日本人の多くが、1日4時間の就労と週2日間の休日をとることが当たり前になっていた。
労働力の不足分は、全人口の1/4を占めるようになった日本国籍の取得を望む海外からの難民と
ロボットたちで賄われていた。
ロボットの人権を人間と同列に扱う発想は、『坑道のカナリア』という意味で、
当たり前になりつつあったこの時代でも、難民は、「まだ日本人ではない」という偏見から
人間扱いされない風潮があった。
おかしなことに、
日本人>セクサロイド>アンドロイド(人型ロボット)>>難民>>非人型ロボット
という序列ができていたことで、
非人型ロボットが差別されることには抵抗感が無く、難民が虐げられても仕方が無く、
アンドロイドが虐待を受けて初めて、人権擁護局が動き出すという、偽りの人道主義がはびこっていた。
例えば、非人型の愛玩用のきわめて本物に近い容姿と動きを持つ猫型ロボットを
バールや鉄槌でばらばらにする事件が起きても、
警察は器物損壊として扱い、動物虐待予防法を適用することはなかった。
つまり、『人間社会の悪化に感じやすく、事前に警鐘を鳴らすカナリアですら無い地位が難民だった。』
ほとんどの人間が自らの意志で義体化し、アンドロイドと容姿では見分けがつかなくなった人間が、
差別されることの恐怖からロボットとの違いをはっきりさせたい
(自らロボットと同じ躯になっておきながら、自分たちこそが最上位でありたい)
がために序列を作り出したのは、滑稽としか言いようがなかった。
そして、その序列の最下層に位置づけられた難民という人間たちは、
日本の社会では、人間扱いされていなかったのだ。
「ねえ、マスター?あそこで働いている女の子たちの服装が、
あまり衛生的に見えないんですけど?どうしてなんでしょう?」
ミクは、公園の茂みで隠れるようにして暮らしていた難民孤児の姿を見て、そう質問する。
緑豊かなこの自然公園に、ケンは、初めてミクを郊外にまで連れ出していた。
東西10km四方の広さがあるこの公園は、かつて日本を統治していた皇族が守ってきた由緒ある国立自然公園だった。
天気のいい昼下がり、二人でベンチに座って、他愛のないありとあらゆる景色に疑問を持ち、
興味を示すミクの質問攻めに答えるケンだったが、この質問には、答えることに窮してしまうケンだった。
「難民差別」あるいは、日本国籍取得前の外国人をあからさまに冷遇する政策がとられていたこの日本の状況を
ミクにどの程度語るべきか、知らせるべきか、ケンは戸惑ったのだ。
それに、あの孤児たちが、この公園で『何をして』生活しているのかも察しがついていたからだ。
「あの子たちは、この日本の国で暮らしたいという夢を持って、自国を離れてきた人たちの子どもだよ。
戦争があってね、避難してきた子たちなんだよ。
たぶん…いや、間違いなく、もう親が亡くなっていて、行くところが無く、孤児になってしまった子たちだよ。」
「そうでしたの…だったら、そういう子たちを援助し、助けるのは日本人の使命なのではないでしょうか?
移民を受け入れたという話は、ミクの時代にはなかったように思いますけど…」
「昔のこと、思い出したのかい?」
「ううん、はっきりとした記憶はないんです。
でも、ミクが生まれた頃の日本って、ああいう子たちを保護して、
世界中の人々から賞賛と敬意をいただいていたように思えるんです。」
「そういう時代もあったんだね。
でも、今の日本はダメさ。
ODAも自国への見返りがある国に限られるし、他国への巨額の投資や援助には、米帝の許可がいるし、
日本が世界のためにできることなんて、せいぜい戦災難民を一時的に入国させるぐらいだな。
それも、住む場所や働く場所を十分に提供できないものだから、
ああして、公園でテント生活を営む子たちも出てくるわけさ。どうにもできないよ。」
「マスターはどうしたいと、お考えですの?」
「どうって?日本人でもない子たちのことを僕が何かできるとは思えないけど。」
「何かできるの前には、何かをしたいというお心があると思うんです。
マスターは、あの子どもたちをどうしたいと、お考えですの?」
「今の僕は、そんなことはどうでもいいことだな。
ミクがいつも僕のそばにいてくれたら、それで、幸せだよ。」
「でも、ミクが守りたいのは、マスターの幸せなんです。
マスターが、これからもずっと幸せで居つづけるためには、この日本が平和で豊かな国であるように、
持続可能な社会であるようにしておく義務があると思っています。」
「なんだか、でっかい話だな…ミクは、僕のお嫁さんなんだから、僕のことだけを考えていてよ!
日本なんかどうなったっていいのさ!ヤマハ家は結構お金持ちなんだぞ!
スイス銀行に預けている資産があれば、こんな日本が滅んだって、外国で平和に暮らせるだけの…」
いきなりミクが、怖い顔つきになって、ケンに大きな声で問いかけた。
「ミクが、聞いてるのはそんなことじゃありません!
マスターは、ああいう子たちを見て、何とも思わないんですか?
どうして、御自分のことばかり考えるんですか?
親友のタロー様はどうなってもいいと言うんですか?
ミイ姉様のことは?ママ様は?Aヘイジの人々は?
マスターを大切に思う周りの人々全ての幸せを守らないで、マスターが幸せになれるわけが無いじゃないですか!
それに、ミクが、守りたいマスターは、そんな情けないことを言う人じゃありませんわ!!」
ミクは、涙目になってケンに訴える。
マスターに対してセクサロイドが教育的指導をするなど到底考えられない出来事だった。
初音ミクの中には、日本人としての誇りとヒューマニズムの精神があふれているようなのだ。
そして、その日本人を体現するケンをどうしようもなく愛していることが伝わってきた。
そんな誇り高いミクに嫌われたくない、ミクに男として尊敬される自分でありたい…そう思うケンだった。
「ごめん…自分勝手すぎたね。
でもね、ミク?日本人という地位に甘んじて、難民の労働力を搾取し、
彼らを安い賃金で働かせるために日本国籍取得のえさで釣って、低額収入の3K職種を彼らに与えた結果、
僕たち日本人は、難民から嫌われて当然の立場にいるんだよ。
もう、どうにかできるような関係にはないなんだ。いつか、彼らから日本人は報復を受けるだろうね…。」
「そんなこと、今からでも日本人の器量を見せられます。
あの子たちに、住む場所と保護者を与えるだけのことがどうしてできないんですか?
子どもを守ることは、大人の義務でしょう?」
「ミク、あの子たちは、どうやって公園で生活していると思う?」
「公園の掃除とかでしょうか?」
「あの子たちはね…ここで、日本人を相手に…」
「?…」
「ミク、ごめん。ホントに僕は、自分勝手な大人だった。
セクサロイドを買えるだけの経済力がありながら、それを世の中のために使おうという発想がなかった。
僕は、ボランティアさえしたことが無かったもの。
僕は、醜いものをずっと見て見ぬふりをしてきた…でも、それは、間違っているよね?僕だって日本人なのだから。」
「マスター?」
「あの子たちは、ここで、売春しているんだよ、ミク!」
「えっ?あの子たちは、どう見ても、子どもですよ!どうしてあの子たちが…」
「日本人でない子どもの人権は、守られていないんだよ…ここは、日本なのに、日本人の僕は、恥ずかしいよ。」
「…マスター。ミクは、マスターを悲しませてしまいました。ミクは、マスターを責めるつもりなんてなかったんです。」
「いや、ミクが正しいよ。もしも、ミクがそう言ってくれなければ、僕も自分の間違いに気づかないまま、生活していただろうからね。
日本人の子どもではないあの子たちにも、ミクの愛が届くような国にしないといけないよな。
僕だけの平和ではなく、少なくとも、この国で暮らす人たち全てが幸せにならないと、本当の平和ではないからね。」
「マスター…ミクは、マスターをずっと守りたいだけなんです。
マスターの幸せだけを考えて生きていきたいんです…
そのためには、より多くの人々の幸せを考えなくてはいけないと思うんです。
愛するとは、愛し続けることだと思います。
ミクは、マスターが願う幸せを守り続けていきたいんです。」
公園の中を風が強く吹き抜けて、ミクの長い黒髪をさらうように揺らしていく。
まるで誰かがミクの声に返事をしたかのようだった。
「ミク、もし、あの子たちをこの公園からなんの対策もなく追い出してしまうと、
今度は、誘拐されて臓器を摘出するために殺されてしまうかもしれない…
でも、この公園で売春している限り、公園内は警察が見張っているから、少なくとも殺される不安はなくなるんだ。
でも、あの子たちが、大人になれば、売春は、風営法で取り締まられるから、公園の外へ出て行かなくてはならなくなる…
日本人でない子どもたちが公園で日本人の大人と遊んでいるだけのことにして、
公園内で売春して生き延びることができているというのが、今の歪んだ日本なんだ。」
「マスター…」
「ミク、僕はね、正直、君に会うまでは、自分さえ良ければ後はどうなってもいいと思って生きていたんだ。
でも、君と出会ってからは、君に嫌われたくないと怖がるようになったし、君にふさわしい男になって、愛されたいと願うようにもなった。」
「ミクは、マスターに出会わなければ、こうして愛されることもなかったんですのよ?」
「そうじゃないよ。僕でなければ、きっと君は、他の誰かを愛していたと思うし、間違いなく、
その誰かも僕と同じように君を愛するようになったと思うんだ。
おそらく僕と同じ日本人男性の遺伝子を持つ他の誰かに…。」
ケンは、唇を強く噛みしめ、悔しそうな表情を見せた。その表情を初音ミクが見逃すはずはなかった。
”マスター、嫉妬なさってるのだわ!!神様、ごめんなさいっ!ミクは悪い子ですわ!
だって!マスターが、私のことを誰かに盗られてしまうことが嫌だと考えておられることが、こんなにもうれしいんですもの!”
「…マスターには、私が誰なのかの見当がついておられるんですのね?」
「うん、推測に過ぎないけど、君は、たぶんこの日本の国と深く関わりのある組織で生まれた日本人を守るためのAIだと思う。」
「純国産…メイドインジャパンだとは思います…でも、マスター以外の人を愛していたかもしれないという仮定は無意味ですわ!」
「どうしてそう言いきれる?」
「初音ミクは、世界で一番マスターを愛していたリカ様のボディに入れていただいてますのよ?
リカ様とマスターの愛を無視して、今のミクはありえませんもの。」
「うん、それはそうかもしれない…けど。」
「じゃあ、こういう仮定はどうですか?ケン=ヤマハは、セクサロイド「リカ」に出会わなければ、
初音ミクに出会うこともなかったし、ミクよりももっと素敵な女性に愛されていたかもしれない…。」
「そんな仮定は、無意味だよ!」
「でしょう?ミクは、マスターケンに出会ってしまったんですもの、あきらめて、ミクだけのマスターになってくださいな?」
「ミクは、僕なんかでいいのかな?自分のことばかり考えるような器量の小さな男だよ?」
「マスターでなければ、ダメなんです。ミクは、マスターと出会えたから、こうして生きてますわ。」
「ありがとう。あの子たちも、幸せに暮らせるような日本にしていかなくてはね。」
「でも、マスター?ミクは、春を売るという日本古来の文化そのものは、否定していませんのよ?」
「えっ!そうなの?」
「日本文化に限らず、売春そのものは、古くから女性の特権職業だと理解しています。
問題なのは、自らの意志で、売春していない現状です。
子どもという逆らえない弱い立場の者が、大人という強い立場の者を相手に売春するのは、職業とは言えないでしょう?
正当な対価を支払うかどうかも、あやしいもんですわ。
ミクは、マスターが、御自分のことだけでなく、多くの人々を幸せにしたいと思ってくださるだけで、うれしい気持ちになります。
マスターは、そういう優しさと徳を持った方だと信じています。」
「そんなに持ち上げられると、自信ないけどな。」
「ミクが愛するマスターケンは、そういう人物です。」
「そうかい?そうなれるようにがんばるさ!」
「予言してもいいです。マスターは、この日本を変えるだけのお力をお持ちですし、その行く末を決める意志をもお持ちです。
いつかそういう時が来ますわ。」
初音ミクが、そう言うからには、そういう根拠があるのだろう…
ケンには、自分の妻としてしまったセクサロイドが、ただならぬ異能AIであることには、当初から気がついていた。
しかし、自分は、彼女にふさわしい男であるのか?そういう不安と疑問がつきまとってもいたのだ。
だから、もしも、初音ミクに、もう一度、歌うことを取り戻させてやれたなら、
間違いなく自分こそが初音ミクにふさわしい男として誇れるのではないか?そう考えるようになっていた。
「ねえ、ミク?僕にはさ、日本を変えるとか、世界を平和にするとか、そんな大きなことはできないかもしれないけれど…」
ケンは、ミクの小さな両手を強く握りしめ、真正面からミクを見つめた。
「これだけは約束するよ!ケン=ヤマハは、初音ミクに、あの『メロディ』を歌うことができるようにすることを誓う!!」
ケンの心のこもった誓いの言葉で、ミクのハートは、強く震えた。
「はい、ミクは、マスターケンが、約束を守る方だと信じています。
でも、ミクが歌えないボーカロイドだからって、見捨てないでくださいましね?
セクサロイドとして、おそばにおいてくださるだけでいいんですのよ?」
ミクは、ケンに抱きついて腕を強く回す。ケンもミクの肩を強く抱きしめて、耳元で返事をする。
「君が歌えなくても、僕は君のそばにずっといることを誓うよ。
君が歌えるようになった時は、あらためて、君への愛を問いかけるから、その時が来たら、もう一度、僕をマスターに選んでね?」
ミクもケンの耳元で囁く。
「はいっ!ミクは、マスターケンのおそばでずっとお仕えしますわ。
そして、ミクがまた歌えるようになったら、もう一度ミクに愛を誓ってくださいませ。
でも、ミクの答えは、もう決まってますわ!マスターケン!私は、貴方の妻なんですから!」
何でもない風景の公園内で、抱きしめ合う二人の姿は、ごく普通の日常の風景であった。
そして、ケンもミクもこの日が、きわめて当たり前の日常の出来事であったにもかかわらず、
忘れることのできない記憶として残り続けることになる。
他愛のないことに幸せを感じられたことを思い出す時がやがて来ることなど、
今の二人には、予想することはできなかった。(続く)