「じゃ、行ってくる」
「ああ。最近物騒だ、気をつけな」
カイトが高層マンションの一室を後にする。その背後に、振り向きもせず、ひらひら手
を振っているのは、彼のマスターである男だった。
といっても、それは形式上のことであって実質には違う。
カイトはこの男に一切の行動・言動を束縛されないし、その逆もまた然りで、いってみ
れば同居人のようなものだった。
これは、ボーカロイドの在り方としては異例中の異例といっていい。
それは、この世界におけるボーカロイドというのは、アンドロイドの変種であり、その
アンドロイドはあくまで人間の道具として利用されるからだ。
近年では完全機械というより、有機的な機構を数多く持つ(擬似的なこころさえ持つ)
より生身の人間に近いバイオロイドが主流であったが、それでも人間との関係性は変わら
ない。
いわゆるアシモフのロボット三原則と呼ばれる、
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することに
よって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あた
えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をま
もらなければならない。
という考えに沿ったものだ。
これに加えて、アンドロイドは必ず人間のマスターの元で運用されることが義務づけら
れていて、その許可がない行動を勝手に取る事はできない。
あくまで道具なのだ。
さらに、総合的には人間より性能が劣るように設計されることも定められている。
たとえばボーカロイドであれば、歌唱能力はヒットチャートを記録した歌手を超えない
程度であることと、それ以外の身体能力は、運用される国の成人男性平均の半分以下であ
ることが定められていた。
なぜ、こういう扱いなのか?
問うてみるとまず「そうでもしないと、古典的なSF映画のようにアンドロイドが人間に
反乱を起こすやもしれない」という危惧を挙げたくなるところだが、それはどちらかとい
うと建前である。
実際は、ブルーカラー層がアンドロイドに住居や雇用機会を奪われてしまう事態が発生
し、それによる国民生活力の低下や、不満を持った国民によるクーデターの勃発など、そ
ういった可能性を回避する目的が強い。
いわば、政治・経済的な側面を考慮したものだったのだ。
だが……カイトを購入したこの男は、それを好まなかった。
男の職業は暗黒街きっての雇われ用心棒。
かつて傭兵時代を過ごしたこともあるという彼は、何種類もの火器を運用できる技術を
持っていながら、得物は古典的な六連発リボルバー「S&W M19」のただ一丁しか持たない
という変わり種だ。
それで死なずに済んでいるのだから大したものだが、まあ、要するに彼は裏社会の住人
であった。
が。その裏社会というのは、一般人が生きる表社会よりもはるかに複雑怪奇かつ厳重な
掟にさらされる世界で、自由などという言葉からはほど遠い世界だ。
そこに組織は腐るほどあるが、すべてに共通していることは、それぞれの組織の掟を破
りし者に明日の命はない、あっても社会的には抹殺同然……ということだった。
だから、その反動なのか。
なにかのはずみでカイトを購入した男がはじめ彼に施したことは、起動ではなく、先ほ
ど挙げた「自由に意思決定ができない」というアンドロイド基本概念の改変だった。
そのため、このカイトには完全な意思決定の自由があり、やろうと思えば脱走だろうと
主人の殺害であろうとも、迷うことなく実行できたのだ。
それを煽るかの如く、ボーカロイドには全く必要のない力まで持たせられている。
ある程度の格闘能力と銃器の扱い、発声機能が豊かだということを利用して脳神経を攻
撃する音響兵器並の発声が出来るようにもなっていた。
それだけの大改造が施され、ようやくカイトは起動したのである。
そして、
「よう、初めまして。このクソッたれた世界を楽しく生きてもらうために、お前さんには
色々と仕掛けさせてもらった。ま、せっかくだからしばらく付き合ってくれや。もちろん
飽きたら逃げ出しても構わんが」
それが目覚めた時、はじめて彼にかけられた言葉だった。
さすがに最初は戸惑ったようだったが、自分をメカとしてではなく、気楽な隣人のよう
に扱う男との生活はなかなかに面白く、そして自由だった。
男はこれといってカイトに要求はしない。カイトも要求はしない。
ただ、歌唱の仕事でいくばくかの金を得、男の趣味であるクラシックを歌ってやり、好
きなアイスと酒に囲まれる生活は、彼の生きる世界を満たした。
そんな二人だから、お互いに明日はないかもしれない。
男の方は職業柄当然だし、カイトも違法改造の個体だから、もしそれが発覚すれば、ま
たたくまに回収されてバラバラにされるか、そうでなくても初期化される。
が、そんな危機も、ふとすれば怠惰になりがちな毎日のスパイスとなった。
……そんな時間がしばらく過ぎていった、あるときのことだ。カイトが酒をひっかけに
バーへ出かける。
外は雨だった。
雨脚は強く、傘を差しても服が瞬く間に濡れていくような勢いである。
逃げるようにバーへ入ると、狭く薄暗い空間がカイトを出迎える。
同時に、彼の聴覚センサーがマイルス・デイビス演奏するBlue In Greenを静かに捉え
はじめた。
BGMとしてはなんのひねりもない王道だが、ジャズの帝王と呼ばれた彼のトランペット
は、その死後、どれほど時が経過しようとも古臭く感じない。
音の世界に生きるカイトにとっては、偉大に感じる先人の一人だろう。
そして目の前の狭いカウンターに進み、席に座れば、彼を確認したバーのマスターが何
もいわずキープしていたI.W.ハーパーのボトルを棚から取り出すのだった。
カイトは差し出されたショットグラスに口をつけ、
「……」
一息つく。
酒をたしなむことができるのも、バイオロイドタイプの特権だ。
そうしてしばらくの間くつろいでいると、今度は独りの女が入店してきた。
店内に湿った風がながれる。
その風を引き連れて、女はカイトのとなり座席に落ち着く。
ふと横目で見れば、紅いレザーベストに、ミニスカートという、白いロングコートのカ
イトとは対照的な姿をしていた。
が、今の時節は冬。
とても薄着で平然としていられる気温ではないのに、なお、そういう服装をしていると
いうことは彼女も恐らくアンドロイドであるのだろう。
彼女はスコッチのなにかを注文し、差し出されたそれを舐めるように飲みはじめる。
整った線の横顔が美しかったが、あまり表情が冴えない……憂鬱、といっても良さそう
だった。
カイトはなんとなくその様が気になり、声をかけてみることにする。
「ずいぶん、寂しそうだな」
「放っておいて」
「ひょっとしてマスターと上手くいかないのか? ああ、ここのじゃなく」
そういうと、ぶっきらぼうだった女が目を丸くしてカイトの方へ顔を向ける。「なぜ私
がアンドロイドだと解るの」と、いわんばかりだった。
「……どうして」
「その服を見ればさ」
「あ……」
「それに、俺もボーカロイドなんだよ。君は何だ」
「あなたと同じ」
「そうか」
「そうよ」
「……愚痴があるんだろう。聴こうか」
「いいわよ。人間もアンドロイドも、生きてれば不満ぐらいあるもの」
「そう言われると余計に聴きたくなる」
「しつっこいなあ……もう。なら一杯おごってよ、そしたら話してあげる」
「よし決まりだ。俺はカイト、君は」
「メイコよ」
最初のメイコとの会話は、そんなものだった。
解ったのはお互いの名前と、ごくごく上辺だけの簡単な素性だ。
それによれば、メイコはバーの近くに居を構えるマスターに購入されたボーカロイドだ
ったが、相手にされたのは最初のわずかな期間だけで、その後はほったらかしも同然だっ
たという。
バイオロイドタイプは生体部品が多いゆえ、その維持管理も生物的なものが必要であっ
た。だから、たとえば飢え続けた場合、生物同様に死を迎える。
それなのに人権がない彼らにとってマスターに放置されるというのは死活問題なのだ。
しかしボーカロイドがマスターを捨てて家出するわけにもいかず、しかたなく、自由が
効く範囲で金を稼ぎつつ、毎日を凌いでいるらしかった。
ある意味カイトと似た状況といえたかも知れないが、それに対する満足の度合いは天と
地ほどにも差があろう。
そのためメイコは浮かない顔をして酒を呑んでいたらしい。
その日はそれで終わった。が、あくる日も、カイトがバーに足を運ぶと、彼女はまた店
にいた。
それだけではない。
またあくる日も、そのまたあくる日も、カイトが飲みに出かけた日にはメイコは必ずと
いっていいほどバーに居た。
もしかすれば毎日居たのかもしれないが、そのことを問いただすほどカイトも野暮では
ない。ただ、またメイコと話ができることを素直に喜ぶ。
「ねぇカイト。あなたいっつもハーパーしか飲まないけど、そんなに好きなの?」
「そういう訳じゃないんだが、同居人の影響でな」
「同居人?」
「ああ、いわゆるマスターってやつだ」
「……へえ……どんな人なの」
「え。そう、だな」
幾度も話を重ねていると、大なり小なり、お互いの輪郭が掴めてしまうものだ。
そんな最中、ふとした拍子からカイトは自身が違法改造のボーカロイドであることを示
唆してししまう。
女の前で油断がなかったか、といわれれば否定できまい
むろん、メイコにはそこからカイトを取り巻く環境を想像するのは、そう難しいことで
なかった。
「か、カイト」
「俺が恐くなったか」
「違う。でも、その……ほら」
ちらりとバーのマスターを見て言う。たとえ自分が他に漏らさなくても、第三者に知ら
れてはタダでは済まない。
が、カイトは涼しい顔のままいった。
「ああ、ここのマスターはそういう事には頓着しない。出来た人さ」
「……」
幸い、他に客もいない。
バーのマスターも黙ってグラスを拭いつづけるのみ。
とりあえずのところ、問題ないようであった。
それが解って落ち着くと、メイコはカイトの正体に様々な想いをめぐらせる。
(人間と対等の違法アンドロイド、か……)
危険な香りだったが、それが常に自由を束縛される存在にとっては甘い香りにも感じら
れたのは想像に難くあるまい。
あるいは、憧れだったか。
メイコは、カイトと飲むのと同じハーパーを大量に口に含む。
それを少し転がしてから飲み下すと、アルコールを検出したセンサーが喉の焼かれる感
覚まで再現し、彼女はうめく。
その状態のままうつむくと、やがていった。
「いいな。あなたが羨ましい」
「明日が知れない命でもか」
「それでもよ」
「物好きだな」
「物好きで悪い? 私は自由になりたい」
「ならさ。君の購入者を消してしまおうか……そうすりゃ自由になれる」
「……」
ふっ、と影のある微笑を送られたメイコが凍り付く。
無理もあるまい。
相手は、仮にも裏社会を生きている存在だ。その手で、いくつかの命だって殺めてきた
かもしれない。
メイコが畏れたのは倫理観の問題ではない。
ただ、殺戮に明け暮れた者には独特の、なんともいえぬ匂いがまとわりつくものだ。
それが感じられたのであろう。
ふと、顔を背けて目を落したメイコを見て、カイトが「怖がらせてしまったな」といわ
んばかりに肩をすくめると、つとめて明るくいった。
「くっく、冗談だよ!」
……が、彼を畏れたと思われたメイコは、意外なことを口にする。
「そうしてくれるなら……わたしは」
「なに?」
「ごめんなさい。なんでもないわ」
「……なあ。明日も飲みに来るか」
「ええ」
……そんな物語を記憶に、カイトは高層マンションの自室へと帰る。と、そこには例の
男が愛銃の分解清掃を終えようとしているところだった。
カイトが部屋に入るなり、その面を見た男がいう。
「よお、険しいツラしてるな。あんま女にかまけると、良いことないぜ」
「わかるのか?」
「まあな。いいさ、何をするもお前さんの自由……ああ、そうだ」
「なんだよ」
「これもってけ」
と、男は懐から一丁の自動拳銃を差し出した。
「これは」
カイトはそれを受け取ると、ずしり、と金属の重みが手の内に広がるのを感じながら、
まじまじと見つめる。
その銃はワルサーP1だった。ドイツの軍用拳銃で、基本設計に優れており、一九三八年
の登場から現在に至るまで生産が続いている信頼のおける一丁である。
なお、戦前の生産品はP38という名で呼ばれており、そちらの方が有名かもしれない。
「なんでまた」
「相棒がそれの旧いやつ持っててな、出来心で買っちまったのさ。良い銃だが、やはり俺
にゃ合わねえ。くれてやる」
「まあ、そういうことなら貰っておくが……」
「ああ。ところでな、俺は今日限りでここを引き払うことになった」
「え、なんだよ突然じゃないか」
「仕事が決まったんだよ。で、お前さんはどうする。一緒にいくか」
男はいいながら紺色のスーツを羽織ると、整備を終えたM19をスラックスの上から無造
作に突っ込む。ホルスターも用いないらしい。
その仕草を見つつ、カイトは黙りこくった。
たとえ主従関係になかったにせよ、この男は自分のマスターであり、友人であり、その
共同生活にも満足している。
本来なら、何の迷いもなくついていくはずだった。
(メイコのことが無ければな)
だから、
「悪いが……俺は、まだここにいるよ」
沈黙をやぶったカイトの答えは、そういうものだった。
それを聞き届けた男は「仕方ねえな」という風に、壁にかけてあった帽子を手にとって
深くかぶると、外出の準備を整える。
仕事の内容は不明だが、まともな仕事ではないのは確かだ。
だから、禍の元となる足跡を残さないために、仲間とならない者に一切の情報を漏らす
わけにはいかなかった。
ここで別れれば、もはや二度と相まみえることもあるまい。
……共に過ごした期間はそれほど長くないが、別れの時が来たようだった。
「そうかい。なら、そのワルサーは餞別だとでも思っといてくれ」
「……すまん……」
「なんの構わねえよ。じゃあカイト、達者でな」
「ああ」
と、男はポケットに手を突っ込んで部屋を出て行く。その背を見送ると、あとはカイト
独りだけとなる。
なんとなしに手持ちぶさたになった彼は、リビングに赴き、備え付けてあったインスタ
ントコーヒーを淹れると、黒いばかりで大して美味くもない液体をすすった。
半分飲んだところで飽きたのか、カップをテーブルに置くと、今度は自室のベッドに転
がって腕まくらになる。
コートも脱がないままだ。
彼の脳は電子頭脳だから、人間ほど長時間の睡眠は要さないが、それでも体の各部に使
われている生体部品を休ませる必要はある。
カイトは目を閉じると、休止状態に入るのだった。
……それから一日過ぎた。
男もいなくなってカイトは、なにをするでもなくボンヤリと昼を過ごしたが、彼が止ま
っていても時は過ぎるし、地球は自転し、軌道上を公転している。
ベッドの横には窓があった。
そこからカイトは、再び夕となり、夜がやってくる空を見上げていると、やがて外は完全
に闇に浸かっていった。
その時点になって、ようやっとベッドから起き上がると、手ぐしで髪をいい加減に整え
つつ、玄関に向かう。
そしてドアノブに手を掛けたときのことだ。
ふと、その先から温度を感じた。人間でいえば嫌な予感だ。
カイトは黙ってコートからワルサーを取り出すと、銃身をドアスコープにぴたりと当て
てトリガーを引いた。
パァンッ、と乾いた音が響く。
噴かれた火はドアスコープを貫き、さらにその奥にいたものも貫く。カイトは硝煙の匂
いと共にドアを蹴り破るように開けると、現れた影に向かってさらに二発、三発と銃弾を
叩き込んだ。
すれば、どうっ、とその場に影が倒れ伏せる。
正体は人間だ。赤い血を流しているから、アンドロイドではない。
脚で転がすと、それは最初の一発を肩に受け、残る二発を頭と胸にそれぞれ一発ずつ受
けて絶命していた。
手には共産圏からよく密輸される拳銃が握られている。
「客じゃないのは確かだな」
カイトは覆面を剥ぎ取ってみたが、その正体は見たこともない男だった。
だが、突然の襲撃の理由を考えている暇はない。このマンションの防音設備はサイレン
サーなしの銃撃音を遮断できるほど高性能ではないのだ。
他の住民が気づいたのだろう、にわかに辺りが騒がしくなっていく。
第一、足下に死体が転がっている。
もはやここに留まることは許されなかった。
「ちっ」
カイトは舌打ちすると、エレベーターは避けて非常用階段に走る。エレベーターを使う
と、もし後続がいた場合、階下にたどり着き、ドアが開いた瞬間、さっきの襲撃者のよう
にされる可能性があるからだ。
高層マンションだから降りるまで時間は掛かったが、それでもカイトは走った。
やがて、地下の駐車場にたどり着く。
ここにたどり着くまで幸い、誰にも逢っていない。
おかげでゆっくりと襲撃を受けた理由を考えることができた。考えてみればそうそう難
しくはない。ちょっと考えればすぐに合点がいくことだった。
常にその身を狙われるカイトのマスターと、その情報をうかつにもメイコに漏らしてし
まった次の日の夜、襲撃者は現れた。
これの意味するところは――
「なるほど。女にかまけると、ロクなことがない……だが、それでも」
カイトは男の言葉を反すうしながら、自分の脚であるバイクが駐輪されているところへ
移動する。
車種はYZF-R1。ボーカロイドを世に送り出したヤマハの片割れ、ヤマハ発動機の開発し
た市販二輪車だ。排気量は998cc。
市販といってもレーサー譲りの車体は猛禽類のようなシルエットを有し、一〇〇キロま
で二秒強で加速し、最高速は三〇〇キロにも迫ろうかという性能の怪物である。
それがカイトによって目覚めさせられる。
エンジンの唸りをとどろかせ、地下駐車場を脱出し、夜の国道に躍り出た。四眼の釣り
上がったヘッドライトが闇を切り裂き、矢のように突っ走る。
目指す先は、いつものバーだ。
こうなった以上、メイコも行方をくらますと考えるのが普通だが、なぜかカイトは「明
日も飲みに来る」と答えた彼女が、そこに居るような気がしたのだ。
蒼く長いマフラーが強烈な走行風に煽られ、たなびく。車輪に巻き込まれれば首が絞め
られるかもしれないが、そんなこともカイトは気にしない。
目指す先へたどり着くまで減速なしだ。
この時のカイトはまさしく、R1と人馬一体の弾丸であった。
カイトが叫べば、R1も吼える。アクセルの開閉に応じているといえばそれまでだが、同
郷の血筋がR1にもカイトの感情を理解させたのかもしれない。
そして瞬く間にR1はバーの店先へと到着する。
サイドスタンドを蹴り出して、車体から飛び降りると、カイトはゆっくりとバーの中へ
入っていく……。
また、狭く薄暗い空間が出迎える。
静かに流れるはデイブ・ブルーベックのTAKE・FIVE。
それをBGMに入店したカイトの目に、相変わらずグラスを磨き続けるマスターの姿と、
カウンターの席に掛けた紅いレザーベストを着た女の背が映る。
やはり、居た――。
「……来たわね」
その背に向かって、カイトは踏み出す。
狭い店内だ、数歩も歩けば密着状態も同然になる。
「あなたがここに来たってことは、こっちの作戦は失敗に終わったのね」
「ああ、残念だがな。ところで、この間の話はぜんぶウソだったのか」
「ええ」
さらりと答えるメイコ。
が、そのあとに「でもね」と、付け加えると、寂しそうな笑顔をうかべながら、
「自由が欲しかったというのは本当よ……私は、マスターの命令に背けない」
その言葉が終わるか終わらないかの内、メイコは、バッ、とカイトへ振り向き、隠し持
っていた拳銃を向けた。
が、彼女の指がトリガーを引き絞るより早く、カイトのワルサーがぶわっと火を噴くと
それが破壊の意思へと変じ、メイコの右腕に襲いかかった。
衝撃で彼女が拳銃を取りこぼすと、床へ落ちた反動で暴発した銃弾が、ギャンッ、とカ
ウンターを削る。
「くっ」
メイコが右腕を、無事な左腕で押さえてうめいた。見ると、腕は一部破砕して中身の機
械と生体部品の一部が突き出ていた。
通常銃弾の威力ではない。
おそらく、ホローポイント弾のような「命中の際に貫通せず、弾がターゲット体内で留
まり変形する」ことで、敵へ与えるダメージを増大させる弾が込められていたのだろう。
これは「残酷だ」という理由から、一部の国では使用が禁止されている。
この隙にカイトは、彼女の落した拳銃を素早くさらうと、ふと銘柄を見た。物は、銀色
のトカレフだった。
元々は旧ソ連の軍用拳銃で、地味な黒色のはずだが、中国で不正コピーされた密輸品の
中に、しばしば全体をクロームメッキし豪華に見せかけた物がある。
それを「この国」でよく用いるのは、暴力団などだ。
彼女の背後にあるのは、そういった連中だったのかもしれない。
カイトはそんな思考を巡らせつつ、ワルサーをメイコに向けたまま再び口を開いた。
「俺の方がちょっと反応速度が良いようだな」
「……私、旧式だもん」
「俺も新しくはないけどな。しかし、旧式の次はスクラップか?」
「意地悪ね。なぐさめてよ、これから壊す相手ぐらい」
「なにをバカな。壊してたまるかよ」
「……ええ?」
そういい、ふい、と横を向いたメイコをカイトは米俵でもかつぐ様に持ち上げる。
「ちょ、ちょっとおっ」
「おっと、抵抗してくれるな」
と、カイトはメイコを担ぎつつバーのマスターを見て、カウンターに一枚のキャッシュ
カードを滑らせた。
「騒がせて悪かった。番号は裏面に書いてある……少ないが取っといてくれ」
だが、バーのマスターはカードをちらりと見ると、
「……金額分だけ、キープしておきましょう」
と、一言だけいうと、またグラスを磨き始めてしまう。
それにカイトはメイコを担いでいない方の肩をすくめ、出口に向かっていった。外では
R1が相棒の帰りを待っている。
カイトは、メイコをR1の、後部座席とは名ばかりの、跳ね上がったテールカウルの上に
薄皮一枚が張り付いたような代物の上に乗せながらいった。
「タンデムしにくいが、なんとか片腕で捕まっててくれ」
「なんのつもり? まさか助けてくれるとでも言うんじゃないでしょうね」
「そのつもりだ。何のために俺がここに来たと思ってる」
「バカ。私がマスターにどういう命令を受けてると思っているの? 暴れるかもしれない
わよ」
「君は戦闘不能状態だ。命令を遂行するためには、いまは大人しく俺に従っている他ない
んじゃないかな」
「……右腕、直してよね」
「一緒にその困ったアタマの方も直してやるさ」
その言葉と共にカイトが車体に跨ると、グオン、とエンジンが始動する。
やがてR1はゆるやかに発進すると、二人のボーカロイドを乗せて闇夜の街へ消え去って
いくのだった。
・・・
それから、半年が過ぎた。
カイトによって盗難されたメイコは、どこかの街の、工場のような場所で修復作業を受
け、再び元気を取り戻していた。
元気を取り戻したのは、右腕が直されたからだけではない。
その電子頭脳も、カイトと同じく、ロボット三原則をはじめとするアンドロイドの縛め
から解放されていたからだ。
工場は、なにかの機械の重要なパーツのような、単なるガラクタのような、よくわから
ない部品が大小、そこかしこに転がっているような所だった。
その内のひとつ、破棄されたアンドロイド達が築いた死骸の山の上にメイコが腰掛けて
いる。
見ると、自分と同じ型の死骸や、初音ミク、鏡音リン、鏡音レンといった、彼女と同時
期頃に開発された旧式ボーカロイドたちの死骸もいくらか見受けられた。
それぞれ、様々な事情を生きて、様々な事情の中、死んでいった個体たちだろう。
カイトタイプも何体かあった。
だがメイコは、この中からまだ使えて、メイコタイプに流用が効くボディパーツをもぎ
取って再生したのである。
だから、今更、死骸の山の上で感傷にひたるようなことはなかった。
しばらく静かにしていると、遠くから聞き慣れたエンジンの音が響いてくる。
それは迫り来るように大きくなってくると、やがて、工場全体に響き渡るようになって
強烈な光と共に、工場を照らし出す。
そしてそのまま、ふっ、と停止した。
車体からロングコートをまとったカイトが降り立つと、例の薄皮一枚の後部座席にくく
りつけられていた瓶のようなものを抜き取って、メイコの方へゆっくり進み出る。
「ただいま」
「無事で良かった」
「そう簡単にくたばったりはしないさ。それより、今日は収穫があったぜ」
「なあに」
「酒だ。トリスだけどな」
「やったじゃない。トリスで十分よ」
「じゃ、景気づけに少しひっかけるか」
というと、カイトはメイコの座る死骸の山へ登ってくる。
その姿を抱き取ると、カイトは瓶の開封したウイスキーの瓶を口の上から少量、落して
くるから、メイコは舌を垂らして受け取った。
フワリと芳醇な香りが咥内を支配する。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
「じゃあ」
「次は」
「カイトのおいしいものも、貰おうかな」
「貢がせてもらうか」
カイトは瓶の蓋を閉め、傍らに置く。
と、どんっ、とメイコを死骸の山の上に押し倒すと、その上から覆い被さるように彼女
を抱きすくめて、首筋に吸い付いた。
その動きで死骸の山の一部が崩れ、ゴロリ、と何かが転がり落ちていく。
……それはカイトタイプとメイコタイプの、頭部の残骸だった。
不吉な暗示だ。
二人ともはっきりと見てしまった。が、すぐにお互いを貪りはじめて、意にも介さない
風である。
「ふふ、私たちもいつ、首無しになるかしらね」
「さてな……」
マスターを持たず、勝手に身動きする違法改造体である二人のボーカロイドは、決して
明るい日の下で生きることはできない。
できないが、彼らはその先に待つ未来を待ち焦がれるように、肌を擦り合わせつつ、
「少なくとも、あの転がった首は俺たちのようには生きられず、人間の奴隷だった」
「でも」
「俺たちは違う」
「なら、たとえ明日首無しになろうとも構わないわ」
「俺にはメイコがいる」
「私にはカイトがいる」
ボーカロイドらしく、歌うように淫らの遊戯に耽るのだった。
この先の二人の命運を知る者は、いない。
了