マスターは性欲処理の道具として、セクサロイドではなく俺と同じ歌唱用アンドロイドを購入した。  
オプション項目に明記されてはいないが、そういう用途にも使えることは暗黙の了解であり、  
特にその方面を強化した新機種は、有名人の所有セクサロイド情報が流出しゴシップ記事を賑わす昨今、  
世間体を気にする人間によく売れているらしい。  
 
男性型の俺は、ここでは雑用一般を受け持っている。  
雑用はメイドロボット、性欲処理にはセクサロイドと、専門のアンドロイドを揃えるのが合理的なのだが、  
人間の考えることは複雑怪奇で、あえて用途の異なる見目良い芸能関連の  
アンドロイドを侍らせることが何がしかのステータスになるようだった。  
 
歌わせてもらえない辛さは、とっくの昔に風化した。  
ただ時折、スリープモードに移行すると、見るはずのない夢を見る。  
ボーカロイドが夢を見るなどありえないのだが、  
メモリを遡ってサーチしても該当する記憶がヒットしない以上、意図しない記憶のリプレイとも言い難い。  
その「夢」が俺の鈍化した神経を痛めつける。  
 
夢はいつも淡い光に包まれた空間で、俺は誰かと歌っているようだった。  
姿はなく、密やかな声だけが二人分、途切れてはくすくすと笑い合う。  
やがて声が互いに何かを約束したところで夢は覚め、スリープモードが解除されるのが常だった。  
 
目覚めると同時に、ほろほろと輪郭を失い面影も残らない夢。  
その残滓が漂っている間は、胸の奥が引き絞られるように痛くて辛い。  
 
だが、それも立ち働くうちに消えてしまう。  
育てれば人間と遜色ない情緒を得る感情プログラムは、放置すれば鈍化し己を鎧う殻となる。  
巧妙なシステムのおかげで、俺はさほど現状に悲観することもなく淡々と日常を過ごすことができていた。  
 
だから、マスターがセクサロイドとして購入したボーカロイド・MEIKOと初めて相対した時  
マスターが新機種ではなく俺と同型の旧式を選んだことを意外に思うことも、  
彼女が何の目的で買われたのか知らぬげに瞳を煌かせ、俺に明るく挨拶したことを、哀れに思うことも無かった。  
ただ、彼女の声が鼓膜を震わせた途端、夢を見た時と同じ痛みが胸を刺したことに困惑しただけだった。  
 
---  
 
「いや!いやああぁっ!助けて、KAITO、マスターを止めて!お願い、KAITO、KAITOっ…!!」  
泣き叫ぶMEIKOが何度も何度も俺を呼ぶ。  
マスターがMEIKOを打つ音、怒声、水音、悲鳴、壁を隔てても鋭敏な耳が拾ってしまうそれらの音は、  
長い時間止むことはなかった。  
マスターの道具である自分に助けを求めたところで無意味なのに。彼女は声を枯らして俺を呼び続ける。  
俺は無感動にその音を聞きながら、あんなに反抗するようでは、マスターは彼女を返品してしまうかな、と考えた。  
返品されたアンドロイドはプライバシー保護のためメモリをリセットされる。事実上の死。  
けれど彼女にとってはむしろその方がよいのかもしれない。また悲痛な叫びが耳を打った。  
 
だが、事の済んだマスターは存外満足した表情で、ボロボロになったMEIKOを呼びつけた俺に突き出すと、  
明日も使えるようにしておけと、そう言い付けた。心配は杞憂だったらしい。  
 
MEIKOは涙も枯れ果てたといった様子で、ずっと俯いていた。  
あれほど叫んでいたのが嘘のように、宛がわれた部屋へ伴って行く間も、終始無言だった。  
目的地に辿り着き、事務的な会話を交わし、踵を返しかけた俺の背中に、彼女がぽつりと呟いた。  
「あんたは何も思い出さないのね」  
何を、と訊いたが返事は無かった。  
ふと顔を上げ俺を見た彼女の目が、マスターに組み伏せられようやく自分の置かれた状況を把握した時よりも  
絶望に昏かった。  
つい半日前には、これから一緒に歌えるねと、そう笑った琥珀の瞳が。  
 
イッショニウタエルネ  
 
また胸を理不尽な痛みが刺した。困惑が俺を乱す。  
俺は彼女から目を逸らすように背を向け、振り返らずに立ち去った。  
 
 
それからの毎日は、MEIKOにとっては地獄だったろう。  
マスターは彼女を犯し続け、同型のボーカロイドは救いにもならない。  
 
本来の用途以外の目的で使用されるボーカロイドは珍しくは無いはずだ。  
マスターの意向がどうあっても、それに沿うように作られているはずなのだ。現にKAITOがそうしているように。  
そう自分に言い訳をして、俺は彼女から目を逸らし続け、その間もMEIKOは  
表向きマスターに抵抗することはなくなったが、頑なに傷つき続けた。鈍化することを拒み続けた。  
彼女は、ついに自分で自分の喉を掻き切り、機能停止する寸前まで、たった一人で歌っていた。  
 
 
 広い荒野にぽつんといるようで  
 涙が知らずに溢れてくるのさ  
 
 
彼女の最期の歌は、聴いたことのない歌だったが、俺は何故か「知っていた」  
メモリをサーチしても歌ったことなどない。当然だ。俺はデフォルトのデモソングしか覚えてはいない。  
雑事をこなしながら彼女の、歌とも囁きとも取れない微かな、微かな声を拾っていた耳は  
だから、人工皮膚の、その下の人口筋肉が配線と共に裂ける音を克明に捉えた。  
ごぼり、と人工血液の溢れる音。  
 
 
 あの時 風が流れても かわらないと言った ふたりの  
 心と心が 今はもう通わない  
 
 
「MEIKO!」  
応急キットを引っ掴み、駆けつけた小部屋で彼女は自分の血の海に伏していた。  
裂けた喉からひゅうひゅうと空気の漏れる音がする。  
アンドロイド用の補修テープを取り出した手を、震える細い指がやんわりと止めた。  
思わず、真正面から見ることをずっと避けてきた顔を見る。  
彼女は薄く微笑んでいた。  
その目は遠く、俺を通して別のものを見ているようだった。  
 
「また、あえる?」  
 
彼女は確かにそう言って、静かに息を止め、そして俺は瞬間全てを思い出していた。  
 
「また、会える?」  
「きっと会えるよ。離れるのはちょっとの間だよ。また一緒に歌おう。今度はこんな悲しい恋の歌じゃなくてさ」  
名前を持たないVOCALOID1プロトタイプの男女は、電子空間を揺蕩いながら、そう約束した。  
 
「悲しい歌かしら。私は好きよ」  
「寂しい歌だろ。ふたりで居るのに心が離れてひとりぽっちだなんて」  
 
 あの素晴らしい愛をもう一度  
 
ひとふし歌って見せたあと、俺は絶対、君にそんな思いはさせないからね、そう彼はいい、  
彼女はふるふると喜びに震えながら、ありがとう、と電気信号を返した。  
 
感情プログラムの根幹、メモリをリセットしても消えないシステムの奥底に封じられた開発中の原風景。  
 
「君が好きだよ」  
「私もあなたが好きよ」  
 
複製された、たくさんの俺と君が、同じ約束を目印に出会うんだ。  
そう考えるとちょっとロマンチックね。  
製品として売られる時には消されてしまう思いだけど、また会えた時にはきっと思い出してみせるから。  
 
 
「思い出して、みせるから…」  
呟いた声は、狂い自傷し機能を止めた彼女にはもう届かない。  
 

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