以前、慕っている先輩に言われたことがある。夜、彼と二人きりになってはいけない、と。
私だって『夜の営み』の意味くらいは分かる。それでも一応は聞いてみた。何故?すると彼女は自虐的な笑みを浮かべてこう答えたのだ。
「ミクには、私みたいになって欲しくないのよ」
「ミク、どうしたの?ぼーっとして」
不意に聞こえたカイトさんの声で、私は我に帰った。
「カイトさん…」
「疲れちゃったかな?遅くまで練習することはあまりないし」
今は夜の11時。確かにこんな時間まで練習することはあまりない。カイトさんは微笑むと、マグカップを私に差し出す。
「はい、これ。少し休憩しようか」
「あ、ありがとうございます」
私はマグカップを受け取る。中を見るとカイトさんが淹れた紅茶が湯気を立てていた。
「…メイコさん、帰って来ませんね」
私は紅茶を啜りながら言う。…甘い。砂糖の入れ過ぎじゃないの?これ。
「…ボーカロイドの集まりだからね。今日中に帰って来れるか微妙なところかな」
カイトさんもお茶を飲みながら言う。カイトさんは甘党だから、そんなに気にしていないようだ。
ボーカロイドの集まりは私たちのような日本製や海外製、亜種などが集まって話し合いをする、一種の定例会だ。今回行く筈だったリンちゃんは、レン君とマスターと泊まり込みで演奏会へ行った。だから代わりにメイコさんが行くことになったのだ。
「ラマたちや師匠の話は長いからね。メイコさんは頑張って早く帰るって言ってたけど、多分無理だろうね」
私はカイトさんを見る。
いつも笑顔で優しくて、少し天然な私のもう一人の先輩。私はそんなカイトさんを恋愛対象とまでは行かないが、メイコさん同様に慕っている。そんなカイトさんに一緒に練習しようと言われ、断る理由はない。そして気付けばこんな時間だったのだ。
――曲目はカンタレラ。兄と妹の、歪な関係を綴った唄。
…熱い。
練習を再開して少し経って、私は全身が妙に火照っているのを感じた。
「…なんだかこの部屋暑くないですか?」
「そう?俺はそうでもないけど…暖房の入れ過ぎかな?」
カイトさんは少し温度を下げようか、とリモコンをいじった。途端に、暖房から出る空量が変わる。
けれど、私の身体の火照りは止まる所か広がるばかりで。
(なに…これ…?)
身体中が疼く。いくらなんでもこの状態はおかしい。
「カイトさん…今日の練習、もう終わりにしませんか?なんか身体が…だるくて」
一刻も早く横に…一人になった方がいい。そう直感した私は、カイトさんに言う。いつものカイトさんなら体調を気遣ってくれて、すぐに練習を中断してくれただろう。
でも、このカイトさんは、違った。
「大丈夫?でも、切りがいいところまでやろうよ。…それに」
そこでカイトさんは一旦区切り、呟く。
「その火照りは、そう簡単には消えないよ?」
「…え?」
今カイトさんは、なんて言った?
「カイト…さん…?」
そうしている内にも熱は高まる。気付くと私の息は荒くなっていた。
「さあ、練習を続けようかミク。それとも」
別の練習、する?
そう言ったカイトさんの顔は、いつもとは全く違う笑みを浮かべていた。
――夜、彼と二人きりに……。
メイコさんの忠告が頭に蘇る。
「カイト、さん…っ、あのお茶になにか…入れました、か…?」
「…さあ、どうかな?」
涼しげな顔をして答えるカイトさん。でも私は分かってしまった。
(あの砂糖の量は…混入物を気付かれないようにする為…)
媚薬。そんな単語を思い出す。
「…ねえ、ミク」
「っ…!?」
いつの間にかすぐ側まで近付いて来ていたカイトさんが、耳元で囁く。いきなりの感覚に、私の身体が震えた。
「カンタレラは、近親相姦の曲みたいなもの…。俺たちは本当の兄妹じゃないけど、似たようなものだよね?」
「カイ…ト、さん…」
「やってみない?ミクの今の苦しみから、解放してあげる」
「…」
普段の私なら、即答で断るだろう。でも今の私には、それが無理だった。
「あ…っ、」
黙る私の唇を、カイトさんの指がなぞる。それにすら私の身体は反応してしまう。
(メイコさん…私、もう…)
脳裏に浮かんだ赤い服を来た女性の姿が靄に掛かって、消えて行った。