「う…………ん……? あれ……?」
ネルが倒れている姿を見て固まっていると、ネルはゆっくりと体を起こしてその場に座り込む。
よかった……考えられる最悪の事態だけは免れたようだ……
「ネル、大丈夫か?」
とりあえずホッと胸をなで下ろし、オレはネルに声をかけながら歩み寄った。
しかし、少し反応が遅れてこちらを向いたネルの顔は、
今まで一度も見せた事のない不安げな表情をしていて
「マスター……」
と、今にも泣き出しそうな震えた声でオレの事を呼んだ。
「あたし、もしかして――――」
「あー……っと、あれだよ、きっと昨日頑張りすぎたから疲れてるんだよ。
ほら、コップはオレが片付けとくからネルはベッドで休んでおいで」
話に割って入り、少し強引にベッドのある部屋へネルを連れて行く。
ネルが言おうとした事は何となく分かっている。でも、それをネルの口から聞きたくなかった。
急いでコップを片づけてネルのいる部屋へ向かうと、
ネルは天井を眺めたままベッドの中でジッとしていた。
「……調子どう?」
その問いかけに答えるどころか、ネルはこちらを振り向こうともしない。
静かに部屋の扉を閉め、ネルに近づく。後5歩……4歩…………
そしてネルまでの距離が後3歩程になった時、ようやくネルはオレに気づきこっちを向いた。
「……マスター?」
相変わらず不安げな表情を浮かべるネル。でも、それ以上に気になったのはネルの動き。
こっちを向いた時、ネルの首の動きはぎこちなく、
まるでブリキのおもちゃが止まる直前の様にカクカクとした動きだった。
「マスター……私、分かるよ……自分の事だもん。……私は……もう、…………止まっちゃうんだろ……?」
「な、何言ってんだよ、大丈夫だって! ……そんな事言うなんてネルらしくないぞ?」
とりあえず精一杯明るくふるまってみた。それでもネルは表情一つ変えることなく、淡々と話を続ける。
「もうマスターの声も殆ど聞こえないんだ……顔だってよく見えない…………マスター、……ちょっとだけ……怖い……」
そう言いながら、ネルはこちらに向かって手を伸ばす。
その手はオレのいる場所より少し右にずれていて、ネルの目が殆ど見えていない事を示していた。
こちらを見ているネルの目には、もう自分は映っていない……そう考えると胸が張り裂けそうになる。
オレはその手を握り、出来るだけ声が聞こえる様にネルの耳元に口を近づけた。
「ネル、聞こえてる……?」
「……………………」
ネルからの返答はない。それでもオレは話を続ける。
「エッチな事して、キスして……なんか順番がめちゃくちゃになっちゃったけどさ、
オレ……ネルの事が好きだから…………だからさ、止まるなんて言うなよ……これからも……ずっと――――」
最後になるかもと思うと、つい言葉がつまってしまう。
そんなオレを気遣うように、ネルはオレの方を見て話し始めた。
「マスター…………あたし、楽しかった……ょ………………短かったけど、マスターと暮らせて……幸せだった……
だから泣かないで…………今まで……いっぱい…………ありがとう…………あり……が……と…………」
まるで別れの言葉を囁くように、途切れ途切れの言葉でそう言ったネルは最後に笑みを浮かべ、
それと同時に握っていた手に力が無くなり、ついさっきまであった瞳の輝きまでも失ってしまった。
もう名前を呼んでも動かない。それでもオレは心の整理がつかず、
(――――明日になったらまた起きているんじゃないか?)
等と考え、ネルの目を手でそっと閉ざして布団を掛け、そのままPCの前にある椅子に力なく腰を下ろした。
PCの画面に映っているのは、ネルが掃除を始める直前まで開いていたGoogleのページ。
そう言えばいつも一生懸命PCで何かしてたみたいだけど、いったい何をしてたんだろう?
ボタンをカチッとクリックしてみると、そこには今までネルが調べた検索内容がズラリと並んでいて、
一番上には
『せーし いっぱい 出し方』
……そう言えば、帰ってきた時にネルが全裸で玄関にいた時は驚いたっけ。
なんだかもう随分と前の気がするな……。
そんな事を考えながら画面をスクロールしていくと、その下に並ぶのは殆ど『マスター』から始まる言葉。
『マスターを幸せにする方法』
『マスター 気持ち良くする方法』
『マスターが嬉しい事』
『マスター 喜ぶ事』
『マスターがあたしを愛してくれる方法』
ツンとした態度が多かったくせに、見て無い所でこんな事調べてたのか……
ネルは本当に幸せだったのかな……? そう思い、オレは検索欄に文字を打っていく。
今更こんな事調べても仕方無いだろうけど……
『VOCALOIDを幸せにする方法』
検索結果 約 8,239 件
結構同じような事を考えてる人っているもんなんだな……
その中で一番上に表示されたリンクをクリックして、適当に内容を読んでみと、
『歌を上手く歌わせてあげる』や『愛情を持って育てる』等、何の変哲も無い事ばかり書いている。
こんな物を見た所でどうにもならない。
そう思ってページを閉じようとした時、気になる書き込みがオレの手を止めた。
書いている内容はこうだ。
『私はお金が無かったので、去年の初めに30万円程で非公式のVOCALOID(亜種)を購入し、
今は弱音ハクっていう子と暮らしているんですが、歌をまったく歌ってくれません――――』
驚いた、オレ以外にもそう言うVOCALOIDと暮らしている人がいたのか。
値段も同じだし……やっぱり似ているのかな?
でも今は6月で、購入が去年の初めって事はもう動いていないんじゃ……?
とにかく続きを読んでみると、このVOCALOIDは毎日お酒を飲んでは弱音ばかりはいていたと言う……
そしてやはり一年きっかり、今年の春を待たずしてそのVOCALOIDも停止してしまったらしい。
『ほんの一年、お酒と弱音ばかりで大変だったのに、気がつくと情が移ってしまい
彼女が動かなくなった時は涙が止まりませんでした。』
その気持ちは痛いほど分かる。オレもたった今……――――
『今は初音ミクも50万程で買えますけど、新しい子をお迎えする気になれません……』
それも分かる。オレだってネルじゃないと……――――
『だから思い切ってVOCALOID販売工場で充電しちゃいました♪』
あぁ、もちろん…………ん? 充電?
『今ではすっかり元通り、隣でお酒飲んで弱音を吐いてます(笑)
ハク、これから10年間よろしくね♪』
それを見たオレは再びGoogleページに戻り、急ぎ検索をする。
『VOCALOID 充電』
あった……。しかもVOCALOID販売(生産)工場なら、どこでもやってくれるらしい。
確かこの辺りの工場と言えば……隣町に一つあったな。
そうと分かれば早速タクシーで工場へ直行だ。急いで出かける準備をしなくては。
着替えて、タクシーを呼んで、財布を持って…………そう言えば充電するのって、どれくらいお金が必要なんだ?
もう一度PCのブラウザを開き、料金がいくら程かかるのか調べる。
「なっ……なんだよコレ……」
『充電料金、全国一律100万円(5年間の動作保証付き ※正規品以外は別途)』
ひゃ……100万? 正規品の新品ですら50万位だって言うのに……
情が移ったら買い替えずに充電するだろうっていうメーカーの算段か?
ちょっとやり方がずる過ぎるだろ。
財布の中身を見てみると、所持金2万8000千円。通帳に約30万……全然足りない。
とにかく行くだけ行ってみよう、なんとかなるかもしれない。
オレはネルを抱きかかえ、タクシーへ飛び乗った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ここは……ドコ?
真っ暗で何も見えなくて…………そうか、あたしは止まっちゃったんだ。
なんだか周りがうるさいな。これは……機械の音? あたし、今から処分されちゃうのかな?
でも……なんだかコレって懐かしい音。どこかで聞いた事がある様な気がする……?
その音はどんどん大きくなって……真っ暗だった世界に少しづつ光が……
そして目を開いたときにあたしの目の前にいたのは――――
「マスター……?」
「おっ、目が覚めたか? おはよう」
間違いない、マスターだ。……でもどうして?
「マスター、あたし止まったんじゃ……」
「充電だよ、充電。もう少しで終わるから、ジッとしてるんだぞ」
辺りを見渡す。……間違いない。ここはあたしが作られた工場だ。
でも充電って確か――――
「マスター、充電ってすっごくお金かかるんじゃないのか? 確かネットには100万円とか……」
「…………別に、大した金額じゃないよ」
その時、工場の人がやってきて、マスターに領収書と書かれた紙切れを渡す。
私がそれを横取りすると、そこには充電にかかった費用が表記されていた。
「ひゃ、120万円?! それだけあったら正規品を2体買ってもお釣りがくるよ!」
「分かってるよ、そんな事。……って言うかネル、お前充電の事知ってたのか?」
「それは……知ってたけど…………でもマスターに迷惑かけるわけにもいかないし……」
あたしがそう言うと、マスターは深いため息をついて俯き、
顔を上げるとあたしのおでこを軽く指で弾いた。
「――ッテテ! な、何するんだよ!」
「ネルはそんな事気にしなくていいから。その代り、今日からいっぱい働いて返してもらうからな!」
「働いて返すって…………体で? 120万円分だったら、マスター……いったい何回えっちすればいいの?」
突然ざわつき始める周りで働いている人たち。
慌てた顔で、マスターはさっきよりも強くあたしのおでこを弾く。
「――――ったーぃ!! また同じ所を……ッ!!!」
「バカッ! 変な事言ったら周りに誤解されるだろ?!」
何怒ってんだ? あたしはいたって真面目に聞いただけなのになぁ……
「いいか、オレが言ってるの働くって言うのは、『家で料理作ったり、しっかり掃除したりしろ』って事!」
顔を真っ赤にして怒るマスター。なにもそんなに怒る事無いのに。
『充電完了しましたよ。これで10年は大丈夫です』
お店の人にそう言われると、マスターは私の手を引っぱっり、足早に工場を後にした。
「マスター、疲れた……ねぇ、タクシーで帰ろうよ!」
「贅沢言うな。24回払いとは言え、充電の初期費用で財布はすっからかんなんだぞ?」
うぅ……そう言われると返す言葉が無いな……
それにしてもマスターはどうしてあたしを充電したんだろう?
さっきははぐらかされたけど、どう考えても新しい方が安いし得だよな?
「なぁ、マスター。どうして新しいのじゃなくてあたしを選んだの? 考えてもみてよ、
同じ値段でハンバーグ2個とコロッケ1個だったら、ハンバーグ2個の方が絶対お得だろ?」
「ハンバーグとコロッケって……自分をコロッケにたとえてるのか? ……まぁ、そんなこと別にどうでもいいだろ?」
むむっ、マスターのこの表情……何か隠してるな?
よし、ならもう一押し……
「どうでもよくないよ! あたし、マスターが教えてくれるまでここから一歩も動かない!」
あたしが道の真ん中でしゃがみ込むと、マスターは困った顔をしながらこっちへ歩み寄り、
手を引いてあたしを立たせようとする。
「ネル、我がまま言ってないで行くよ」
「いやだ、いやだ、いやだ! ぜーったい動かないぞ!」
すると遂にマスターは観念したのか、手を離すとそのまま頭を掻き、
背中をあたしに向けてボソボソと小さな声で
「オレはハンバーグよりコロッケが好きなんだよ……」
と一言。
……ん? マスターってそんなにコロッケが好きだったっけ?
って言うか――――
「なんでそこでコロッケが出てくるんだよ! 今は食べ物の話してるんじゃないの!」
まったく、真剣に話してる最中にコロッケがどうとか……マスターは何を考えてるんだ?
「ネル?」
「ん? なん……イテッ……イテテテテテッ!!!」
眉をぴくぴくさせながら、アタシのほっぺを左右に引っ張るマスター。
なんだなんだ? あたしが何をしたって言うんだよ!
「こ……こりゃ! マヒュハー、はにゃへっ! 痛い痛い!」
「人が恥ずかしい思いをして言ったのに……ネル、さっき自分の事コロッケって例えただろ? 良く考えてみろ」
コロッケ? ……あたしが?
えっと……じゃあコロッケがあたしで、マスターはコロッケが好きで…………あっ!
「マフファー、わかったはら、はにゃひへ」
ようやく解放されたあたしのほっぺ。うぅ……まだヒリヒリしてちょっと痛い……
でもマスターの言いたい事を理解できなかったあたしが悪いんだよね。うん。
ごめんねマスター。すぐに気付いてあげられなくて……
「マスター、そんなに好きだったんだな。あたしの……体が……」
「え゙っ?!」
「いいよ。マスターがしたいなら……その、ここでしても……」
マスターはうっすらと笑顔を浮かべて、またあたしのほっぺををひっぱりました。
あたし、何か間違ったこと言ったかな……?
結局この後、私はマスターに抱えられて家へ連れ帰られたのでした。