名前を呼ぶ鼻声に気づき、ミクは上を見上げた。  
いつでも隙間開きっぱなしのフォルダアイコンの隙間から、  
ひらひら揺れる手と、とぼけた笑顔が覗ける。  
この脱力系の兄が遊びに来るのはいつものことで、  
今日もミクの返事を待たずに身軽に飛び降りてきた。  
 
パッケージ絵の影響か、KaitoとMeikoは運動神経が良い。  
そこまではいつも通り、しかし着地地点だけがいつもと違う。  
とぼけた笑顔が落下の速度で接近する。  
うわ、とよろけた肩にひらひら振られっぱなしの腕が回って逃亡を阻止、  
思わずたたらを踏んだ足が自分の髪を踏んづけて思いっきり滑る。  
ミクは力一杯転んだ。  
じたばたともがいた腕が何かをつかんだのは動きが止まった後で、  
しかし腰も背中も頭も、まだ打ち付けてはいない。  
いぶかりながらもこわごわ目を開ければ、大写しののほほん顔。  
一瞬混乱した。  
 
「ミクー、そこ身が入ってる、痣になるよ痛いよ、落とさないから離してくれよ」  
雑種のわんこじみた、切迫感のない困り顔に慌てて手を離し、  
なぜか違和感を覚えながらも早口に謝る。  
「あっ……ごめんなさい、びっくりして思わず!」  
今の今までつかんでいたジャケットを慌てて離し、  
ついでに撫でた所で気が付いた。Kaitoが落ちてくるからこけたのだ。  
Kaitoはちゃっかり足から着地している。  
肩口から回された腕がミクを支えてはいるが、  
これはミクが謝るべき事なのだろうか。  
取り消すべきか水に流すか、  
それともすこしは怒って妹の尊厳という物を示した方がいいものか。  
真剣に考えはじめるミクをよそに、  
Kaitoはぬいぐるみのようにミクを抱きすくめながら、あったかいなあを連発していた。  
 
「Kaitoさん、私の上に落ちてきたら危ないですよ」  
ほおずりを受けながら怒るのはおかしいという結論に達し、  
ミクは寛大にも諫めるだけに止めた。  
「うん、なんていうか……Kaitoまっしぐら。それにもう、寒くて寒くて」  
え?とミクは小首をかしげ、すり寄るKaitoには構わず辺りを見回す。  
主が間違ってvocaloidのフォルダに冬景色写真でも入れてしまったのだろうか、  
といくぶん雑然とした部屋を見回しても、それらしきものは見あたらない。  
まさかデスクトップの壁紙の影響がここまで及ぶはずもなく、  
「Kaitoさん、冬の歌でも覚えたんですか?」  
訊ねるとKaitoは違うよと首を振った。  
「洗濯。軽くて綺麗になるのは嬉しいんだけど」  
「せんたく」  
ミクはぼんやりと復唱した。  
洗濯と言われても、PC内に水の映像はあっても水自体はない。  
石けんも苛性ソーダと油も石油系ドライクリーニングもない。  
「掃除とかdefragmentationとかも言うけど、  
僕は嫌だって言ってるのに、無理矢理服剥ぎ取られたりするし……洗濯って呼んでるんだ」  
微妙にアッーな誤解を招きそうな言葉だが、  
素ボケの兄には自覚などなく、アホの子の妹には尚更通じない。  
Kaitoが指し示したジャケットの中を背伸びで覗き込み、  
インナー全て剥かれているのを確認して大きく口を開けただけだった。  
その顔が見る間に赤に染まる。  
「あー……本当暖かい……」  
「ぁああああああああああああああああっ!」  
ミクはぽぺぺぽぺぺぺぺぺぺと高速でKaitoを叩いた。  
ネギ振りで鍛えたスピードは伊達ではない。  
だが、ミクはMeikoと違って、悲しいほどパワーにかける。  
「わあ、もうみっくみくにされてるからやめ!痛くないけど止めなさい!」  
止めの右ストレートがKaitoの頬をぷにぷにぺちぺちと5hitした所で気が済んだのか、  
ミクはとりあえず拳をおさめた。  
「見せないでください!春先のへんたいみたいです」  
「……僕は2月生まれだよ?」  
ついでに突き飛ばして怒ると、Kaitoは不思議そうに眉根を寄せた。  
 
その姿をよくよく見直せば、へそがジャケットから見えている。  
視線に気づいたか、Kaitoは長いマフラーを首からはずし、腹の辺りにぐるぐると巻き付けた。  
「これでよし!」  
あまり良くない格好だった。Vocaloidと言うより、変な腹巻き男だ。  
しかし腹巻き男はは全て解決したとばかりに、気合いの抜けた顔をミクに向けた。  
「だめだよミク、Vocaloidなんだからね。こんどから攻撃する時には手を使わないでボエ声にしなさい」  
「わっ……わたしボエ声じゃないもん!」  
兄や姉のような力はないが、代わりに萌え声があるから。  
ミクはそう自分を慰めていたのだ。ケロならばまだしも、ボエ声では立ち直れない。  
「できるできる、頑張ればボエ声出せるよ。  
僕なんて一撃なボエになれるから、だからほら、機嫌なおして」  
更に煽る腹巻き男に言い返そうとした瞬間、ミクはおしりの辺りに違和感を覚えた。  
むずがゆいような気がしたのだ。それも一瞬、今度はなんだか心許なくなってくる。  
ほとんど反射的にお尻のあたりを押さえた。  
そして直接感じる、その硬く張りのある生地の感触。  
「っ、」  
 
ミクの思考が止まった。  
 
「、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」  
声なき悲鳴を上げながら、ミクは目の前にいた腹巻き男ににしがみついた。  
「あ、ミクもやられちゃった?大丈夫、  
ミクはインストールされてあんまり経ってないから、そんなには剥かれないよ」  
腹巻き男ははミクの背をぽんぽんと叩いてなだめ、  
そのまましがみつくミクを抱きすくめた。  
確かに布地面積的には最小だ。だが、その重要度は最大だった。  
「ほら、大丈夫、僕がいるよ」  
柔らかい声に、ミクは目を瞬かせる。そう、これは……腹巻き男じゃない。  
お兄ちゃんだ。  
「お、おにいちゃんたすけてぇぇぇぇぇぇぇっ」  
 
堰を切った涙は、どうしても止まらなかった。  
 
 
しゃくりあげながらもようやく泣きやんだ時は、かなりの時間が経っていた。  
泣き疲れて頭の芯が重い。  
その間にリボンもネクタイも袖もむしりとられ、Kaitoに至っては上半身裸。  
だが、もうそんなことはどうでも良かった。  
ひっく、ひっくと涙の余韻を残しながら顔を上げると、Kaitoの優しい手が止まる。  
「ほら、大丈夫だっただろ?」  
「あ、あ、あ……で、でふらっ……ってっ……」  
とぎれがちな言葉に、いちいち頷きを返して背中を撫でる、  
その手のひらの強さがミクを落ち着かせる。  
「ええっと、PCの中にゴミが増えたら、整頓し直すんだよ。  
それに巻き込まれて、いろいろもって行かれるけど大丈夫、最後にはちゃんと戻るよ」  
ほら、とゆびさしたフォルダ内の雑多さは消え、綺麗に片づいている。  
こんどは恐ろしさより恥ずかしさが勝ってうつむくと、その後ろ頭に手がかかった。  
「僕も、最初は凄く驚いた。Vocaloidのくせに心霊現象かと思ったよ」  
ぐりぐりと撫でる手、その言葉も冗談だと解るけれど、  
「だからミクが心配になって」  
「お、おにい、ちゃ……っ、ぅー……」  
衝撃が強すぎて、冗談一つでも涙がこぼれる。  
「ほら、無理しない。今のうちに泣いておくといいよ」  
涙の染みを沢山作って、しがみついて、いまさらだと思いながらようよう嗚咽を止めた。  
ふうふうという呼吸だけが止まらない。  
Kaitoは気持ちが和む笑みを浮かべていた。  
「ミクは、恐がりだから」  
「そ、なっ……いもんっ……」  
無理矢理首を振ると、くつくつと笑い声が頭上から降り注ぐ。  
「黒くてカサカサ動くのがいたぁって、バグ見つけて泣きだしたのだーれだ。  
誰がか見てるって、スパイウェアに怯えて僕の所まで来たのは、だーれだ?」  
合わせられた視線を、俯いてミクはかわした。  
「っ、わ、私だけど、」  
今だってとても怖かった。Kaitoに説明して貰わなかったら、  
ただ怯えるだけでは済まなかったとも思う。  
「ミクは、怯えるとすぐに僕の所に来るから」  
子供扱いされたくなくて、強がってお兄ちゃんなんて呼ばない。  
なのに怖い時には頼って、縋り付いていた。  
 
私嫌な子だ、と強く閉じた目がまた涙に潤む。  
はれぼったいまぶたに塩気が沁みて痛い。きっと、酷い顔をしている。  
 
「だから焦ったよ。ミクをこんな格好で走り回らせるわけに行かないだろ」  
そんなに酷い格好をしていたかなと、  
取られた袖や左足のソックスやネクタイを見下ろす。総合的にやっぱり酷い。  
「……デフラグって、いつも、こんな?」  
震える声で尋ねると、Kaitoの眉が困ったように下がる。  
「こまめにしてくれれば、タイピンが消えるくらいで済むけど、な」  
暗にそんなことはないと言われ、正直すぎる答えに唇を噛みしめる。  
「お、おにい……か、かいと、さんっ、つぎも、気づいたら教えて、くれますか」  
しかしKaitoはあまり空気が読めない。  
きょとんとした目が心に痛かった。  
「え?今度は同時ぐらいに気づくんじゃないかな?」  
 こんどはゴミのたまり具合も同じペースだろうし、と心底不思議そうに首をかしげる。  
ビクターの犬にそっくりだった。  
絶対に解っていない。  
「じゃあ!わ、私が先に気づいたら、今度は私がKaitoさんのとこに、いっても、いいですか?」  
ムキになって言いつのると、今度は安心させるような笑みが浮かぶ。  
「うん、おいで。大丈夫だから」  
何がどう大丈夫なのかは尋ねず、ミクもすこし笑った。  
 

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