膝をついているセレスの横でばさっと音がしたのと、ふぎゃっと驚く声がしたのがほぼ同時だった。  
甘い香りがセレスの鼻をくすぐる。  
肩の上では赤い薔薇の花束が咲き誇っていた。  
振り向かずとも贈り主はわかる。  
一体何処から調達してきたのだろう。この時期とご時勢にご苦労なことであるとは思う。  
「ふぎゃっ?」  
奇怪な音声に眉根をよせるエルド。  
彼に振り向いたセレスは口に人差し指を当てていた。  
「後にして」  
小声で呟いてから、対象に向き直る。  
「おいで」  
セレスが手を差し伸べる先には、ほんの小さな仔猫がいた。  
産まれ落ちてからひと月も経っていないことが見て取れる程の小ささ。  
毛並みは泥で汚れている。  
セレスが触れようとすると全身の毛を逆立てて後ずさり、何度も大きな息を吐き出し威嚇する。  
剥き出すのは可愛らしい牙。  
幼いながらも野生の防衛本能を働かせているのだろう。  
警戒する大きな瞳は怯えきっていた。  
「……まさかまた飼う気か」  
エルドに恐れと呆れの色が浮かぶ。  
セレスの家には既に二匹、先住の猫が住み着いているからだ。  
「仕方ないじゃない。近くを探してみたけど、親猫も兄弟も見当たらないし。このままじゃ衰弱死してしまうわ」  
「猫屋敷かよ……」  
不満を吐き捨てる男に、女からの格段冷ややかな視線が注がれる。  
「一番手のかかる馬鹿猫が何言ってるのよ」  
揶揄された死神の表情が盛大に引き攣った。  
「………お前言うようになりやがったな………」  
青筋浮かぶ童顔をさらりと無視し、セレスは諦めることなく仔猫に救いの手を伸ばす。  
「おいで」  
だがいくら呼びかけても迷い猫は威嚇の体勢を崩さない。  
それでいて後ずさったり近づいたりとはっきりしない。  
決して逃げ出しもしない。  
信じてよいものかと戸惑っているのがわかる。  
「……」  
そんな調子を保ったまま、時だけが過ぎていく。  
「お前は優しい女だ」  
ずっと隣で様子を見守る男が不意にぽつりと呟いた。  
「……何よ」  
「俺を振り払わない」  
「……」  
どこか己と仔猫を重ね合わせるものがあったのだろう。  
だがそんなやりとりをしても互いに無表情のままだった。  
やがてセレスが目を伏せて心情を吐露する。  
「優しいのと情けないのとでは全然違うわ」  
時間の経過と共に仔猫の威嚇体勢は緩やかに解けていった。  
セレスの視界からは決して出ることなく、うろうろと所在なさげに彷徨う。  
粘った甲斐もあって距離はかなり縮まっていた。  
仔猫側も、本当は早く温もりの中で安堵したいのだ。  
更に時間を割いてゆっくりと距離をつめる。  
そうして仔猫が無関心を装い別方向を向いた時、ついに指の背でそっと柔らかな毛並みを撫でることに成功した。  
「へえ」  
傍観者から小さな感嘆があがる。  
そのまま優しく撫で続ける。  
仔猫は尻尾を立てたまま、ぶるぶる震えていた。  
その震えが消えた頃に膝上に抱き上げた。  
保護成功の合図。  
生きた毛玉がちょこんとセレスの腕におさまるまでゆうに数時間を費やした。  
 
「いい子ね……」  
ふんわり優しい声色のセレスに、エルドが神妙な顔つきをする。  
「おかしいな。俺の方がよっぽどいい子なはずなんだが。何故可愛がられてねえんだろう」  
「……………面白くないのを通り越して殺意が沸くような冗談ね」  
思いきり白けた細目を向けると、  
「ひでえ」  
流石に死神もむくれる。  
こんな身勝手な男には付き合っていられない。セレスは仔猫を抱いたままさっさと玄関へと引き返した。  
早くあたたかくしてやらなければ。  
「なー。愛してるって」  
置いてけぼりを食ったエルドが不服全開で戯言をほざくので、  
「入らないなら鍵閉めるわよ」  
冷ややかに呼びつけた。  
「花束持ってきて。花瓶に生けるから」  
薔薇の束を無造作に拾い上げると、ぶつぶつと不満を垂れ流しつつ弓闘士は家に入る。  
セレスがドアを閉めた。  
 
ここは春までの戦場。  
受け入れるか、跳ね除けられるか。  
どちらも譲れぬ戦いなはずなのに。  
とても曖昧な毎日を過ごしていることへのため息がこぼれる。  
おかしな話だ。  
捕らえ囚われた関係が、今はもうどちらがどちらなのかわからない。  
手渡された花束がむせ返る程に甘たるく鮮やかだった。  
冬の薔薇。  
贈り物に宿る幼い愛情が、哀れで、重い。  
 
 
 
仔猫は汚れを落とし暖炉付近で少し乾かした後、空き箱に入れて別の部屋で落ち着かせることにした。  
蓋を閉める際に可愛らしい声でみゃうんと鳴いた。その愛らしさに思わず微笑む。  
軽く拭いただけで随分白くなったから、ちゃんと洗ったら真っ白な仔猫になるだろう。  
ソファに戻ると先住の猫達が気まぐれに飼い主へ懐こうと寄ってきた。  
が、彼等の行く手は悪者に阻まれる。  
ずば抜けて厄介なでかい馬鹿猫が、その飼い主の膝を占拠しているからだ。  
エルドにしっしっと手首を縦に振られると、諦めたのか猫達は退散していってしまった。  
明らかに専有権を誇示している。  
猫相手に。  
「猫以下の扱いとか。俺は大変傷ついた」  
しかも拗ねている。呆れてものも言えない。  
こうしていると猫屋敷の主と言われても仕方ない気がしてくる。  
「あのねえ……。あんな仔猫相手に嫉妬しないでくれない」  
「あんなん拾ってる暇あるなら俺をかまえ」  
恨めしげな声を出される筋合いはない。  
ないのだが、欲求が満たされないと本当に仔猫さえ手にかけかねない男だ。  
しばらくは大人しく膝を占領させることにする。  
茶色の髪を撫でた。  
春までは一緒にいると契約した手前、あまり邪険にもできない。  
あの独白の後、エルドはセレスに対する攻略法を大幅に変更してきた。  
この女には無理強いするより甘えて擦り寄る方が効果的、それに気付いてしまったらしい。  
そうとわかれば話は早いようで、あの日からずっとこの調子だった。  
白けることも度々あるが、逆にそれが振り払いにくい。  
身勝手で横柄な男。少年のような容姿も計算のうちだ。  
――――子供みたい。  
違う。  
子供そのものなのだ。  
 
だんだん、一つまた一つ心を許す度、セレスの前でだけ凍った心が解けてゆき、  
セレスの知っているエルドとは程遠くなっていく。  
それは確実にセレスを捕らえ、手元に置き続ける悪質な手段でもあるのだが。  
薔薇の香りが部屋を満たす。  
贈り物という行為にはもらう喜びが伴うべきだと思う。  
イージスから何かもらうと嬉しい。彼は食べ物や白い花をよくくれる。  
だがそれは友人であり仲間であり、兄的立場で支えてくれるイージスがくれるから嬉しいのだ。  
この男からでは受け取ることへの戸惑いと不安しか残らない。  
「そんな悲しい顔するなよ」  
思考を読まれて指摘を受けた。  
視線を交わらせたくなくて目を伏せる。  
「あ――――わり。重かったのか」  
そんなセレスの態度を何か勘違いしたらしい。エルドは俊敏な動作で起き上がり、頭を退けた。  
どうやらセレスの眉間に刻まれた皺を読み違えたようだ。  
「ううん違うの。それはもう終わるから大丈夫よ」  
セレスの身体には月のものが巡ってきていた。  
下腹部への圧迫が負担だったと思ったのだろう。  
その返答に、童顔には安堵が灯った。  
「良かった。この前一回失敗したからずっと心配してた」  
「……」  
失敗されたその時、組み敷く男は硬直して顔面蒼白と化したが、組み敷かれていた女は特に動揺もしなかった。  
愛し合ってもいないのにこんなことばかりしていては、いつかこうなるのではと予測していたからだ。  
セレスはしばらく無表情でいたが、抑揚のない声でぽつりと宣告した。  
「もし授かったら産むわよ。私」  
セレスの顔の輪郭をなぞる指がぴくりと反応する。  
エルドにはとんでもない発言だったらしい。  
童顔が見る見る間に苦く歪んでいった。  
「おい勘弁しろよ。これでまた人間の赤ん坊だあ?」  
「そんなこと言ったって、できちゃったらしょうがないでしょ。これだけ毎日のようにしてるんだから。  
 外で出すだけじゃ避妊としては完璧じゃないって聞いたわ」  
対面する男は再度不貞腐れたが、こればかりはどうしようもない。  
セレスは決めていた。  
もし出来たら子供を最優先すると。  
当然あの人の元へは行けなくなる。でも、それは仕方のないこと。  
こんな毎日を過ごした末に宿ってしまった命の灯火を吹き消すなど、セレスには考えられなかった。  
責任は取らなければ。  
その為だったら私事など何もかも諦める。  
完全に決意してしまっているセレスとは真逆、父親になる可能性持ちの男は心底嫌そうだった。  
「大丈夫よ、そんな心配しなくても。一人で育てるわ」  
安心させる為にそう言った。だが相手は頼られないのもまた気に食わないらしい。  
エルドは思案するようにしばらく無言でいたが、  
「まあ、産めよ」  
意外なことを口走ったかと思うと、次の瞬間には凍りついた瞳で呟いた。  
「どっか捨ててくるから」  
セレスの目がこれでもかと見開いた。  
戦慄で総毛立つ。  
まさに心臓を掴みあげられたような衝撃だった。  
「冗談だよ」  
だが当のエルドは強張るセレスから視線を外すと、突き付けたおぞましい意見をあっさりと否定した。  
「エルドっ!!ふざけないで!!」  
流石に憤怒せざるを得ない。大声で怒鳴りつける。  
「冗談だっつってんじゃん。おーこええこええ。気をつけねえとな。ガキなんぞ身篭られたら全部かっさらわれちまう」  
「……」  
ただ、恐ろしかった。  
冗談と言われても体内の緊張は痛い程に残留し、寒気はおさまらなかった。  
本音が混じっていないとは言い切れない。  
怖いのはどちらだ。  
だが同時に、孕ませて束縛するという最悪の手段は用いないという確信もでき、その点では安堵が広がる。  
 
やりとりの疲労で長嘆息するセレスの膝に、また死神の頭部が預けられた。  
驚きと嫌悪が迸ったが、慣れのせいかすぐに落ち着いた。  
絡んでくる手を払いのけ、深呼吸すると、眼前の男をきつく睨み付ける。  
「そういうこと二度と言わないで。貴方が言うと洒落にならないのよ」  
「へえへえ」  
それでも嗤っている。  
困らせて楽しんでいるのがわかった。  
嘆息ばかりのセレスの耳を、この男らしからぬ台詞が撫でる。  
「お前と一緒なのは俺にとっていいことだと思う。柔らかい気持ちになる。少しだけ世界が優しく思える」  
零れる本音は飾り気なく、セレスの心を小さく打ち、波紋を広げる。  
発言に嘘が混じっていないことは薄い微笑の無邪気さが証明していた。  
「……」  
気のせいじゃない……。  
この死神はまた一回り小さくなった。  
このままずっと縮んでいくのかと思うくらいに何度も縮小を繰り返している。  
その不可思議な現象の正体を、セレスは最近やっと、何となく理解することができた。  
勿論本当に縮んでいるのではない。  
だんだんセレスの前でだけ、この死神は子供になっていく。  
素の姿を晒してゆく。  
そしてセレスも日を追うごとにそんな彼を理解している、それゆえの現象だと悟った。  
よくわからないというベールを剥いでしまったら人間などこんなものかもしれない。  
成熟していないのは容姿だけではなかった。  
凶悪で闇が深くて、ほどけないレベルに捩れていて、あまり合わせたくないと思っていた大きな目。  
今ではただ寂しい瞳だと思う。  
その目がセレスの中に、木漏れ日のあたる居場所を探している。  
帰る場所のない迷い子の瞳に自分が映り続ける。  
息苦しくなる。  
求めているもの、そんなものは私にはないというのに。  
「なんで見つめてるだけでそんなツラになんだよ。ったく」  
少年は口を尖らせて幼稚な不満を撒き散らす。  
対峙と和解。欲望と憎悪。  
幾度となく繰り返し、両者は不安定な均衡を保ちながら、毎日をゆっくりと過ごしている。  
だが、この関係を終焉させることだけは決して許されない。  
死神の指先が元英雄の唇をなぞる。  
「言わせてぇな。この口に。俺が欲しいって」  
子供になったり、妖しいことを言ったり。  
素で、変な生き物だわと思う。  
「少しゃ俺のこと見ろよ」  
不可解な願望を口走られて眉を顰める。  
「……見ていないとでも?今だってこれでもかというぐらい視野を占領されてるけど?」  
少々皮肉を含めて言い返すと、  
「嘘だ。目には映ってても俺を見てるわけじゃねえ。せいぜい災難や害悪の塊くらいにしか思ってねえ」  
温度の無い表情できっぱり断言された。  
どきりとした。  
そういう思考はまったくなかったが、心臓が呼応したということは図星だったのだろうか。  
死神は頬と手のひらで女の太ももを味わいながら言葉を続ける。  
「覚えてるか。戦乙女にこき使われてた頃。苦戦中にあの黒いのが勝手にノーブルエリクサー使いやがってよ。勿体ねえ」  
「覚えているわ」  
即答するほど鮮明に覚えている。  
『彼』が、一人取り残されたセレスを遠まわしではあるが助けてくれた怪事件。  
大事な大事な、宝物といっていいくらい大切な思い出の一つ。  
「あんな余計なもん必要なかったんだぜ。俺の援護のが断然早かったからな」  
「えっ?」  
思わず素っ頓狂な声が漏れる。  
「俺が誰よりも先にお前の援護に回ってたんだよ。でもまず敵ぶっつぶさねえと話にならねえだろ、すぐには近付けねえ。  
 何とか始末して俺が回復薬取り出して声かける前に、うまいトコだけ持ってかれちまったってオチだ」  
 
意外な裏話の暴露にセレスの目が真ん丸になる。  
「ったく。お前は俺の助けなんて気付きもせずにあの黒いのにぽーっとなってるしよ。  
 あんなはらわた煮えくり返るようなムカつきは久しぶりだったな」  
俊敏なくせに案外間の悪い男だ。  
「そうだったの……」  
「あと―――お前は覚えてねーかもだけど」  
「え、何?まだあるの?」  
驚きが止まらない。  
混乱するセレスに更に新事実が畳み掛けられる。  
「あれはクソでけぇドラゴンとやりあった後だった。倒した後も、お前スイッチ入ったままでゾクゾクきてる感じだった」  
息が詰まった。  
それは多分、狂気と隣り合わせの非常に危険な状態。  
戦闘の虜になっている姿。  
「俺はとりあえず声かけた。おい、どうした。大丈夫かって。けどお前は殺気帯びててそれどころじゃねえ」  
「嘘……」  
愕然とする。まったく記憶にない。記憶にさえ留められない己の秘めた凶暴性を改めて思い知る。  
「その後はどうなったの?」  
先を聞くのが怖かったが、促した。  
エルドはしばし言いたくなさそうにしていたが、むすっとふくれっ面になった後に吐き捨てた。  
「どうなったも糞も。あの黒いのがのそのそ歩いてきて、お前の髪引っ張って終わりだよ」  
そして更に不貞腐れた。  
真実を知らされることで予想通りセレスが固まってしまったからだ。  
当のセレスには髪を引っ張られた箇所からしか記憶がなかった。  
それがエルドのもたらした事実とあっさりつながってしまった。  
一見単純に思えた、意味のわからない行為。  
だがきっとあの人は殺意に満ちた危険な状態からの戻り方を知っていて。だから『それ』を、施してくれたのだろう。  
嫌がらせだと思っていた自分が恥ずかしくなる。  
思いがけない記憶の断片の続き。真実の天秤ごと心が揺らぐ。  
そんなセレスの頬の色合いと動揺が、彼女を欲する童顔を更に歪ませる。  
「そうだよな。どうせ俺が何してやったって結局あいつなんだよなぁ」  
鼻で嗤う姿にはあからさまな自嘲を感じた。  
「俺は結局今回の生も誰にも必要とされてねえわけだ」  
「エルド…」  
ずるい言い方だとはわかっているが流石に心に引っかかる。  
だがこの死神に同情など欠片すら不要。  
直後に特等席から跳ね起きて、溝を埋める為、お構いなしに迫ってくるのだから。  
「用意されてねえなら奪うしかねえよな?」  
「エルド……」  
戸惑うセレスに容赦はしない。  
「俺の方がお前を愛してる」  
きっぱりと言い放つ。  
だが告白は透けて向こうが見えるほど薄っぺらだった。  
平気で嘘をつく男が、口説いているつもりなのだろうか。  
今のセレスにはもう笑い事にしか聞こえない。  
そんな女に縋る男が哀れになる。  
べらべらと綺麗事が並べられるが、安っぽい言の葉では心まで届く力も無く、脆く剥がれ落ちる。  
そんな出来合いの言葉をいくら並べたところで、自然に手をつないで歩ける日などこないというのに。  
この男はいつもそう。  
救いの手を差し伸べた戦乙女さえ恨んでいる。  
幸せはいつだって手招いているのに、そっぽを向きながら幸福を夢見ている。  
この男には『わかれない』のかもしれない。  
誠意からの情熱ではない。狂気じみた高熱は鳥肌を誘う。  
成熟していない愛情が延々と垂れ流される。  
気がつくとその必死さに深く同情している自分がいる。  
それをエルド側も気付いている。気付いていて言の葉を続ける。  
歪んだ伝わり方でも構いはしない。  
自分の元に永遠に縛り続けられれば、それで。  
一通り荒唐無稽を並べ立てた後、変化のないセレスなど構わずに、ゆっくり首筋に埋もれてきた。  
 
「なあマジでそろそろ諦めねえ?」  
「無理よ」  
「何でだよ。特別だっつってるだろ。放したくねえのわかれよ」  
特別と言われても全然嬉しくない。  
稚拙な愛情が棘のように絡まり、ひっかかるだけ。  
「……貴方、生前や今までに、そういう相手はいなかったの?」  
軽く探りを入れてみたが、  
「さあ。いなかったかもしれねえし、いたかもしれねえな」  
掴みどころのない曖昧な答えしか返ってこない。  
「何よそれ」  
眉間に皺をよせるセレスの腰を抱き、平然と続ける。  
「俺のが先にそいつの体温に飽きちまうからな。もって数ヶ月だ。どうでもよくなって嫌になる。  
 結局どの女も大事に思えなかった」  
身勝手なことを口走る口元が歪む。微かだが、壊れた感情経路を持つ者の悲哀が伝わってきた。  
「わかってるよ。何もかも、悪りいのは俺なんだろうな」  
「あら認めるの?」  
「そりゃ、お前の膝枕でぼけっとしてれば気付くさ」  
そう言って、薄く笑った。  
最近のセレスには半ば呆れ果てた表情ばかりが浮かんでいる。  
その不服げな輪郭を、半目をした死神の指がなぞる。  
「ったく、難攻不落なんてもんじゃねえな。さすがアレの姉貴だ」  
「もう。また『アレ』とか呼ぶ」  
いくらセレスに迫っても、彼女の実妹を毛嫌いするところは一向に直らない。  
「お前の妹は照り輝く太陽だ」  
そんな男が唐突に、過大ともとれる評価をした。  
驚いて絶句していると、どうでもよさそうに吐き捨てる。  
「まあ大した女だくらいは思ってるぜ一応は。流石に世間一般レベル程度にはな」  
明らかに認めたくないという言い草である。  
「……なら、どうして……」  
豊かな胸に埋もれていた頭部がゆっくり滑り落ち、また膝枕に戻る。  
そして答えた。  
「――――光が強過ぎるんだよ。俺みたいな奴には消えろって言われてるようなもんだ」  
偏屈な理由である。  
「……消えろなんて。理解できないわ。誰もそんなこと言ってないのに」  
不満を口にすると、頬に手を当てられた。  
「どうでもいいってことだ。俺がハマってんのはこっちのお姫様だからな」  
はぐらかされてもやはり嬉しくない。  
「そうね。私はあの子と違って世間知らずで隙だらけだものね」  
毒気を含む自嘲の回答。今度はエルドが長嘆息する番だった。  
「月にかかる夜霧が何言っても無駄か」  
己を夜霧などに例える、そんな台詞を恥ずかしげもなくさらりと口走り、やれやれと目を伏せる。  
しかしセレスとて、他人を卑下して持ち上げられても、ましてや実妹を貶めて褒められてもまったく嬉しくないのだ。  
しばし無言の時が訪れた。  
何だかよくわからないが、とりあえず文句を垂れつつもフィレスを評価していることだけは確認できた。  
それでも、あの子より私、か。  
「貴方ほんと物好きねえ」  
茶色の髪を撫で付けながら、改めて思ったことを口にした。  
「お前もそればっかだな」  
「だって、私なんて。生前はああだし。本当はほとんど大剣振り回すイメージくらいしかないんじゃないの?  
 可愛いタイプでも、癒されるタイプの女でもない。何故こんなに執着されるのかわからないわ」  
セレスのこの疑問は童顔から余計な色を消した。  
代わりにとても神妙な顔つきが現れる。  
エルドは頭を預けている女を見据えたまま静かに答えた。  
「お前はそこまできれいじゃないからな」  
ひねた本音がセレスの心にさざ波を立てる。  
「お前の妹の光は清浄で強すぎる。ついてけねえ。  
 かといって殺しも血の生温さも何も知らない女に理解してもらえるたあ思えねえ。  
 俺は、汚れてて、ちょっと濁ってて、ほのかに照らしてくれるぐらいの女が丁度いい」  
 
飾り気のない返答。  
エルドのこれまでの態度に少し合点がいった。  
「……貴方本当にねじくれてるわね」  
「今更」  
薄い冷笑と共にそっと手を取ってきて、指を絡めた。  
この手を離したらこの男はどうなるのだろうか。  
また仄暗い裏世界で蠢いて闇を彷徨うのか。  
温もりを知ってしまった分、更に深く堕ちてくんだろうか――――  
不安がセレスを絡めとり、悩ませる。  
イージスは多分、自業自得だあんな奴、と吐き捨てるのだろうけど。  
でも。  
「エルド」  
しばらく間をおいた後、セレスは己を求め続ける男へ静かに言い放った。  
「汚した女に光を求めないで」  
本心を告げる。  
わかっていても、心苦しくても、どうしようもなかった。  
男女の情に関しては非常に疎く不器用な女。しかも現在は常に流されるのを恐れている。  
そんな彼女では、とにかく拒絶を継続することしかできなかった。  
死神が再度起き上がる。  
「本気であいつんとこ行く気か」  
暗雲立ち込める童顔を近付けられるのにも慣れた。冷めた返事を返す。  
「何度も言わせないで。再戦に行くのよ。私は裏切ったわ。女としてはもう顔向けができない」  
「その理屈おかしくねえ?何故自分から死にに行くような行動をとる?」  
納得いかないとばかり噛み付いてくる。  
「貴方本当に何も聞いてくれていないのね」  
隠す事柄など既に皆無。迫りくる男に正直な答えを与えてやる。  
「私にはもうそれしかできないからよ」  
彼の男の話題が出るとセレスの目は少々光を帯びるが、翳りある表情ではその光も哀しく揺らめくだけだった。  
諦めが支配している。  
「女として、なんて。どうするのよ。ただでさえ女として見られてるかすらわからないのに。  
 こんな汚れた体と心で。違う男と同じ屋根の下で暮らして。こんな女が、どんな顔して……会いに行けばいいのよ」  
言葉の一つ一つが痛々しく室内に響く。  
自嘲の苦笑は壊れて歪んでいた。  
「私が、あの最初の三週間、どうして必死で我慢してたのか忘れたの?  
 あの人を呼ばれて、あの人に貴方と同じことをされるのが怖かったからよ。  
 それだけは――――それだけは、どうしても嫌だった」  
苦しげな台詞の最後には、届かぬ想いが切なく滲んだ。  
そこに矛盾した言動を続ける現実が更に追い討ちをかける。  
自分を騙し陵辱した男との生活に甘んじ、同じソファに座っているなんて。  
未だ、どこか堕ち果てた己を受け入れられなかった。  
何があろうと生きなければ。解放された直後にいだいていた強い思いは掻き消えていた。  
心のどこかで、この無様な二度目の生を早く終わらせてほしいと願っている。  
「でも本当は……」  
押し黙ったエルドに向け、薄く涙色をした言葉が零れた。  
「もうわかってる。今更行ったところで相手にもされないって」  
彼が自分に焦がれる獣の部分は当の昔に息を潜めてしまった。  
殺す価値もないほど落魄れた。  
「それでも、行きたいの」  
再会できてもちらと一瞥されるだけで、きっと無視される。  
確証はない。ただ、そんな気がしていた。  
吐き出し終えるとしばらく静寂が漂った。  
「……まだ駄目なのか」  
いたたまれなさにエルドが俯く。  
未だ許されていない現状と、未だ大して自分の方へ傾いていない女心を思い知ったらしい。  
「一年も経っていないのに癒えるわけがない」  
そう答えて目を伏せる。  
後遺症は続く。  
苛烈だったセレスの存在はずいぶんと儚げになっていた。  
 
だがエルドは当然のごとくそれを受け入れず、言う事を聞こうとしない。  
「どうすりゃいいんだよ」  
何とかして自分の方に興味を向けようとする。  
甘い甘い冬薔薇の匂い。とろけるような、振り払って掻き消したくなるような臭い。  
次の瞬間、感情任せに強く抱き締められた。女の整った眉が歪む。  
「何でもするっつってんじゃん。なあ言えよ」  
「エルド苦し」  
「何処にも行くなよ」  
「エル」  
そして最後にひときわ強く、壊れそうな程強く抱き締められた。  
「俺を捨てるなよ」  
あまりにらしくない切望に悪寒が走った。  
普段の脅迫まがいの台詞とは違う意味で堪える懇願だった。  
言の葉だけでなく、魂で呼ばれた気がした。  
どうやらもう、そこまでの存在になってしまっているようだ。  
一体誰に行ってるの、そう問い詰めたくなるのは、幼いエルドがどうしても振り向かせたかった彼の女がちらつくから。  
我儘で、身勝手で、自分のやりたいように生きた女。  
正反対と言ってはいたが、実は似ているのではないかと思う――――幼い頃、女神であるはずだった女に。  
重い。今のセレスには重過ぎる。いつかまた潰されることを予感した。  
もう少しばかりは大人な男なのだと買い被っていた。  
何もできない。されるがまま、ただ拒絶をこめてぎゅっと目を瞑る他ない。  
いくら求められてもセレスには応えることなどできなかった。  
 
 
 
真冬。  
窓の外は雪が降り続き、静かに積もりゆく。  
最早枯れ果てるのを待つだけの寂び返った港町からも煙突からはまだ幾つかの息が上がる。  
その息も近いうちに全て死に絶え、幽遠の地は真っ白にかき消されるのだろう。  
港町は海の向こうの廃都に追随し、滅びの運命を受け入れていた。  
今後はアルトリア、ヴィルノア、クレルモンフェラン等の進出が予想される。  
終焉した国の元王女は無表情で薪をくべた。  
風の噂でヴィルノアにはローランドがいると聞いた。  
遠い昔、雷鳴と称された将軍は今後どのような道を選択し、進んでゆくのだろう。  
これから軍事面強化で急速な発展が予想されるヴィルノア。  
他にも誰かエインフェリアがいるのだろうか。  
「……」  
今は、考えない。  
戦、戦、戦――――――  
遠い昔、大きすぎる理想をいだき、波乱の生涯を送った女は気付いていた。  
神の支配がなくとも人が人である限りいつの世も変わらないと。  
だがこの取り残された地ではそれも関係のない話だ。  
暖炉ではパチパチとはぜて炎が踊っている。その暖かな光に照らされて猫達がぬくぬくと寝転がる。  
新入りの仔猫はあっという間に大きくなってゆく。  
だがまだまだ幼い。先住の猫に舐められているのが視界の端に映り、セレスの微笑を誘う。  
猫達を見守るゆったりした時間を楽しんでいたら、闇から溶け出したようにエルドがすうと現れた。  
「ただいま」  
「おかえりなさい。何処行ってたの?」  
返事はない。  
髪に雪がちらついているので、外に出ていたのだろうか。  
音無く近寄ってきたかと思うとそのまま口付けられた。  
重ね合わすだけの丁寧で繊細な口付けは冷たかった。  
気性が荒いくせに突然こういうことをしても様になるあたりは本当にずるい男だと思う。  
「二人殺してきた」  
その凍りついた唇が、いともさらりと残虐を報告する。  
セレスの眉間に皺が刻まれる。  
盗賊の類なのは詳細を聞かなくてもわかった。この死地を狙う輩は未だ絶えない。  
「確認に……」  
行動を起こそうとしたらソファに戻された。  
 
「ほっとけ。はぐれもんみてえだったしな、心配ねえ。どうせ春まで冷凍だ」  
凶悪な発言とは真逆に何度も優しく啄ばむ唇。  
キスのうまい男だ。状況に応じて使い分けてくる。  
離れるとともに薄く目が開いた。  
「薔薇か」  
香水の香りを言い当てる。  
「お前に合うな」  
香りよりも甘たるい唇が首筋を這う。  
誘われているのがわかった。  
「欲情したらそのまま襲ってくるのやめてほしいんだけど」  
「じゃ拒めよ。ほんとに嫌がるのならやめる」  
大きなため息は都合よく了解とみなされてしまう。  
「ここじゃ嫌」  
立ち上がろうとすると同時、身体が宙に浮いた。  
「ちょっ!」  
次の瞬間に抱き上げられているのを理解する。  
「っとにいちいち注文の多いお姫様だ」  
「降ろして。重いでしょ」  
慌てるセレスを半目のままでにやりと嗤う。  
「今更」  
そのままギシギシと音を立てて階段をあがる。  
寝室に持っていかれ寝台に降ろされると、もう一度唇が押し当てられた。  
口封じのつもりなのだろう。キスを続けながらどんどん事を進めてゆく。  
「冷た……っ」  
手が冷え切っている。  
吐く息が白い。  
首筋にいくつも口付けが落ちる合間、衣擦れる音がする。  
「お」  
邪気を帯びた死神の表情が少しだけほころんだ。  
押し付けておいた黒の下着が顔を出したからだ。  
「しつこいんだもの」  
着用している女は渋々といった感じである。  
ほぼ紐でできた下着は申し訳程度に隠すだけで、布の面積は非常に少ない。  
「下品すぎるんだけど」  
頬を染めて睨みつけるセレスに鼻をならす。  
「何だよこの程度。ケツ丸出しで戦ってたの何人かいたじゃねえか」  
相変わらず悪態にも最悪に品がない。  
「丸出しじゃないわよ失礼ね。あれはああいう軽装構造の防具で……」  
「つーか他の女なんてどうだっていいんだよ」  
「………」  
自分で話題に出しておいてこの締め方である。  
手中の女は納得いかない顔をしていたがお構いなしに抱き寄せ、掠れ声で嬉しげに囁く。  
「つけてくれたんだな」  
困り顔のセレスにもう一度口付ける。  
「だって勿体無いんだもの。春になったら二度と着ることないだろうし」  
過ぎた期待をいだかせないよう軽く釘を刺すと、  
「そうだな、飽きてるだろうしな。また新しいの買ってくる」  
真っ向から撃ち返してきた。つくづく口の達者な男だと思う。  
衣服を取り払い床に落とすと、本格的に甘い雰囲気を漂わせてきた。  
唇と指が絶え間なく柔肌を蠢く。  
「ん……ふ…。あ…っ」  
下着をつけたままの喘ぎはまた格別に悩ましい。  
「すげーいい。エロくて。剥ぎ取りたくなる」  
「剥ぎ取るくせに」  
呆れ顔の指摘に冷たく口角が歪んだ。  
薄い布ごしに這う指が動くごと、女体がぴくりと反応する。  
指どおりの良い紅色の糸をすうっと一度梳き、肌を絡め、抱き締めてきた。  
 
無音。  
時折の衣擦れと喘ぎ以外は。  
二人の関係はずいぶんと変わった。  
手首を押さえ付ける手は指を絡め、口付けも甘く熟した。  
女の眉間に唇が落ちても皺がよらない。  
この男と繋がっているなんて昔のセレスなら仰天するのだろう。  
ぼうっと意識を霞ませたまま甘い波に身を任せ、揺蕩う。  
何故振り払わない。  
何故振り払えない。  
怖い。それもあるが。  
もう誰もいない。  
答えは出ていた。  
結局、互いに孤独なのだ。  
「んん……」  
歯列をなぞり上げ、口内を深く貪ってくる。  
銀糸をひいても行為は終わらない。  
されるがまま、熱されてゆく吐息を漏らし続ける。  
「また地味なの選んでんな」  
不意の指摘。手首を彩るアクセサリの輝石が小さくきらめく。  
あれほど拒絶していた贈り物を、セレスは今ひとつ身につけていた。  
「これは……」  
セレスにとっては大量の贈答品への申し訳ないと思う配慮でも、エルドにとっては偉大なる進歩だった。  
豊かな双丘に嬉しげに埋もれてくる。  
布越しでも硬くなっているのがわかる乳首を摘み、押し潰した後、ゆっくりと舐めあげられた。  
「はぁ……っ」  
快楽に震え、仰け反る。  
「エルド…」  
頬に手を添えると、その手を取られ、指を口に含まれた。  
男の舌が指を濡らし、ぴちゃぴちゃと淫猥に水音を立てる。  
変に卑猥だった。  
たかが指への刺激なのに、どうしてもぞくぞくと肌を粟立たせてしまう。  
舌の赤で視覚まで犯されているような気になる。  
本当に。  
今でもたまに信じられなくなる。  
この死神と、こんな関係になるなんて。  
「わ、私もする……」  
のまれそうになる危うさを己に感じ、うわずった声でぽつり呟いた。  
それを聞くとエルドは軽い口付けの音を立てて唇を離した。  
「いいけど。じゃケツこっち向けて跨れ」  
直球である。  
赤裸々すぎる要求。自分から申し出たとはいえ、セレスは露骨に嫌な顔をする。  
「…私がしたいんだけど」  
「そりゃ奇遇だな。俺もしてえ」  
「……」  
抵抗があった。  
下半身を預け、すべてを曝け出すその体勢が、何よりの羞恥を誘うことを知っているからだ。  
「…………手加減してよ?」  
「さあ?」  
絶対する気がない。  
「もう……」  
だが言い出したら聞かない男であることは承知している。  
渋々ながらも言われた通りに跨ると、位置を微調整されて行為が開始された。  
もう恥ずかしさなどに構っていられない。  
見慣れてしまったそれに、やり慣れてしまった指を添え、舌を這わす。  
指先で刺激して……先端を…それから……  
何とか同等に感じさせようと一生懸命である。  
一方のエルドは余裕綽々で、なだらかな腹と向こうに見える乳房の揺れをゆったり堪能していた。  
 
「夢みたいだな。あの斬鉄姫様をのっけてしゃぶらせてんだから」  
と、目前にある丸みを帯びた曲線を、つうと指で滑った。  
淫らな五指は性技に長け、この女の感じる部分と流れを知り尽くしている。  
「ん」  
くすぐるように弄ばれ、つい腰を揺らしてしまう。向こうの方で嗤い声がした。  
ふと物悲しい気持ちになり、行為の合間にぽつり呟く。  
「……セレスじゃ、ないのね」  
斬鉄姫ばかりを強調されると玩具のように感じてしまい、少々消沈する。  
それに気付いたのか、相手は手管を代えてくる。手の甲と腕で局部をゆっくりと撫でつけてきた。  
「ひっ」  
「セレス」  
掠れた呼び声は真摯に求められたようで、妙に耳に甘かった。  
広い面積を使ってゆっくりと愛撫される。冷たい腕に起こされる摩擦。過敏になっている肌にはたまらない。  
「あっ、ぁあ、待っ……ひぁあっ!やぁっ」  
それがやっと終わったかと思うと、次は秘裂を下着越しに指で弄んできた。  
「あ……やめ」  
「――――全部だ。ふざけんなよ。俺が捕らえて連れ出した戦利品なんだからな。あの時からもう俺のなんだ。  
 セレスも。斬鉄姫も。戦士の部分も。女の部分も。どの部分も、全部、俺のだ」  
俺様発言を区切りながら一つ一つを強調しつつ、布の隙間から指を紛れ込ませてくる。  
あまりの責め苦に反論の余地がない。  
「くぅ…っ、ん……」  
ぐちゅ、ぴちゃっ…ぬちゅ…  
己の水音が卑猥だった。  
熱い蜜がつううと太ももを伝っていくのがわかって羞恥で真っ赤になる。  
相手は隙を与える気がない。  
「んんっ」  
耐え切れず腰ががくんと落ちてしまい、男の顔面にぎゅむっと押し付けるような形になった。  
「ひあっ!!」  
咄嗟に悲鳴をあげて慌てて跳び起きる。  
それでも相手は嗤っていた。  
余裕の差につい苛立って、  
「あんまり調子にのるなら今度は押し潰してやるんだから」  
と軽く脅しつけてやったが、  
「殺れるもんなら殺ってみれば」  
そんな物騒な言葉を簡単に口走る。  
やはり口では敵わない。  
「くたばるまで誰の手にもかかってたまるかと思ってたがよ」  
「あっ」  
むくれていたら、脇から片胸を掬い上げられる。そのまま乳首をつまんで愛撫してきた。  
「どんな間抜けな死に様でもこの際しょうがねえ」  
「ちょっ、ちょっと」  
思わず抵抗しようとしたら、もう片方の手に桃尻をぐっと掴まれた。  
膝立ち状態だったので見事にバランスを崩し、エルドの両肩に手をかけて寄りかかる格好になってしまった。  
抱きつかれた男はすかさず女の耳元で嗤う。  
「俺はお姫様を手に入れたんだからな」  
同時に弄ぶ指の動きが卑猥に加速する。  
「ひぁっ!あっ、やあぁ……!!あっあっん、んんっ」  
己でも信じられないぐらいビクビクと反応し、喘ぐ。  
いじられているだけで達してしまいそうなのを認めたくない。  
「なあお姫様――――」  
更に口説き文句を発しそうな雰囲気を察し、懸命に振り払う。  
「待ってっ、その、さっきの続きを……」  
「まだやんの?」  
「やるの!」  
半ば意地になっている女の姿を見て、完全に上手の男には薄い冷笑が浮かぶ。  
「いいけどよ」  
白布の上に横にされると、相手も逆向きで横になる。少し楽な体勢でできるように誘導された。  
 
「ん、く…ふ……」  
側位で互いの性器を舐め合う。  
自分だって毎晩この男の相手をしているのだからずいぶん上達したはず。  
今度こそ、と意気込んでいたのに、  
「うぅ……。ん、あ…っ、ちょ…っ」  
見越した相手は最初から容赦してくれなかった。  
臀部を鷲掴まれ、下着越しに局部に強く吸い付かれて思わず呻く。  
結局はどんな体位でも敵うはずもない。  
過敏になった肌では舌先で優しくつつかれるだけで飛びそうになる。  
「ま…待って、私にもさせてよ……っ」  
懇願したが、お構いなしに更に付け根に埋もれてくる。  
「や……も、イっちゃ……」  
内股にかかる髪がくすぐったい。  
下着をずらした隙間から侵入してくる舌が、体内を我が物顔で蠢いている。  
「ひっ、いやっ!あぁっ」  
溢れる蜜をいやらしく音を立てて吸い上げ、ひくつく箇所から更に溢れさせる。  
「あ、あっ。やあっ……も、…ルド、ばか…っ」  
もうどうしようもない。  
ぎゅっと握ったり歯を立てたりすると危険なのでそれを手離すしかなかった。  
エルドはそんな気遣いも計算のうちで動いている。  
懸命にやってはいるのだが、この性獣みたいな男には到底敵わない。いつも先に崩れ落ちてしまう。  
「ほらどうした頑張れ」  
調子に乗った男が嘲笑うが、  
「がっ、がんばれって、あっあっ―――んぁあっ」  
どうしたもこうしたもない。  
手を離したらエルドがさっさと身を起こしてしまった為、手元にそれはないのだから。  
「わっ、私がする…って……」  
訴えても五本の指は女の下腹部から離れない。淫らにくねり、時折芽に触れて、容赦なく責め立ててくる。  
ぐちゅ、くちゅ……とわざと音を立て甘い刺激を送り続ける。  
必死に睨みあげるがシーツにしがみつくだけしかできない。  
褥を彩る際立つ赤髪が艶かしく乱れ、闇夜に蠢く。  
「んっ。ちょっ、ほんっ、んんっ!ああっ、あ…っ。――――…っ」  
顎が仰け反ると同時、軽く達した。  
息の荒れるぐったりした躯を解放される。  
肩を軽く押されれば簡単に仰向けにされて、豊かな胸が軽く弾んでから落ち着いた。  
無防備な濡れた瞳に、死神の口端の歪みが映る。  
「ばか。最低」  
むくれて罵っても、  
「もっと蔑んでくれよ。そっちのが興奮する」  
こう返ってくるので対処のしようがない。  
「変態。変態。ド変態」  
「ひでえな。本当のこと連呼されると傷つくだろ。せめて素直って言え」  
「もう……っ」  
戯言の合間にも肩ひものずれた下着から胸をもみしだいてくる。  
いつもと同じことをされているのに淫らな下着をつけたままというだけで何だか気分が違う。  
変に背徳を帯び、高揚してしまう。  
「何でそんなに頑張ろうとする?」  
「ん……だって…毎回っ、…私ばっかりっ、…なんだもの」  
「そんなん気にすんなっつってんのに」  
首筋からくっくっと忍び笑いが漏れる。  
「何よ」  
「ほんとお前おもしれーな。追っ払いたい奴をよくしてどうすんだよ」  
「だって……」  
「それとも―――機嫌よくさせとけば春には満足して出て行くだろうって算段か?」  
挑発的に問われたので、  
「そうよ」  
はっきりと答えた。即答に相手は舌打ちする。  
「春になったら本気で拒絶するから」  
 
「へえ」  
エルドは自分に都合の悪い意見を決して真面目に聞こうとしない。  
「……嫌いなわけじゃないのよ。またこじれないうちに終わりたいだけ」  
「何だよそりゃ」  
「私達は近いうちにきっと駄目になるわ」  
「それはお前の願望だろ」  
大事な話をしているのに、わざと流そうとする態度がセレスの癇に障る。  
赤髪を撫で付ける手首をつかみ上げて鋭く言い放った。  
「貴方まだ何か隠してるわよね」  
それはまさに抉るような指摘だった。  
童顔から一瞬で笑みがかき消える。  
まさに図星、といった感じだった。  
「やっぱりそうなのね」  
硬直する相手から手首を離してセレスは嘆息する。  
「それがどんなことなのかは私にはまだわからないけど」  
明らかに動揺している幼い顔立ちの頬に手を当てた。  
「こうしてることすら後悔して、憎くなること。――――ねえ、だから後ろめたくてこんなに優しいんでしょ」  
エルドはしばらく面白くなさそうに黙りこんでいたが、頬に当てられた手を取ると、  
「だったら何だ。隠し事の一つや二つお前だってあるだろ?」  
いつも通り開き直ってきた。  
「まー何でもいいぜ?何があろうが何に気付こうが、こっちは放すつもりなんざ微塵もねーからな」  
関係ないと言わんばかりに再度迫ってくる。  
「エルド」  
「後悔なんてさせねえよ」  
勢いのせいで互いの額がこつん、小さく当たった。  
「……誰が獲りにきやがろうが、絶対に渡さねえ」  
狂気を孕んだ決意。  
取られた手に音を立て口付けが落ちた。  
「なあ、もう俺のこと怖くねえんだろ?」  
返事をしない女は悲しい顔のまま視線を逸らせた。  
いくら女の体を手繰り寄せても男はその向こうへ行けない。  
「貴方の口にすることは全部嘘よ」  
「何故?」  
ぐいと顔を近づけられると逃げられない。  
「なあセレス、何で嘘なんだよ」  
何度も何度も愛しげな掠れ声で名を呼ばれる。  
「セレス」  
「やっ」  
気を抜いていると頷いてしまいそうになるのが怖い。  
本当に、ただ甘いだけの人だったら、どんなに良かったか。  
腹を撫でていた手のひらがそっと下腹部に再降下する。  
「や、エル、だめ……」  
少量の怯えを振り切られた。既に解けかけている下着を押し退けた指が一本、茂みをかき分け、濡れた体内でそっと蠢く。  
「あ」  
更に一本、じゅぷ、と深く飲み込んで卑猥な音を奏でた。  
「や…も……っ。あん、あっ」  
躯は勝手に指の蠢きに合わせてびくびくと痙攣する。  
本当に上手な男だ。感じている演技など一度もしたことがない。  
白い世界。  
白い空気。  
吐く息が更なる熱を帯びていく。  
すっかり準備のできた肢体から下着の紐を解き、用済みとばかりに剥ぎ取ると、裸体をぎゅうと抱き締めてくる。  
「嘘なんて言うなよ」  
「あぁ、あっ、…ぁ」  
もう平常心など遠い向こうに追いやられていた。  
熱い滾りの先端が挿入される。  
これからされる行為を思うとどうしても高鳴ってしまう。  
 
「あっあぁ、はっ。ちょっ…と、…待って……あぁっ」  
身じろぎすら摩擦となって快楽に変わってしまう。  
「あん、はっ、あん……や…っ」  
相手はお構いなしに押し入ってきて腰を使う。  
絶頂だと思っていたところよりさらに高みへはね飛ばされようとしている。  
「なん、でっ、…あっ、んんん……」  
疑念も反撃も許されない。  
体を繋ぐことで、心まで繋ごうとしている。  
頭の内側から広がりゆく快楽に目が眩む。  
この男に触れられ、責められていると、何処から声を上げているのかすら自分でもわからなくなる。  
甘みと切なさが混ざり合い、突かれる度に溶かされてしまっている。  
認めたくないが、以前よりずっとリラックスして、存在を受け入れているせいもある。  
「んむっ……」  
口付けられると腰に合わせて軽く咬まれ、吸われて甘たるく高められる。  
もう一度達したが、相手は未だ挿れたままで硬度を保ち、至極冷静だった。  
息も絶え絶えに気持ちを伝える。  
「はあっ。はあ、は……エルドっ、いい…、すごく……」  
「本当に?」  
汗を浮かべる額への口付けがそっと唇に降りてきた。  
「うん……」  
完全に蕩かされた状態で、照れつつも素直に頷いたのに、  
「お前はハメられながらのキスが好きだよなぁ」  
また余計なことを言う。  
ジロリと睨むとにやける顔をそらされた。  
「二人でよくなりたいって思ってる?」  
火照った頬のままでもう一度頷いた。  
「ふうん」  
吟味するような表情の後、再度唇を奪われた。  
「ん…」  
銀糸をひいて離れ、音を立ててもう一度。離れては吸い付き、もう一度。  
紛うことなき悦懌が広がる。  
そうして十分すぎるほど蕩けたのを確認すると、  
「じゃ、動いて」  
セレスの希望を汲んだらしく主導権を差し出してきた。  
長めの啄ばみを終えてから、やりやすいよう少しだけ腰を浮かされた。  
下になっている女は求められた通りにゆっくりと律動を開始する。  
穿たれた楔が自分の中で更に熱く滾っているのを感じてぞくりと粟立つ。  
氷のように冷たい男なのに、熱くて熱くて甘くてしょうがない。  
そんな死神との褥。  
できる限り激しくしたいと思いつつ、なかなか思うようにはいかない。  
その間にも男の舌と唇が色づいた肌を彷徨う。  
「ん……っ」  
「そのまま」  
尖った乳首を含み口内で何度も舐め上げ、同時に火照った肌を容赦なく撫で回す。  
とてもではないが耐え切れない。  
「ああっ、あぁあぁ、やめっ、ああっ……」  
切なげな甘い喘ぎも、紅潮していく頬も、セレスの側ばかり。  
「すげえいい。もっと動いて」  
声色にからかいが雑じっている。どうも主導権を渡したわけではなかったようだ。  
圧倒的な経験の差がやっぱり悔しい。  
「あん…くっ。はぁっ、ん」  
思惑通りなのか、意思とは裏腹に腰が止まらなくなっていた。  
気がつくと勝手に達す寸前まで昇ってしまっている。  
「ごっ…ごめんなさ……っ、私、もう……っ!」  
「もう、何だよ?」  
「ひゃぅうっ!!」  
真っ赤な芽を突然潰されてあられもない嬌声が漏れた。  
完全に面白がっている。  
 
その後も茂みを撫でつけられ、芽の先端を摘まれた愉悦に必死で抗ったが、抵抗も虚しく達してしまった。  
「うぅ…はぁっ、はぁっ、…」  
痙攣する肢体から玉の汗がつうと滴る。  
一夜に何度昇らせる気なのだ。  
「意地悪しないで。これでも一生懸命やってるのよ」  
生理的に潤んだ双眸で睨み上げ抗議すると、  
「知ってる」  
笑いながら優しく頬ずりされた。  
「かわいい女だ」  
やがてセレスの昂ぶりがある程度鎮まると、彼女の脚を曲げその間に割り込み直して体勢を整える。  
「じゃ、いくか……お姫様」  
最後にひときわ高く昇るつもりなのがわかった。  
抱き寄せられたので背中に腕を回す。  
男の腕の中。恐怖はずいぶんと遠のいた。  
同意を確認すると、ゆっくりと律動が開始される。  
「ああっエ……エルド、エルド…っ」  
ずちゅずちゅっ、と己に出し入れされるそれの感覚はあまりにも熱く、吐息の乱れを呼ぶ。  
「そ……いう声で名前…呼ばれるの、…初めて」  
締め上げられているのだろう、苦しげな喋りをする男から嬉しげに頬をよせられた。  
少しだけ驚く。  
気持ちいいのかな、とつい目を細めた。  
いつの間にか、相手が感じているのを素直に嬉しいと思えるようになっている。  
縋り付いて更なる欲望に応えた。  
セレスは己ばかり翻弄されていると信じ込んでいるが、実際は違う。  
上気して色づいた肌。閉じた瞳に、重なる長い睫毛。  
凛と際立つ美しい女の多い血筋。  
瑕はあっても、薔薇の花びらが幾重にも広がるようなあでやかさ。  
艶咲き潤う姿は交わる男の理性を激しく揺さぶり、狂わせる。  
「んむ……」  
支配欲の滲む乱暴な口付けが終わると腰をがっちり固定され、後は容赦なく突き上げられた。  
「あああぁああっ!!」  
音源はいっそう甘さを増し、喉で震え、男の耳に波を注ぐ。  
ほんの少しでも心を許されたことで、男にはそれがより強く感じられていた。  
「はあっ、はっ。んんっああぁっ!ひぁっ!すご…激し…っあっエル…いい、のっ、エルド……っ!!」  
息継ぎの合間に快楽を十分享受していることを伝え、敵わずとも必死で自身も揺らし、応え続ける。  
愉悦が全身をくまなく迸る。  
駄目だ。  
もがけばもがくほどこの毒沼の底に沈んでゆく。  
「だめっ、もっ……」  
限界を知らせるとひときわ大きく貫かれた。  
「――――…」  
世界が真っ白になった。  
昇りつめた後はずりゅっと速攻で引き抜かれ、膣外すぐに熱い精を放たれた。  
「あぶねぇ……」  
互いの荒い息の合間、がっくり凭れてきた男から安堵の呟きが聞こえた。  
白濁で汚されるのがまったく嫌ではなくなっているのに気付く。  
しばらく抱き合ったままで事後を過ごす。喪失感の余韻が以前と違い心地よかった。  
「良かったか」  
問われたので疲労困憊を隠さず頷くと、  
「何でもしてやるからそろそろ許してくれよ」  
狡い男はここぞとばかりに許しを請うてくる。  
「俺はお前と2人がいい」  
耳元で囁き、頬に柔らかく触れてくる後戯を始める。  
囁く睦言が弛緩した心と躯の隅々まで響いてたまらなかった。  
流されないよう何とか持ち堪える。  
「お願い…エルド、もっと、いい子を探し……」  
「好きな女抱いてんのが一番気持ちいいよ」  
懇願を終える前に卑怯な言葉で撃ち返してくる。  
 
こんな調子のまま、二人の関係はいつまでも埒があかなかった。  
「悪りいけど」  
ぎゅっと目を瞑る女の頬に落ちる唇は優しく、柔らかい。  
「失くしたくない……」  
セレスは溶かされかけていた。  
でも、記憶が苛む。  
心の奥底で今もじくじくと痛む、存在の全てに刻まれたあの一ヶ月の悪夢が這い出てくる。  
苦しみが屈辱が、傷を与えた主を拒絶する。  
受容を言葉にしようとした口が自然に閉じてしまう。  
どうしても許せない――――  
 
 
 
消音。  
あるのは自然界の波音だけ。  
行為を終えたけだるい身体を横たえて、セレスはうとうと船を漕いでいた。  
「眠るなら背中向けるな」  
「ん……」  
「こっち向けよ」  
肩を掴まれ乱暴に逆を向かされた。  
「ちょっ」  
「さみぃ。離れるな。俺が寒がりなの知ってるくせに。鬼」  
目前の死神が真面目に怒っている。  
眠気を吹っ飛ばされて怒りたいのはこちらであるというのに。  
「もー……」  
「離れるな」  
ため息をつくセレスに追い討ちをかける。  
「ここにいろよ」  
唇に小さな熱を灯されると、毛先で弱くはねている茶色の髪が顔にかかった。  
「俺を拒むな」  
掠れた呟きと共に抱き締められると何も言えなくなる。  
セレスはとにかくこれに弱い。  
毒を吐くくせに子供みたいにすり寄って甘えてくる、これに。  
加えてこの容姿。  
罠に嵌ったセレスは心底弱り果てている。  
この男は、全力でセレスを翻弄し、揺さぶりをかけている。  
背が小さいことや童顔を指摘されると憤怒するくせに、利用できる時はしっかり利用してくる。  
――――ほんと、したたか。  
「もう」  
それでも振り払って体を起こすと、追うように体を起こしてきて、二人の体を毛布でふわりとくるむ。  
優しいようでいて、ただの束縛。  
刻印のように頬に口付けられた。  
この男はこうしていれば手中の女が自分を絶対に裏切らないと確信しているのだ。  
性格とは縁遠いあどけない輪郭を描く男がセレスの真横にいる。  
邪気を含むきれいな横顔は、気のせいかもしれないが、以前より少しだけ優しさを帯びていた。  
「……わがままな男ね」  
毒づくと、  
「今更」  
にやりと笑われた。  
「あのねえ……」  
セレスの小言は更に距離をつめてきた童顔に阻止される。  
「けど何でもいいってわけじゃねえぜ。お前の温度と、声しかいらない」  
歯の浮くような台詞と甘い雰囲気を醸して、今夜も諦めることなく口説きにかかってきたからだ。  
「離して」  
抵抗して身じろぎをしたら、  
「離さない」  
更に深く捕らえられる。  
「お前がすべてだ」  
 
体温と共に、温もりに飢える魂の声が静かに伝わってくる。  
こういう男にありがちな陰惨で痛々しい過去も、不条理に存在を踏み躙られる記憶も  
愛されなかったことも守られなかったことも  
何もかも  
「春がきたら、丸一年ね……」  
空気に流されそうになったので慌てて話題を変えた。  
「いろいろあったわ」  
「それ話逸らしたつもりか?」  
下手くそな抜け出し方では案の定相手は不貞腐れる。  
舌打ちして口説きを中断し、愚痴をこぼし始めた。  
「ったく、糞みてえな人生だぜ。前も、今も。いいことなんて一つもねえ。  
 お前の妹みたいなご立派な人間作った残りカスでできてんだろうな」  
「……」  
また妹に文句を言った。最早常套句と化している。  
そう何度も口にするのは、何だかんだで妹をしっかり覚えている、という証なのに。  
確かに実妹は色々な意味で強烈だった。もっとも姉も人のことなど言えないのだが。  
でも本当のフィレスのことなんて誰も知らない。何を考え、何を感じていたかなんて。  
もし知っているとしたら唯一人。夫だったあのパルティアの王だけだろうとセレスは追憶する。  
口を尖らす死神の横にいると何となく予想がついた。  
多分エルドが妹を毛嫌いする部分は一つ。  
対峙する相手を真っ直ぐ前を見据える、あの淀みない目。あれが苦手なのだ。  
人は平等などではない。  
最初から恵まれた位置に産み落とされたような者もいれば、いくら這いずり回っても毒沼の底から抜け出せない奴もいる。  
最初から誰かに嵌められたような人生を押し付けられたと、エルドはそう頑なに思い込んでいる。  
邪悪さに伴う幼稚な一面。  
「……」  
最近セレスには何となくわかってしまったことがあった。  
姉妹のせいか、歴史上セレスは妹フィレスと比較されることが多々ある。  
彼女に対して劣等感をいだいていたなどという説もあり、何故そうなると人々の想像力の豊かさに驚く。  
確かにフィレスには負けた。完敗である。  
だが妹とは互いにわが道を行く、な性質。年も離れているし、とる武具も違う。あまり比較対象にしたことはなかった。  
ただ、現実は違う。  
それらを前提としてこの男は私の味方だと言っている。  
――――言わせているのは、やはり私なのかもしれない。  
散々迷惑をかけたフィレスに、さらに申し訳ない気持ちがわく。  
「嫌いなもんばっかだ。何もかも。結局あの糞女神だって散々使役して捨てやがっただけじゃねえか」  
そんなセレスとは真逆、隣の男からは怨念こもった唸り声が漏れた。  
女神がシルメリアのことを指しているのはすぐにわかった。  
「あの女も。どうかあのお二人をそっとしておいてあげてください、お願いします、だってよ」  
「え……」  
名前を聞かなくても何となく察することができた。  
アリーシャだ。  
あの女神と王女が自分のことを気遣っていてくれていたのだと思うとじんわり心があたたかくなるが、  
「ケッざまあみろだ……くたばっちまえば元も子もねえ」  
エルドの残酷で凶悪な様子を目の当たりにすると余韻に浸る暇もない。  
「ざまあみろって……エルド流石にそれはないんじゃない」  
「延々と好き勝手使いやがったくせに。死ぬ程嫌いな男に死ぬ程欲しい女あてがいやがって。そんで俺にはなんも無しだ」  
最早その独白内容は度を越えた逆恨みだった。  
思考回路のねじれを感じる。  
この男には世界のすべてが敵なのだ。  
手中の女以外は。  
「エルドやめて。怒るわよ」  
叱られて大きな双眸がぎょろり、怒気を纏うセレスを射る。  
咎められてもここで退くような男ではない。  
彼女の様子を嗤い、口角を歪めてぐっと迫ってきた。  
「そうだ。怒れよ。そうやっていつも、お前がその度に俺をたしなめればいいんだ。ずっとな」  
勢いのまま押し倒される。  
 
「やっ、ちょっと」  
驚いたが毛布にくるまっていて逃れられない。  
組み敷いた死神はもがくセレスを楽しんでいる。  
逃れられないのを確認するかのように。  
「生き残ってくたばるまでの二年間何を考えて過ごしてた?」  
「………」  
答えずに睨みつけてもただ嗤っているだけ。  
「……あなたこそシルメリアと生前、何を契約したの?」  
「さぁ?」  
互いに知りえぬ互いの本心。  
「俺のものになるなら教えてやる」  
自分勝手を綴り続ける唇が首筋を這う。  
「そうだ……」  
そしてぼそりと呟いた。  
「後悔なんて誰がしてやるか」  
「え?」  
今度は何を言い出したかと思ったら、死神は一転、表情を濃い闇に沈めていた。  
「お姫様は夢を見すぎなんだよ。あんな戦闘狂と一緒になったところでそうそう上手くなんていくもんか。  
 三度の飯より暴れてえ糞野郎じゃねえか。俺が連れ出さなきゃ今頃お前は骨になってたに決まってる。  
 そうだろ。ぜってーにそうだ」  
セレスにというより、己に言い聞かせるような言い方だった。  
「畜生――――何であんな野郎にだけ。なら俺にだって」  
ついていけない。  
理解の及ばない男にきつく抱き締められ、ひらすらに戸惑う。  
「俺にだって一つくらい、与えられてもいいはずだ」  
セレスは暴走気味のエルドの心境がわからず、ただされるがまま、届かない天井をずっと見つめていた。  
独占欲の塊。  
手元に堕ちてきた宝物を手放す気などさらさらない。  
「俺は別に、多くなんて望んでない。大事なものなんて一つでいい」  
声が突然鋭さを失い、優しくなった。  
束縛を緩め頬を撫でると、  
「ずっと欲しかった」  
確定するかのように重く呟く。  
「……俺のものだ」  
その一言には普段より多めに狂気が混じっていた。  
「お前だって悪いんだぜ。あの日諦めるつもりだったのに、あんな目で縋るから」  
身勝手とわかっているのに、顔を背けられない。  
見つめられても真っ直ぐ過ぎて受け止め切れない。  
「わかってる。別れたらあっという間に飛んでっちまって、手が届かなくなるんだろ」  
終わり無く続く求愛にひたすら耐え抜くだけの時間。  
「だったらずっと捕らえとくしかねえじゃん」  
「エル……」  
唇が接触しようとした瞬間、ギイ、と扉が音を立てた。  
二人ともぎょっとしてドアに視線を奪われる。  
その先には。  
「ニャー」  
暖炉の火が消えたのだろう。あたたかい場所を知っている猫達がのそのそ入室し、寝台にあがってきた。  
「ったく」  
邪魔が入ったことで張り詰めた空気が緩む。  
舌打ちと共に漸く束縛が解かれた。  
解放されてほっとするセレスに仔猫が擦り寄り、甘えてみゃあと鳴いた。  
「おい殺すぞ。俺のだ」  
「もう、馬鹿言ってないで。そろそろ寝ましょ。ほら、今夜は冷え込みそうだし夜着を」  
渾身の口説きを中断された男はさも面倒臭そうに口を尖らせる。  
幼い顔立ちで、子供みたいな目をする。  
計算なのか素なのかわからない。  
着替えが済んでからセレスも諦めず、もう一度別れを切り出した。  
 
「ねえエルド……私のような女が言っても説得力ないのはわかっているけど、やっぱり、心に別の人がいるのに他の男と永久を  
 誓うなんて、私には……」  
「構わねえ。いるなら置いとけよ。そのうち追い出すから」  
台詞さえ最後まで言わせる気がない。  
兎にも角にも強引である。  
「エルドお願いだからあまり何度も言わせないで。私達は春になったら……」  
「ずっとお前と同じモン見てていいだろ」  
「エルド!」  
「俺はもう一人でいなくてもいいんだろ?」  
いくら声を荒げても、腰を抱かれては逃げられない。  
いや、最初から逃げ道などない。  
手をとったあの日から。  
「俺の太陽は明日も昇るんだろ」  
「やめて」  
「セレス」  
「ごめんなさい……」  
「他には何もいらないって言っても?」  
「……」  
決して頷かない女に、相手からも、もう数え切れないくらいの溜息が零れた。  
少し束縛が緩まると逃げるように寝台を離れる。  
身の置き場がないのでそっと窓を開けてみた。  
いつの間にか雪はやみ、闇の海原が広がっていた。  
ただ静かな黒い海。壊れた故郷も闇に沈んでいる。  
死神がそっと横に立った。  
窓辺に佇んでいると、二人きりで海の真ん中、小舟で揺らめいているようだった。  
「世界の果てって感じね」  
「だからよ、その世界の果てから二人でとっととどっか旅立とうぜ」  
誘われても首を縦に振る気などない。  
「一人で行って頂戴。私はもう何処にも行く気はないわ。……ここが私の終わりの場所よ」  
きっぱり断って、冷気の中で白い息を吐いた。  
ここまで言えば少しは……と仄かな期待をいだく。  
だが相手も並大抵の固執ではない。  
「それじゃ俺もここにいる」  
「エルド……」  
「来年もその次の年も、ずっとお前の視界の中にいる気だから」  
「エルド、お願いだからそろそろ」  
「拒めよ。拒めばいい。いくらでも拒め。頷くまで言うから」  
「貴方ホント無茶苦茶……」  
反撃を受ける前に素早く口を塞いでくる。  
重ね合わせるだけの口付けはこの状況下で逆に熟した甘さを感じさせた。  
「……っ」  
離れると間を置かずに頬を撫でられた。  
「明日お前の気が変わって俺くたばってるかもしれねえじゃん。だから今伝えとく」  
「いやっ」  
振り払おうとしても絡めとられるだけ。  
「傷つけたこと、本当に後悔してる。これからはお前の為に努力する。お前が隣にいることをずっと大切にして生きてく」  
「やめて」  
「だから俺を許して、俺を選んでくれ」  
「無理よ……」  
「ずっと俺を照らしていてくれ」  
引き込まれたくなくてぎゅっと目を瞑る。  
「笑えよ」  
だが拒んでも拒んでもその童顔はすぐ近くにある。  
逃れられない。  
「……笑ってくれよ」  
 
凍てつく冬が終わったら春が来る。  
雪解けの頃、二人がどうなっているのか誰にもわからない。  
 
言葉が果てた頃、猫達の待つ寝台に戻り、音の無い温もりの中で抱き合い、静かに眠りについた。  
毎日が戦争なのに妙に穏やかだった。  
心という名の天秤がゆらゆらと揺らめく。  
戸惑って不安に包まれて、それでも一歩を踏み出そうとして。  
ただ互いが融ける氷解の春を待っていた。  
 
 
 
初めて関係を持った日から丸一年が過ぎた。  
いや、持たされた日か。  
その少し前に命日――――といっていいのか、アリーシャ達が消えた日があるはずだった。  
生まれたての世界にいた為に正確な日時はわからない。  
ヴァルキリー。その存在による強烈な重圧で、依代は少ししかその外郭を保てない。  
最期をみとったわけではないが、彼女達が異世界で散ったのは確定事項。  
彼女達の魂はどうなったのだろう。そして果敢にあの場に残った仲間達も。  
時だけが流れていく。  
最近のセレスは沈む一方だった。  
アリーシャ達のこともあったが、明らかに選択肢を間違えたあの日、あの瞬間が近づいてきているからだ。  
生き地獄の日々を思い出さずにはいられず、流石にエルドを受け入れられなくなっていた。  
態度の硬化をエルドも察したらしい。二週間程空けると言って出て行った。  
「ふわふわ」  
別れ際、何気なくエルドの首周りを覆う白い柔らかな部分を撫でた。  
春になると猫達の毛は陽光に促されてふわふわになった。  
それに似ていると思う。  
手を離すと、セレスは躊躇いがちに切り出した。  
「エルド……春になったわ」  
別れの合図だった。  
しかし相手はいつものように優しく口付けてくるだけだった。  
「……そのふわふわに笑顔で埋もれることのできる女の子をさがして頂戴」  
何とかそう伝えたが、相手はへいへい、といとも簡単に流してしまう。  
「今度の連休にまたディパンへ渡るんだろう。説得なんざ無駄だと思うけどな。それまでには戻ってくる」  
当然のことのように平然と口走るのだった。  
「一人で大丈夫よ……だからもうここには」  
「ああそれから、『あの件』も考えとくから」  
ぐっと詰まるセレスを半目で確認すると満足げに背を向ける。  
流れは完全に死神のものである。  
言いたいことだけ言い残し、エルドは青布をひらつかせながらさっさと出て行った。  
肩を落とすセレスだけが残される。  
浅はかだった。  
賭け事、企み事。その分野でエルドに敵うはずもなかった。  
春。  
勝負の結果は完全にエルドの大勝である。  
彼はセレスと接する以外にもゾルデという地域社会を利用して外堀から埋めてきた。  
『あの件』というのは、春になったら希望者に弓の指導をしてやるという、実にこの死神らしからぬ約束である。  
数百年経った世界でも彼の弓術の腕は褪せない。むしろ死地ではひときわ輝く。  
雪が溶け出した頃、散歩中に、現在ゾルデ一番と言われていた射手がふんぞり返っている場面に出くわしたことがあった。  
エルドは的をちらと見やり、あの程度でと聞こえよがしに嘲りを吐き捨てた。  
そして憤慨する射手を退けると、的の中心をあっさり射抜いてしまった。しかも連射で。  
実力者には人が寄ってくる。  
そうでなくてもエルドは現在ゾルデを救った英雄ということになっている。  
皆エルドが受講開始を宣言している春を心待ちにしていた。  
若者などはもうすぐだと胸躍らせながら準備を始めているだろう。  
ロゼッタ時代からわかっていたことだが、エルドという男は存外ちょこまかして働き者である。  
動いていないと気がすまない性分らしい。  
人材としては申し分なく優良な存在なのが非常に小憎たらしい。  
だが、セレスにとって最も困る事実はそこではなかった。  
エルドは明らかに努力している。  
人と話す。人を助ける。切れそうになっても我慢する。計算ずくではあるが、それでも。  
 
死ぬ程殺したいはずのイージスとの衝突も避けるようになっていた。今では逆にイージスが困惑している。  
地域に溶け込むように、セレスとこれからもずっと一緒にやっていけるように。  
心を入れ替えて……とまでは流石にいかないが、とにかく頑張っている。  
ただ愛する女と共に在る為だけに。  
あまり…いやかなり部下には慕われていなかったとはいえ、将軍職についていただけの統率力も備わっている。  
この死地にあの弓闘士はもはや不可欠なのだ。  
現実を再認識すると重い溜息に変わる。  
わかっている。状況はわかっているのだが。  
二週間と言わず、約束を破ってもいいから、そのまま何処かへ流れていってくれないだろうか。  
やはり、ついそう思ってしまう。  
春になって港町ゾルデは新たな展開を迎えていた。  
ディパン崩壊の際、転げ出て行った若者達が戻ってきて、街の移転計画という吉報をもたらしたのだ。  
この街にはもう先がない。まさに渡りに船な申し出。  
一筋の希望に、ゾルデ全体が僅かながら活気を帯び、息を吹き返していた。  
そんなわけでイージスも忙しい。セレスばかりに構っていられない。それはセレスも承知している。  
ところが、定期的に話をしていないとやはり意見も食い違ってくる。  
久々にゆっくり会話した際、セレスも移転先へ一緒に行くことを当然のように笑顔で話してきたのだ。  
既に移転プランにがっちり組み込まれている。  
イージス達を見送り、この地でひっそり生きて果てるつもりだったセレスはおおいに困っていた。  
残留という意志を伝えても当然ながら許可されなかった。こんな所に若い女を一人残すなど確かに考えられないことだが。  
何もかも中途半端なまま。  
私は一体どうするのだろう。問題は山積している。  
だがとりあえずは目の前の問題だった。  
一年前の生き地獄を思い返す数日間を、何とか潜り抜けなければならない。  
さてどうやり過ごすかと悩んでいると、ものすごい勢いで子供が二人、転がり込んできた。  
エルドの大量虐殺により両親の敵を討ったという形になった、あの子供達である。  
出て行くエルドから話の断片を聞いてセレスを心配し、泊まりにきてくれたらしい。  
二人ともセレスとエルドを慕っている。特に少女の方は、すっかりエルドの信者になっている。  
邪険にされつつも熱烈に慕っている。  
結局エルドが殺し残した3人の男は捕らえられた数日後、イージスが感知し制止する余地もなく、  
被害者の遺族や友人達による暴走で引きずり出され、凄惨な暴行により無残な死を遂げた。  
現場では最後までこの少女の笑い声が響いていたという。  
「ああ。くたばったか」  
セレスから報告を受けたエルドは、干し肉の破片をちらつかせながら猫達を構いつつ、極めてどうでもよさそうだった。  
「こんな先も未来もねえ閉鎖空間で皆ストレスたまってるとこだ。悪者なんか置いといたらそりゃそうなるだろな」  
くくっと嗤う。  
ぞっとした。  
こうなるのをわかっていて、あえてほぼ無傷で生かしておいたのだ。  
計算高い死神は固まるセレスの目の前で、放り投げられた餌を奪い合う猫達を見てにやにやしていた。  
少女はどこか慕う男に近い感性を持っているのかもしれない。  
エルドのお陰だと過剰なほど感謝感激している。  
正直なところ、セレスは子供が惨殺を喜ぶような姿はいただけなかった。  
だが両親を虐殺で失った少女の心の癒しになっているのなら、何も言えない。  
やがて夜がくる。  
少年は『今日は自分が見張りをするんだ』と気張り、一階で剣を横に毛布にくるまっているようだ。  
セレスは少女と寝台で横になっていた。  
ベッドに体温の高い子供がいると心まで安らぐ。  
蜂蜜色の髪を撫でていると、少女は不意にゾルデの男達の話を始めた。  
誰がかっこいいとか、誰が強いとか、頭がいいとか優しいとか。  
とりとめもなく続く。  
なかでも少女の一押しの男は、残念ながらセレスの大嫌いな青年だった。  
外面がいいだけの浅薄で裏表の激しい男。  
熱烈な告白を受けたが、断ってからは態度も一変した。  
個人的には嫌悪感があるが、子供に優しいところはやはり評価すべきだろう。  
少女の舌足らずな言の葉にのって、意識がゆっくりと先日起こった事件を回想していた。  
 
見回りの最中。  
街外れでたむろしている少年達がいた。  
危険だから戻りなさいと声をかけると、全員が嫌なにやつきを浮かべながらセレスを流し見た。  
この前振った男の弟が二名いた。睨みつける目が勝手な憎悪に燃えている。  
いくら言ってもへらへらしていて一向に戻ろうとしない。  
「……」  
そんな時、ちょうどよく、満開の花を咲かせる木の上で寝ていたりするのがあの死神だ。  
ダン!!という振動で木々が激しく揺さぶられ、花びらが舞い落ちた。  
突然の衝撃音。一斉に原因に注目が集まる。  
身軽な男は狭い木と木の狭間に足の裏を押し付け、危害を加えてもいい獲物達のご登場にひたすらにやついていた。  
髪や肩に花がかかる。  
無駄に絵になる整った顔立ちなのが逆におぞましい。  
「あっ!このチビ……!!」  
思わず叫んだ少年の一人の口を、仲間が慌てて封じる。  
だがもう遅い。  
それはエルドにとって最高のNGワードだ。  
口角を更に歪ませると、低い声で下劣な台詞をのたまった。  
「女もイかせたことねえクソガキどもが生意気にいきがってんじゃねえよ」  
「エルド!」  
「まぁいっぺん死んどけ」  
何処から出てくるんだとつっこむ暇もない。  
「手を出しちゃ駄目っ!!」  
制止する前に事を起こされる。  
すいと距離を詰めたかと思うと、硬直している少年の一人にどぎつい回し蹴りが炸裂した。  
「エルドってばっ!!」  
暴力を咎めようとしてもひらりとかわされて、次の獲物を蹴り倒す。  
悲鳴をあげて逃げ出そうとした少年の背中にはとび蹴りが食らわされた。  
最後の一人ががむしゃらに突っ込んできたが、エルドが軽く避けるとそのまま木に激突し、そのまま崩れ落ちる。  
「クズどもが。わきまえろ」  
「エルド……!」  
「何だよ『手』は出してねえぞ。『手』は」  
にやにやしながら無罪を主張する。  
気絶した者、呻きながら泣いている者。全員無様に地べたに這いつくばっていた。  
「やりすぎよ……!」  
非難がましい視線すらものともしない。逆に冷めた目をして言い返してくる。  
「どこが。お姫様はガキに甘すぎなんだよ。こういう類のガキは甘やかしてると無制限に調子づく」  
「…言い切るのね」  
「今ちょうど目の前に好例がいるだろ」  
と、にやついたまま親指で自分を指す。  
呆れるセレスの髪にそっと花を飾った。  
若者達は家族や仲間に実際よりも大袈裟に被害を主張したようだが、とりあう者は誰もいなかった。  
帰宅したセレスがどう謝罪するか頭を悩ませていたら、泣き崩れている少年達と家族が先に謝罪に来た。  
ひたすらに頭を下げる姿にただ驚くばかりだった。  
家族よりも、いざというとき守ってくれる武のある者に媚びておく。  
卑屈なようだが現在の状況下では無理のない判断だろう。  
結局、後からエルドが出てきて場を丸め込み、仕方ないから今回は許してやるという営業スマイルでまとめてしまった。  
その偽物の笑顔に一瞬で魅了された年若い女達が言葉無く見惚れている。  
まったく。  
女を引き寄せたり味方につける能力は本当に大したものだ。  
「だからさー」  
耳元で響いた少女の高い声に、はっと現実に戻された。  
「な、なに?」  
慌てて聞き返すと、少女は何だか決死の表情である。  
「だからね。お兄ちゃんは、あたしに頂戴」  
それは子供故の大胆で唐突な申し出だった。  
大きな瞳の奥に突然“女”が揺らめいて心臓がびくりと跳ねる。  
なんと無邪気なのだろう。自分にはない行動力にある種感心してしまう。  
そんなセレスの困惑の無言を拒絶ととったらしい。  
 
「はー。だめかぁ」  
答えはわかっていたような態度だった。玉砕した少女は大袈裟なため息をつく。  
「…ごめんね」  
「いーのいーの。それにだいたい、お姉ちゃんがいいって言ってもねー。お兄ちゃんがお姉ちゃんのこと大好きだもんね」  
「……」  
真実など伝えられようもない。  
「偉いのね。先に私に言うなんて」  
褒めると少女は神妙な顔つきになってしまった。  
おかしな反応にセレスが不思議そうにしていると、  
「………ごめんなさい」  
と、上目遣いで詫びてきた。  
「実はもう言ってみたの。大きくなったらお嫁さんにしてほしいって……」  
驚いて目を見張った。  
あの男にか。  
最近の若い子は本当に大胆だ。  
「で?い、言ったら?」  
少女に先を急かすと、  
「ごめんなさいって」  
更なる玉砕を明かし、しょんぼりしてしまった。  
哀れに思う一方、エルドがこの子に対し汚い言葉で拒絶しなかったらしいことには安堵した。  
子供であれ好意を持つ相手には真摯に対応してと頼んだのを覚えていたようだ。  
「大人の女にしか興味が持てない体ですって」  
真摯すぎる。加減しろ。  
「お姉ちゃんはいいなぁ……」  
見上げる少女は心底うらやましげだった。  
「お兄ちゃんにあれだけ大事にされたら、あたしなら死んでもいいのに」  
返事が返せなかった。  
会話が終わると少女は即うとうとし出してそのまま眠ってしまった。  
息をつく。  
罪な男だとつくづく思う。  
明日も早い。心はもやつくが、少女に毛布をかけ直して共に眠ることにした。  
戻って、くるのだろうか。  
……くるのだろうな。  
だがあちら側も、無茶をしてまた嫌われたり壊したりしたら元の木阿弥だということは重々承知。  
お得意の強引な手口では踏み込めないといった感じだ。  
何をしたか理解している故、何をしても何を言っても不安なのだろう。  
こちらは惑わされるだけ惑わされて魂を削られているのだが……。  
少女の眠り顔を見ながら溜息をついた。  
本当に。  
最初あんな乱暴なことさえしなければ、今頃気持ちに応えられて、普通に暮らしていたかもしれないのに。  
私だって今は独り身だ。普通に扱っていてくれさえすれば、こんなことには――――  
だがエルドにはセレスの都合など関係ないことなのだろう。  
彼はセレスが頷かなくとも、これからもこんな調子のまま、なあなあでやっていくつもりだ。  
「……」  
本当に狡猾な男。  
セレスが自分を振り払えないのをわかっている。  
だから無防備に弱さを晒す。甘えて膝に頭を乗せる。  
それがセレスを縛る最上の手段だと心得ている。  
どう対処すればいいのか、もうセレスにはわからなった。  
 
 
 
その日、セレスが見回りの歩を止めたのは、アネモネの赤い花が咲いているのに気付いたからだった。  
「あら……」  
跪き、そっと花びらを撫でる。  
群生する可憐な花。  
 
「……」  
もうすぐ二週間が経つ。エルドは確実に戻ってくるだろう。  
子供達のお陰もあって、心配していたよりつらい日々にはならなかった。  
けれど。  
「……いつまでもこのままではいられないわよねえ……」  
その時だった。  
ビュッ。  
空を切る鋭い音がセレスを掠めるギリギリで飛んでいった。  
突然の攻撃。  
女の目が瞬時に戦士のそれへと変貌する。  
反射的に身構えて矢の飛んできた方向を見据える。  
だが茂みからガサと音を立てたのは意外な人物だった。  
「え、ウソ、やだ……ちょっと反応遅すぎじゃない」  
うろたえる女の声には聞き覚えがあった。  
「ソファラ……!」  
「ごっごめんなさい、今の程度なら余裕で矢を叩き落すかと……」  
予想外の機敏の欠如に戸惑っているようだ。  
だが呆気にとられているセレスに近付いてくると、  
「……でも、貴方もちょっと鈍ってるんじゃないの?斬鉄姫さん」  
軽く毒づいて小さく微笑んだ。  
ソファラに会えたのは本当に偶然だった。  
花に気をとられて立ち止まっていなければ、彼女はセレスに気づくことなく散策を終え、ゾルデに二泊の宿を求めただけで  
先へと行ってしまっていたことだろう。  
「あんな矢を飛ばしておいてそれ?貴方も相変わらずみたいね」  
「あらご挨拶ね。ふふっ。…久しぶり、セレス」  
笑むと整った顔立ちに艶麗が滲んだ。  
艶やかな茶色の髪。瞳と同じ色の服と銀に輝く防具をまとう。谷間を覗かせる胸元が艶かしい。  
切れ長で少々ツリ目をした、抜群のスタイルを誇る美女だ。  
経歴はジェラベルン領主夫人。そして貧民街出身の元暗殺者。  
波乱の生涯と共に、わかる人間にはわかる影の匂いを持ち合わせている。  
そんな特有を、あのエインフェリアの面々はあまり気にしなかった。セレスも然り。  
最初はかなり距離を置かれていたような気がするが、次第に仲良くなっていった。  
見回りを終え、友人と共に家路を辿る。  
「そうなの。しばらくカルスタッドにいたんだけど、砂でね、もう限界。キルケはヴィルノアへ……」  
ソファラは表情にも言動にも柔和が混じり、以前より軽やかだった。  
まさに運命の輪から解放された者、といった感がある。  
「ヴィルノアなの?」  
「そう。やっぱり旦那さんとの思い出が残る場所のがいいのかしらね。私だったらジェラベルンへなんて勘弁だけどね」  
ソファラはそれをさらりと呟いたが、セレスはその裏にとてつもなく重いものを感じた。  
そして思い出す。  
そうだ。この女は生前盗賊ギルドと戦い、捕まり喉を潰され……  
窓の無い部屋。  
己が受けた被害とは比べ物にならない、4年にも渡る悪夢を想像する。  
念願の再会とはいえ少し重い気持ちになった。  
『この世の方がよっぽど地獄よ』――――  
息が詰まる。  
以前よりこのソファラという女を近くに感じる自分がいる。  
「貴方は……」  
シルメリアによって再生された肉体、元通りになった喉から奏でる綺麗な声。  
声の持ち主はセレスの機微も知らずに顔を覗き込んでくる。  
そして少々眉を顰めた。  
「……なんていうか、すごく妖しい感じになったわね……。変な男に言い寄られたりしない?」  
見透かされたような気分になって心臓が跳ねた。  
慌てて繕う言葉を考えていると、  
「彼激しそうだもんね」  
ソファラは勝手に結論を出し、少々同情を含んだ苦笑を漏らしてから、その忠告を口にした。  
「嫌な時はちゃんと嫌って言わなきゃだめよ?」  
 
驚いて一瞬思考が停止し真っ白になった。  
知っているのか。  
家に戻ると客人は鼻歌を歌いながらキョロキョロする。  
「みんな二人分ね」  
先程から、その整った顔立ちには常に悪戯っぽい笑顔が浮かんでいる。  
「で?彼も元気?まあ殺しても死ななそうな男ではあるけど。うまくいってるの?」  
「ソファラ、知ってたの……?」  
怖々訊ねてみると、  
「勿論。というか、貴方達の仲を知らない仲間なんていないわよ」  
そう軽々答えられた。  
息をのむしかできない。  
「そ…そうなの?」  
驚きの連続、といったセレスの態度を見て、友人は腰に手を当てて半目になる。  
「正直、貴女の鈍感具合には少々呆れるわね。彼の方は流石に気付いてて、よくからかわれてたわよ」  
「から…かわれ………………?…あっ」  
言葉の最後で思わず小さく叫んだ。  
そこでやっとセレスも気付いたのだ。  
ソファラはエルドとの関係を言っているのではない。  
どうやら、セレスが『彼』と一緒になったのだと勘違いしているらしい。  
「ふふっ。アドニスも、もう迂闊に変なことできないわよね。私も安心だわ。いろんな意味で」  
「ソファラ……」  
この友人は、セレスが好きな男と一緒になれてこの上なく幸せにやっているのだと信じ込んでいるのだ。  
そしてとても素直にセレスの幸福を喜んでくれている。  
冷や汗が出た。  
これは言い出し辛い。  
セレスは目を泳がせているが、気付かぬ友人は小首をかしげてにこやかに質問してくる。  
「ひょっとしてもう子供とかいるの?」  
全身から一瞬で血の気が引いた。  
そんなセレスのただならぬ変化に、弾むように明るい、期待に満ちた笑顔がソファラから消えて行く。  
「なにその顔」  
「………あのね、ソファラ」  
隠し切れない。セレスは意を決して真実を吐露した。  
「実はその…相手はエルド、……なんだけど」  
「えっ……?」  
素頓狂な声があがる。  
しばらくの硬直時間の後、ソファラはふうとため息をつき、ぴしりと言い放った。  
「すっごくつまらない。貴方冗談のセンスはゼロね」  
有り得ない。そう判断したのだろう。  
セレスは苦笑して俯いた。  
「冗談ならどんなにいいか……」  
「なにそれ…なんで…?どういうこと…?」  
予想外の展開だったのだろう。ソファラの表情が引き攣った。平常が崩れ、動揺している。  
「何があったの?」  
告白せざるを得なかった。  
少々の恥を忍びつつ、騙されたことや壮絶な修羅場があった事実ははひた隠しにして、簡単に経過を説明する。  
ソファラが心底驚いたといった感じで立ちすくんでいる。  
やがて感情が理解に追いついて表情に出てくる。  
怒りと苛立ちをこめた瞳は空すら切り裂くかと思えるほど鋭い。  
空気は緊迫し、その場からは既に再会の喜びなど吹き飛んでいた。  
「セレス」  
重苦しい沈黙の後、友人は打って変わった怖い顔をして振り向いた。  
「アレは駄目よ」  
完全否定に力の抜けた苦笑しか出ない。  
「駄目……かしら」  
「だって早い話アレ、ただの快楽殺人鬼でしょ」  
 
「…すごく容赦ない結論ね…」  
「本当のことでしょ。時代と地位がさも英雄の一人みたいに語るけど、実際はあの通りじゃない。  
 昔の私みたいに心を凍らせてやるんじゃないわ、本気で楽しんでる」  
いちいち反論の余地が無い。  
「貴方とはただの仲間だったと感じてたけど。あっちはずいぶんとご執心だったってオチみたいね……」  
「そうらしいわね」  
渦中の女は苦笑いするが、その目はまったく笑っていない。  
それがソファラの不穏をいっそう引き出す。  
「セレス……」  
女弓闘士はがっくり項垂れる。  
「前の生でも歴史の中で名前を聞く度、なんか無駄に貧乏くじ引く女だなとは思っていたけど」  
「ソファラひどい」  
友人は正直者である。  
そして勿論そんなやりとりで終わるわけがない。ソファラはきっと顔を上げた。  
「逃げましょう?私と一緒に。用意して。今すぐ」  
「ソファラ」  
「騙されたんでしょ?」  
鋭い。  
「違うわ」  
心にもない否定はすぐに見破られる。  
「さっき冗談ならどんなにいいかって聞こえた気がするんだけど」  
指摘されると図星が顔に出てしまった。  
かつてともに戦った仲間、大切な友人にこんな必死な顔をさせてしまう―――  
そんな男と関係を持っているのかと思うと、それもまた切ない。  
「何その動揺…貴方らしくないわ……」  
悲しい顔をされる度にいたたまれなかった。  
やはり昔の自分とは違うのだ。  
久しぶりの再会でソファラは特にそれを強く感じているのがわかる。  
折れた斬鉄姫など、想像だにしていなかっただろう。  
「子供ができたかって聞かれて真っ青になるような男と一緒にいて本当に幸せなの?」  
きつい様相で畳み掛けられてぐっと言葉に詰まる。  
「本当は好きな人のところへ行きたいんでしょ」  
「それは……」  
怒り心頭のソファラは無造作に壁に立てかけてあった剣を鷲掴んだ。  
「これ。手放してないってことはそういうことなんでしょ」  
鞘に入ったムーンファルクスを突き出す。  
ソファラは知っているのだ。  
何故これをシルメリアがセレスに与えてくれたのか。  
「貴方達の為にみんなでうまく行くよう影から応援してたのに。あいつは私達全員のことも裏切ったのよ!  
 許せない……っ」  
怒気がこれでもかと漲っている。ソファラは明らかに興奮し、冷静を欠いていた。  
だが今のセレスでは制することすらできない。  
「セレス!」  
呼ばれる度に耳が痛かった。  
「それでいいの?」  
じっと見据えてくるソファラに耐え切れず、言葉に詰まりおどおどと目を泳がせるセレス。  
それが一年越しの再会相手を更に歪ませる。  
つつけば即破裂しそうな程張り詰めた空気。  
そこに丁度よく『兄』が来てしまった。  
「セレスー、もらいもんだけど、いるか……」  
果実と花をかかえて窓から顔を覗かせたイージスの目がまん丸になる。  
「ソファラ」  
女弓闘士の怒りは戦友との再会を喜ぶ暇すら与えなかった。  
つかつかと近寄ると何も言わず、思いきり髭面の頬を張った。  
乾いた音と共に白い花が舞い散り、果実がごろごろ転がってゆく。  
「何やってんのよあんた。この役立たず」  
 
即座に反論が紡がれるかと思ったが、イージスは虚ろな目でそのまま肩を落とした。  
「面目ねえ」  
「兄さん……」  
「兄さんですって?」  
ソファラは殺気立っている。  
「何よ兄さんて……ああもうどうなってるのよ。謝罪なんていらないわ。もっとちゃんと説明して」  
ギッと睨まれても流されず、イージスは抑揚なく答えた。  
「説明も糞も、もうだいたい聞いたんだろ。そういうことだ」  
「何がそういうことだよ。開き直る気?見損なったわ」  
「言い訳なんざしねえよ。けどな、セレスはもう決めちまったんだ」  
「今のセレスはまともな判断ができる状態じゃないわ!!  
 貴方が正しい方向に軌道修正してやらないでどうするのよっ!!」  
言い合いの最後に空間を裂くような怒鳴り声が響き渡る。  
激しく感情的になるソファラを久しぶりに見た。  
「すっかり丸め込まれてるじゃないの!!何でこんな状態になるまでほうっとけるわけっ!?  
 あんな死神と一緒にしとくなんて正気じゃ―――――」  
「ソファラッ!!」  
会話に入っていけなかったセレスがついに爆発した。  
思わず叫んでしまったのは、それ以上の言葉を耳にしたくなかったからだった。  
「私を哀れな女にしないで……」  
ひどく悲しい面持ちでぽつりと呟いた。  
しんと静まり返る。  
やがて沈黙を破ったソファラが心底嫌そうに吐き捨てた。  
「狂ってるわ……」  
そして身を翻し出て行ってしまった。  
「ソファラ待って!今日はいないの、だから戻ってきて」  
しかし聞いてはもらえなかった。  
友人はあっという間に視界から消え失せる。  
こじれ果てた気まずい雰囲気が漂う。  
やがてイージスが口を切った。  
「ソファラの言うとおりだ。俺は……忙しいのに託けて、お前に何も……」  
「兄さん」  
先達がここまで苦渋を滲ませた顔を初めてみた。  
「そんなことないわ、ねえそんな顔しないで」  
近寄って懇願したが、イージスは目を伏せたまま、困り顔のセレスに本音を吐いた。  
「やっぱり、変だよお前ら」  
直球の指摘を受けたセレスが硬直する。  
イージスはソファラの意見に同意なのだ。  
「……すまん」  
身の置き場がないのか、セレスの手を優しく振り払って、イージスも去ってしまった。  
今でもそんな風に思っていたのか。  
嵐は去ったが、取り残された女はいたたまれない気持ちになり、ただ立ち尽くしていた。  
 
 
 
とにかく、このまま別れるなど考えられなかった。  
イージスの方も気にかかったが、まずはソファラだ。  
慌てて彼女を探しに家を飛び出た。  
確か現在の仲間達と共に宿屋に宿泊しているはず。  
宿屋の女性を訪ねたがわからないと困った顔をされるだけだった。  
次に滞在していたソファラの現在の仲間達に話を聞いたが、優秀な弓闘士を奪われると思ったのだろう、  
彼らの態度はセレスに至極冷たかった。  
その後も散々探し回った。  
 
夕暮れ。  
息を切らして立ち止まり、辺りを見回した時、波止場で夕凪に吹かれているソファラを見つけた。  
 
 
 
日が沈み、闇夜が漂い始める。  
ソファラはセレスの姿を一瞥すると、また視線を海に戻した。  
彼女の手から放たれた供華が空に弧を描き、波間に漂う。  
それは多分アリーシャのための花。  
「変な感じよね。あの子が死んで、戦乙女が消えて――――私達が生きてるなんて」  
「そうね」  
同じことを考えているのだな、と感じる。  
運命を切り開いてあの子は逝ってしまった。  
二人はしばらく追慕に浸っていたが、  
「あの子」  
ソファラがそっと隣りに立ったセレスに向けてぽそり呟く。  
「やっぱり血のつながりかしら。貴方への接し方はちょっと違う感じだったわね」  
「そうかしら」  
「あの子もきっと貴方の幸せを願っているわよ」  
気持ちは嬉しかったが、その台詞は少し虚しさを伴った。  
あの子は戦乙女達と共に散じ、もうこの世のどこにも、欠片さえ無いのだから。  
俯き気味のセレスに、  
「セレス、逃げましょう」  
ソファラはもう一度別の道を促してきた。  
「仲間達には私から話すから。どうせ貴方甘いからあいつを消す気はないんでしょ。だったら逃げましょう」  
「ソファラ」  
「アドニスを見つけて、何で来なかったって、ぶん殴ってやればいいわ」  
己の正しさを疑わないソファラは強気だった。戸惑うセレスに畳み掛ける。  
「許さないわ」  
「えっ」  
「大事な人がこの世にいるってわかってるのに捜しに行かないなんて、許さない」  
「ソファラ……」  
望まぬ形で愛する夫と死に別れさせられた女の言葉は切実で、心に痛かった。  
だがセレスはそこまで言われたことで、ふと気付く。  
こんなに諭されても心があまり揺らいでいない。感情がとても薄いことに。  
「……」  
ゆっくり目を見開く。  
そして、理解してしまった。  
ああ、そうか。  
彼はもう、手の届かない遠くに行ってしまったんだ。  
そして今、私のそばにいるのは……  
皮肉にも、ソファラというゾルデ外部からの刺激は、揺れ動き続けていた秤の揺れをついに傾けた。  
「……セレス?」  
人に言われて初めて気付くなんて。  
もう一度目を伏せ、開けたセレスの緑眼は、穏やかな海のように落ち着いていた。  
「ソファラ、彼は来なかったわ。彼の心は変わってしまったのよ。私とあの人は貴方達夫婦と違って相思相愛ってわけじゃなかった。  
 どんな形であろうと、別の男の手をとった私が今更のこのこ出向いても、もう困らせるだけ」  
「そんな、セレス、そんなこと……っ」  
「私、決めたの」  
深呼吸してからついに決意を口にした。  
「エルドを選ぶわ」  
その瞳の煌めきの強さに、今度はソファラがうろたえる番だった。  
「どうして……」  
立場は逆転していた。  
突然の豹変を受け入れられないソファラに、言い聞かせるような声色で諭す。  
「いろいろあったのよソファラ。確かに酷いこともされたけど、逆のこともたくさんしてくれたの」  
「でもっ」  
「うまく言えないんだけど」  
 
この問題に最早部外者のソファラが出る幕はなかった。  
セレスは己のことを考え、怒ってくれた友人をしっかりと見据え、答える。  
「わかって。今の私は、好きな人と一緒にいてあげたい人が違うのよ」  
意志の強さが滲む台詞だった。  
しばらく間があいた。  
ソファラはいろいろ言いたげだったが、やがて意気消沈して意見を飲み込んでしまった。  
折れてしまったのである。  
「……貴方変わったのね」  
投げやり気味に指摘された女は薄く苦笑した。  
「いろいろ、あったのよ」  
 
 
 
星屑の下、セレスの家で和やかな夕食を終えると友人は席を立った。  
「それじゃ私そろそろ退散するわね」  
「何故?泊まっていきなさいよ」  
引き止めたが戦友は首を横に振る。  
「やめとくわ。今の仲間達が心配してると思うし」  
「あ……、そうだったわね」  
そう。セレスと同じように、ソファラにはもう別の場所と生活があり、彼女を待つ別の人間がいるのだ。  
現実が少し寂しかった。  
「それに……もしあいつが戻ってきて、かち合ってしまっても困るわ。  
 変な火種になるといけないでしょ?あの男、鋭いし。私も噛みついちゃいそう。  
 もうシルメリアは迎えにきてくれないからね」  
「…そうね」  
同意する。二人の衝突を想像して血の気が引いてしまったからだ。  
「ま、いろいろ偉そうに言ったけど。正直私もちょっとエルドには敵う気がしないわー。  
 好きこそものの上手なれ。ってヤツかしらね」  
肩を竦める。  
渦中の人物に言い切られたとはいえ、どう見ても納得いかない様子だった。  
「多分ね。エルドは何も変わっていないわよ。ただ、貴方が特別だと気付いただけ。  
 危なくてどうしようもない奴って前提はこれからも変化しようがない」  
試すような言い方だったが、試された女は揺るがなかった。  
「…それでも」  
と一言、真摯に答える。  
問いかけた女は諦めの大きな溜息を漏らした。  
「それじゃ、私行くわ。ああ、イージスにもお詫びをしてかなきゃ……」  
そして最後にもう一度だけ赤い髪の女を見据えた。  
「本当にいいのね」  
見据えられた相手は、こくり、頷いた。  
「そう。わかったわ。貴方は子供じゃない。いろいろあって考えて出した結論なら、もう口出ししない」  
つばをつまみ、帽子の位置を整える。それが遣る瀬無さからくる仕草なのがわかった。  
「ごめんなさい。もしかしなくても私……今更かき乱してしまったのね」  
「そんなことないわ。嬉しかった。ありがとう、ソファラ」  
礼を言ったセレスに友人の腕がそっと伸びてきて、優しく抱き締められた。  
「悪気があったわけじゃなかったのよ。今も、あの時も。それだけは信じて。  
 貴方は笑ってたから何となく気付いてると思ってたわ。そんな不安になってるなんて思わなかった。  
 何にせよどうせ数日後にはうまくいくって思ってたのよ皆。  
 まさかそんなことする奴がいるなんて」  
 
 
 
次の日は丸一日、何もやる気がしなかった。  
仕事を終えて帰宅し、夕闇迫る部屋で一人、ぼーっと宙を見ている。  
ひっそりと、かつてのゾルデなら有り得ないほど静まり返った空間。  
二人ものかつての仲間に断言されては、流石に目をそらすわけにはいかなかった。  
 
そうだったんだ。  
あの人が、私のことを……  
頬は火照るが、どうも実感がわかない。  
侵攻だっとはいえ、セレスは彼の首を斬り落とした犯人であることには変わりない。  
いつも殺意を向けられていた。そう思っていた。  
なので嬉しい真実ではあった。  
けれど実際あの人は追いかけてこない。  
何故だろう。  
それは交差するべき一点で交わらなかったから。  
あの一騎打ち、宿命の交差した瞬間のように、交わらなかったから。  
和解への分岐点は多分、あの一つだけ――――  
一年前のあの夕暮れ、窓から逃げ出したあの一瞬。  
過去には戻れない。  
私は唯一のチャンスを逃した。  
完全に終わったのだ。  
結論を、不思議なほど素直に受け入れることができた。  
あれほど未練があったのに大した衝撃もないのは、本当はかなり前から心の準備ができていたからだろう。  
だがそうすると、エルドは何もかも知っていて私を騙したということになる。  
後ろめたい理由はこれか。  
膝の上で仔猫が鳴いた。  
撫でて、目を閉じる。  
ソファラの剣幕やイージスの項垂れを思い出す。  
私はまともな判断をしていないのかもしれない。  
けれど、私は決めた。  
エルドを許して、彼を選ぼう。  
不安は消し切れない。だが時間は経過し、体の傷は痕を残すも、ゆっくりと癒えていく。  
あの少年のような男と共に  
生きていこう。  
今日の夕暮れは赤かった。  
あの立ち上がれた日とはまた違う赤。  
螺旋が回る。廻り描いて巡り、飛んでゆく。  
もう、行かなきゃ。もう既にそれぞれの新しい道を歩みだしているみんなのように。  
あの人のように。  
予定外の道であることは否めないが、扉を開いて、先に進もう。  
決めてしまうと妙にすっきりしてしまう。  
でも目の前には大きな難関が待ち構えている。  
受け入れるとは決意したが、このまま大きな禍根を残したまま、なあなあで一緒になるなど有り得ない。  
ある種の決着はつけなければいけないだろう。  
目を閉じる。  
もう二度と茨道など歩みたくないと思っていた。  
今の私に、あの男を救うことなんてできるのだろうか。  
あの男の腕の中という病的故に頑強な檻から、凍りついた瞳の中の牢獄から、私は出られるのだろうか――――  
 
 
 
 

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