から改めたようだ。  
それとも本当は昔からあった自覚なのだろうか。  
理解し難い男だ。  
「ま、」  
思案顔を継続するセレスの横にどさりと倒れこみ、再度絡み付いてくる。  
「んな昔の話なんぞもうどうでもいいがな」  
お前がいるから。  
暗にそう言われたような気がして、セレスの眉根が勝手に皺を刻む。  
たった一つの大切なものを手に入れた、そんな言い方。  
時折怖いくらいに無邪気な一面を垣間見せてくる。  
普段が邪悪すぎてギャップを感じるせいもあるのだろうが、そんな時はうまく振り払えない。  
されるがまま、抱き締められ髪を撫でられ軽く口付けられた。傷物というよりは宝物にする仕草。  
恋人に大事にされているのだから、セレス側も本来なら喜ぶべき場面。  
だがどうしても喜べない。  
そんなセレスの機微をエルドも流石に勘付いている。  
「何だよそのツラ。マグロ続行してストレスで過労死させる作戦でも決行中か?」  
「…なに真顔で馬鹿なこと言ってるの」  
「違うのか?ならちったあ笑えよ。最近仏頂面しか拝んでねえぞ」  
抱かれていても何だか冷たい。  
一刻でも早く心を開くのが当然と言わんばかりの不遜な態度はかえってセレスの反発心を煽る。  
「ほんと物好きね」  
ふいと顔を逸らすと、  
「別に自分では物好きだなんて思ってねえけどな」  
彼女が何度も口にする自嘲を流さず、初めて反論してきた。  
意外な反撃に目を丸くするセレスに向けてつらつらと理由が重ねられる。  
「とは言っても、その偏見のお陰で変な虫が無駄に寄り付かねえって特典は昔っからありがたかったけどな。  
 鎧着けた見た目と肩書きだけで即判断しちまう馬鹿ばっかりでよ。  
 剥いちまえばいい女がちゃんとお出ましになるってのは、俺は昔からわかってた」  
先刻の侍女達の件といい驚嘆が連続する。  
この死神に女としての評価を得ていたとは。  
「……そんなこと、何でわかってたのよ?」  
訝しげに問うセレスに珍しく真面目な声音の答えが返ってくる。  
「いつも見てたからな」  
「……」  
普通なら息をのみ頬を赤らめるべき展開。  
だがこんな過程で一緒になった男からでは、正直あまり嬉しさを感じることができなかった。  
それが生真面目な女をより苦しめる。  
和解したではないか。『恋人』から甘い言葉を与えられているのだからちゃんと喜ばなくては。  
そう、恋人なのだ。いろいろあったが、ちゃんと、もっとちゃんと、この男を見なくては。  
焦燥と共に思考が混濁し、彷徨い、己の感情がおかしくなったように感じる。  
そんな困り顔ばかりのセレスの顎がつままれた。  
「本当に全然笑わなくなったなお前。可愛くねえぞ。ちょっとは笑えよ」  
「……誰のせいなのかしら」  
「あぁん?10割方俺のせいですが、何か?」  
ふてぶてしく開き直っている。  
不遜極まりない弓闘士は一度起き上がり伸びをして、ばふんと勢いをつけてベッドに倒れ、大欠伸をした。  
「つ〜かよ〜実際バター犬以下だろ今の俺〜。  
 将軍だのエインフェリアだの以前に人間廃業してるっつの」  
「あのねえ……」  
どんな表現だ…と呆れると同時、セレスはある事実にハッと気がついた。  
現状、自分もまたこの男に無理のある性的関係を強いているのではないか。  
それを初めて理解し、愕然としたのだった。  
「そっそうよね。ご…ごめんなさい」  
うろたえて身を縮める。  
 
エルドの方が嫌がっているなどとは夢にも思わなかったからだ。頬が一気に紅潮する。  
そうだった。もう、こんな体なのだ。エルドだってかなりの無理をして相手をしてくれていたに違いない。  
それなのに私ときたら、早く飽きてくれないか、などと。  
燃え上がりそうな程の羞恥に包まれながら、傷だらけの上半身を抱いて必死に呟いた。  
「わかったわ。もういいのよ、行っても」  
「は?」  
「とぼけなくていいわ。自分の体の状態くらいわかってる。貴方だってもうそろそろ普通の女のきれいな肌が恋しい頃よね」  
無意識に傷痕に手をあてて俯いた。  
「ほんとに、いいのよ。もう」  
その言葉を最後にしばらく沈黙が漂った。  
だが死神は御暇を出されても動こうとはしない。  
それどころかにやついた顔を近づけてきて、こう言った。  
「誰が嫌なんて言った?」  
「え」  
「傷があろうがお前は美人だしな。胸もでかいし。抱き心地だって申し分ねえ。  
 きれーな女に飼われていくらでもやらしてもらえる毎日なんざ最高の駄犬生活だろ。  
 逃げる気なんざさらさらねえよ。余計な心配すんな。結構堪能してるんだから」  
「………」  
図太い。  
状況に順応し、心底から楽しんでいる。  
美人だきれーな女だなどと並べられても全然まったく一向に嬉しくない。  
寧ろ最悪だった。  
だがそんなエルドと共に生活していると、セレスもやっと一つ悟ったことがあった。  
「私、気付いたわ……」  
「何が」  
「…貴方初めから、本当に、私に酷いことする気はなかったってこと」  
多少やり口が汚かったのはこの際おいておく。  
だがその一言を受けて数秒硬直していた半目のエルドに突如青筋が走った。  
「あ た り ま え だ」  
抗う間もなく覆い被さってきて人差し指の腹で眉間をぐりぐりされる。  
「痛い痛い痛い痛い」  
「ちょーっとなぁ、気付くの遅すぎねえかお姫様〜〜」  
およそお姫様に向けるべきではない悪意の形相。  
更に強烈なぐりぐりが襲ってきてセレスは思わず悲鳴を上げる。  
「勝手に偏見で鬼畜設定して勝手に怯えてんじゃねーよ!!」  
「痛い痛い。本当に痛い」  
「正常位以外でやったことあったか?何か道具でも使ったことあったか?縛ったことだってねえ!!  
 お前がちゃんと感情表に出してりゃぜってーこんなややこしいことにはなってねーんだよっ!!」  
次々と不満の矢を乱射してくる。どうやら死神側にも言い分が山積しているのは明白だった。  
ぐりぐりをやめた後、胸を張って言い放たれた。  
「本気で犯る気だったらこんなヌルいことばっかやってるわけねえだろ!!」  
と。  
「……」  
ただただ、紛うことない鬼畜のくせに…と思わざるを得ない。  
エルドは言いたいだけ言うとわざとらしい長嘆息を漏らし、背を向けて寝台に腰掛けた。  
「つーか…」  
少し気が晴れたようで落ち着きを取り戻す。茶の濃い金の髪をぼりぼりと手荒く掻き毟った。  
「お互い生死の狭間を切り抜けてきた仲間だってのを過信しすぎてたみてえだな」  
「……」  
表情が曇る。それには同意せざろうえなかった。  
セレスはエルドを過剰に信じ切っていた。  
一方、エルドはセレスに心を許されたと過剰に感じていたのだろう。  
結局お互いがお互いを都合よく解釈していたのだ。  
そして摩擦が起こった。  
騙されたとはいえ、そこまでの悪意がなかったことはわかっている。  
だがセレスはうまく割り切れない。何かある度に陵辱を受けた日々ばかり思い出してしまう。  
恋人という名目の下、そんな悪夢の日々を必死で忘れ去ろうとしていた。  
 
現在の相手こそ大事にすべきなのだと頑張って自己暗示をかける。  
「そろそろ眠りましょう」  
気を取り直して呼びかけると、エルドは素直に毛布の中へ潜り込んできた。  
求められるのが好きな男。褥でお強請りを言わせたがるのもその一環だったのだろう。  
「それにしてもよ」  
「何?」  
「お前ほんとにゼノンとは特に何もなかったんだな」  
思い直したばかりなのに、再度苛立ちを誘われてしまう。  
命を賭して戦った盟友との絆に土足で踏み込まれた不快。  
どうしてエルドという男はこうなのだろう。  
男と女が一対いれば必ず性的な事象が起こるのなら世の中大混乱だ。  
「怒るなよ。ゼノンの方は俺のセレスに手を出したらブッ殺すぞってな、そりゃ凄まじい勢いだったんだぜ」  
「もう。そこはセレスじゃなくて。斬鉄姫―――――という意味でしょ」  
そんなことをわからない男ではないはずなのに。嫌悪の感情が迸る。  
エルドはそんな刺々しいセレスをじっと見つめている。  
「やっぱまだ怒ってんのか」  
「別に」  
別にと言っても、怒り顔のままでは肯定でしかなかった。  
「だから、悪かったよ」  
あの一件の後、弓闘士はセレスには簡単に謝罪するようになった。  
その方が悪い方向への昂ぶりを進行させないことを学習したのだろう。  
「なー。ほんとそろそろ機嫌直せって」  
エルドが強請ると、何かしてもらうことを欲する子供のような仕草に見える。  
それが普段の凶暴具合とまったく噛み合わない。その落差はある意味凶悪な武器の一つ。  
「そこまで繊細な女だとは思ってなかったし……」  
「何よそれ」  
「だから睨むなって。仕方ねえだろ。  
 それに血筋的にはあのガチムチの不死者王と逆ナンフトモモとアレじゃねえか」  
アレ。  
ガチムチと逆ナンフトモモもどうかと思うが、アレ。  
「…実妹のことアレ呼ばわりされるのも気分のいいものじゃないわね…」  
「アレはアレだろ」  
名前さえ呼びたくないということか。  
この男は何故かセレスの妹を非常に毛嫌いしている。  
生前の恨みだろうか。だがそれだけではないように思う。  
理由を聞きたかったが、実妹が更に罵られるのが嫌だったのでやめておく。  
ため息をついて夢のほとりに行く体勢に入ろうとしたが、エルドの口は塞がらなかった。  
「俺はわかってると思ってたんだがな。他の女と扱いが、 ぜんっぜん、 違うのが。何だよいつまでも」  
多少恨みがましい視線が重たく注がれる。  
「扱いが違うって、……貴方の私への態度のこと?…わかるわけがないわよ」  
「わかるだろ普通は。全然違ったぞ」  
「わからない」  
「わかる。普通なら絶対わかる」  
憮然としている。  
これに関してはエルドは一歩も譲る気がなさそうだった。  
正確に言えば、いくら鈍感なセレスとて確かに少しは気づいていた。  
ただしそこに恋愛感情などを感じ取れなどとは無理すぎるものであった。  
旧知の間柄であり、仲間として信用を置かれているから、くらいのものとしか思えなかったのだ。  
「そんな風に責められても本当にわからなかったんだから……困るわ。  
 貴方のことだから『最中に死んだらユニオンプラムくれてやるよ』くらい軽く言うと思っていたし」  
「…………………俺は今激しく傷ついたぞ…………………」  
変な所で自分が見えていない男。  
クレセントがあの人を嫌がるのと同じくらいにエルドを毛嫌いしていた気持ちも、今なら何となくわかる。  
ただクレセントは、あの人へ見せる態度のような露骨な嫌がり方はしていなかった。  
この小さな男が外見に見合わぬかなり激しい気質の悪人だと勘付いていたのだろう。  
…クレセントのような年若い女の子が防衛本能を働かせていたのに、私ときたら。と思わなくもない。  
ため息ばかりが漏れる。  
 
つまり、こちらは毎回恥辱と絶望で死にかけていたのに、この男にはありきたりな情事だったわけで。  
非常に納得のいかない部分もあるが、傷つけようとしていた訳ではない、という事実は精神的に救いだった。  
しかし同時に、あの苦しみが誤解からきたもので、号泣等の素直な表現をすればすぐ終わる地獄だったという真実もつらい。  
セレスに残された傷痕はあまりにも大きかった。心に残った痕も、身体に残った痕も。  
それがひずみになる。  
苦悩するセレスをよそに、隣りに横たわるエルドもまた考え事をしていた。  
それを行動に移す。  
セレスの腿に置いていた手のひらを、するっと内股に忍び込ませてきた。  
「ひあっ!?」  
不意打ちの襲撃。思わず素っ頓狂な悲鳴をあげ、体を大きく仰け反らせる。  
「えっ!?なっ何っ!?」  
慌てふためくセレスにエルドは平然と言い放った。  
「ちょっとイってくれ」  
「は!?ちょ、ちょっバカっ、もう終わりっ、あ……っ!」  
悪びれもせず、動揺するセレスの内部で2本の指を蠢かせる。  
「あっ、ひぁっ!やあ…ん、じゃ、なくて、ちょっ」  
「なあ駄目か?――――これじゃ」  
必死に脚を閉じても高慢な男の腕を柔らかに挟み込むだけ。  
足掻いてもしっかりと場を陣取っていて内股から動かない。  
「あんっ、あああっ、やめっ!!うあ、あっ!!」  
ただでさえ行為を終えたばかりの出来上がっている躯。自制など効かせられるはずもない。  
柔肌が迸る快感に再び震える。  
流れに乗せられて抗う暇もなかった。  
「あ…っ!」  
軽くイかされてからやっと解放された。  
びくびく痙攣しながら荒い呼吸を繰り返すセレスの様子を死神が平静に見つめている。  
「……腕が鈍ったかとも思ったが。そういうわけでもなさそうだがなあ…」  
そう呟いて、指に纏った蜜を舐め上げた。  
「ばかっ!変態っ!!もうっ最低っ!!」  
牙を剥いても、  
「そんな褒めるなよ。照れるだろ」  
そんな態度だから、怒鳴っても怒りが発散できない。  
熱した体躯とは真逆、気持ちがどんどん萎えゆくのを感じる。  
男に己との交わらない異質を感じ、こんなに体を重ねても未だ遠い存在だとつくづく思い知る。  
「本当に…軽くこういうことするのね。…ついていけないわ」  
震える声色で機嫌を酷く損ねたのを察知したのか、多少慌て気味に取り繕おうとしてきた。  
「セレス」  
「私はそろそろつらくなってきた」  
聞いてやる義理もない。  
つまらない女と罵られてもいい。  
やはり駄目だ。  
性の問題もそうだが、根本的に相容れない。  
「あなたには息をするみたいなものなんでしょうけど、私は違う……。  
 …やっぱりこういうことは、好きな人とだけしたい」  
遠まわしに好きな人ではないことを伝えたかったのだが、  
「ガキみてえな言い草だな」  
嘲笑めいた冷たい視線を送られただけだった。  
「お前さ、いつまでも若けえ女じゃねーんだからよ」  
「もう何よいちいち」  
「こんだけ成熟した色香ムンムンさせといてそりゃねえだろって言ってんの」  
と嗤って、胸元の深い谷間と長い脚を細めた視線で舐め回す。  
それがセレスには至極不快だった。反射的に腕で隠して身を引く。それすら嗤われる。  
身の置き場がない。  
この男は本当に自分を愛してくれているのだろうか。  
いや、そうじゃない。  
自分はこの男を本当に愛しているのだろうか。  
愛せるのだろうか。  
問いかけの答えはいつも否定だった。  
 
「…ごめんなさい。何とかなるって簡単に思っていたけど…やっぱり、駄目ね」  
やはりエルドを好きになるなど無理だった。  
仲直りというわけでもない。もともとそんなに仲が良いというわけでもなかった。けれど一応は和解した。  
傷は消えない。だが自分も相手に無理強いし、暴力を振るい、何度も傷つけた。  
お互い様。だからもういいと思う。  
「貴方も、そろそろ飽きたんじゃない?私達、潮時…………」  
セレスが別れを仄めかしたと同時。  
「なー。アレまたやってくれよ。アレ」  
台詞に被さるようにしてエルドが何かを強請ってきた。  
「…なに」  
勢いを殺がれて嘆息する。  
エルドは彼女の肩を抱き、耳元で吹き込むようにそれを再現した。  
「『どうしたの…しましょうよ。早くきてメチャクチャにして』」  
飲みかけていたコップの水を吹き出す。  
「ちょっとっ!!何それっ!?変な尾ひれつけないでよっ!!」  
その台詞は病魔に侵されたセレスが死を覚悟した時、エルドに吐きかけた投げやりの挑発だった。  
いくら猟色家でもこんな水疱だらけの女とできるわけがないだろうから、と。  
ただし早くきてだのメチャクチャにしてだのは口が裂けても言っていない。  
セレスの溢れ返る怒りを無視してエルドは不満をつらつらと漏らし続ける。  
「あん時は鳥肌たつ程エロくて良かったのになぁ」  
「話を聞きなさい!!」  
「こんな邪険に扱われるなら我慢せずダイブしときゃよかった。勿体ねえ」  
「……っ」  
本音を紡がれる度、セレスの何かが凍り付いていく日々。  
震える花唇が薄く開く。  
聞かなければいいのに、聞かずにはいられなかった。  
「………何で、しなかったの?」  
「そりゃお前イカれた薄ら笑い浮かべてたから、やっちまえばそのまま発狂すんの目に見えてたからな。  
 あれはなかなかの葛藤だった」  
さらりと答える、その思考回路に戦慄する。  
ただでさえ死にかけていた時のことをネタにされて不快の限度を超えているのに。  
「貴方って人は…自分さえ良ければ相手がおかしくなってもいいのね」  
全身を震わすセレスに流石にまずいと感じたらしい。  
「だから。どう見てもやべーからやんなかったっつう話だろ。いちいち絡むなよ」  
「……そういう選択肢が浮かぶこと自体がもう信じられないのよ……」  
「睨むなよ怖えーな」  
墓穴を掘ったエルドは舌打ちをして視線を逸らせる。  
「お前にあんな熱っぽく誘ってもらえたのに乗れなかったんだから後悔しててもしゃーねえだろ」  
怒りを滾らせるセレスには死神が何を言っているのかよくわからない。遠い異国の人間のような気すらしてきた。  
雰囲気に押されて更に言い訳が並べられる。  
「壊れかけってのは魅惑的に感じるんだよ。それにあのお前だったら背中に手ぇ回してくれただろうからな」  
「背中に手を回すくらい言えばいいじゃない」  
「嫌々やられても全然嬉しくねーよ」  
嫌々やられても。  
やはりある程度嫌がっていたのは理解していたのだと再確認する。  
エルドとこじれる度、心の中で別の自分からの激しい叱責を受ける。  
己を陵辱した男といつまでも、一体何をしているのだ、と。  
「もういい。今は自然に手が回ってくるしな」  
「……」  
憤りに支配され、返答ができなかった。  
自然でにはない。最近ではいつも儀礼的に、気を悪くするだろうと思って、だ。  
そんな己もまた許せなかった。  
「…………」  
そして最後には情けなさが重く圧し掛かってくる。  
最近のセレスの表情は、この男と対面している間中、ずっと歪んでいた。  
受け入れた時、もう少しばかりは歯車が潤滑に回ると思っていた。  
何でここまで噛み合わないのだろうか。  
この男の手を取った己の愚かさに再度気付かされる。  
 
突拍子がなさすぎて反論する気さえ萎えゆく会話に、気がつくとどっと疲れている自分がいる。  
倦怠期なんてものではない。  
描き出す関係はあまりにいびつすぎる。  
だめだ。  
合わない。  
やはりこの男と自分は合わない。  
顔を見ているのも嫌になり、背を向けて横になった。  
「おやすみなさい」  
「おい、それなりな相手だから思いとどまったって言ってんだぞ。理解する気あるか?」  
耳元での批難を、毛布をかぶることで遮断する。  
そのまま無言でいると、相手からも投げやりなため息が漏れた。  
「どうすりゃお気に召すんだか」  
 
 
 
潮風が優しく吹きつける。  
鮮やかな青海が夏の到来を歌っている。  
「…こんな所あったのね」  
茂みに覆われた狭く急な小道を抜けると鮮やかに視界が開けた。  
「俺も偶然見つけた」  
エルドに連れられて到着したのは、正に穴場と言っていい絶好の場所だった。  
海の青の上に広がるのは、晴れやかな空の青。カモメが優雅に飛んでいる。  
照り付ける陽射しと、もくもく立ち上がる真っ白い入道雲からは夏の訪れを感じる。  
見渡せばぐるりと向日葵の群生が浜辺沿いを彩る。  
足元には可愛らしい夏の花が咲き乱れていて、甘く爽やかな香りがゆったりと流れていった。  
低い崖に囲まれた、誰にも知られていないであろう小さな楽園。  
大国が消滅し、栄えた港町が掻き消されゆく只中でも、当然だが自然は変わらない。  
大空と大地の狭間。  
遠き日の、敗軍の将が二人。  
夏草揺れる大地から焼けつく砂浜へと歩を進める。  
故郷を浮かべる海景色は何故か不思議な気持ちにさせてくれる。  
懐かしい磯の香りがそうさせるのかもしれない。  
「いーながめ」  
「そうね」  
「お前が視界に入ってこそいいんだけど」  
「……」  
「何で嫌そうな顔すんだよ」  
「…別に。連れてきてくれて感謝してるわ。ありがとう」  
礼を述べても柳眉は下がったままだった。  
不貞腐れるエルドの背後で流石に己を戒める。  
今回はまったくの好意でこんな場所を紹介してくれたのだ。それなのに。  
心の整理がうまくつかない。  
邪険にしたいわけでは絶対にない。ないのだが、つい態度に出てしまう。  
波打ち際まで歩を進め、強い照射を手のひらで遮る。  
渚の風をまとうと穏やかさに雑じり、どこか切ない感情が沸々とわき出てくる。  
あの子のことを思い出す。  
あの魔術師の干渉のない世界では、志半ばで力尽きていたはずだった少女。  
「……」  
今でも時折、己の存在に惑う。  
何故あの子が死んで、自分などが生き残っているのだろうと。  
遠い昔に死んだはずの王女が在て、何故今を生きるはずの王女が逝ってしまったのだろう。  
そしてまた、今ではもう歴史書に仕舞い込まれた生前を追憶する。  
実妹に敗北した時、元副官が命を落とした恋人に行ったという秘術が脳裏をかすめるからだ。  
換魂の法。  
アリーシャに、できないかな。  
体もない。時間も経過している。無理なのは重々承知。それでもついそんな奇跡を願ってしまう。  
アリーシャ以外の皆はどうなったのだろう。解放された身では彼等の進退すらわからない。  
本当にただの人間に戻ったのだなということを思い知らされる。  
 
エインフェリアの死は消滅。それを切り抜けて女神から与えられた再生の肉体。  
例外中の例外の生――――――  
「また何か暗いこと考えてやがんな」  
物思いに耽っていたら、どこに所属しようが常に問題児だった男が苦々しく唾を吐いた。  
「私はもともと暗いわ」  
「何だよその返事。お前最近更に冷たくなりやがらねえか」  
「……」  
やはりエルドも気付いている。  
セレスが彼に向ける表情は日に日に影の濃さを増していた。  
「…段々正気に戻ってきただけよ。だって変でしょ。お互い、散々痛めつけてくれた相手とのんびり散歩してるなんて。  
 ……狂ってるわ」  
棘のある返答をしても、エルドは眉一つ動かさずに空を仰ぐだけだった。  
妙に受け流しがうまくなった。  
それを細めた横目で確認してからセレスは息をつく。  
案外、しつこいな。  
生前の優雅なとっかえひっかえ生活を知っているので、どんなに長くても一ヶ月だと踏んでいたのに。  
こんな場所に連れてきてくれることといい、お気に入りの女だというのはどうやら本当のようだ。  
とはいえこの男に気に入られても申し訳ないがまったく嬉しくない。  
……。  
ふと過ぎった不安を無理やり消散させる。  
大丈夫。  
この男が飽きっぽいのは元宮廷魔術師殿のお墨付きなのだから。  
ひと月後には同じ女性を連れていたためしがないとため息をついていた。  
華やかな姿態で異性を引き寄せて、仕込んである毒の針を密かに、気付かれることなく打ち込み酔わせる男。  
飽きたらそれで終わり。そう、そういう男だ。  
己に言い聞かせ、大きく深呼吸してから青空を見上げる。  
大丈夫。あわてずとも良い。  
もうすぐだろう、彼の方から別れを切り出してくるのも。  
今はきっと、知らずのうちに追い詰めまくってしまった負い目からくる修繕作業の一環のつもりなのだろう。  
それにいつまでも男を引きつけておく魅力が自分にあるとも思えない。  
それ以前にもう傷だらけで、まともな体ではない。  
もうすぐ白い滑らかな肌をもった女が恋しくなって、去っていくのだ。  
だったら、待とう。  
セレスは世界の片隅で、静かに関係の自然な崩壊を待っていた。  
情けないとも思う。  
だが、  
………もう、面倒はごめんだ。  
真珠光を放つ貝殻が陽光をはじき、輝く。  
懐かしいのだが、所詮は裏切りの身。幾許かの居心地の悪い郷愁。  
少しずつ伸びてゆく赤い髪が夏風にさらさらと揺れる。  
海の上に滅びた王都が浮かんで見えた。  
故郷を破滅へと導いたのは、惑いに苛まれつつも任務を遂行した黒い髪の美しい戦乙女。  
元王女とはいえ反逆者のセレスが彼女のことなど恨めるはずもない。  
纏う鎧は漆黒色で…………  
ハッとして、思い切りかぶりを振る。  
どうしてこう、何かにつけて彼を連想してしまうのだ。  
でも。  
何をしているのだろうか。  
戦場で生き、多分今回の生も戦場で死ぬ男。  
今こうしている間にも、あの大剣を力いっぱい振るい、戦っているのだろうか。  
それとも。  
…誰か、大事な人ができて。その人を、見つめているのだろうか……  
「俺がいるのにその考え事は流石に酷くねえか」  
心臓が跳ね上がった。  
エルドから零れた不満はセレスの淡い追慕を瞬時に叩き壊す。  
見透かされている。  
 
「ご、ごめんなさい…!」  
素直に謝罪したら、  
「何だマジでかよ」  
引っかけだったことを知った。  
見事に引っかかったセレスはぐうの音も出ない。  
「別にかまわねえよ。お前の心がどっち向いてるかなんて前からわかってる。俺が好かれてねえのもわかってる」  
つっけんどんに吐き捨て、ふいと身を翻して先に行ってしまう。機嫌を損ねたのは一目瞭然だった。  
慌てて追いついて取り繕おうとするが、先に弓闘士からのねちっこい嫌味が飛んできた。  
「白馬にでも乗って助けにきてくれるってかぁ?あの黒いのが。腹かかえて笑えるなそれ」  
陰湿な台詞。謝罪も切り出せない。セレスは遣る瀬無さで目を伏せた。  
嘘をついてもばれてしまうので、素直な気持ちを口にした。  
「…夢見たり願ったりすることはあっても、実際に来てもらえるなんて思ったこともないわ。  
 私はあの人にとってお姫様なんかじゃない……ただの忌々しい、腰抜けの宿敵。それだけよ。  
 …………殺しにきてすらもらえないわ」  
「……」  
エルドの目にほんの少しだけ異議の光が灯ったが、すぐに霧消した。  
気付きもせずにセレスは潮風に髪を揺らす。  
愚かだと感じつつも焦がれていたのは、あの人の肩越しに見える継続する明日だった。  
だがそれは戦乙女シルメリアの作る輪の中でだけの奇跡だった。  
解放されると特別な時間も消えた。  
覚めても消えない想いだけが残った。  
気まずい空気が漂ってしまい、その後はしばらく無言で歩き続けた。  
ふと顔を上げると、切り立った小高い丘が目に入った。  
「あれは……」  
「何だよ」  
「あ…ううん。あの丘。ちょっと形は変わったけど、生きてる頃に登ったことあるかもしれない」  
生きてる頃、と言う言い方も変だ。今だって生きているのだから。  
「ゾルデで夏祭りがあったの。お忍びで兄がフィレスと私を連れていってくれて。その時三人で登ったのよ」  
高い所からディパンを見たい。そう小さなフィレスがだだをこねて―――  
ただあの時は茂みも薄く傾斜も緩かった。幼い妹の手を引いて登ることもできた。  
今では頂きが地肌を見せているだけで、その下部はうっそうと繁茂している。  
「無理ね」  
セレスの諦めと同時。  
「行ってみるか」  
エルドは何の苦もないとばかり、セレスの答えも待たずにがさがさと茂みを掻き分け、太い蔦を引っ張り選別した。  
そして難なくひょいと登る。猫のように軽快な姿態。  
「ん」  
高みから手を差し延べられる。  
躊躇ったが、流石に無視も悪いと思い手を伸ばす。  
重なった瞬間に思い切り引っ張り上げられる。  
指示された狭い足場に着地し、エルドがまた登り、また彼女を導く。  
それを数回繰り返したら頂きに到達して視界が一気に拓けた。  
広々見渡せる青一色の世界に、ぽつんと壊れた故郷が浮かんでいる。  
「ありがとうエルド」  
「ここだったか?」  
「……わからない……」  
だが記憶は鮮明に甦る。  
あの頃は夢も希望も憧れも願い事も、すべてが波間と一緒にきらきらと輝いていた。  
兄の肩車ではしゃぐ、丸い丸い、きらめくあの子の瞳―――――  
ほんの少しだけあの夏の匂いがした気がして、やるせなさで目を伏せた。  
本当に、遠いところまで来てしまったと実感する。  
「解放されるのなら、自分ではなくてフィレスを指名できたらよかった」  
そんな都合のいい肉体再生は不可能と知りつつ、ついそう願ってしまう。  
無意識にぽつりと漏れただけの本音だったのに、  
「何だ今度はアレの話かよ」  
エルドにまるで汚いものを罵るように唾を吐かれた。  
いつまでもセレスの思考経路に自分の出番が来ないことを苛立っているようだ。  
わかっていても妹への度を越えた侮辱は聞き流せない。  
 
「あの子だったら貴方みたいな酷い男に引っかかるようなこともなかったでしょうしね」  
負けじと皮肉雑じりの流し目を送る。  
「冗っ談。俺にだって最低限を選ぶ権利ぐらいくれよ」  
セレスとて身内としての情がある。最低限などという言葉を持ち出されては流石にかちんときた。  
「あの子を罵るのはいい加減にしてよ。姉の私が言うのもなんだけどフィレスは十分可愛いでしょ」  
すると死神は冷や汗をかきつつ真顔で迫ってきた。  
「無理だろ…!58とか常識的に考えて………ッ!!」  
「誰がそんなこと言った」  
追憶の向こうにいる実妹。容姿も性格も全然違う。飾ることをしない、揺らめく炎。  
それにしてもエルドのこの、実妹へ向ける憎悪の正体は何なのだろう。  
疑問を放置しておくのは好きではない。この際思い切って問いただしてみることにした。  
「そこまで嫌うのは、貴方が占拠してたラッセンに包囲網を敷いた張本人だから?」  
「やなこと思い出させるなよ」  
童顔が見る見るうちに渋味で染まる。  
17歳の少女が幾つもの大国を巻き込んで巡らせた壮大な策略。  
エルドは生前それでラッセンに孤立させられ、追い詰められて奮戦虚しく死亡した。  
それでも最後まで足掻き、血反吐を吐きながらも矢をつがえ、まさしく鬼神の戦いぶりだったと聞き及んでいる。  
「まあ、それも勿論だが。それ抜きにしてもどうも好かねえ」  
「もう。何でよ」  
「知らねえよ。多分お前射抜いた女だからじゃねえの」  
息が止まった。  
エルドの怖いところがもう一つ露呈される。  
時折不意に、心臓をぐっと掴むような台詞を無意識に吐くところ。  
何の飾りもつけない本音がセレスの心にぐっと堪えるのだ。  
そしてそれはまた一つ彼を振り払えなくなる重石となる。  
この男は、何だかんだでセレスのことをちゃんと想っている、その事実確定。  
セレスにとっては非常に切なく心苦しい、重い現実。  
「帰るか」  
「…えっ?……え、ええ」  
慌てて同意した。  
下方を見降ろす。登るのは比較的楽だったが、降りるのは難しそうだ。  
斜面の泥で汚れることを覚悟する。  
だがエルドはセレスの手をとり、ぐいと逆方向へといざなった。  
「え?」  
ざっと茂みを掻き分ける。  
すると茂みの向こうに隠れていた、なだらかな迂回路が正体を現した。  
「…………」  
唖然としているセレスの隣りにいる男がそっぽを向き、声を殺して嗤っている。  
「知ってたのね?」  
わざわざ蔦をつたって泥にまみれなくても――――わざわざ手をつながなくても良かったのだ。  
「さーぁ」  
「〜〜〜〜〜〜っ」  
先程のやりとりで培われたある種の温もりが一瞬で消滅した。  
手を振りほどこうとするがほどけない。  
この男にも苛立つが、あれ程狡猾な手段で貶められた経験をしたくせに、  
まったく学習できていない自分にも腹が立つ。  
眉間に皺を寄せたまま、手を引かれて歩き出した。  
「ちょっと!本気で怒ってるのよ聞いてるの!?」  
怒鳴りつけた相手が顔を上げた。  
髪が強い陽の光を浴びて光の輪を作り、金色に輝く。  
「いいだろ繋いでたって。どうせ予定なしのお留守状態なんだからよ」  
絶句する。目を見張るしかできない。  
一瞬、相手が誰だかわからなかった。  
嗤っていない。  
笑っている。  
うだるような熱さのせいで視界がひしゃげているのだろうか。  
そう思いたい。  
 
「帰ろうぜ」  
困る。  
――――――何故、笑う。  
そんな風に新しい一面を見せられたって、変わっていかれたって、もうすぐお別れなのに。  
困る。  
戸惑うことしかできない。  
真夏の潮風に吹かれ、『恋人』の手を引く男は確実に幸福を感じている。  
振り払えない。  
息が詰まる。  
本当に何だか、小さな子供のよう………。  
 
 
 
陽射しの照りつけで目が覚めた。  
寝ぼけ眼で天井を見つめていたら、裸体を抱かれているのに気付いてびくりと跳ねる。  
「…」  
硬直したままで昨夜の伽を思い出す。  
快楽の途中で記憶がぶつりと切れている。  
そうだ、途中で気を失ってしまったんだ。  
迂闊。  
いやだ変なことされてないでしょうね  
との疑惑が脳裏をかすめたが、もう散々されてることに気付いてがくりとうなだれた。  
こちらがある程度慣れて落ち着いたのを察したからか、最近さらに濃密な絡みを要求してくる。  
困る。  
……いいからなお困る。  
寝息をたてる男を横目で見やる。  
眠っている姿は何とも無放備で、表情がないとその未成熟な顔立ちがより強調されて見える。  
邪気の宿らない素顔は幼く、正直に表現してしまえば、可愛らしい。  
本当に子供みたいな男だ。  
見た目だけは。  
とても自分と一つ違いの肉体年齢とは思えない。  
背が低いのは遺伝か、それとも生まれ落ちた先の不運から受けた何らかの妨げによるものか。  
こういう容姿の男が好きな女にはたまらないんだろうけど……。  
青息吐息と共にそう思う。  
夏の間にまた少し元の長さに戻りつつある紅い髪に埋もれてぬくぬくと眠っている。  
以前は目が覚めると既に不在の場合が多かったが、最近は起きてもベッドに残っている率がいやに高い。  
気を許されたのか、それともさらにナメられてしまったのか、  
どちらにせよこの男ではまったく嬉しくない。  
……。  
違和感を感じる。  
なんだか。気のせいだろうか。  
また背が縮んで小さくなってないかこの男?  
ただでさえ自分と大して変わらない…いや、実際は自分より…な身の丈なのに。  
…………。  
さすがに。  
「そんなわけない…か」  
それにしても童顔な男。  
この現場を押さえられたら自分の方が少年趣味の性癖有りとして変な目で見られそうだ。  
時折成人もしていない少年と閨を共にしているような妙な背徳の情に苛まれる。  
この少年に振り回されているのかと思うといっそう情けなくなる。  
嘆息する。  
そうじゃない。  
この男と私なんていう、有り得ない組み合わせがそもそもの違和感なのだ。  
ただ、同じ国に属し同じ戦乙女に選定されほんの少しだけ道が交わっただけの、まったくの他人。  
本当に。  
なんで、こんなことに。  
この男との一夜を望む女なら、ロゼッタにいた頃それこそ星の数ほどいたのに。  
 
何故私。  
世の中とはうまくいかないものだ。  
認めたくはないのだが――――どうやら私はこの男に、非常に弱い。  
強引なやり方に常に翻弄され、ごまかされ押し切られ、知らぬ間にペースに巻き込まれている。  
……苦手なはずだ。  
海はゆらりと揺らぐ碧。  
夏が終わろうとしていた。  
依然関係は続いている。  
「……」  
柳眉が歪む。  
甘味も強いが、苦味も渋味も強く、最早味覚が崩壊しているような生活。  
時は移ろい、ヴァルキリーに解放されてから既に数ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。  
セレスの希望的予測ではとうに終わっているはずの関係。  
すぐ飽きるとかいう台詞は一体何処へ行ったのだろうか?  
流石に先行きに不安を強く感じ始める。  
唯一つ意外なのは、口では滅茶苦茶なことを言っても、セレスに対しかなりの負い目の念を継続していること。  
快楽は常にセレス優先を心がけており、白布の上ではこの上なく甘たるい。  
強引だが、強めの怯えを見せた場合は決して無理強いをしてこない。  
最近さらに調子に乗ってきて変な体位やプレイをしたがるのは困ったものだが。  
溜め息をついてから呟く。  
どうせ起きているのだ。  
「ねえ…放してくれない。起きたいんだけど」  
返事がない。ただの狸寝入りのようだ。仕方なく挨拶してみる。  
「おはよう」  
ぶらつき癖のある男と未だ完全回復せず沈みがちな女。二人の生活は自堕落になりがちだった。  
せめて生活の基本として挨拶くらいはきちんとしましょうと、無理やり承諾させた。  
放っておくと気が向いた時、ごくたまにしかしないからだ。  
空寝男はやがてもぞもぞと動き出し、  
「おはようお姫様」  
わざとらしく首筋に口付けてきた。  
「今日もエロいな」  
「あなた程じゃないわ」  
朝っぱらからどういう会話だと思いつつ、束縛を解いて身を起こす。  
腰掛けたセレスの腰に腕が絡みつく。  
「身体戻った…」  
嬉しげに頬をよせ、肌ざわりを楽しんでいる。  
女体は豊潤を取り戻し、傷跡の他はほぼ元の体型に戻っていた。  
肉感的で抱き心地の良い肢体。  
纏わりつく腕を払いのけると豊かな胸がたゆんで柔らかに揺れる。  
皮肉にも胸のふくらみは無傷だった。  
が、その谷間に埋もれて、深い傷跡がある。  
「…どこが『戻った』のよ?」  
忌々しげな疑問符が、喉から嫌味を纏って出て行く。  
朝の柔らかい光が女を包む。艶麗な曲線を描くが、同時に生き地獄の跡も浮き立った。  
既に鎮痛したが、絶望の爪痕は上半身のあちこちで黒ずみ、汚く肌に残っている。  
見た目はわからないところでも、触れると凹凸がわかる。  
生死の境目から脱した時は命があっただけ、と思えたものだが、セレスとて一応は女、  
時間が経てばひどくつらく思う。  
この傷跡はあとどのくらい消えてくれるのだろう。  
この男が去るころには少しはきれいになっているだろうか。  
「こんな傷物の女といつまでも。本当に物好きね」  
自尊心も補修が追いついていない。セレスは不必要なまでに己を卑下するようになっていた。  
そろそろ放っておくと邪魔になってきた後ろ髪をまとめていると、あらわになった項に優しい口付けが落ちた。  
「やめて」  
と言ってもやめる相手ではない。  
むにゅと豊穣の果実に埋もれ、谷間に舌を這わせる。  
 
猫か。  
呆れるも、そうやって傷を愛でるのは罪悪感からくる行為なのだろうなと思うと、無下にするのも躊躇われる。  
口付けの軽い音を立ててから、ぼそりと本音が落ちた。  
「俺がやったようなもんだからな」  
「……」  
心身共に穢された躯。こんな風に男と交わるのはこの死神が最後だろうなとセレスは薄々感じていた。  
それにしても。  
「あなたって存外ベタベタするの好きな人だったのねぇ……」  
肌に降り注ぐ口付けは一向にやむ気配がない。セレスも最早好きにしてくれ状態である。  
気まぐれな男。行為に及ばずとも、放っておけば一日中くっついている日もある。  
こんな一面もあったのか。戦場ではわからなかった。  
「お前の肌は甘い」  
口付けられながらゆっくりと押し倒されたので、流石にそこまではと退け払って身体を起こす。  
「じゃあ次はそういうの好きな子選ばないといけないわね」  
心に一定以上近寄られない為の棘を撒くと、  
「ひっ!!」  
不意打ちで腰から肩に舌を這わされる迎撃を食らい、思わず悲鳴を上げる。  
「ばかっもう!変態っ!!朝になったら区別つけなさいよっ!!」  
枕でばふばふと殴りつけてベッドから退避する。  
退治した小さな怪獣から忍び笑いが聞こえる。  
その音に含まれるからかうような余裕に、いささか苛立つ。  
「腹減った。メシ」  
「はいはい……」  
「頼むから食えるもん出してくれよ」  
「…ならご自分でどうぞ」  
冷ややかな返答と視線しか送れない。  
放っておくと朝飯はお前でいいとか言い出しそうなのでさっさと着替えを始める。  
会話で示された通り、セレスは料理が下手だった。  
食べられれば良いと思っているし、食べさせて喜ばせたい相手もいないので、上達もしない。  
エルドの方がまともなものを作る。しかもかなり美味しい。あまりやってはくれないが。  
着替え終えてちらとベッドを見やると、まだ眠たげな視線とかち合う。  
細すぎるわけでもなく、かといって筋肉隆々というわけでもない。  
身長はともかく均整のとれた肉体は無駄のない筋肉で構成され、狩りのための体躯だと納得させられる。  
闇から闇へ疾走する姿はあたかも自身が放つ弓矢のよう。  
鋭い牙。暗躍するための音を連れてこない脚。硬そうでいて柔らかい姿態。  
集団での狩りには向いていない。単独猟で最大限の力を発揮するタイプ。  
数百年前、これに捕らわれた。  
強い陽射しが髪を濃く照らしつけると、らしからぬ金色に染まる。  
見つめ続けていると死神の寝ぼけ眼はすうと消えた。目は細まり口元は歪む。  
その挑発的な表情から目をそらす。  
多分。  
この男の方は、バランスの偏っている二人の力関係を、至極心地よく思っている。  
「何」  
上目遣いでも変化のない凶悪な視線が注がれる。  
多分それは、獲物を見る目。  
捕らえた獲物に反逆の隙を与えないよう用心深く見張る視線。  
そんな目で見澄まされては、つい反感の炎が灯ってしまう。  
「別に。本当背が小さくて細い男だなと思ってただけ」  
つんとそっぽを向くと、  
「悪かったな」  
弱点を突かれ興ざめしたのだろうか、嗤いが消えて口が尖る。  
「嫌味か?それとも男に細いだなんて褒め言葉になると思ってんのか?」  
エルドと同じように不機嫌なまま無言でいると、  
「へえへえ。どうせお姫様は無駄にムキムキなのがお好みなんだろ」  
そんな嫌味で返してきた。  
「……特に好みってわけじゃないわ。好きになった男がそうだっただけよ」  
皮肉の応酬は当然気まずい雰囲気を醸し出す。  
 
「ったく。もっとスカッとした性格だと思ってたがよ、ずいぶん辛気くせえ女だったんだな」  
「どこの誰かしらね。拍車をかけたのは」  
「…っと、かわいくねえ」  
ドアを閉める瞬間に舌打ちが聞こえた。  
ため息ばかりの毎日。疲労がますます色濃くなる。  
エルドはこんな生活で楽しいのだろうか?  
言い争いは好きではない。だが気付くとどうしてもそうなってしまっている。  
「好きになった男、か…」  
自分で口にすると無駄に自覚してしまい、いっそう気落ちする。  
虚無感に支配されつつ食事の用意を開始した。  
嫌だな、エルドのあの喋り方。  
何でこんなに嫌なんだろう。  
あの人だってすごく嫌味で突っ掛かってくる人だったのに、どうして。  
「………」  
動作がふと停止する。  
そういえば何故だろう。疑問がむくりと頭をもたげる。  
嫌味の質が違うのだろうか。あの人もかなりの粘着質だったわけだが。  
疑問への自己解決は早かった。  
あの人の言動は、私を私のままでいさせてくれる。  
あの人とは対等だった。やったらやられる、仕掛けたら仕掛けられる関係。  
悪乗りすることも多かったが、そう、こちらが付け入る隙を必ず残しておいてくれた。  
罵りつつも、私という女を認めてくれていた。  
いい意味での間抜けさ。かと思えばそれらがすべて演技だったのかと疑うような、圧倒的な戦力を惜しげなく振る舞う。  
豪放な太刀筋。纏う気迫と相手を捕らえる強固な眼差し。そんなギャップがセレスには、  
死ぬ程愛おしかった。  
大きくて広い背中。この男が味方、その心強さと深い安心感―――――  
そこまで回想して、セレスは突如その追慕を強制遮断した。  
比較してしまったからだ。エルドは本当にただ一方的なだけ、と。  
信じられなくて罪悪感と共に大きく戸惑う。  
「……最低ね」  
醜態を恥じて歪んだ顔を覆った。  
合わない相手との同棲生活ほどつらいものもない。セレスも限界が近かった。  
先程の言い争いだってどうだ。どうすることもできない身体的な特徴を罵るなんてどうかしている。  
エルドへというよりは己への嫌悪と軽蔑が日に日に重量を増してゆく。  
だんだん嫌な女になっていくな、私――――――  
肌に残る情交の感覚がいつも虚しさに変わる。  
エルドにもいいところは沢山あるのだ。  
ただ、私とは合わない。  
長い苦悩の末到達した結論だった。  
やはりこの関係はおかしい。食事を終えたら今日こそ別れを切り出そう、そう決意した時だった。  
「作る気ねえならどけよ。腹減った」  
背後の気配にびくりと波打つ。いつの間にかエルドが真後ろに立っていた。  
返事をする前に退けられ、朝食の支度を交代される。  
料理に関してはエルドの方が手際も良い。その上認めたくはないが正直かなり美味い。  
同じ材料、器具、調味料を使ってこの違い。  
何だか悔しい。  
「意外か?」  
文句のつけようがない鮮やかな腕前を披露しつつ、隣りに立つ女の微妙な面持ちを楽しんで訊ねてくる。  
「ええ」  
素直に答える。  
「昔、どうしてもこっち向かせたかった女がいてな。そいつの為に腕磨いた」  
突然持ち出された打ち明け話。  
セレスは驚いて目を見張った。いたのか、この男に。そんな女が。  
「どんな人?」  
「気になるか?」  
「ええ。是非正反対な女になりたいから」  
「あーったくいちいち噛み付くんじゃねえよ朝っぱらから。乳揉みしだくぞ」  
 
あれだけ揉んでおいてまだ足りないのかこの変態  
と罵りたいところだが、ぐっと堪えて答えを急いた。  
「教えて」  
「予想つくだろ。俺を腹から出した阿婆擦れだよ」  
絶句するセレスと作業を続けるエルドの間を、肉と卵の焼ける香ばしい匂いが漂う。  
「害虫の餓鬼はどう足掻こうが害虫だ」  
自嘲というよりは真実を告げる口調だった。  
立ち尽くすセレスを置いて作業は進み、朝食の支度は終了した。  
「冷めないうちにどうぞ?お姫様」  
何と会話をつなげばいいかわからないまま、無言で椅子に腰を下ろす。  
「安心しろって。変なモンなんて混ぜちゃねえよ」  
「…わかってるわ」  
綺麗に盛り付けられた料理を口に運ぶ。  
美味しい。  
エルドの良いところをあげるとすれば、這い上がらない人間を嫌い、生まれ落ちた先の不運を愚痴らないところだった。  
恵まれていたセレスと自分を比較したりなどしない。  
羨み妬む、その醜さを知っているからだと言った。そこには先刻阿婆擦れなどと蔑んだ母親の影がちらついた。  
微かな同情が湧き出る。だがその分蹴落とそうとする男なので素直に評価できない。  
食事が済むとセレスは片づけを始めた。  
終わる頃、背後からの不満声が耳に届く。  
「何だよまた気に入らねえのかよ」  
ソファに移動したエルドの手中できらめく貴金属がちゃらちゃらと揺れた。  
エルドは宝石や貴金属の類を運んできてはセレスに渡すのだが、無情にもすべて返却の刑に処せられていた。  
困り顔のセレスが濡れた手を拭きながら返答する。  
「気に入らない以前に、いらないって何度も言ってるじゃない」  
「何で」  
「悪いけどあなたから貰い物をしても困るだけなのよ」  
高価なものなど受け取っては後で何を要求されるかわからない。  
感情表現の苦手な子供が気を引くために物をくれるのに似ている姿が切ないのだけれども、  
それ以上に、ちゃんと家賃入れてるけど何か?と暗に言われているような気がして嫌過ぎるのだった。  
「似合うと思うがな。これとか」  
すっと手をとられて指輪を一つ填められた。  
おぞましさに一瞬凝固してしまった。  
銀色の光が、あろうことか左手の薬指できらめいたからだ。  
「やめてっ!!」  
払いのけ、悪寒の元を指から引き抜いて投げ捨てる。  
環状の貴金属がコツンと音を立て、小さく跳ねて転がった。  
「ひでえ」  
真っ青になって肩を震わすセレスに、どうでもよさそうな非難が漏れる。予想はついていたのだろう。  
「冗談でもやっていいことと悪いことがあるでしょ!」  
怒鳴られるとエルドは嗤い、左手の薬指を右手の人差し指で指した。  
「何故左手の薬指に結婚指輪をはめるか。一説、知ってるか」  
無言のセレスに解説が続く。  
「奴隷の証だ。大昔左手の薬指の血管は心臓に直結すると信じられていた。切れ目のない輪をはめることは所有を示す。  
 どんなに足掻こうがお前は俺のもの。どこにも逃げられない。逃がすつもりはない―――ってな」  
「……」  
冷笑雑じりの死神はあまりにおぞましかった。  
だがセレスとて負けてばかりいられない。悪鬼の形相で睨み返すと、  
「冗談だっての。おー怖ええ怖ええ」  
左手をひらひらさせた後、そのまま手の甲を差し出してきた。  
相も変わらずにやついたままで。  
「むしろ俺にハメてほしいんだけど」  
下手に出ているような台詞を吐いても戯言の一つ一つが挑発的なので余計に癪に障る。  
セレスは殺気立ったまま悪戯の主を見下ろしていた。  
「ねえ本気でいい加減にしてよ………………それとも本当は、私が苦しんでいるのを楽しんでるの?」  
「ちげーよ。冗談じゃん。何でそういちいち重苦しく受け取るんだよ」  
「……何処が冗談なの………?」  
無音が支配した。お互いを理解できない表情が苦々しい。  
 
場違いに、きらきらと光を反射する宝石達。  
このまま気まずいままいても仕方ないので、セレスは気にかかっていたことを一つ訊ねてみた。  
「…もしかして慰謝料のつもりなの?」  
「別に。慰謝料なら毎晩返してるだろ?体で」  
あまりに馬鹿馬鹿しい発言に長嘆するしかなかった。  
「まあ話を元に戻すと、ご高潔なお姫様のお眼鏡に叶うモンが一つくらいねえかなと」  
「そういうのやめて。全然嬉しくないのよ」  
「へえへえ」  
辛辣な言葉など吐きたくないが、いくら言っても堪えない男なのでどうしようもない。  
「だいたい、これ、みんな…どうやって手に入れたの?まさか汚い手段を用いて手に入れたものじゃないでしょうね」  
「しねーよ。いいからほら、減るもんじゃねえんだ、もらっとけよ」  
「いらないって言ってる!しつこい!!」  
ついに怒鳴り声をあげ、乱暴に押し返した。  
「お願いだから、やめて。いらないのよ。別れる時後腐れないようにしたいの。もうすぐでしょ?」  
早口の中に何気なく終わりを匂わせてみたが反応はない。  
ずっとはぐらかされ続けている。セレスも流石に痺れを切らした。  
「ねえエルド、私達そろそろ終わりにしましょうよ」  
提案に、やれやれといった風な反応を示す。  
「何だよ。次のいいチンポ見つかったのか?」  
「…あなたのその下品な所が大嫌いだわ」  
沸き起こる嫌悪を隠さず睨み付けてもびくともしない。平然と身を乗り出してくる。  
「じゃやめてやる。で?そのステキなビチグソ野郎のお名前は?」  
「……もしいたとして、聞いてどうするのよ」  
「決まってんだろ。今日は暇だし念入りに嬲り殺してくる」  
悪意で固めたその言い草にため息ばかりが漏れる。  
そんなセレスを得体の知れない生き物を観察するような双眸がじっと見据えている。  
「女に先に飽きられるなんざ初めてだ」  
「何で貴方ってそう見当違いな方向に飛んでいくのかしら…」  
「飽きたんじゃねえのか?じゃ他に男が出来たと疑われてもしょうがねえだろ」  
冷笑には渦巻く嫉妬が見え隠れする。美形なのだからそんなもの感じなくていいのに。  
「わかってるくせに」  
「何が」  
「こんな傷跡だらけの体で次の男も何もないってこと」  
お堅い女でもある。恋仲になっていざ服を脱いだらこの有様では詐欺だと思い込んでいた。  
それに。  
「それに…………他の男…なんて……………」  
小さく消え行く呟きの裏には一人の男の存在が感じられた。  
「ならいいじゃねえか別に。俺で」  
それでもエルドの結論は斜め右上を飛んでゆく。  
「よくないわよ。私、不実過ぎるでしょう。こんな……最悪の関係、早いとこ終わりにしたいわ」  
と言って口ごもるセレスに、恋人もどきから長嘆息が漏れた。  
「お前ほんっとにクソ真面目だな」  
クソ真面目と罵られた女が顔を上げる。その表情には心底からの苦渋と悲哀が滲み出ていた。  
「ちゃんと、愛したいけど。合わないの。どうしてもうまくいかないのよ……」  
真実の告白は苦しげで痛々しい。  
「だぁからそんな悲しい顔すんなって。俺は別にどうでもいいんだから」  
「嘘。貴方だって本当は頭にきてるんでしょ」  
否定で切り返されたエルドは目を細めた。  
「ああむかつくな。そりゃそうだろ」  
やはり納得いかない部分も多いらしい。滲み出る毒気にセレスは怯む。  
だがそのどす黒さはすぐに引っ込められた。  
「けど仕方ねえよ。俺はそれだけのことしたんだろ。好きなだけ当たり散らしゃいい。  
 あの黒いののことだって、無理して忘れるこたねえよ。好きなままでいればいい」  
「え…っ」  
驚嘆して目を見開くセレスに、  
「その代わり、しばらく手放す気はねえがな」  
やはりかと思わざるを得ない残酷な追い討ちがかけられた。  
 
だが、『しばらく』。その響きは重荷にも救いにも感じられる。  
継続はされるが、必ず終わりを運んでくる言葉。  
エルドが手のひらをこちらに差し出す。重ねなければならないのは暗黙の了解。  
嫌だったが手を添えた。  
手をつないだまま、そっとソファに腰掛けるよう誘導された。  
「俺がいなくなると困るだろ?」  
甲に口付けが落ちた後、そのまま腕を這い上がり舌が流れる。  
「…っ」  
甘く柔らかな刺激。快感がぞわぞわと背筋を這い上がってくる。仕込まれた躯がつい反応してしまい、ぴくりと眉が歪む。  
「……我慢するわ」  
「する必要ねえじゃん」  
「もう、いやなの。……考え方がまるで違ってはじき合ってばかりなのに、こんな関係おかしすぎるわ」  
「そりゃま、俺は別に好かれようなんて思っちゃねぇからな。  
 何をしたかくらい覚えてる。本気になったところでどうせお前が困るだけだろ」  
つまり本気ではない。遠まわしに言われたことでセレスの心に微かな安堵が広がった。  
同時に、本気ではないのにこんなに苦しめられているという苛立ちも募る。  
「…わかってるじゃない。安心したわ」  
そう返すセレスの表情にも、いつの間にかエルドに似た闇色が濃くなっていた。  
どちらも退かない。  
思い通りにならない女に舌打ちしてから顔を寄せてきた。  
「ほんと、だんだんそっけなくなってくな。最近名前すらちゃんと呼んでくれねえのはどういうわけだ?」  
更に距離を狭めてきた唇が嫌で、顔を背ける。  
「ひ…っ」  
ぞくりと泡立つ。  
拒絶された唇が首筋に吸い着いたのだ。  
「やめ…っ!」  
「今更」  
「いやっ!」  
もみ合いながらも死神側が優勢を崩さない。もがくセレスを腕に抱き、耳たぶを甘噛みながら嗤う。  
バランスを崩し、どさっ、と押し倒された。  
抵抗する両手首を捕らえられ、頭上で押さえつけられる。  
圧し掛かってきた男は、にやつきをすうと消して真顔を見せた。  
「あんま怒らせんなよお姫様。俺が悪りいのはわかっちゃいるがよ、そっけねえのも度を超えると流石にむかついてくる」  
脅迫としか感じられなかった。  
駄目だ。  
駄目なんだ、この男は。  
もう処置の届かない場所まで闇が巣くって病んでいる。  
ただでさえ心の折れた私の手に負える相手ではない。  
絶望を確信して青ざめるセレスに更なる距離感を感じたのか、圧力を消し、慌てて宥めてくる。  
「だからさ。そんなツンツンすんなって。今はまだ俺の女なんだからよ。反抗しなけりゃちゃんと可愛がってやるから」  
猫なで声を与えられても傷を負ったとはいえ元将軍、大人しく言うことを聞く女でもない。  
突き飛ばすとソファから飛び退き、十分な距離をとった。  
「…結局そうやって脅すのね。女?……奴隷の間違いでしょ」  
荒い息をしつつも毒を放つ。  
暗闇から引っ張りあげようとしても、もうかなり昔に手遅れになっている男。  
それを選んだ女は消沈してうな垂れる。  
「あなたのその強引な束縛がいいって女もいるんでしょうね。でも私は大嫌い。私達やっぱり合わないわね」  
「だから何でそう反抗的なんだか」  
すっと立ち上がり、近寄って、眉根をよせたままの女の顎を持ち上げる。  
今もまだエルドは彼女からの自然な微笑みを享受できていない。  
「眠り姫してる時はめちゃくちゃ可愛いんだがなあ」  
「できれば普段もそう在りたかったわ。でも、無理よ」  
「無理で結構」  
そう嗤うと、再び腰を抱かれて引き寄せられた。  
「やめて!嫌だって言ったでしょ!?」  
今度はいくら足掻いても聞き入れられない。  
「嫌っ!」  
 
「なあお姫様。俺は謝ったよな。命乞いみてえに必死こいて、哀れなくれえに頭下げて。  
 あんな情けねえ思いさせてくれたのはあの阿婆擦れの他じゃお姫様が初めてだ。この責任はきっちり取れよ?」  
「何言って……!!」  
ぐっと抱き締められた瞬間、身体中の毛がぞわっと逆立った。  
そして気付く。  
愛情ではない。  
これは、狂人の執着。  
「あの女と正反対の女になりたいって言ったよな。安心しな、もう十分正反対だから。  
 けど残念だったな。俺が欲しかったのはその正反対の女なんだ」  
絶望しそうになった。  
だが力を振り絞って必死で踏ん張る。立ち込める闇の匂いに惑わされぬよう強く睨みつけた。  
「貴方、今度の生でもずっとこんなこと続けるつもり?」  
斬りつけるような一言を放つ。心の琴線に触れたようで、死神は眉をひそめ、束縛を緩めた。  
その隙を逃さずもう一度突き飛ばす。  
自由になってから深呼吸を重ね、言葉を続けた。  
「あなたもう青光将軍でも暗殺者でもないのよ。せっかく真っ白な状態で自由になれたのにいつまでもこんなこと…  
 真っ当な人生を歩んでみたいとか思わないの?」  
震える自身を抱き締めながら諭すセレスは、口調とは裏腹に心底から怯えているのが明白だった。  
エルドはずっと無表情でいたが、  
「そうだな。考えとく」  
毒気を抜かれたらしい。どうでもよさそうに空を仰いでソファに沈んだ。  
殺気立った空気は消えた。修羅場を切り抜けたことに安堵する。  
以前の覇気を失ったセレスには毎日が苦闘の連続だった。  
息が整った頃、疲労困憊に耐え切れず椅子に腰掛けたセレスの背後から腕が回される。  
「悪かった」  
「やめて。軽く言われても嘘にしか聞こえない」  
「俺さぁ――――最近気付いたんだけど」  
拒絶を無視して紅の髪を梳いてくる。  
「俺に興味示さねえ女ってすっげー好き」  
高圧的だが低く甘たるい声色。ただただゾッとする他なかった。  
「やめてって言ってるの。気分じゃないわ」  
「拒むなよ今更」  
「…どうしても嫌な時は嫌って言うわ。…その時はやめてくれる約束でしょ?」  
「さあ?」  
「さあって…」  
強張る表情を楽しみながら顎をつまみ、唇同士が接触する寸前に嗤った。  
「お前次第じゃねえの」  
 
 
 

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