「…っ!」
ブツリという感覚と共に、急に安定をなくした足元から前のめりで躓きそうになる。
思わず前を歩くがくぽさんの浴衣を掴み、引き止めたその背にぶつかった。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫だ…それより」
「…あ」
足元に向けられた視線につられて下を向けば、鼻緒の前ツボ部分が見事に切れている。
どうしようかと思っている内に、一番前を歩いていたリンちゃんはとっくに見えない。
こっちを振り返りながらその後を追うレンくんも、すぐに人の波の呑まれて見えなくなった。
私はがくぽさんと顔を合わせて苦笑いしてしまう。
「すみません、私のせいではぐれちゃいましたね」
「それは構わないが、そのままでは祭を回れぬのではないか?」
そう言われて、私はもう一度足元を見る。
切れた鼻緒は全体の安定を失くして、残った鼻緒は足の甲に引っ掛かって下駄をぶら下げている。
試しにと少し歩いてみるもの、一歩踏み出す度につまずぎそうになる。
こんな状態では、歩けないどころか他の人の邪魔になって迷惑が掛かってしまう。
…来たばっかりで出店だって回れてないし、まだ花火も始まってないのに、と一気に気が滅入る。
それに、私が引き止めてしまったばっかりに一緒にはぐれる事になってしまったがくぽさんに罪悪感もある。
今のところ、全然気にした様子でないのが幸いだけど…。
「え…と、とりあえず移動を…」
どこか邪魔にならない所はないかと、きょろきょろと辺りを見渡し、邪魔になりそうでない脇道を見つける。
何とか下駄の応急処置でも、と、そちらに足を踏み出したけれどやっぱり上手く歩けない。
周りは人だらけでただでさえ動きにくく、普段着慣れない浴衣という事も相まって、なかなか身動きがとれない。
いっそ裸足になってしまおうかと思ったところでふと地面から足が離れ、がくぽさんの顔がずっと近くになって驚いた。
一瞬何が起こったか分からずに呆けてたけれど、私は背中と太股の下に腕を通され、横に抱き抱えられていた。
そう、いわゆる、お姫様だっこ。
状況を理解した瞬間、恥ずかしさの余りに腕から逃れようとじたばたと抵抗する。
「お、降ろしてください!」
「しかし歩けぬのだろう?」
「う…」
その通りなので言葉に詰まってしまう。
正直ありがたいのだけれど、やっぱり行き交う人の視線が痛い訳で…。
「…恥ずかしいんです、ケド」
「すぐそこまでだ。少し我慢してはもらえぬか?」
「………はい」
抵抗も空しくすでに移動を始めてたので、せめて他の人にぶつからない様にと少し体を縮める。
どうせなら背中に背負ってくれたらいいのにと思ったけれど、文句なんて言えない。
脇道に移動するほんの数メートルが異常に長く感じる。
恥ずかしさで高まる熱が早く収まればいいのにと、私は顔を見られないように俯いた。
何んとも言えない気まずさのまま、比較的人通りの少ない脇道まで移動する。
腰をかけれる石段があったので、お礼を言ってそこに降ろしてもらう。
二人してそこに腰をかけるもの、とりあえずこの下駄を何とかしなきゃと溜息を吐く。
応急処置といっても、どうやればいいのかさっぱりわからない。
五円玉やヘアピンを使うって聞いたことあるけど、うろ覚えの知識なんて役に立つ筈もない。
ハンカチで結ぶにしてもどうやればいいんだろうと四苦八苦していると、がくぽさんが処置を申し出てくれた。
私には到底手に負えそうもなかったので、素直にそれに応じる。
普段和服姿に慣れ親しんでいるだけあって、こういう事はお手のものらしい。切れた鼻緒を直すのも何度かあったとか。
私はがくぽさんに下駄を渡して、直されていくのを横で眺めることにした。
(あ、意外と簡単かも)
そんな事を思いながら、何故か私はがくぽさんの手から目を離せずにいた。
白くて細い指先が器用に動く様。何だかとても――キレイに見えて、釘付けになる。
だからそれ以外の事なんて気が付かなかった。
「……ミク殿?」
「へぁ?!」
いつの間にか正面から覗き込まれていて、思わず変な声で返事してしまう。
歩くには十分な処置が施されていている下駄ががくぽさんの手の中にあるのを見て、終わった事にようやく気付いた。
「あ…りがとう…ござい、ます…」
語尾が段々小さくなっていくと共に、視線は下へと落ちていく。
気付かずにずっと手だけを見ていた事が無性に恥ずかしくなって、がくぽさんの顔がまともに見れない。
…気まずい。さっきから私だけが気まずい。
私が何も言えずに黙ってしまってもがくぽさんは全然気にする様子もなく、下駄を履かそうと私の足を軽く持ち上げる。
そんな事しなくても自分で履けますから!…言いたいのに言葉が出ない。
触れられた場所が、熱を持ったみたいに凄く熱い。どきどき、する。
ぎこちなく足を動かせば、浴衣の裾がめくれて隠れていた部分が隙間から覗く。
――本当に少し、踝から上、ほんの少し足が見えただけ。
それが何だかとても恥ずかしく思えた。
「い…」
足だけに持っていた少しの熱は、一気に駆け上がって体中を熱くさせる。
「や…っ!」
横に避けようとした足は勢い余って…蹴り上、げ、…るつもりはなかったんだけど。
ガツッ!
小気味よい音はがくぽさんの顎下で響き、同時にがくぽさんが蹲った。
「…っ!ご、ごめんなさいっ!大丈夫ですかっ?!」
「だ…大丈夫だ、大丈夫……っ…」
そうは言っても全然大丈夫そうじゃない。もの凄く痛そうにしている。
持っていたハンカチを、蹴り上げた箇所に慌てて押し当てる。
音の割に傷は大したことなく、赤くなっているだけで血は出ていない事にホッとする。
…それにしても。
何の罪もないがくぽさんに対しては、酷い仕打ちをしてしまったと酷く申し訳ない気持ちになってしまう。
さっきからの私は失態ばかりで、ここまでくると自分が情けなくなる。
ますます顔を合わせることが出来ず、私は俯いたまま黙ってしまう。
ジワリと目元に涙が溜まり、泣きそうになる。
それなのに、こんな時でも、私はがくぽさんを意識してしまう。
手だったり、声だったり、何でこんなに気になるんだろうとか、さっきから顔が近いな、とか。
……あれ、近すぎない?
…近い、よね?
ふ、と柔らかい感触。
何をされたのか理解できず、私はそのまま硬直した。
触れられたのは私の唇で、触れているのはがくぽさんの唇で…。
「!!!」
状況を理解するもの、思考がまるでついていかない。
唇は軽く触れているだけなのに、そこから痺れたかの様に体全体が動かない。
とても、とても長い数秒間。
唇が離れてもまだ私は動けず、呆然としていた。
今の出来事を反芻するかのように、ゆっくり自分の指で唇をなぞると、思い出したかのように再び全身に熱が巡る。
鏡を見なくても自分で分かるくらいに、顔が赤くなっていると思う。それくらい、熱い。
金魚のようにぱくぱくと口を開いてみるが、全然言葉にならない。
喉が渇いてる訳じゃないのに口の中はカラカラで、生唾だけが喉を通る。
さっきから忙しなく動く心臓も、全然落ち着く気配もない。
それでも何度か大きく息を吸って、途切れ途切れの拙い言葉を紡いだ。
「な、んで、キス、したんです、か」
キスした事、私の顔が熱くなる事、出来ることならこの感情全部を納得させる言葉が欲しい。
だけど返って来た言葉は納得とは程遠い言葉。
「ミク殿が可愛いと思ったもので、つい」
悪びれもないように言うがくぽさんに、こめかみが引き攣るのを感じる。
体中を巡っていた熱も急に冷め、ふつふつと何とも言えない感情が湧き上がる。
―――さっきから、がくぽさんに思ってた事は、撤回だわっ!
全然酷い仕打ちなんかじゃなかった。申し訳ない、なんて思う必要もない。
心配なんかするんじゃなかった!さっき蹴り上げておいて良かった!
可愛いから、とか。つい、とか。
そんな衝動的な行動、可愛いって思ったら結局誰でもいいんじゃない、って。
さっきから一人でぐるぐるしてたのが馬鹿みたい。
逆恨みかもしれないけど、怒りすら覚える。
だけど、がくぽさんは全然気にした様子でもなく言葉を続ける。
「それに」
「?」
「ミク殿が好きだからだ」
好き、という言葉に少し反応してしまった気がしたけど、きっと気のせい。
だって、その次の言葉の方が色んな意味で私には衝撃的すぎた。
「そして、ミク殿も我を好きだと思ったからだ」
「………は?」
余りに唐突な言葉に思わず聞き返してしまう。
私ががくぽさんを、好き、と、思ったから…?
そんな仮定で私にキスした、と…?
…呆れてモノも言えないとはこういう事かもしれない。
おめでたい頭、とかかも多分こういう事かもしれない。
「…蹴り上げられて、よく、そんな言葉が出てきますよね」
せめてもの強がりで出た言葉が思いのほか意外だったらしく、がくぽさんは眉根を寄せて少し不安気に聞いてきた。
「違うのか?」
「違います!」
「では、好きではないのか?」
「少なくとも今はまだ好きじゃありませんっ!」
「今は、まだ?」
(…しまった)
失言だった、と目を逸らす。
チラリと横目で見遣れば、今度は憎らしいほどの笑顔を見せるがくぽさん。
「ならばこの先、可能性があるという事だな」
「…知りません!」
フイッとそっぽを向くもの、そういえば一緒に祭を見て回る相手だという事を思い出す。
どんな顔をして一緒に居ればいいのかわからない、と思わず頭を抱えた。
そんな私に悠々と目の前に手を差し出すがくぽさんを怪訝そうに見る。
「…何ですか、その手」
「これから祭を回るのだろう?はぐれない様に手を繋がぬか?」
「い、や、ですっ!何されるかわかりませんから!」
明らかに信用していません、という目で見てるのにどうして気付かないのかと思う。
「次に変なことしたら、お兄ちゃんに言いますからね!」
「カイト殿、か…それは困るかな」
がくぽさんは少し顔をしかめてみせたもの、全然困った顔をしてないのがムッとする。
それに、凄く余裕なところが何だか悔しい。
「では行くとするか」
今度は手を差し出されないので、私は黙って半歩後ろからついていく。
そして、…はぐれないようにがくぽさんの袖の裾を掴む。
(これは、手を繋がせないようにって、牽制なんだから)
必死に自分に言い聞かせるもの、それが続かない事なんて目に見えてる。
だって、今はまだ――なんだから。
* * *
余談ですが、がくぽに全然相手にされてなさそうなお兄ちゃんは家に居ましたとさ。