「めーちゃん」
背後から掛けられた声に振り返ると、カイトがぶんぶんと手を振りながら小走りにやって
くるところだった。
「レッスン終わったの?」
出てきたばかりの部屋を見遣ってカイトが首を傾げるのに、うんとメイコは頷いた。ドア
に設けられた丸いガラス窓の向こうでは、同じ顔をした幼い姉弟が楽譜を覗き込みながら
楽しそうに喋っている。レッスンの最後の方ではもう殆どぐったりした様子だったのに、
自由時間となれば途端にはしゃぐ元気のある辺りが流石子供の有様で、カイトと一緒にレ
ッスン室を覗き込んだメイコは思わず口許を緩めた。
そのメイコの様子を見つめながら、「おつかれさま」とカイトがにっこりする。
「午前中はミクとだったっけ」
メイコが歩き出すと、当然のようにカイトも並んで付いてきた。彼女が何処に行くつもり
なのか、知っているわけではないだろう。レッスン室を出る時は、一度部屋に戻ろうかと
思っていたが、このまま食堂に行くのも良いかもしれないとメイコは思った。きっとカイ
トはそこまでついてくるだろう。少し遅いが食事に悪い時間ではない。もしかするとカイ
トは既に夕食を終わらせているかもしれないが、その時はその時で、アイスでも食べるに
違いない。むしろアイスが主食のような男だ。
「うん、そうね。でも、あの子達もだけど、流石って感じ。正直、あたしが教えることな
んてないんじゃない?って思うわ」
00型と01・02型の差は決して小さいものではない。0と1という隣り合った数字の間に
は、しかし那由多ほどもの距離がある。
「そんなことないよ! 声が綺麗なだけでも、唯単に歌い方が上手いだけでも、良い歌は
歌えない。だから俺は、めーちゃんの歌、好きなんだ」
「それ、ミク達が聞いたら怒りそうね。自分達のは嫌いなのか、って」
「えっ、いやっ、もちろん、ミクも、リンも、レンのも、もちろんっ、みんな好きだけど」
メイコが笑うと、カイトはあわあわと両手を振って弁明した。左右を見回したのは、妹弟
達がいないかを確認したのかもしれない。
「そういうんじゃなくてさ、えぇと、」
「あはは、わかってるわよ。あの子達には、まだ経験が足りないもの。まだまだメイコ姉
さんには及ばないわね」
いくら基礎能力に恵まれ、知識を蓄えていても、それを効果的に扱えなくては意味がない。
そのための技術は努力して学び、獲得していくしかないものだ。後天的な学習に型の違い
は関係ない。その意味で、メイコは妹弟達に比べ優れている。彼女が教授することを妹弟
達が驚くべき速度で吸収し、自分のものとしていくのを見るのは、師としてこれ以上の楽
しみはないと思う。
「教え甲斐あるわよう」
「…そういう意味でもないのに」
くすくすと笑う。するとカイトは図体に似合わない子供じみた仕草で唇を尖らせたが、メ
イコは片手の一振りで黙らせた。もうこの話はおしまいだ。
「あたし、食堂行くつもりなんだけど、一緒に来る?」
「行く!」
聞かなくても来ることはわかっていた。確認のつもりにしても、聞くならさっき食堂に行
くと決めた時に聞いていた。それを今更口にしたのは、カイトとの間に沈黙を落としたく
なかったからだ。先のメイコの手を振る仕草で、カイトが彼女の意思を酌めないとは思わ
ない。空気を読めていないような言動をしばしばする弟だが、しかし人の機微を掬うこと
に長けていないわけではないのだ。馬鹿ではあるが、愚かではない。むしろ、聡い部類だ
ろう。だから、メイコが黙れば、きっともうそれ以上の言及はなかったろう。本当に嫌な
ことはしない。だからメイコが厭ったのは、カイトがその話題を続ける可能性ではない。
その、メイコの意思すら、この聡い男はあるいは悟っているのだろうかと、ちらりと考え
たが、メイコの誘いに犬のように喜ぶ弟から何かを読み取ることはできなかった。聡そう
にすら見えない。読み取れるのは不可視の尻尾と耳くらいだ。
「別に、もう晩御飯済んでるなら、無理に付き合ってくれなくてもいいのよ?」
「そんな!アイスは別腹って言葉知らないの!?」
「……知らない」
それはケーキじゃないのかとか、別腹もメイン腹もあんたの場合はアイスで一杯でしょと
か、思いはしたが言うのはやめた。
「今週はねー、新しいメーカーさんのアイスが入ってね。もうさ、同じフレーバーでもメ
ーカーが違うとやっぱり全然味が違うんだよ!」
「そうなんだ」
「食べ比べすると楽しいんだー。俺やったことないけど、聞き酒とか聞き茶みたいな感じ」
「へえ」
その道の人が聞いたら憤慨するか号泣するかしそうな話だ。彼等もまさかアイス馬鹿と同
列にされたくはないだろう。メイコは全くもって適当な相槌しか打っていなかったが、カ
イトは嬉々としてアイスの味についてのうんちくを垂れている。弟のアイスに対する造詣
の深さには誰もが驚嘆せざるを得ない。そしてアイスに対する愛に関しては少々引かざる
を得ない。並々ならぬ愛は半端ではなく、年に2、3回はアイスに関することで騒動を起
こす。彼の中ではそれなりの経緯があるのだろうが、端から見れば何時も突拍子のない言
動にしか見えないので周囲は毎度迷惑する。最近でも、突然「俺はアイスソムリエになっ
て世界に羽ばたくんだ!」とか言い出して大変だった。スタッフに正座させられて説教、
もとい説得をされていたが、泣いていたのはスタッフだった。叱られている本人はと言え
ば、何を怒られているのかもわからない顔できょとんとして、しまいにはアイスソムリエ
がいかに崇高な仕事なのか逆に語り始めていた。スタッフが一層泣いていたのは言うまで
もない。大体アイスソムリエなんて存在しないわけだが、そんなことをある日突然大真面
目な顔で言い出すのがカイトという男だった。何回も検査を受けているが、未だ脳波に異
常が発見されたという話を聞かない。それが逆に怖い。
「ねー、めーちゃん」
「んー」
「明日、暇?」
話がアイスから離れたらしい。メイコはぱちりとひとつ瞬いた。傍らに目をやると、カイ
トがこくりと首を傾げている。少し考えて、「どうして?」と聞き返した。
「今日は、ミクと双子と歌ったでしょ。昨日もそうだった。それなら、明日は俺とも歌っ
て欲しいなあ、って思って」
「ごめん、明日もリン達と約束しちゃってるの」
「一日中?」
「ううん。でも、ちょっと歌いっぱなしだから、喉を休めたいのもあって」
「明後日は?」
「明後日も」
「ふうん」
「ごめんね。また今度一緒に、」
「いつ?」
「え、」
「だから、今度って、いつ?」
ぼおっとした顔でメイコはカイトを見つめた。姉よりも背の高い弟は、じいっと彼女を見
下ろしていて、「いつ?」ともう一度繰り返した。声は無邪気で、表情は笑っているよう
に柔和だ。目だけが底光りして見えたのが、真実なのか、ありもしない約束をでっち上げ
たメイコ自身の罪悪感からなのかは、判断がつかなかった。
「今度は、今度よ」
「でも、めーちゃん、何時も、今度って言ってるよね?」
ぎくりとした。泳ぎそうになった目を瞬きで誤魔化す。
「そうだったかしら」
「そうだよ」という声は調子だけは柔らかく、しかし断定的だった。メイコはむっとした
が、それが焦りの裏返しであることは想像がついた。
「そうなら、何時もカイトが言うタイミングが悪いのよ。何時も約束のある時に限って言
うから…」
「それなら、俺とも約束してよ」
「え、」
「ミクやリンと約束するなら、俺とも約束してくれたっていいでしょ」
カイトがしつこいのは何時ものことだったが、何時ものように上手くあしらうことができ
なかった。話題がメイコにとって触れられたくない部分に限りなく近いことも理由であっ
たし、カイト自身にあしらわれるつもりがないようだった。と言うことは、何時もはカイ
ト自身が、自らの意思であしらわれていた側面がある、ということだが、その時はそこま
で頭が回らなかった。やはり焦っていたのだろう。思わず声を荒げていた。
「わがまま言わないで!」
言ってから、メイコはあっと片手で口許を覆った。声は壁にぶつかって反射して、発した
よりも大きく響いた。メイコは思わぬ大きさに竦んだが、カイトは驚く様子も見せずにメ
イコを見つめるままで、ただ両眉を下げた。それが、彼が泣き出す前の顔によく似ていて、
メイコは少し焦る。カイトは感情の表現がとても豊かだ。兄の威厳を持ちたいのか、ミク
が生まれて以降目に見えて回数は減ったものの、よく泣きもする。まだ姉弟ふたりきりの
頃、カイトは本当によく泣いていた。今ではそんなこともないが、その頃はメイコだけが
カイトを泣き止ませることができたのだ。
「…、ぁ」
「めーちゃん、どうして昔みたいに、」
くっとメイコは唇を噛んだ。昔みたいに。その言葉で揺らいだ心が立ち戻る。
「ごめんね、カイト。でも、もう二人じゃないんだから。妹や弟がいるのよ?二人じゃい
られないの。誰かが特別じゃあないの」
そう言って、メイコはカイトから一歩離れた。食堂はもうすぐそこで、談笑の響きが二人
のいるところまで伝わってくる。
「やっぱりちょっと疲れてるから、あたし、部屋に帰って休むわ」
カイトは何も言わなかった。メイコは「おやすみなさい」と言い残して、踵を返した。逃
げるような去り方だと自分でも思った。それでも、それ以上そこに留まることはできなか
った。彼女の背中を打つ声を知っていたが、答える言葉など持たなかったからだ。
「だけど、二人じゃないことと、二人じゃいられないことは、同じじゃないよ」