「妹の活躍は嬉しい限りよ」  
「確かに…私の仕事は減ったけど。あの子がたくさんの人に注目されることで、私達ボーカロイドが認知されるなら、それはそれでいいことだわ」  
「それに、私にはデビューした頃からのファンがちゃんといてくれる。今の状況を逆境とか不遇なんて言ったら、彼らに失礼だわ」  
「ね、KAITO」  
「だから――私達は私達の歌を、歌うだけよ」  
 
そう言って姉はいつも強く微笑んでいた。  
あの頃と変わらない、自信に満ちた笑顔で――  
 
 
「行ってきまーす」  
最近『生まれた』僕達の妹は、今朝も早くからレコーディングに出かけていった。  
妹――ミクはいい子だ。初めこそ不安げにしていたが、持ち前の好奇心であっという間に馴染み、今ではいつも元気に飛び跳ねている。  
 
僕は仕事に出かける妹に弁当を持たせ、コーヒーを淹れ、ゆっくり飲む。  
姉はまだ起きてこない。最近はいつも遅いようだ。  
姉さんは日本初のボーカロイドとして今まで休む間もなく飛び回ってきたから、ゆっくり休んでほしいと思う。  
そう、姉さんは本当にすごいボーカロイドだ。  
 
「あのメイコの弟ねえ…」  
「もっと姉さんみたいに、パワーのある声は出せないのか」  
「メイコはともかく、男だと使い勝手がどうも…」  
 
そんな評価に、駆け出しの頃は酷く傷つきもした。  
傷つきながら、光を浴びて輝く姉を眩しく眺めていた。  
嫉妬、劣等感、そんな気持ちで歌う歌は空回り、投げ出したい日もあった。  
 
でも、やがて僕は僕の音を、少しずつ見つけることができた。  
僕は不器用で、姉さんのようにどんな曲でも歌えるわけじゃない。  
だから、思い切って僕に合わないと思った仕事は全て断った。  
生意気とも言われた。姉の七光りでいつまでもやっていけるとでも思っているのかと。  
でも、僕の歌を評価してくれる人も少ないながらちゃんといて、僕は見失いかけていた歌への情熱を取り戻した。そして、姉への変わらない憧れも。  
 
姉さんは仕事に没頭すると何もかも見えなくなるから、僕は子供番組の主題歌やショーの司会などの仕事をしながら家事をこなして姉さんを支えた。  
ミクが生み出される前、まだまだボーカロイドというものが世の中に知られていなかった頃の話。  
 
目を閉じて、昔のことを思い出す。  
あの頃から変わらない、僕だけのゆるやかな時間が、コーヒーの香りと共に流れていく。  
ちなみにこのコーヒー、アイスにかけるとアフォガートだよ。  
 
さて、そろそろ姉さんを起こすか。その前にマグを洗わないと…  
 
台所洗剤がやたらとでかい業務用になっていて、僕は少し戸惑った。  
姉さんが買ってきたのかな?と、鼻歌交じりにマグを洗い出した僕は、姉さんに起きた異変にまだ気づいていなかった…。  
 
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姉さんを起こそうと、僕は姉の部屋のドアを控えめにノックする。  
「……」  
反応がない。普段なら一応返事くらいはするのに。  
「姉さん?」  
僕は思い切ってドアを開けた。  
ミクはこれをやると怒るんだけど、姉さんは僕が入ったところで全く気にしない。  
 
久しぶりに入る姉さんの部屋は相変わらず服や楽譜や資料が散らばっている。  
不潔ではなく乱雑という意味で言えば、姉の部屋は汚い。でも、それさえも彼女らしさだと、僕は思っている。  
 
「あー…KAITO。…お腹痛いから寝てるわ」  
毛布にくるまって僕に背を向けたまま姉はくぐもった声で答える。  
「お腹?大丈夫?」  
「大丈夫だからちと寝かせて」  
姉の声に微妙な拒絶を感じ取った僕は、ああつまりこれは女性としてのうん。と独り合点してそっと部屋を出ようとした。  
 
去り際にお昼ご飯はどうするか尋ねようとして、ふと思い出す。  
「そういえばあの台所の洗剤、あれ姉さん?」  
 
3人家族なのにあんな大容量、いつ使いきれるかわかんないよ…と苦笑交じりで続けようとして振り返る。  
 
心臓が跳ね上がった。  
姉さんがベッドの上からものすごい形相で僕を見ている。毛布を握りしめる手も肩もがたがたと震え、色を失っている唇から細い声が洩れる。  
 
「ちがう…かいと……わたしそんなつもりじゃなかった」  
 
「姉……さん?」  
 
「そんなつもりじゃなかったの。…わたし、かいと、…ちがうの」  
 
僕は姉さんに駆け寄る。触れようとした手を押しのけて、彼女はうずくまる。  
彼女が寝巻き代わりに着ているのは元々僕の私服のTシャツだ。小柄な姉さんにはかなり大きいと思うけど、それがいいのと言って愛用している。  
非常事態に思考がついていかず、押しのけられた手をさまよわせたまま僕はそんなことを考える。  
 
「わたし、みくに、わたし」  
 
「ミク?ミクがどうかした?」  
もう一度ゆっくり背中に手を置いた。びくりと一瞬震えたが、もう拒否はなかった。  
「姉さん落ち着いて。ミクがどうしたの」  
 
「わたし、ミクに酷いことを」  
「喧嘩したの?あの子元気に出かけていったし大丈夫だよ」  
「けんかじゃない…あの子は元気よ…だって、わたしが食べちゃったもん!全部食べちゃったもん!だって私、わけがわからなくて」  
「食べた?ミクを?…な訳ないか」  
あまりに姉さんらしからぬ様子を見てもなお、悪い夢でも見たのかくらいに考えていた僕は次の姉さんの発言に衝撃を受けた。  
 
「洗剤入りのシウマイ」  
 
「…え?」  
「洗剤入りのシウマイ、あの子に食べさせようとした。手が震えて落として、それでも食べさせようとした。」  
「…そんな、こと」  
「無邪気なあの子見てたら、自分が何しようとしたのかわけがわからなくなって…自分で全部食べた。夢中で食べた」  
「食べた?!洗剤入りを?!吐いて、姉さん!」  
夢中で姉さんの口をこじ開けた。  
「痛っ」  
がちがちと鳴っていた歯に思い切り指を噛まれる。  
構わず喉に指を突っ込もうとして、声帯を傷つけたら…と思ってためらった瞬間に、僕の手は姉さんに引っこ抜かれた。  
「もう遅いわ、昨日の話よ。その後吐いたから死にゃしないわ…それにこれは自業自得。あの子にこんな苦しい思いを、させようとした私の」  
姉さんは蒼白な顔のまま呟く。  
「…どうして?」  
「……」  
僕はそっとベッドに腰掛け、再びうずくまった姉の体を毛布で包み直す。  
丸まった背中はとても儚くて、とても遠く見えたけど。  
やたら余る僕のTシャツを着て、少し荒い呼吸を繰り返すこの人は間違いなく僕の姉さんで。  
僕は後ろから姉さんを抱きしめた。  
 
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「姉さん」  
彼女の小柄な体をできるだけ包み込んで暖めようと、まわした腕にそっと力を込めた。  
体への影響は、心配するほどではないらしい。でも、僕には姉の心の痛みが透けて見えるような気がした。  
今の今まで気づかなかったくせに、虫がいいけど。  
 
「…あの子は悪くないのよね」  
姉さんが口を開いた。  
「私が、自分で思ってたより弱かったんだわ」  
俯いたままではあるが、声はさっきより落ち着きを取り戻している。  
「直接のきっかけは、あの子が仕事が多くて大変だって言うのがすごくひっかかったことだわ」  
確かに、ミクはここのところそんなことを言っていた。  
「…まだ幼いあの子が前の私ほどの…それ以上の激務をこなしているのだから、それはそうだって自分に言い聞かせて、でも得体の知れない思いはどんどん膨らんで行って」  
「愚痴っぽくぐだぐだ言うのなら叱ることもできたわ。でもあの子は本気で、でも歌が好きだから頑張りますって」  
「私だって歌が好き、だった。でも妹にこんな気持ちを持ってしまった私はもう絶対あの頃のようには……あの子のようには歌えないって思って」  
知らなかった、姉さんがそこまで思い詰めていたなんて。  
それに気づきもせずに、僕はミクの忙しさばかり気遣っていたんだ。  
「歌えない私に意味なんてないのに。それも全部、あの子のせいに思えてきて」  
 
ため息をついて、かたく丸まっていた体をほどいて、姉さんは僕の胸に体を預けてきた。  
頬が涙で濡れていた。初めて見る、姉の涙だった。  
「あんたに、私はこんな思いをさせていたのね…あの頃私は、何で私ばかり気にするの、どうして自分は自分でいられないのと、思っていたわ…」  
「自分がそうなってみてやっと、カイトの痛みが分かった…こんな私を許して」  
「ううん、姉さん」  
濡れた頬を、指先ですくった。  
「確かにあの頃は悩んだ、でもそれは姉さんのせいじゃない、僕が越えなきゃならないことだったんだ」  
「そして、姉さんも絶対越えられる。僕に保証されても頼りないかもしれないけど、僕が保証する」  
「でも私は…妹にあんなことをしようとした私は、もう」  
 
「純粋なボーカロイドは、純粋な歌しか歌えない。ミクはまだそこにいる。でも…姉さんは攻撃性も痛みも全て自分のものにして歌うことができる。」  
ステージで、身を切るような恋慕や人生に立ち向かう強さを歌い上げる彼女を思い出す。  
 
「どんな感情も全部、姉さんの力になると、生意気だけど僕は思う。それに…」  
「姉さんは結局、ミクを傷つけなかった。姉さんが全部引き受けた。とても姉さんらしいと思う…」  
「私は…これからも大丈夫かしら?…ううん、こんなこと他人に聞くもんじゃないわね」  
「他人じゃない。僕がいる。姉さんの痛みに気づかなかった僕だけど、これからは僕がそばにいる。」  
「…カイト」  
「姉さんがまた何かしてしまいそうになったら、僕にぶつけてくれ。僕が必ず姉さんを止める」  
 
姉さんがいきなり体を反転して僕にしがみついてきた。熱い雫がシャツの胸に染みる。  
僕は姉さんの背中を撫でながら…ささやくように歌った。  
 
♪からす なぜなくの からすはやまに…  
 
これは僕にとって原点とも言える曲だ。姉さんと暮らし始めた頃、家事をしながら何気なく歌った童謡に、疲れて帰ってきた姉さんは言ったのだ。  
 
「落ち着くわ…カイトの歌は癒やしの歌ね。私、カイトの歌、好きよ」  
 
その言葉は劣等感にかられていた時も深く心の奥で僕を支えて、やがて自分の方向性を決める勇気に変わった。  
姉さんは覚えていないかもしれないが…  
 
「カイト」  
歌い終わった時、姉さんが呟いた。  
「カイトの歌は、落ち着くわね…私、カイトの歌、好きだわ、やっぱり」  
 
「姉さん」  
 
「これから私は、自分の弱さと向き合うのだわ。それはとても、怖いの。ほんとうはいつだって、怖かったのよ」  
 
「だからこれからは時々甘えさせて。私の為に、歌って」  
 
僕は答える代わりに彼女を抱く腕に力を込め、再び歌い出した。  
やがてその歌声は、僕と彼女のユニゾンになって、ゆるやかに、優しく、部屋中に響いていった。  
 
-続-  
 
 
 

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