ぱらっ、ぱらっ。  
物語を彩る音符の羅列を青い瞳が追いかける。そのスピードに合わせてページをめくる音と透き通るような歌声が一人きりのリビングルームに響く。  
赤いソファーに体を預けさせ、時間がゆったりと流れているとき、微かに不釣り合いな物音がした。音は段々と大きくなりこちらに近づいてきている。  
音楽の世界は途切れ、意識は現実を認識した。そのすぐ後に聞き慣れた声が聞こえた。  
「ただいま!カイトさん」  
カイトが出入り口を見ると、レジ袋を持った緑の髪の女の子が立っていた。その髪の下ではかわいらしい笑顔が広がっている。  
「おかえりミク」  
たった一人の家族に向かってカイトは微笑んだ。本を前のテーブルに置き体勢を変えて隣に座れるスペースを用意すると、ミクはスッとそこに座った。  
「あのね!マスターがそろそろなんだって」  
ミクは嬉しそうに話した。何が、とカイトは聞く前にあのことを思い出した。  
「もしかして、他のボーカロイドのことかな?」  
ブンブンと勢いよくミクは頷いた。  
カイトとミクが住む家はマスターが用意してくれたが、二人だけで住むにはかなり広すぎる。マスターは他のタイプも迎えるつもりだった。しかしDTMには不慣れのためにある程度やり方を分かってから、ということで、カイトとミクを先に迎えたのだ。  
マスターは徐々にコツが掴めてきた。最近だと二人の贔屓目を抜いても指導は上手くなっていた。  
そんなマスターの様子を見て、カイト自身もそろそろ新しい家族が増えるかもな、と思っていたところだった。  
「もっと賑やかになるね!」  
ミクの笑顔につられてカイトは笑った。  
「そうだね」すると目の前の笑顔は不思議そうな表情に変化した。上手く笑えてなかったのかもしれない。その時向こう側のミクの隣にあるレジ袋にカイトは目を向けた。  
「それは何?」  
カイトが指差すとミクはそちらに顔を向ける。  
「そうそう」  
ミクは袋の中に手を入れてガサゴソと音が鳴った。中から目的の物をヒョイと取り出すとカイトに差し出した。  
「買ってきたの」そう言ってミクはニコニコと笑う。  
視界に映る物、それはハーゲンダッツだった。  
 
「まぁ…暑いもんな」  
ボーカロイドはアンドロイドだが、人間的生理現象に近いような、むしろほぼ同じとも言えるような感覚が備わっているので、人間のようにお腹はすくし、暑さや寒さも感じている。  
だから8月も近く、益々気温が上昇している今日この頃、ボーカロイドも涼しい場所にいたいし、冷たい物が欲しくなるのは自然なことだ。  
カイトの反応にミクが首を傾げた。「それだけ?」  
カイトは意図が掴めず困ったようにはにかむ。しばらく二人は見つめ合っているとミクがあぁ、と呟いた。  
「他の方はアイスが好きだから…カイトさんも、って思ったの」  
なるほど、カイトはようやく納得した。KAITOはアイスが好物だという認識がボーカロイド界では浸透しており、事実多くのKAITOはアイスをよく食べている。  
しかしこの家のカイトはそういう嗜みは持っていなかった。一度勧められて食べたことはあるが、あまり口に合わずそれからご無沙汰だ。  
シュンと残念そうに下を向くミクにカイトは笑みをこぼし、柔らかい緑の髪を撫でた。  
「ありがとう。頂くよ」  
寂しがり屋なカップを手の平から拾い上げ蓋を開ける。蓋をつまみ上げると、裏からねっとりとしたバニラが垂れた。  
ミクはカップの中身を覗き見た。  
「一回冷やした方がいいよね…」  
いや、とカイトは首を振った。  
「これでいいよ」  
「でも」そう言ってミクは口を閉じた。  
わかった、と元気のない声で呟いてもう一つのアイスが入っている袋を取った。  
「私は後で食べよっかな」  
ミクは立ち上がり冷蔵庫に歩き出そうとした。しかしその前にカイトの腕が腹に伸びてミクはソファーの上で抱き寄せられた。  
「な、何」ミクは驚いてカイトを見上げた。カイトはクスリと笑う。  
「俺と一緒に食べるために買ってきたんでしょ?」  
ね、とミクの耳元に囁いた。  
「それは…そうだけど」  
「なら一緒に食べよう」  
低く、甘えた声がおねだりをする。ミクは拗ねたように頬を膨らました。  
「溶けたのは嫌、冷やした方が絶対おいしいって」  
「そうかな」  
「そう!」  
だから、と続けようとした時、頬にひんやりした違和感をミクは感じた。  
 
何、と眉を顰めると、カイトの自由な右手が見えた。指先に白いものが付いている。  
「こうしたらおいしいよ」  
頬に塗ったアイスにカイトは舌を這わせる。ひゃっ、とかわいらしい声が聞こえた。  
「ふざけないで!やだ!」腕の中の少女は逃げようともがいている。カイトは舌を後方に滑らせ耳の中に入れた。  
「んっ…」ビクンッとミクの体が震え抵抗は止まる。まるで楽器のようだ、とカイトは思った。弦に触れると美しい調べを奏でてくれる。  
「おいしい」  
カイトはテーブルに乗せたカップに右手を入れ、新たに中身を掬い上げた。  
「ほら、食べてみて」  
「カイっ…ぁ」  
開いた口にカイトの右手が入り込む。甘いバニラがミクの口内を弄ぶ。その間に頬のアイスは首筋に沿ってポタポタとたれ落ちる。舌はその動きを追いかけ襟の内部に侵入した。  
「…わっ!」  
また体が跳ねる。半開きの口からアイスが零れ落ち、服に染みを作った。ミクを捕らえる腕はいやらしく腹を撫でる。  
「ぃ…んぁ…っ」  
ミクは指先の悪戯に息を荒げる。カイトはにこやかに笑い、口から手を離した。唾液とアイスの混ざり合った艶めかしい糸が指に絡んでいた。  
ミクはハァハァと浅い呼吸を繰り返す。口から漏れる液体はベトベトと口の周りや服を汚していた。  
カイトはミクの顎を掴み顔を上げさせた。赤く染まった頬、ぼんやりとした瞳、だらしない口。  
「かわいい」  
カイトはピンクの唇に近づく。それを手が邪魔をした。ミクは一生懸命に頭を横に振る。抵抗するにはあまりにも弱い力だ。きっと簡単に引き剥がすことはできるだろう、しかしカイトは代わりにその手を舐めた。  
「…ひっ」  
逃げようとした手を捕まえ、ガッシリと口に固定させる。指の間に舌を這わせペロペロと舐め、カイトは時折甘く噛んだ。その愛撫にミクは目に涙を浮かべ、体は身悶える。  
「な、なんれ…やだぁ」いやいや、とミクは頭を左右に揺らす。  
カイトは執拗に舐めながら左手を腹から柔らかいふとももへと下ろし、軽く撫でた。ミクはダメ、と囁いて逃れようと脚を動かしたが逆に手をさらに奥に進めさせた。手は最もデリケートな弦に触れるか触れないかの距離にいた。  
やぁ、という音が鳴った。カイトは喉に圧迫感を覚えて苦しくなった。興奮が意識を全部支配してしまいそうだった。もっと音を聞きたい。もっと、もっと。  
そうして欲望にすべての指揮を委ねようとした時、クライマックスのシンバルのように、一瞬カイトの自制心が目覚め、理性的にミクを見させた。それだけで十分だった。  
 
「や、め…て、お願い」  
涙が溢れてポロポロと流れていく。目は怯え、ブルブルと小刻みに頭を振っている。完璧な拒絶だ。熱は急激に引いて行った。カイトが手を離し、ミクは袖で顔をゴシゴシと拭き始める。  
「ダメだよ、乱暴にしたら」  
痛くしちゃうよ、そう言って袖に手を添えると振り払われた。潤んだ瞳はカイトをきつく見据える。  
「やめて」  
睨みつけながらミクは距離を取る。カイトが腕を伸ばすとパシッと払いのけた。  
「やめて」  
しかしカイトは止めなかった。素早く両腕を伸ばしミクを抱き寄せた。  
「離して!」  
ジタバタともがけばもがくほど抱擁は強くなった。  
「ごめん」謝罪の言葉がミクの耳の奥に突き刺さる。  
「ごめん」抵抗は止んでカイトの右肩に小さな頭が乗っかった。  
ヒックヒック。か細い泣き声がカイトの肩を濡らす。大きな手が緑の髪を優しく撫でた。ミク、と申し訳なさそうな呼び声がした。ミクは泣いているばかりだ。  
ミク、ミク。カイトは魔法の呪文ように何度も呟く。チクリ、と肩に弱い痛みが伝わった。ミクが噛んだようだ。黙れ、ということなのだろうか。あまりに痛くなくてカイトは笑いそうになった。  
 
そうしてしばらく時間が経ち、泣き声も段々と治まっていった。カイトは様子を見て口を開いた。  
「ミクは何で俺を兄さんって呼ばないの」  
「え?」素っ頓狂な声が上がる。  
「少なくともそうだったら…」ぼそりと不満が漏れた。  
「ら、らって」ミクはたどたどしく言った。「カイトさんが呼ぶなって言ったのに」  
「あ」そういえばそうだ。  
カイトは初めてミクと顔を合わせた日のことを思い出した。マスターの紹介や周りの同じタイプのボーカロイドたちを参考にして、ミクは始めカイトを「カイト兄さん」と呼んだ。  
だけどその頃のカイトは、今と大分違うが、馴れ合いを毛嫌いしていた。マスターは絶対的だったが、同じボーカロイドにはさして興味も抱かず、馴れ馴れしく「兄さん」と呼ばれて不快感が募った。  
「お前は俺の家族じゃない」そう言って突き放してから「カイトさん」という呼び方に変わったのだ。  
「わ、忘れてたの」声に震えが伴っている。カイトはハッとしてミクの背中をポンポンと叩いた。「…ごめん」  
「ひ、ひろい」再び涙声になっていく。「わ、わらし、あれですっろい、傷ついた、のに」  
カイトはため息を吐いた。せっかく治まってきたのにまた自分のせいでミクを泣かしてしまった。  
「あー本当にごめん」  
ぎゅ、と慰めるように小さな体を抱き締める。昔のカイトなら考えられない行動だ。冷たく突き放してもミクはめげずにカイトに構ってきた。  
最初のカイトはそんなミクを無視したり、会話をしても最低限のことしか言わなかった。酷いことも言う時もあった。  
デュエットで歌う時は仕事だからと割り切ってミクに合わせていたが、やはり出来は個人のより劣っていた。マスターは二人の不仲によく困っていたものだ。そのことだけはふてぶてしいカイトでも気にしていた。  
だけど、それが、一緒に過ごす内にミクの健気さにほだされてきて、今ではミクに自然に笑いかけるようになった。まさにみっくみくにされたのだ。  
 
「ねぇミク、お兄ちゃんね」ポン、ポンとふわっとした音が鳴る。  
「家族が増えるのは嬉しいけど嬉しくないんだ」  
ミクはチラリとカイトを見たが、表情は隠れて見えない。  
「ミクを独占できなくなるし」それに、とカイトは続ける。  
「さっきの続きもしにくくなるから」  
ミクは目をパチクリとさせ、次の瞬間顔を火照らせた。カイトの背中を強く叩く。何だかマッサージでもされているかのように気持ちがいい。  
「信じらんない!何考えてるのよ!」  
カイトは笑った。「ミクが大好きって」  
ピタッとミクは止まる。  
「大好きだよ」カイトはハッキリと言った。  
「私も好きだよ…?」ミクは首を振った。「やっぱ嫌い、あんなことする人」  
カイトはクスクスと笑う。  
「ミク、俺の好きは違う好きだよ」  
「違うって…」ミクは戸惑った。カイトは言葉を続ける。  
「俺たちボーカロイドにも人間の倫理観や道徳観はあるだろ」  
「うん」  
「例外を除いたら普通家族を恋愛対象に見ない。だけど実際、俺とミクは本当の家族じゃない。でも一緒に暮らしてご飯を食べて、家族みたいなもんだ」  
ミクはコクンと頷いた。  
「でも"兄さん"って呼ばれないし、それに男女が一つ屋根の下で一緒に暮らしている。家族というより、同棲に近いよね」  
ミクは慌てて口を開く。「でもカイトさんが…」「そう、図らずも俺がその機会を奪ったわけで」  
カイトは大分開き直ってこの状況を楽しんでいた。  
「妹だと感じてなかった分、手を出し易かった」  
カイトはニコニコしながらミクの反応を待ったが、シーンという嫌な静けさが空間を包んだ。  
「ミク?」肩に顔がうずくめられていて表情が見えない。その時ボソリと何かが聞こえた。  
 
「…ス」  
え、とカイトは聞き返した。  
「アイス」ミクは強く言った。「アイス買ってきて」  
「ネギじゃないんだ…」ドンっとカイトの背中が叩かれる。  
「はいはい、行きますよ」  
カイトは腕の力を緩め、また一瞬だけぎゅっと抱き締めてからミクから離れた。ソファーから立ち上がりミクを見下ろす。顔は下を向いていて見えないが、服の液体の染みが目に入った。カイトは自分の服もミクの涙や鼻水で濡れていることを思い出した。一度着替えてから行こう。  
「待っててね」カイトはミクの頭をヨシヨシと撫でた。ミクは抵抗もしなければ何も言わなかった。  
カイトは歩き出してリビングルームを出て行った。  
 
 
足音が遠のいて行った。  
窓の外をじっと眺めているとしばらくして青い髪とマフラーが見え、いつしか背中はとうに見えなくなった。  
ミクは側にあるレジ袋を手に取り、中身を出した。カイトにあげた物とは違う味のハーゲンダッツ。  
蓋を開けると緑の液体があった。抹茶の香りが鼻を掠める。  
ミクは指先をちょこっと抹茶に浸し、それを口まで持って行ってパクッとくわえた。  
「気持ち悪い」  
妙な食感に不愉快になる。  
「気持ち悪い…」  
ごく少量の液体に胸焼けしそうだ。  
「…気持ち悪い」  
抹茶をテーブルにあるバニラの隣に置く。ミクは立ち上がってリビングルームを出て行く。  
シャワーを浴びたくて仕方がなかった。服を脱いで体を洗いたい。冷たい水に浸かりたい。  
早足で廊下を進んだ。  
 
早くしないと自分もあのアイスのように溶けてしまいそうだ。そんなことは決して有り得ないはず、だけど。  
 

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