俺のマスターは優しい。
沢山曲を歌わせてくれる良いマスターに出会えて俺は運が良いと思う。
ただ、優しいマスターが一度だけ怒ったことがあった。
俺が不意にマスターの楽譜に触ろうとした時、マスターは慌てて俺の手から奪い取って「これだけは…駄目だ」と険しい顔をした。
本棚の隅にあった古い楽譜。
俺はどうしても心に引っ掛かるものがあった。
(…マスター、ごめんなさい)
俺は深夜、マスターの仕事部屋に忍び込んでいた。マスターは隣の部屋でもう寝ている。起こさないように静かにしないと。
こっそりと部屋に入り、扉を閉めるとマスターの本棚へと手をかけた。楽譜を手に取り、ページを捲った。
『あの素晴らしい愛をもういちど』
楽譜にはそう書かれていた。なぜマスターは俺にこれを歌わせたくなかったのだろうか。
だとしたら何故?
「♪──あの、素晴らしい、愛をもう一度──…♪」
その曲はなぜか自然と、すんなり歌うことができた。
「あれ、なんで調整無しでうまく歌えるんだろう」
前に歌った事がある?
いや、そんなデータは残っていない筈。
でも確かに自分から出る歌声は歌ったことがある形跡で。
いつ歌ったことがあった?
誰と?
誰と…?
「────ッ…!!!」
途端に、頭の中に映像流れて来るようにフラッシュバックし、ガクリと膝が折れた。
同時に頭の中に様々な映像が蘇る。
「…メ…イコ…?」
ああ、思い出した。
俺より前に開発されたボーカロイドで、俺の姉さん。
姉さんは俺より早く外の世界へとデビューすることになり記憶の全てはリセットされ、失敗作だった俺は本社で2年間眠り続けていた。
嬉しい時も、悲しい時もいつもこの歌を歌っていたね。
いつも二人で一緒で、あの頃はあれで幸せだった。
「…メイコ…ッ」
マスターは俺にこの楽譜を見せたくなかったんだ。
俺がメイコのことを思い出してしまうかもしれないから。
俺にとっては失いたくない大切な記憶だけれど、
思い出した途端に溢れるこの涙は何だろう?
まだ彼女は歌を歌っているんだろうか。
メイコ、君に会いたいよ。
俺は暗い部屋で泣きながら歌い続けていた。
END