木の葉が萎び、舞い散り始めた。  
「今年は寒くなるだろうね」  
しわがれた声で老女がぼやく。  
彼女が零したのは季節的な寒さの話に限らない。  
一気に民が流出したゾルデは最早廃墟に近かった。  
集落としての弱体化を嘲笑うように木枯らしが吹く。  
大量の空き家群を狙う盗賊の輩も格段に増えた。  
セレスも数日前、偶然野盗の一団に出くわし、それを蹴散らしたところだ。  
安全な地とはお世辞にも言えない。  
またひと家族、全員が暗い表情を湛え、この地を捨てて出て行った。  
ぼろぼろ欠けゆく港町。栄えていた分、更に痛々しい。  
終わりゆく街を暗闇が包む。  
その中で、月明かりだけが青白く世界を照らしている。  
行き場なくその地に残る亡霊のような女も。  
その夜もまた拒否する事ができず、白布の上で彼の男を受け入れていた。  
「………はあっ…ぁん、…あん、あ…。や…ん」  
喘ぎ声が甘たるく何も無い街の一室を撫でる。だがその音源は常に悲しげだった。  
不穏な関係は小康状態を保ったままだった。  
追い出したくても、すいとかわされてしまう。  
今夜も迫られ、仕方なく体を許していた。  
「うぅ…、くうっ」  
とはいえ今宵の褥は格別の羞恥に襲われている。  
小刻みに揺れ動く裸体の女は膝をつく体勢を必死で維持していた。  
股下には男の頭部。  
舌が震える芽と割れ目をちろちろと舐め回している。  
いくつ手札を持っているのだろう。つくづく変態としか言い様がない。  
「もっ…やあっ…」  
最早了承して跨ったことを後悔するしかできない。  
羞恥心を煽り立てるとんでもない体位である。  
何とか体勢を維持しているのに、絶妙な舌技で執拗に責めたててくる。  
「やっ!」  
また女体がびくりと弾ける。  
「はあっ、あ…ぅ――あっ」  
頬を染めつつも快楽の波に揺蕩うしかできなかった。  
言葉巧みに誘導されたとはいえ、うっかり要求に応えてしまった自分も自分だと蔑む。  
「ああっ、んっ。ほんとにもう――――はあぁあっ」  
肌はじっとりと汗ばみ、肩より伸びた髪を淫らに貼り付かせている。  
恍惚に翻弄されていても女の表情は暗かった。  
あれから何度も何度も別れ話を持ち出した。さり気無く、時にははっきりと。  
だがその都度見事になあなあにされて、爛れた関係は不安定に継続していた。  
生前のセレスなら有り得ない醜態。  
だが染み込まされた恐怖と怯えは彼女からなかなか消えない。  
悪い言い方をすれば、言いなりだった。  
消え行くゾルデではこんな現状を相談できる相手もいない。  
今では街のまとめ役の地位についた、というか追いやられたイージスとは接点が少なくなってしまっていた。  
それでも顔を合わす度、いつも心配そうな面持ちを向けられるのがいたたまれない。  
「あっ!」  
ひときわ高い嬌声が飛ぶ。  
尻肉をやわやわと揉み込まれ、更なる快楽を煽られたからだ。  
「やあぁ…っ」  
悶えて身をくねらせる。  
肉体はこんなに悦んでいるのに魂は心底から怯えて縮こまっている。  
現実をどうしても受け入れたくなかった。  
逃げ場を求める精神が過去へと迷い込む。  
そういえば生前、エルドが連れていた女にギロリと睨まれる、なんてことがあった。  
不快だった。  
 
どうしてそんな目で睨まれなければならないのか。  
そもそも睨む必要があるのか。  
見ればわかるじゃない。  
私はどう見てもそんなんじゃない――――そんなんじゃ………………。  
だが今思えば、あれは彼女の女の勘というやつだったのだろうか。  
いくら睨まれたところで、こちらとて全然嬉しくないのに。  
……結局。  
ずっと、この男の手の内なんじゃないかと、気付きたくないことに気付いてしまう。  
何故私。  
かわいい女の子なら、シルメリアのエインフェリアにもあんなにたくさんいたのに。  
気の合う子もいたんじゃないだろうか。  
何故私。  
虚しい。  
生理的に滲む涙がつうと伝い滴る。  
瞳に光は灯っていない。  
―――――何、してんだろ…私………。  
「ひあっ!?」  
突如現実に引き戻される。  
舌を深くねじ込まれ、唇まで駆使して本格的にねぶり始めたからだ。  
「やっ、ちょ……っ!あっ、くぅ…ん!はあぁっ」  
あられもない声とともに、腰が抜けそうになるのを必死で堪える。  
それ以外の行動がとれない。  
「待っ…、ねえっも、もうやだ…っああ、あああぁあんっ!!ひっ!んああぁっ」  
より敏感になっている肉芽に鼻があたり、思わず反り返る。  
それでも腰は落とせない。どうしても落とせない。  
「んんっ、は、はああ…」  
頑張って耐え凌いでいるのに、お構いなしに強く吸い付かれて蜜を吸い取られる。  
「ああああぁぁあっ!!」  
上半身を支える膝はとうに限界で、情けないぐらいに震えていた。  
ここまでくるとある種の拷問にも思えてくる。  
「も、だめっ、やめてえっ、お願い…っ」  
だが懇願はことごとく無視だった。底意地の悪さのせいか、唐突に冷えた息を吹きつけてくる。  
「あぁああっ!!」  
過敏になっている箇所へのとんでもない追い討ち。  
眩暈にぐらつきながらも、何とかしなければという思いが、手段の一つとしてあまり口にしたくない言葉を  
脳裏に浮かび上がらせていた。  
「……っ」  
意を決する。  
意識が飛びそうになるのを何とか耐え、ぎゅっと目を瞑った後で相手を罵った。  
「馬鹿っ嫌い、エルドなんて、きらい……っ!」  
口にするのも躊躇われるレベルの、子供じみた台詞。  
だが実際これが一番効くのだからどうしようもない。  
それはいつの間にか『これ以上やったら本気で拒絶する』という暗黙の了解になっていた。  
あっさりと激動が止まる。  
股の下から明らかに物足りたいといった舌打ちが聞こえると、頭部がすっと引き抜かれる。  
やっと責め苦から解放された。  
安堵でぺたんと座り込む。震える髪を伝って汗の雫が落ちた。  
「ここからが本番だってのに」  
全身の発熱に耐えるセレスに向け、責めあげていた男から不満全開な愚痴が零される。  
「何でそこまで耐えるんだよ。普通に腰落とせばいいじゃん」  
「ばか!圧迫死したいの!?」  
叱られても死神は超真顔で返答するだけだ。  
「本望」  
「ばかぁあっ!!色情魔!!もうっ筋金入りのド変態なんだからっ!!」  
真っ赤になって怒っても、相手は楽しげに笑うだけ。  
その似つかわしい無邪気さについ怒りが失せ、身を引いてしまう。  
いろいろな意味で恐ろしかった。  
 
やっぱりこの男は変わった。  
笑顔の色が違う。笑い声も透き通っていて、高い。  
時折見せる、特有の邪気が失せた、新たな一面。  
もうすぐ別れるのに、そんな素の、本物の少年のような笑顔を向けられても意味がない。  
鈍感なセレスとはいえ流石に現状の異質を感じていた。  
これは。  
何だか非常にまずい、状況ではないだろうか……  
「…もう…」  
だが確証はない。  
戸惑いを隠すために背を向けるしかできなかった。  
深まりゆく秋。だんだんと温度が下がっていく。  
望まない関係でも、人肌の温もりが時折優しく感じられてしまう。  
こんな時期に隙を見せては恰好の餌食と化すだけだ。  
しっかりしなくてはと思い直していたら、背後からぎゅっと抱きかかえられた。  
「ちょっ」  
「ここで終わっておさまりつくのかよ」  
絡みつく腕は素早い。  
首筋に舌、片胸に右手、秘部に左手。  
同時に責め立てられて激しい快楽が襲ってくる。  
「あっ!やめ…んんっ!」  
反り返るともたれかかるような格好になり、にやついた相手の手中へと完全に堕ちてしまう。  
「ぁああっ!」  
「俺じゃなくてお前がエロいんだよ」  
「そんな、こと…!あっああん、はっ、あ…やっ、いやあ…!ん…」  
喉でとどめたい喘ぎ声がどうしても制止できない。撫で回され、紅潮した頬が更に彩を増す。  
「感じやすいのはいいことだ」  
胸のふくらみは柔らかく量感があり、拒否感とは裏腹に鷲掴む指を深く沈めてしまう。  
「んんっ、んーっ」  
指を出し入れされる下半身からは、じゅぷっぐちゅぐちゅ…と、あまりにも卑猥な水音。  
耐え切れずにくねり、身悶える。  
「やだっ、や……あっ、くぅ…っん」  
どうしても相手の方が常に主導権を握っている。ひっくり返すことは不可能だ。  
女の痴態に浮かべる冷笑はあまりにも落ち着いている。  
踏んだ場数が違う。余裕が全然違う。  
恍惚を扇動しながら耳元で勝手なことを囁いてくる。  
「やべえなお姫様。すっかりエロくなっちまって。もう欲しいのかよ」  
「ち…違っ、だいたい貴方がっ、あっはあぁ」  
台詞の途中で肉芽を優しく擦り付けられ、びくんと跳ねる。  
「しっかし何つうか」  
両手がするすると熱のこもる女体を登っていき、その豊胸を鷲掴んだ。  
手馴れた指づかいで巧みに揉みしだき、先端を擦り上げながら、妙に扇情的な呟きを漏らす。  
「熟れてんのにあんま手垢ついてねえとことか」  
「はあっ、はあ、はっ」  
「たまんねえな…」  
いやに小悪魔的な響き。  
不穏と快楽の混じったそれが耳から体内に流れてきて、セレスは思わずぎゅっと目を瞑る。  
ただでさえ不安なのに。  
この淫欲の底からどう這い出ればいいかわからない。  
きっともうすぐ本格的におかしくなってしまうんだ――――  
精神的な拒絶を貫く反面、もう駄目なのだという諦めも日増しに強まっていた。  
セレスは生前の彼女だったら嫌悪を感じる程に無気力になってしまっていた。  
自覚すると悲しくなる。  
責め上げられて吐き出す荒い吐息の合間、嘆きに近い凍えた呟きが一言、自然に漏れる。  
「も、や……だ……」  
感情は喉から出る音へと反映する。  
そうでなくても既に達する寸前状態が続き、苦しくて堪らなかった。  
察したのか、彼女を責め立てる手と唇と舌がぴたりと止まる。  
 
必要以上に高めてセレスの機嫌が損なわれることを、エルド側も警戒しているらしい。  
「大人しくしてろ。ちゃんとイかせてやるから」  
束縛を解き、ゆっくり仰向けに寝かすと膝に手をかけ、脚を割る。  
「や…待って」  
身を乗り出してきたので慌てて拒絶する。  
ただ全てを任せていたら何をされるかわかったものではないからだ。  
「……今日は上がいい」  
「構わねえけど」  
提案は簡単に容認される。  
さっさと寝転がって誘導するエルドにおどおどと跨った。  
闇の中で濃さを増す茶の髪がシーツに流れている。  
傷だらけのくせに、妙に背徳的な色艶を備えた男。  
これでどのくらいの女を捕らえてきたのだろう。  
不安げなセレスを見上げながら余裕綽々でにやついている。  
「お姫様は騎乗位がお好き、と」  
「…ほんとに、嫌な男ね、あなた」  
上になった女に睨まれてもびくともしない。  
「斬鉄姫様に犯していただくなんて光栄の極みだな」  
「……」  
蝶のような蛾。  
そんな男が吐く冗談は面白くも何ともない。セレスの眉根に一段と深い皺が刻まれる。  
何故理解してくれないのだろう。  
正常位だと好き勝手に弄んでくるから。そうされると陵辱の恐怖が甦ってくる確率が高いから、怖いだけなのに。  
最近ではセレスの表情は常に愁いを帯び、笑顔とは更に縁遠くなっていた。  
本当に、何をしているんだろう、私。こんな大きな痛手を与えた相手と、いつまでも。  
けれど散々舐め回された体は男のそれが欲しくて欲しくてたまらない。  
結局はただの、同じ欲望を共有する雌雄。  
なら今更潔癖を装っても仕方がない。  
導かれるまま熱り立つそれの上に腰を沈め、ゆっくりと動き出す。  
「あっ、ん」  
揺れる様子は淫らで悩ましい。  
だが上になる経験が少ない上、必要以上の狂い咲きに抵抗を持つ彼女では、動きはぎこちない。  
「はあっ、…んん…っ」  
それでも何とか相手も感じさせようと必死で腰を振り続ける。  
やられっぱなしでは、流石に悔しいのだ。  
結合部からぐちゅぐちゅ、ぬぷ、と卑猥な水音が迸る。  
熱い。  
「……っ、は…」  
苦しい。  
敏感に察した相手が眉を顰めた。  
「いいからイけよ。お前がイきゃいいんだ。変な気遣うな」  
「……」  
遠まわしに下手だと言われた気がした。  
少々気落ちするも、残念ながら真実。  
言う通りにするしかないようだった。  
気を取り直し、自分のためだけに腰を振る。  
伸びた赤髪と豊かな双球が動きに合わせて揺れる。  
傷があっても造形の整った女。上気して色づく肌がいっそう艶かしい。  
「いい眺めだ」  
懸命なセレスを半目でにやつきながら見上げ、エルドはエルドなりに楽しんでいる。  
「つうか乳揺らしすぎ」  
「ばか!へん、たい…っ!」  
思わず罵ると、  
「誰だよ。そんな変態と毎日のようにヤってんの」  
冷笑を返された。  
「………っ」  
 
撫で回されるよりましとはいえ、男のそれを使って自慰を強要されているような交わりは至極落ち着かない。  
一瞬視線が交わって、すぐ逸らす。囚われるのを恐れたからだ。怯えで目が泳ぐのを気付かれたくなかった。  
「はあっ…あぁ、あんっ、んっ、ん、んん…っ」  
ぬちゅ…と完全に腰を沈めた瞬間、達する波に乗ったのを感じた。  
「ほらイけよ」  
「やっ」  
腰から太ももまでのラインを妖しく撫でられ愉悦を促される。  
もう止まることなどできない。腰の速度を増しつつ、ぎゅっと目を瞑る。  
「――――…っ」  
数秒後には快楽が駆け抜けていった。  
動けないでいると繋がったまま上半身を抱き寄せられる。  
ぐったり身を任せていれば、愛おしげに後頭部を撫でられた。  
男の腕の中、女の荒い息遣いだけが響く。  
「うまくなったじゃん」  
褒められても喜んでいいものか。  
「ど、どうだった……?」  
聞くまでもないが、尋ねてしまう。  
「あぁん?俺か?」  
問われた男は眉を歪めて軽く思案した後、  
「5点」  
素直な点数を遠慮なくはじき出した。  
「……」  
わかっていた事とはいえ、セレスはふくれっ面で身を起こす。  
「………悪かったわね。下手糞すぎて」  
「ていうか俺に何かしたつもりなのか今のは」  
「……………」  
悪戯の好きな男。  
不機嫌に染まりきったセレスを少々からかいたくなったらしい。  
「せめてこれくらいはできねえかな」  
突然強引にセレスの腰を固定した。  
「えっ」  
目を丸くしてももう遅い。  
女性上位の体位ですら、主導権を渡す気はまったくない男だということに気付いても。  
「ちょ!ちょっとやっ、ひあぁっ!!」  
腰を大きくグラインドされた。  
強烈な高波と沸騰するような熱を与えられ、あまりの快楽に思わず仰け反る。  
「エルド!!」  
諌められても止まる男ではない。  
問答無用で突き上げてくる。  
「やだっ、やめっ―――ああぁあ!」  
さらに腰が浮いたところですかさず手を突っ込んできて、芽を愛撫してくる。  
ぷっくり色づいたそれは最も過敏な箇所になっていた。  
「ああぁあっ!やっ!!ちょっとふざけない……でぇっ!!」  
立て続けの攻勢に蜜はさらに溢れ、下にいる男に伝う。  
「ああぁ――――」  
真っ白になりかけて必死で抗った。  
耐えられたものではない。  
ぐらりと反り返って後方に体勢を崩しかけたところで、  
「倒れるならこっちにしろよ」  
二の腕をつかまれ、前のめりに倒されて再度腕の中におさまった。  
今度はきつく抱き締められる。  
「エルド!いやっ!!」  
「あーおもしれぇ」  
半泣きで叫んでも、既に足掻く暇はない。  
そのまま腰を押さえつけられながら荒く何度も突き上げられて、欲望のままに中をかき回される。  
強引な展開。だが意思に反して愉楽が荒波と化し、押し寄せてくる。  
 
「あっ!ひゃっぁぁああん!待っ!やっ、ほんっ待って!!あんっはっ激し……!」  
意識を手放さないよう必死でシーツに縋りつき、望まぬ嬌声をあげ続ける。  
自分で動いたのとは比べ物にならない大きな波、それがもうすぐ来襲するのがわかった。  
その直感と共に、あまりに急激すぎて達するのが一瞬怖くなった。  
途端に奥にしまい込んだはずの古傷が呼応してしまう。  
セレスの双眸が見開かれた。  
闇夜。  
絡みつく腕。  
どん底。  
嗤い。  
「いっ」  
この男の持つどこか幼く、不安定な感じに激しく揺さぶられ、それが余計に悪寒を引き込む。  
「いやあぁあああぁああああっっ!!!」  
気がつくと、喉に留める間もなく絶叫していた。  
ひときわ強い拒絶――――明らかに数ヶ月前の地獄がフラッシュバックしたのであろう、腹の底からの甲高い絶叫。  
即座に男の手が凍りつく。  
突然、何もかもが静まり返った。  
荒く息を吐き続ける合間に声を振り絞る。  
「も…、や…めて…放して、お願い……」  
嘗て戦場を駆けた英雄のものとは思えないほどの、哀れで惨めっぽい涙声だった。  
けれど今はそれしかできない。  
熱くて熱くて自分からは動けなかったからだ。  
沸き起こり暴れ狂う灼熱に必死で耐えるだけだった。  
「……」  
懇願されずともこの惨状を招く原因を作ったエルドには最早引くしか手段はない。  
「降ろすぞ」  
繋がったままだとは思えない冷えた声だった。  
そっと体勢を変え、彼女の身体をベッドに降ろし、体を離す。  
「や!う、動かなっ」  
慌てたが、それは聞き入れられなかった。  
「んっ……」  
全身が過敏になっている。  
振動による摩擦とそれを引き抜かれた愉悦で軽く達してしまいそうになった。  
「……」  
そうして、やっと解放された。  
だが嫌だったはずなのに躯は感じ入っている。  
強い羞恥に襲われつつもビクビクと痙攣する身体を抱き締め、何とか堪えた。  
「ご…めんな、さ…」  
場を一気に白けさせたのが情けなくて謝罪したが、  
「俺に謝るこたねえんじゃねえの」  
抑揚の無い返事が返ってきた。  
「……」  
重苦しい雰囲気が気まずく立ち込める。  
いびつな関係だが、夜毎気を遣って抱いてくれていることぐらいは流石にわかっている。  
激しくはあるが、何かあったら即時退けるよう、常に仕込まれている気配り。  
セレスはそれにうまく応えることができなかった。  
どうして私はこうなのだろうと、遣る瀬無く身を縮めているばかりのけだるい事後。  
そんな女の背中が、死神の濁った両眼に静かに映っている。  
セレスは気付けていなかったが、エルドが抱く思いは彼女の予想とは裏腹だった。  
良心の呵責。  
自分にもそんなものがあるとはな、と自嘲する。  
暗い双眸の中では二度、無理やり捕らえた女が傷つき震えている。  
一度目はあの化け物じみた宮廷魔術師へ送り届けなければならない特注品だった。  
理想実現の為に必須と謳われた一枚の強力なカード。正直、個人的な興味はなかった。  
青光将軍という立場上、いやそうでなくとも、他人などという存在は物に近い存在だったからだ。  
故に力加減の調節は容易だった。ただ捕縛し差し出せばいい。  
だが自らの意思で捕らえた、今回は。  
 
――――どうしてこんなことになってしまったんだろうか。  
身体を折り曲げ縮こまる姿は、毟られた翼を震わせたままで耐え忍ぶ鳥を思わせた。  
羽を毟りあげて飛べないようにしたのは、紛れもなく自分。  
最初の一ヶ月で知らずのうちに与えた生き地獄。今もなお癒えず、傷口生々しいのは知っている。  
それでも以前はまだ、飛び立とうとばたついていたが、現在ではすっかり諦め縮こまるばかりになってしまった。  
あでやかだった赤髪にも今では艶がない。  
本来なら。  
本来なら今頃、惚れた男の腕の中、幸せを噛み締めているはずの女。  
それがどうだろう。  
自分の腕の中では凛とした雰囲気は散り果て、双眸の輝きは失せ褪せて濁ってしまった。  
まるで隣りにいる男に似せたように。  
「……」  
わかっている。  
だが鎖を解いたら――――  
すぐに飛んでいってしまう。  
エルドは現実に眉根を寄せたまま、飛べない鳥にふわりと毛布をかけた。  
それはこれ以上は絶対にしないという終わりの合図。  
「おやすみ」  
以降はさざ波だけが音を醸していた。  
セレスは現実逃避も兼ねて早く眠りたかった。  
だが実際は寸止めの状態で終了されたのだからたまらない。  
もう交わりたくなどない。だがいくら太ももをすり合わせても疼きは消えない。  
焦らしで散々弄ばれたセレスには余計苦痛だった。  
一晩この状態ではおかしくなってしまう。  
「――――……」  
意を決して呼びかけた。  
「続き、して」  
数秒後、背後から無機質な問いかけが返ってくる。  
「大丈夫なのかよ」  
「足りない……の」  
正直に答え、緊張した面持ちをエルドに向ける。  
戸惑い隠せぬ虚ろな目に、紅潮したままの頬。  
「大丈夫……。…続けて」  
自分から誘うのは久しぶりだった。  
求められた男の口元が歪んでひん捻じ曲がる。  
「素直じゃん」  
早速覆い被さってきて彼女の脚を開く。  
「じゃ遠慮なく」  
女の心は手元にない。  
だから男には、体で繋ぐしか方法がなかった。  
圧し掛かられ、体を重ねられると、圧迫感が急激に不安を煽る。  
ぎゅっと目を瞑り耐える態勢に入ったセレスの頬を不意に手のひらが撫でた。  
驚いて薄目を開けると、  
「信じろよ」  
彼女を真正面から見据える男がそう言った。  
いつもと少し違う顔つきなのが少々ひっかかったが、頷く。  
念の為だろうか、既に十分濡れたそこへ指を這わし、濡れ具合を確認してきた。  
つぷ、といやらしい音を立てて挿入ってくる。  
「ひあっ、ああん…」  
優しく蠢く中指。どうしても体はびくんと跳ね、吐息は悦を含む。  
「どうする?このままイっとくか?」  
「……」  
ふるふると首を振ると、相手の冷笑が一段と増した。  
指を引き抜かれ、望みのものを入り口にあてがわれた。全神経が集中する。  
心の準備をする余地もなく、一気に貫かれた。  
「ああぁっ」  
反り返る。女として慣らされた躯。自分の声とは思えないほどに甘く狂おしい悲鳴。  
 
「ちょ、ちょっ、と……っ、待っ」  
「イイだろ?」  
認め難いがとても気持ちいい。熱い楔を穿たれると、結合部から全身に快楽が回ってゆく。  
「腕回せよ」  
くらくらする頭のまま、請われた通りにゆっくり首に絡ませた。  
「いくぞ」  
囁きの吐息にさえびくりと反応してしまう。  
その後は貪るように突かれた。  
経験からくる不安さえ踏みつけて全てを狂わせてようとしてくる。  
「やああっ!!あっ、ああああぁっあっ――――」  
体内の激しい沸騰。一度簡単に達してしまったが、高波を超えた体が熱に揺られて再度疼く。  
それに気付いたエルドはもう誰にも止められない。  
「もう一回イけそうだな」  
と嗤って女体を抱き直した。  
「や…私はもうっ、いいから!貴方だけ……」  
慌てて離れようとしても尻肉を掴まれしっかりと繋がれる。  
「遠慮すんなって」  
「だめっ!!もういいって、ばっ、イっちゃ、あああああっ!!」  
二度目の昇天はひときわ高かった。  
女の表情と痙攣する肢体に満足すると、男も早々に自身を引き抜き、白を撒いた。  
「ん…」  
根元まで咥え込まされていたものの喪失感。それがまた甘い。  
蕩けきった女体と荒れる息遣いを楽しみ、落ち着いてきたのを見計らってそっと口付けられた。  
「んっ、んん。ふ…っ」  
終わりの合図である後戯のキスは浅く優しいが、いつも念入りだった。  
甘くて、苦い。  
銀糸をひくと漸く終わりがきた。  
「やれやれ」  
精根尽き果てた女の愛液まみれな太腿に手をおく。  
「やっとまともにヤれるようになったか。あークソ長かった」  
感慨深げに長嘆息した。  
これはまともと言うのだろうか…。  
反論したかったが、やり合う元気がないのでやめておいた。  
けだるい。  
―――虚しい。  
現状という現実に、与えられた熱が急激に冷めてしまう。  
遠回りをしたとはいえ、結局この男の思惑通りな気がする。  
そういえばこの男は最初、どんな関係を思い描いて私に近付いたのだろう。  
どんな――――  
浮かんだ一案に悪寒が走り、慌てて叩き潰す。  
大丈夫。  
この男は飽きっぽいんだから。  
もうすぐ終わり。  
もうすぐ…  
…なのに。  
終わりが全然見えてこないのは、何故なのだろう。  
「何か言えよお姫様。今日もよかっただろ?」  
この理解不能な耽溺は何なのだろう。  
私はそんな大した女じゃない。可愛くもないし、傷痕残る肌も汚い。  
「俺はすげーよかった」  
やはり征服欲なのだろうか、まずそう思った。  
自分より背の高い女。大剣を振るい女の身で兵を率い戦場を駆けていたなどという生意気な存在。  
歴史に名を残した女を下にして大声で喘がせている、その優越感に酔っているんだろうか。  
しかしただ喘がせたいだけなら他に適当な方法がいくらでもあるはず。こんな面倒で遠回りな手段を用いずとも良い。  
よくわからない。  
わかりたくない。  
 
「なぁってば。声聞かせろよ」  
苦悩する女の腕を男の手がつたっていって、手の甲を優しく包む。  
まるで愛し合っている恋人のように。  
嫌悪でセレスの表情が歪む。  
「…ねえ」  
「なんだ」  
躊躇うばかりでは話は一向に進まない。背後から抱きしめてくる腕の主に提案した。  
「そろそろホントに終わりにしましょうよ」  
いくら繋がっても心が伴わない事実を改めて主張する。  
数秒の凍てつく時間が吹き荒んだ後、  
「…お前せっかくいい気分なのに…」  
満悦を台無しにされたとばかりに耳元で不服が漏れた。  
「無理しなくていいのよ。本当はもう嫌なんでしょ?こんな傷まみれで、しかも仏頂面ばかりの女。  
 突然思い出して叫んだりして興ざめもいいとこだわ」  
「だいぶ率は低くなった。構わねえ」  
ひねくれ者のくせにこんなところだけ猛烈に前向きである。  
だが本心は違うはずだ。必死でそう思い込む。  
「貴方はよくやってくれたわ。本当にもういいのよ」  
負けずに粘ると、  
「あー」  
何とか別離につなげたいセレスを嘲笑うかのように、  
「いいケツだ」  
桃尻を撫で回し、むにゅと掴み上げてくるのだった。  
苛々しながら厚かましい手を払いのける。  
最近は特に、何を言ってもこんな感じだ。  
本当はわかっているくせに。  
「はぐらかさないで。真面目に話してるのよ」  
「こっちも真面目に揉んでんだが」  
「もう!」  
距離を再度詰めてきた男をひっぺがす。  
「貴方が出ていかないなら私が出ていくわ」  
付き合いきれないとばかり寝台から去ろうとすると、  
「待てって」  
即座に引っ張り戻されてしまった。  
「何がそんなに不満なんだよ。言ってみろ」  
「放して」  
「言えよ。直すから」  
ぐいと近づけられた童顔。真剣な眼差しに強く押される。  
本気ではない。そう宣言したはずの男に灯るあまりにも確固たる炎。  
それに水をかけたくて、本音という残酷な冷水を浴びせる。  
「……虚しいの。貴方としていると」  
「ずいぶんだな」  
「時々、無性に傷つけたくなる」  
「構わねえ。傷つけろよ」  
「簡単に言わないで」  
「別れるぐれえなら傷つけられた方がましだ」  
エルドも対応に慣れたようだ。セレスの反抗に、狂気を孕んだ本音で迎撃してきた。  
おののく女を楽しみ、その肌に甘えてくる。  
それが嫌で嫌でたまらなくて突き放す。  
「もう嫌!おかしすぎるわよこんなの!!」  
「何で」  
あくまでもはぐらかそうとする相手。それを振り払えない自分―――  
「…あなたといる自分が大嫌いよ。たまらなく惨めさわ」  
刺々しいセレスの耳元で小悪魔の容姿をした死神が囁く。  
「まだ怖いのか?」  
まだ、という単語に強い嫌悪を感じて顔をそらす。  
「まだも何も。一生このままよ。完全に消えることなんてないわ」  
 
投げやりな返答。流石のエルドも気まずそうに舌打ちして身を引いた。  
一ヶ月間の記憶は今も平常を蝕み、歪める。  
「…簡単に忘れられるなら、どんなにいいか」  
浮上したと思ってもすぐに沈んでしまう女。原因を作った男は身体を起こし、茶色の髪をがりがりと掻き毟る。  
「ったく何十回頭下げさせりゃ気が済むんだよ。大体―――あんなことになるなんて思わねーじゃん普通」  
「…普通なるわよ」  
「ならねーよ」  
「なる」  
「ならねえ」  
この言い合いに退かないのは、セレスの変容が本当に想定外だったからだろう。  
己が与える快楽に屈して当然。女はそういう生き物でなくてはおかしい。  
単純な思考が読めて余計に腹が立つ。  
「頭なんて下げてくれなくていいわ。…そんな暇があるなら、早くいなくなって」  
つっけんどんな拒絶に、  
「いやだね」  
間髪いれずの即答。  
嫌悪を隠さぬ女と挑発的な男の距離は相変わらずぎちぎちとした落ち着かないものだった。  
互いに譲らず、つかず離れず、じりじりと間隔を保つ。  
変化しない微妙な空気に、本当はもっと心身共に近寄りたい男がいじけてぶうたれる。  
「っとによ、何が気にいらねえんだよ。ずっと大事に抱いてやったろ。今だってそうだ」  
どこが。  
身勝手な元同僚を流し目で睨みつける。  
「生前だって、何人かはいたでしょ?貴方を拒絶する女くらい。私はその子達と同じなだけよ。  
 無理やり迫ったら嫌だって、号泣されたことぐらいあるでしょう」  
問いかけを吐き捨てると相手の表情がふっと消えた。  
しばらく目を泳がせ記憶を探っていたようだったが、数十秒後、きっぱりと答えを返してくる。  
「ねえな。女に拒絶されたこと自体あんましなかったからなぁ俺」  
「…」  
呆れざるを得ない。  
素だ……。思いっきり素で答えた。  
とんでもないことを。  
「貴方ねえ……」  
だがこの件に関しては、思い込みではなくて、多分本当にいないのだ。  
ロゼッタ時代、無骨な兵士達に嫌われまくっていた遠因の一つは明らかにコレだろう。  
どっと疲れる。  
どこがいいのだ。異性に関しては非常に豪奢な経歴、名を刻む女達一人ひとりに問いかけたくなる。  
容姿か。纏う雰囲気か。強引な手法か。  
少し悪い男の方がモテる、というヤツなのだろうか。  
…少しどころの話ではないようにも思えるが。  
しかし、やはり応える女もいたのだな、と再認識する。それもかなりの率で……どうも10割近い勢いで。  
蟲惑的な男ではある。  
あるが、そこまでだろうか?  
いや、そうじゃない。  
セレスはある種の確信に導かれて冷ややかな言葉を紡ぐ。  
「…貴方は誰も彼もに受け入れられたわけではないと思う。自分から、無意識にそういう女を見定めてるのよ」  
「へぇ」  
蔑みを込めた流し目もまた冷ややかだった。  
「ご高察を承りましょうかお姫様」  
「そんな大したものではないけど」  
嫌味を言ったつもりなのに更に促された。セレスは嫌そうにため息をつく。  
「生前から貴方には、すぐに陥落できる女を選別してる感があったなと思っただけ」  
過ぎた理性は己を追い詰める。だったら迎合した方がずっと楽。惨めになるのは誰だって嫌だ。  
一種の順応性、適応性。それを備えた女がこの死神に選ばれる。  
生き延びる為に不可欠なもの。  
自分にはなかったもの。  
エルドは耳に届く非難を最初は面白がっていたが、意味を咀嚼したのか、次第に不貞腐れていった。  
ぶすっとした表情から察するに多少は気に障ったのだろう。  
 
「まぁ、ご推察の通りかもな。俺基本的に面倒そうな女はパス」  
「面倒な女………」  
思わず人さし指を自分に指すセレス。途端に青筋の走る歪んだ童顔を近づけられた。  
「思い上がるな。お前は面倒通り越して試練の域だ」  
「…そんな試練受けなくていいわよ…」  
渋い顔で目を伏せるセレスを再度押し倒す。  
「っとに何だかんだとほじくり返してうるっせえなお姫様は。昔の女の話なんてもうどうだっていいんだよ」  
豊かな胸に柔軟に埋もれ、身勝手な男は心底からの上機嫌で言う。  
「すげーいい気分なんだから」  
「……」  
物好きにも程がある。  
だが二人で在ることを悦ばれる度、悲しい気持ちで満たされる。  
応えられないからだ。  
いくらなあなあで済ませようと仕掛けてこられても、絶対に譲れないものがある。  
「…貴方を取り巻く女には、大きく分けて二種類いると思うの。貴方を受け入れる女と受け入れられない女」  
「自分は後者だって言わんばかりだな」  
「聞くまでもないでしょう」  
「まあな」  
示す拒絶さえ軽く流し、白い首筋に顔を埋める。耐えかねてそれを振り払った。  
「とにかく、いつまでも壊した玩具を構ってなくていいのよ。貴方モテるんだから」  
棘を撒いてばかりいたら、  
「なぁお姫様よ」  
くいと顎を持ち上げられた。  
「くだらねえ言い回しばっかしてねえで率直に本心言えよ。  
 必要以上に傷つけまいって思ってんのかもしれねえが逆効果だぜ」  
「……」  
不覚にも、はっとさせられた。  
その通りかもと思わざるを得なかった。  
このところ拗れを恐れて遠まわしにばかり伝えている気がする。  
「そう…ね」  
横になったまま伝える真実ではない。  
起き上がり、真っ直ぐに閨の相手を見つめた。  
「わかったわ。正直に言うわよ」  
ふうと息をつく。  
「……といってももう何度も言っているような気がするけど……。エルド、別れましょう」  
「理由は」  
「一つは、最初の一ヶ月が忘れられないから。一つは、好きな人が心の中にいるから」  
代わり映えの無い二つの理由。わかりきっていることばかりだった。  
「貴方の手をとった時、振り回されることはそこそこ覚悟していたわ。それでもある程度までは我慢するつもりだった。  
 けれど貴方は簡単に限度を超えた。  
 …あんな風に踏み躙られたのに黙って関係を続けていこうなんて、それこそ正気の沙汰じゃない」  
本心という刃を向け、不快に染まりゆく相手を見据えた。  
「終わりにしましょう」  
既に両手の指では数え切れない数の別れを請われている男は、半目のまま呟く。  
「だからよ、正直に言えっつってんだよ。一秒でも早く死んでほしいくらい大嫌いだ、顔も見たくないって」  
「……そういうわけじゃないけど…」  
困って言葉を濁す。流石に死ねとまでは思っていないので、要求された言葉は口にできない。  
それがまた誤解を招く。  
「何とか俺がつけいれる可能性はねえのかよ?」  
この問いには、セレスはすぐに首を横に振る。  
「こればっかりはどうしようもない。心までは…」  
目を伏せる。瞼の裏には一人の男。  
これだけはセレスがセレスである限り、どうしても消せないのだ。  
「ごめんなさい」  
珍しく真面目な空気が立ち込めていた。もしかして今夜ついに…という期待が過ぎる。  
 
が。  
しばらくの無言の後、  
「却下」  
たった一言。  
いつも通りの展開だった。  
「もう――――」  
空回りを喰らったセレスが眉根を寄せた時だった。  
「いいじゃんこのままだって。お前だって頭ん中じゃいつもあいつとやってんだろ」  
鋭利すぎる言葉の矢。  
呆れ返っていたセレスの頬が即座にぴくりと反応した。  
「……何よそれ」  
「図星か?」  
凭れていた空気が悪い方向に急速に張り詰めた。  
わかっていて、死神はなおも紡ぐ。  
「声も似てるしよ。いつアドニス〜イイ〜とか叫ばれないもんかと毎晩ヒヤヒヤもんだぜ」  
唐突で驚愕な発言だった。  
セレスの表情が一気に歪み、引き攣る。  
エルドからはククク…と小ばかにした笑いが漏れ続ける。  
次の瞬間、パン、という平手の音が空気を割った。  
あまりにも節度の無い発言。無意識に相手の頬を張っていたのだ。  
「馬鹿にするのもいい加減にしてよ」  
殴られてもニタニタ嗤っている。  
「馬鹿になんかしてねえよ。本当のこと言っただけだろ」  
「…している最中に、他の男のことなんて考えてない!」  
声を張り上げる。  
確かに脳裏にいる男がよぎり、己の不実を苛むことはある。だがいつも必死で霧散させている。  
どんな夜でも目の前の相手を見つめるべき、いつだってそう思っているのに。  
「…自分がされて嫌なことはしないわ」  
自信ゆえにきっぱりと否定する。  
その完璧な否定に、疑惑と嫉妬で固められた相手の邪悪な面持ちが、ゆるゆると解けていった。  
「へえ」  
意外そうに目を丸くしている。  
「じゃあお前、毎晩俺としてんだ。普通に」  
「当たり前でしょ。ばか!!」  
「へー……」  
間抜けな相槌は幾分か音が弾んでいる。その理由がセレスにはわからなかった。  
「本当に信じられない。そんなこと考えながらしてたのね。もういい」  
今度こそ、とばかりに手中から抜け出そうとした彼女を、逃がす気のない男の腕が捕らえる。  
再度背後から抱き締められる形になった。  
「やっ!」  
「待てって。悪かったよ」  
「放して!」  
「すげー嬉しいんだけど。あいつの代わりくれえにしか思われてねえと思ってたからさ」  
腕にぎゅっと力を込められ、体温が伝わってきた。  
そんな風に思っていたのか。  
心底からの嬉しげな様子に少々気が緩んだが、情に流されてはいけないと踏みとどまる。  
「もう放して…!」  
「いいのかよそんな俺を喜ばす台詞吐いて」  
「別に喜ばせたつもりはないわ」  
「手前の惚れてる女にちゃんと存在認められてるってわかったら喜ぶだろ」  
「何よそれ………」  
「さぁて何だろうな?」  
笑っている。  
よくわからない。  
言葉も時間も適当に流されてゆく。  
その後も少々会話を交わしたが、だんだんと静けさが漂ってきた。  
それはどちらともなく眠りにつく合図。  
 
気負っても、流石にこの時刻に荷物をまとめ出て行くわけにもいかない。  
いつも通りの流れだと思った。  
弱々しい抵抗ではあっさり抑え込まれてしまう。逃げ出す気力も捻り切られてしまった。  
いつも通りのなあなあの収束。  
「…おやすみなさい」  
束縛を解くと、また今日もはぐらかされたと嘆息しつつ横になり、寝返りを打つ。  
いつも通りの夜。そう思った。  
だがセレスの隣りにいる男にとっては違った。  
その童顔に収まる双眸を閉じ、静かに開けた時、完全に纏う空気が変わっていた。  
少なくとも『代わり』ではなく、ちゃんと一人の男として認識されている。  
与えられた確証が、止めなければならないはずの歯車に勢いをつけてしまった。  
「なあ――――――セレス」  
疲労から早速うとうとし始めていたセレスの目が見開く。  
覆い被さり彼女を仰向けにした男が、至極真面目な面持ちで迫ってきたからだ。  
今まで一度も見たことの無い表情だった。  
「口説いていいか」  
「ちょっと…」  
「口説かせろ」  
様子がおかしい。嫌な予感に眉根をよせる。  
「…必要ないじゃない。これだけしてるのに。寧ろ無駄ってものよ」  
「体だけの話してんじゃねーよ。中身も欲しい」  
「何言ってるの?」  
突然の豹変に戸惑う。  
エルドらしからぬ真摯な空気は変化せずいつまでも継続する。  
あの日、セレスを騙した時、顔に貼り付けていた真面目さとは明らかに違う誠実な表情。  
「らしくないわよ。やめてよ」  
「俺、顔はかなり悪くねえだろ。金だってたんまり稼いでこれる。そこまで悪りい物件じゃねえと思うんだがな」  
「だから何言ってるのって聞いてるの」  
おののく赤髪を撫でつけ、唇で傷跡の一つに触れた。  
「責任、とろうと思って。こんなにしちまった」  
そして優しく舐める。まるで愛でるように。  
だがされた本人は即座に拒絶する。  
「とらなくていい」  
「そう言うなよ。お前が言ったんじゃねえか。今回の人生は落ち着けって」  
「言ったけど、でも」  
「お前といると心地いい。このままずっとやってける気がする」  
この死神が何を言いたいのか。  
鈍感な女でも、流石に理解せざるを得ない流れだった。  
全身から血の気が引き、ぞわぞわと気持ち悪いものがせり上がってくる。  
「ちゃんと全部俺のものにしたい」  
最悪の展開だった。  
心臓が破裂しそうだったが何とか冷静を保とうとする。  
「一体どの口がそんなこと言うのかしら」  
「この口」  
動揺する瞳を見透かされ、口付けられる。  
数秒間の接吻。とってつけたような甘い味。  
衝撃で硬直した体躯では拒絶することさえかなわなかった。  
緩やかに銀糸が引かれた後も唇は震えていた。  
「…無理よ」  
「無理じゃねえだろ。摩擦はあるが実際これだけ上手くやれてる」  
「上手くって、どこが……っ」  
「外も内も全部欲しい」  
ぐいと乗り出し、憤るセレスの勢いを殺ぐ。  
室内を覆うのは、とても愛の告白があったとは思えない緊迫した空気。  
「本当に……何もかもとことんまで陥落させないと気がすまないのね」  
「はぐらかすなよ」  
非難して距離をとろうとしてもぐっと連れ戻される。  
 
蒼白の頬に手を添えられた。  
「一生の話をしてる」  
決定的な一言。  
じゃらり、氷の鎖を全身にかけられた気がした。  
「冗談じゃないわ!!」  
ぶっつりと堪忍袋の緒が切れる。  
猛攻に耐え兼ねてついに柳眉を逆立てた。  
迫る男を乱暴に振り払って起き上がる。寝台から離れた女の双眸は怒りで燃え盛っていた。  
「ふざけないでよ!すぐ飽きるって言ったわだからずっと、穏便に済ませるためにずっと我慢してたのよ!!  
 わかってるくせに……っ!!」  
牙を剥くセレスに幾許かの気迫が戻る。が、エルドも負けじと口角をつり上げた。  
「我慢してたわりには毎晩艶めいた声聞かせてくれるじゃねえか」  
「それは…っ!」  
「まさか幻聴とは言わせねえぞ」  
手強い女に居丈高な言動で畳み掛けてくる。  
あっという間に壁に追い詰められ、手首をとられて足掻くしかなかった。  
「とりあえず毎晩体許してくれてたってこたあよ、そこまで嫌じゃねえんだろ?」  
「嫌!!本当に嫌だったらっ!!」  
「悪りいけど俺はお前に決めた」  
鋭い切っ先。言葉に含まれる決意にセレスは青ざめるばかりだった。  
「いや。絶対に嫌!!」  
「そんな嫌がるなよ。傷つくだろ」  
冷静を欠くセレスに苦笑いのようなものをしたかと思うと、突然すっと解放した。  
驚くセレスを置いてすたすたと寝台へ戻る。  
「今は嫌でも、気が変わる。時間たっぷりあるし」  
この男には似つかわしい真摯な語調の連続。  
「変えてみせる」  
愕然とするセレスに背を向ける。  
「おやすみ」  
そしてまるで何事も無かったかのように毛布を被り、夢のほとりへと向かってしまった。  
会話が途切れる。  
悪魔の告白を受けた女はただ呆然と立ち尽くす他なかった。  
すぐ飽きるから。  
心の支えにしてきたその言葉。  
死神は、自分から言い出したそれを、あっさり反故にしようとしている。  
如何に見下されているのかを理解した。  
硬直していた身体がわなわなと震えだす。  
不安を現実にされてしまったことで、セレスはすっぽりと闇に喰われてしまった。  
しばらくの静寂の後、くっくっくっと、死神の嗤いが室内に響き出す。  
だがそれはエルドから発されたものではなかった。  
異常に気付いて身体を起こしたエルドの目に、髪をかき上げる女が映る。  
狂おしい程、自分によく似た嗤いを浮かべて。  
「何よ。好きとか、嘘ばっかり。やっぱり、ずっと…弄んでただけだったのね」  
裏切られ続けたという酷い劣等感が、海に浮かぶ廃都の王女であった女を急速に蝕んでいった。  
流石のエルドも困惑にまみれた顔つきを見せる。  
「だから違うって…」  
「一生って何時まで?私が狂うまで?私が死ぬまで?」  
ひん捻じ曲がった男の告白はひん捻じ曲がってしか伝わらなかった。  
エルドは遣り切れないといった渋い表情でため息をつく。  
「…おいマジで勘弁しろよ。…一応、一世一代の告白のつもりだったんだが」  
ため息と同時、対面する女が勢いよく剣を抜き放つ。  
名剣は月光を浴びて鈍く輝いた。  
「お生憎様ね。嬲り殺されるまで付き合えるほどお人よしじゃないの」  
「おいセレス」  
悲しい顔なんかしても無駄だ。  
「出てって!!もう、出てってよっ!!二度と私の前に現れないで!!」  
涙を滲ませた金切り声が空間を劈く。  
 
「セレス」  
「笑わせないで!!好きな女にこんな仕打ち一生続けたいなんて男が何処にいるのよっ!!」  
怒号はエルドに飛ばしているようでいて、実際はほぼ叫んだ主へと向かっていた。  
わかりきっていたことなのに。  
こんな最低の男と何ヶ月一緒に生活してしまったのだろう。  
何度閨を共にしてしまったのだろう。  
穏便に済ませたい、なんて。馬鹿じゃないのか。有り得るわけがないのに。  
また判断を誤ったのだ。  
心底からの惨めな気持ちがふつふつと湧き上がってくる。  
「もう苦しめないで……」  
襤褸切れのような懇願を搾り出した。  
セレスの惨状にエルドは重く息をつくと、むくりと起き上がり寝台から離れる。  
「わかった。今は出てく」  
「今はじゃないでしょう!?二度と来ないで!!」  
背後から嵐のような拒絶を受けながらの着替えは、仕込みも何も無しで至極手早かった。  
最後に愛用の弓を手にすると、  
「少し空ける。考えておいてくれ」  
と当然のように口走った。  
「ほとほとしつこいわね」  
負けじとギロリ睨みつける。  
「これが最後よ。次、来たら戦うわ。…本気だからね」  
凶器を向けられてもエルドの視線は揺るがず冷ややかだった。  
「戦えるのか?お姫様」  
それはセレスの戦士としての弱体化をわかっていての、遠まわしな暴言だった。  
しかしセレスもここで退けない。  
「それじゃ射殺されるか、猿轡をかまされる前に舌を噛み千切るかのどちらかね」  
女は覚悟を決めている。容赦ない殺気を注がれる相手は萎えた様子で愚痴った。  
「嫌われたもんだな」  
そして上の空で呟く。  
「……もっと心動かすモンもってこねえと駄目か」  
そんなものはいらない、どう叫ぼうとした時。  
ドアが突如ガンガン力任せに殴打されて軋んだ。  
「セレス!どうした!!」  
大声を上げ続けたせいだろう、遅ればせながらも近隣のイージスが慌ててやってきたのだ。  
「ちっ」  
厄介者の来襲に舌打ちをすると同時、死神は挨拶もせず足早に家を出た。  
途端に罵声が飛び交う事態は免れなかった。  
「うぜえ!!何の関係もねえだろ!どけ糞カナヅチっ!!」  
生前から変わらぬ粗雑な怒鳴り声、それに応じるイージスへの罵声。  
どちらも思い通りにならないことへの苛立ちを伝えてくる。  
しばらく聞くに堪えない中傷の応酬が続いたが、エルドの声が遠のいていって、消えた。  
室内には真っ白になったセレスだけが残される。  
「セレス無事………おっと」  
室内に突入してきたイージスが慌てて背を向けた。  
セレスには既に裸体を目撃されたことすら恥じる余裕がなかった。  
剣を突き立てたまま、その場にずるずると崩れ落ちる。  
鋭い刃が肌を薄く裂いて血を零しても、何も感じなかった。  
 
 
 
潮風が凪ぐ。  
やっと死神が去った一室。けれど一時的なもの。  
穏やかな快晴とは真逆、ぐったりと、生気なく腰掛けるセレスがいた。  
告白が本気かはわからない。けれど一生付き纏うという宣告はあまりに重圧だった。  
「もういいんだよ」  
対面する先達からの優しい声音。  
柔らかく心を撫でるが、この先達がこんな話し方をしなければならない程、己は落ちぶれたのか。  
 
「お前は何も悪くないだろ」  
言い聞かせるような語調は、耳に快いものでも、障るものでもあった。  
己の感情さえもう理解できない。  
「大丈夫……」  
隣りに移動してきたイージスにそっと頭を抱かれる。  
「次来たら今度こそ殺そうな」  
優しい口調とは裏腹のとんでもない台詞だった。  
だが道を踏み外し続けたセレスには、もう、『兄さん』の誘導に逆らう力は残されていなかった。  
反論が返ってこないことに、先達の汚い髭面が歪んだ。  
優しさの中にひと欠片、ついに反撃を許されたことへの狂喜が舞い踊った気がした。  
 
 
 
いつ戻ってくるかわからない。  
一人暮らしなど到底継続できたものではなかった。  
イージス宅の一室を借り、ひっそりと生活していた。  
いや、生きていたという方が正しいだろう。  
窓を締め切った真っ暗い部屋で、ただただ植物のように寝転がっていた。  
先達は慕われているので、家にはゾルデの他住民が頻繁に出入りする。  
特に子供達が多い。  
甲高い声がドアの外という異界から響いてくる。  
閉じこもっているので、セレスのことは存在すら知らない者もいる。  
知っている子供達にはイージスと違って変な大人だと思われていることだろう。  
早く死神再来の対策を練らねばならない。だが精神的な圧迫はあまりにも強烈だった。  
逃げられない。  
何とかしないと一生まとわりつかれるんだという恐れがセレスを全て飲み込んでしまっていた。  
堕ち果ててあの男を受け入れ、欲望のままに絡み付けば楽になるのだろうか。  
かぶりを振る。  
それだけは……それだけは、どうしても。  
どちらにせよこんな毎日ばかり送っていてはいけない。  
抵抗するためにも、せめて身体だけでもつくっておかなくては。  
そう思ってのそり寝台から這い出そうとしたが、ぼとり、無様に床へ落ちた。  
蝕みは思いのほか急速に侵攻していて、気が付いた時には立てなくなっていた。  
「何もかも、兄さんの言うとおりだったわね」  
数時間後イージスに発見され、慌てて寝台に戻された時、呟いた。  
一歩退いたら、十歩踏み込んできた。  
選んだのはそういう男だった。  
「ごめんなさい」  
「……」  
哀れむ先達からの返答はなかった。もう何と声をかけていいのかわからないのだろう。  
扉がゆっくり閉まって、また酷い孤独が胸を締め付ける。  
それが更に無力感を呼び、蓄積させてゆく。  
最初は確かに匂引かされた被害者の位置にいたのかもしれない。  
だが今は違う。救いの手を振り払い、己からあの死神を引き寄せた。  
己の気持ちを自覚していたくせに他の男と寝続けた。  
ただただ楽になりたい一心で。  
救いようがない。  
消えてしまいそうな孤独に苛まれているといろいろなものが見えてきた。  
今までたくさんの人に支えられて生きてきたんだな、ということ。  
一人では何もできない女。何もかも皆のお陰だったのだ。  
今更ながら深い感謝の念がわき、同じぐらいの後悔もせり上がる。  
そうだそもそも、夫を裏切った私に幸せになる権利、なんてなかったんだ。  
どん底の精神ではネガティブな思考は止まらなかった。  
もう涙も出ない。  
乾ききってしまった。  
焼け付くような渇きを覚える。  
水さえも飲む気力がない。  
 
海から与えられた命。  
使わないなら、海に還すだけ、か……  
『大丈夫よ。きっとうまくいくわ』  
絶望に浸る女の耳を、過去からの声がそっと撫でた。  
神々しい乙女の金の髪がふわりと波打つ。  
『手放しては駄目よ?きっと正しい方向へ導いてくれるわ』  
「……」  
肌身離さず抱いている剣のことを、あの女神はそう言った。  
本当にそんな力があるのなら。  
今、導いて……  
満ちた月。  
その夜もまた、鞘に納まったムーンファルクスを抱いて横になった。  
 
 
 
水の中たゆとう。  
まどろみ、ゆらり、揺らめく。  
光踊る浅瀬。海中。こぽこぽ空気が昇る心地よい音がする。  
ふわふわと雪が舞う。  
違う。女神の羽だ。  
きれい。  
手のひらに舞い落ちた懐かしい純白をそっと胸に抱く。  
淡い色をした記憶の花が咲いて溶け、懐かしい声がこぼれる。  
「エーレーン」  
クレセントが精悍な顔立ちをした戦士に走り寄って行く。  
あれが赤光将軍、天眼のエーレン。  
エインフェリアに選定されてから初めて顔を合わせた同僚。  
クレセントが言う通りの、素敵な人ね。  
白光将軍は弾けんばかりの笑顔で慕う男を見上げている。  
可愛いな。  
私もあんな風に好きな人に素直になれたらいいのだけれど。  
どうせ気持ち悪がられるだけだし。実際気持ち悪いし。  
自嘲していたら幸せそうな二人はふっと消えた。  
此処は何処なんだろう。  
夢か。夢だろうな。夢の中で夢だと自覚するのもおかしな話だけれど。  
ひとときの、ひとひらの夢。  
辺りを見渡すと、明るさとは縁の無い端っこの闇に、膝をかかえる幼女が見えた。  
嗚呼―――またアリーシャが縮こまって泣いてる。  
こんなに小さいのに幽閉だなんて。  
シルメリア、そんなに強く言わないで。アリーシャはまだ小さいんだから。  
己の声はアリーシャには届けられない。  
身体がほしい。あの射られて痛みばかりがのさばる身体でもいいから。  
兄さんの血の流れる子供。  
抱き締めたい。  
鏡に映るのは実兄の面影を微かに残した王女の泣き顔。触れたら淡く溶けそうな色をしたきれいな髪。  
さらさら流れる黄金色の絹糸。  
少々質は違うが、実妹のフィレスもそうだった。  
金の髪。昔は羨ましかったっけ。  
でも、今は、そこまででもない。  
赤はあの人と同じ色だから。  
あの人と―――――  
思い出す度に胸がしめつけられる。  
いつから。  
いつからこんな気持ちになったのだろう。  
シルメリアに使役されてずっと一緒だったから――――  
 
違う。  
本当は  
認めたくないけれど  
本当は生前から  
そう  
ずっと昔から  
あの血みどろの丘で  
貴方と目が合った一瞬から  
私は兵を率いて小高い丘から  
貴方は低い平地にばら撒いた屍の上から  
あの瞬間から  
本当は  
ずっとずっとずっとずっと  
本当は………  
けれどあの暴虐な漆黒にそんな感情を認めるわけにはいかなかった。  
そう、戦が終わり、私はラッセンへ嫁ぐのだから。  
ラッセン……  
視界ががらりと変わる。  
エインフェリアに選定された後、同じ時間軸で活躍していたラッセン出身の英霊を一人、知った。  
ファーラント。  
寛大な心の持ち主で、裏切り者の女にも優しくしてくれる。微笑んでくれる。  
でもそれは努力しているから。  
その強く優しい瞳の奥底に揺らめいているものの正体を知っている。  
整った顔立ちから滲む、微かな憎悪は当然のもの。  
無理もない。  
その炎は消せるはずなんてない。  
人間だもの。  
拉致した側に寝返った上、敬愛する領主に子供すら残さなかった女。  
そう。  
結婚生活に四年も費やしながら夫との間には子供ができなかった。  
苦渋を滲ませた医師の言葉によると、原因は領主側にあるらしかった。  
成程、中性的な男で、女を求める欲求も通常の年代と比べて薄めで、褥も常に行為できる状態ではなかった。  
が、世間というものは必ず女を悪者にする。  
しかもあの斬鉄姫。囃し立てるには恰好の的だったのだろう。陰では色々言われていたようだ。  
気にするなと言っても、彼はいつもそれを気に病んでいたっけ。  
でも、中傷自体は本当に気になんてしていなかった。  
彼との夜はいつも優しかったから。  
体が満足できなかった夜でも抱かれて眠るのはこの上ない幸せだった。  
幸せだったのに――――  
静かな昼下がり。  
陽だまりの下、夫の頭を膝に乗せて髪を撫でている。  
可愛い人だ。  
どこか遠くへ行きたいな  
誰も私達を傷つけないところへ  
そう願っても、  
城の中しか知らない、城の中でしか生きられない、どこか枷を引きずっている、つがいの鳥なのを知っている。  
そんな夫に一度だけ、激しく叱咤された経験がある。  
夫が声を荒げるのを久しぶりに聞いた。  
「驚いたわ。どうしたの」  
と問うと、面白くないからその話はやめてくれと憤っている。  
何故機嫌を損ねたのだろう。大した話はしていないはずだが。  
戸惑っていると、君はその男の話をする時、何だか違うと吐き捨てられた。  
「…そりゃ戦場で傍若無人に暴れまわってる男の話だもの」  
言いながら、嗚呼、とセレスは当時の己の愚鈍を恥じて目を伏せる。  
今更合点がいく。  
夫には見えていたのだろう。  
気付かないふりをするだけで己まで騙せているつもりの、女の本心を。  
 
「気に障ったなら謝るわ」  
夫は謝罪を受けた後もしばらく拗ねていたが、  
君は私の妻なのだから他の男なんて気に留めないでいい、というようなことを言った。  
「勿論よ」  
迷わず肯定する。  
夫は幾許かの納得のいかなさを持て余していたが、とりあえず不貞腐れるのをやめると、また膝の上に頭部を預けてきた。  
子供みたいな人。  
この人が教えてくれたのは、戦い血を流すことの虚しさだった。  
だからセレスは統一国家による平和な新世界を夢見た。  
だがいくら写本持ちの宮廷魔術師の甘言に乗せられたとはいえ、裏切り者が背負う罪は同じ。  
ラッセン領主夫人として、愚行を許される日など来ないのだろう。  
自業自得なのだ。  
追憶から抜け落ちて再度暗い深淵に取り残され、うずくまる。  
そう、勝手に一人ぼっちになったんだから。  
仕方のないこと……  
「でも個人的には」  
ふと背後で懐かしい声がした。  
「許してあげる」  
振り向いた先にいた男には見覚えがあった。  
「あなた…」  
「さあ、そろそろ立ちなさい」  
懐かしい男から手のひらを差し伸べられる。  
信じられなかった。  
「…はい」  
だが勝手な夢だとわかっていても安堵と喜びが溢れる。  
「……はい、あなた」  
手を重ねて立ち上がると、優しく微笑まれた。  
涙が出る程懐かしい笑顔――――  
「さよならセレス」  
別れの言葉と同時、温もりを残したまま記憶が散じて羽が舞った。  
輝く羽の向こうには、彼の戦乙女が待っていた。  
手招きしている。  
シルメリア。  
待って。  
やっぱり私、あなたから離れるべきじゃなかった。  
女神を見失うまいと無我夢中で走りこむ。  
もう少しで手が届きそうだったのに、ぐん、と引かれて体が揺らぎ、前進を妨げられた。  
不意の妨害。  
驚いて振り返ると、服の裾を細すぎる手に掴まれていた。  
「え……」  
それは膝を抱えて俯いている小さな子供だった。  
ぼさぼさの頭髪。汚れた衣服。傷と痣にまみれた骨のような腕。  
即座に誰だかわかった。  
「……」  
だが今のセレスも他者を構ってやれる余裕などない。  
「ごめんなさい…」  
罪悪感に苛まれつつもそっと振り払い、シルメリアの姿を追った。  
手招きに導かれて辿り着いたのは、お世辞にもきれいとは言えない一室だった。  
何故このような場所に。  
最初は戸惑ったが、どうしてここにいざなわれたのか、ゆっくりと理解が浸透してゆく。  
多分ここは道を踏み外さなかった世界。  
ヴィルノアで  
私、ここで生活していて  
そう、私、待ってる  
もう数ヶ月経ったけど、きっと帰ってきてくれる  
 
信じなきゃ  
あの人を  
でも今は、仲間達が遊びにきてくれているから。  
早く昼食の準備をしなきゃ。  
大量の食材を抱えいそいそ移動していると、ソファで仰向けになって寝ている男が目についた。  
正直、今回彼も来るとは思っていなかった。  
こういう集まりは好まない男だと思っていたからだ。  
顔を覗き込む。  
「眠ってるの?」  
問いかけに応じて薄目が開いた。  
相変わらずの、童顔に似合わぬ濁った眼光。  
「…だよ。起こすな殺すぞ」  
殺意雑じりの視線に貫かれたが、  
「なんだ…お前か」  
すぐに解消された。  
「疲れたんだ…眠らせてくれ」  
と、面倒そうにごろんと背を向ける。  
「ソファを占領しないで。眠るなら客室のベッドを用意するから」  
「うるせえ話しかけるな」  
「もう」  
呆れるも、あまり強く言って機嫌を損ねる方が面倒だ。  
諦めたセレスが去ろうとすると、身勝手な弓闘士からぼそりと呟きが零れた。  
「お前が隣りに来るならいくらでも空けるけどよ」  
「え?」  
「どうせ来る気すらねえんだろ…」  
「………」  
ソファを占拠する暴君の背中を見つめる。  
どうして。  
「そんなこたわかってる」  
どうして、そんな声で、そんな言い方をするのだろう。  
「わかってるよ…」  
ずるい男。  
散々邪悪を撒き散らしておきながら、そんな態度ばかりとって、女の気持ちを絡め取る。  
振り払えないわけだ、と嘆息する。  
近寄って髪に触れてやると、少量驚きを含めた流し目と共に小さく微笑んだ。  
嬉しげなのが伝わってくる。  
やめてよ。そんな態度、貴方らしくないんだから。  
貴方は、もっと。もっと―――――  
目を瞬かせた瞬間だった。  
一気に世界が暗転し、闇の中からあの子供が、肉の削げ落ちた顔におさまる大きな目玉でぎょろり、  
セレスを見上げていた。  
衝撃で息をのむ。  
有無を言わさず抱きつかれた。  
痩せ細っているのにあまりにも重い。  
やめて  
私には無理なの  
子供なら、貴方が本当にまだ小さな子供なら、いくらでも努力するけれど  
貴方はもう大人になっていて  
その棘だらけの手でどうしようもなく傷つけられるだけ  
私の手に負えるレベルじゃない  
もうやめて  
エルド  
「どうかしましたか?」  
はっと我に返った。  
闇が消えた。  
汗だくのセレスを、可愛らしい少女が心配そうに首をかしげて見つめている。  
 
アリーシャ。  
「真っ青ですよ?」  
小首をかしげると輝く金の髪が揺れた。  
おどおどした態度なのが懐かしい。  
「何でも…ない…わ」  
「そうですか?ならいいのですが」  
王女は下がり眉のままで柔弱に微笑む。  
「あの、でも…見つかりませんね」  
「…そうね」  
そうだ。シルメリアに言われて何処かに行ってしまった同僚を探している最中だった。  
草木をかき分けて森を捜索する。見つからない。  
本当に面倒をかけてくれる。  
「エルドさんて、解放された後も、あんな調子で大丈夫なんでしょうか…」  
他人の心配をした後に苦笑いして俯く。  
「…私も、人のこと言えませんけど」  
そんなことない。  
優しいアリーシャ。  
強くなった。  
旅路の果てで戦乙女三姉妹と融合し、散り果て、その短い生涯を全うした。  
アリーシャ  
兄さんの子孫  
不死者にまで身を堕として  
マテリアライズまで出切る様になって  
前に進む為、成長してゆく度、どんどん人間からかけ離れて行く  
私はただそれを見守るだけの過去にゆらめく亡霊だった  
結局何もしてあげられなかったのね  
輝く六枚羽の女神に手を伸ばしても、空しく空を切る。  
闇の向こう、その先に別の輝く切っ先が見えた。  
場面が切り替わる。  
フィレス。  
普段とは打って変わった鋭い気迫。  
真っ直ぐな淀みない眼差しがこちらを見据えている。  
たった二人の従者と供に、棘の道を切り開きここまで追い詰めてきた実妹。  
あの日、写本が燃えて、一年戦争は終わった。  
射られるとわかっていても逃れることはできなかった。  
フィレス―――――  
そんな、仲良し姉妹というわけでもなかったけど。  
実姉を狙い撃つとはどのような気持ちなのだろう。  
8つも離れた妹。  
可哀想なことをさせた、ね。  
ごめんね。  
「ごめんね〜じゃないわよ。ずいぶんやり込められちゃってるじゃない姉さん」  
浸っているところに突然声をかけられてびくりと身を震わせる。  
「フィレス…」  
「らしくないんじゃない?しょ〜じき意外」  
パルティアの地に佇む年老いた妹の背中が見えた。  
包むべき腕のない布地が、はらりと揺れる。姉を射抜く代償に斬り落とされた片腕。  
でも、老いてもなんと大きいのだろう。  
あんなに小さかったあの子が。  
「止めてほしかったんでしょ?あの時はさぁ。でももうアタシはそこにいないわ。へばってないで早いとこ自力で何とかしなさいよ」  
「……」  
こんな何百年と経過した世界でさえこの子に心配をかけるか。  
本当に、私は。  
「…そうね。ごめんなさい」  
「あ〜はいそこでそんな顔しな〜い!アタシに謝ってるヒマあるならそのどヘタクソな生き方何とかしたらぁ?」  
遠慮せず言うだけ言ってから、にっと笑う妹。  
 
相変わらずねえ……  
そう、つられて微笑んだ瞬間だった。  
言い表し難い異質が大きく口を開けたのがわかった。  
シルメリアの導きとは明らかに違う何か。  
それが凍りつくセレスを捕らえようと手を伸ばしてきたのだ。  
フィレスが慌てて手を差し延べてきた。  
手をとりかけたが、妹を巻き込むと判断した思考回路が彼女を拒絶した。  
あっという間、闇に包まれた。  
 
 
 
気がつくと汚れた床の上に倒れていた。  
半崩壊しているが、頗る見覚えのある場所。  
王座には王冠を乗せた白骨が座っている。  
「おかえりなさい」  
心臓が飛び跳ねる。即座に起き上がり剣をとった。  
不愉快に耳を撫でたのは、あまりにも聞き覚えのある忌まわしい声だった。  
抜け殻の王。その周辺には、命を賭して彼を守ろうとした騎士達の白い残骸が散らばっている。  
彼等を気遣いもなく無残に踏み躙り、王座の背後からのそりと青年が現れた。  
神々しいと感じた姿は今では影も形もない。禍々しい空気を纏い不必要な程に圧迫してくる。  
「…ゼノン」  
ロゼッタ。  
突如歴史の大舞台に踊り出た、荘厳で華やかな夢の都。  
急激に膨れ上がって破裂したハリボテ仕立ての大国。  
全てを惑わせ破滅へと導いたその立役者が、セレスの目前で怪しく微笑んでいた。  
違う。  
ゼノンじゃない。彼はもう解き放たれた。  
現在は反省と共に、二度目の生をミッドガルドの為に全うしようと奮闘しているはず。  
だったら、これは。  
「写本か――――」  
セレスの視線の鋭さが増す。  
手にはあの、不可思議な文様を刻むぶ厚い本。  
言い当てられるとゼノンの端正な顔立ちがこれでもかと歪んだ。  
セレスは今でも隻眼の写本という存在の正確な正体を知らない。  
ゼノンという依代に憑依して全てを操っていたのか、それともゼノンという人格を基礎として言動を狂わせていたのか。  
終わってしまった後では知ろうとも思わなかった。  
彼と見た夢は本当に大それた夢だった。  
神に抗い、新世界を創造する。  
大きすぎた夢だった。  
警戒するセレスとは対照的に、ゼノンの姿をしたそれは平然と佇んでいる。  
王冠付きの骸骨は彼に軽く殴りつけられただけであっさりと崩れ落ちた。  
座席にたまった屍をごみ掃除のように払い除け、そこにゆったりと腰を降ろす。  
既に敬意の一つも示す気がない。  
「戻ってきたんだね。英雄王女フィレスの経歴を彩る具材の一つでしかない愚かな姉君」  
「……」  
身構えるセレスに更なる戦慄が走る。  
戻ってきた?  
それに、さっき。  
おかえりなさいと、言わなかったか。  
「安心しなよ。今の俺に貴女をどうこうする力はない。ここは記憶の片隅みたいな所だ」  
「どういうこと?」  
剣を構えたまま、できる限り隙は見せないように。  
極度の緊張で脂汗が滲む。  
「数ヶ月前に君を蝕み、玉の肌へ傷痕を残していったあの病と同じだよ。君の心の奥底で息を殺して潜み…」  
また、喰らいつける日を心待ちにしている、か。  
言わずともわかった。  
ムーンファルクスを握る手にいっそうの力がこもる。  
 
企みが読めない。  
「貴女は騒乱の種子みたいな素晴らしい女性だ。大事な大事な俺の駒だからね」  
不気味な含み笑いには明らかな嘲りが混じっていた。  
金の髪。純白のローブ。涼やかな目元。なのにどす黒い。  
どうして当時はわからなかったのだろう。  
どうして。  
「怖いかい」  
立ち上がり、コツコツと前に進み出た。  
靴音が耳に障る。  
「そうやって抗うからいけないんだよ。開き直ってしまえば解放されるのに」  
「戯言を…」  
「貴女は本当に隠すのがうまい。いや、抑圧するのが、と言った方が正しいかな」  
不可思議ではっきりしない言い方。  
その先を聞いてはいけないと本能が告げた。  
が、何故か聞きたがる自分を止められなかった。  
「何を…言ってるの…?」  
食いついてきた獲物にオーディンの欠片は鳥肌ものの薄笑いを浮かべる。  
「貴女は何もかも喰らい尽くす獰猛な魔獣を奥の方に閉じ込めてる。でも、完璧ではない」  
「……」  
「そう、あなたは愛しい男と違って、それを制御できない」  
全身が情けない程びくりと波打った。  
汗が噴き出す。  
対面する相手は言葉で弄びながら楽しげに嗤う。  
「一度出してしまうと手がつけられない。あの丘陵でそれに気付いた。常に血腥さを欲している自分に。  
 だから必死で押し込めようとする。戦場から遠ざかろうとするんだね」  
「違う…」  
「平和や統一への理想なんて二の次だ。俺に賛同したなんて嘘だ。本当は、ただ――――もっと殺したかったんだよね?」  
全てを決め付けるかのような言い草はあまりにも力を孕んでいた。  
だめだ。違うのに、絶対に違うのに、反論がうまく紡げない。  
舌の回る気配が微塵もない。  
流されている。  
心臓が破裂寸前だった。  
「ラッセンとかいうどうでもいい国に政略結婚で押し込められてから4年、貴女の火は消えたかに思えた」  
獲物の動揺を嗤い、軽んじる微笑みを湛えながら、ゆっくりと階段を降りてくる。  
「だがある日貴女を解放する男が現れた。炎で真っ赤に焼いた鉄みたいな男。彼との一騎打ちという夢のような時間が訪れた。  
 しかし至福の時間は短い。彼は首をごろりと落として死んでしまった。  
 貴女は数年ぶりに目覚めた反面、自らを恐れ、その輝かしい勝利を何としても偶然の産物とやらにしたかった」  
引きずり込まれる。  
「だから次の贄を与えてくれる俺を選んだ」  
逃げなきゃ。  
また囚われる前に――――  
階段を降り終えた悪魔は突如、脱出の隙をうかがうセレスの気を殺ぐ話題を持ち出してきた。  
「それにしても驚いたな。貴女をここまで追い詰めるなんて。ちょっとは使えるんだねえあのドブネズミも」  
あからさまにエルドを指す比喩を用い、高らかに笑った。  
嫌悪が走る。  
改めて目の前の存在がゼノンではないことを確信する。彼だったらこの類の嘲りは決して好まない。  
「あれはしつこいだろう?水子だよ。然るべき時期に与えられて当然のはずの愛情を与えられなかった。  
 それを求めて彷徨う飢えた魂だ。可哀想だね」  
可哀想。  
そう言いながらも語調には、愚かな言動を繰り返す男への侮蔑が大量に含まれている。  
「貴女には本当に災難だったね。でも、あれはあれで一生懸命なんだよ。下手糞なやり方だけど、愛してもらおうと必死なんだ」  
「……」  
沈黙するセレスへと、冷ややかに問うた。  
「さて、今の貴女にあの男を救えるのかい?」  
無理だ。  
わかってはいるのだが、このゼノンの姿を借りた悪意の存在に安易に同意できない。  
セレスがじりっと後ずさると、また突然話題を切り替えし、その場に縛り付けようとする。  
 
「セレス貴女が彼の男に抱いている想いは、それは恋じゃないよ」  
その唐突さがいちいちセレスの心を抉る。  
「君はあの男の―――同じものを持ちながら制御ができる人間の、庇護下に入りたいんだよね」  
「何を…!」  
「恋慕の情というのは面倒くさいね。そんなに好きなら行けばいいのに。死に別れたわけじゃなし」  
「いい加減…っ」  
「でもそれでは面白くないね。戦姫にそんな庇護は必要ない」  
言うだけ言うと、白いローブの悪魔はすっと手のひらを差し伸べてきた。  
「さあまた踊っておくれ紅蓮の君――――――」  
その場に留まるのは限界だった。引きずり込まれ、必死に隠しているものを、本気で暴かれてしまう。  
「おいで」  
数歩後ずさった後、ついに踵を返して走り出した。  
「逃げても無駄だよ」  
必死で走る。  
「逃げるな」  
写本でない誰かにも引き止めるが、構っていられない。  
だがそれはお構いなしに逃走を妨害してくる。  
誰よ。痛い。髪を引っ張らないで。  
一歩でも遠のきたいのに。  
「立ち向かえ」  
できない、できない。もうそんなこと。  
説教なんてたくさんよ。  
「足元を見ろ」  
えっ、と気付いた時にはもう遅かった。  
息をのむ。  
ぽっかりと大穴が開いていて、なす術も無く吸い込まれていった。  
淀んで濁った水の中。  
ごぽごぽと息を吐くが苦しくはない。  
もう既に汚れているからだろう。  
沈んでいく。  
嗚呼、でも、これで。  
暗く冷たい底へ堕ちゆきながら、ぼうっと、泡粒が昇っていくのを見ていた。  
遠のく意識に逆らわず身を任せてしまう。  
これで楽に……  
目を閉じようとした瞬間。  
突如腕を乱暴につかまれた。  
ぐんぐん浮上していく。  
痛い。やめて。誰なの一体。余計なことしないで。望んでいない。  
もう楽にさせて。  
もがいても上昇はやまない。  
ばしゃんと水を割る破裂音がする。  
空気を吸い上げた後目を見張った。  
水面で出迎えてきたのは、ずっとずっと焦がれていた男だった。  
硬直するセレスに、見慣れた漆黒が鼻先で怒鳴りつけてくる。  
「しっかりしろボケ!!この豚野郎っ!!情けねえないつまでもクサってんじゃねえよっ!!!」  
罵声を浴びせられているのに、ひと目姿を見ただけで、怒りも悲しみもすべて消えてしまう。  
「あ……」  
思考の巡る余地などなかった。ただ彼を感じたくて、消えてほしくなくて、後先構わず抱きついていた。  
「ああっあ、ああ…」  
呂律が回らず、言葉にならないのがもどかしかった。  
狂おしい程に縋り付く。  
ほのかな体温を感じられた気がして言い表せないくらいに幸せだった。  
もういいと思った。何もかも、もう。  
至福のまま、このまま。  
 
拒絶と刃を覚悟していると、代わりに襲ってきたのは力強い抱擁だった。  
驚いて目を見開く。思考が停止する。  
「いいか、立て。とにかく立て」  
壊れるほど抱きしめられて乾ききった彼女を水滴が穿つ。  
冷え切った魂に熱が灯る。  
「戦士なら何があろうとも目を開けてろ」  
深い部分から潤って、諦めきっていた何もかもが変わっていく。  
満たされる。  
「そうすりゃ道なんぞ勝手に開ける」  
水滴に混じって涙が伝った。  
「うん」  
世界に光が射し、一段と透き通る。  
「……うん」  
嬉しい  
嬉しい  
 
嬉しい…………  
 
 
 
「……………未練がましいとは正にこのことね…………」  
開口一番に口から零れたのは自嘲だった。  
汗だくでの目覚め。だが悪い気分はしていなかった。  
追憶の中にいる大事な人達の笑顔と優しい言葉達、そして最後に彼の姿を見れたからだろう。  
「……」  
馬鹿みたい。  
勝手な解釈ばかり。  
あんな風にしてくれるわけ、言ってくれるわけ、ないのに。  
それでも心からは優しいものが溢れてくる。  
乾ききったと思った身体から汗が流れてゆく。  
抱きしめていた剣をそっと脇に置くと、水差しに手を伸ばし、水分を補給した。  
痛めた喉に障る。  
だが美味しかった。  
生物を構成する素が身体中に巡り、染み込んでゆく。  
体内にすうっと取り込まれて、瑞々しさと柔らかさを供給する。  
生きている証。  
「…何よ」  
口を拭って一人ごちる。  
夢の中でまで怒鳴り散らして。  
「私はもう戦士じゃないっていうのに」  
馬鹿みたい。  
どきどきしている。  
「殺したいくせに」  
上半身を起こす。  
「何で生きろって言うのよ」  
何日もろくに動かしていない身体はなかなか言う事を聞かなかった。  
だが悲鳴をあげて倒れようとしても、ぐっと力を入れ堪える。  
「…ばか」  
そうして、自分の力で立ち上がった。  
まだどうしてもふらつく。数歩進んで冷たい壁に手をつき、もたれて大きく息を吐く。  
立ち上がれたことへの喜びで満ち、変にすっきりした気分だった。  
窓の外では水平線が燃えている。  
血の海みたいな朝焼けが、血の海みたいな男を待つ女を照らす。  
 
赤い世界。  
思い出す男。  
追ってこない男。  
悠遠の彼方にいる男。  
「でも」  
朝がくる。  
「来ては、くれないのね」  
空と海を鮮やかに焼き焦がして光をもたらす。  
セレスにとっては新しい夜明けだった。  
でもそこに彼はいない。  
勝手な夢を見ただけ。  
終わったんだ。  
そう、終わったんだ……  
なのに。  
「もう忘れなきゃ…」  
言葉とは裏腹に心は幸せだった時間を再生する。  
いつもそばにいれた。  
ああそうか、シルメリアの翼に抱かれて、彼がいて、みんながいて、  
つらいことも多かったけど、  
――――あそこは、楽園だったんだな。  
「……」  
好きな男を想う。  
もし私に誰かを幸せにできる力があるのなら、この世に貴方だけなのに。  
私はここよ。  
ここにいるのに、あれだけ執着してくれていたのに、――――どうして来てくれないの?  
勝手な思考ばかりが目覚めたセレスの心を駆け巡る。  
忘れられない………  
目覚めを待つ静けさの中で、募るばかりの想いを自覚した。  
彼は生前、この手で終わらせた相手。  
たとえ狂っているとしか表現できない想いでも。  
どうして。  
どうして、離れてしまったんだろう?  
あの日なら話をすることも、食事をすることも喧嘩することも、何とでもできたのに。  
貴方のそばにいられるなら  
他になんにもいらないのに  
何故努力すらせずに逃げたんだろう  
こんなに好きなのに……  
泣きたくなるのを誤魔化すかのようにかぶりを振り、髪をかき上げ、はあっと息を吐く。  
似合わない。  
こんな感情、自分には―――とりわけ今の自分ごときには。  
でも。  
今ではもう、残された痛みさえ愛おしい――――  
この夜明けは一体どこからくるのだろう?  
「…どうやって忘れればいいのよ」  
壁から離れ、よろけつつも立ち上がり、一人死んだ港に佇む。  
紅に包まれていたら自然に答えが出ていた。  
あの人が来ないなら、自分で見つけに行こう。  
そうだ。  
翼はなくとも、私にはこの二本の足がある。  
この事態を招いた禍根を断ち、決着をつけたら、そしたら旅立とう―――  
あの人に会いに行こう。  
自分の足で地面を踏みしめて、  
どうしても伝えたい言葉を伝えに、  
大切な人に会いに行こう。  
 
 

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