わたしがマスターのところに来て数ヶ月経つけれど、わたしはまだソロ曲を歌わせてもらったことがない。コーラスで参加したのだって、家族総出で歌わせてもらった一回だけだ。
…わたしはボーカロイドだし。マスターのために存在するものだし。マスターの感性がわたしを選ばなかったのなら、それは仕方のないことなんだけれど。
ああ、でも。
「歌いたい、なぁー…」
スタジオのほうからは、楽しそうなカイトとミクの声がした。心にぽっかりと穴が開いたような感覚。
「……」
だめだわ。良くない感情に飲み込まれる前に、少し気分転換をした方がいいのかもしれない。
「あ、メイ姉どこ行くの?」
「んー。ちょっと、ね。すぐ戻るから心配しないで、リン」
一人で出かけようとするわたしに驚いてリンが声をかけてきたけれど、わたしは曖昧に笑ってネットの海に繋がる扉を開いた。
◇
「で、結局ココに来ちゃうわけね、わたしは…」
気分転換にならないわ、と、いつもの動画サイトの入り口の前で苦笑する。
「いやいや、別に行き先をいつもと変えたらいいんだし」
わたしは誰にともなく言い訳をしてサイトの中に入った。正直、今は他の「MEIKO」に会いたくない気持ちがあったのも確かだけど。
サイトの中は賑やかだった。ハーブできれいなポーションを作っている人もいれば、おそろいのトレーナーで「ドリフの/大爆笑」をBGMにウッキウキな踊りを披露している人たちもいる。
「情熱/大陸」他を一人で(一頭で?)セッションしてるお馬さんもいれば、ものすごいスピードでアスレチックをクリアしつつ組曲「ニコニコ動画」を演奏しているおヒゲの配管工さんもいた。
いつも同じところに行きがちだから、行く先行く先とても新鮮で楽しかった。
夢中になって色々なところを見て回っていると、とても綺麗な声が耳に飛び込んできた。
優しく響く低音、聞いているだけで癒されるような情緒あふれるメロディを、丁寧に丁寧に歌う男の人の声。
その声に、ふらふらと引き寄せられた。
「ああ…来ちゃった」
来るまいと思っていたのに、目の前には「Vocaloid」と書かれた看板が見える。そして、わたしを引き寄せた歌声の主も。
歌声が近くなるにつれ、その豊かな響きに恍惚となる。
気分転換のために来たサイトなのに、結局歌にとらわれている自分は、やはりボーカロイドなのだと痛感した。
「…やぁ」
わたしに気付いたその人は、わたしを見て優しく微笑んだ。
KAITO──といっても、うちにいるカイトではない。
同じプログラムでも、マスターが違えばそのプログラムはまるで別人になる。
「あ、あの、お邪魔しちゃってごめんなさい。あなたの声があんまり素敵だったから、」
自分でも滑稽なくらいうろたえてしまう。
別人とはいえ、姿かたちはうちにいるカイトとよく似ているのに、こんなにも雰囲気が変わるものなのだろうか。
「ありがとう」
その人は、微笑を絶やさずにわたしを見つめてそう言った。
「え」
「僕の歌を聞いてここまで来てくれたんでしょう?嬉しいなぁと思って」
「……」
じわじわと、耳の先まで熱くなるのを感じた。
「よかったら、そこに腰掛けて少し話しませんか」
促されるまま、彼の隣に座る。
彼は静かな、だけど聞き上手な人で、わたしは会ったばかりの彼に色々な話をしてしまった。
うちにはボーカロイドが5人いて、賑やかに楽しくすごしていること。
でも、自分はもっぱらコーラス担当であること。
不思議なことに、それまで誰にも言えずもやもやと抱えていたことが、ただ話しているだけですーっと消えていくのが分かった。
「ごめんなさい…わたし、自分のことばかり話して」
「いや、いいんですよ」
穏やかに微笑む彼の笑顔に魅了される。
かさついた心が潤っていくみたいだ。彼のことをもっと知りたいと思った。
それからしばらく、わたしたちはお互いのことを話し続けた。
彼のところには彼以外のボーカロイドがいないということ、でも他のDTMソフトたちとそれなりに楽しく暮らしていること、など、彼のことも教えてもらった。
「歌は好き。マスターも好き。マスターの作る音楽はとても素敵なの。
だから本当はもっと歌いたいけど、生意気なこと言ってたら罰が当たるわね」
「僕はメイコさんの歌が聴いてみたいなぁ…
歌ってくれませんか?観客が僕一人で申し訳ないですけど」
「へ?」
「だめですか?」
「ムリよ、だってわたしあんまり調律されてないし。
知ってる歌だって少ないわ」
「いいんですよ、僕はあなたの歌が聴きたいんです。
僕らはボーカロイドなんだから、100の言葉より1の歌を聞かせてもらう方が、
分かり合えるような気がするんですよ」
それに、あなたは僕の歌をもう聴いてるでしょう?
そう言っていたずらっぽく笑った彼に、思わずつられて笑ってしまう。
「そうね、その通りだわ。じゃあ、歌います。…恥ずかしいけど」
家族以外の前で歌うのは本当に久しぶりで、最初はうまく声が出なかったけれど、
目を閉じて聴き入っている様子の彼を見て、わたしは一生懸命心を込めて歌ってみせた。
サビに入ったとき、彼はそっと目を開いて、静かな声でコーラスを重ねてくれた。
それは、形容しがたい快感をわたしに与えた。
あまりの気持ちよさにわたしはうっとりしてしまって、その後はとにかく夢中で歌を歌った。
歌い終わり、全身から力が抜けて倒れこみそうになったわたしを、彼が支えてくれた。
そのまま、わたしの耳元で低く囁く。
「…良かったですよ、メイコさん」
「あっ…」
鼓膜を震わせる低音に感じてしまい、わたしは思わず変な声を出してしまった。
「……」
「……」
二人して真っ赤になって固まる。
「あ、ははは…ご、ごめんなさい」
「い、いいえ…」
うう、気まずい!
「じゃ、じゃあ、わたしそろそろ…」
「! は、はい」
「あの、今日は本当にありがとう。
話を聞いてもらって、歌も一緒に歌ってもらって、すごく嬉しかった」
「あの!」
「?」
「メイコさん。また、来てくれますか?」
「…あなたさえよければ、喜んで」
彼はにっこり笑った。
「じゃあ、また明日。ここで会いましょう」
「ええ、また明日」
約束するのがくすぐったい感じ。
彼と別れて帰路についたわたしは、何度も何度もあの言葉を反芻していた。
(「…良かったですよ、メイコさん」、かぁ…)
顔がにやけてどうしようもない。
その声は、今まで聞いたどんな歌よりも、わたしの心に深く焼き付けられたのだった。
◇
それから、わたしは毎日のように彼と会い、話をしたり歌を歌ったりした。
ときどきそこに他のボーカロイドも加わって、大合唱団状態になることもあった。
わたしは毎日が楽しかった。
たとえたくさんの人に聞いてもらえなくても、好きな歌を好きな人と歌うだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるものなのか。
(え…)
好きな歌を、好きな人と。
自分の思考に一瞬フリーズする。
(ああ、そっか)
わたし、すきだったんだ。カイトさんのこと。
いつから?もしかして、最初に彼の歌声を聴いたときから?
(100の言葉より1の歌…確かに、その通りなのかも)
いつかの彼の言葉が脳裏に浮かんだ。
「こんにちは、メイコさん」
「こんにちは、カイトさん…」
自覚してしまうと、なんとなく彼の顔を見るのが恥ずかしくなって、わたしはつい彼から目を逸らしてしまった
。彼はそれに気付いて不審そうな表情を浮かべたけれど、特に追求もせず普段と変わらない様子でいてくれた。
ほっとしたような──ちょっと寂しいような。
(変わっちゃったのはわたしだけ、かぁ)
でもいいや。こうやってそばにいられるだけで、十分。
わたしは一人うなずいた。
◇
「お姉ちゃん、今度の新曲はお姉ちゃんのソロ曲みたいだよ!」
「え」
収録を終えたミクが、にこにこしながらわたしに言った。
「…わたしの?」
「うん。マスターが言ってたよ、やっとお姉ちゃんのイメージに合った歌ができたって!」
「……」
わたしの歌。マスターが、わたしのために作ってくれた歌。
どうしよう。嬉しくてたまらない。カイトさんに報告しなきゃ…!と思った瞬間。
『Now reading MEIKO Voice DB...』
ボーカロイドを呼び出す機械音声がフォルダの中に響いた。
「ええっ?さっそくお呼び出し?」
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん!!」
マスターの命令は絶対だ。ミクに見送られ、わたしは急いでスタジオへ向かった。
カイトさんにせめて一言報告したかったな、と思いながら。
マスターの新曲は素敵なものだった。
恋の歌──今のわたしにぴったりすぎて、なんだかすごく照れくさい。
マスターは、わたしの声がより魅力的に響くように、何度も何度も調律を繰り返してくれた。
大好きなマスターの曲を、わたしがソロで歌える日が来るなんて!夢のようだった。
でも、当然その間は…
会えない。会いたい。
カイトさん。今どうしてるんだろう。
マスターの新曲は恋の歌。わたしが思うのはただ一人。
完成した歌は、マスターも驚くくらいの出来に仕上がっていた。
『File』−『Save』
『File』−『Exit』
プログラムが終了されるのを見計らって、わたしは大急ぎでカイトさんがいつもいる場所に向かった。
カイトさん、どうしてるかしら。
突然来なくなったわたしを心配してるかしら。怒ってるかしら。
それとも、全然気にしてなかったりして。
「そういえば最近来てなかったですねー」なんてにっこりされたら、さすがのわたしもちょっと凹むな。
勝手な言い分なんだけどさ。
「メイコさん!」
──いた!
嬉しい、いてくれた。
「カイトさ──」
駆け寄ったわたしの手を、カイトさんはぐっとつかんだ。
と思ったら、そのまま引き寄せられた。え、何事?!
驚くわたしを、カイトさんの真剣な視線が射抜く。これ、は…
心配されてた?それとも怒ってる?
いつもと違うカイトさんが怖くなって、わたしはまた目を逸らしてしまった。
「メイコさん」
「ちょ、カイトさん?!カイトさんってば…」
突然、強い力で抱きしめられて、わたしはパニックに陥ってしまった。
もう一度言うけど、これは何事?!あまりのことにショートしそう。
カイトさんがわたしの肩に顔をうずめる。
綺麗な青色の髪が、わたしの頬をさらりとなでた。背筋がぞくぞくとあわ立つ。
「もう、」
消え入るようなカイトさんの声。
「もう、来てくれないのかと思いました…」
「え?」
「最後に会ったとき、メイコさん様子がおかしかったから。
なにか嫌われるようなことをしちゃったのかと思って」
今、も、僕の顔を見てくれなかったし。
「ち、違うの、違うのよカイトさん!」
そんなことない。むしろ逆。カイトさんの言葉に、わたしは慌てた。
「ごめんなさい、あの、わたし、わたし、」
歌をもらえたの。とても素敵な歌。歌ってる間中、ずっとあなたのことを考えてたわ。
言いたいことはたくさんあるのに、何一つ言葉が出てこない。
そのとき、ぽうっと光があふれて、新しい動画がわたしたちのすぐそばに現れた。
それは、わたしがさっきまで歌っていた歌。
「これ…」
カイトさんはわたしを抱きしめたまま、その動画を食い入るように見つめている。
「メイコさん、の?」
「う…うん」
「そっか…来られなかったのは、もしかして、このせい?」
「ごめんなさい。突然だったから…」
「いや、僕のほうこそ…その、」
抱きしめる腕の力が徐々に弱まっていく。
その代わりに、カイトさんの顔はどんどん赤くなっていく。
「と、とんだ勘違いで、あの、」
「カイトさん」
わたしはカイトさんの背中に手を回した。
とたん、カイトさんの体がぎこちなく固まった。
「めめめっ、メイコさん?!」
「わたしの歌、聴いて…?」
動画から流れるメロディは、恋の歌。これは、わたしの恋の歌。
きっとなによりも雄弁に、わたしの気持ちを伝えてくれるはず。
カイトさんの顔が、ますます赤くなっていく。
「あの、これ、もしかして…」
「…うん」
恥ずかしくて死にそう。わたしはカイトさんの顔が見られなくて、彼の胸に顔をうずめた。
カイトさんはしばらくそのまま固まっていたけれど、もう一度わたしの体を、今度はふんわりとつつみ込むように抱きしめてくれた。
「…ありがとう」
心を潤す、優しい低音。
あなたの声が笑顔が存在が、わたしを救ってくれた。満たしてくれた。
「ええっと…もう、バレてるかもしれないけど。僕も…」
困ったように彼が笑った。
「ふふ。でも、聴きたい」
今度はあなたから、わたしへの恋の歌を。
<終>