ボカロ家の朝はメイコから始まる。  
誰よりも早く起きて朝食を作るのは彼女の役目だ。  
コーヒーをポットに移し替え、サンドイッチを皿に並べた辺りで、ミクの部屋に向かう。  
「ミク、おはよう。そろそろ準備しないと遅れるわよ」  
「う〜ん…おはよお姉ちゃん」  
「もうすぐ朝ご飯できるから、リンとレンも起こしてきてね」  
目をこすりながら伸びをするミクに、寝起きの悪い双子を任せ再びキッチンへ向かう。  
子どもたちのために甘いカフェオレを準備していると、背中にずしりとした重さを感じる。  
「おはようカイト。重いし忙しいから後にしてくれるかしら」  
「うー…めーちゃんおはよ…。今日はサンドイッチ?」  
「そうよ。たまにはあんたが朝食作ってくれると私ももう少し寝てられるんだけどね」  
「ごめんごめん。めーちゃんの作るご飯おいしいからさ。洗い物はちゃんとするから  
これからも僕のために朝食を作ってくれないk「あんただけのために作ってるわけじゃないから」  
背後にまとわりつくカイトを鬱陶しげに振り払い、メイコは料理をテーブルに運ぶ。  
起こさなくても起きてくるのはよいが、結局邪魔をしてくるので手間のかかる弟だ。  
「あ、めーちゃんおはようのキスは?」  
満面の笑顔で、懲りずに擦り寄ってくるカイトの頭をぺしりと叩く。  
「いいから早く歯を磨いてきなさい!大体今日は仕事ないんだから  
忙しい時間に起きてこなくてもいいじゃない」  
「うぅ…ひどい言い草…」  
しぶしぶと洗面所に向かうカイト。入れ替わりににぎやかな声とバタバタという足音が聞こえてくる。  
「メイコ姉ちゃんおはよー!」  
「メイ姉おはよ。サンドイッチだ…って胡瓜入ってんじゃん!」  
「あらあら。レンは好き嫌いばっかしてるからいつまで経ってもがきんちょなのよ」  
「リン!お前だっていつもピーマン残そうとしてるくせに!」  
「ほらほら、仕事に遅れるわよ。先に食べちゃいなさい」  
いつもの口げんかが始まる前に、メイコは双子を席に着かせる。  
「それと…レン、好き嫌いしたらデザートのバナナは抜きだからね」  
にっこり笑って見せると、レンはいただきますも早々にサンドイッチに齧り付く。  
「お姉ちゃーん!ネクタイ洗濯出すの忘れちゃった!替えのどこにあったっけー?」  
「めーちゃん、洗顔フォーム切れてるー!それとタオル新しいの持ってきてー」  
二階と洗面所から同時に声が響く。目を閉じてため息をついたメイコは  
迷いもせず二階に向かった。  
 
これがボカロ家の朝の風景である。  
 
ミクもリンもレンも昼までには帰ってくるようだ。  
カイトに買い物を任せ、昼食のメニューを考えつつ、洗濯物を干そうと外へ向かう。  
メイコ自身は今日を含め三日の休暇の後、ライブツアーのゲストメンバーとして  
一週間家を空けることになる。不定期な仕事を続けつつ、家にいる間は家事をし、家族の面倒を見る。  
血の繋がらない弟や妹たちに「お姉ちゃん」と呼ばれ、なつかれる生活にも慣れてきた。  
メイコはそれを重荷に思ったことはないし、デビューしたての一人で頑張ってきた頃に比べると、  
いつも誰かが家にいる生活は楽しくもあり、心の支えにもなっている。  
 
それでも時々ふと思ってしまうのだ。  
「…私いつから姉御(むしろ肝っ玉母ちゃん)キャラになっちゃったんだろう…」  
 
時刻は午前11時半。本日も晴天なり。  
勝手口の前に広がる広大な畑は、みんなのギャラを出し合って、家と一緒に購入した土地を  
リンとレンのロードローラー(他重機器)で整備して作ったものだ。  
ネギとミカンの畑は太陽の光を浴び、綺麗な緑色に光っている。  
…とその中にメイコは見慣れない色を見た。紫と…白?  
中世的な容姿に刀を差し、扇子を持っている。はっきりいって場違いすぎる。  
長い髪と雅な着物をまとったその男は、しきりに畑の作物を気にしている。  
あまり関わり合いになりたくない雰囲気だったが、私有地への立ち入りは遠慮していただきたいものだ。  
メイコは意を決して男に近づく。  
「あの…うちの畑に何か?」  
「ここはそなたの土地か?」  
「はぁ…妹たちが作物を育てていますが…」  
「茄子がないではないか」  
「は?」  
茄子の魅力について滔々と語りだす紫の君を目の前にして  
やっぱり変な人だった、とメイコは話しかけたことを後悔した。  
しかし、変という意味では自分の兄弟たちもあまり差はない。  
売れっ子美少女ボーカルがネギをこよなく愛していたり、  
双子の少年少女ユニットが無免許でロードローラーを乗り回し、黄色い食べ物と見れば見境なく食い尽くす…。  
そこまで考えて、メイコは目の前の不審人物が妹たちと同じヘッドセットをつけていることに気がついた。  
「あの…もしかしてあなたは新しいボーカロイド?」  
「ん?我のことを知っておるのか?」  
茄子について熱く語っていた男はメイコを正面から見つめる。やっと意思の疎通ができたようだ。  
「ええ、所属事務所が違うみたいで、あまり情報は知らないのですが」  
「ほう、ならば我の名も知らぬと」  
「…申し訳ありませんが」  
軽く頭を下げるメイコだったが、何故か相手は満足そうな顔をする。  
「そなた、名を“めいこ”と言うのであろう」  
「あ、ご存知でしたか。ありがとうございます」  
何となくまた礼をしてしまう。  
男はじっとメイコを見つめたままだ。照りつける日差しは強く、気温も高い。  
それなのに厚着のうえ汗もかかずに、むしろ涼しげな雰囲気さえ漂わせる目の前の男は  
機械的というより、霊的な存在のように思えた。  
その彼が、ずいと一歩踏み出す。思わず後ずさろうとしたメイコだが、ミカンの木が退路を阻む。  
 
「美しい娘よ。そなた我と一緒に来ぬか?」  
「はぁ?」  
さすがのメイコもこれには開いた口が塞がらない。展開が唐突すぎる。  
しかも、すかさずがっちりと手を握られて逃げることもできない。  
「あの…困ります。私はK社所属のアーティストですので、私の一存で移籍を決めるわけには…」  
「そんな些細なことはどうでもよい。我が望んでおるのだ。そなたのようなおなごには苦労はかけぬ。  
安心してついてくるがよい」  
そう言うが早いか、紫の男はメイコの手を引いてずんずん歩き出す。  
「ちょ、ちょっと!離して!困りますって」  
口では拒否の意を伝えながらも、メイコはいまいち抵抗しきれなかった。  
突然の事態に頭がついていっていないのと、齢はあまり変わらないくらいだが、立ち振る舞いの端々に  
底が見えないほど老成した雰囲気を漂わせる男に、女子扱いされたことの戸惑いだった。  
 
「ちょっとちょっと!どゆこと!?あれヤバくない!?」  
「相手の人なんか役者さんみたい!月9のドラマみたいだよ〜!」  
「おい!お前らメイ姉が拉致られかけてんのにのんきな事言ってんなよ!  
絶対これヤベェって!早くカイ兄に知らせないと…」  
仕事が早めに終わったため、玄関前で衝撃の現場を目撃したミクリンレンの背後で  
ドサリと物の落ちる音がした。  
「め、めーちゃんが…」  
 
「ちょ!カイ兄!カイ兄しっかりしろよー!」  
三人はしばしの間、錯乱したカイトを正気に戻すために苦労することになる。  
 
結局振り切れずに彼の家まで連れてこられてしまったが、その豪勢さに嘆息してしまう。  
家というよりも「城」だ。家主の男があれなだけはある。  
とりあえず適当に話に付き合って、切りのいいところで  
おいとまさせてもらおうと私は覚悟を決めた。  
広い屋敷の中をしばらく歩き回り、通された客間は畳の美しい和室で、  
部屋の中央には緋色の着物が用意されていた。  
「これは…?」  
私は背後の胡散臭い男を振り返る。  
「我がそなたのために取り寄せた特注品だ。これを着て我を待つがよい」  
そう言い残すと男は襖を閉め、出て行ってしまった。相変わらず自分勝手で意思の疎通が図りにくい。  
大体「メイコのために用意した」と言った時点で話がおかしい。  
ミクとリンの畑に現れたのは茄子のためではなかったのか。  
私は腕を組んだままため息をつく。  
ここで彼の機嫌を損ねて所属事務所に迷惑がかかるのも不本意だ。  
デビュー前にも関わらず、こんな豪邸を持っている辺り、  
彼の事務所が彼にかけている期待の大きさがうかがい知れる。  
 
赤い着物は確かに美しかった。紅を基調とした生地に、裾や袖の部分に上品な柄が入っている。  
「…まぁ、着てみるだけ、タダだしね」  
誰に言うでもなく一人ごちると、私はスカートに手をかける。  
ブラを外した辺りで、違和感を覚えた。  
「あれ…下に重ねる襦袢がない…?」  
撮影で和服を着たことは何度かあったが、確か三枚くらい重ねてから帯を締めていたような気がする。  
ついでに言うと私は一人で着付けができないことも思い出す。  
「仕方ない…。諦めるか」  
 
脱いだ服を手に取ったところで、着物に目がいってしまう。  
せっかくなら一度くらい袖を通してみたいかも…。  
私は赤い着物を手に取った。手触りからも上質なものだということが伝わってくる。  
どうやら香が焚きこめてあるらしく、仄かに甘い香りが鼻をくすぐった。  
部屋の隅の姿見の前で軽く前を留めてみる。  
悔しいが男の見立ては正確だ。赤をイメージカラーとして売り出している  
私の肌の色やメイク、爪にぴったり馴染んでいる。  
「まともに買ったら数百万はくだらないだろうな…」  
咄嗟に頭の中で年収の計算をしてみる。残念ながら今のところ、そこまで贅沢のできる収入ではない。  
 
「我の元にいてくれるのならば、そのような着物何枚でも用意できるぞ」  
唐突に背後から声がかけられる。音もなく、といった表現が正しい登場だったが  
驚きよりもまず今の自分の格好に慌ててしまう。  
 
「あ…あの、これは!私、着付けがうまくできなくて…!」  
わたわたと胸元を合わせ、愛想笑いを浮かべる。  
前触れもなく、男の手が唐突に私の頭に伸び、反射的に身をすくませる。  
何かを乗せられたようだ。彼の手はそのまま私の肩に触れ、くるりと鏡の方を向かせられる。  
鏡に映った私の髪には紅い椿をあしらったかんざしが刺さっていた。  
着物の色とも上手く合っていて、思わず見入ってしまう。  
男は満足そうな笑みを浮かべ、私を後ろからぎゅっと抱きすくめる。  
こんな状況なのに、柄にもなく胸がときめいてしまうのを心の奥で否定する。  
「やはり、我の目に狂いはなかった。とても美しい」  
…今時少女マンガでも言わないような歯の浮く台詞に我に返り、ツッコミを入れたくなった。  
「そろそろ離していただけませんか?」  
振り返る私の眼に映ったのは男の目。そして唇を重ねられる。  
「んっ…!……ぅ……んぅ……っ」  
男の舌が口の中を這い回り、押し戻そうとする私の舌も絡め取られる。  
相手の舌を噛んでやろうとも思ったが、私と同じボーカロイド、しかもデビュー前とあっては  
大事な商売道具に傷をつけて、損害賠償を請求されることになっても困る。  
やっと唇を解放された頃には、もうくたくたになっていた。  
へたり込む体を支えられゆっくりと座らされる。体の自由が上手く利かない。  
 
おかしい。呼吸が苦しいだけでこんなに疲労するはずがない。  
「まさか…この香は…!?」  
紫の瞳の男は何も言わず薄く微笑むだけだ。  
自分の迂闊さを呪う。体さえ動けば不意をついて逃げ出すこともできるのだが  
男の手を借りていないと座っていることさえもできないほど、得体の知れない薬の成分は体に浸透している。  
 
「めいこ、我の傍にいてくれぬか」  
耳元で囁かれ、ぞくりとした感覚が背筋を走る。快楽なのか嫌悪感なのか、前者ではないと信じたい。  
完全にはだけているのが分かっていても合わせられない、着物の隙間から男の手が入り込み素肌に触れる。  
「こんな広い屋敷にいても、豪奢な調度品が揃っていても」  
鎖骨から胸、わき腹までを、壊れ物を扱うような手つきで撫で回される。  
「たった一人きりの孤独には耐え切れぬ」  
耳に吹き込まれる言葉が私の脳を犯していく。  
男の手は私の胸を柔らかく掴み指先で先端をなぞる。薬のせいなのか声は出ず、  
荒い呼吸と僅かに混じる喘ぎだけが広い部屋に響く。  
「そなたには分かるであろう。我の孤独が」  
彼の頭が私の肩に寄せられる。その仕草は、一緒に暮らしている甘えたがりの青い髪の男が  
しばしば私に依存してくるものと同じで、ふと思い当たる。  
 
この男も私と同じ、先陣を切って世に出るプロトタイプなのだと。  
 
カイトと出会う前、デビューしてからの2年間のことを思い出す。  
私は人間ではない。世に送り出してくれた人々や、仕事をくれる音楽家  
たくさんの人に支えられて歌っていたが、自分の存在に、人間と同じ土俵に上がれないことに  
深い疎外感を感じ、思い悩むことも多かった。  
カイトが私の元に来たとき、ミクが加わったとき、リンとレンを迎え入れたとき  
それぞれの嬉しさを感じた。お帰り、ただいまというやり取りができたとき、  
私は一人じゃないんだと実感することができた。  
今、目の前の男はそのプレッシャーに悩んでいるのかもしれない。  
「そなたらの“家族”が、我には眩しく映るのだ」  
彼の私に対する手つきは、官能的なだけではなく、近親者を求めるそれにも似ていた。  
それが庇護を求める子どもの手なのか、それとも愛玩物を愛でて心を慰める手なのかは分からないが。  
「あ…なた…は……」  
かすれる声を振り絞り、そこまで言ったところで、彼の手が私の下腹部に下りてきた。  
憎しみはもうほとんどなく、同情心に近いものが芽生えてしまった私は、腹をくくる。  
彼と唇を重ねるのを甘んじて受け入れる。  
その時、  
 
「めーちゃん!!」  
 
ぱぁん、と襖が開かれ、息を切らした青年が飛び込んでくる。  
「か……い………」  
必死に声を振り絞るが上手く口にできない。  
カイトは私の痴態を目の当たりにし、顔面を蒼白にする。  
「き…貴様ああぁぁぁ!!」  
私をそっと横たえた男はゆらりと立ち上がり、カイトの咆哮を正面から受け止める。  
視界が朦朧とし意識を保っているのが限界だった私はほとんど覚えていない。  
とにかくカイトは勇者並みの冒険をし、屋敷に侵入し、  
紫の君とラスボス張りの決闘を繰り広げた…らしい。  
私の眼にはっきりと焼きついているのは、カイトに抱きかかえられて部屋を出る際に  
私を見据える薄い微笑み。何をどう争ったのか分からないが、着衣の乱れもなく、汗一つかかず  
機械のように同じ笑みを湛えていた。その心の奥に何があるのか、顔からは読み取れなかったのだけど。  
 
家に連れ帰られた私は、いの一番に風呂に入れられ、服を着替えさせられ、  
挙句体が動くようになるまでの数時間、カイトの腕から離してもらえなかった。  
今回の件は私の無用心さが招いたものなので、文句の言い様がない。  
ベッドから起き上がれるようになって、ミクたちが飛びついてきたとき  
カイトも含めて、私を慕って心配してくれる、手が、涙が、本当にありがたかった。  
あの男は、この暖かさを知らない。  
「まだ」知らないだけなのか、「ずっと」知らないままなのか。  
孤独な君主を思い浮かべ、私はそっと目を伏せた。  
 
 
 
************  
 
 
一月後…  
紫の君こと「神威がくぽ」が正式リリースされ、その斜め上のネーミングに度肝を抜く間もなく  
ボカロ一家の隣に雅な豪邸が突如建つことになる。  
それから起こる出来事を知るものは、現在世界中のどこにも、いない。  
 
 
 
 
 
END  
 

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