潮風に吹かれて大きく深呼吸した。  
――――あれからもう、一年が過ぎたのだな。  
赤髪が揺れる。  
長い睫毛に縁取られた緑の瞳には穏やかな青海が映っていた。  
決めたんだ。  
彼を選ぼう。  
決意と共に暫く追憶に耽る。  
やがて踵を返し、待ち合わせ場所の教会へ向かった。  
近いうち無人と化すだろう施設内で死神の姿を見つける。  
エルドは何故か、教会の端がお気に入りである。  
ただ光差し込む窓辺に佇んでいる。  
その姿はどこか違和感を伴い似合わない。  
もっとも、死神とはそういった存在なのかもしれないが。  
「……久しぶりね」  
春になったらお別れだったはずの男。  
セレスが躊躇いがちに声をかけると相手はゆっくりと振り向く。  
直後にその整った童顔を疑念で染めた。  
「どうした?」  
察しがいい。セレスの機微を感じ取ったのだろう。  
近寄り、顔を覗き込んでくる。  
この男は目が大きくなった。  
本当に大きくなったわけではない。  
セレスを見る目に険しさが消えたため、素の顔立ちになっている。  
セレスだけが知っている、少年のような幼い男。  
「何でもないわよ」  
僅かだが人目もある。周囲には二人は既に恋人同士という設定だ。  
今は平素通りにしなければと顔を逸らせた。  
ディパンへと向かう。  
薄暗い喪失の森から王家の地下道へと入る。  
道中は延々と耐え難い荒廃の現状が突きつけられた。  
四宝の一つドラゴンオーブは既にこのミッドガルドへ戻ってきているのだろうが、不在時に培われた混乱の影響は深刻だった。  
やはり魔物や不死者が増え、大幅に力を増してきている。  
地下道の魔物達も例外ではなかった。  
凌ぎつつ先を急ぐ。  
そうしてディパンへと到着したのは、月光が優しく落ちる晴れた夜だった。  
星屑の下、神からの襲撃を受け壊滅した故郷の土を踏む。  
瓦礫が雪崩を起こしたまま無残に晒されている。  
月明かりがそっと、今回も同行してくれた死神を照らした。  
細く小柄な体格で、さらに身にまとう若々しい衣装のせいか、まだ成人もしていないような少年が立っているようにさえ見える。  
光加減で色を変える髪の先が小さく揺れた。  
「さてどうする」  
そのおかしな生き物がセレスに今度の動向を問うた。  
「夜のうちに城へ行ってみたいの」  
悪意が大きく動くのは大抵闇の中と決まっている。  
裏口から城内に踏み込むと顔見知りの兵士が一人、セレス達に気付いて寄ってきた。  
あの敗北の日に王と共に散った、もしくは王の後を追った兵士の数など数え切れない。  
だが命尽きるまでこの国を守るという選択をした兵士が、僅かながらこの地に踏みとどまっていた。  
王も国も消えた。民も散った。彼等には未来がない。あるのはただ意地のようなものだけ。  
存在自体が既に亡霊のようだった。  
情報交換の為いくつか言葉を交わす。  
盗賊達の悪行は相変わらずのようだった。兵士達の手が回らないのをいいことにやりたい放題らしい。  
今回の滞在中に何とかせねばなるまい。  
さらに、以前イージスがディパンに渡るきっかけになった、得体の知れない生物の正体も未だ解明されていない。  
わかっていることは、動いたのが夜ということ。  
城内の探索を告げて兵士と別れた。  
暗い上、足場が悪い。だが何とか進まなければならない。  
 
「ほれ」  
損壊により渡りづらい箇所で、不意に手を差し出された。  
死神の気遣いに微笑む。  
「ありがとう……」  
深い深い静寂。  
終焉を迎えた城。  
襲撃直後の痛ましい死屍累々の情景は、時間の経過により幾ばくか緩和されている。  
それでも気分の良い光景ではなかった。  
兵士が死に絶えたら、瞬く間に不死者や魔物が蔓延り、蹂躙されるのであろう。  
謁見の間につながる扉が重たく開いた。  
鎮座する王の途絶えた王座を見上げる。  
かつて繁栄を極めた大国というのが嘘のようだった。  
自然に溜息が漏れる。  
祖国の落魄れ果てた姿というものも切ないものだ。  
国は終わった。後は穢れ、歪んでゆくだけ。  
閑寂な空間。  
元王女が王座に手を添えたところで変化は何も訪れない。  
華燭の盛典を極めた国のなれの果て。  
「俺達にぴったりだな」  
冷ややかな皮肉を吐かれたが、  
「……そうね」  
自然に同意が零れた。  
俯くセレスを死神が嗤う。  
「惨めに思うならお前がまた復興させればいい。なんせディパン王家の純血が流れてんだから。このまま天下でもとりに行くか?」  
「何言ってるのよ」  
「お前にはそういう力がある」  
くいと顎を持ち上げられた。  
「そうだろ。斬鉄姫セレス」  
そんなこと、もう私にできるはずないのに。  
エルドの毒を帯びる悪口は直る気配もない。  
棘のある戯れを振り払う。  
 
 
 
広場にも行ってみた。  
星屑きらめく中、瓦礫の山を抜け、兄の子孫が断首された場所を見渡す。  
その時の情景が今でも目に浮かぶ。  
民から溢れる嘆声の中、斬首と共に霧散した王の魂。  
その時セレスは行く手を遮った裏切り者の魔術師達との戦闘に駆り出された。  
その戦闘はとても楽なものだった。  
生前魔術師を狩る者として恐れられていたエルドがパーティーの一員だったからだ。  
魔法を封じる魔法、プリベントソーサリー。それに魔術師の片方が見事にひっかかった。  
後は逃げ惑う二人の裏切り者をエルドが楽しげにいたぶるだけだった。  
嘆きと不安に包まれる観衆の中、皆が真剣に戦っているのに。  
アリーシャが、ずっと見守ってきた少女が、実父の危機に直面しても動揺を堪え、懸命に剣を振るっているというのに――  
いくら興味がないと言っても、20年近く生を共にした少女ではないか。  
彼が味方で良かったとは思いつつも、嫌悪のまなざしを送るばかりだった。  
崩壊したディパン城へ戻る。  
敷かれた赤い絨毯の焦げ付いた残骸が、時を経て更に痛々しい。  
悲惨な光景ばかりが続く。  
だが逆に、これといって気になるものはなかった。  
「ま、何かあるとしたら地下じゃねえの」  
同意せざるを得ない。  
かつん。  
そっと地下に降りる。妖しい静寂を割って靴音が響く。  
すえた臭いが鼻をつく。地下特有の冷たさと空気の湿り気が、じんわりと染み通ってくるようで気持ちが悪い。  
 
例の時間制御装置のあたりには近づけなかった。封鎖されている。それを施しただろう黒髪の戦乙女の波動のようなものが微かに残っている。  
地下とはいえ荘厳に妖気が混じる不可思議な情景だった。  
その妖気を吸い上げているのか、魔物達は王家の地下道で徘徊していた輩より格段に強い。  
「!」  
セレスが気配を感じて振り向いたのと、エルドにより死の呪文が紡がれたのが同時だった。  
生気を失った異形は抜け殻となり、そこから生命の蝶がひらひらと舞い上がる。  
どの魔物よりもどす黒い童顔が、満足げに嗤った。  
 
 
 
進んでも進んでも、ただ相変わらずの酷い光景が続くだけだった。  
やがてあの忌まわしい研究所に到着する。  
背徳にまみれた薄気味悪い回路の群れが二人を出迎える。  
棺のような魔物達の養殖装置が今も取り残されていた。今も起動しているのだろうか。  
水槽の中の何かがゆらゆらと蠢く。  
彼等は生きているのか死んでいるのか―――  
長く滞在していると精神を蝕まれそうだ。  
最奥部はやはり鍵がかかっていて入れなかった。  
どうしようもない。進めるのはここまで。  
探索は完全に詰まってしまった。  
溜息とともに肩を落とす。  
仕方なくもと来た道を戻ることにした。  
襲い来る魔物を射殺しながらエルドは平然と会話を続ける。  
「そう落ち込むなよ。斬鉄姫セレス様のご帰還だ。くたばった連中も草葉の陰で喜んでるんじゃねえの」  
「やめてよ私が何したか知ってるくせに」  
「そんじゃ連れてった俺は重罪人だな」  
妙に癇に障る言い草だった。  
一匹魔物を薙ぎ払ってから咎める。  
「どうしてそういう言い方しかできないの?だから嫌われるのよ貴方」  
冷ややかで厳しい指摘をエルドは鼻で嗤った。  
「知るか。カナヅチもそうだが外野ごときに何言われようが知ったこっちゃねえ」  
『外野』と判断されていないたった一人の女には、それは重たい台詞だった。  
 
 
 
階段を登り切ると、先程の兵士が安堵に満ちた表情で二人を出迎えた。  
深夜の更なる探索を申し出るも、彼に却下される。  
そして今日のところはもう休んでほしいとの懇願を受けた。  
貴重な助太刀。疲労のせいで十分な力を発揮できず怪我でもされたら堪らないとのこと。  
面倒くさそうに欠伸するエルドも兵士の提案に同意する。  
嘆息するセレスも了承して城を後にした。  
ふと振り返るともう一人の兵士を見かけた。  
月夜の晩に背を向けて佇む姿はまるで化石のようだった。  
 
 
 
闇に沈むマーニ通りを歩く。  
魔法でともるはずの街灯達はすべて役割を放棄している。  
人々に捨てていかれた紛うことなき廃墟。  
「またきなすったんかい」  
突然のしわがれた呼び声に心臓が跳ねた。  
慌てて目を凝らすと、闇の中、花壇に腰掛けている老人と目が合った。  
未だこの国にまばらに残る人影の一つ。  
「何をしているの。こんな夜中に危ないわ」  
「なあに、もうこの国じゃ何処にいたって危険じゃろうが」  
注意しても、こんな返事を平然と返してくる。  
 
ここで国の行く末を見届けると言い張り続ける住民。  
ディパンからの退避を促しているセレスの手強い難敵でもあった。  
「気持ちは変わらない?」  
目線を合わせて会話を試みるが、寡黙気味な老人は微笑みながらただ一つ頷くのみだった。  
生まれ育ったディパンと共に滅びるつもりだ。  
セレスは息をついた。  
あの兵士達と同じく、もう何を言っても無駄なのだろう。  
それでも諦めないセレスに老人は、彼女の気品と立ち振る舞いの美しさ、そして優しさを指摘する。  
まるで彼のカミール17将斬鉄姫セレス様のようだと微笑む。  
背後でエルドの小さな嗤い声がした。  
数十分後、今回の交渉もセレスが根負けした。  
「どうせくたばるんだ。好きにさせろよ」  
少し離れてから、極めてどうでもよさそうなエルドから悪態が漏れる。  
呆れ返るセレスの半目が冷たく注がれた。  
「……一体ここに何しに来たのよ貴方」  
少しは民のことを考えてくれているのかと思っていたのに。  
水筒の酒を煽る男はセレスの期待をあっさり打ち砕いた。  
「たまには場所変えるのもいいかと」  
いつも通りの戯言を平気で口走る。  
言い草から、夜伽のことを示しているのがすぐにわかった。  
セレスの表情が盛大に引き攣る。  
「貴方ねえ!」  
「飲むか?」  
反論を防ぐようにずいと水筒を突きつけてきた。  
たぷんと酒の音がした。  
「……何か妖しいものが入ってそうね」  
「入れるわけねーだろ。酒自体がそんなもんなのにそんな必要あるか」  
「……」  
溜息しか出ない。  
気付くとどこまでも、すっかりエルドのペースだった。  
 
 
 
これといった収穫がなかったことは残念だが、とりあえずあてがわれた民家に入り腰を落ち着ける。  
上流家庭が見捨てていった家屋は、現在セレスが居住しているゾルデの家の何倍も広い。  
調度品が飾り立てる玄関を抜け、いくつものドアを通り過ぎて寝室に入る。  
盗賊が徘徊している可能性もある。念の為しっかりと施錠した。  
外では廃都の上で欠けた月が回っているのだろう。  
白を基調とする上品な寝室。  
天蓋付きの豪奢なベッドに腰を降ろした。  
「する?」  
声をかけると、  
「へえ」  
驚嘆と共に歩み寄ってきた。  
「物分りがいいじゃねえか」  
切り出し方を迷っているのはわかっていた。  
隣りに腰をおろした男に顎をつままれて視線が交わる。  
「キスして……」  
「言われなくても」  
「たくさん、して」  
エルドは少々怪訝そうに眉を顰めたが、手中の女をゆっくり押し倒して了承した。  
「お姫様の仰せのとおりに」  
その仰々しい物言いは、軽んじるようにも真摯なようにも聞こえた。  
果実酒の甘い匂いが鼻をくすぐる。  
久々の口付け。  
息継ぎに軽く離れてもすぐにまた吸い付いてくる長い長い前戯。  
 
ちゅ、ちゅっと絶え間なく啄ばみ、甘い音を立てる。  
そういえば自宅以外で事に及ぶなど何ヶ月ぶりだろうか。  
ディパン来訪には何度か付き合ってもらったが、手を出されたことは一度もなかった。  
今思うと気を遣ってくれていたのだろう。  
互いの鼻が当たらぬように少し顔を傾けキスを続ける。  
そっと半目を開けてみると、相手の閉じた目と睫毛が見えた。茶色を多く溶かした金の髪が目の前でさらりと揺れ、顔の輪郭を消す。  
この男もキスをする時くらいは目を閉じるのだなと何となく思った。  
唇を啄ばむのは継続しながら、そのままゆっくり脱がされてゆく。  
しばらくすると本格的に舌が入ってきて歯列をなぞった。  
長く時間をかけた丁寧な口付け。奥底からの甘い痺れをもたらす。  
大事にしてくれているのがほんのり嬉しかった。  
身に溶け込むような感覚は多分酒気のせいではない。  
頭、頬、首。手のひらがなだらかに女体を流れていく。  
右胸、腰、腿。肌に吸い付くような緩慢な動きは高め方を知り尽くしていた。  
「ん……」  
豊かな乳房の柔らかみに指が浅く沈む。  
慣れた舌先で突起を転がされて吐息をつく。  
以前は内部まで浸食してくるその快楽に必死で抵抗していた。  
後頭部と背中に自然と手を回せるようになったのはいつの頃からだろう。もう覚えていない。  
自分の胸に埋もれている男の後頭部を撫でる。陽の下で輝く髪は今は闇を含み、暗い茶色に染まっていた。  
この男を選ぶのだ。  
そして二度目の死が訪れるまでの長い時を過ごすのだろう――――  
実感が脳裏をよぎってゆく。  
唇が胸元から戻ってきて、もう一度口付けられた。  
「エルド……」  
糸をひき、離れたところで、  
「待って」  
なおも続けようとする男を制する。  
事を行う前に、精神的にも受け入れる準備が整ったことを伝えようと思ったからだ。  
「あ、あのね」  
だがいざ告白しようとすると何だか詰まってしまい、言い出し難い。  
「なんだよ?」  
急かされると一層詰まってしまう。  
目を泳がせた後、苦笑いと共に呟いた。  
「――――ううん。また後で」  
 
 
 
結局話を切り出せぬまま事を終えてしまった。  
疲労もあるのだろう、エルドは目を閉じてそのまま眠ってしまった。  
幼い顔立ち。古傷だらけの躯。  
あの豪雨の日にできた横腹の傷もかなり癒え、古傷の仲間に加わろうとしている。  
額をそっと撫でてからベッドを離れ、夜着を纏う。  
明日からはまた探索の日々。気を引き締めていかなければ。  
疲れとけだるさ、そして不穏がセレスを包む。  
盗賊達の尻尾をつかめない。怪物の正体も未だわかっていない。  
それに。  
「……ああもう」  
かぶりを振る。  
ゾルデを出る直前にイージスにかけられた揺さぶりが、ずいぶん効いてしまっているようだ。  
振り切ろうとしてもつい、この世界のどこかで、同じ月の下にいるであろう彼の男のことを考えてしまう。  
あの人が、私のことを……  
湧き出ようとする想いを必死で霧散させる。  
もう決めたのだ。私はエルドと一緒にやっていくんだから。  
でも。  
いくら言われても、未だに少し信じられない。  
 
あるのだろうかそんな奇跡が。  
私のことを……  
けれど、それならどうして来てくれないのだ。  
そんな疑問が肥大し、いくつもの流星になって心を流れ落ちてゆく。  
アドニス……  
今はどうしているのだろう。  
笑っているのだろうか。元気でいるのだろうか。  
大事な人はできたのだろうか。  
ついずるずる傾く思考を再度振り払う。  
もう手の届かない遠い人なのだからと噛み締め、想いを必死で押し込める。  
幸せだといい。  
そうだといい。  
そうだと――――――  
「何考えてる」  
ぎょっとして目を見開く。  
寝息を立てていたはずの男がいつの間にか真後ろに立っていたからだ。  
「おっ、驚かせないでよ」  
咎める声もうわずってしまう。  
動揺するセレスとは真逆、エルドは微動だにせず彼女を見上げている。  
いつの間にか夜着をきていた。  
その目は闇夜に浮かぶ猫の目のようだった。  
空気がひんやりと冷たい。  
そうだ、言わなければ。  
気持ちを切り替えてエルドに向き合う。  
「あ、あのね」  
緊張でほんのり頬を染めつつ、セレスは告げた。  
「その……受けようと思うんだけど」  
「何を?」  
「だ、だから…貴方の気持ちを……その。受け入れようって……」  
たどたどしい告白をそこまで耳にして、暗闇の中、エルドは小さく笑いを漏らした。  
最初は嬉しいのかと思った。  
だが、笑いには有り得ないはずの混沌とした狂気が混じっていた。  
おかしい。  
だんだんと気持ちがざわついてくる。  
待望の受容を与えられたはずなのに、エルドは真っ向からセレスを見据え、言った。  
その言の葉は有り得ないほど鋭かった。  
「浮かれさせといて背後からブスリとやっちまう計画か?」  
「えっ……」  
「春まで、だったもんな。そして俺はお前をものにできなかった。ご機嫌とりばっかでヌルいことやってたからなぁ」  
醜いまでに口元を歪め、嗤いながら詰め寄ってくる。  
異変を認識するセレス側にも身の危険を感じる故の鋭さが増した。  
想定外の展開だった。  
どうやら告白を、陥れる為の嘘だと思い込んでいるようだ。  
害意を全身に受けて緊張が迸る。ずっと請うてきたものを与えたのに、何故そうなるのだと理解が追いつかない。  
でも、駄目だ。  
威圧されてももう逃げない。  
こういう男だということは承知の上。  
向かい合わなければ。  
ここが勝負とばかり、セレスは負けじと踏みとどまった。  
「……実は私も聞きたいことがあるの」  
目に宿る光は気圧される程に強い。  
「知っていたのね。あの人の方の気持ちも」  
「ああそれが何だ」  
あっさり認めた。  
詫びる気すらないようだ。完全に開き直っている。  
 
「誰だ。ヒゲか?それともエインフェリアのどいつかがゾルデに来てお前に余計なこと吹き込みやがったか?」  
音の葉に戻っている狂気が嗤いながら舞い踊る。  
だがセレスも決して退く気はない。  
「はぐらかさないで。私は貴方に訊いてるの」  
火花が散るような睨み合いが続く。  
舌打ちと共にエルドが折れた。  
「ああそうだ。知ってた。あの変態の塔でもそうだった。お前は景色なんかに見惚れてたんじゃねえ」  
幼く整った顔立ちが更なる深い闇へと染まりゆく。  
エルドは明らかに暴走を始めていた。  
「嫌い合ってるはずなのに。気が付いた時にはお前の目線の先にはあの黒いのが、いつもいた」  
本当に知っていたのだ。  
覚悟はしていたつもりだが、実際肯定されるとただ動揺するしかできない。  
「どうして……」  
「どうしてだと?」  
悲しげに歪む女に向けて身勝手な理由が羅列される。  
「ムカついたんだよ――――あれだけ険悪で顔合わせる度ギスギスしてやがったくせに、実は二人とも……なんてご都合オチはよ」  
残酷な真実を、まるで悪魔のように嗤いながらだだ漏らす。  
「他のエインフェリアの連中がお前ら二人の為にご丁寧なお膳立てしてやがんのも勿論知ってた。  
 あの糞ども、一匹ずつあいつに激励送って去っていった。まるでもうお前らが一緒になるのは確定なんだとばかりにな。  
 それ見てたら無性にブチ壊してやりたくなった。それだけだ。もともとあの黒いのが死ぬ程目障りだったせいもあるがよ」  
途方にくれた。  
選んだ男からは完全な悪意しか感じられなかった。  
「どいつもこいつもお前ら見て優しい顔して笑ってやがった……」  
「エルド」  
セレスの震える声色が琴線に触れたのだろう。  
「俺とあの糞野郎と一体どこが違うっ!!」  
突然切れた。  
二度と怒鳴らないと宣言したはずの死神から、久方振りに割れるような怒声を聞いた。  
乱暴に両肩を鷲掴まれる。  
「俺の方がずっとお前を見てた!!助けてやったし守ってもやったっ!!いつだって俺の方が先にっ!!  
 何であいつなんだよっ!!なんでっ!!殺そうとしてた野郎なんかっ!!」  
耳が痛い。  
あまりに勝手すぎる。それなのに怒声には悲哀と辛苦が棘のように絡みついて痛々しく、酷く心を揺さぶる。  
だがセレスも、そこでついに気付いてしまった。  
「じゃあ、あの時も……一年前、連れ出してくれた時も、わかってて……!?」  
「当然だろ」  
暴露された過去にただ衝撃を受け続けるセレスを、死神は半目のまま鼻で嗤う。  
「話の最中に扉の向こうで奴の気配がしたもんでな。  
 お前らときたら馬鹿みたいにお互い嫌われてると思い込んでやがるし。  
 ここぞとばかりに一言一句、はっきりと発音してやったぜ。お前がいかに怯えているかをな」  
瞬きを忘れた目が更に見開かれる。  
いたのか。あの時、あの扉の向こう側に。  
そこまでとは思わなかった。  
嘘で塗り固められていた今までに、思わず本音と嫌悪がこぼれる。  
「……酷い」  
「酷いだと?知らねえよそんなこたあ。お前はこの俺の手を取ったんだぜ―――」  
強引に抱き寄せようとしてきたので、  
「いやっ!!」  
思わず振り払った。  
拒絶を喰らった死神の目は完全に座ってしまった。  
「甘やかしてりゃ図に乗りやがって」  
凶悪な害意は制御を失い、強烈に渦巻く。  
怯んだ瞬間、乱暴に掴まれて寝台へと投げ出された。  
「きゃ……っ」  
起き上がる前に敏速に覆い被さられてしまう。  
 
「仕置が必要か?足枷でつながねえとわからねえかっ!?」  
劈くような大声を浴びせられる。  
両脇を挟まれてその場にしっかりと縫いとめられた。  
いつもとは違い、追い詰められた男の荒い息だけが部屋に響いている。  
「いい加減に…してくれよ……っ」  
震える声で、まるでセレスが悪いとでも言うような勝手すぎる戒めを垂れ流す。  
しばらく最悪に気まずい沈黙が場を支配した。  
だがその間、エルドとは真逆、組み敷かれる女はとても冷静だった。  
「私達、ずいぶん長く一緒にいたのね」  
そう、繋ぎ止められたまま、ぽつりと呟いた。  
「そんな泣きそうな顔しないで」  
正確な指摘。  
その一言はエルドの中にある決して触れてはいけない部分を弾いた。  
童顔が瞬時に更なる凶悪を帯びる。  
平手が飛び、乾いた音がした。  
だがその音を立てたのは女の方だった。  
「あんまり馬鹿にしないで」  
頬を張られた男は女の素早い言動に硬直している。  
「いつまでも捕らえた捕虜のままで言うこと聞いてろというなら大間違いよ」  
セレスはゆっくりと、言うことを聞かない子供に言い聞かせるように呟いた。  
「終わりにしましょ。もうこういうのは」  
優しい声音とは裏腹に、何者からも目をそらさない強い光が奥で揺らめいた。  
だがエルドの捻くれ具合も相当である。  
くくっと嗤う。  
「逃がしゃしねえよ」  
「逃げたりなどしてやらない!!」  
間髪いれず叫び返す。  
その言動の鋭利に、今までずっと、この一年ずっと女を組み敷いてきた男は明らかに怯んだ。  
そして彼女の瞳に本来の光が戻りつつあることに、漸く気付いたのである。  
「私が私でなくなっても――――もう言いなりにはならないわ」  
エルドが捕らえた女はついに、歪んだ関係への決別をはっきりと口にした。  
「貴方が変わらないというのなら、これで終わりよ。  
 こんな状態を続けるだけだと言うのなら、私はもう二度と貴方に笑いかけることができない……」  
セレスが苦い本意を告げ終えると、辺りは再び深い沈黙で覆われた。  
少々の緊張とともに返答を待つ。  
髪が顔にかかって表情が見えない。  
「何だよそれ」  
破られた一声からはすっかり力が失せていた。  
鳥かごに閉じ込めていた鳥が、ついに自分の手元から飛び立とうとしているのを感じ取ったのだろう。  
「……別に無理して惚れろなんていわねえ。心底から愛してもらえるような人間じゃねえのは自分でもわかってる。  
 ここにいろよ。嘘でいいから俺を愛してるって言えよ」  
「エルド、だからね」  
「こんなに頼んでも駄目なのかよ」  
捨て身の説得でも暴走は止まらなかった。  
ついに捨てられるかもしれないという焦燥。  
エルド側も数ヶ月のうちにだいぶ不安が蓄積していたのだろう。  
組み伏せた女に酒をぶちまける。  
果実の酒があっという間に純白の夜着を濡らした。  
「や!ちょっとやめてよ何するの!?」  
突然の暴挙。  
慌てるセレスの反抗を力ずくで押さえつける。  
「今更」  
狂おしい妖光を放つ双眸が冷たくぎらついた。  
形勢の逆転。  
恐怖が一斉に涌き出てしまいセレスの平静を遠く追いやる。  
 
「いやっ!!」  
「……ほんと、今更」  
言の葉も視線も冷たく乾いていた。  
「俺から逃げられるとでも思ってるのかよ」  
「エルド!」  
「離さねえぞ。ぜってえに行かせねえ」  
「行かないわ。逃げたりなんかしない!」  
「どうだか」  
「乱暴にしないで!!ちょっとっ!!」  
必死にもがいても返事は返ってこない。  
「あ……!」  
びくんと仰け反った。  
舌が果実酒にまみれた首筋を無遠慮に這う。その間にも手のひらが女体を強引に這い蠢く。  
「ああっ!」  
先程と、今までと責め方がまるで違う。  
与えられる熱はそれまでされた抱き方とはあまりに違う快楽を帯びていた。  
全身に緊張が迸る。  
連鎖的に、生前エルドにしな垂れかかる密偵の女の姿を思い出したからだ。  
このまま彼女のように肉欲に溺れさせる気なのがわかった。  
あの蕩けきった微笑み。  
それが自分に重なって――――  
「やだっ!!エルドってばっ!!」  
焦り切って無我夢中で振りほどこうともがくが、  
「心配すんな。朝には俺しか見えなくなってる」  
押さえつける男から返ってきたのはとんでもない爆弾宣言だった。  
「馬鹿っ!!何言って――――」  
冷静になど、とてもではないがなれる状況ではない。取り乱し全力で抵抗する。  
だが妄執という鎖は半端なく頑丈だった。  
どうやっても逃げられない。  
「やめてっ!!」  
「しねえよ。逃げ出したりしなきゃな」  
「私言ったわ。貴方を選ぶって!」  
「へぇ。そりゃ光栄なこった」  
決意を軽く流されてしまう。  
会話を交わすごとに冷たすぎて凍ってしまいそうだった。  
「……信じてくれないのね」  
「お前が俺を信じてねえみたいにな」  
口付けが震える女の胸元にいくつも落ちる。  
いくら抗ってもエルドの言動は狂気を増すばかりだった。  
「ひっ!あっ、やあぁっ!」  
熱にうかされた女の表情は怯えが混じり更に艶めいて、男の支配欲と劣情をかき立てる。  
「やっ!ああっ。んっやだぁっ、いやっ!いやぁあっ!!あっ、や…いやぁあああ―――――――っ!!」  
絹を裂くような悲鳴が響き渡った。  
暴れ狂うので寝台もぎしぎしと一緒に悲鳴をあげ続ける。  
これまでずっと絶叫は行為停止の合図だった。なのに止めてくれない。  
両手首を片手で捕られ、頭の上で固定された時、心臓が止まった。  
このままだと何かで縛り上げられてしまう。  
その先には永劫の呪縛が待っている。  
絶体絶命の危機。  
「やめてええぇええええええぇっ!!!」  
絶叫の直後だった。  
パニック状態の中、一欠けらの冷静がすらりと女に舞い降り、現状打開へのひらめきをもたらす。  
幾度となく戦場で窮地を潜り抜けてきた戦士だからこその機転。  
荒ぶる男の耳元で、ドスの効いた一言を重く叩き付けた。  
「ほんとに嫌いになるわよ」  
 
そしてその一言で生まれた一瞬の隙を見逃さなかった。  
全身全霊の力をもって払いのけ、  
「――――もうっ!!」  
平手などという生易しいものではない。  
勢いに任せ、問答無用で顔面に鉄拳制裁を喰らわせた。  
ガッ!!  
と一発、凶悪に重い打撃音が発され、不意打ちを受けた男が寝台に殴り倒される。  
「いい加減にしてっ!!いつまでも、何でも脅迫や乱暴で解決できると思わないで!!」  
怒鳴った後はベッドから転がり落ち、そのまま壁際まで距離をとる。  
だがそこまでだった。  
一年前の恐怖が再来し、瞬時に身体を支配していたからだ。  
気持ちが悪い。吐き気がする。動きたくても悪寒で染まってしまい、ぶるぶると有り得ない程震えている。  
「信じて……」  
ただ一言、涙声で必死に搾り出した。  
広い寝室に再度静寂が戻った。  
恐れていたエルドからの追撃はなかった。己を抱き締め縮こまるセレスを見て我に返ったようだ。  
「……馬鹿力」  
毒づきつつも流石に気まずく感じたらしい。  
「悪かった。――――だが別れるつもりはねえ」  
きっぱり言い放つと衣服や装備をかかえ、明らかな後悔の目でセレスを一瞥し、舌打ちした。  
「別の部屋で寝る」  
そして踵を返し、あっという間に退室してしまった。  
取り繕う暇もない。  
その場に一人残されたセレスは予想外の逆襲を喰らったことに大きく息をついた。  
「く……」  
身体がうまく動いてくれない。下手に動くと吐きそうだ。  
それでも必死に這い進んで鞘におさまった剣を抱く。  
止めようとしても涙があふれる。  
これでやっと普通に仲良くできると思い込んでいた相手からの手痛い仕打ち。  
深い虚しさに包まれてしまう。  
なんだ。  
あれだけ口説いてきたくせに、結局は壊してもいい程度の存在なんじゃないか――――  
「う……ふぅっ、………うう…」  
酒でべたつく身体が心底不快だったが、清拭する気力すらわかない。  
涙も震えも止まらない。  
心臓の鼓動は呼吸困難になる程荒々しく、いつまでも止まらなかった。  
 
 
 
目覚めた時には既に日が高く昇ってしまっていて、慌てて飛び起きた。  
なかなか寝付けなかったせいだ。  
エルドは先に身支度を済ませていたが、顔を合わせても当然ながら気まずかった。  
「……二度と、しないで」  
注意しても返事はない。  
居心地の悪い不和の空気に押され、たいした会話もせずに外で出た。  
相変わらずの廃都が広がる。  
足元がふらついた。  
根付いた恐怖はなかなか取り払えるものではない。  
また何か仕掛けてくるのではないかという疑念を取り払えず、精神的にも体力的にもまったく休めていなかった。  
エルドも何も言わない。  
二人の関係には深刻な亀裂が走っていた。  
切り出し方に困りつつ、暗く不穏な空気に苛まれていると、意外な人物が現れた。  
「セレスー」  
昨晩の兵士に連れられ、杖を振り回しながら近づいてくる魔術師が一人。  
「兄さん!」  
ゾルデにいるはずのイージスが歩いてきたのだ。  
 
セレスを追って応援に駆けつけたのである。  
へへっと笑いながらぼさついた頭をかく。  
「やっぱり来ちまった」  
「ありがたいわ」  
信頼できる人間の登場。  
つい気が緩み、セレスの表情にも希望と明るさが灯される。  
「ふうん……」  
代わりにエルドの不機嫌が増した。  
身を翻し、さっさと何処かへ行ってしまった。  
「なんだあれ」  
「勘違いしてるの」  
「何を?」  
「突然OK出したから。信じられないみたい」  
「はあ?」  
イージスの眉毛のバランスが盛大に崩れ、心底呆れ果てたといった顔になった。  
「また何かあったのか」  
警戒を帯びて鋭く尖る問いかけ。セレスの重々しいため息はその肯定をしてしまう。  
「昨晩ちょっとね。こじれちゃって。こっちはやっと受け入れる覚悟ができたっていうのに。うまくいかないものね」  
取り繕うように苦笑するが、一年間彼女を心配してきた男はごまかされない。ただセレスを見つめ続ける。  
「大丈夫かよ……なんか、顔色ヤバすぎるぞお前」  
長い睫毛の向こうにある瞳は翳り、暗い。  
表情もすっかり青ざめていて、極度の緊張状態におかれたことを示していた。  
「ほんと、大丈夫」  
安堵させようと見せた微笑みも無理があり、弱々しかった。  
イージスはしばらく立ちすくんでいたが、やがて意を決し、きっと顔を上げる。  
「セレス、俺からも話があるんだ」  
「何?」  
セレスの肩に片手を置く。  
現在彼女に兄と呼ばれている男の眼差しは真剣そのものだった。  
「ゾルデに戻ったら、一緒に旅に出よう」  
あまりに突然の申し出。  
理解が追いつかず、セレスの目が点になる。  
構わず兄は宣言した。  
「俺はアドニスにお前を送り届ける」  
「そんな、兄さん。突然何を言ってるの?」  
慌てて反論しようとしたら今度は両肩に手を置かれた。  
「わかっているんだろう本当は。お前の居場所はここじゃない」  
諭されても、突然すぎて返答すらままならない。  
「そんな、だって……ゾルデのことはどうするの?今一番大切な時期じゃない」  
「勿論だ。だが、ヤツを見つけるまでにそこまで時間はかからねえさ。ミッドガルドは狭い。そこら中に散ってった仲間達が皆協力してくれる。  
 俺達の戦乙女が祝福した、お前と、アドニスなら。  
 ちっとばかしはこじれちまったかも知れねえが、見つけたら俺が絶対何とかしてやる」  
「ちょっ、に……兄さん、聞いて」  
決定だとでも言うようなすさまじい勢いに押され、反論を紡ぐ自由はなかった。  
「いや、もう何も言うな。決まりだ。きたねえおっさんの俺にだってわかる。お前の幸せはそこにある」  
そう、うろたえる妹にきっぱり言い切った時だった。  
「へえ。じゃ今は幸せじゃねえってことか」  
冷えた物言いを投げつけられてイージスとセレスの表情が瞬時に強張る。  
いつの間にかエルドがそばに戻ってきていて、嫌悪感剥き出しの表情で二人を睨みつけていた。  
だがもうイージスも退いてやる気はないようだ。  
セレスを庇うように前へ出る。  
「盗み聞きたあ趣味が悪りいな」  
「んなでけえダミ声で怒鳴ってりゃ聞きたくなくても聞こえちまう」  
毒舌と軽視の視線を受けてもゾルデの英雄は安易な挑発などに乗らない。  
「今は幸せじゃねえってことかって今ほざいたな。じゃあ何だよセレスのこの顔は」  
親指で背後の女を指す。  
 
「いつも泣かせて真っ青で震えさせてたくせに、仕舞いには受け入れるって言わせてもこの有様かよ。  
 これから何潜んでるかわかんねえとこへ探索に出るんだぞ。こんな状態にして、本当は死なせてえのか!?」  
牙を剥いて失態を追求され、エルドも流石にぐっと詰まったようだった。  
「もういいだろう。彼女の揺るがない想いはわかったはずだ。これ以上束縛してもお前がもっと惨めになるだけだ」  
 セレスは頑張っただろう。もう解放してやれ」  
だが死神は醜い程口角を歪めて嘲り嗤うだけだった。  
「冗談」  
一触即発の張り詰めた空気が漂う。  
「お前さえ余計なことしなけりゃセレスは本当はここにはいねえんだよ……!!」  
イージスの一言一言には圧し掛かるような重みがある。反撃は鋭く、叩きつけるように厳しかった。  
童顔にいくつも青筋が浮かぶ。  
その時だった。  
「あのう……そろそろ……」  
一同がすっかり存在を忘れていた人物が場を制した。  
空気の読めない兵士がおどおどと割って入ってきたのだ。  
だがその鈍感さが逆に助かった。乗じてセレスも割り込む。  
「そうよ。二人とももうやめて」  
イージスは微妙な面持ちを作り、エルドは舌打ちして顔を逸らせた。  
「兄さん、私、決めたから……」  
「ああわかった。今はそれでいい」  
「俺も別に構わねえぜ」  
真っ向から対立する二人の同意を何とか得ることで場を収めた。  
「仲良くしようぜエルド――――これが最後の共同作業なんだからよ」  
イージスはギロリと挑むような視線を投げつける。  
負けじと睨み返して火花を散らすと、エルドは不愉快全開といった感じのままさっさと行ってしまった。  
一向にまとまらず捩れるだけの現実はセレスの嘆息に変わる。  
「兄さん……」  
「安心しろって。俺が何とかしてやるから」  
満面の笑顔が逆に困り者だった。  
そんな先達から更なる衝撃がもたらされる。  
「そうだ。エーレンからの手紙で伝え忘れてたことがあってよ。アドニスからお前に伝言だぜ」  
「えっ」  
思わず息を飲み、見開いた目でイージスを凝視する。  
反応の良さは心の表れ。それを確認し、先達はにやりと笑う。  
「『やべえ時はあの感覚を思い出せ』だとさ」  
心臓が飛び跳ねるような驚きの後は、意味不明な一言の伝言にきょとんとしてしまう。  
「あの感覚と言われても……」  
記憶を辿ったがさっぱり思い当たらない。果たして意味があるのだろうか。  
「何だお前にもわからねえのか」  
戸惑うセレスの肩に、イージスがもう一度手をおいた。  
「まぁあれだ、本人に直接聞けばいいさ!どうせ数ヵ月後には一緒になってるんだからなっ!!」  
 
 
 
薄暗くなるのを待って、もう一度地下へと降りることになった。  
一行の空気は当然ながら険悪極まりなかったが、それでも組んでいるのは、互いに想定外の危険の発生を案じているせいだった。  
魔物が続々と襲ってくる。  
セレスに向けて攻撃魔法が放たれた。  
「え……っ」  
別の魔物に気をとられていたセレスは反応速度が鈍い。心身の不調は隠せず隙だらけである。  
すんでのところでイージスの放った氷霊と相殺された。  
「ごめんなさい」  
「どんまい」  
そう、優しく励まされた時だった。  
 
ガコン。  
瓦礫が落ちて砕ける音が合図のように辺りに響いた。  
雑魚達が奇声をあげながら一斉に散ってゆく。  
何事かと視線を投げた。  
砕かれた向こうから、巨大なおぞましい生物が姿を現したのである。  
「何よこれ……!」  
植物のような、それにしては生物くさい大きな魔物。  
数本の野太い触手が活発に蠢き、巨体に似合わぬ身軽な動作を見せる。  
異様な配色。  
見覚えがある。  
アリーシャ達がディパン城に潜入した時、三賢者の一人に会う前に出くわしたあの化け物だ。  
いや、違う。  
あの時もでかかったが、今回は更に一回り大きい。  
「成長してやがる……」  
背後にいたエルドが呟いてから舌打ちした。  
セレスは何となく察しがついた。以前の騒動の犯人はこの魔物だろうと。  
地下にいたはずのものが地上へと這いずり出てしまったのだろう。  
何かあるだろうと予想をしていたとはいえ、暴かれた正体に誰もが顔面蒼白だった。  
知能の高い、巨大な不浄の植物。  
丸太のような触手を振り回すとその先にある障害物は簡単に破壊された。  
殺傷力も移動能力も格段に上昇している。  
「退けっ!」  
その場から散るように撤退したが、一人立ち竦んだまま動かない者がいた。  
探索に同行してくれていた兵士である。  
「何をしている!?早くっ!」  
叫んだが、誰もが歴戦の勇者達のように動けるわけではない。  
彼は恐怖でもたつき、ついにはよろめいて尻餅をついてしまった。  
「くっ!」  
嘲笑うように触手が空を切る。確実に獲物の急所を狙ってきた。  
何とか間に合ったセレスが猛攻をすんでのところで薙ぎ払う。  
それがスイッチになったのか、兵士は悲鳴と共に脱兎のごとく逃げ出した。  
しかし逆に残されたセレスが窮地に追い込まれる。体勢を崩した彼女目掛け、触手が一斉に襲い掛かったのだ。  
そこで的確な射撃の援護が入る。  
体液が吹き散り、触手達の軌道が次々に逸れた。  
「あっ!!」  
暴走した触手に衝突され、弾き飛ばされてしまった。  
柱に激突しかけたところを力強く抱きとめられる。  
目を開けると不機嫌を丸出しにしたエルドの腕の中にいた。  
「……ありがとう」  
「色気ねえな。鎧なんかつけたまま抱かせるなよ」  
つまらなそうに吐き捨て、セレスを離す。  
「カスなんざほっとけよ。お前踏み台にして生き残られても俺に嬲り殺されるだけだぜ」  
「エルド―――」  
暴言を咎めている暇もない。  
触手は剣となり矢となり、次から次へと襲い掛かってくる。  
ミサイル系の飛び道具まで備えているのだから厄介極まりない。  
芳しくない状況の中、エルドが冷静に呟いた。  
「いけそうか」  
「え、ええ」  
覇気のない返答。訝しまれたが、こんな所で弱音など吐けない。  
「……そこまでやわじゃないわ」  
「じゃあ援護してやる」  
この男らしからぬ申し出だった。  
昨夜のことを少しは気にかけているのだろう。  
攻撃態勢を整える暇もなく、左右に飛び散った。  
 
気まずい最中とはいえ、戦闘ではやはり心強いことこの上ない。  
申し合わせたような援護は的確だった。相変わらず他人という駒を動かすのが上手い。  
セレスの動きをうまくつないでくれる。  
射手は戦局を左右した。  
一発の狙撃がうまい具合に命中し、部位を切断し、弾き飛ばす。  
「やっちまえっ!!」  
勝利への血路を開いた死神の合図。  
好機到来。  
この機を逃せば確実に全員に死が舞い降りる。  
不調などに付き合っていられない。戦士は剣をぐっと握ると、鋭い目つきで跳躍した。  
斬った。  
とにかく斬った。  
千切れた触手と体液、絶叫が鮮やかに舞う。  
光が沸き起こり、その度に命の煌めきが削られていった。  
跳躍。  
斬る。  
繰り返す。  
解体されてゆく。  
思い起こすのは血腥い戦場。  
狂気の中で血沸き肉踊る感覚が鮮やかに甦る。  
 
 
 
やがて動くものが見えなくなった。  
体液の海の上、肩で荒い息を吐きながら立ち竦むセレスは、戦闘の終了を心底から安堵していた。  
熱い。  
心臓が爆発しそうだ。  
汗がぽたぽたと前髪からも滴る。  
精神の不安定、体調の悪さも後押しして、抑制できる限界地点まで高揚している。それを何とか押し込めた。  
「はぁ…はっ……」  
目の前が霞む。  
ふらつき、揺らめき、立ち位置がわからなくなる。  
ああ、でも。  
良かった。  
終わったのだから。  
ギリギリだった。  
これ以上、やったら――――  
だが。  
「セレスー」  
イージスの呼び声に笑顔で振り向いた瞬間、即座に凍り付いた。  
束の間の勝利を思い知らされたからだ。  
「後ろっ!!」  
滅多打ちにしたはずの相手が凄まじい再生能力を発揮し、ゆらりと立ち上がっていた。  
おまけにうようよと、周囲から更に何匹もわいて出てきた。  
遊ばれていたのだ。  
立て直す暇など欠片もなかった。気付いた時にはすっかり囲まれていた。  
強さも再生の速度もアリーシャ達が戦った時の比ではない。  
確実に成長している。  
追い詰めた獲物の動揺を楽しみ、まるで挑発するかのような動きをする。  
優位の誇示。  
だが彼等の思惑に反する女が獲物の中に一人混じっていた。  
窮地の真っ只中、セレスは必死に己を保とうとする。  
いけない。  
楽しい。  
わくわくしている――――  
 
ドクン。  
「嘘だろ……」  
背中合わせになっているイージスの青ざめた呟きすら、もう聞こえなかった。  
ざわざわする。  
すぐそこにある、越えてはならない壁の向こう側がわかる。  
異界の扉。  
だめ。だめだ――――  
ぎゅっと目を瞑る。  
その時。  
『おかえりなさい』  
心に巣食う、ゼノンの姿をしたそれが、嗤った。  
ぷつんと何かが切れた。  
不意にイージスを狙って飛んできた、大木のように太い触手。  
それが面白い程すっぱりと切れて吹っ飛んだ。  
体液を撒き散らしながら暴れ狂う魔物の絶叫が轟く。  
何が起こったかわからず、呆然と異形の醜態を見つめるイージス。  
その緊張した瞳が、ゆっくりと、女を映す。  
「セレス……?」  
戦慄する。  
今魔物の腕を吹っ飛ばした女。  
そこにはセレスの姿をした、セレスではない違う女が立っていた。  
纏う空気があからさまに違う。  
外見的に変化があったわけではまったくない。  
なのに、危うげだった女は打って変わり、獰猛な獅子を思わせる立ち姿をしていた。  
その奇怪な女がゆらりと揺れる。  
彼女が一歩を踏み出すと、魔物達が一斉に引いた。  
女の横顔は研いだばかりの刃物のようにきれいだった。  
赤い呼び声に応えてしまった時、セレスは正常という地面から、飛び立った。  
 
 
 
彼女の場合、ただ力に溺れ、闇雲に動くものを殺したがる狂戦士状態になるというわけではない。  
むしろ頭は非常に冷静である。  
なのに血は逆流するかのように沸騰して、血液が大量に目に映ることを激しく望んでいる。  
そのくせ精神は氷塊のごとく落ち着き払い、勘は隅々まで冴え渡る。  
稀有な凶刃。  
彼女は己が愛する男ほど、その実質を掴んでいない。  
ある意味純粋で、非常に性質が悪いとも言えた。  
若い頃は戦争という名目のもと、その力を惜しみなく振るうことが正義だと信じていた。  
ラッセン侵攻後は平和という宝石をちらつかせた写本に導かれてしまった。  
そして今は――――  
女はただ立っていた。  
いや、女というよりは、斬鉄姫。  
後世に名を残し、現在も語り継がれる炎色の姫君。  
豪然と。  
すべてから圧倒的な威圧感を醸し出しながらその場に存在していた。  
自然に口元が笑っている。  
全身に広がる爽快感に酔っているせいもある。  
その微笑は恐ろしい程に彼女を際立たせ、美しく仕立て上げる。  
味方でさえつい気圧され、後ずさってしまう程の存在感。  
魔物達も突然変貌した女に動揺していたが、数で勝負とばかり、攻撃を仕掛けてきた。  
だが手段としては悪手でしかなかった。  
今のセレスには力押しの手管など通じるはずがない。  
小さな隙間を縫い、最小限の動作のみで獰猛な攻撃をかわしてゆく。  
荒くれる触手に天井が破壊されて轟音が響き渡り、ぽっかりと空いた穴から月と星屑が見えた。  
誰も女を捕らえることなどできない。  
 
とん、とん、とん。  
伸ばされた触手さえ軽快に足蹴にして、さらに高く舞い上がってゆき、ついには外へと出ていってしまった。  
その獣は自由だった。  
楽しい。殺したい。もっと手応えのある相手と戦いたい。  
もっともっともっともっともっと  
「おいっ!!セレス!!」  
突然の豹変に仰天したイージスが慌てて後を追ってくる。  
女は既に逃げるために凌いでいるわけではなかった。  
まさに剣と一体化していると行っても過言ではない、それは完全に攻めの体勢だった。  
セレスが通った後には生命の残骸、血と肉の塊が残されるだけだ。  
土煙と赤い炎が狂おしく舞い踊る。  
早すぎてついていける者は誰もいない。  
女の目には燃え滾るような熱と凍り付くような冷温が共存していた。  
剣を握りしめる。  
今なら誰にも負ける気がしない――――!!  
 
 
 
その後はただ、廃墟に魔物達の断末魔の悲鳴があふれ返るだけだった。  
月夜の晩、数百年前に死したはずの英雄が熱風と共に舞う。  
紅炎。  
あまりにも人間離れした動きだった。  
かつて黒光将軍だった頃、十倍とも言われる故郷の水軍相手に戦い続けた女。  
疾風は何度も凶悪な弧を描き、魔物の肉体を分解し、飛散させる。  
たちまち血液色をした狂気の世界が出来上がる。  
瞬時に屍が生成される阿鼻叫喚の地獄絵図を駆け抜けてゆく一騎。  
やがて数体が待ち構えるあからさまな罠の中へ、明らかに無謀なのをわかっていて突っ込んでいった。  
多角からセレスという一点に向けて、ここぞとばかり凶器が集う。  
「セレッ」  
息をのんだイージスの硬直も無駄に終わる。  
セレスはふっと微笑み、炎の髪をなびかせて、己が使用できる唯一の魔法を唱える。  
攻撃力上昇の魔法。  
彼女を飲み込んだ触手の群れは、パン、と破裂するように切り刻まれて大破した。  
「嘘だろおぉおおぉおっ!!?」  
凄惨すぎて信じられない。驚愕にまみれたイージスの悲鳴があがる。  
生きた体液が死んだばかりの魔物の身体から派手に飛沫あげる。  
まるで演舞。  
赤髪がさらりと踊る。  
魔物達を恐怖に陥れている女は今、紅蓮の宴に華を咲かす異界の舞姫のようだった。  
最早この世のものであることすら忘れてしまったかのようだ。  
「セレス!やめろ、止まれっ!!やめるんだ―――――っ!!」  
足場の悪い瓦礫の山。もたつきながらも来た道を戻りながら、イージスは夢中で追いかける。  
届かないとわかっていても必死で叫び続けるしかできない。  
この場は凌げるだろうが、そんなことはもうどうでもよかった。  
ただただ否応無しに痛感していた。  
かつて仕えた王家の血筋が如何に人として優れていたか。  
そして如何に破滅と背中合わせのものかを。  
ドラゴンオーブを絶えるまで守護し続けた一族の根源。  
不死者王と呼ばれる程の男を輩出し、戦乙女と融合などという偉業を成し遂げたあの王女の血筋。  
斬鉄姫。  
妹。  
無力を痛感する髭面がこれでもかと歪む。  
もう手が届かなくなってしまった。  
この一年、もっと早く決意さえしていれば、いくらでも何とかできたのに。  
後悔だけがせり上がる。  
 
「セレス――――――――ッ!!」  
 
 
 
「何他人事いってんだよっ!!こうなったのもお前がとことんまでセレスを追い詰めた所為じゃねーか!!」  
殺戮の最中、誰かの非を責める罵声が微かに斬鉄姫の耳を障る。  
何処かでイージスの怒号が飛んでいるようだ。  
「止められもしねえくせに!!役立たず!!」  
誰かを咎めているのだろうか。  
ああでも、もう、どうでもいい。  
戦闘に酔いしれる女は交戦に関係ない疑問を投げ捨てた。  
「あいつならっ!!」  
悲痛な罵声も巻き起こる紅炎によって無残に掻き消され、斬鉄姫の耳には届かない。  
ただ紅が闇を焦がし続ける。  
 
 
 
数十分もかからず、湧き出る魔物達は再生を停止していた。  
屍骸の氾濫する只中、欠けた月を背に、カミール17将に数えられた女が立ち尽くしている。  
感情の点らない表情には失望が滲んでいた。  
「弱い……」  
魔物達はその数でもってすら、彼女を満足させるまでには至らなかった。  
ただ図体がでかく、再生が早いだけ。こんなものは強者とは言えない。  
斬鉄姫は空を振り仰ぐ。  
足りない。  
次の相手をさがしに行こう。  
そう決意して踵を返した時だった。  
「セ…セレス……」  
崩れた城壁の向こうからイージスが現れた。  
そこにはいつものように彼女に優しい笑みを浮かべる男はいない。  
冷や汗と武者震いを伴い、どう見ても腰が引けていた。  
明らかに理解の追いつかない異物と化した女を畏怖している。  
「怖がらなくてもいい。貴方には恩がある」  
害意の無を仄めかすと、抱く恐れを見透かしたように微笑み、にっこりと笑った。  
「今までありがとう。私、行くわね」  
「……だめだ」  
震え声の否定を受けると、セレスの整った顔立ちにおさまる緑の瞳が薄く揺らいだ。  
「どうして………?」  
全身を引き裂かれるような悪寒が走る。  
吹き飛ばされんばかりの気迫。  
戦場でこそ燦然と輝く女なのだと思い知る。  
だが。  
この女を今、野に放つわけにはゆかない。  
確かに強大な力の持ち主ではある。だが今現在、決して正しい存在とは言えない。  
あまりにも純粋すぎるのだ。  
それこそ何処ぞの国家にでも属せば戦火を煽る大嵐となりかねない。  
先達は杖を握り締め、腹の底から搾り出した。  
「戻って来いセレス……!!」  
呼ばれた女が静かに、ゆらありと笑い、その赤い唇を開こうとした時だった。  
「よう」  
斬鉄姫の興味が不意に逸れる。  
「あらエルド」  
足元の瓦礫を蹴飛ばして、同期である死神が現れた。  
『斬鉄姫』とは初対面ではないせいもあるのか、イージスとは違い平然としている。  
「ずいぶんと久しぶりだな」  
「そうね。数百年ぶりだものね」  
 
「また派手にやらかしたな」  
「そうかしら。昔に比べたら可愛いものでしょ」  
冷や汗だらだらのイージスには奇妙でしかないおかしな会話だったが、二人の間では通じていた。  
元青光将軍がすたすた歩いていって、元黒光将軍の目前でぴたりと止まる。  
向かい合ったままお互い腹を探り合うような数十秒が過ぎた。  
「どいてよ」  
「どかしてけよ」  
そのやりとりがおかしかったのか、無表情だった斬鉄姫がふっと吹き出した。  
しばらくくすくすと鈴を転がすような笑い声が漏れる。  
それは余裕を含む、高みからの笑い。  
もうエルドの手におえるような女ではない。  
美しい鈴の音は緊迫した場面に異様に高らかに響いた。  
「殺してかねえのか?ムカついてんだろ」  
問いかけに笑い声が途切れる。  
確かにセレスの目の前には今、一年間辛酸を舐めさせ続けてくれた卑劣な男が静かに立っている。  
殺意を問われた斬鉄姫は感情の読めない双眸でじっとエルドを見据えていたが、薄く微笑みを灯したまま首を横に振る。  
そして言った。  
「一緒に来る?」  
信じられないほど優しく、澄んだ声色だった。  
だがそれは伴侶としての誘いでは決してない。  
弓闘士としての腕を見込んだ故の申し出なのが薄々ながら感じられた。  
いざなわれたエルドの表情は変わらない。  
少なくとも表面上は。  
「お姫様の仰せのとおりに……………と言いてえところだが」  
必要とされたにも関わらず、小さく苦笑する。  
「それは俺がほしい答えじゃねえな」  
別の答えを求められたセレスは少しだけ悲しげな困惑を見せた。  
「それは無理よ」  
この一年、セレスがずっと彼に与え続けてきた返答。  
エルドにとって不都合な真実は、彼女が覚醒しても変わらなかった。  
結局は、そばにいると言っても、心は近くに無いという残酷な露呈。  
俯いていた死神はぽつり呟いた。  
「そうか……」  
そして顔を上げた。  
見慣れた童顔がそこにあった。  
だが。  
「こんな時に、そんな理由じゃねえと、俺は必要だって言ってもらえねえんだなぁ」  
童顔は今まで一度も見せたことの無い、今にも壊れてしまいそうな、とても悲しい顔をしていた。  
セレス側に小さな揺らぎが生まれる。  
たまゆら。  
それは本当に一瞬の出来事だった。  
隙をついてエルドの身軽な体躯がすいとセレスの背後に回ろうとした。  
窮鼠猫を噛む。  
うな垂れていた相手の豹変と急襲。  
だがセレスも並外れた能力を最大限に発揮している最中。  
異様な動きを見せた死神に身体が勝手に反応しまい、意識を問わず剣が舞う。  
ムーンファルクスが容赦なく彼を斬りつける。  
だがエルドの手が長い赤髪を掴み、勢いよく引っ張る方が一瞬だけ早かった。  
ぐん、と力を加えられ、女の顎が仰け反る。  
「戻って来い」  
そして叫ばれた。  
とてもよく似ている声で。  
 
「―――――――――この豚野郎ッ!!!」  
 
 
 
背後で誰かが倒れる音がした。  
だがセレスに振り返る余裕はない。  
仰け反らせた格好から元に戻ると、がくんと膝をつく。  
そのまま身体が折れて地面に手をついた。  
目は見開いている。  
暴走状態は解除されていた。  
「そうか…」  
『あの感覚を思い出せ』  
「そういうこと……」  
動けなかった。  
想い人の真意を理解してしまったからだ。  
本当に嫌がらせではなかったのだと。  
「戻されたんだ……」  
真実が疑念を浄化してゆくように脳内を駆け巡る。  
あの時、やはり向こう側に行きかけた自分を、こちら側に引っ張り戻してくれたのだ。  
即時にでも戦いたいはず。いつだって紅蓮に燃え盛っていた方が彼に都合がいいはず。ずっとそう思い込んできた。  
だが提示された真実は違った。  
奥底に何を飼ってようが、扱うのはテメエだろう。  
喰われるな、と言う戒め。  
それを教え、施してくれたのだ。  
ずっと、イージスやソファラにあれだけ教えられてもどうしても信じられなかったものが、急激に身に染み込んでくる。  
「本当なのね……」  
でも、ここに来てはくれなかった。  
来るつもりもないのだろう。  
あれだけちょっかいを出しておいて、こんなに熱くさせておいて、知らんぷり。  
連れていってもくれず、迎えにきてもくれず、一人で流れていってしまった。  
やっぱり。  
「……酷い人」  
 
 
 
「はあ、はぁ…ぐぅ…っ……」  
「!!」  
目を見開く。  
慕情で満たされた思考は、苦しげな喘ぎ声により一瞬にして砕け散った。  
真後ろで、斬鉄姫の刃を正面から受けた男が倒れている。  
「エルドっ!!」  
慌てて走りよろうとしたがバランスを崩し、地面に倒れこんだ。  
急激な変化から戻ったばかりのせいで身体がうまく動いてくれないようだ。  
「く……っ」  
必死で這って近寄るが、瀕死の男は彼女を乱暴に振り払った。  
それはそうだろう。凶悪な一太刀を喰らわせた相手だ。  
セレスは混乱と自責の念で押しつぶされそうだった。  
「ご、ごめんなさい……っ」  
「もう……いい…」  
加害者を責めない声は、全てを諦めたような音を纏っていた。  
「やっぱり…お前は……………」  
言いかけて途切れる。  
赤い。  
傷口から、ただただ赤が広がってゆく。  
「いやっ!エルド!エルドしっかりしてっ!!」  
どうすることもできない。  
 
後悔で支配され真っ青なセレスが涙目で叫び続ける。  
「エルド…!!」  
その時だった。  
回復魔法の白い光がエルドをふわりと包み込んだ。  
驚いたセレスが顔を上げる。  
その先には。  
「兄さん!!」  
その魔法を施してくれるとは到底思えなかった男が、回復魔法を放った手を引っ込めて、疲れ切った顔をそのままに二人を見降ろしていた。  
「ま、働きに応じてっつーことで。応急処置だけどな」  
驚きつつも睨み上げる弓闘士ににやりと笑う。  
「わかってくれたみてえだしな」  
指摘を受けたエルドは童顔をこの上なく渋く染めたが、  
「くっそ………――――――ぉおおおおおっ!!」  
咆えて拳を地面に落とした。  
乾いた鈍い音と共に、  
「結局こんなオチじゃねぇか……」  
そう零すと、今度こそ終わったとばかり、後方に倒れた。  
セレスの変化しない想いをついに認めたのだ。  
「本当はわかってたんだろ」  
少々嫌味な追い討ちをかけてからイージスがセレスを見やる。  
にやりとした表情からは、やったな、という耳にできない声が聞こえたようだった。  
セレスは少し困った顔で微笑み返す。  
帰結。  
歪んだ関係はやっと終わりに辿り着けた。  
 
 
 
ところがそううまく終わりは来なかった。  
這い蹲っていた魔物達がもぞもぞと動き出し、一斉に立ち上がったからだ。  
すっかり気を抜いてしまっていた三人ともが揃って凍りつく。  
おぞましき脅威。  
目の前には再度異形達がひしめき合っていた。  
完全には再生していないもの。他のものとくっついてしまったもの。  
人外のおぞましい奇声には大量の怒りが含まれ、波動となって感じられた。  
ただでさえ不死の流れをくむ生命体。それがこの数。現在の三人ではもうどうしようもない。  
「何とか凌ぐぞ」  
轟然たる中、意を決したイージスが前に出る。  
それをエルドが制した。  
「下がってろ。俺が盾になって血路を開く」  
意外な台詞にイージスもセレスも目を丸くした。  
「何を言ってるの」  
「お前こそ何言ってんだよ。俺なんざもう用済みだろ?どうなったって関係ねえくせに」  
皮肉げに口角を吊り上げる。  
「けど守るって言っちまったからな。仕方ねえ」  
弓をつがえる。  
決死の覚悟が伝わってきた。  
「エルド!」  
「喚くなよ。ぶっ倒れんの見るのが気ィ咎めんなら死んでも立っててやるから」  
セレスの手を投げやり気味に払いのける。  
「行けよ」  
「ふざけないで!」  
「早く連れてけ溺死大先生」  
微妙な顔つきをしていたイージスだったが、とにかく時間がない。  
決断を迫られた先達はエルドの提案を採った。  
「時間がねえ。行くぞセレス」  
「そんなっ!兄さん!!」  
 
「行くんだ」  
ぎょっとしているセレスの腕を強引に引く。  
「だめ……っ!!」  
セレスが犠牲を出してまで生き延びるという選択肢を拒絶した、次の瞬間。  
突如として空から魔力を帯びた数多の矢が降り注ぎ、魔物達の断末魔の悲鳴を誘った。  
「えっ!?」  
突然の援護はエルドの射撃ではない。  
空気を孕んで外套がまう。  
その射手は軽やかに地面へと降り立った。  
同時に、鮮やかな緑色をした長髪がこぼれる。  
三人が息を呑むのと、その人物がフードを取り払い素顔を現すのが同時だった。  
「よっ」  
「ルーファス!!」  
「ったくお前ら相変わらずだなぁ〜感動の再会もこんな修羅場かよ。勘弁しろっての」  
呆れ果てた視線を投げかけてくる。  
それはあまりにも懐かしい顔だった。  
アリーシャ達と共にあの異世界に残ったはずの仲間。  
その男が別れた時と寸分違わぬ姿で現れたのだ。  
喜びと安堵が迸る。  
だがこの緊迫した事態に、変わらずの軽い態度は、どこか違和感を感じた。  
「お前どうやってここに」  
「アリーシャ達は……」  
イージスとセレスから溢れ出そうとする疑問の波を制する。  
「話は後だ。そんな悠長な場合じゃねえだろ」  
わらわらと群れる魔物達は今にも襲い掛かってきそうな勢いである。  
「だな……」  
「とりあえず少しばかり移動しねえか。そうだな、もうちょっと高いとこだ」  
「高いところ?何か考えがあるの?」  
「あーうん、まあ」  
どうでもよさそうに頭をかく。  
何だかおかしい。  
久方ぶりの再会相手はあまりにも平常すぎて、地に足がついていない気がした。  
だが今は彼に追従するしか、もう術はない。最早賭けに近かった。  
ルーファスは悠長に辺りを見回す。  
四方八方から浴びせられる殺意をものともせず高い場所を指した。  
「そんじゃ――――あそこまで」  
「あ、ああ……」  
イージスも違和感を隠し得ないらしいが、言い出せずにいる。  
ルーファスには違いないのだが、何かが確実におかしい。  
「おうエルド、せっかくの見せ場に茶々入れて悪かったがよ、腐ってねーでいっちょ援護頼むわ」  
と言って、むくれている童顔におもむろに手のひらを向ける。  
回復魔法なのだろうか。イージスの何倍も強力な白い光が放たれ、あっという間に完治してしまった。  
圧倒的すぎる魔力。施されたエルドも見ていた二人も思わず息をのむ。  
「……ケッ」  
悪態をつきつつ、渋々ながらも弓闘士は立ち上がった。  
それを確認すると半妖精の視線が軽戦士へと移る。  
「セレスいけるか?」  
「誰に言ってるの?」  
強気な女に即答を受けてしまい、問いかけた方が苦笑した。  
何とか攻撃をかわしながらルーファスの指定した箇所まで登りつめた。  
後はない。  
ルーファスに全てを任せるだけだ。  
下方からは悪意がうようよと群がっている。  
「さあってと。久しぶりだからなー。ちゃんとできっかな」  
だが当のルーファスはのんびりと、どうでもよさげにがりがりと頭をかいた。  
 
「おいこらここまで来て今更そりゃねえだろ!」  
生死の境目で慌てるイージスを尻目に、余裕の滲む笑いを零す。  
そして弓矢をつがえながら答えた。  
「力の加減が面倒でな」  
数秒後、ただただ唖然呆然となるしかできない数分間が開始される。  
弓矢と共に放たれる光の束。  
幾重にも重なる複雑な魔方陣が強烈に照り輝く。  
彼の必殺技は旅の途中一度パワーアップしたが、それ以上の力を漲らせ、いかんなく発射された。  
すさまじい爆風が湧き起こる。  
降り注ぎ爆発する光の圧倒は、無数の魔物達を跡形もなく消してしまった。  
「すげ……」  
有無を言わさぬ超人的な能力。  
ルーファスの背後、脱力するイージスに強風から守られていたセレスも、無言で同意していた。  
「浄化完了〜っと」  
そんな大仕事をやってのけた男がすらりと弓をさげる。  
明らかに雑魚が相手だったと言わんばかりの適当な終了の合図。  
その場に残されたのは4人だけ。  
そうしてセレス達は絶体絶命の危機を、旧友のほんの少しの手助けで脱してしまったのである。  
「そうか……」  
立ち上がった時、セレスは気付いた。  
「アスガルドで……もう一度ユグドラシルへ登ったのね」  
指摘されると半妖精はご名答と言わんばかり、にやりと笑った。  
違和感の正体は、普段どおりにしていても滲み出す神々しさ。  
神。しかもグングニルを手にし、主神となったのだ。  
アリーシャと共に勇敢に道を切り開いていったあの半妖精が。  
そう思うと、いやに感慨深い。  
地面に降り立つと、あれ程しつこかった魔物達は見事に跡形もなく壊滅していた。  
「大変だな。お前がいちいちミッドガルドに降りてきてこんな手間な仕事までしなきゃいけねえのか」  
「いや本当は止められてるんだけどな」  
表情が見る見る間に暗く翳ってゆく。  
「つうかもう…何ていうか…もう…聞いてくれよ〜〜あのフレイってねーちゃん怖えよ〜〜」  
以下延々と豊穣の女神に虐げられる新主神の悲惨な愚痴が続く。  
話自体は愛する王女との思い出を胸に半妖精が神界で奮闘する壮大な物語なのだが、いかんせん語り手がコレなので  
どうしようもない。  
泣き言は放っておくと終わりそうもないので、痺れを切らしたイージスが合間を見て話に割り込み、礼を口にした。  
「すまねぇ。そんな大変なのに、わざわざ俺達の為に来てくれたんだな」  
するとルーファスは途端に無表情になり、ぽりぽりと頬をかいた。  
そしてばつが悪そうにイージスとエルドを見やる。  
「いや。すまん。ぶっちゃけお前らだけだったら助けになんてこなかった」  
「はぁっ!?何だと!?」  
「すまん!正直者ですまん!!だって怖いんだよ本当あのねーちゃん!!解放したエインフェリア達とは関わるなって!!」  
ずいぶん盛大に尻に敷かれているらしい。  
イージスもやれやれと言わんばかりに腕組みする。  
「じゃあ何で来てくれたんだよ?」  
「それはだな……」  
そそそとセレスに近寄り、  
「まあ、そういうことだ」  
ごほんと咳をする。  
セレスが「えっ?」と驚くと同時、エルドが盛大に引き攣り、イージスが何とも言い表しがたい顔になる。  
それを見てルーファスの表情も渋味を増す。  
三者三様の反応が、どれも気に入らなかったらしい。  
「違うだろ……ほらっ、セレスは俺にとってどういう人よ?」  
ヒントらしき台詞をちらつかせて回答を促すも、  
「……」  
疑惑の眼差しの集中砲火だけで、誰も答えない。  
エルドが無言で弓をつがえる。  
 
「アホども!!ちょっとくらい察せよ!!かーっまったくこれだから」  
不満爆発と共に左手を拳にして突き出した。  
薬指の指輪が輝く。  
「俺のたった一人の女神をずっと心配して大事にしてくれてた人だろ!!」  
飛び出したのは何ともこの半妖精らしい、至極誠実な答えだった。  
「ルーファス……」  
勢いに任せて本心を吐露してしまったのが恥ずかしくなったらしい。  
後頭部をかきつつ照れ笑いした。  
「まぁ、彼女はエインフェリア全員のこと気にとめてたけどさ。あんたに何かあると特に悲しむ気がしちまって。  
 つい、いても立ってもいられず、な……」  
何だか胸が熱くなる。  
アリーシャが望んだ未来を作る為に神となった半妖精。  
あの子は何も、存在すべてが掻き消えたわけではないのだと実感できて、目頭まで熱くなる。  
思い出の中の少女がそっと微笑んだ気がした。  
 
 
 
「そうだセレス」  
「何?」  
新主神が不意にごそごそと取り出したのは、透明で厚い破片だった。  
「使うか?」  
きらりとした輝きを無造作に差し出される。  
見覚えがあった。  
世界のありとあらゆる場所へ移動が可能、離れた相手とでも自由に会話できるという、それ。  
「水鏡の破片……」  
懐かしさがこみ上げた。  
これを使ってアリーシャ達は、あの最終決戦の異世界へと飛んだのだから。  
「とりあえず、話しかけるだけでもしてみりゃどうよ。目え閉じて念じてみな」  
主語はなかったが、暗にアドニスのことを指しているのはすぐにわかった。  
「……」  
セレスはしばらく思案した後、首を横に振った。  
小首をかしげるルーファスにすかさずイージスの解説が入る。  
「信じねえんだよ。あっちの方も、むしろあっちのがその気だって。こんなことに限って頑固だから」  
「はぁ?何だそれ?マジで?」  
やれやれと大げさな溜息をつく。  
鈍感にも程があるだろ――――口にしなくても目がそう言っている。  
「そこまではっきり言わないと駄目か?」  
そしてそれを容赦なく断言した。  
「お前らがっつり両思いだぞ」  
「………」  
神になった戦友にまで言い切られ、呆然としているセレスの肩に、ぽん、と先達の手が置かれた。  
「行けよ」  
「兄さん……」  
「幸せになれ」  
髭面は、ただただセレスの幸福を願う優しい笑顔をしていた。  
「ああでもそうだな、流石に今すぐとはいかないよなぁ。用意とかあるもんな」  
「だな。それにあいつのことだから何かどっか変なところに出そうだしなぁ」  
新主神とイージスはひどいことを言って朗らかに笑い合う。  
イージスの高らかな笑い声をセレスは久しぶりに聴いた。  
当然かもしれない。やっと肩の荷がおりようとしているのだから。  
「……」  
しかし同意は返せなかった。  
やはり彼は自分の元へと来なかったのだ。  
それに。  
「あの、そうじゃなくて……」  
「ヴィルノアにいる」  
 
意外な人物が話題に口を挟んできた。  
三人の注目が一斉に集まる。  
エルドだった。  
ついに訪れた決別に落胆を隠し切れない様子だ。ぐったりと座り込み、廃墟の壁にもたれ俯いている。  
「……何故知ってるの」  
小さく問われると投げやりに答えた。  
「そろそろ始末しに行こうと思ってた」  
「……」  
呆気にとられる。  
居場所まで調べ上げていたようだ。  
悪気もなくさらりと言うのが何ともエルドらしい。  
だが後に続く言葉は今までのものとは違っていた。  
「俺が行く必要がなくなったな。お前が代わりに行くんだから」  
セレスの目がまん丸になった。  
童顔から、はあ、と重い息が吐き出される。  
「これで終いだな――――せいせいする。偉そうに。わかったような口叩きやがってよ……虫唾が奔る」  
「エル……」  
「よるな。この化け物」  
それは彼自身が放つ矢のような鋭い一言だった。  
完全に以前のどす黒いエルドへと戻っている。  
吹っ切れたのか、硬直するセレスに次々と畳み掛けてきた。  
「うんざりだ。何だあの怪物じみた動きは。昔よりさらに磨きかかってんじゃねえか。  
 冷めたなんてもんじゃねえ。解放だか何だか知らねえがお前なんかもう手放しても惜しくも何ともねぇんだよ。  
早く行け。俺の前から消えろ化け物」  
手のひらを返したような暴言の羅列。  
気まずい沈黙が漂った。  
束縛からの確かな解放。だが放し方が辛辣かつ陰湿すぎる。  
しばらく言葉を発しにくい雰囲気が立ち込めたが、  
「悪り、話の途中だけど。そ……っそろそろアスガルドにもどらねえと、おおお俺の命が危ない」  
ルーファスの怯えを含んだ申し出に話題が逸れて、あっさりと空気が緩む。  
「ありがとうルーファス」  
せっかく再会できたのに、もう神界に戻ってしまう。生のあるうちにまた会えるとも限らない。  
名残惜しさを隠せない表情で礼を言うと、新主神は変わらない笑顔でにやりと笑った。  
そして確認するように水鏡の破片をちらつかせる。  
「……いいんだな?」  
「ええ」  
二人のやりとりを、イージスが不安げな顔つきで見ていた。  
「なあセレス」  
「何?」  
「あんまさ、あーだこーだと気負うなよ。彼女の為にもそこんとこ、どうかわかってくれ」  
多分セレスよりもアリーシャを強く想っている存在。  
そのルーファスにそう気遣われると気持ちが少し軽くなる。  
「……わかったわ」  
「んじゃ」  
踵を返し去りかけて、  
「ああそれから――――」  
振り向き、おもむろにびしっと指差してきた。  
「お前ら全員死後はもっかいエインフェリアな。しかも俺直属な」  
爆弾発言を残し、忙殺の日々へと高笑いと共に帰還してしまった。  
拒否する暇もない。  
とんでもない御託宣を授かったイージスとセレスはただ立ち尽くしていた。  
「ストレスたまってやがんな」  
「ええ……」  
戦友のこれからを案じていると、  
「冗談じゃねえ」  
どうでもよさそうにエルドが吐き捨てた。  
 
嵐が過ぎ去って気の抜けた面持ちの二人とはまったく違う。  
「……」  
無表情のセレスがもう一度歩み寄り、蹲っている男と対面した。  
「本当に行っていいの?」  
「知るか。お前が本来いるべき場所なんだろ」  
セレスが無言で動かずにいると童顔の闇が濃くなる。  
「……モタモタしてんじゃねぇよ。気が変わらないうちに消えろ。それとも今この世から消してヴァルハラで待たせてやろうか?」  
「お前この期に及んで……」  
本気でやりかねない男。あまりに度を過ぎた暴言にイージスが杖を握りしめた。  
だがセレスがそれを制す。  
長い時間を共にした彼女には、それが必死の強がりなのがわかるようになっていたからだ。  
「まったく。一つ気に入らないと全部投げ出す子供みたいね」  
イージスとエルドの表情に驚きが混じる。  
はっきりした口調には余裕が戻り、僅かな高圧混じりの語調が、一年前の彼女を思い出させたからだ。  
背筋もぴんと伸びている。瞳に宿る光も輝度を保ったまま。  
どうやら僅かな間とはいえ、覚醒したことが、彼女の精神に良い影響をもたらしたらしい。  
そのセレスが先達に向き直った。  
「兄さん、少し彼と話がしたいの」  
意図を察したイージスに大量の困惑が混じる。  
「セレス……」  
だがセレスは揺らがなかった。首を小さく横に振り、再度イージスを見つめる。  
「決めたの」  
「……わかったよ」  
兄はもう嘆息するしかできないようだ。  
「お前また早死にするぞ」  
それだけ言い残し、彼女の味方である先達は肩を落として退場していった。  
申し訳ない気持ちで満たされたまま、イージスが消えるまで静かに見送る。  
そして、かつて元将軍だった、そしてつい少し前まで恋人同士だった二人だけが残された。  
静寂の中、俯いたままのエルドの隣りにそっと腰を下ろす。  
やがてセレスが口を切った。  
「彼のところへ行くですって?冗談やめてよ。どちらかの首がとぶだけだわ。高確率で私のが」  
この世の終わりを迎えたような男が、苦笑雑じりの発言にぴくりと反応する。  
「ヴィルノアに定住してるなら、とりあえず私を捜してはいないってことよね?寝た子を起こすような真似冗談じゃないわ」  
空を見上げて笑う。  
意図が掴めないのだろう。エルドは目も合わすことなく無言のままだ。  
疑念に包まれる男の霧を晴らすため、更に言葉を続ける。  
「みんなして言いたいこと言ってくれちゃってるけど。  
 証拠はあるの?貴方や皆の勘違いかも知れないじゃない。私はそんな危険な賭けにはもう乗れないわね」  
ちらりと流し見て、ふうと息をついてからもう一度空を見上げる。  
「好きなだけじゃどうしようもないわ。あの人の生きる場所は戦場、死ぬ場所も戦場よ。私はもうそれに付き合えない」  
真横の死神が少しだけ顔を上げる。その微妙な眼差しがセレスの横顔に注がれた。  
「何にせよ、あの人は来なかった。一年経ってもこなかった。もう終わったのよ」  
息をついてから目を伏せて呟いた。  
「……合わす顔もないしね」  
沈黙が漂った。  
「どういうことだ」  
歪む童顔を真っ直ぐに見据え、ぴしゃりと言い切る。  
「ゾルデ移転の話もある。私にはやることがあるわ。二度目の人生、そうそう男のことばかり考えていられないってことよ」  
それは何とも彼女らしい答えだった。  
エルドはしばらく唖然としていた。自分の絶望とセレスの意見との食い違いに戸惑っている。  
「…いいのか……いいのかよそれで」  
そう何度も訊いてきた。  
微かに震える声には理解し切れない女への当惑と、そして僅かな期待が混じっている。  
そんな男から視線をそらさず、優しく諭すように伝える。  
「私は貴方を選ぶと言ったわ。そろそろ信じてくれてもいいんじゃないの?」  
「けど」  
 
「そうね――――…一年前、あの時確かに最後まで残っていればわからなかったかも知れないけど。  
 私がとったのは、やっぱりあなたの手だったってことかしら」  
ここまで言われてもエルドは心を許さず硬直している。  
差し出された幸福が信じられず、どうにも受け止めきれないのだろう。  
「……何が言いてえかよくわかんねえ。ずっと駄目だ駄目だって言ってたじゃねえか。何でいきなり……」  
多少拗ねているようなので、少し叱り付けるような口調で続けた。  
「だから。対等では不安かしら?今までみたいに何かある度に力で押さえつけるんじゃなくて、新しい関係を築く努力をしてほしいの」  
虚空ばかり彷徨っていた視点がゆるゆると仄かな光を帯びる。  
「本気かよ」  
まだ疑っている。  
予想外すぎたのだろう。  
一人ぼっちに戻るしかないと覚悟していた矢先なのだから。  
「何言ってるのかわかってんのか」  
セレスはひとつ頷き、未だ急展開に歪む童顔を覗き込む。  
「一緒に帰りましょう。ゾルデへ」  
道は選択された。  
エルドのとった決死の行動は一滴となり、その一滴はついに穴を穿った。  
超克の時。  
焦がれていた自然な微笑みが惜しみなく向けられている。  
エルドはやっとまた、以前のように笑ってもらえるようになったのである。  
それでもすぐには反応が返ってこなかった。  
しばらくしてから未だ納得がいかない、といった童顔がセレスを睨み上げる。  
鼻先がかするくらい顔を近づけ、大きく口を広げて、言った。  
「ば―――――か」  
「なっ!?」  
「ばかだろ。せっかくの逃げ出すチャンスをみすみす棒にふるなんざ」  
そして唐突に笑い出す。それがとても無邪気に見えて、あまりに楽しそうで呆気にとられる。  
おさまってきた頃、セレス側にはふつふつと怒気がわいてきていた。  
こちらはやっと決心ができたというのに、笑うか。  
「話を」  
聞きなさい!と文句を言いかけた唇を、まだ笑みの残る唇が急襲した。  
「ん」  
唐突の襲撃に目が点になった。  
有無を言わさぬ濃厚な口付け。  
「ん……ふ」  
十分交わってから銀糸をひいて離れた。  
「どうしようもねぇ馬鹿だなお前。本当に」  
闇のない笑顔からは幸福が零れる。  
背中に手を回されて優しく抱き締められた。  
「もうどこにも行けなくなったぞ」  
目前にあるのは初めて見る顔。  
何よりも誰よりも嬉しいといった表情。  
そうだろう。  
放ったはずの鳥が舞い戻ってきてくれたのだから。  
「――――で。俺はこれからどうすりゃいいんだ?」  
欲張りな男からの問いかけ。  
どうすればもっと心に近付けるかを請われて顎をつままれたが、  
「教えないわ」  
きっぱりと言い放った。  
「これから自分で考えて」  
厳しい返答。エルドの口角が不満で歪む。  
酷い難題を課せられ、表情にはやれやれといった渋みが増す。  
だがどこか嬉しそうだ。  
「あんまり煽るなよ……こっちだってできりゃ何事もなくうまくやりてぇんだからよ」  
もう一度口付けてから、手中の女を真正面から見据えて言った。  
「よしわかった。聞けよ。今から真面目に口説く」  
 
「え」  
ぎょっとして退こうとしたがそうは問屋が卸さない。  
「何言ってもいいんだろ」  
「べっ、別にいいわよ」  
「聞けよ。本当はもっと言いたかったことがいろいろあるんだよ」  
腰を抱かれて逃げ道もない。  
「いや、あの、ほんと」  
「セレス」  
悩ましく迫られてぎゅっと目を瞑る。  
だが微かな抵抗など無いも同然。  
「目開けてくれよ……セレス」  
 
 
 
武具が床へと投げ落とされる。  
矢筒から弓矢がざらりと流れ出た。  
「待って……」  
逃げおおせて無事だった兵士やイージスに後処理を任せ、昨夜と同じ家に戻るなり、気の早い男は早速迫ってきた。  
セレスは息つく暇もない。  
帰り着く間にも無駄に口説かれ、べたべたされていたので、既に心臓の鼓動が早い。  
「エルドっ」  
壁に追い詰められて手首をとられる。  
「疲れたし、その。今日のところは休まない?」  
困り顔の提案は即時却下される。  
お構いなしにずいと顔を近づけてきた。  
「俺も疲れてる。殺されかけたしな」  
ぐっと詰まるセレスを笑う。  
「こ、この物好きっ」  
「俺は物好きじゃない。何度言えばわかる」  
至近距離できっぱりと言い放つ。  
「俺の女は最高にいい女だ」  
あくまで真顔。  
そんな恥ずかしい褒め言葉を真っ向から投げつけられても。  
「待っ」  
「好きだって台詞も何度言えば受け取る気になるんだ?」  
更に詰め寄られて思わず目が泳ぐ。その隙をつかれて抱き上げられた。  
「やっ」  
「今確かめたい」  
寝台に持っていかれ、そのまま覆い被さられる。  
これからされる行為を思うと、ついぎゅっと目を瞑ってしまう。  
「セレス」  
まだ密着してはこない。  
体を重ねることへの赦しを請うているのがわかる。  
「……昨日、怖かった」  
少々拗ねてみせると、  
「ごめん。二度としねえ」  
早く触れてよいという了承が欲しいせいもあるのだろう、あっさり謝罪してきた。  
「ほんとに悪かったと思ってる?」  
眉間に皺を寄せて確認すると、  
「俺を選んでくれるんだろ。なら二度とああなる心配もねえんじゃねえの」  
そう返してきた。  
そして更にずいと迫る。  
「受け入れてくれ」  
ずるい。  
その幼い顔立ちで真面目に迫られるとあまりに真摯を帯びて跳ね除けようがない。  
「…………………物好き」  
 
ついに観念して目を伏せてしまった。  
それを確認後、まずはそっと兜をとられた。  
赤がさらりとシーツに流れる。  
各所の装備も手際よく外され、不要物となり床へと落ちる。  
されるがまま、戦士から女へと戻されてゆくようで。  
防具と一緒に心の鎧まで外されている気がして、恥ずかしさがいっそうこみ上げる。  
一通り防具を外し終わると太ももに触れてきた。  
びくりと波打つ。  
「どうした。やけに大人しいじゃねえか」  
淡々と準備を進める男はセレスの態度を不思議そうにしている。  
手中の女は焦げ付く程に真っ赤だった。  
「だ、だって、いつもと雰囲気が全然……っ」  
口付けも抱擁も全然違う。少し触れられただけでどうにかなってしまいそうだ。  
今まで一度も受けたことがない甘さ。  
甘いというより甘酸っぱい。  
手馴れた手つきにより衣類もだんだんと暴かれてゆき、白い素肌があらわになる。  
最後に手袋が床に放り投げられた。  
剥き終えた豊満な裸体を満足げに抱き寄せてくる。  
「ん……」  
舌を絡められると、肩を掴む指の先まで痺れてしまう。  
「何か違うのは当たり前じゃねえの?一山超えたんだからよ」  
言葉を紡がれる度、更に赤くなってしまっているのがわかるが、どうしようもない。  
エルドがいつもと違う。真っ直ぐな視線を決してそらさない。  
追い討ちのように、  
「好きだよ」  
と耳元で、らしくない素直な告白を囁く。  
眩暈でくらくらする。  
既におかしくなりそうだった。  
雰囲気が違う。違いすぎる。  
「ああ…、あん……やっ」  
戸惑う女の首筋を楽しむと豊かな胸に埋もれてきた。  
ぷるんと柔軟に揺れる乳房が男をむにゅりと受け入れる。  
一段と甘い喘ぎが喉から出てゆき、己のことながら信じられなかった。  
裸体が重なる。  
優しく撫で回されて思わず顎が仰け反る。格段に良い反応を返してしまっている。  
頭に霧がかかって何も抵抗できない。  
「セレス」  
言葉は砂糖菓子のように甘く、発されるごとに感覚はますます鋭敏になってしまう。  
「はあ…はっ……ああぁっ」  
色付く裸体を責め立てながらいつまでも口付けは降り止まない。  
「だから何赤くなってんだよ」  
からかわれたが反撃する余裕すらなかった。  
「恥ずかしい」  
「何だ今更」  
火照り顔を覆い続けていたら、邪魔とばかりに手をとられた。  
「やっ」  
「エロい顔見せろよ」  
「いや」  
必死で顔を背けるが、逃げ切れるわけもない。  
「もっと見せてくれ」  
困り顔の女と、手に入れた幸福を隠そうともしない男。  
だがそんな対比さえ何となく穏やかである。  
やがて男の手のひらは腹を撫で、下半身に降り、下腹部を撫で回し始めた。  
「お前が暴走し始めた時、もう何もかもどうでもいいと思った」  
「えっ、あっんんっ。はぁっ!ちょ…待……っ」  
「何でもするから、他のものなんてどうなってもいいから、元に戻ってさえくれれば……」  
 
いやだ。  
今そんな本音をもらされたら。  
大事に抱かれながら、ただ悩ましい喘ぎをあげ続けるしかなかった。  
初めてのような照れくさい交わり。  
いや。  
ある意味、『初めて』なのだろう。  
二人とも変に柔らかくなって互いを受け入れ、包み込んでいる。  
「エルド」  
火照り顔で名を呼ぶと応じて童顔が近づいてくる。  
眼差しが優しい。  
「セレス……」  
呼び合っても今までとは何かが違う。  
長めのキスが心にじんわり沁みてくる。  
銀糸をひいた後も真っ直ぐに互いを見つめ、微笑むことができる。  
「助けてくれてありがとう」  
「……ああ」  
ぎゅっと抱き締められた。  
本当の意味で繋がっている気がする。  
光も影も消え去った。  
ただ、髪や腕や肌が愛おしく感じる。  
やがて女の腕という輪をするりと自然に抜けて、男の顔が女体を降下していった。  
「はっ、ああぁっ……」  
脚を抵抗無く広げられるのは許容の証。  
既に十分濡れそぼる茂みの向こうを指が蠢き、舌がなぞる。  
躯が喜び、侵入してくる指をきゅうと締め付けてしまうのがわかった。  
「あっ……んん、ふぅっ。んっんっあっ」  
突然赤い芽を潰されて早くも飛びそうになった。  
「だめっ、エルド……ああっ」  
全身がびくびくと痙攣し、ちょっとした動きで何度も顎が仰け反る。  
濡らされるのが、更に濡れてゆくのがまったく嫌ではない。  
愛撫が長く、甘い。  
今までいつも気になってしまっていた、少し苦いような、冷たいような感覚がなく、本当に甘たるい。  
蜜がつうと伝うのがわかった。  
信じられないほど濡れている。  
「ひあっ!」  
吸い付かれた刺激で軽く達した。  
感情に抑制されない素直な性反応ができる。  
その後も休むことなく責め続けられて十分すぎる程高められた。  
「や……ぁあっ、んっ…気持ちいい……のっ、あっ!はぁっ、あっあぁ…」  
薄く汗ばむ肢体。混じり合う体温。  
身をよじり、蕩けた声で快楽を告げると、相手はいつもより嬉しげだった。  
当然かもしれない。やっと素直な反応をしてもらえているのだから。  
「そうしてるからな」  
その時、声色が少しだけ悲しげだったのがふと気にかかったが、優しく頬を撫でられて、さほど気に留めなかった。  
躯は色づき、程よく準備が整った。  
疼く。  
「はや、く」  
生理的に潤んだ瞳で懇願した。  
言わされるのではなく、自ら自然にねだることができる。  
応じて熱い滾りが挿入ってきた。  
「ああっ」  
仰け反る女の嬌声にはもう枷などない。  
ずちゅずちゅっと卑猥な水音と律動が混じり、紛うことなき喜悦が全身を駆け巡る。  
「やあっ、あん……いいのっ、…ルド……ああっ!んんっ、ぁあ…」  
抱き締める。  
抱き締め返す。  
 
多分、初めて愛し合っているのだろう。  
「はあっ、は…あ、やっ。エルドっ、エル……あっあっあっ」  
ずんと貫かれ、更にぐりぐりと弱い所に打ちこまれて、本気でおかしくなりそうになる。  
繋がっている。  
捩れた過去さえほどけてゆく気がした。  
「ぁあっ、エルドっ!!」  
我を忘れ、恍然と茶の髪を抱いた。  
突き上げられてももう拒む理由などない。ぎゅっと抱きついたまま更なる交わりを促す。  
「い……のっ。んっぁあっ!もっと、奥っ……!いいから、きてっ……!!」  
心の奥底でほんのり灯る小さな幸せを感じられる。  
「あ、あっ……!ん…ふぅっ」  
ひたすら責め立てられていたが、途中、ふと薄目を開けた。  
ここだ、というタイミングが見えた気がしたからだ。  
迷わず腰を使った。  
「………っと」  
エルドの腰が止まる。最中に突然の波を与えたことで驚かせたようだ。  
軽く睨まれたがセレスも引かない。  
「言ったでしょ。いつまでもされるがままじゃないわ」  
そう言って覆い被さる男の頬を撫で、微笑んだ。  
「上等」  
応じて相手もにたりと歪む。  
「貪り尽くしてくれよ」  
つながったまま、口で濃厚に絡み合った後、改めて責めを再開した。  
「んんっ」  
続く卑猥な水音。  
両胸を鷲掴んだまま耳朶を食まれてぞくんと打ち震える。  
体を、心を揺さぶられる感覚。  
わかりあえた喜びにあふれている。  
「好きだよ」  
「わっ、私もっ、……、これからっあっ、もっと…好きになってく、からっ、エルド……」  
言えなかった台詞がするりと喉を通っていった。  
もうすぐ高波がくる。迎える快楽の予感にぶるるっと打ち震えた。  
「エルドっ、エル…ああっ!や、ふぅっあ……ああっ!も、だめぇっ――――ぁぁあああぁぁああ―――っ!!」  
世界が真っ白になるのと同時、ひときわ甲高い嬌声が枷なく迸った。  
達した後はすぐに引き抜かれ、外で白濁を放たれた。  
ぐったりした肢体を重ねたまま、視線を重ねる。  
確認し合うように何度も口付けをして微笑んだ。  
二人にしてはとてもシンプルな交わり。  
けれど全然違った。  
ただ体だけ絶頂に追い込まれるのではない。  
どんな感情にも邪魔されない自然な嬌声をあげられた。  
何だか高い壁を二人で超えられたような気がして、とても嬉しかった。  
が。  
「もう一回な」  
たっぷりいちゃついた後、再度高みへ昇ろうといざなってきた。  
「えっ?え、ええっ?」  
仰天する。  
腰を抱かれてぐっと引き寄せられ、慌ててももう遅い。  
「まっまだするの?」  
「火ぃつけたのはお前だろ」  
当然と言わんばかりの口付けが降り注ぐ。  
「ちょっ……」  
しばらく戸惑ったが、今宵はある意味二人の記念日。仕方ないと割り切るしかない。  
すっかりされるがままに身を委ねてしまった。  
 
「もうだめ……」  
こうして、ある意味で死ねる一夜がこんこんと更けていった。  
 
 
 
目覚めると小鳥がさえずる朝が来ていた。  
光が柔らかく世界を照らす。  
薄目を開けたセレスの隣りに、床を共にした相手はいなかった。  
起き上がろうとしてやめた。  
疲れた。  
昨日の疲労が色濃い。いろいろな意味で。  
あの男にベッドの上で立ち向かうには、まだまだ修練が必要なようだ。  
「ああもう…また……」  
紅い花が無数に全身くまなく散り咲いている。  
「……あの悪ガキ」  
愚痴を漏らすも、それ程嫌な気持ちではなかった。  
一年前の初夜も同じくらいこの小花を残された。  
あの時は皮膚を剥ぎ取りたいと思ってしまうくらい嫌で嫌で仕方なかったのに。  
変われば変わるものだ。  
「……」  
昨夜の伽を思い出すと赤面するしか術がなかった。  
耳元で囁かれる甘たるい本音がくすぐったすぎて、別の意味で逃げ出したい交わりだった。  
そんな彼に自分はどんな顔で接していたのだろう。考えるだけで顔から火が出そうだ。  
でも。  
二人の関係は、ちょっとだが、確かに変われた。と思う。  
それに。  
「少しだけかわいかった…かな………」  
照れながら一人ごちた。  
容姿だけの話ではない。すべてひっくるめて、初めて心底からそう思えた。  
今までが今までなので何だか認め難い。  
本当に彼を選んでしまったんだな、と実感する。  
体に残る褥の感覚が妙に心の温もりとなって感じられた。  
確信する。  
大丈夫。  
これからもやっていける。  
………。  
それはともかく。  
「いたたた……」  
立ち上がると同時、よろけて台に肘をついた。  
腰が痛い。  
これからもあの絶倫男の相手をしなければならないと思うと少し気が遠くなる。  
そこでまた壮絶な照れが襲ってくる。  
そう。  
昨夜はついに心を許したことで、あられもない一面を惜しげなく披露してしまったからだ。  
誰もいないのに一人で慌てふためいて顔を覆う。  
あんな夜の後、どういう顔をして朝の挨拶をすればいいのだろうか。  
悩みながら清拭し、着替え終わるころ、扉の向こうで物音がした。  
「えっ、あっ」  
心の準備ができていない。どぎまぎしながら振り返る。  
そして瞬時に凍りついた。  
そこにいたのはエルドではなかったからだ。  
小柄な死神の代わりにいたのは大柄な汚い男だった。  
「おい、女だ」  
その一言とともに、仲間らしい男達が次々に顔を出した。  
いるはずのない異性に目を丸くして驚嘆の吐息を漏らしている。  
 
一人が殺意をちらつかせて前に出たが、  
「いや待て。すぐ殺っちゃ勿体ねえだろ……」  
陰湿に嗤い合うと、卑猥な言葉を投げつけながらにじり寄って来た。  
三人。  
様相が民や兵士達の証言と一致する。  
死地を荒らしまわる下衆な盗賊。  
こいつらか――――  
まとめていない赤髪が邪魔だった。  
昨日までのセレスならここでうろたえただろう。  
だが今朝のセレスは至極冷静だった。  
「あら」  
すぐそばに立てかけてあった剣を手にして、  
「相手をしてくれるのかしら?」  
挑発に近い不敵な面構えで下劣な輩を睨みつけた。  
悪漢を刺し貫くのは揺ぎ無き強い光。  
三つの下卑た嗤いが途端に消えうせ、一斉に後ずさった。  
ただの女ではない。  
察知し、全員が臆した時だった。  
真ん中にいた大男が背後から蹴り飛ばされて無様に地面に突っ伏し、物凄い音を立てた。  
えっ?と目を点にした間抜けな男の顔面には、目にも止まらぬ蹴撃が加わる。  
「……ったく朝っぱらから」  
息つく暇もない。  
三人のうち二人を瞬殺したエルドが入り口にて憮然として立っていた。  
大きな欠伸をした後、セレスをジロリと睨む。  
「おい一夜で即浮気はねえんじゃねえの」  
「なら放っとかなきゃいいでしょ。鍵開けていったのは誰よ」  
負けてやらない女は、つんとそっぽを向く。  
「ああやだやだこれだからお姫様って奴は」  
失態を突かれたエルドは不貞腐れ、視線を遠くに投げながら心底嫌そうに吐き捨てる。  
そんなやりとりのせいで完全に置いてけぼりの最後の一人が、害意をむき出して武器を構え直した。  
「おい!!」  
「うるせぇ三下。ぶち込むぞ」  
言葉を最後まで綴らせる気すらない。  
ドスのきいた声で殺意を吐き捨て、弓をちらつかせる。  
「んだとこのドチビがッ!!」  
セレスがその発言のヤバさに息を飲んだ次の瞬間。  
繰り出された容赦ない蹴撃が男を襲った。  
背後の柱に打ち付けられ、損壊と共に崩れ落ちる。  
「クズだな」  
気絶した盗賊を思いきり踏みつけてからぐりぐりと踏みにじる。  
心配することなど微塵もなかった。  
甘たるい夢のような時間はかき消え、一晩で元のエルドに戻っている。  
脱力した。  
輝いている………  
そうだ。  
人間そう簡単には変わらないか………  
彼が変わっていたらどうしようとか、無駄な心配をしてしまった自分に肩を落とす。  
その時だった。  
気絶したふりをして状況を伺っていたようだ。  
顔面に蹴りを食らった男が起き上がり、凶器を手にセレスへと向かったのだ。  
「!!」  
だがセレスが事を起こす前に、その男から凄まじい悲鳴が響く。  
今のセレスなら余裕で迎撃できる間合いではあったが、エルドの動きが幾分か早かった。  
再度倒れた男には一矢が命中していた。  
「汚ねぇ手でさわんじゃねぇよ―――――人の嫁さんに」  
泡を吹いて倒れた男を見下ろし、そう吐き捨てる。  
 
完全沈黙した盗賊達を確認してからセレスはエルドを流し見た。  
「今どさくさにまぎれて何か言わなかった?」  
「言った。――――何だよ違うのか?」  
「………………違わないけど」  
目を逸らすと、彼女が選んだ男は高慢に鼻を鳴らした。  
 
 
 
ゾルデへの帰路を辿る。  
エルドは何も言わないが、何気に歩みが遅い。  
昨夜腰を痛めたセレスに合わせてくれているのだろう。  
すっかり観念した賊を引き渡してからディパンを後にした。  
今回の一件で廃都に蔓延る危険を正確に把握し、ついにディパン脱出を決めた者が少なくない。  
大事になってはしまったが、とりあえずは大きな収穫と喜ぶべきところか。  
王家の地下道を抜け、薄暗い森に出た。  
「――――でもやっぱりちょっとやりすぎじゃない?」  
盗賊達への過ぎた暴力を軽く咎めると、  
「何だよしつけえな。褒めろよ。殺らずにちゃんと外してやったぜ。目玉にぶち込みたかったのによ」  
さらりと悪意を吐く。  
この死神の邪悪さには依然変化はない。  
「これでも結構気ィ使ってやってんだぜ。またお姫様にブチ切れられて逆襲喰らったらたまったもんじゃねーからな」  
「あら、わからないわよ。これから毎日気をつけてね」  
澄ましたセレスに速攻で言い返された死神は半目で口を尖らせる。  
「やな女」  
毒づく表情は微妙だが、少し元に戻った彼女を心底では喜んでいるようだ。  
つかつかと寄ってきて、何の脈絡も無く口付ける。  
触れて啄ばむだけのキスでも今は穏やかに甘い。  
唇が離れて浮かぶ互いの小さな微笑は、良い方向へ変化した関係を表していた。  
「さて……帰ろうぜ。お姫様」  
「ええ」  
いつもの言葉に当然のように含まれているはずの皮肉がなくて、セレスも素直に返事を返せた。  
だが初めての経験はこそばゆく、照れ臭くて思わず目が泳ぐ。  
多分言った本人も気付いていないのだろう。  
これからこういった日常をずっと積み重ねてゆくのだ。  
喪失の森を抜けた。  
春の大地には穏やかな光が射す。  
「いい天気だな」  
「そうね」  
空が青い。  
「すげー気分いい」  
「ええ」  
「今なら大丈夫だ」  
「え?」  
エルドの手から放り投げられた何かがセレスの頭上を弧を描いて飛び越え、さく、と地面に刺さった。  
振り返ると、音を立てて光の柱が立ち昇っていた。  
「これは、水鏡の破片……」  
ルーファスから拝借してきたのだろうか。  
「気が付いたら手元にあった。あのドヘタレ余計なことしやがって」  
訊ねる前にエルドから回答が得られる。  
更なる疑問が浮かぶ前に衝撃の一言が続いた。  
「行けよ。お前の居場所はここじゃない」  
驚いて目を見張る。  
この男からイージスと同じ台詞を聞くとは。  
「何よそれ。……どういうこと?」  
「いや……」  
頭をぼりぼり掻くと投げやり気味に吐き捨てる。  
 
「正直選んでもらったら何か満足したっつか、急激に飽きた」  
閉口しているセレスに背を向けたまま、死神はその言葉を言い放った。  
「――――ってわけだ。だから行けばいいだろ。本当に行きたい男のところへ」  
衝撃が何度も何度もセレスを走り抜ける。  
「エルド……」  
「根負けした。よーくわかった。お前があいつじゃなきゃだめなのが。こんな同情で選んでもらったって虚しいだけだ」  
すらすらと、今までの彼なら絶対に有り得ない言葉を羅列する姿に、ただ絶句するしかできなかった。  
だが昨日の投げやり気味な暴言の数々とは明らかに違う。  
完全に腹を決めたらしい。  
「仕舞いにゃあいつの真似事してお前を元に戻したんだぜ。無様としか言いようがねえだろ」  
「でも助けてくれたのは貴方だわ」  
戸惑いつつもフォローを入れると、  
「あんなん俺じゃなくても誰にでもできた」  
そう力無く返されるだけだった。  
水鏡の音だけが静かに空気を震わす。  
「自分の手でお前をこっち側に引き戻したかった。だが窮地に追い込まれて思い浮かんだのは『あいつならどうするか』だけだった。  
 結局俺まで心の底では認めちまいやがってたってオチだ――――お前ら二人をよ」  
自嘲の後、その場に深い沈黙が訪れたが、十数秒後にはセレスの方から苦笑が漏れた。  
「仮に私がまだその気だったとしても、相手の気持ちってものがあるでしょ。……今更。身体もこんなだし」  
エルドはその呟きを鼻で嗤った。  
「その程度の傷、あろうがなかろうがあいつには関係ねえよ」  
「……何故、そこまで言い切れるの」  
戸惑うセレスに向け、今度は男から苦笑いが零れる。  
唐突な展開。  
もっといろいろ訊きたかったが、下手に慌てふためいたら場が壊れてしまう気がした。  
微動だにせず、ただ次の言葉を待つ。  
やがて相手から笑い声まじりの真実が漏れ出した。  
「お前マジであの黒いのに嫌われただの愛想尽かされただの思ってやがんだなぁ」  
「えっ」  
そしてエルドはそれを告白した。  
「来ねえのはお前のためだ。あのイカスミ単細胞、お前が今、自分から逃れられて幸せでやってると思い込んでやがるんだ。  
 エーレンの奴に毒吐いたのも、もうお前を追う気はねえ、加害の意志はねえってことを強調して伝えるためだろうな。  
 本当にどうでもよくなったのならアドバイスなんて伝言はしねえだろ」  
確かにその通りだ。  
だが。  
「だから、そんなこと……何故貴方にわかるのよ?」  
「わかるさ」  
即答だった。  
「俺とよく似た性格だ」  
パズルのようだった疑問がすべて当てはまり、納得が心に浸透していった。  
後ろめたい、本当の隠し事とはこれだったのだと理解する。  
あの人も、そしてセレスも。互いに今も変わらぬ想いを抱いていることを知っていたのだ。  
最高に気まずい空気が立ち込めた。  
重たすぎる沈黙の後、エルドは再度セレスの旅立ちを促す。  
「行けよ。大丈夫俺のことなんてすぐ忘れる」  
そういう言い方をする。  
昨夜砂糖の塊のように甘たるかったのは、そういうことか。  
「何たって女神サマご推薦の本命んとこ行くんだから」  
最後だから。  
再び沈黙が訪れた。  
じっと背中を見つめるセレスに向け、最後に本音をひとつ、地面に投げ出した。  
「……疲れた」  
告白を終えてもエルドは背中を向けたままだった。  
葛藤を感じる。  
幸せになってほしい。けれど行ってほしくない。  
そしてそれらを全て包んでしまう程の無力感と諦め。  
 
もうどうしようもないのだろう。  
選択権はセレスに手渡された。  
「……」  
青光将軍。  
昔は、小柄だが頼りになるこの男が、とても大きく見えた。  
「本当にひどい男」  
今は違う。  
呆れを込めてぽつり呟く。  
「飽きたとかもう行っていいとか言いながら。そんな子供みたいな仕草で行くな行くなって強がって。何よそれ」  
襤褸切れのような立ち姿を晒して、すがることもせずに罠を仕掛ける。  
最後の未練がふわり、淡雪のように消えた。  
これが責任、か――――  
「正直に言うと、行ってみたい気持ちはある……」  
本心を呟いてからセレスは一歩を踏み出した。  
水鏡へではなく、エルドに向かって。  
そして思う。  
昔戦場で太陽だったと言うのなら、私はもう太陽にはなれない。  
けれど。  
「でも、私は貴方を知ってしまった。まったくわからない人だった貴方が、何を考えているのか、何を思っているのか。  
 そして貴方は狂気に染まった私を見捨てずに命を賭して引き戻してくれた……貴方が、助けてくれた」  
そう。  
この男は内で暴れ狂う嫉妬に囚われず、暴走からセレスを助ける一番確実な、最善の手段をとってくれたのだ。  
セレスの為に。  
今まで酷いこともたくさんされた。  
けれど助けてもくれた。  
―――――捨てられない。  
また一歩男に近づく。  
器用なようで不器用な、少年そのものの男。  
この深い闇の底、ほのかな光でこの男を照らせるなら、そばにいようと思う。  
そしていつか、二人で。  
「貴方のいう通りかもしれない。でも、あの人はこなかったわ。……それが答え」  
この箱の外へと一緒に出られる日がくるかもしれないから。  
「誰にでもできたなんて言わないで。貴方の声だから戻ってこれたのよ」  
救える日が来るのかどうかなんてわからない。  
ただ、そばにいようと思う。  
もう迷わない。  
「……帰りましょ。私も疲れたわ。帰って、もう一眠りしましょう」  
分岐点を迷うことはなかった。  
本当の未来と別の世界を選択したのかもしれない。けれど後悔なんてしない。  
初めてエルドの肩にふわり手を乗せ、自棄でも何でもなく、セレス自らの意思で寄り添った。  
背が少し低い。  
とげとげの男の両肩は、白いふわふわで覆われている。  
寄り添われた男はくくっと笑った。  
「馬鹿な女だ」  
そう、解き放ったのに舞い戻ってきてくれた鳥を、愚かにも罵った。  
だが抑揚も感情もない罵声には様々な思案が読み取れた。  
荷物がどさりと降ちる音がしたかと思うと、次の瞬間には強く抱き締められていて息が止まる。  
抱擁の中、耳元ではずっと小声で罵倒が繰り返される。  
口説き文句は豊富なくせに、肝心なところで素直になれない男。  
凶悪の中に隠されたその幼さを、セレスは受け入れ、微笑む。  
この先で、この男と綴る違う未来が小さく揺れているのがわかった。  
海の見えるこの青い青い世界に留まり、そして時がきたらゾルデの民と次の世界へ移転してゆくのだろう。  
壊れるほどに抱き締められて息をつく。  
また夜がきて、彼は私のそばに来る。  
これからは二度と拒絶することなどないのだろう。  
 
仰ぎ見る空があまりにも高く青い。  
抜けるような青は悲しいぐらいに青かった。  
水鏡の音が震えている。  
何故か呼ばれているように聞こえた。  
泣き出しそうになる。  
 
ごめんなさい。  
これであの気高き戦乙女に祝福された道は、  
あなたに続く道は、  
すべて閉ざした。  
 
 
 
 
 
さよなら。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
時が流れる。  
春。  
ゾルデに定住してから幾度目かの芽吹きの匂い。  
セレスは窓辺にもたれて春の訪れを楽しんでいた。  
艶めく赤髪が潮風にさらりと揺れる。  
頭髪はもうすっかり元の長さに戻り、以前と同じように彼女を彩っている。  
波止場を見やると看護師の女がのんびり散歩をしていた。  
目が合って、軽く会釈された。ほんのり微笑みをのせて。  
家の前を歩いてきた一家には深々と敬礼された。  
以前の精神状態を取り戻したセレスはこなす仕事の質も能率も格段に跳ね上がり、現在ではイージスと同じく  
一目置かれる存在となっている。  
先日友人夫婦が移転先へと一足先に旅立っていった。  
新天地への移転作業に追われるゾルデは和やかな活気に満ちている。  
だが都市や周辺の町村には荒廃が我が物顔で闊歩している。残虐と混乱が世界を支配しているのには変わりはない。  
移転先の生活はどうなるのだろうか。  
不安と共に、新生活への希望もまた溢れ出る毎日。  
セレスは久々の連休に向けて、客人達を迎え入れる準備をしていた。  
数日後にはエインフェリア仲間達が数人、この消え行く港町に遊びに来る。  
ここに集まるのも今回が最後になるだろう。  
「お。逃げたかと思ったらちゃんといるじゃねぇか。感心感心」  
休暇中のイージスが釣り道具を担いでふらふらと歩いてきた。  
もともと髭面のせいか、数年経った今でもあまり老けたようには見えない。  
彼の台詞はセレスの背後、家の中で作業をしているエルドに向けられたものだった。  
「うるせぇヒゲ沈めるぞ」  
噛み付くこちらも年齢不詳っぷりは相変わらずだ。  
だが老いは人であるならば誰にも平等に降り注ぐもの。  
エルドとてよく見れば僅かな肌の老化がわかる。  
もっともそれは、彼にまともに近づけるセレスくらいにしかわからないのだが。  
そんなエルドが、戦友達の来訪を前に、あからさまな旅支度をしている。  
イージスに浮かんでいた笑みが見るみる間にしぼんだ。  
「……何してんだコイツ」  
 
問いかけはセレスの溜息に変わる。  
「会ったら全員殺したくなるから俺は出掛けるって……。何とか言ってくれるイージス」  
しぼんだ表情に、段々と呆れが注入されていった。  
「お前が言って聞かないなら俺が言って聞くわけないよなあ」  
外野をものともせずエルドは黙々と作業を続ける。  
「行かしとけよセレス。こいつなりに気を遣ってんじゃね?俺も面倒はごめんだぜ」  
「そういうことは小声でしゃべれ」  
ついに勘に障ったようだ。気性の激しい童顔が髭面をぎょろりと睨みあげた。  
「セレスに耳打ちでもすりゃ間男扱いするくせに」  
火花が散る。二人は相変わらず仲が悪い。  
「まぁいいや。火種になりそうな邪魔くせえのがいねえのはありがてえし。  
 セレス〜二人で皆を〜平〜和に出向かえよ〜な〜」  
わざと間延びする言い方をして含みを持たせ、イージスは去っていった。  
「毒矢ブチこみてぇ……」  
「……あのね。みんな移転前に最後に遊びにくるだけなのよ。なのに貴方は何で矢を買い足してるのよ」  
「遊びにくるだけ?どうだか」  
鼻で嗤い、疑惑を吐き捨てる。  
褒められない手段で欲しい女を手に入れた男。  
ソファラ等、事情を知る者には、当然ながら今もよく思われてはいない。  
エルド自身もわかっている。そして開き直っている。  
気を抜いてる時に遠くから殺っちまえれば楽なんだがなぁ……と悪態をついている。  
何年経ってもこの男は変わらない。  
セレスも半ば諦めていた。  
ふうと息をついて隣りの椅子に腰掛ける。引き止められそうもない。  
会話を成立させる気すらないのだから、どうしたものやら。  
ふと大事なことを思い出して悪戯っぽく伝えた。  
「ああそうそう、あと今回ね、フ ァ ー ラ ン ト が来てくれるそうよ」  
ぴたりと動きを止めるエルドににっこり笑いかける。  
「良かったわね」  
半目が憎たらしげにセレスを睨む。  
「……嫌がらせか?むしろ完全に俺の討伐隊じゃねぇのか?それ」  
「そうかもね」  
さらりと肯定すると、苦々しげだった表情が瞬時にどす黒く歪んだ。  
「マジで狩っていいなら残るぜ」  
この返答である。  
「嘘うそ、冗談よ。そういうこと言わないの。せっかく来てくれるんだから。  
 イージスはともかく、裏切り者と侵略者なんてコンビのところに。  
 ファーラントね、せっかく新しい生を与えられたんだから、貴方と話をしてみたいって……」  
「セレス」  
遮って女の名を呼ぶ。  
「俺は仲良しごっこなんざする気はねえ。連中が俺をどう思ってやがるかなんて分かり切ってる。  
 白々しいマネさせようとするんじゃねえよ」  
きっちり言い切ると、  
「明日には出る」  
視線を矢羽に戻した。  
どうしようもない。  
溜息をついて席を立ち、近場のソファに座り直したセレスに更なる追撃がかかる。  
「それから」  
作業を中断して近寄ってくる童顔は実に不服げだった。  
「俺達は『コンビ』なのか?」  
どっかと腰を下ろしてセレスの膝に頭を乗せる。眼差しは明らかに不貞腐れている。  
問い方は横柄で幼稚なものだったが、失言を認めざるを得ない。  
「違うわ」  
「どう違う。言えよ」  
こうやって、この男はよく自分の立ち位置を確認したがる。  
「私の大切な人だわ」  
 
「ふうん?」  
物足りなさげに見上げてくる童顔。  
更なる一言を欲している。  
子供っぽい仕草に嘆息しつつ、子供に甘いセレスはつい、優しく言葉を与えてしまうのだった。  
「一番大切な人よ」  
言うだけ言わせて満足げに鼻を鳴らした後、少年は少し柔らかな口調になってセレスの頬を撫でた。  
「そんな顔すんなって。お前はめいっぱい楽しめばいいじゃねえか」  
「貴方にもいてほしいのよ」  
「人間向き不向きってもんがある」  
わけのわからないことを言ってから悩ましい指つきで女の顎をなぞった。  
「連中が帰ったら俺も帰宅していつも通りお前の髪に埋もれる。それで万事OKだろ。何の問題もねえ」  
「もう」  
眉を顰めるのと同時、そっと口付けられた。  
こうやっていつも提案をごまかされてしまうのだけれども。  
「けど油断すんじゃねえぞ。俺がいなくたっていろいろと気を付けろよ」  
つい数秒前まで子供でいたくせに、突然鋭く大人びた別の顔を見せる。  
相変わらずよくわからない生き物。  
「わかってるわ」  
顎をつままれる。視線を逸らさずの物言いは至極甘い。  
「無茶だけはすんな。死ぬなら俺の後にしとけよお姫様。帰る場所を奪われたら俺みてえな男はどうなっちまうかわかんねえぞ」  
身勝手で物騒な台詞を平気で吐く。  
「あら。じゃあ私はここにいるだけで、かなり世界平和に貢献してるってわけね?」  
「ま、概ねそういう認識で構わねえよ」  
肯定し、いつまでも思い通りにならない女を愛しげに撫でた。  
日の光に反射して薬指の輪が呪いのように輝く。  
「さて携帯食でも調達してくるか」  
話が終わると転換も早い。セレスが掴み止める前にぱっと逃げてしまった。  
「エールードー」  
「楽しむのはいいが、浮気はすんなよ?お姫様」  
しっかりと釘をさす。  
だがそんなことを口走っても空気は軽い。  
数年の間に培った、選んだ女への確固たる信頼のようなものが伺えた。  
「じゃあな」  
とはいえ、仕事はきっちりこなすけれども、私生活では相変わらず勝手である。  
さっさとドアを開けて歩き出してしまった。  
やれやれといった風に立ち上がり、玄関先まで出て呼び止める。  
「……せめて、そのお姫様っていうの、そろそろやめてくれない?恥ずかしいわ」  
頼み事に反応して死神が振り返る。  
「何でだよ。お姫様はお姫様だろ。何年経っても。年くっても。しわくちゃのよれよれババアになってもよ」  
相変わらずの毒を含んだ言い草である。  
「もう十分年くってるわよ。なのにいつまでもお姫様とか。一緒になってもその嫌味はやめてくれる気ないのねぇ」  
「……」  
ところが彼女のその愚痴を受けて、エルドは何とも言い表しがたい顔つきと化す。  
しばらく硬直した後、さも嫌そうな渋い顔を作り押し黙ってしまった。  
何かが猛烈に気にくわなかったらしい。  
子供のように口を尖らせている。  
「え?何?」  
セレスがエルドの変化に首をかしげると、拗ねたように目を逸らす。  
「……そうか、イヤミねぇ……あぁ…成程……通じてなかったのか…」  
不服丸出しで何事かをぶつくさ呟いている。  
「え?」  
そしてどんなに時間が経っても鈍感なままの女を睨み上げた。  
「何か勘違いしてるみてえだが、別に嫌味でお姫様って呼んだつもりは今まで一度たりともねえぞ」  
意外な言い分にセレスの平静が崩れる。  
ずっと嫌味だとしか思っていなかったからだ。  
「何よそれ。……一応昔王女だったから、じゃないの?」  
 
「王家の血筋なんざ関係ねえだろ。だいたい初めて会った時にはもう王女じゃなかったじゃねえか」  
「それじゃ何なのよ。わからないわ。はっきり言ってよ」  
痺れを切らしたセレスにそう訊かれ、  
「だから……お前はさ……」  
察しの悪すぎる女に舌打ちする。  
久方ぶりに邪悪な童顔に赤みがさし、目が泳いでいる。  
そうしてたっぷり惑ってから、尖る口先が真実をぼそりと告げた。  
「お前は………………………………“俺の”お姫様だろ」  
間があく。  
「ま、そういうことだ」  
照れ隠しだろうか、恥ずかしい真相を吐き捨てた後はさっさと踵を返し歩き出してしまった。  
「えっ、ちょ…………な、なに、なによそのオチはっ!!」  
行き場のない驚きとせり上がる照れ。  
硬直状態から我に返ったセレスは思わず犯人を追いかけていた。  
今まで何百回、いや何千回そう呼ばれてきただろう。  
それが全部。  
嫌味どころか、そういうことだった、なんて。  
セレスの頬もほんのり紅をさしている。  
本当に、本当に――――恥ずかしい男。  
捕まえようと夢中で伸ばした手をすいととられた。  
「――――そうだ。準備はもうだいぶ終わってんだろ?これからちょっと散歩に出ようぜ」  
「えー!?ちょっ……待ってよもうっホント……勝手なんだから――――」  
「花が満開で見頃なんだよ」  
決定とばかりに愛しい女の手を握る。  
今日もまたこの身勝手な死神は、ふらりと見つけたとっておきの場所へ、彼女だけを連れてゆくのだろう。  
そしてやはりいつものように、彼女だけに微笑むのだ。  
「連れてくから」  
 
 
 
 
 
 
 
 
エピローグ  
 
どこいくんだか。  
もさもさと生えた顎鬚をさする。  
仲よさげにゾルデから去り行く夫婦。イージスは釣りをしながら手をつなぐ二人の後ろ姿を静かに見送っていた。  
セレスのことだから陽が落ちるまでにはちゃんと帰ってくるだろう。もう一人はどうでもいいが。  
「………」  
本当に、うまくいっちまったなぁ。  
一連の騒動を回想して感慨に耽る。  
セレスが己で選んだ道だ。  
今更、何も言うまい。  
あれからもう数年。  
正直うまくいくわけがないと思っていた。  
しばらくしたら、どうせまたセレスを無下に扱いやがり始めるのだ。  
どうしてやろうかなどと身構えていたが、心配に反し時間が経っても、いや時間が過ぎ行くほどに、エルドは彼女を  
とても大事にしている。  
愛されている女の笑顔も落ち着いていて、優しい。  
今では二人の仲を心配する機会もほとんどない。  
己だけに咲く花を一輪与えられ、闇を彷徨う死神はついに落ち着くところに落ち着いてしまったようだ。  
顛末に、ふうと息をつく。  
「―――ま、一応、ハッピーエンドってやつなのかねぇ」  
 
かかる気配すらない竿を振りなおした時だった。  
「仲がいいですよねぇあのお二人は」  
いつの間にやら背後に不満げな顔の少女が一人立っていたのに気付く。  
「ああ……」  
同意する。  
本当に。  
ああやって見ていると何の障害もなく一緒になったようだ。  
「付け入るスキが無いにも程がありますよ……」  
あどけなさの残る少女が口を尖らせて唸る。  
エルドに両親の敵を討ってもらった、と未だ慕っている少女。  
影響を受けたのか同じ弓の道を選んだ。  
今でも彼に淡い好意をよせているようだ。  
「お前まだそんなこと言ってんか」  
イージスには少女の心理がまったくわからない。  
危険な匂い、というヤツに惑わされる年頃なのだろうか。  
呆れ顔で訊ねると、言われなくてもわかってる、という不貞腐れた顔をされた。  
「可能性ゼロなんてわかってますよ。それに私セレスさんのことも尊敬してるし、別にどうにかなりたいとかじゃないですよ」  
ぷいとそっぽを向かれる。  
「何より相手にされてないし……」  
イージスから苦笑が漏れると少女は掴みかかってきた。  
「聞いてくださいよ、弓の指導で手が触れたからちょっと喜んだだけなのにっ、青筋たてて『やる気ねえなら殺すぞ』ですよ〜!?」  
興奮する少女を押し返す。  
「やめとけやめとけ。ありゃ並大抵の女じゃ飼い慣らせねえよ。お前可愛いんだからもっといい男ふん掴まえな」  
おだててやると、少女は少し持ち直したらしい。  
「よーし……私もがんばって美形ゲットするぞ」  
「その意気その意気」  
するとちらりと流し目を送られ、  
「だから……ね。ステキな人がいたら紹介とか、お願いしますねっ」  
全力で媚びられる。  
「へえへえ」  
「あーんマジでお願いしますよぉ〜」  
平穏な日常。  
この先それがどのくらい続くかわからないが。  
愛すべき穏やかな日々。  
ハハハと笑いながら、されるがまま揺すぶられていたら、不意に遠くから怒鳴り声が飛んできた。  
「おい!今日は久し振りのお休みなんだからご迷惑をかけるんじゃないぞ!!」  
通りすがりの少女の兄が、イージスへの粗雑な扱いを咎めていったのだ。  
少女は渋々ながら揺すぶるのをやめてイージスを放す。  
そしてイージスに一礼して去ってゆく兄の背にべーと舌を出した。  
「ずいぶん板についてきたなあいつ」  
凛とした戦士のいでだち。  
少年はセレスに剣の才能を見出され、将来有望な戦士へと雄々しく成長していた。  
渋い顔を元に戻した後、少女が躊躇いがちに訊ねてくる。  
「あのぉ……あれ。本当にいいんでしょうか」  
「何が?」  
「あれですよ」  
去り行く兄が帯刀している剣に視線を投げる。  
ムーンファルクス。  
セレスから引き継いだものだ。  
「高価な剣らしいし。何だか気が引けちゃうとか言ってましたよ」  
才があるとはいえ、己にはまだまだ過ぎた業物に戸惑っているらしい。  
「それに。以前確か、すごい大事なものだとうかがったような気がするんですが」  
「ああうん、そうだな、あの剣は……」  
説明しかけて、ひっかかった。  
セレスとて女神からの譲渡品を他人に与えるのは相当に躊躇ったはず。  
それでも譲ってしまったのは、ほんのり帯びている祈りの魔力が『奴』のもとへと導いてしまうからだろう。  
 
満ちた月ではなく欠けた月の道を選んだ彼女だからこその決断。  
「……」  
そこでつい、惑う。  
女神の祝福から外れた道。  
本当に良かったのだろうか、と。  
これで――――  
「どうかしました?」  
「……あーいや、…何でもねえ」  
「?」  
「いいのいいの」  
頭を振り、同時に纏わりつく疑念を振り払った。  
そう。  
いくら気が咎めても、自分が決めることじゃない。  
あれはシルメリアが、セレスが幸せになれるようにと渡した剣。  
彼女を慕う少年に振るわれるのならば、それが正しいのだろう。  
「嵐は過ぎ去った。彼女は新しい航路を見つけたんだ」  
「?」  
イージスのぼやいた例えは、首をかしげる少女にはわからないようだった。  
故郷の空気を深呼吸する。  
たとえ疑念や後悔が付きまとってしまうような選択肢でも、腐らずに、選んだ道をゆくべきなのだろう。  
それは強制ではない。  
いろいろな出来事を経て立ち上がった彼女は、自らその道を選んだのだから。  
「……もう、いいんだよ」  
快晴の空を見上げる。  
「行こうぜ。俺達の新しいゾルデへよ」  
 
 
 
港町ゾルデ。  
ディパン公国の終焉と共に見切りをつけ、移転を決行する街。  
終わりゆく街の波止場にて、白い猫がのんびりと潮風を受けていた。  
 
 
終  
 
 

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