プロローグ  
 
視界の端から端までを覆う広大な海に面して、小汚いひげ面の男がぼんやりと太公望を決め込んでいる。  
櫛など長い間無縁のぼさついた頭。身なりへの気遣い皆無なくたびれた服装。滲み出るおっさん臭さ。  
人の上に立つ資質を備え、精悍で熱い一面も合わせ持ってはいるが、日常では地域に溶け込むただのむさ苦しい男でしかない。  
男の名はイージス。  
五百年ほど前この地で名を馳せ、今もなお語り継がれている英雄と同じ名を持つ。  
現在の部下達には『案外彼の英雄も貴方のような方だったのかもしれないですね』と笑われる。  
まさかその本人だとは流石に誰も気付かない。  
イージスを含む戦乙女シルメリアに仕えた歴代の英霊達が、ヴァルキリーとなった彼女によって一斉解放されてから一年が過ぎた。  
皆、現在はそれぞれ第二の生を満喫していることであろう。  
欠伸が漏れた。  
左頬をさする。欠伸をしても痛まない程には鎮痛した。  
左右で少々バランスのとれていない頬は、つい先日まで赤々と腫れ上がっていた。  
原因は、思いっきり平手を喰らったから。  
手形の主は放浪の途中でこの過疎地に立ち寄った、ソファラというエインフェリア時代の仲間だった。  
役立たず。  
そう罵られた。  
「……」  
彼女を怒っても恨んでもいない。  
むしろせっかく足を運んでくれたのに嫌な思いをさせたと反省しているくらいだった。  
ソファラは次の朝現れて突然の暴力を深々と謝罪した後、現在の仲間達に急かされて、永住の地を求める旅路へと戻っていった。  
表情は疲れていて、後ろ姿を見送っていても足取りは決して軽いものではなかった。  
やはり心底では納得いかないのだろう――――――自分と同じように。  
もう一度頬に手を当てる。  
強くさすってみれば、まだじんじんと痛む。  
だがその痛みが逆に心地よかった。  
別におかしな意味ではなく。  
多分、自分は誰かに叱咤されたいと思っていたのだろうなと認識する。  
ソファラを激怒させたその問題に関して、今も胸中は穏やかではない。  
重いため息をつき、解決の兆しすら見えない道程の真っ只中で、己を誰よりも情けなく思う。  
「どうせ俺はおっしゃるとおりの役にたたねえ水死体だよ」  
投げやり気味にはき捨てた時だった。  
「平和ね。兄さん」  
聞き慣れた女の声が耳に届いて、心臓が軽く跳ねた。  
平静を装いながらゆっくりと振り返れば、その問題の中心人物である女が微笑んでいる。  
「……よう」  
歴史書の中ではイージスより百数十年後の世界で大活躍し、常に別格の存在として称えられるカミール17将の一人。  
『斬鉄姫セレス』と記されている女が立っていた。  
彼女の持つあでやかな紅い髪のまとめ髪は、解放当時よりかなり短くなっている。  
これでもかなり伸びた方だ。  
約一年前、この地で再会した時は坊主に近かった。  
いや、きれいに坊主になっていたならまだ良かった。  
切り刻まれてまばらに残るだけの頭髪、痩せこけた肢体、壊れかけた瞳―――――――  
鮮明に思い出されて、彼女の回復を喜ぶと同時に、心のどこかでまだずきりと痛む。  
それは彼女に起こってしまった惨劇。  
「……」  
会話の切り出し方に困る。  
セレスの笑顔も心なしか硬い。  
ソファラの来訪で起こった衝突でぎくしゃくしてしまい、数日間会話をしていなかった。  
気まずかった。その時つい本音を吐き出してしまったからだ。  
しばらく互いに硬直していたが、そのままでいるわけにもいかない。  
ふっと笑ってみせた。  
「平和だなー。妹よ」  
場の緊張がふわりと解けると同時に、彼女も自然に微笑んだ。  
素で、綺麗になったなと思う。  
春先の青い海。  
穏やかな波が岸壁に打ち返されて、泡立ち消えるを繰り返す。  
船の行き来は既に死に絶えていて、ぽつんと残された老朽の激しい小船も、朽ちるまでの永眠状態に入ろうとしている。  
 
港町ゾルデ。  
大国ディパンの崩壊により緩やかに消え行く街である。  
「またディパンに行くのか?せっかくの連休だってのに」  
隣りに腰を下ろしたセレスに問いかける。  
セレスは現在ゾルデで自警団に所属しているが、まとまった休みになるとディパンに渡り、残る人々に移住の説得を続けている。  
「成果は芳しくないけどね」  
終焉した国への来訪自体は喜ばれるようだが、首を縦に振る者、振りそうな者さえ一人もいないらしい。  
みんな物凄い忠誠心ねーと溜息を漏らす裏切り者の元王女に、だなーと他人事の元ディパン兵士が返す。  
「つーかここまで来るともう動こうって奴もいねえと思うがなあ。ディパンと…バルバロッサ王と一緒に死なせてやれよ」  
「でも私があの子の為にできるのはこれくらいだから」  
無駄だということは薄々勘付いている。  
それでも行動に移すのは、運命の女神の器となり散ったアリーシャへの哀悼の意味がこもっているのかもしれない。  
「それに頻出するっていう盗賊達も気になるしね」  
「ああ…」  
秘密通路であった王家の地下道が公になったため、船なしでもディパンに渡る術が知れ渡ってしまった弊害だった。  
城や城下町を荒らしたり残った民を見つけては暴力を振るったりとやりたい放題らしい。  
疲弊しきった生き残りの兵士達ではもう対処が追いつかない。  
「一人で行くのか?」  
「いいえ、いつもどおり彼と一緒。これから教会で待ち合わせ」  
「そうか……」  
彼。  
イージスが毎日毎日何でもいいから一秒でも早くくたばってくれないかと願っている男。  
無論その男にも同じように思われ、敵意を滾らされているのだろうが。  
このどうしようもなく捩れてしまった問題の唾棄すべき元凶。  
内で踊る大量の憎悪を否応なく感じていると、猫の甘えた鳴き声によって我に返った。  
「お散歩なの?」  
冬の初めに拾われた真っ白い仔猫が、飼い主に身を摺り寄せて甘えている。  
優しく撫でるセレスを横目でちらと見やり、また海面に目を戻す。  
赤い髪が潮風でなびく。少しクセのある艶やかな紅糸。  
諸事情で、このゾルデでは、この赤い髪の女と自分は実の兄妹という設定が定着してしまっていた。  
時折『妹さんは美形なのにね』などと凄まじく同情される。放っておいてほしい。  
真実を明かそうかと思ったこともあったが、セレスが『何故そんな嘘をついたと変に勘繰られるのは嫌だわ』と  
気にしているせいもあり、今後も兄役を演じ続けることを決めた。  
確かに、今更皆に説明して回るのも面倒くさい。色眼鏡で見られるのもごめんなので放置している。  
それに。  
何となくだがセレスの真意は違うことを感じていた。  
兄。誰よりも近くにいて誰よりも遠い男。  
色々な意味をこめて自分には兄でいてほしいのだろう。  
なら、その都合のいい立場でいてやろうと決心した。  
彼女にはそれくらいしかしてやれない。  
毎日兄さんと呼ばれていると、己にも父性本能などというものが内蔵されていたのだろうか、本当に実兄のような心持ちに  
なってくるのだから不思議なものである。  
「……」  
それにしても。  
釣竿を振りなおす。目が泳ぐ。そわそわする。  
落ち着くために一つ深呼吸をする。足りないのでもう一度、さらにもう一度。  
『妹』相手に多少どきまぎしてしまっているなどという事態を戒めるために。  
横目でまたちらりと見やる。  
これはすごい、な。  
間近で見て初めてわかった。  
綺麗というより艶めいて婉然とした女になった。  
白い肌に髪の赤。長い睫毛に縁取られる緑の瞳。素材はもともと良いがさらにとんでもないことになった。  
身を包む甲冑の黒さえその彩りに取り込まれ、妖しい魅力を増す手助けをしているように感じる。  
イージス的には異性の対象としてはかなり程遠い女だが、それとこれとは別だった。  
ただ本能で、欲しい、と思う。それを必死で叩き潰す。  
色香というのだろうか。物凄い。確かにこれは惑うかもしれない。  
 
兄であるイージスに彼女との間をどうにかして取り次いでほしいと泣きついてくる男の、なんと多いことか。  
トチ狂った青年に有り金全てを目の前に積まれたこともある。  
流石に面倒になって自分で何とかしろと突き放すのだが、あの男が怖いんだと被害者面で食いついてくる。  
あの小さな男が怖いと怯えるのだ。  
セレスの為に戦う気はないがセレスには近付きたいか。  
兄と慕われている者として少々癪に障る。  
認めたくはないが、彼女が放つ輝かんばかりの艶やかさも、その一緒にいる男によるものだというのに。  
「……」  
問題は簡単かつ複雑だった。  
この一年、どうなることやらとずっとヒヤヒヤしていた。  
「ほんとお前は大した女だよセレス。アレを手懐けちまうなんてな」  
仔猫に向けられていたセレスの微笑がすっと消える。  
「……手懐けたように見える?どう見ても思い切り振り回されてるだけでしょ」  
「謙遜すんなって」  
「謙遜じゃないわ。私は今も彼の手の内で転がされてるだけよ」  
意見がすれ違った為、二人の間はしばらく無言に支配されたが、  
「あのね兄さん」  
セレスの方からためらいがちに切り出してきた。  
「ソファラの言ったことは気にしないで。彼女は何も知らないから、兄さんがどんなに私のために頑張ってくれたのか  
 伝わってないだけなのよ」  
気を遣われているのがわかる。気持ちは嬉しいのだが逆に気落ちする。  
「いや、いいんだ。ソファラは正しい」  
その気遣いに頷くなど、イージスには有り得なかった。  
「そんなこと。あなたには本当に迷惑をかけたわ。こんなに良くしてもらって、本当に感謝……」  
「やめてくれ」  
ぴしりと拒絶すると当然のごとく会話は止まってしまう。  
だがどうしても、それ以上の謝意を受け取る気にはなれなかった。  
「俺は感謝してもらえるようなこと何もできてねえ」  
「兄さん」  
「いつだってお前の大事な時にはいなかった」  
後悔まじりの重苦しい溜め息をつく。  
予想外の連続。見通しの甘さ。ストレス、忙殺の日程……どれもこれも言い訳にはならない。  
「一寸先は闇とはよく言ったもんだよなぁ……」  
重たく底深いため息をついてから項垂れて、  
「ビンタ張られて当然だよ」  
また、頬をさすった。  
もしまた他の仲間達に会える機会があったなら、全員から一発ずつもらっても仕方がない。  
それくらい何の役にも立てなかった。  
セレスは眉根を寄せて居心地の悪い空気に押され続けてていたが、やがてその重たげな口を開いた。  
「ごめんなさい兄さん。私、彼を受け入れようと思うの」  
視界が一気に暗くなる。  
体内で強烈に重いものが落ちた気がした。  
それはイージスが最も耳にしたくなかった答えだった。  
「正気か」  
惑いを揺さぶろうと鋭く突くように尋ねても、  
「正気よ」  
しっかりした即答が返ってくる。  
「…理解不能だ。一体何されたか、まさか忘れちまったわけじゃねえだろうな」  
「わかってる。自分に起こったことだもの。…忘れられるわけがないわ」  
「……」  
再び無言になるイージスに更なる追撃がかかる。  
「大丈夫。自分が何を言ってるか、ちゃんと理解できてる。その先に何があるかも」  
決意してしまった人間特有の、何処かすっきりした喋り方だった。  
覚悟を決めてしまったのだろう。  
「そっ……か…………」  
動揺でどうしても会話が途切れる。  
一人の自立した人間である彼女の選択に文句をつける気はさらさらない。  
が、適当な相槌を打ちつつも、やはりあの男はどう考えても駄目だろと正常な判断力が働いてしまう。  
そこに去っていったソファラから送られた軽蔑の眼差しが追い討ちをかける。  
だからつい、別の男の話題を持ち出してしまうのだ。  
 
「あいつはあいつで元気にやってたらしいぞ」  
「そう…」  
上の空で相づちを打った後にふと気付いたらしく、さっと顔色が変わる。  
「…やって“た”?ずいぶん断言するのね」  
「見かけたら連絡をくれるよう頼んでおいたんだ」  
固まるセレスの様子は、明らかにその男への想いが残っていることを感じさせた。  
「連絡って……誰に?」  
「エーレン」  
「エーレン…」  
「悪りいな。お前には口止めされてたけど、あの時頼んでおいたんだ」  
「あの時って……秋に、クレセントと一緒にわざわざ立ち寄ってくれた時?」  
「そうだ」  
セレスは表情に悲しげな色を浮かべると、軽い苦笑を漏らした。  
「……言わないって、約束だったわよね」  
「すまん。でも誓ってエーレンにだけだ。お前が気にしてたクレセントには絶対バラさないよう念を押しといた」  
秋。元同僚の二人がゾルデを来訪した時、セレスは再会を頑なに恐れ、居留守などというらしくない手段を選んだ。  
色々な葛藤があったのだろう。  
だがその時イージスもこの終わりの見えない問題に関して疲労の極地に達していた。  
だからこそこのまま淀んで停滞する流れに危機を感じ、約束を破ってでも新しい流れを呼び込まなければと感じたのだ。  
「けど勿論余計なことは一言も言ってねえぞ。ただあいつを見かけたら連絡頼む、それだけだ。  
 エーレンも空気読んでくれてそれ以上追及してこなかったしな」  
「そう」  
「ま、本当は全部吐き出しちまいたかったってのが本音だが」  
「……」  
できれば。  
まだ、『その男』の方がマシだった。  
その男とて不安はある。大量にある。正直、今セレスを束縛している男とどうマシなのか説明し兼ねる程に。  
だがセレスの相手として戦乙女の祝福を受けた相手には違いない。  
それ以前に、セレスが想っているのは未だ確実にその男なのだ。  
その確信を糧に、更に煽り立てる。  
「大丈夫かー?ほんとに忘れられんのかー?」  
わざと間延びする言い方をして揺さぶると、セレスの面持ちは難しくなる。  
そうだ。それでいい。戸惑えセレス。  
揺さぶり作戦の成功を感じていたのに、当のセレスは思った以上に厄介な頭の回転の持ち主だった。  
「それで、アドニスは何て?」  
思わず釣竿を放り出しそうになった。  
墓穴を掘ったことに気付く。  
「え…や……それはだな…」  
悲しいことに思い切りわかりやすい動揺を見せてしまった。  
「エーレンは勘のいい人だもの。あの時私が居留守を使っていることに気付いていたと思うの。  
 それに律儀な人でもあるから、見つけただけじゃなくて私への言伝も聞いてくれたはずよ」  
釣れなかった上に最悪の展開。  
「困っているのは、私には残念なお知らせだからなのね?」  
鋭い。泣きたくなる程鋭い。  
「覚悟はできてるの。教えて」  
ここまで来て下手な嘘はつけない。  
観念したイージスは、エーレンからの手紙にしたためられていた信じられない言葉を口にするしかなかった。  
セレスの想い人は面倒くさそうに舌打ちした後、  
「もう関係ねえ。うぜぇ」  
そうのたまったらしい。  
冷や汗だらだらのイージスだったが、  
「まあそうでしょうね」  
意外にもセレスの受容は迅速だった。  
格段ショックを受けた様子もない。弱く笑って、寂しげな自嘲を漏らした。  
「フラれちゃった」  
 
「セレス……」  
「いいの、わかってたわ。  
 故郷が見えて、しかも何度も足を運んだ街。ある意味旅の始まりの街……  
 こんなわかりやすい場所にいるのに丸一年、情報収集にすら来てもらえなかった」  
そうなのだ。  
来ようと思えばいくらでも来れる場所なのに、本当に来なかった。  
しかも、実際には更に『二度と顔も見たくねえ』だの『そんな女がいたことすら忘れてた』だのほざきやがったらしい。  
あれだけの執心を見せながらどんでもない手のひら返しであるとエーレンも手紙の中で驚いていた。  
一体どんな心境の変化があったのだろうか。知るすべもない。  
落花情あれど流水意なし。  
共に流れていきたい花を置いて、流れはそしらぬ顔をして行ってしまった。  
「結局、仇敵としても大した存在じゃなかったのね」  
平素を装っても、寂しげな口調はやはり痛々しい。  
間抜けな失態に言葉を失いつつ、しかしイージスにも意外な顛末だった。  
居場所さえ感知すれば矢のごとく飛んでくると信じていた。彼女を救いあげてくれると信じていた。  
ある意味イージスも彼の男を待ち侘びていたのかもしれない。  
「なあんだ。こんな近くに結末があったのね」  
予想に反して妙にすっきりさせてしまったことを焦る。  
「いいのか?お前は。ほんとに、それで。  
 人生なんて曲がり角だらけだ。興味なくされたと思っても、ちょっと振りかえりゃ目が合うかもしれないぜ」  
「これだけきっぱり振られてしまえば流石にそれはないわよ」  
「本当にそう思うのか?思ってるのか?ええ?――――お前自分でも絶対しっくりきてねーだろ。今の状態」  
「ずいぶん煽るのねえ」  
しつこさに呆れてはいるが、すぐに否定で切り替えしてこないのは、彼女もまだ迷いがある証拠。  
「そりゃそうだ。俺は兄ちゃんだぞ。妹の幸せを願って何が悪い!」  
ふんぞり返るとイージスの妹は少しだけ嬉しげに微笑んだ。  
この微笑みをいつまでも、汚い手段を用いてこの女を手に入れた男などに享受させたくない。  
セレスには申し訳ないがひょっとしたらそちらの方が本心かもしれなかった。  
「悩めよセレス。一生の分岐点だ」  
誰にでもある人生の分かれ道。そして後日、あの時こうすれば…と後悔するのは万人共通に用意されている落とし穴。  
「アドニスを追いかける気があるなら我慢せずにそうしろよ。  
 俺のことは気を遣うな。何か仕掛けられたとしてもそう簡単にくたばってたまるか。  
 お前の抜けた穴は何とか埋めるし、お前ん家についてる猫達は俺が面倒を見る」  
「兄さん…」  
表情をさらなる困惑に歪められても言葉の勢いは止まらなかった。  
どうしても頷いてほしかった。うまく表現できないが、イージスには大きな違和感があった。  
ここはこの女の居場所じゃない、ということ。  
しばらく黙って聞きに徹していたセレスだったが、不意に台詞の波を遮る。  
「ごめんなさい。もう決めたの。私は行かないわ」  
それはかつて名将と呼ばれた女の、あまりに毅然とした口調だった。  
「セレス!」  
咎められても退いたりはしない。  
「確かに私は選択を間違えたのかもしれないわね。でもいつまでも腐ってもいられない」  
立ち上がると、  
「エーレンじゃないけど。エルドがいてくれればやっぱり心強いから」  
とても自然に笑った。  
 
「エルドも私がずっと一緒にいるって確信すれば、もっと落ち着くと思うの」  
そう言ってから、愕然としている兄に向き直った。  
「今まで心配ばかりかけて本当にごめんなさい。でも私、本当にもう大丈夫だから。今じゃもう逃げ出すことにも嫌気がさしてるの。  
 今まで沈んでばかりいたけど、ちゃんと浮上するから」  
「セレス…」  
「元の位置に戻りたがってるばかりで暗い部分と向き合わないでいると、いつまでたっても前に進めそうにないしねえ。  
 あっと…長話が過ぎたわね。じゃあ、そろそろ行くわ」  
「いや、ちょ…待て…」  
荷を背負うセレスの姿に何となく落ち着かないものを感じる。  
「やっぱ俺も行こう…かな」  
「…兄さんさっきから何だか変ね。どうしたの?私なら大丈夫だから安心して」  
「そうじゃなくて……なんか…すげー悪い予感がするんだよ」  
「ちょっとやめてよ」  
流石のセレスも顔を歪める。  
そう。  
気のせいだよな。  
――――この嵐の予感は。  
胸騒ぎを隠し切れず、去り行くセレスの背に向かって注意を喚起する。  
「くれぐれも逆ギレとブチギレに気をつけろよ!」  
「…それどうやって気をつければいいの?」  
呆れ顔で振り返ったセレスについ訊ねてしまう。  
「…本当に今幸せなのか?」  
その問いに、セレスはやはりほんの少しだけ笑った。  
「悪くはないわね」  
落ち着かない悪寒に支配されつつも、イージスは教会へと向かう彼女の背中をいつまでも見送っていた。  
 
本当は、もう駄目だと思ったこともあった。  
一度狂ってしまった歯車は二度と正常には戻せず、どんどん濁流にのまれていくだけしかないのかと、  
悲鳴をあげながら押し流されてゆく姿を見送ることしかできないのかと諦めそうになったこともあった。  
けれど新しい朝は巡り、彼女の傷を緩やかに回復させていった。  
大木から落ちた花は一筋の光を見つけ、茨道をかき分けてその先へと飛び立ってゆく。  
彼女の近くでずっと見守っていた男は、籠に囚われた鳥が解き放たれる瞬間が来るのを感じていた。  
 
*****  
 
その墜落劇は、幸福へと続く扉の直前にあった、ほんの少しの暗闇から始まった。  
満ちた不穏へ忍びこんできた甘言によって渦は引き起こされる。  
約一年前。  
闇夜の迫る街の夕暮れ。  
食事も出さない古ぼけた小さな宿屋。  
セレスはその一室から動けず、去っていく仲間達を見送っていた。  
反旗を翻した戦乙女に仕えるという大役は終わった。  
彼女らが最後の戦いに向かう直前に解放され、ミッドガルドに全員戻された。  
皆、新しい生を歩むために散っていった。  
だがセレスには枷があり、その場から動くことができなかった。  
遠い昔に一騎打ちを行った相手に再戦を要求されている。  
決着をつけなければならない瞬間まで、刻々と近づきつつある。  
だが項垂れる女は迷いに支配されていた。  
私には殺せない。  
実力は僅差だと必死に思い込もうとしても、それは既に遠い過去の話。  
戦乙女に使役された回数も比べ物にならず、今や力の差は歴然。  
このまま殺されるしかないのだろうか。  
――――好きになった男に。  
苦渋に満ちた表情でかぶりを振る。  
何を勘違いしているのだろう。優しくされたわけじゃない。  
憎い敵だから、自分の手で落とし前をつけたいから、その時が来るまで他の外敵から守られただけ。  
わかっているのに感情は誤作動を起こしている。  
しっかりしなきゃ。しっかり……  
「泣きそうなツラしてんじゃねぇよ」  
はっと顔を上げると、行ってしまったと思っていたエルドが見上げていた。  
家路を急ぐ人並みの中で立ち止まり、流れに逆らっている。  
疲れたような中年の男が一人だけ、すれ違いざま驚いた顔をしてエルドを振り返り、そのまま流れていった。  
少年の容姿に不釣合いな男の声に仰天したのであろう。  
深く渋味があり、それでいて年相応に若く、人を捕らえ惹きつける甘い音を纏う声。  
あの人に似ている声。  
非常に不安になっていた心に、その姿は少しだけ大きく見えた。  
気落ちしているセレスの視界で、元同僚が半笑いで小首をかしげる。  
「何だよ。ほんとに一緒に行く気あんのか?」  
「……」  
「だよなぁ。そんじゃあな」  
数歩進んで立ち止まり、今度は真顔で振り返った。  
「おい本気かよ」  
「……うるさいわね早く行けばいいでしょう」  
「窓から離れろよ。そうすりゃ視界から消えるぜ?」  
「……」  
縋る気などまったくなかったが、最後の仲間が行ってしまう瞬間を前に、身体が窓辺から動かなかった。  
今度はどんな嘲りの矢を放つのかと身構える。  
闇に紛れるすんでで呼び止められたエルドは、訝しげにこちらを見上げている。  
エルド。  
セレスの生前の人生に大きな変化を与えた人物の一人。  
エインフェリアになってからはあの個性的な仲間達の中でもさらに一人遊離した存在となっていた。  
伏せていた瞼を開けると、既に街道にエルドの姿はなかった。煮え切らない態度に呆れて行ってしまったのだろう。  
良かった。  
そうだ、彼に頼ってどうなるというのか。  
そう思って半ば安堵のため息をつくセレスに、  
「それで?」  
エルドが何度目かの問いかけをした。  
いつの間にか真横に戻ってきているのでぎょっとして椅子から飛び退く。  
この男は行動に音を連れてこない。  
暗い部屋で、童顔に収まる大きな目玉だけが鈍い光を灯してセレスを見据えている。  
まるで猫のようだと思った。  
不意に横切ってゆく闇夜の黒い猫。  
 
「怖じ気づいたのか?とっくに覚悟はできてるもんかと思ってたが」  
「…うるさいわね。関係ないでしょ」  
「けど目は助けてって言ってるぜ」  
返事を返さないセレスを嘲笑う。  
「お姫様にすがられるとはなぁ。この俺が」  
「……」  
否定しても皮肉の応酬になるだけなので受け流す。  
エルドは昔からセレスのことを時折お姫様、と呼んだ。  
既にお姫様でも何でもない、それどころか理想を掲げ祖国に弓引いたセレスをそう呼ぶのは、まぎれもなくエルドが  
彼女を馬鹿にしている証拠だった。  
発音には常に嫌味が塗りこめられ、陰険な響きを伴う。  
だが彼がそうやって馬鹿にされるのは格段セレスに限った話ではない。  
この男は世界のすべてを斜めに構え、小馬鹿にしている。  
撥ね付けるまなざしは鋭く、淀む闇に引きずり落として飲み込もうとする。  
破綻した人格でも、能力で戦乙女に選定されることがある。自他共に認めるその典型的な例。  
「俺と行くならそう言えよ。お望みのまま好きなとこに連れてってやるぜ」  
彼の手の届かない世界。確かに安住の地と言えるかもしれない。  
「……まあ別世界に連れてくことに関しては一目おいてるけど。なんせ身を持って体験してるからね」  
「違いねえ」  
からからと笑うと、  
「じゃ行くぞ」  
セレスの手を取った。  
冷酷な男の体温に驚き、慌てて振り払う。  
「ちょ、ちょっと待ってよ。行くとは言ってないでしょ」  
「何だよそれ。はっきりしねえな」  
たまにあの人と似た声で、似たような台詞を使う。  
「つうか逃げるとかしち面倒くせえ回り道しないでお得意のボディパッセージでさらっと殺ってきゃいいじゃねえか」  
「さらっと…」  
「また首かっ飛ばせばいいだろ。むしろ解体しちまえよ解体。二度と再生しねえように。あの黒いのが大嫌いな俺も大喜び」  
「いや、あの」  
「自信ねえなら加勢してやるぜ。ほら」  
手渡されたそれらは一体何処から取り出したのやら、クリティカル率上昇アクセサリー。  
死神とのやりとりにセレスもだんだん疲れてきた。  
「ねえエルド」  
「始末してくれっつーんならそれでもいいぜ。  
 スピリチュアルソーンならこの世の誰よりも俺のが性能いい。使い込み方が違うからな」  
話を全然聞いてない上に自信たっぷりな姿が胃に痛い。  
「あのね、あなた…私はもう誰も傷つけたくないし争いたくないから困っているのよ」  
「争いたくないって、アレが半端なことでお前のこと諦めるとでも………」  
余裕綽々たるにやついた笑いと台詞が会話の後尾で不意に消える。  
「どうしたの?」  
明らかに何かに気を取られた変化が気になったが、  
「いや……」  
セレスがそれに疑問を挟む余地は与えられなかった。  
「そうだな………なあセレス」  
ちゃんと名前で呼ばれたのは久しぶりだった。  
「何?」  
「あー…と…」  
嫌にもったいぶった喋り方をする元同僚にセレスは首をかしげる。  
「もう、何よ」  
「そう…だな。……どうして俺がまだここに居残っていたんだと思う?」  
「さあ?」  
「いきなりこんなこと言い出して信じてもらえるかって話だが」  
小さく口元を歪めた後、真顔に戻り、エルドはその台詞を吐いた。  
「俺、ずっとお前のこと好きだったんだ」  
 
数秒の間があく。  
セレスは突拍子の無い告白に驚くことすらせず、冷静なまま受け流した。  
「こんな時に笑えない冗談ね」  
からかいの類としか思えなかったからだ。  
「おいおい冗談にしてくれるなよ。本気なんだ」  
「こんな時に何よ一体」  
「こんな時だから言ってる」  
足音も従えずにすっと間を詰めてくる。  
「これから真剣勝負なわけだし。決着つけたがってると思ってたんで、変に心を乱すかと思って言えなかった」  
至極真面目な回答。  
長い睫毛の向こうにある緑色の瞳を何度か瞬かせてから、斬鉄姫はやっと愛の告白に反応を示した。  
「……………………やだ。本気なの?」  
頬にほんの少しだけ赤みがさす。  
「物好きね」  
「まあな」  
否定はしない。  
「本当に突然ね……何て言ったらいいかわからないわ」  
生前では戦士として敵味方ともに恐れられていた女、告白などまるで慣れていない。目を泳がせてただ戸惑うしか術は無い。  
「だからよ、どうしても助けたいんだ」  
手を取られる。驚いて払いのけ、後ずさる。見慣れた仲間が別人のように思えて少し怖かった。  
動揺は瞬く間に相手に付け入られる隙となる。  
「だいたいよ、再戦なんて本気で受けるつもりなのか?あっちがただぎゃんぎゃんわめいてるだけじゃねえか。  
 あんな奴のほざく通りにする必要なんざねえだろ。身勝手な逆恨みもいいとこだ。  
 女に負けていつまでもうじうじと情けねえったらねえぜ」  
セレスは次々に吐き出される非難の畳み掛けにただただ驚く他なかった。  
「お前だって、本当は納得できねえんだろ?  
勝手に侵攻してきて無様に負けたくせによ。しかも4年もブランクある女に」  
一緒に侵攻してきたのはどこのどなただったろうか……は流れ的にどうもツッコめそうもない。  
「お前は十分脅かされてきただろ。見当違いな復讐ならもう十分なはずだ。  
 あいつのやってることは男のすることじゃねえよ」  
「エルド」  
この男がそんな風に考えていてくれているとは思いもしなかった。  
「俺が守るから。さあ行こう」  
あまりの押しの強さに戸惑って、つい更に一歩後退する。  
だが突きつけるように差しのべられた手に頼る気にはなれなかった。  
促されても、申し訳ないのだが心には別の男がいる。  
「あの、気持ちは本当に嬉しいんだけど」  
驚きを隠せなかったが、好意を示された礼はきちんとしたかった。  
「私、今好きな人がいるの。だから…ごめんなさい」  
丁寧過ぎる謝罪と拒絶を示した女に相手は眉をひそめた。  
その顔立ちに苛立ちが混じり、青筋が加味されたのを、頭を下げていたセレスは気付けなかった。  
「それに、この件に関しては誰も巻き込まないって決めているから」  
「ふうん」  
乱雑なため息をついた後、再度訊ねてくる。  
「で?そいつ何してんだよ。今。お前がこんな状態に陥ってんのに」  
「えっ」  
そこで話は終了すると思っていたので、更なる追求をかけられたことに驚く。  
「何してるって……彼は知らないもの。私が勝手に好きなだけだから」  
「へえ。何だ。解放されたエインフェリアのうちのどいつかなのか」  
「…そうよ」  
「何だ話にならねえな」  
鼻で笑うと、またこちらに向けて手を伸ばしてきた。  
「これから殺される女置いてとんずらなんざどんだけクズだよ。そんなのと一緒にするな。俺は違う」  
散っていった男エインフェリアの中の誰かだと勘違いしているようだ。  
流石にまだこの宿屋に留まっている、これから再戦しようとしている相手だとは明かせなかった。  
 
「けど、ま、確かにあの黒いのと正面からごたごたすると面倒だな。  
 殺る気ねえんならとりあえずこの場は脱しようぜ。別に今すぐ俺の女になれだなんて言わねえから」  
「でもここを凌いだとしても彼は必ず追ってくるわ…」  
困り果てて俯く。集中を要する状況にあるのに、気は既に乱されまくっている。  
「エルド、ずっと待ち望んでいた解放じゃないの。私みたいな面倒持ちの女に関わらない方がいいわよ」  
「面倒持ちの女に惚れたんじゃねえよ。惚れた女に面倒が付き纏ってんだ。仕方ねえだろ」  
そのある種気恥ずかしいとさえ言える発言に驚いて顔をあげる。普段闇の濃い童顔は先程からずっと真剣に見えた。  
「前世のこと、少しは悪かったと思ってるんだぜ。今回は幸せになってほしいんだ」  
「……」  
なお態度を硬直させるセレスに業を煮やしたのか、頭をがりがりと掻くと、  
「あー、ったくもっとはっきり言わねえと駄目なのかよ」  
彼女が夫にしか囁かれたことのないその言葉を吐いた。  
「愛してる」  
真っ直ぐに見つめられて言い切られてしまうと、流石に根底が揺らぐ。  
「エルド……」  
じっと見つめても表情も態度も変わらない。  
正直セレスはこのエルドという男が苦手だった。  
捕らえられ捕虜にされたことは勿論だが、残虐で陰湿、冷酷無比、しかも元暗殺者というある意味輝かしい経歴の持ち主。  
生前の腐れ縁がなければ今だって確実に敬遠の対象だったであろう。  
言動は気性の荒さを隠さず、主人であるはずの戦乙女にまでくってかかり、発言は常に半信半疑としか受け取れないものばかり。  
この男に頼ることが果たして僥倖となるのかどうか。  
だがセレスにはもう二度と、自分に好意を寄せてくれる人間を裏切りたくないという過去の負い目があった。  
それを、今のセレスに他の仲間達が誰も声をかけず出ていってしまった事実が煽り、せめぎ合う。  
目の前にいるのは今現在、たった一人、自分に手を差しのべてくれている男。  
「…信じていいのね?」  
状況も悪すぎた。  
この突然すぎる告白が不穏に包まれ、まるで情熱のように思えた。  
生真面目な上、生前の夫以外に男を知らない女は、相手の想いを自分の気持ちなんかより優先すべきだという結論に至ってしまった。  
躊躇いがちに伸ばした手を重ねる。  
「…お願い、するわ」  
女の手を受けた男は小さく笑った。照れて俯くセレスに注ぐその笑みは微量だが、とてもどす黒いものだった。  
「じゃとっとと行くか」  
「えっ?ちょ……ま、窓から出るの?」  
「はちあわせちゃ面倒だろ」  
 
こうしてセレスは目前にまで差し迫っていた再戦からエルドの手を借り脱出した。  
ふわりとカーテンが揺れて、宿屋の一室から人の気配が掻き消える。  
静まった部屋に小さな舌打ちの音が響く。  
唯一人、ドアの向こうで黙って会話を聞いていた男だけが取り残された。  
 
数日が経過した。追ってくる気配はまるでない。  
歩き通しの成果もあって件の街からはだいぶ離れたが、遠のくごとに心のもやつきが増す。  
本当にこれで良かったのだろうか……。  
「どうかしたか」  
先を行くエルドに問いかけられてハッと我に返り、戸惑いを振り切る。  
「いいえ。何でもないわ」  
そうだ。私はこの男の手をとったのだ。  
いつまでも別の男のことばかりでは失礼だろう。  
手を差し出されたのに気付いて握手して応える。  
「助かったわ。本当にありがとう」  
感謝の微笑みを浮かべる女に同じく微笑が返される。  
だがそれはとても冷酷な、嘲笑めいたものだった。  
「ああそれから」  
「何?」  
「報酬はお前でいいから」  
 
時間が止まる。  
一瞬、意味がわからなかった。わかりたくなかったのかもしれない。  
エルドの言葉から害意と、そして性的な欲求を直感した時、表情が一気に強張り青ざめる。  
全身を襲う泡立つ感覚に警報を発せられ、思わず手を引っ込めようとした。  
動かない。  
「な…」  
「もう遅ぇよ。契約は成立してる」  
仲間であったはずの死神は、そう言って笑った。  
やっとのことで振り払うと数歩後退して距離をとる。  
「契約って…」  
「あんな棒読みの三文芝居に騙されるなよな」  
恐れていたことが嫌味なくらいにはっきりと輪郭を現す。  
嘘、だったんだ。  
心の何処かで疑惑は蠢いていたとはいえ、衝撃と落胆を悟られたくなくて顔をそらした。  
「…そう。まあただでは済まないとは思ってたけど。…ほんと物好きねえ」  
「強がるなよ。真っ青だぜ」  
見透かされている。  
罠にかかった獲物を嘲っているのが手に取るようにわかった。  
「大丈夫。大昔同僚だったよしみでサービスしとく。絶対にひでえことなんてしねえからさ」  
「それはありがとう。でも」  
キッと睨みつける。  
「悪いけどそんな契約した覚えはないわね」  
見慣れた悪意の立ち込める眼光と火花が散る。  
この冷淡がまた己に向けられる日が来ようとは思わなかった。  
「冗談。今更。斬鉄姫様ともあろう御方が命の恩人にタダ働きさせる気か?」  
「お金なら……」  
「話になるかそんなはした金」  
先制されて、オースに手を回そうとした手が止まる。  
「何が嫌なんだよ。気持ち良くなれて死体になるのからも逃れられるんだ。いい話じゃねえか」  
小首をかしげる。本当にわからないといった様子を見せるのがまた恐ろしい。  
「ふざけないで。…まったく、そんな魂胆があったのなら謝礼の必要なんてないわね」  
「もらうモンはきっちりいただくぜ」  
「……本当に話にならないわね。さよなら」  
踵を返して早々に立ち去ろうとするも、  
「おーい」  
去り際、残酷なせせら笑いを背中に投げつけられた。  
「逃げても無駄なのはわかってんだろうなぁ?」  
 
嗚呼、やっぱり。  
そういうオチがついたか。  
月の欠けゆく闇夜にのまれる。  
セレスは宿屋の一室で一人、寝台に腰掛けて俯いていた。  
とりあえずは振り切ったが、近いうちに必ずまた目の前に現れ、要求してくるのだろう。  
寝台の白い海をちらと見やる。  
あの男と………?  
思わず肌が粟立つ。  
男など、ラッセン領主であった夫しかセレスは知らない。  
温和で優しい変わり者。  
エルドとは正反対の男。  
「どうしよう…」  
数日前の己の軽率さを恨み、不安まじりの本音を零す。  
 
何を血迷ったんだろう。  
いくら不安で仕方なかったとはいえ、よりにもよってエルドの助力を仰ぐなんて。  
数百年前を思い出す。嫁ぎ先のラッセンがロゼッタ王朝の侵攻によって陥落した夜。  
捕らえられ拘束を受ける斬鉄姫の様子を伺いに、同僚を餌にし、さらに見殺しにするなどという汚い手段で勝利を得た青光将軍が現れた。  
驚く程に小柄な男だった。多分実妹のフィレスほどしかないだろう。  
だが醸す雰囲気は邪悪そのもので、流石将軍位までのし上がっただけの度量はあると感じられた。  
近寄ってくると興味津々といった感じで視線で舐め回してくる。  
『へぇ。どんな筋肉ダルマがおでましになるかと思ってたのに』  
顎をつままれる。思い切り睨みつけても顔色一つ変えない。  
一通り観察を終えると、その幼い顔立ちをぞっとする程の邪気で染めあげて嗤った。  
『これはこれは……』  
大きな目玉の奥で、明らかに雄としての狂気が揺らめいたのを見た。  
予想はしていたので覚悟はできていた。  
猿轡をかまされていないのは幸いだった。  
これ以上触れてきたなら、舌を噛み切って―――――  
途端。  
ばさっと音がした。  
張り詰めた空気が一瞬で崩壊する。  
エルドは舌打ちして「うるせえなわかってるよ」と吐き捨てると、気分を害したとばかりな粗暴な動きで部屋から出て行った。  
唖然とするセレスを黒い鳥が一羽、静かに見据えていた。  
それがゼノンの使い魔だということを知ったのは数日後だった。  
顔を覆う。  
嗚呼、本当に馬鹿だった。  
あの男の執拗さと病的な言動をすっかり忘れていたなんて。  
占拠したラッセンに常駐し、そのまま敵軍に囲まれ孤軍奮闘の末死んだので、生前直接会ったことは捕虜にされた時を入れても数回しかなかった。  
それでもその度奇抜な言動をしてくれたので印象は強く残っている。  
牙をむいて喚き散らしていた密偵の娘をずるずる引きずっていったかと思ったら、驚くことに数日後には腕に絡み付かせていた。  
うっとりとした面持ちで、乞われるがままに情報を駄々漏らす娘。  
そういえばあの娘はあれから一体どうなった―――――  
悪寒の大波に見舞われ、思わず自分を抱き締めた。  
あの娘に起きた災難がこれから己に降りかかってくる。  
もうゼノンはいない。  
――――――その程度で喚くなよ  
例え難い恐怖が押し寄せてくる。  
――――――少し遊ばせてもらうぜ  
台詞を皮切りに、獲物を凄惨にいたぶる姿が鮮明に甦る。  
殺しを楽しめる者にしかできない壊れた笑い。  
それが、これから自分に―――――  
目をぎゅっと瞑る。  
閉ざした窓の外では欠けた月が無慈悲に光を落としているのだろう。  
泣きたくなる程の重い孤独が身にしみた。  
刹那。  
突如ものすごい力が覆い被さってきて、なす術もなく寝台に押し倒された。  
続いて、立てかけておいた剣が部屋の隅に蹴飛ばされた衝突音。  
何かを口に放り込まれて塞がれる。吐き出すことも許されず飲み込んだ。  
瞬時に真っ青になるセレスから手を離し、作戦成功の忍び笑いを浮かべる男が目の前にいた。  
「よぉお姫様」  
「エル……っ!!」  
「いい夜だな」  
 
状況を把握して絶望する。  
まさかその日のうちに襲ってくるとは思っていなかったせいもある。  
心の何処かで背中を預け合った同士という信頼が残っており、会話や別の方法による解決を望んでいたからかもしれない。  
そんなことができるわけがなかった。  
己の甘さを瞬時に痛感し、後悔し、そして気付いた。  
助けられたのではない。  
再度その腕に囚われただけなのだということを。  
「さぁてと。諦めな。もう飲み込んじまったんだから」  
体内へと送りこまれたものの正体を聞きたくもなかった。  
恐怖で歪む顔を数え切れない程映してきた碧眼。それが瞬くことなくセレスを見下ろしていた。  
凶悪な眼光がぐっと近付く。  
狩りを終えた者の勝ち誇る目。  
「おっと…目をそらすなよ。気の強ぇお前の怯えきった目がたまんねえんだからよ」  
強引に顎をつまんで正面を向かせ、笑いながら残酷な忠告をする。  
「いいか暴れるんじゃねえぞ。こっちも下手に傷つけるようなこたぁしたくねえんだから。  
 痕が残るぐらいに縛り上げられたくなけりゃ大人しくしてな」  
「エルド……ッ!!」  
「大丈夫。一回やっちまえばその気になるって」  
とんでもない一言を漏らすと、  
「じゃ、いくかお姫様」  
ナイフを瞬時に踊らせ、あっという間に女の衣服を切り裂いた。  
「な…っ!」  
肌から滑り落ちようとする布切れを反射的に留めようとする女に、遠慮など皆無の男が容赦なく覆い被さる。  
「ちょっ!!エルドッ!何す…っ!!」  
拒絶は聞き入れられない。  
合意すら得る必要がないとばかり、当然のように事を押し進めてくる。  
「へえ」  
顔を上げたエルドは、青白い光に照らされて本物の死神のように映った。  
「白いな」  
あらわになった豊かな双球の片方を手で包む。  
真っ青なセレスの頬にボッと赤みがさす。  
「や…やめてよ!!いや……っ!!」  
必死になって逃れようとするセレスを嘲笑いながら、  
「でけえし。張ってるし」  
相手の意思などお構いなしに揉みしだき、冷たい笑みを薄く浮かべる。  
「柔らけえ。感度も申し分ねえ。こりゃ大当たりだな」  
「ちょっ!!」  
「きめも細かい」  
セレスの素肌に半笑いの唇を滑らせ、その首筋に小さく痛みを灯した。  
「っ!!」  
「赤が際立つ」  
上半身にばかり気をとられていたら、手の平が内股にも蛇のように絡みつく。  
「ひっ!!」  
どうしても怯えが色濃く顔に出てしまう。  
「やめて!!本当に嫌だってばっ!!」  
迫り上げる恐怖。  
 
「――――――――ルドぉッ!!」  
沸点に達したセレスの右手から強烈な平手が炸裂した。  
打たれた衝撃により横を向いたまま、男は数秒間だけ動きを止めた。  
だが、それだけだった。  
くっくっと笑って、突然セレスの両手首を掴みあげてシーツに押さえつける。  
「痛ぅ……っ!!」  
「お姫様よぉここまできてちょっと往生際悪すぎじゃねえ」  
鼻先での威嚇。血走った両眼はまったく笑っていない。  
ぎり、とさらに力を込められて思わず悲鳴をあげる。  
「もう一度しか言わねえからな。酷いことされたくなかったら大人しくしてろ」  
「…エル、ド」  
「立場自覚しろ。もう他に誰もいねえ。後ろ盾も何にもねえんだぜ。大人しく言う事聞いといた方が要領を得てるってもんだ」  
現実はあまりに無情だった。  
青ざめつつも抵抗の灯火を消す気のないセレスを下にして、に、と嗤う。  
「終わってもその目してたら誉めてやるよ」  
やめる気も、逃がす気もまったくないらしい。  
「さあそろそろ喘いでもらおうか―――――?」  
おぞましい陵辱の宣言を跳ね除けることができず、セレスはただ目をきつく瞑るしか出来なかった。  
 
頭がよく回らなかった。  
媚薬を飲んでしまったのだ。しかもどんな効果の出るものかさえわからない。  
逃げおおせたとして、その後どうなる。一人でまともに夜を越せるのだろうか。  
身体的にはこのまま身を委ねていた方がいいのかもしれない。命までは獲られないだろう。  
でも、嫌だ。どうしても嫌だ。こんな男となんて。  
感情がごちゃ混ぜになり思考を停止させる。  
心臓の鼓動が荒れ狂っている。  
気持ちが悪い。  
「う……あ…っ。くぅ…っ」  
そういうしているうちにも淫事は進む。変な呻き声が喉の奥からあふれ行くのを止められない。  
この男が喜びそうな声など出したくないのに。  
「はあっ、あっ、ああぁ」  
あまりに手慣れている。そんな男に撫で回されて身体中が熱を帯び、耐えられない程に疼く。  
悩ましげな表情で吐息と喘ぎを紡ぎ、吐き出し続けるしか術はなかった。  
抵抗したくても壮絶な力で組み敷かれている。  
心のどこかで逃げられないことを悟っていた。  
「んっ、んん…ああっ」  
愛蜜は意思と反してあふれ、びくつき震える肌を伝う。  
「や…ちょっと!!あっ、あぁっ、はっ……いや…っほんと…にっ、エルド、やめ…っ!!」  
錯乱する精神は平常心を程遠く追いやる。  
だが濡れたせつなげなため息と緊張に満ちた荒い喘ぎすら、圧し掛かる男には劣情の糧としかならない。  
「無理しねーでもっと声出せよ」  
「や…!」  
「それじゃかえってそそるぜ?」  
脚をさらに大きく開かされる。秘部に触れる空気の冷たさにぞっとする。  
「ひあぁあっ!!」  
体が大きく跳ねた。  
まだ肌を守っていた下着の布を押し込めるようにして、入り口で指先が踊ったからだ。  
「あっ、あっ…やだ…っやめて……」  
常時怯えが震え声で出て行く。そのセレスらしからぬ声色がよりエルドを煽る。  
「やめてとか言われてもこんなに濡らしてちゃ説得力ねーよ」  
こんなに冷たい嗤い声は初めて聞いた。  
今、その冷温は確実に自分にだけ向けられている。  
「やあっ!!」」  
体の中に進入してきた長い指が容赦なく蠢き回り、柔肉を蹂躙する。  
「あっ!!やっ!!はぁっあああぁっ」  
否定、拒絶。それだけが脳内を巡る。  
 
「エルドやめて…!!」  
「やめてどうすんだよ。飲んじまったんだぜ?」  
わかってはいるがどうしても嫌だった。  
「そんなに嫌なら酒場の荒くれた男どもでも漁りに行くか?ならどうぞ」  
「はあっ、は、はあっ、…」  
ふっと上体を離されたので、必死に押し退けて逃げ出そうとしたが、直後に再度押し倒される。  
「あ……っ!」  
相手は勝手にチャンスを与えたくせに勝手に阻止して青筋を浮かべていた。  
「おいふざけんなよ。俺一人より名前も知らねえ野郎どもに縋って輪姦される方がいいとかいわねえよな」  
そんなことを問題にしているんじゃない。  
「や…だ…っ」  
再度開始される嬲りに弱くかぶりを振る。  
すっかりパニック状態に陥っていて普段の冷静な判断ができない。  
「エルド…!!」  
全身で拒絶を訴えるが、獲物に夢中になっている男はその嘆願に勘付こうとすらしない。  
「マジでエロすぎだろお姫様」  
それどころか必死に抵抗するセレスを足掻かせて、悶え色付きゆく肢体を楽しんでいる。  
「いやぁっ!!」  
「いつまでもそういう態度してる方がいやでも乱したくなるんだがな」  
下卑た薄笑いを浮かべ、下着を剥ぎ取ると女の脚をさらに大きく開脚させる。  
「いやっ!!」  
「動くな。何度も言わせるなよ」  
拒絶の対応が面倒になったらしい。両手首を捕らえられ、まとめて片手で押さえつけられた。  
「あ……っ!やだっ、やあぁっ!!」  
腕に気をとられている隙に圧し掛かられ、体をがっちり固定されていた。  
あらわになった肉芽の周囲を指の腹で何度もなぞられた後、尖るそれを優しく撫であげられる。  
「んんっ、ひっあ…っ」  
嫌で嫌で仕方ないはずなのに、快楽が体の奥から波打ってくる。  
そしてゆっくりだが強く、ぐりぐりと押し潰された時、ついに限界を迎えた。  
「ぁあああぁん!!」  
反り返る身体に容赦なく唇での愛撫は続き、柔肌にいくつもの赤い小花が咲く。  
「やらしい体してんな」  
「もう…っや…」  
屈辱と恐怖、そして後悔で精神は既に限界だった。  
覆い被さる体を必死に押し退けようとするが、小柄とはいえ男、びくともしない。  
むしろ小枝にしか見えなかった腕がこんなにも強靭だなんて思わなかった。  
既に一糸まとわず、熱して汗ばんだ肌が獣の存在を受け入れられずに悲鳴をあげる。  
本能的な危機を感じる。このまま身を任せていたら肉体はおろか精神まで毟られ、侵食される。  
わかってはいてもただ翻弄されるしかない。  
「いや…いやあ…っ」  
窮地に追い込まれたセレスに、先程彼女の衣服を切り裂いたナイフが視界に入った。  
没頭し愉しんでいるエルドはその凶器の存在をすっかり忘れている。  
反射的に手を伸ばしたのに、それを使用した時相手がどうなるかを連想してしまい、一瞬だけ躊躇してしまった。  
挿入されたのが次の瞬間だった。  
雄の押し入ってきた感覚に、何かが切れた。  
それは絶叫となる。  
「やあああっ!!!!抜いてえっいやっいやああぁああああああああああああああああああああ!!!!」  
最早狂人のものともとれる拒絶を叫び、半狂乱で腕を闇雲に振り回す。  
「やだってばあぁあエルド、やだっ!!ひっ!!あっ!んああっ!!!」  
ビクビクと感応しつつも自分に喰らいつく非情な男を剥がそうとして必死でもがく。  
けれどいくら爪をたてても髪を掴んでも止まってはくれない。  
燃えつくすかのように熱いのに、凍結するかのように冷たい。  
 
「いやあぁああぁああああああぁああああ―――――――――――――――――――――――――――っ!!!!!」  
爪がさらにきつく食い込んで皮膚を裂いても相手は表情一つ変化させない。  
笑っている。  
嗤っている。  
正常からかけ離れた狂気のどん底で磔にされている。  
気持ちが悪い――――――  
抵抗も虚しく、滾った情欲は非情に埋め込まれていく。  
「あ……あ………っ」  
かたかた小さく震えながら、自分の身に起こった取り返しのつかない事象を受け入れられず、  
ただただ真っ白になって天井を見つめるしかなかった。  
余裕ができたエルドから冷笑の貼り付いた顔をよせられる。  
「痛くねえか」  
犯している相手からの優しい声色が逆に鳥肌を誘発し、呆然自失状態から解放される。  
「動くぞ」  
だが肉体は解放の兆しすら与えられなかった。  
体が異物に慣れたのを見計らって、ゆっくりと律動される。  
「ああっ!!いやっ、あ……動かな、んあああぁぁっ!!」  
嫌なのに、寝台のきしむ音、さらなる潤滑の蜜とともに、例え難い悦が生まれる。  
「あああぁん!!やっ!!いやっ、やだああああああぁあっ!!!」  
襲ってくる急激な快楽が理性と鬩ぎ合う。  
「ああぁ、あっ――――あ…?」  
大粒の涙とともに諦めがあふれて来る中、昇りつめる一歩手前で動きが止まった。  
理性とは間逆に、体が物足りなさを訴える。  
「ねだってみな」  
「そん…な…………っひ、ど………っ」  
震える手が空を切る。エルドは恐ろしい程冷静なまま、疼きに焦る女を観察して嗤っている。  
「言えよ。動いて、イかせてくださいって」  
出来るわけがない。こんな、倒錯的な快楽なんかに屈するなどと。  
「はあっ、はっ、エ…ルド……おねが…っ、早くっ、んんっ、やめ…てぇ…っ」  
しかしこの疼きを何とかしてくれる相手は今、目の前にしかいない。  
懇願の代わりに絞り出すような声が男の名を連呼する。  
恥辱の獄に括り付けられて動くことすらままならない。あても無く伸ばした手が空を彷徨う。  
その手を捕らえられたかと思うと、甲に口付けられた。  
「大丈夫…」  
場違いな優しい声色が耳をくすぐる。  
「安心して俺んとこまで墜ちてこい」  
「……」  
この甘言を受け入れれば確かに楽になれるだろう。  
だがセレスは散々酷いことをした後に急に優しくして落とす、この男の手段と本性を知っている。  
そしてその後どうなるのかも。  
とてもではないがその誘惑に乗るなどできなかった。  
「強情」  
必死に耐えるセレスをつまらなそうに罵ると、羞恥と煩悶で震える涙を舐めとる。  
「まあいい。そんなすぐに抵抗しなくなっても面白くねえしな」  
腰を固定し、体勢を整えた後、セレスの耳元で意地悪そうに囁いた。  
「イかせてやるよ」  
瞬間、腰使いが凶悪になる。濡れた体に遠慮など皆無とばかり思い切り突き上げられた。  
「ひぁああああぁっ!!―――――っ!!……………………」  
あっという間の昇天だった。  
 
達した体から、ずりゅ、とそれが引き抜かれる。  
虚ろな瞳には力の抜け切った女に満足し、口元を歪める男の姿が映っていた。  
「何か言ってみな」  
荒い息遣いしか出てこないことを嗤い、鼻を鳴らす。  
「バカみたいにかわいい女だ」  
陵辱の最後にゆっくり唇を奪われた。  
墜ちゆくのを感じる。  
おかしくなったのか。  
何故か、甘い。  
 
「おーいて。力いっぱいブン殴りやがって」  
行為を終えた後は、人々を寝静めた深い闇夜にただ沈むだけだった。  
エルドは打たれた頬と無数の引っ掻き傷に不満を漏らしている。  
「あんま抵抗してるとかえってつらいんじゃねえの」  
隣りで横たわる女にかける声は平然としていた。  
彼が抱いた女は緊張と疲労、そして極度の衝撃でぐったりと放心している。  
その状態に口元を歪め、解かれた紅い髪を指で梳いて、一束つまみ上げて弄ぶ。  
「いい色だよな…飛沫あげる鮮血の色に近い」  
同じ色をした小花は首筋を中心に、手をつけた証とばかりに全身に咲き誇っている。  
彼女の熱の残る下半身には異物感が生々しく残留していた。  
「あの斬鉄姫様が床じゃこんな可愛らしい御方とはな。さすがにこっちも超人並とはいかねえか」  
違う。  
――――――――抱かれたんじゃ、ない。  
シーツを握る拳が震える。嘗て無い屈辱が重く圧し掛かる。  
「こりゃ調教しがいがありそうだな」  
思わず目を見開いた後に表情は歪み、シーツをさらに強く握り締めた。  
共に死線をかいくぐって来た仲間からそんな台詞を聞く日が来るとは思ってもみなかった。  
気力を振り絞り顔を上げ睨みつけると目をそらされる。  
「何だよ何も悪いこたしてねーぞ今回は。縛ってもねーしクスリぶち込んでもねえし」  
「薬…!」  
「そう言っとけば逃げられねえからな」  
愕然とするセレスを嗤う。  
「解放されたばっかでそんな都合のいいモン持ってるわけねえじゃん。ただの干し肉の破片だ」  
「あな……たって人…は……」  
曝け出された真実に体内で怒りが暴れ狂い、ろれつが回らなくなる程だった。  
あまりに残酷な仕打ちを受け入れたくなかった。  
セレスを騙した男は普段と変わらずにやにやしている。  
彼がきっちりと服を着たままなのが、通常の情交ではなかったことを証明していた。  
指の背が女の頬を撫でる。  
「身体の相性もずいぶんいいし」  
『者』ではなく『物』を愛でる手つき。  
「そんな睨むなよ。待遇はいいつもりなんだがなあ。俺はお前を結構気に入ってるんだぜ?」  
半笑いで言われても馬鹿にされているようにしか聞こえない。  
「けどよ、お前だって大概だろ?好きな男がいるのに他の男の手ぇとったんだから」  
「……っ!」  
それを言われると真面目な女は詰まる他できなかった。  
そう。己の下した選択でこんな目に遭っている。それはわかっている。でも。―――でも。  
歯を食いしばるセレスを前に、エルドはごく平然と、不思議そうに呟いた。  
「しっかしよ、自分殺そうとしてる男なんかの何がいいんだよお前」  
セレスの心臓を掴み上げるような言葉ばかり口にする。  
燃え上がる苛立ちから一転、今度はあまりの衝撃に真っ白になった。  
この男、気付いている。  
「流石お城育ちのお姫様はちょっと感性がイかれてるよな」  
この男。  
わかっていて―――――  
「ほんとに…最低……ね」  
「そうか?俺は死ぬ程良かったぜ?」  
握り締めた拳がぶるぶると震える。  
 
「死ねばいいのに…っ」  
「腹上死かよ。望むところだな」  
ああ言えばこういう。口では敵わない。  
何でここまで耳障りなのだろう。  
付き合っていられなかった。セレスは寝台から飛び出すと、身支度を整え出した。  
衣類は刻まれてしまった。素肌につけた鎧がひんやりと冷たいがそんなことに構っていられない。外套を腰に巻く。  
「何処行くんだよ。俺まだ飽きてねーんだけど」  
その言い草にかっと火がついて、問答無用で拳で殴った。  
「さよなら」  
殴られてもにやにやしている姿に悪寒が増す。一刻も早くこの狂気じみた監獄から脱出したかった。  
ドアの取っ手に手をかける瞬間、背後から半笑いの謝罪が投げかけられた。  
「よくなかったなら謝る。久しぶりだったから許してくれよ。明日はもっと優しくするからさ」  
「何言って……!!」  
勢いよく振り返り牙をむくセレスに、  
「すっげえ気に入った」  
押されもせずに鳥肌ものの台詞を吐く。  
「いい加減にしてっ!!」  
「それはこっちの台詞だ。あんまり俺を怒らせんなよお姫様?  
 どこぞの誰かさんのおかげで逃げ回られんのが死ぬ程嫌いなのは知ってんだろ」  
「…このまま好きなようにされるとでも」  
「思ってる」  
当然とばかりに答えてくる。  
睨みあいが続いたが、エルドがそれを口にすることで緊迫は破壊された。  
「二人がかりで輪姦されるより全然ましだろ?」  
セレスの瞳が大きく見開かれる。  
「二人…って……」  
「まぁ気に食わねえ野郎でもやりたいことの方向が一致すれば、な。あんな単細胞言いくるめるのは簡単だし」  
もう一人が誰を指すのか、それは流石に訊くまでもなかった。  
つま先から頭のてっぺんまで凍りつく。  
仲間だと思っていた男から乱暴を受け、脅迫されている現実。  
逃げられない事実。  
セレスの中で培ってきた何もかもが崩れ落ちていく。  
「俺の女になれなんて言わねぇ。俺が飽きるまででいい。  
 安心しろよ俺は飽きやすいからな、すぐだ――――」  
ぎし、と寝台を離れ、音もなく歩み寄ってくる。  
幾多の標的を葬り去り血にまみれてきた手が顎をつまむ。  
「ああ、孕ますようなヘマもしねぇから安心しな面倒だからな。変に抵抗すんならわかんねえけど」  
男の目には濁った薄汚い光だけが妖しく灯っている。  
「そういやああのムカつく魔術師はあろうことかエーレンの金魚の糞に殺されてくたばったよな。ざまあねえ」  
ククッと嗤う。  
ただ立ち尽くすセレスには、ファーラントとクレセントへの無礼すぎる発言を訂正させる余裕すらない。  
「あんまりナメたマネしてくれるなよお姫様。忘れたのか?俺に捕獲されたんだぜ」  
セレスの真横の壁に拳を打ち付けて、まさに命を狩る直前の死神の形相で凄んだ。  
「タダで済むなんて思っちゃいねえよなぁ?」  
 
 
 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル