今もまだ覚えている。彼との暖かい、どこかくすぐったいような幸せがあった日々。  
頭の中では、相変わらず彼の柔らかい声が響いていて、私の心を鈍く揺さぶる。  
私の心なんて歌を奏でるための補助装置としての、あくまで擬似的なもの。  
浮かんでくる感情や思いは、全てデータに還元されうる。  
分かってはいるのに、このメモリだけは消したくないと、このエラーだけは  
残しておきたいと、本来の役目からはかけ離れた思考回路に、  
少しだけ嘲笑がこぼれる。  
記憶の中の優しい笑顔には、あまりに似つかわしくないそれに、溜息が出る。  
 
「マスター。どうしてあなたは私と手を繋いでいるんですか?」  
「ん?いけなかった?」  
少し前を歩く彼は、はにかみながらそう聞いてきた。  
「いえ。そんなことはありません。でも私はただのボーカロイドなんですよ?」  
「それがどんな理由になるのかな?僕はミクのことが好きだ。  
それで充分なんじゃないかな」  
 私は嬉しくなって、機械の自分にもできるくらいの、  
それでもせいいっぱいの笑顔で答える。  
「ありがとうございます。マスターにそう言っていただけて幸せです!」  
 彼は困ったように笑って、言う。  
「そんなにかしこまらなくていいんだよ。ほら、それより何か歌って」  
「はい!」  
   
 あの頃は、そんな幸せがずっとずっと続くものだと思っていた。  
彼が曲を作って、私が歌って、彼が褒めてくれて、私が笑う。  
そんな日々がいつまでもいつまでも続くような気がしていた。  
それは、機械の私ならまだしも、彼に望むには、あまりに残酷だった  
願いだと、今の私なら思える。  
でも言い訳をさせてもらうなら、あんなに幸せな日々を、どろどろに溶けあって、  
二度と離れられなくなるような、そんな時をくれた彼も悪い。  
なんて、自分勝手になって自身を慰められるほどには人間臭くなったのも、  
間違いなく彼のおかげだろうとは思う。  
 
それは良いことなのか、それともボーカロイド失格なのかは、分からない。  
彼との思い出に、良いも悪いもないのだ。  
それがそこにある。それだけで私の心は壊れそうになる。  
けれども、それは冬に実ったざくろのような甘美さをともなった  
痛みで、このまま堕ちていくのも悪くないと、そう思ってしまう。  
 
だから私はせめてもの抵抗として、ただ歌う。  
逢いたくて逢いたくて、声にならない声で、彼の名前を呼び続けて、  
どこかで私を見守る彼にも届くように、喉が続く限りに、歌う。  
 
『貴方に出会えるなら この喉が壊れるまで 歌い続けても  
 僕はその時を 最高と呼べただろう』  
 
「ねえ、ミク。この指輪をもらってくれないかな」  
「……え?」  
「僕とペアリングになっているものでね。ミクに似合うと思ったんだ。……嫌、かな?」  
 私は心にもないことを言われて、少し腹が立って、でも気持ちは暖かくて、どう答えたらいいか分からなかった。  
「……ミク!どうしたの?……ごめん」  
 彼の驚いたような声で我に返ると、涙が頬を伝っているのが分かった。  
「ご、ごめんなさい。驚いちゃって……でも、とても嬉しいです」  
私がそう言うと彼は、目が糸になるのではないかと思うくらいの笑顔で、頭を撫でてくれた。  
「ミクが喜んでくれて僕も嬉しいよ。これからもずっと一緒だ」  
「マスター、ありがとうございます!」  
「さあ、じゃあ歌ってみようか。新しい曲で、失恋を歌ったものなんだ」  
 
 まさかあの時は、これが彼の作る最後の曲になるなんて、思いもしなかった。  
そしてその曲の運命を、自分がそのままなぞることになるなんて。  
ボーカロイドなのに、歌えない曲があるなんて。  
あの指輪を、今も私は付けたままでいる。これを付けている限り、きっと私は  
前になんて進めないだろうとは分かっているのだけれども、  
これがあの人との最後の絆だから、外せるわけがない。  
 
幸い、機械の私は体型の変化でサイズが合わなくなるなんてことはない。  
彼が指輪をはめてくれたときと、まったく変わらない白い手。  
もうとうに古びてしまって、黒ずんだ指輪。その対比がおかしくて、涙が出そうになる。  
遠い遠い世界に旅立ってしまった彼は、今も指輪を付けてくれているだろうか。  
もし新しい人を見付けて、幸せにやっているならば、それはそれでいい。  
ただ、この指輪だけは外さないでいて欲しいと願ってしまう私は、やはりわがままなのだろう。  
   
 黒ずんだ指輪が私の気持ちを象徴しているようで、怖くなる。  
いつか彼に伝えたいと思って、そっと描いてきた私の気持ち。  
それまでが風化して、錆びついてしまう。そんな幻想に囚われる。  
メモリさえ残しておけば、そんなことはありえないのに。  
いや、やはりこれはエラーで、時が経てば正常化されてしまうのだろうか。  
思いはいつまでも同じところを巡って、行き場を失くしたまま膨らんで、  
私の記憶デバイスにエラーを生じさせる。何度も消そうとは試みたけれど、  
いつのまにかそれをさせないようなプロテクトがかかっていて、叶わない。  
 
深層心理では、これも彼との思い出だから消さないでほしいとでも思っているのだろうか。  
それも悪くないと思う。彼に関わったものならば、すべてが愛しいから。  
一方では馬鹿げているとも思う。ボーカロイドである私が、聴衆の前に立つこともなく、  
ただ一人の人間のためだけにしか歌わず、いつまでも付加装置であるはずの  
感情に本来の機能の大部分を奪われてしまっているから。  
そこまで考えて、自分には似合わないことをしたなという気になって  
歌を歌うことにする。なるべく、悲しいものを。  
 
『貴方と同じ時代に 生まれたこの幸せを 僕は知っている  
だから最後まで もう何も迷うことない』  
 
「マスター!マスター!大丈夫ですか?」  
「う……ん。ミクはいい子だね」  
 彼はすっかり痩せ細った体でベッドに横たわっていた。  
 握った手を握り返してくれる手にも、力がなく、ただただ弱々しい。  
「マスター!嫌です!死んだら駄目です!」  
「……ごめんね。僕はそろそろ限界みたいだ」  
 彼は続ける。  
「それに何も悲しいことはないんだよ。僕は人間で、君は機械だ。  
 悔しいけれどそれは事実だ。なら、いつかはこんな風に別れは来る」  
そんなことは分かっている。でも、それだけでは処理しきれないエラーが溜まっていく。  
「だからそれが早いか遅いかの違いでしかない。だから、悲しまないで」  
本当なら喋るのも辛いはずなのに、途切れ途切れに紡がれる言葉は、  
誠意と愛情に満ちていて、聞いているこちらが苦しくなってしまう。  
「ごめんね。もっと……一緒にいたかったよ。でもミクと過ごした日々はとても楽しくて、  
 幸せで、満ち足りたものだった。それだけで僕は嬉しいんだよ」  
何で過去形になってしまうんですか?そんな問いも虚しく響いて、私の心を揺さぶる。  
「ミク……今まで……ありがとう、ね」  
心電図が鳴らす音が、途切れて、連続音と、なる。  
「いやああああああああああああ!!!!!!!!!!」  
 
 あなたの最期の言葉が、私の頭の中でずっと鳴り止まないんです。  
そう彼に告げたら、どんな顔をされるだろうか。  
こちらが申し訳なくなるような、悲しそうな顔をされる気もするし、  
呆れたような笑顔で優しく抱きよせてくれる気もする。  
いずれにせよ、そんな風に私を揺らがせる彼は、もういない。  
彼が死んでしまったあの日から、私の時間は止まったままで、  
一歩も前に進んでいない。そうすれば季節が私を置き去りにしても、  
私が彼を置き去りにすることはないように思えたから。  
でも、それももう終わりにしよう。そう思ってここにやって来た。  
 
 彼が私を買って、初めて一緒に遊びに来た砂浜。あれから幾百の時が過ぎて、  
辺りはすっかりコンクリートだらけになってしまったけれども、  
わずかに残る浜辺が私の心にしっとりと寄り添ってくれる。  
水平線はうっすらと丸みを帯びて、暗順応していた目に少し眩しい。  
風がゆっくりと砂を運んでできた、この砂浜で私は何を歌うだろう。  
ここに来るまでは何も考えてはいなかった。  
けれど、今ではもう決まっている。私はあの歌を歌おう。  
彼が最期に作ってくれた、知るはずもなかった運命をなぞる、  
ひとつの恋が消えて愛になる、そんな歌を。  
 
『大好きな君のことをずっと忘れないよ 移り変わる景色の中でも   
最後まで 言えなかった この言葉を 君に贈るよ 君のこと ずっと愛しているから』  
 
 そうだ。私は彼のことをずっと愛している。それでいいと思える。  
いつか私も廃棄されて、彼のもとに行けるのかもしれない。  
今はその時を待ち望んで、歌おう。私を待ってくれている聴衆などいなくてもいい。  
彼が作ってくれた曲は、すべてインプットしてある。  
それを歌う。それだけで私は幸せになれるから。  
 

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