「ミクは桜って見たことがあるかい?」  
マスターがそう聞いてきたのは、冬がだんだんと近づいてくる10月の終わり。  
私が産まれて、マスターの元に来て、まだ数週間しかたっていなかった頃。  
「マスター、桜って何ですか?」  
「あれ、ミク。桜を知らないのかい? ・・・…ああ、そうか、ミクは最近産まれたばかりだっけ」  
そういってマスターは、楽しそうに桜について私に教えてくれる。  
それは春に咲くお花で、この部屋から見える、今は少しづつ葉を散らしているその木が桜というらしい。  
丘の上の小高い病院から、下の街へと続く桜並木が一斉に開花する頃は、それはもう言葉にできないぐらい美しいらしい。  
マスターの見せてくれた写真の中の桜は、薄いピンクの花をつけた木が、ずっと続いている風景。  
何枚も何枚も見せてもらう、咲き誇る桜の写真。  
私はまだ、この夏に産まれたばかり。  
こんな風に咲く桜を、まだ見たことはないけれど、  
でも、いっぱい見せてもらった桜の写真と、なによりも楽しそうに桜の事を話すマスターが楽しそうだったから、  
それはきっと、とっても綺麗なものなんだって、私は理解した。  
「そうだ、ミク。桜が咲いたらさ、一緒にお花見をしよう」  
「お花見……ですか?」  
「桜の下で食べ物やお酒を持ち合ってさ、みんなで飲んだり騒いだりするんだよ。  
 みんなでカラオケとかもやってさ。ミクも一緒にやろうよ。きっと楽しいよ」  
お酒や食べ物よりも、私はカラオケというところに飛びついた。  
あの綺麗な桜の下を舞台に、大好きなマスターの歌を歌うことができたら、どんなに楽しいだろう。  
「マスター、お花見、お花見しましょう!!」  
「おいおい、お花見は桜が咲かないとできないぞ」  
「桜、桜っていつ咲くんですか? お花見、いつできるんですか?」  
ちょっと待ってろよ、といつも私の曲を作ってくれるパソコンで調べてくれるマスター。  
その横でぴょんぴょん跳ねながら、検索結果が出るのを今か今かと待つ私。  
「うーん、このあたりだと三月終わりから四月はじめって所か」  
えっと、三月というと、一年は12ヶ月だから・・・…  
計算の苦手な私は、指を降りながら計算する。  
「よん……じゃなくて、五ヶ月も先ですか!!」  
五ヶ月……  
それは、この世に生まれてまだ2ヶ月程度しか生きていない私にとっては、想像もつかない長い時間。  
自分が生きてきた時間の2倍以上だなんて、そんな先のことなんて想像もできない。  
「ううぅ、桜ぁ……」  
写真の向こうの桜はとっても綺麗なのにそれに会えるのはずっと先だなんて。  
今までの嬉しかった気持ちがしょぼんと萎んでしまう。  
 
そんな私の姿を見て、マスターはくすっと笑う。  
「ミクは本当に桜が好きなんだね」  
その言葉に、こくりと私はうなづく。  
桜の花そのものよりも、私は桜の下でマスターの歌を歌えることが楽しみなのだけれど、  
それでも桜が咲くのが待ち遠しいのは変わらない。  
「それじゃあ、ちょっとひとつ……」  
マスターは鼻歌を歌いながらぽちぽちと音を創りはじめる。  
一つ一つ、画面に打ち込まれていくマスターの音楽。  
私の大好きな、私のマスターの曲。  
作りかけの音符を聞きながら、そっと私はそれにハミングを重ねる。  
マスターのハミングと私のハミングが響きあう。  
絡み合い、うねり、時には不協和音となり、いつの間にか転調する。  
次第に作られていく、私とマスターの歌。  
マスターは、一日中付きっ切りで私の歌を作ってくれる。  
一日中この部屋にいるマスターって、何をやっている人なんだろう。  
この前、マスターってニートなんですか?」って聞いたとき、必死に否定してたから違うと思うけれど……  
「ほら、ミク。とりあえずShortverだけど」  
まだ生まれたばかりの歌の入ったVSQファイルを受け取る。  
音階と歌詞が決まっても、まだ歌は完成しない。  
音符と歌詞だけの歌に心をこめていく作業。  
まだパラメーターの整っていない、歪な声で歌う私。  
その音を元にパラメーターを調整するマスター。  
荒削りでカクカクした音が、次第になめらかな歌声に変わっていく。  
「さくら、さくら……」  
写真で見た降り注ぐ桜の花びらのように、可憐で、美しく、そして儚げで、  
それは一度も桜を見たことがなかった私でも胸が苦しくなるような、そんな歌だった。  
歌が終わり、私は大きく息をつく。  
二人だけの部屋に響く、マスターの拍手。  
なんだかちょっぴり恥ずかしい。  
「ありがとう、ミク」  
「あ、いえ……私のほうこそ。マスターがいっぱい綺麗な歌を作ってくれるから……」  
マスターが首を振る。  
「僕一人じゃこんな歌は作れなかった。僕はこの部屋から出られないからさ、  
 君のお陰で僕は音楽を取り戻すことができた。ありがとう、ミク」  
 
マスターはこの部屋からほとんど出ることはない。  
マスターが外に触れられるのはベッドの側の窓と、ネット回線だけ。  
音質に関係なく好きな音量で歌えるVOCALOIDOと違って、ヒトは音量を絞って歌うのは難しい。  
あまりうるさくしちゃいけないこの部屋で、声質を保ったまま歌えるのは私だけだった。  
それが、マスターが私を求めた最初の理由。  
音楽から離れて生きていくことのできない青年が、最後に求めた音楽の拠り所。  
時々、マスターと一緒に音楽をやっていたお友達が尋ねてくることもあった。  
来る人来る人、みんなマスターの歌を楽しみにしていて、マスターがこの部屋の外に出られることを待ち望んでいた。  
音を絞った状態では綺麗に歌うことのできないヒトは、この部屋では満足に歌うことができない。  
ネット越しに聞いたマスターのお友達の歌声は惚れ惚れするくらい綺麗だったけれど、マスターに直接歌声を届けられるのは私だけ。  
マスターの歌を独り占めできるのは嬉しかったけれど、私はマスターにもっと元気になってほしい。  
私だけじゃない、ヒトの生の声と一緒に、マスターを元気付けてあげたい。  
「そうだ、お花見です」  
「お花見?」  
「そうです。春になって桜が咲いたら、マスターのお友達を集めてお花見するんです。  
 マスターの作った歌を歌って、きっと楽しいですよ。その頃にはきっとマスターも外に出られますよね?」  
それは、とっても楽しそうな風景。  
声だけしか聞いたことのないあの人たちと桜の木の下でこの歌を歌ったら、どんなに楽しいことだろう。  
「約束です。春になって桜が咲いたら、桜の木の下でこの歌を歌いましょう。  
 マスターのお友達も集めてみんなで大合唱です。いいですよね」  
小指を伸ばした手をマスターに差し出した。  
照れくさそうにマスターも手を伸ばす。  
私の小指とマスターの小指が絡み合う。  
「指きりげんまん嘘付いたら針千本飲ーます」  
 
 
 

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