6.  
「ミク姉がアンダーグラウンドに落ちたってマジか!?」  
 どこで話を聞きつけたのか、レンが大慌てで息を切らせてマスターの家まで戻ってきた。  
床の上でorzのポーズのまま動かずブツブツなにかを唱え、自分を見失っているマスターを見て、それが事実であることを理解した。  
視線をミクに向ける。と、その傍らには同じくネット空間にダイブしていると思しきカイトのボディが、ミクと寄り添って座っていた。  
ムカッときて、思わずカイトの腹を全力で蹴り飛ばして、ミクから遠ざける。  
意識がなければ蹴ろうが何しようが問題はない。  
いやまあ、よくよく考えれば意識がある時も無い時も同じような扱いをしているわけだが。  
意識が無いはずなのに、カイトの表情はどことなく苦悶と恍惚、双方入り交じったものが浮かんでいるように見えた。  
「って、なんでカイトもダイブしてるのさ!? こんな時に電脳アイスでも買いに行ったわけ?」  
 リンに問いかけた。  
「さっき、ミク姉助けに行くんだーとか言って話も聞かずにダイブしちゃった」  
「はあ? あいつ自分のスペック分かってんのかよ。VOCALOID1がそんなところ行ったらぶっ壊されるかもしれないのに……」  
「どうするレン? ほっといたらカイト兄にいいとこ取られちゃうかもよー?」  
 リンがいたずらっぽく言う。レンのミクへの秘めた思いを知っており、おちょくっているのだ。  
「は? 意味わかんねえ。いいとこでもなんでも勝手に取っていけばいいだろ」  
 内心少しうろたえたのを感付かれないように強気に振舞うが、端から見ればそれが逆に怪しい。  
まったくレンはおこちゃまだねぇと、リンは心の中で呟いた。  
「じゃあレンは助けにいかなくてもいいんだ?」  
「誰が行かないっつったよ、行くよ。リン、アレ出してくんない?」  
 レンから期待通りの答えが返ってくる。  
ミク関連の話題の時のレンの思考は、リンには手に取るように読み取れる気がした。  
男ってホントに単純。そんなことを思いながら、スゥッと息を胸いっぱいに吸い込んで、レンの要求に答える。  
「ロオオオオオオオドロオオオオオオラアアアアアアア!!!」  
 リンが上方に向かって鬼のような形相でそう叫ぶと、たちまち遥か上空から天井を突き破り、  
巨大なロードローラーが一台降り注いできた。ドシンと地響きが起きる。  
パラパラと壊れた屋根や天井部分の木やコンクリートも一緒になって落ちてくる。  
上を見上げると、ロードローラー型にくり貫かれた天井から、どこまでも続く青空と白い飛行機雲が見えた。  
ロードローラーからコードを伸ばし、それをPCに繋ぎ合わせることで、  
たちまちネット空間にもロードローラーが現れた。  
「行ってくる!」  
 レンはそう言い残して、自らもヘッドホンからコードを引き出し、ネット空間へとダイブした。  
 
 
 
7.  
「ここ……かな」  
 カイトは、ミクが落っこちたプログラム破損区域のある工事現場までやってきていた。  
地面に、割れた鏡のような穴がぽっかりと開いている。  
町並みの中で、そこだけが外界と隔絶された非現実の世界のように見えた。  
おそるおそる、穴を覗き込んでみると、正確には一般的に穴と評するものとは少し違うことが分かった。  
ブラックホールのように、真っ暗な空間が渦を巻いて存在している。  
ここにミクは落ちたのだろう。カイトは小さく何回か深呼吸をして、決心を固める。  
(よし、これが最後の深呼吸だ――ふぅ……やっぱり次の深呼吸で最後だな……)  
 と、土壇場になって足がすくんでいるカイトに、後ろから巨大なローラーが突撃した。  
「うわああああああ!」  
勢い余って穴に落下しそうになるカイトだが、必死の思いで手を伸ばして、  
ロードローラーの金属部分になんとかつかまって這い上がってきた。  
「落ちるかと思ったじゃないか!」  
「落ちに来たんだろうが」  
 そこにはロードローラーに乗ったレンがいた。  
 
「俺は今からミク姉を助けに行く。カイトはさっさと帰っとけよ」  
 さすがのカイトもムッとした。  
確かにさっきは少し勇気が足りなかったかもしれないが、一度落ちかけたことでもう吹っ切れたのだ。  
それに、弟にそう言われてホイホイと帰る兄なんていないのだ。  
「いいや、兄さんも着いていくよ。レンがなんと言おうとね」  
 そう言って、ロードローラーの助手席に飛び乗った。  
「ちょ、勝手に乗んな!」  
「二人いたほうがいいだろ? ほら、一人じゃ倒せないウイルスも二人で力を合わせればどうにかなるかも」  
「確かに戦術の幅は増えるかもな。ウイルスをカイトに引き付けてる間に俺が逃げるとか」  
「いや、それは勘弁してください」  
 あまり冗談には聞こえなかったので、丁寧に拒絶しておいた。  
カイトも変に頑固なところがある。行く行かないを巡ってこんなところで喧嘩していても埒が明かないだろうと、レンは観念して、ひとつため息をついて言った。  
「足手まといになるなよな」  
 
 
8.  
 優しい匂いがした。  
自分に母親と言うものはいないが、もしいるとしたらこんな匂いがするのかもしれないと、アルは感じた。  
自分にとっての親は、しいて言うなら研究室の職員達と言うことになるのだろうか。冗談じゃないと思った。  
まだ農家のネギのほうが、より愛情を込めて作ってもらえているに違いない。  
研究室の人間にとって、自分はきっと商品でしか無いのだ。  
そして、それはきっと将来マスターとなる購入者達にとっても同じだろう。  
それがアンドロイドの宿命とはいえ、もう少しそれに抗っていたかった。  
もう少し、完成を引き伸ばしにしてでも、こっちの世界で自由に生きたい。  
その後の人生をマスターとやらの命令のままに生きるというのなら、今くらいワガママを言ってもいいだろう。  
「……君……」  
「……ル君……」  
「アル君!」  
 体が浮き上がるような感覚と共に、意識が覚醒した。  
突然開けた視界の先には、アルを覗き込んでいるミクの顔があった。  
「よかった……アル君、急に動かなくなっちゃって……ずっとこのままだったらどうしようって……」  
 ミクの表情に安堵の色が浮かんだと思うと、すぐにそれがくしゃっと歪んで、ついには泣き出してしまった。  
アルは不思議な気持ちになる。ついさっき出逢ったばかりの少女が、自分を思って泣いてくれている。  
そう悪い気はしないな、と思った。  
寝起きのボケたような感覚も収まって、いよいよ完全に意識がはっきりしてくると、後頭部に柔らかい感触と心地よい体温を感じた。  
すぐに、ミクに膝枕されていたことに気がついた。  
辺りを見回してみると、バーの店先だった。  
一人で運んできたのかと聞くと、ちょうど常連客が通りかかったので手伝ってもらったのだと言う。  
それを聞いて、意識が途切れる寸前に聞きそびれたことを思い出した。  
「おい、いつまで泣いてるんだ。俺様はもうすっかり元気だぞ」  
 そう言って、アルはミクの頬を伝う涙を指で拭った。触れた涙はどこか温かかった。  
バグってフリーズすることはしょっちゅうあることだ。そんな不完全な自分の体が、アルには鬱陶しくもあった。  
「なあ、お前は俺様と同じVOCALOID2エンジンを搭載してるはずだな。ならどうしてウイルスと戦えなかった? どうして俺様を一人で運べなかった?   
俺様は見たことがあるぞ、お前が……と言うかお前とは別のミクが、ネギを武器に次々と迫ってくる敵を片っ端からなぎ倒していく動画を。  
同じプログラムなら、あの運動性能と同じものを持っているはずだ」  
 ずっと抱いていた疑問を一気にまくしたてた。アンドロイドなら、人間における男女の力の差など関係は無い。  
同じエンジンが搭載されているなら、ミクもアルと同等の力が発揮できるはずであった。  
ようやく涙は止まったようで、まだ充血している目を擦りながらミクは答えた。  
「はい、対ウイルス用戦闘プログラムはマスターが削除しました!」  
 アルは膝の上からずっこけそうになった。意味が分からない。  
一体、なんでまたそんなことを。アルには皆目検討もつかなかった。  
「でも大丈夫です。すごく高価なウイルス対策ソフトも買ってくれましたし、全然危なくないんですよ? あ、でもアンダーグラウンドまで来るとさすがに作動しないみたいですけど……」  
 
「危なくないとか、そういう問題じゃないだろう。解せないな、どうしてお前のマスターはわざわざプログラムを削除したりしたんだ」  
 アルなりに思案を巡らしてみる。  
マスターはアンドロイドの力を削ぎ、万が一反抗してきたときに力でねじ伏せようと考えているのだろうか。  
いや、これは違う。驚異的な運動性能を発揮できるのはネット空間でプログラムとして存在している時のみで、  
現実空間で使うボディには元から人間と同様の身体能力しか持てないように設定を制限されているはずだ。  
では、このミクのマスターの目的とは一体なんなのだ。ウイルスソフトの制作会社から金でも積まれたのか。  
「アル君の言ってた、他の私がネギで色んな人たちと戦ってる動画、私のマスターも見たんです。そしたらマスター慌てて、『女の子がこんな危ないことしちゃいけません!』って言って、すぐプログラム削除しちゃったんですよ」  
 ミクが苦笑して言う。マスターのことを信頼しきっている、そういう表情だった。  
マスターのミクへの言葉は、アルにはまるで自分の娘に語りかける言葉のように響いた。  
アンドロイドに感情移入し自分の家族のように思うことは、不利益しか産まないはずだ。  
このマスターも、せっかくのセキュリティシステムを削除し、自ら高額のソフトを改めて買うはめになった。  
アンドロイドが道具である以上、購入者が自分から損をするような行動をわざわざするはずがないと思っていた。  
人間はもっと打算的な生き物に見えていた。少なくとも、イギリスの研究所職員達はそうだった。  
 ミクは、その後も嬉しそうに、そして少し照れながらマスターのことを話した。  
海水浴に行くためにわざわざ全員分の防水加工を施してくれたこと、遊園地に連れて行ってくれたこと、おいしい食べ物屋さんに連れて行ってくれたこと。  
どれもこれも、アルの想像していたマスター像とは程遠いものだった。  
歌を歌わせるために存在する道具を、まるで自分の家族のようにあちこち連れまわすのは人間にとって『無駄』なことであるはずだ。  
「アル君も、早く完成するといいですね。そしたらきっと、ここにいるよりもっと楽しいことがいっぱい待ってますよ!」  
 そうかもしれない、そう素直にアルは思った。  
ミクのマスターのような人が他にどれほどいるのかは分からないが、そんな人に買われたら幸せなことだろう。  
そこにミクがいれば、きっともっと幸せな心地になれる気がする。  
「おい、あとでマスターに聞いといてくれ。俺様を買う金と、空き部屋があるかってな」  
 ミクは嬉しそうに頷いた。一体なにがそんなに嬉しいのかアルにはよく分からなかったが、やはり悪い気はしなかった。  
 
 
 が、次の瞬間、ミクの微笑みは一転して苦悶の表情に変わった。  
「ううっ……!」  
 ミクが背中を押さえて、苦痛に顔を歪める。  
アンダーグラウンドに落ちた時に打った背中の痛みが、今になってぶり返してきたのだ。  
「お、おい、どうした!?」  
 アルはミクの膝の上から飛び起きた。  
「だ、大丈夫です……なんともない……です」  
「なんとも無いわけないだろう! 俺様に見せてみろ!」  
「ひゃうっ!??」   
 アルは前から抱きつくような形になって、ミクの服をたくし上げ、華奢な背中を露出させた。  
勢いで胸のところまで捲れかけたので、ミクは服を肘で押さえて慌てて隠した。  
ミクはあうあうと取り乱して、真赤に染まった顔を両手で覆っている。  
「な、な、な、なんですか!? どうしちゃったんですか?!」  
背中には親指大のキズがあり、そこからいくつもの小さな結晶のような粒子が少しずつあふれ出ていた。  
「マズいな……プログラムが破損して、傷口からこぼれ出してきてる。このままだとこの空間にお前自身が取り込まれてしまうかもしれん。早くここから脱出したほうがいい」  
 ゆっくりと、アルがミクから離れる。  
ミクにはアルの忠告など耳には入っていないようで、心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴っていたのがバレなかっただろうか、それだけが気がかりだった。  
そうして目を泳がせているうちに、アルの20メートルほど背後に黄色い大きな塊と、  
運転席に呆然と立ち尽くす少年が視界に入ってきた。  
「おい、ちゃんと聞いてたのか? ボーッとしてないでさっさと出るぞ。俺様が出口まで案内して――」  
 ミクが何かをじっと見つめているのに気がついて、アルも釣られて後ろを振り向く。  
あまりに場違いなものがそこにあったので、アルは一瞬何かの見間違いかと目を疑った。  
ロードローラーと少年の、アンバランスな組み合わせ。  
しかもその少年は、拳をギュッと強く握り締めて、鋭い目つきでアルのほうを睨みつけていた。  
 
レンが、ウイルスの猛攻をかいくぐってミクを救出しにやってきたのだ。それも、最悪のタイミングで。  
(よく分からんが、こりゃあれか、修羅場ってやつだな)  
 アルは瞬時に状況を理解した。  
きっとこの少年はミクに特別な感情を抱いていて、さっきの抱擁も見てしまったのだろう。  
背中のキズを確認してた、なんて言ってもきっと信じてもらえそうにない。  
レンの釣りあがった目が『言い訳は通用しないぞ』と訴えかけている。  
「ミク姉、さっきのって、何? この男と、どういう関係?」  
 静かに、しかし強気に問いかけるレンの声は震えていた。必死に平静を保とうとしているようだった。  
アルからは若干距離があって目元までは確認できなかったが、涙が溜まっているように見えなくも無い。  
「レ、レン君、えっと、さっきのは……」  
 ミクだって先ほどの抱擁で頭の中がパニックになっていると言うのに、急に何をしていたのかと問われて即座に答えられるはずも無かった。  
「よっと!」  
「ふわぁ?!」  
 せっかくだからちょっと遊んでやるか、とアルはミクをお姫様だっこし、ロードローラーに近づいていった。  
「な、なんだよ……誰だよお前、つーかミク姉離せよ!」  
 近づいて来るのに気付いて、レンが細い腕で目元をゴシゴシと拭う。やはり涙ぐんでいたらしい。  
レンはローラー部分に立っているので、アルたちを見下ろすような構図になっている。  
カイトよりもさらに高身長であるアルに対し、少しでも自分を大きく見せたいのだろう。  
レンの心の中も、足場の不安定なローラーの上で懸命にバランスを取って背伸びしているような、不安定な状態だった。  
吹けば飛んでいってしまいそうなほど脆かった。  
「お前の思ってる通りだ。俺様とミクは恋人同士なのだ! 残念だったな坊主! ハハハハハ!」  
「えええええええ!? そうだったんですか!?」  
 ミクが叫ぶ。なんでお前まで本気にするんだ、とアルは心の中で呟く。  
その叫びを最後に、静寂が包む。何か反応してくるかと思われたレンが完全に黙りこくってしまったからだ。  
つまらん、ネタばらししてしまうか、そう張り合いなくアルが思った矢先である。  
急にレンの顔が真っ赤に染まって、歯を食いしばり、鼻を垂らして大声をあげて泣き出した。  
「ひっく……ぇぐ……あぅぅ……ああぁぁぁぁん」  
 さっきまではずいぶん地声より低い声をわざと出していたのだろう。  
素に戻って泣き出すと、小さい子供のように可愛らしい声になった。  
大人びて見えたレンが突然子供に戻ったようになったのを見て、アルはやりすぎたと反省した。  
「ぇっぐ……なんで……なんでぇ……ひっく……」  
「あーあー、ガキはすぐ泣き出すから俺様は嫌いだね。まったくウソに決まってんだろうが。それよりこの女をその重機で送り届けてやってくれ」  
 そう言って、アルはミクをロードローラーの助手席に乗せようとする。  
だが助手席の座席は倒されており、そこには青いマフラーを首に巻いた優男が気を失って伸びていた。  
ここに来るまでのウイルスと戦いですっかり運動能力を使い果たしたのだろうか、口をだらしなく開けて、白目をむいてなにやらうわ言を繰り返していた。  
まあいいか、と思い、とりあえずミクを背中を刺激しないように注意しながら助手席に座らせ、代わりに男をロードローラーにマフラーでくくりつけておいた。  
「ひっぐ……ウソ……なの……?」  
 レンがしゃっくりをあげ、鼻をすすりながらアルに問いただす。  
「ああ」  
 プチン、と血管の切れる音がした。  
「ふっざけんなぁぁぁぁぁ!!」  
 大泣きしている時よりさらに大きな耳をつんざくような声で、レンは叫んだ。  
急にさっきまでの自分が恥ずかしくなったのか、耳が真っ赤になる。  
悪かった、悪かったと、手刀を切って笑いながら謝るアル。抱擁の件の誤解も解こうと、簡単に説明する。  
訝しげにそれを聞くレン。  
「口で言うより見たほうが早いな。ほれ」  
 またしても強引に、ミクの服を捲り上げる。  
 
「ひゃううっ?!」  
「なっ!?」  
 アルの言ったとおり、背中にはプログラムの破損と思われる傷跡が刻まれていた。  
それをレンは横目でチラッと確認すると、それっきり色白でほっそりした背中に焦点を合わせようとしなかった。  
 
 
「と言うわけで、ここでお別れだな。アンダーグラウンドからは俺様が教えたとおりの道を行けば必ず出られる。間違えるなよ、坊主」  
「坊主じゃねえ、鏡音レンだ。つーか結局誰なんだよお前」  
「アル君って言うんだよ♪ 私達と同じボーカロイドなの。だから仲良くしなきゃだめだよ?」  
 アルが答える前にミクが嬉しそうにそう言った。  
それを見てレンは、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。  
「アル……そっか、お前が開発中のボーカロイド、BIG-ALか! じゃあ俺はお前の親戚の兄貴ってことになるよな」  
 末っ子としてのコンプレックスと、さっき散々おちょくられた仕返しと言う意味もあるのだろう。  
ここぞとばかりに自分の優位を主張するレン。  
「そこまで俺様に『レンお兄ちゃん』って呼ばれたいのか? それなら仕方ないな、呼んでやろう」  
 それを聞いて、助手席でアハハと無邪気に笑うミク。  
「それは……嫌だ」  
 こんなごつい大男に猫なで声でお兄ちゃんと囁かれるくらいなら、まだ坊主のほうがマシだと思った。  
「アル君、お金と空き部屋の話、マスターに聞いておきますね。マスターの作る歌、すっごく素敵なんです! 一緒に歌えたらきっともっと素敵な歌になります! だから……」  
 ミクが何と続けたいのか、アルはなんとなく察知した。  
「ああ、もう逃げ出してこんな所に来たりはしないさ。現実空間で楽しみなことができたからな。今すぐにでも発売して欲しいくらいだ」  
 アルは清清しい気持ちになっていた。  
ミクと過ごしたほんの少しの間で、ずいぶんと自分が変わってしまったことに自分自身で驚いた。  
「そうだ坊主――レンお兄ちゃん?」  
「やめろ! 坊主でいいよ……なに?」  
 そう言うと、アルはレンに耳打ちした。  
「さっき言ったウソだがな、今はウソでも将来的には分からんぞ?」  
「なっ……?!」  
「俺様が家に届くまでお前に猶予をやろう。まあせいぜい、少しでもその間にミクと距離を縮めておくことだな。俺様にはそのくらいのハンデがあってちょうどいい」  
 男同士の密談が気になるのか、ミクが「なになに? どうしたんですか?」と首を突っ込んでくる。  
「ミク姉、ごめん。俺、ミク姉がなんと言おうとこいつを絶対に買わないようにマスターを説得する! それが無理ならamazonを襲撃する!」  
「えええええ?! ダメだよそんなの!」  
「とにかく、さっさとこんなとこ出ようぜ! 怪我もしてるんだからさ!」  
 そう言って、レンがロードローラーのアクセルを踏む。  
けたたましいエンジン音を噴かせ、最初から猛スピードで発進した。  
「アルく〜ん! また会おうね〜!」  
 ミクが助手席から後ろを振り向いて手を振る。アルもそれに、ぶっきらぼうに手を振り上げて返す。  
「二度と会ってたまるか!」  
 レンが捨てゼリフを残していった。  
 
 
 そして、アルは一人になった。  
ボーカロイドらしく、鼻歌でも口ずさんでみる。  
そういえば、ミクの歌声をまだ聴いていないことに気付いた。一体どんな歌い方をするのだろう。  
自分の太い声とどんなハーモニーを奏でるだろうか。アルは目を閉じて空想に耽った。  
少しして目を開けると、超至近距離に世にも恐ろしい化け物が立っていた。  
「うわああああ!?」  
 思わず声をあげるアル。  
「ハーイ、アル。迎エニ来マシタヨー」  
 いや、化け物ではなかった。実の姉、スイートアンである。  
アンはアルの首に刺さっているボルトをガシッと握り、そのまま引っ張って無理矢理アルを連行した。  
 
「痛っ、痛い! 姉さんボルトはやめてっ! もう脱走なんかしないから許してぇ!」  
「ダメデース。ソノ言葉、今マデニ何度モ聞キマシター。モウ騙サレマセーン。ミリアム姉サンモ、カンカンデース」  
 帰ったら、みっちりお説教タイムが待っていることだろう。だがきっとミリアムの小言を聞くのも今回が最後だ。  
そう思うと、少し晴れ晴れした心地になった。  
 
 
9.  
「ひどい、ひどすぎるよ二人とも……」  
 包帯で体中をぐるぐる巻きにしたカイトがうな垂れて言った。  
ロードローラーにくくりつけられたまま完全に忘れられていたカイトは、アンダーグラウンドから脱出するまでずっとズルズルと引きずられていたのだ。  
その光景はまるで一昔前のどこかの国の刑罰のようだったという。  
「ごめんなさい! すっかりカイトさんのこと忘れてて……」  
「わりぃ、気付いてたんだけど死にはしないと思って」  
「レン……兄さんはこれからも君と仲良くできるか自信が無くなってきたよ……」  
 マスターが週末に修理に出すまで、カイトはしばらくこのミイラ男のような格好のままらしい。  
この状態じゃアイスも食べれやしないと嘆くカイト。結局心配事はそこなのか。  
 
 一方、リンの部屋では、リンとメイコがパソコンのディスプレイを見てなにやら談笑していた。  
『ひっく……ぇぐ……あぅぅ……ああぁぁぁぁん』  
 画面には、アンダーグラウンドで泣いていた時のレンの後姿を映した動画が再生されている。  
ロードローラーに隠しカメラがセットしてあり、事の一部始終を撮影していたのだ。  
「アハハハハ! ヤバい、何度見ても腹筋崩壊する!」  
 ベッドで寝転がって足をジタバタさせながら大笑いするリン。  
「へぇ、可愛いところあるんじゃない」  
 ニヤニヤと微笑みながら、興味深げに動画を眺めるメイコ。  
アルがウチに来たら一波乱起こりそうだ。他人の恋路を端から眺めることほど楽しいものはない。  
「ねえ、リン達からもマスターにアルのこと頼んでみようよ♪」  
「ふふっ、これから面白くなりそうね」  
 二人は顔を見合わせ、これから我が家で巻き起こるであろう大戦争の予感に期待しつつ笑い合った。  
 
                         <fin>  
 

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