気がつくと、ミクが窓枠に腰掛けていた。
開け放った窓、差し込む西日。長い髪が、ピラピラの袖が、スカートが、ちょっとほこりっぽい春風にひらめいている。
「おはよ、マスター。長い間寝てましたね」
ボクが矯正に四苦八苦して、でもやっぱり直らない、エフェクトでごまかすロボ声が嘘のように、滑らかな発声でミクが喋りかけてきた。
「…ミク?」
「御名答」
さすがマイマスター、なんて言いながら、ミクはコロコロ笑った。
おかしいな。昨日までDTMソフトだったはずなのに。
「特別なんです、四月一日だけは」
ボクの思いを読み取ったように、ミクは続けた。
「今日はみんな、嘘をつくでしょ?だから、ふだん嫌な嘘ばっかりの世界に、優しい嘘がほんの少しふえるの。だから」
「…だから?」
「だから、“嘘の国”にはいりやすくなるの」
「ふーん」
なんかよくわかんないけど、いいね。ボクは曖昧に返事した。
「ふふ。私もマスターとおしゃべりできて、うれしい」
「…」
ニコニコ笑いかけてくるミク。
女性に免疫のないボクは、おしゃべりできてうれしい、なんて言われて、なんだか照れて黙ってしまった。
顔が熱い気がする。
「ね、マスター、おでかけしません?」
「どこか行きたいの?」
「海が見たいんです。だってほら、PCは海に持って行けないでしょ」
ボクはミクに手を引かれて、アパートの外に出た。
ボクよりちょっと暖かい手が重ねられ、ボクは手に汗をかいてしまわないか心配になった。
外に出ると、アパートの前が一面砂浜になっていた。おかしいな、昨日までは普通の街に立地してたんだけど。
「すごいでしょう、“嘘の国”って」
「うん、驚いた」
とは言ったものの、ボクはいたずらっぽく微笑むミクの顔と、つないだ手から感じるミクの体温にばかり気を取られていた。
「わぁ、綺麗」
西日を受けて、砂浜は鬱陶しいくらいにキラキラ輝いていた。
「マスター、ありがとうございます」
「え、何が」
「私が、今日まで居られる日に起動してくれて」
「…あっ、そうか。今日…消えちゃうんだ」
ボクは体験版の初音ミクの使用期限を思い出した。
「はい」
「…なんか、ごめん。最後の日を寝過ごしちゃって…」
「ふふふ、いいんです。マスターの寝顔見れて、嬉しかったです。海も見れたし」
「でも…」
ボクはなんだか申し訳なくなって、うつむいてしまった。
「私はマスターのこと忘れちゃうけど…忘れたっていいじゃないですか。また出会えれば素晴らしいサヨナラで、始めまして、なんです」
「うわ、ちょっと」
ミクは突然ボクの頬にキスした。
「お別れのキッス、です」
ボクがたじろいでいるうちに、今度は唇にキスした。
「これは、また会いましょうのキッス、です」
また、会いましょう。私のマスター。
ボクはアパートの自室の机で目を覚ました。左手を下にひいていたらしく、痺れている。
日付は四月二日。
夢、だったのかな。
もう会えないのに、また会いましょうだなんて、優しいけど、残酷な嘘だなぁ。
ボクは期限ぎれの体験版初音ミクを閉じ、PCを消した。
スニーカーがやけに砂だらけになっていた。