和やかな朝食後のひとときを破ったのは、私の何気ない一言だった。
「ねえお兄ちゃん。昨日の夜部屋にいなかったけど、どこ行ってたの」
途端、兄が口に含んでいた水を盛大に噴出した。
三食アイスを欠かさない兄は慢性的にお腹が壊れ気味で、食後に正露丸を服用するのが習慣になっているのだ。
私は予想外の反応に戸惑いつつ、視線を横に移した。
予期せぬ攻撃を正面から浴びせられた姉の前髪から、ぽたぽたと生薬のかほり漂う水が滴っている。
水滴越しに見える、テーブルの一点を見つめたままの無表情が怖い。
この後の兄の運命を思い、私は心中密かに合掌した。アーメン。
けれど姉は顔に血を上らせながらも、何故かそのまま固まっている。
こっちの反応も予想外だ。すぐに雷が落ちると思ったのに。
兄はといえば呼吸困難で顔を赤くし、げほがほと咳き込んでいる。
えぐあぐと何度か空を噛んで、ようやく一言搾り出した。
「な、なな……なんで?」
思いっきり挙動不審だ。
姉はまだ固まっている。
「え、うーん。何でって言われても…。
ほら、マスターから新しい曲をもらったでしょ?どうしても練習したくなって、スタジオに行ったの。
夜中だし、防音なのあそこだけなんだもん。でも閉まってて、お兄ちゃんなら開けられるかなあって…」
辿り着いた兄の部屋の扉は開いていたけど、真っ暗で誰もいなかった。
「それでお姉ちゃんのとこに行ったら、部屋の前でマスターに会って
お姉ちゃんはいないよ、外にお酒でも買いに行ったかな、って」
ガターン!
不意に姉が椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
赤かった顔がざざーっと真っ青になり、また赤くなる。まるで出先でお腹を壊した時の兄みたいな反応だ。
それを何故かほんの少し、寂しそうな顔で見やって兄がコホンとひとつ咳払いをした
「そうなんだ。メイコがお酒が切れたから買いに行くなんて言うから、
僕もお供でついて行ったんだよ。
スタジオのことはごめんね。僕が鍵をかけたまま忘れちゃったんだな」
「でもあの部屋内側からしか鍵かからないよね?」
小首を傾げながら言うと、兄はまたげほがほと咳き込み始めた。
「マスターが、あの部屋の扉は立て付けが悪いから、そうなるんだって。
ちょっと気合を入れて蹴るか、殴ってごらん、なんて言うの。壊してもいいからって」
「そっ、そんな物を粗末にするようなことは、感心しないなぁ!」
普段の声よりやたら高い裏声で兄がたしなめる。
姉は奇声を上げたかと思うと、食堂を飛び出して行ってしまった。
「お、お姉ちゃん?!」
「ミク、いいから、そっとしておいてあげて」
結局、朝になったらスタジオの扉は普通に開くようになっていた。
あの時、マスターの言うとおりに蹴り破らなくて良かった、と思ったのだ。
それにしても兄と姉の反応は何だったんだろう。
ボーカロイドだから、兄妹といっても私たちの血は繋がっていない。
それでも二人は長く一緒にいて、私には分からない符丁を持っている。
それがちょっと羨ましく、同時に切ない。
過去に共有できなかった時間は取戻しようがないから。
でも。
「ね、そろそろリンとレンが来る頃だよね?皆で迎えに行くんでしょ?」
新しくやってくる私の弟妹。きっと、同じ時を重ねて仲良くやっていける。
私は弾む心を抑えることができなかった。
□ □ □
「マスター、妹にヘンなことを吹き込むのはやめて下さいよ。
え、防音スタジオでヘンなことをしていたお前に言われたくない?すいませんね。
それよりアレからメイコが引き篭もり状態で出てきません。
…分かっててやってますね?僕を苛めてそんなに楽しいですか?
楽しいですか、そうですか…」