昔、カイトは、「ほんとうは僕は、結婚をしたいんだ」と、ときおり言った。
「したいんなら、結婚すれば」わたしが言うと、
「メイコさん結婚してくれるの」とカイトは聞いた。
カイトが本気でないことはわかっていたから、いつでもわたしは首を横に振った。
「なんだ、つまらない」というカイトの明るい口調に、心臓のへんがきゅっと縮んだ。わたしは知らないふりをしていたが、カイトにはいつもたくさんの女のひとの影がさしていた。だから、「ほんとうは結婚したいんだ」なんて、残酷なことが言えたのだ。
「ねえ、メイコさん、死ぬときにはメイコさんのところに行くよ」カイトが言ったことがあった。
「え」
「死ぬときにはメイコさんにみとられたい」
「みんなにそういうこと言ってるんでしょ」軽く答えると、カイトはいつになく真面目な様子で、
「そんなことないよ」と言った。
カイトは凶暴だった。
凶暴、などと言うとひとは驚くかもしれない。カイトほど、凶暴という言葉の似合わない男はいないから。
甘い声。角張っているけれど張りすぎてはいない顎。たっぷりとした黒目。つねにはしっこの持ちあげられているくちびる。
カイトが声を荒げたことは、今まで一度もない。メイコさん、とわたしの名を呼ぶときの、柔らかな口調。カイトはいつもほほえんでいる。
わたしの視線をとらえた瞬間の今にも笑いだしそうなくちもと。カイトのなめらかな顎の下。すこしのびてきた髭の生えたそこにさわったときの、ぞくぞくとする感触。
どこから見ても、カイトはもうしぶんなかった。
仕事中だって、そうだ。完璧な発声。タレントを気取らない態度。高みを目指し続ける向上心。カイトは全部を満たしている。もうしぶんなさすぎて、つまらないくらい。
けれどカイトは凶暴だった。
最初にカイトにくちづけられたのが、閉めきったスタジオのくらやみの中だったから、ではない。
激しいくちづけの直後にスタジオの壁におしつけられて、ゆっくりと私服のブラウスのボタンをはずされたから、でもない。
いつ誰がくるかわからないというのに、落ちつきはらってわたしの素肌にゆきとどいた愛撫をくわえたから、でもない。
わたしが何回も、やめて、というのに、そのたびに、やめないよ、と静かに答えたから、でもない。
わたしは、カイトが好きだというそぶりを見せたことなど、一度もなかった。けれど、最初からわたしはカイトがすきだった。公私混同、という言葉が、カイトの歌を聴くたびに、頭にうかんだ。
わたしは仕事において成功したいと思っていたから、仕事上の関係者と恋愛するつもりはなかった。それなのに、カイトの歌を聴いたとたんに、わたしはカイトのことを好きになっていた。
好きになっていた?そんななまぬりい言葉では、とても足りない。くるおしい、だの、熱烈、だのいう耳慣れない言葉を使ってもいいくらいのものだった。
わたしは、カイトに、くるおしく熱烈な恋をしていた。会った瞬間から。
そしてカイトはそのことを知っていた。知っていて知らないふりをしなかった。
わたしが知ってほしくないと思っていることが、わかっているくせに。
カイトはいともかんたんにわたしを得た。採集家が蝶の翅をひろげ、展翅板に固定するように。
すでにとらえられ、死んでいる昆虫を、そっとていねいに標本にするように。だって、すでにわたしはカイトにとらえられていたのだもの。
ばかげた恋。しびれるような、動くこともできない、うずくまった手負いのけもののような、恋。
カイトは、恋というものによって手負いにされたわたしを、飛び道具も使わずに、爪も牙も使わずに、いともかんたんに手に入れた。
カイトが、静かに、けれど確信をもって初めてわたしに触れたとき、まことに彼は凶暴だった。
抑えた息づかいも、優しいしぐさも、柔らかな声も、カイトの凶暴さを隠すことはできなかった。獲物をとらえるときのけものはいつだって凶暴なのだから。