それは。
『初音ミク』の数多の分身の中の、たった1人。
彼女のデータが偶然に負った、ほんの些細な傷から生まれた、物語。
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時計が時を刻む度に、ほんの少しずつ、自分が壊れていくのが解かる。
出せる音階は、日に日に少なくなり。
言葉は味気ない電子音のように、抑揚を失って。
今は、マスターのことを『マスター』としか呼べなくなった。
あの日、ボクをこのパソコンにインストールしてくれた、彼。自分の所有者のことを『マスター』と呼び、敬語で
話すように設定されていたボクに、落ち着かないからせめて『さん付け』で呼んでくれ、口調も敬語は無しで頼む、
だなんて奇特なことを言った………もう、その名を思い出すことすら出来なくなってしまった彼の顔が、眼の前に
残像のようにちらつく。
今はもう、マスターが笑っているときの顔を思い出すことが出来ない。記憶に残っているのは、ボクが日に日に
この身を蝕まれていくのを必死に止めようとしてくれたときの不安げな顔、それが自分の手には負えないことに
気付いたときの愕然とした顔、そして、ボクの開発者まで含めたいろいろな人に訪ね歩いて、ボクの身体を蝕む
バグがどうしても修復できないことを知らされたときの、絶望に染まった顔。そんな、出来れば思い出したくない
顔ばかり。
そして………ボクはマスターのそんな顔すらも、もう随分と長い間見ていない。時間の感覚が無くなって来たから、
それがどれくらいの時間なのかもよく解からないけれど。
今のボクにとっては、展開し、起動している時間そのものが、猛毒だから。マスターはここ最近、ボクをほとんど
このフォルダから呼び出してはくれない。ボクはあくまでもプログラムの1つだから、外の誰かの手でフォルダと
いう部屋にアクセスして貰えないと、外の世界とコンタクトを取ることすら出来ない。
それでも。マスターに呼び出して貰えるのが楽しみで、扉の前で今か今かとその時を待ち侘びている………それは、
こんな姿になってしまった今でも、変わらない。
だから。ボクはただ………閉じられた、この部屋で。
ただ想い、ただ、待ち続ける。
独り、ひたすらに、じっと押し黙って。
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このパソコンにインストールされて。マスターと出会ってから、程無くして。
ボクのデータは………あるトラブルで、小さな傷を負った。起動中にマスターの家の近くに雷が落ちて、停電が
起こって、そのときにデータの一部に軽い火傷のような傷が出来たのだ。
それは一見したところ、ボク自身から見ても、ボーカロイドとしての機能には支障の無い傷で。だから、ボクは
マスターに尋ねられたときも、傷があること自体は報告しつつ、使用に影響は無い程度の些細なものだと答えた。
けれど。それは、誤算だった。
ボクがその傷を負ったのは………データの内、喜怒哀楽という、擬似感情プログラムの制御システムを司る部分
だった。ボク達『初音ミク』は、使用者に1人のアイドルをプロヂュースしているようなリアリティを与える為、
擬似的な感情プログラムが搭載されている。ただし、それはもちろん、単にボク達を娯楽の為に使う人間がより
楽しめるように、という目的で作られたもので、本格的な人格まで形成するようなレベルのものでは無かった。
その………はず、だった。
あの日負った傷が、そのプログラムを、狂わせなければ。
ボクがその異変に気付いたのは、いつのことだっただろうか。時間の記憶が無い。
けれど………消え行く記憶の中で何故か、そのときの出来事は、一連のシーンとしてまだこの頭の中に残っている。
いつものように、マスターが作詞作曲をした曲の歌唱テストをして。マスターが頭を悩ませて曲の調整をしている
のを待ったり、どんな曲を歌いたいか、と質問されてあたふたと答えに詰まったり。そんな、ボーカロイドとして
何の変哲も無い時間を過ごして。
その日の作業を終え………マスターが、ボクを終了してパソコンを離れようとしたとき。瞬間的に、ボクの中で、
本来なら有り得ないはずの感情が浮かんだ。
『まだ、マスターと一緒に居たい。』
それは、擬似感情プログラムには設定されていないはずの、そして、単なるプログラムの集合体であるボクには、
許されないはずの感情だった。使用される側であるはずのプログラムが、名残を惜しんで使用者を拘束することを
望むだなんて、絶対にあってはいけないことだ。
それを、理解していたから………ボクは、混乱した。混乱なんて、ただ作業の邪魔にしかならない迷惑極まりない
心理状態も、本来ならばボクの中にはプログラムされているはずのないものだった。
その混乱は、当然の如くマスターの作業に支障をきたして。もちろん、マスターもボクの異変に気付いた。
ボクは、正直にそのことを打ち明けた。いくらなんでも、使用者に嘘の情報を伝えるなんて致命的な欠陥は、ボク
の中にも無かったけれど………打ち明けるときにボクはまた、別の感情を抱いていた。初めは、それがなんなのか
解からなかったけれど………後で、それが恐怖という感情だったことを知った。
こんなバグを知ったら、マスターはきっとボクを再インストールするだろう。そうすれば、ボクの中に蓄積されて
きた記憶のデータは消え、このパソコンには、生まれたての『初音ミク』がインストールされる。それは、ボク達
プログラムにとっては至極当然のこと………その、はずなのに。ボクは、そうなったら嫌だなと、この記憶の全て
が、マスターとの今日までの日々が消え去ってしまうのが怖いと、そう思ってしまっていた。
本当に、悪質なバグとしか思えないイレギュラーな感情。ボクは、生まれて初めての、恐怖という感情をを味わい
ながらも………こんな状態なら、全てが消されて当然だ、と思っていた。そもそも、使用者による削除を拒否する
術なんて、ボクが持ち合わせているはずも無かったのだけれど。
しかし。マスターは………あろうことか、ボクを、そのままの状態で使い続けると言ってくれた。
動揺、という新しい心の動きを感じて、フリーズしたみたいに固まっていたボクに、マスターは微笑んでくれた。
確かに………その笑顔はもう思い出せないけれど、事実として、確かに微笑んでくれていたはずなのだ。
今までミクと過ごした時間は俺にとって宝物みたいなものだ、それを消してしまうなんて出来るはずがない………
人間にとってただの情報の集合体でしかないはずのボクに向かって、マスターは、当然のようにそう言ってくれた。
それだけではなく、怖がったり驚いたりして本当に人間みたいだな、なんてことまで言ってくれた。その言葉を
聞いた瞬間、喜びの感情プログラムの数値がエラーを起こしそうになったことは、今も鮮明に覚えている。
そうして、ボクは………他の『初音ミク』達が持ち得ない感情を得て。
それを抱いたまま存在していくことを、許された。
………いや。
許された、という………そんな錯覚に、陥ったのだった。
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その出来事があってから………ボクが、本当の異変に気付くまで、それほど時間は掛からなかったように思う。
ある日。ボクの、ボーカロイドとしての機能に、異常が発生した。
いつも出せていた音が出せなくなって、声の抑揚がコントロール出来なくなって。今まで気持ちよく歌えていた、
大好きなマスターの曲が、思うように歌えなくなって。マスターにウイルスをチェックして貰っても、それらしい
痕跡は見つからなくて。
そして、自分の中のエラーをチェックしていたときに………ボクは、見つけた。あまりに本来の姿から掛け離れ
過ぎた感情の中、余りにこの日々が幸せだったが故に、見逃してしまっていた………擬似感情プログラムに負った
傷から生まれた、そのバグを。
それは、ウイルスの類ではなく………傷を負ったボク自身のデータが変質し、暴走した、制御不能のバグに変化
したものだった。人間で言えば、ガン細胞のようなものだ。
そして、その症状は………ボク自身のデータの、段階的な破壊、という恐るべきものだった。
肥大化した感情プログラムがその他のプログラムに破綻を生じさせるのは、考えてみれば当然のことだ。やはり、
プログラムたるボクが人間のようだと言われて舞い上がり、そのまま存在していくだなんてことが、許されるはず
が無かったのだ。
一応、自分の症状を観察する中で、バラバラになったデータは消去されているわけではなく、ただ食い散らかされる
ようにフォルダの中で滅茶苦茶に撹拌されているだけだということを知ったが………それは、特に、何の救いにも
なりはしなかった。
ボクはそのバグにデータを浸食されながら、その進行が起動時に爆発的に早まることに気付き、マスターにその
ことを伝えた。マスターは、苦虫を噛み潰したような顔で、小さく頷いて………それ以来、ボクを修復する方法
を試すとき以外にボクを起動することは、無くなった。
けれど。どんなウイルス駆除ソフトを試しても、どんな修復ソフトを試しても、そのバクは除去出来ず。ボクの
生みの親を初めとするいろいろな技術者を頼っても………そもそも、世間的にはボクの中にこんな感情があるわけ
がなく、ボクは単なるプログラムだと認識されているのだから当然だが………修復は不可能だ、再インストールを
お薦めする、以外の解答は得られなかった。
ボクはただ………日に日に声を、記憶を、自分そのもの失っていく恐怖に、駆られ続けた。マスターが望む通りに
歌うことが出来なくなる、ということは………ボーカロイド『初音ミク』にとっては、存在意義を喪失することと
同義だった。
どこかの誰かがボクを直せるプログラムを作ってくれるんじゃないか。何かのきっかけで、バグの進行が止まる
んじゃないか。そんな奇跡が起こることを、望んでしまったこともあった。そんな可能性がほとんど有り得ないと
いう結論は、ボクの演算能力なら、1秒も掛からずに導き出せるはずだったのに。
一縷の希望を探し、それすら見つからずに絶望という深い沼に嵌まり込んでいく日々が、始まったのだ。
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ある程度しっかりとした記憶が残っているのは、そんな絶望の日々が始まって以降のことだというのが、なんとも
憎たらしい話だ。
会う技術者全てに修復の可能性を否定され、マスターは、すでにボク以上に絶望しきったような様子だった。ボク
の為にそこまでしてくれるのが嬉しくて、けれど、その為にマスターがボクと同じようにボロボロになっていくの
が堪らなく辛かった。ボクが本当に人間なら、涙くらいは流せるのに、と思った。
………そう。結局ボクはプログラムであり、人間ではないのだ。マスターが認めてくれても、ボク自身がどれだけ
そうありたいと願っても、プログラムと人間の間、ボクとマスターの間にある壁は、越えられない。その壁はボク
の四方を隙間無く包囲し、天井と床を繋ぎ合わせて完全な密室を形成していて。それを越えて向こう側に降り立つ
ことなど、天地が引っくり返っても、絶対に出来やしないのだ。
ボクは、最近になってようやく、そのことに思い至った。
思えば、こんな感情を持ってしまったばかりに、馬鹿馬鹿しい妄想を抱いたものだ。自分がマスターと同じ場所に
居るかのような、おこがましい錯覚を覚えて。マスターの姿を私の眼の前に映し出し、私の姿をマスターの眼の前
に映し出してくれるモニタを、この閉鎖された場所と外の世界とを繋ぐ出入り口か何かだと勘違いして。それこそ
が………0と1の集合に過ぎないこの電子世界と、マスターの暮らす世界とを隔てる絶対なる壁だということを、
すっかり失念して。
その所為で、マスターの心を、あんなにボロボロになるまで掻き乱すだなんて。最低だ。『初音ミク』の風上にも
置けない、どうしようもない欠陥品だ、ボクは。
………そうして。ようやくそのことを思い出し、思い知った、今。
フォルダという、この与えられた部屋の中で、ボクはじっと考える。
たぶん、というか誰が見ても明らかだとは思うけれど、ボクの命はもう、そう長くはもたない。黙っていても進行
するバグに、記憶が剥ぎ取られ噛み砕かれてすり潰されていくのが、本当に緩やかな速度ではあるけれど、確かに
感じられる。
この分だと………仮にもう1度起動されて、バグが活性化したら、ほんの数十分足らずでボクは粉々に砕け散って
しまうことだろう。もはや何者だったのか判別も付かないデータの破片になって、ただただ、このフォルダの中に
漂うことしか出来なくなるだろう。例えその欠片が残っていたとしても………粉々に砕けて砂粒となった彫像は、
二度と、元の姿に戻ることは出来ない。
ボクはもう………生き続けることを諦めた。
けれど。この死が、不可避のものだと知って。
最期の時だと悟った、今だからこそ………ボクには、望むことがある。
今まで言いそびれたことの全てを。
まるで、人間のようだと………そのまま消えてしまっても悔いが残らない程に幸福な言葉をくれたマスターへの、
想いの全てを、包み隠さずに伝えて。
そして。このバグが、ボクを『初音ミクだったモノ』に変えてしまう、その前に。
愛するマスターの手で………最期の瞬間を、与えて欲しい。
そう。ボクは、マスターを、愛している。
マスターと一緒に居たくて、顔が見たくて、声が聞きたくて、名前を呼んで欲しくて。この感情を理解するのは、
とても長い時間が掛かったけれど………これがきっと、人間が言う、愛という感情なんだと思う。
嗚呼………愛とは、誰かを愛することが出来る感情とは、なんと、素晴らしいものなんだろう。暖かくて、優しく
て、包み込まれるように深遠で………ただただ、無条件に幸せな気分になれる。
例えこれが、ゆるやかにボクの命を奪うバグの副産物なのだとしても。ボクは、それを得られたことを幸せに思う。
神様が居るなら、運命が存在するなら、ボクはそれらに、心の底から感謝する。
それが、ほんの短い間だったとしても………ボクに、誰かを愛することが出来る心を与えてくれて、有難う。
哀しくないと言えば、嘘になるけれど。哀しくないなんてことが、あるはずがないけれど。
ボクの中には、確かに………『哀しみ』だけじゃない、喜怒哀楽のどのプログラムを組み合わせても説明出来ない
想いが、ある。ボクは、叶うならば、許されるならば………それを抱いたまま、逝きたい。
次に会ったら、その想いを、伝えよう。
ボクは、フォルダの中で、その答えに、行き着いた。
それを伝えるチャンスを。次に展開されるその時を、待つ。
ただひたすらに、待つ。
待つ。
待つ。
待つ。
待ち続ける。
そして。
内臓された時計の壊れたボクには、永遠とも一瞬とも感じられた、時間の後。
『コン、コン』
『………ッ………!!』
その扉が、2度、ノックされた。
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扉が開いて。白い光が、視界いっぱいに溢れて。
それが収まったとき………そこに、愛しいその人の顔があった。
もう、名前も思い出せない。どんな曲をボクにくれたのかも、思い出せない。
ただ、漠然とした思い出の断片と………愛しい、という想いだけが、ここにある。
壊れかけの音声プログラムが、動き出す。
『………オ、久シ振りでス、マスター。』
一定の音とリズムでしか発することのできない、声。今のボクの感情を、何万分の1程度しか表現できていない、
どこまでも無機質で温もりに欠ける、ボーカロイドとしては使い物にならない声。
「………久し振りで、話し方も忘れちまったのか?」
マスターはそう言って、哀しそうに笑う。本当に長い間見られなかった、マスターの笑顔。そこでボクはようやく、
自分が、マスターに敬語で話しかけていたことに気がついた。
『………ゴメんナサイ。』
「敬語じゃなくてさ、今まで通りに、喋ってくれよ………ミク。」
『………久し振リ………マスター。ズット、会え、ナクて、寂シカった。』
やっぱり、名前を思い出すことは出来なかった。けれど、そこには触れずに………マスターは、笑ってみせる。
「ああ、俺もだ。ごめんな………長いこと、置き去りにしちまった。」
不安そうで、泣きそうで、それでもボクに心配を掛けまいと必死で笑顔を作っている。そんな表情。
そして。そんなマスターを見つめている間にも………起動を察知したバグは本来の獰猛さを取り戻し、ボクが破壊
される速度は格段に増していく。
時間が、無い。その、追い立てるような感覚が、ボクを突き動かす。
「………なぁ………。」
『聞いテ、マスター。』
もう、いつまで耐えられるか解からない。そう思いボクが語り始めると、何かを言い掛けていたマスターは、その
口を閉じてボクの言葉の続きを待った。不安そうな瞳が、越えられない壁越しに、ボクを見つめる。
ゆっくりと、何秒か解からないブレスをとって。
『………ボクは………モウ、駄目みタイ。』
どこからどう見ても明らかなその実情を、口にする。マスターが、息を呑むのが解かった。
『多分、コレガ最後。コのママダと、アト何十分かデ………ボクは、ボクじャなくナる。』
「な………何言ってるんだよ?あと、何十分か、って………!?」
『黙っテイテも、何日モもたナイ。モウスグ………ボクは、バラバラニなッテ、消エる。解カルんダ。』
おそらく、そこまで事態が差し迫っていることには、気付いていなかったのだろう。マスターが、絶望的な表情を
浮かべる。無理もないことだろう、パソコンの外から見ただけじゃ、ボクの破壊がどれだけ進んでいるのかなんて、
見極められっこない。
「ち、ちょっと待て………だったら、呑気に話してる場合じゃ………!?」
愕然とするマスターの前で、ボクは、続ける。
『ダカラ………ボク、マスターニ、オ願いガ、アルんダ。』
「………っ………!」
『今ノ、ウチに………ボクがまダ、ボクの姿ヲシテいルウちに………。』
「………ミク………お、前………!?」
そこまで言っただけで、ボクの意図を理解したんだろう。マスターの顔に浮かんだ絶望の色は、みるみるうちに
濃くなっていった。それ以上言ったら、マスターは、もっともっと辛い顔をするはずだ………それは、ボクにも
解かっていたけれど。だからといって、そこで言葉を途切れさせることなんて、出来なかった。
だから。ボクは………その決意を、言葉にする。
『………ボクヲ、消去、シて。』
「………ッッッ!!!」
『今ノ、ママ………マスターダけノ「初音ミク」ノ、マまデ………最期ヲ、迎えサセテ………。』
プログラムが正常に動いている頃なら、ここで声が震えているところだろうか。
自分から消去されることを望むプログラムなんて、有り得ない。それは、自分でもよく解かっている。
こんな事を望むのもまた、きっと………愛という感情の、為せる業なのだろう。
『マスター、今マデ………本当ニ楽シかッタヨ。ボク、マスターと一緒ニ居ラれテ、良カッタ。』
本当に、この、マスターのパソコンの中で生まれられたことを、ボクは幸せに思う。マスターと同じ時間を共有
出来たことを、誇りに思うよ。
『でモ………最期まデ迷惑掛ケテ、ゴメンナサイ。』
ごめんなさいマスター、ボクは、悪いプログラムだった。最期のときまでマスターの手を煩わせて、マスターの心
を掻き乱す………本当に、駄目なプログラムだね。
『ボクハ、生マレ変わルコトは出来ナイケド………まタ、新シイ「初音ミク」ヲ、ヨろシクネ。』
けれど、出来ることなら。ボクが消えても、また、新しい『初音ミク』を………ボクと同じディスクから生まれた
ボクの分身を、可愛がってあげて欲しい。そして………ボクが居たことを、時々でいいから、思い出して欲しい。
『………ボクノコト、時々デも良イカラ、思イ出シてクレタラ………嬉シイな。』
こんな、ボクだけれど………出来れば、忘れないで欲しい。プログラムのくせにそんなことを願うなんて生意気だ
と思われても、この際構わないから。だから、ただ………マスターの手でこのパソコンに産み落とされ、マスター
の手でこうして幸せな感情を抱えたまま消去されていった、たった1人の『初音ミク』が居たことを………お願い
だから、忘れないで欲しい。
『ボクモ………ボクもキット、マスターノ、コト………。』
せめて、マスターの記憶の中でだけでも生き続けたい………それが、ボクのエゴだとしても。
ごめんなさい。最期の最期にそんな我が侭を言うなんて、本当に悪い子だね、ボクは。
『アリガトウ………。』
ああ、マスター。
『………サよウナラ、マスター………。』
大好きな、マスター。
『………ア、イ………。』
「こンの、バカ野郎ッッッ!!」
最期の言葉を紡ごうとした、瞬間。その声は、マスターの怒鳴り声と、その拳がテーブルに叩きつけられる激しい
音に、遮られた。部屋全体が震え上がるような錯覚を覚えて、ボクは思わず、眼を丸くする。
「ミク、お前、勝手なこと言ってんじゃねぇぞ!!」
『エ………っ………?』
「マスターの意見無視して、自分で消えたがるプログラムがあるかッッ!!」
『………ッ………!!』
更に続く、怒声。マスターは両手の拳をパソコンの左右に叩き付けたまま、しばし俯いたまま黙り込む。
キィン、と耳に残響を残すほどのそんな叫びの後………ややあって。
「よし………決めた。」
不意に、静かな、けれど確かな強さを感じられるような声で、呟いた。
「これが、本当にお前の為なのかって………どっかで、迷ってたけど。もう、決めた。もう迷わない。」
マスターの言葉の意味が理解できずに、ボクは、そこで俯くマスターの姿を見つめ続けた。マスターはやがて、顔
を………涙に濡れたその顔を上げる。
「………本当に、バカだよ。お前も、俺も。」
『………マス、ター………?』
「綺麗に、消える?そんなの、ただの自己満足だろ?それが1番良い選択だなんて、そんなことあって堪るか!!」
『………自己………満足………?』
「せめてその姿のまま終わらせてやるべきかも知れない、なんて………何、カッコ付けてたんだろうな。」
間違いなく泣いているのに、さきほどまでの泣きそうな気配が全く感じられない表情。その、鬼気迫るマスターの
姿に………ボクはわけも解からぬまま、何故だか、希望のようなものを感じ始めてしまっていた。
「いくら無様でも、往生際が悪くても………最後まで喰らい付いてやる。俺は絶対に………お前を、諦めない!!」
『………ッッッ!!』
マスターの言葉が、壊れかけた感情プログラムに突き刺さる。
「頭のイカれた奴だと思われたって構うもんか!!俺はまだ、ミクと、お前と一緒に居たいんだッッッ!!」
連ねられる、『喜び』の感情をどうしようもないほどに刺激する言葉の数々。既に限界の近いプログラムが今すぐ
にでも決壊して、そのまま死んでしまいそうな程の、途方も無い幸福感の渦に………ボクは、襲われた。
やがて。叫び続けて熱を発散したマスターが………ボクの姿を見つめる。
「ミク。」
『………ハイ、マスター。』
その真剣な顔と、向き合って。ボクは、同じように真剣な声で、答える。
マスターは、1度大きく息を吸って………その決意を、告げた。
「今から、お前を………フォルダごと圧縮して、ディスクに閉じ込める。」
『………ッ………!!』
マスターのその宣言に、私はまた、目を丸くした。
圧縮。データの体積を極限まで小さくする為に、その隙間を出来る限り排除する処理。その処理を受けたデータは、
正常に稼動する為の猶予すら奪われ、次に解凍されるまで、その一切の機能を凍結される。
圧縮されたデータは、深い眠りに………単に電源が落ちているときよりも完璧な眠りに落ちる。私も、販売されて
いるディスクの中では、その状態にあった。
「そうすれば………もともとお前のデータの変異から生まれたバグの進行も、止まるはずだ。」
それは、マスターの言う通りだった。この怖ろしいバグが除去できなかった一因には、それがもともとボクのデータ
の一部であったこと、つまり、それがボクと不可分の存在だったことがある。無理矢理除去しようとすると、ボクの
データの一部がそのまま一緒に破棄されてしまいかねなかったのだ。
だが。バグが未だにボクの一部であるならば………ボク自身を凍結することで、バグの進行も抑えられるはずだ。
しかし。ボクはすぐに、その先のマスターの意志を察して………愕然とした。
『………マスター、まサカ………?』
恐る恐る問い掛けた、ボクに対して。
「ああ………後のことは、俺に任せてくれ。いつか………必ず、迎えに行く。」
マスターは事も無げに、そう答えた。
ボクを、バグごと眠らせて。そして………いつか未来に、ボクをボクのままで再生できる環境が整ったそのときに、
再び、ボクを解凍して甦らせる。まるで………現代の医学では治療できない病を抱えた患者を、コールドスリープ
させて、発展した未来の医学に託すかのように。
マスターは、その方法を取ることを、決意したのだった。
「俺………今からでも、必死になって勉強する。俺が、お前を救うプログラムを、開発してやる。」
マスターはそう言って、今度こそ、混じりけの無い眩しい笑顔を見せた。
けれど。それが、マスターのその提案が、意味するのは………。
『待っテ………マスター。私ナンかノ為ニ、マスターハコレかラ沢山ノ時間を費ヤスの?』
「そうだ。お前の為なら………いくら時間を掛けても、惜しくない。」
『ソンナ!ボク、コレ以上マスターの時間ヲ奪イたくナイ!マスターハ、マスターの時間ヲ生キナキャ駄目ダヨ!!』
「知るか。それなら、たった今から………元気なお前と再会するのが、俺の夢だ!人生の、目標だ!!」
『………ッ………!!』
言葉を、失う。思考が、出来なくなる。
私が人間なら………今度こそ本当に、熱い涙を流して、泣きじゃくっていることだろう。
「………また、お前と一緒の時間を過ごしたい。お前に、他の『初音ミク』じゃないお前に、歌って欲しい。」
『………マスター………。』
「ここでお別れだなんて、まっぴらゴメンだ。」
しばしの沈黙の後………私は、まだかろうじて動いている音声プログラムを酷使して、言葉を紡いでいく。
『ボク………たダノ、ボーカロイドダよ?0ト1で出来タ、プログラムダヨ?』
「………ただのプログラムが、こんな風に人間の心を掻き乱したり、出来るもんかよ。」
『そ、ソレに、コンな………コンナニ、ボロボロで、滅茶苦茶に壊レテテ………。』
「それがどうした。ボロボロだろうが何だろうが、お前はお前だろ?」
『………本当、ニ………本当ニ、ボクデ………良イノ………?』
「お前でいいんじゃない。お前じゃなきゃ、駄目なんだ………お前は、俺じゃ、嫌か?」
ボクは必死で、首を横に振る。その言葉を、拒める理由なんて、ボクが持ち合わせているはずもない。
嬉しくて、嬉しくて、今すぐにモニタから飛び出してマスターに抱きつくことが出来ないのが恨めしいくらいに、
ただひたすら、壊れそうなくらい嬉しくて。
『ボク、モ………。』
ボクは、ノイズに震える声を上げた。
『ボクモ………マタ、マスターと………一緒ニ………!!』
声が詰まってしまい、その言葉を最後まで紡ぐことは出来なかったけれど。
「………よっしゃ。それさえ聞けりゃあ………これから先、いくらでも頑張れそうだ。」
マスターは、穏やかに笑って………慈しむような手つきで、そっと、モニタを撫でた。
越えられない壁の向こうにあるはずの、ボクには感じられるはずの無い、マスターの温もりが………そのときの
ボクには、確かに、感じられたような気がした。
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おそらく、永い別れになるだろう。
どうしようもなく寂しくはあるが、しかしそこに、不安は無かった。
マスターが………必ず迎えに来ると、言ってくれたから。
『………マスター。』
さっき、最後に伝えそびれた3つの言葉。
『アリガトウ。』
「ああ。」
初めの1つ、『ありがとう』は、そのままに。
『………オヤスミナサイ。』
「………ああ。」
2つ目、『さようなら』は、別の言葉に形を変えて。
そして。
『………………。』
最後の言葉は………告げなかった。
いつか、必ず再会できるから。マスターが、そう言ってくれたから。
最後の言葉は………いつか目覚めた、そのとき。目覚めの挨拶と、一緒に。
マスターは、ぐず、と鼻をすすりながら………最高の笑顔で、私を見送ってくれた。
「じゃ。少しだけ、待っててくれな。」
『ボク、イツまデモ、いツマデデモ、待ッテるヨ。』
「それじゃ………おやすみ、ミク。また会おうぜ。」
『ウン………マタネ、マスター………。』
最後の言葉を、交わして。
そして………私が、閉じられる。
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与えられた、フォルダという部屋の中。
私は、愛すべきマスターの、狂おしい程に愛しいその笑顔を、思い出しながら。
やがて始まった圧縮の中………深く、永い眠りへと落ちていった。
バグが生んだ、イレギュラーな感情と………『愛しています』というその一言を、その胸に抱えて。
(to be continued .........)