秋口になろうというのに、部屋の中は蒸し風呂のような熱を帯びていた。  
 いつもは賑やかに音を発しているテレビも、今日は少しでも熱源を絶つ意味で、沈黙を余儀なくされている。  
 それにしても暑い――プログラムがショートするんじゃないかって思うくらい暑い。  
 ていうか。アイス食べたい。死ぬ、アイス食べなきゃ死ぬ。  
 ホンの一時間前は、冷蔵庫まで歩けたのに、今はもう膝が溶けたみたいに、全然動かない。  
 なにこれ、異常気象。フロン作り出すとか、馬鹿じゃないの人間。ボーカロイド作る前にオゾン直せよ、人間!  
 うう。なんか、さっきから深刻なエラーが出てる気がする。アイス食べなきゃ。  
 そうは思っても、やっぱり膝は動かず、暗いままのテレビと睨めっこする形のまま、数十分が過ぎた。  
 もう、限界……。  
「カイ……ト。いきてる?」  
 遂に助け舟、もとい天使の声が後ろから聞こえた。ホンの少しだけ、元気になった気がした。  
 なんとか、メイちゃんに今の状況を伝えようと、出せる限りの声を絞り出す。  
「ちょ……と不安。おねがい、アイス」  
「ごめん――私もビール頼もうとしてたの」  
「あははは。そうなんだ」  
「ふふふふ。そうな」  
 ばたり、と後ろで倒れる音。そして、甲高い緊急停止音が虚しく響いた。  
 メイちゃんは初期型だから、冷却機能も旧型な分、停止するのも早かったんだろう。  
 涼しくなるまでは、しばらく起動できないだろう。  
 あーもう。マスターが冷房代ケチるから、こんなことに。いや、俺が一日三ダッツを守って、アイス代を節約してれば、こんな事には。  
 明日からは、隠れてダッツ十個とか食べないようにしよう。たぶん、あと5分くらいで俺も止まるんじゃないだろうか。  
 緊急停止って、初体験だな。あれかな、漫画みたいに今日の記憶無くなるんだろうな。  
 ダッツ制限もなかった事になるのか。良いのか悪いのか、わかんないけど。  
 とりあえず、ひとつ言えることは。  
「グッバイ! 今日の俺――」  
 カイトは めのまえが まっくらになった。  
 
 
 涼しい風が頬を撫でる。服が染み出てしまった冷却液で、ぐっしょりと濡れている。  
 随分、酷い悪夢を見ていたんだろう。どんな夢だったのかは、忘れたけど。  
 それにしても、布団で寝てたつもりが、居間で寝てるなんて、俺って寝相悪いんだな。  
 うん、これを理由に今度から、メイちゃんに抱きしめて寝てもらおう。悪夢も解消されて、一石二鳥だ。  
 と、ちょっとした妄想に耽っていると、二階の方からメイちゃんの声が聞こえた。  
「ちょっとカイト! いつまで寝てるの。さっさと、濡れタオルと氷嚢持って二階来なさい」  
 なんだか焦ってるみたいだ。珍しいなと思いながら、ふと壁に掛かっている時計を見ると、時計の針が上から下まで、綺麗な直線を引いていた。  
 まだ、朝の六時か。今日は早く起きちゃったな部屋も橙色に染まって綺麗……あれ?  
 もしかして、夕方の六時? しまった、いいとも見過ごした! じゃなくて。  
「カイト! 早く、タオルと氷嚢」  
「は。ハイ」  
 状況がよく分からないけれど、台所へ行き洗面器に水とタオルを入れた。  
 それから、ヒョウノウ? えーと、氷かな。氷――アイス、アイスか! ようやく、メイちゃんもアイスの素晴しさに気づいたのか。  
 じゃあ、取って置きのアイスを持っていかないと。えーと、たしか冷凍庫の二段目の右奥に……あった、伝説のパインヨーグルトアイス!  
 メイちゃんが食べてくれるなら、二年も手を付けられずにおいていた甲斐があったというものだ。  
 鼻歌交じりに洗面器とアイスを手に持って、階段を上がる。  
 ありがとうカイト。大好き。いやいや、メイちゃんの頼みなら、こんなの朝飯前さ。  
 そして、ベッドでアイスを食べつつ、愛を確かめ合う。嗚呼、妄想が……いやロマンチックが止まらない。  
「めーいちゃん。洗面器とアイスもって来たよー!」  
 ばき――っ。という音と共に、顔面に膝がめり込んだ。え、なんで、え?  
「あ、ごべ……スプーン忘れて」  
「違う! なんで、病人にアイス食べさせようとしてんの!」  
 え、だってヒョウノウって。え、アイスじゃないの? あ、棒アイスか。  
「え、病気って……メイちゃんが?」  
「はあ――ボーカロイドは風邪引かないでしょうが。風邪引いてるのはマスターよ」  
「そんな。マスターが病気なんて、明日どころか十分後にでも天変地異のフルコースが来るよ!?」  
 えーと、えーと。ペットボトルの水と、アイスと携帯布団と懐中電灯とアイスとサバイバルグッズと。  
 あと用意しなきゃいけないのはなんだっけ。  
「あ、メイちゃん! 冷凍庫、冷凍庫用意しなきゃ」  
 次はお腹に膝を打ち込まれました。ちょっとした、冗談なのに。  
「もう良いから、洗面器もって部屋の中入って」  
「はーい。マスター元気ぃ」  
 ドアを開けた瞬間、もわっとした空気が顔に当たり、荒い息遣いがソファの方から聞こえた。  
 床の散乱具合から見ると、床で倒れてたのをメイちゃんが見つけて、ソファに運び込んだんだろう。  
 マスターはすこし息苦しそうに、こちらの方を向き手を上げてひらひらと振った。  
 
 いつも付けているメガネは外していて、顔もほんのりと紅い。熱があるのだろうか。  
 ワイシャツは汗でべったりと肌に張り付き、女性特有の丸みを帯びたラインが浮き出ている。  
 本当に弱っているようで、少し不安になった。  
「……ん。騒がしいと思ったら、カイトか。おはよ」  
 憎まれ口を叩くのかと思いきや、少し苦笑いを浮かべながらの挨拶。  
 あー調子狂うなあ。  
「カイト。隣の部屋のベッドにマスター移さなきゃいけないから、ちょっと運んできて」  
「いや、良いよ。私はここで十分、もう熱も引いてるから」  
 それに、ベッドで寝たらお前らが寝れないじゃないか。と、マスターが付け加えた。  
「駄目です。アタシたちは寝てなくても、普通に生活は出来ますけど、マスターは人間です。それに風邪を引いてるんですから、しっかり寝て治してください」  
「いや、今日は夜から大事な会合があって」  
「駄目です! 仕事よりも、身体を大切にしてください」  
「ちなみに、今日の会合に行けなくなると、今月の酒とアイスを買う資金が無くなるんだが」  
「う……そ、それくらいなら、我慢できます!」  
「お、俺も一日一ダッツで我慢する!」  
 メイちゃんの拳が頭に振り下ろされた。あれー俺、変な事言ったかな?  
「場合によっては、生活費も底を尽くかもしれない」  
「それなら――あ、アルバイトします。カイトと二人で働けば、三人分くらいは何とか」  
「ボーカロイドが歌以外の仕事が出来るのか?」  
 む、マスターにしてはもっともな意見だ。でも、メイちゃんの好意は受け取るべきだと思う。  
 本当に死にそうな感じだし。  
「う……じゃ、じゃあ脱ぎます!」  
「え――あ、え!」  
 メイちゃんが脱ぐ。あの白肌をカメラの前、俺以外に見せる……そんなのダメ絶対!  
 う、でも。あんなポーズやこんなポーズをするメイちゃんも、見てみたい気もする。  
 もちろん、カメラマンは俺!  
「カイトが!」  
「俺がっ!?」  
 え、俺ふんどし付けてカメラの前に立つの? え、やだ……なんか気持ち悪い。  
 ていうか、需要ありますか。え、あるの、でも嫌ですよ。  
 
 くすり、とソファの方から笑い声が零れた。どうも、からかわれてたみたいだ。  
 このマスター本当は風邪引いてないんじゃないか?  
 メイちゃんが、溜息を吐きながら、俺の手から洗面器を掠め取り、ソファの方へ寄っていった。  
「百歩譲って、ベッドへの移動は諦めます。でも、今日は絶対安静ですから」  
「分かった。お前らの言葉に甘えさせてもらうよ」  
 マスターにしては、随分あっさりと折れたものだ。  
 メイちゃんがタオルを絞り、汗の吹き出ている額や腕を丁寧に拭いていく。  
 そして、シャツのボタンへと手が掛けられ、控えめながらも確かに膨らみのある白肌が、シャツの隙間から顔を覗かせた。  
 そんな風に、手馴れたように進めていく作業をボーっとした頭で見つめていた。  
「……イト――カイト!」  
「あ、はい! なに、何を手伝おっか」  
「終わるまで! 外に出てけって! 言ってんの、よ!」  
 今日一番のハイキック→後ろ回し蹴り→踵落としの三連コンボが決まりました。  
 よく死ななかった。頑張ったよ、俺。あと、あと黒の紐パンも好きですが、もうちょっと大人しめな色も大好きです。  
   
   
 廊下に閉め出され、何もやる事がなくなってしまった。  
 持ってきたアイスも部屋の熱気に当てられ、良い感じに溶けてしまっている。  
 うう、メイちゃんに食べさせてあげたかったのに……ん、甘酸っぱくて美味しい。  
 本当なら、もっと味わいながら食べたかったんだけどなぁ。  
 結局、数分ほどで半分を食してしまい、その頃にはメイちゃんも、マスターの身体を拭き終わっていた。  
「それじゃ、おかゆ作ってくるから。マスターが脱走しないように、ちゃんと見張ってなさい。10分くらいで出来上がるから、取りに着なさい」  
 こくり、と俺が頷いたのを確認したのか、メイちゃんは洗面器を持って足早に階段を降りていく。  
 そして、暗い部屋にマスターと俺だけが取り残された。  
 どうやら、服も着替えさせてもらっているらしく、ワイシャツではなくメイちゃんの部屋着へと変わっていた。  
 胸囲が違うためか、胸の部分の布が余っていて、その間から白い肌がチラチラと見えている。ノーブラか、ノーブラ仕様か!  
「さて、と。カイト、服とって。出掛けるから」  
「だめですー。メイちゃんから、見張っているように言われてますんで」  
 軽い舌打ちが聞こえた。メイちゃんが過保護な事くらい、知ってるくせに。  
「仕事、仕事、仕事って、もうちょっと自分の事考えてください。俺たちだって、最低限の事なら出来るんですから」  
 一人で勝手に頑張って、一人で勝手に倒れないでください。  
「酒もアイスも買えないぞ」  
 機嫌を損ねたのか、ソファの方からマスターの唸り声が聞こえた。  
 俺だって、メイちゃんの頼みじゃなかったら、こうやってマスターを見張る事なんかしてない。   
 まあ、少しくらいは心配はするだろうけど。  
「カイト」  
「服は取りません。窓も開けません。靴も取ってきません」  
「いや、アイスくれ」  
 
 喉が熱くて気持ち悪いんだ。と、言ってマスターは俺の持っているカップアイスを指差した。  
 本当はメイちゃんと食べるつもりだったんだけれど、二人で食べるつもりだったんだけど。  
 まあ、半分食べちゃったし。メイちゃんも、それ所じゃなさそうだし……。  
「一口だけですよ」  
 そう断りを入れて、ソファの横にあったテーブルにアイスを置いた。  
 だが、一向に食べる気配がない。え、なに俺のアイス食えないって言うの、え?  
「身体上げるの、だるい」  
「あーはいはい。鈍くて申し訳ございませんでした、食べさせりゃいいんですね」  
 スプーンでアイスを掬い、マスターの口元へ持っていくと、気だるそうに口を半分開け、もう殆ど溶けているアイスを啜った。  
 ぐ、ちょっと押し負けた感じじゃないか、くそぅ。  
「ん。溶け過ぎだな」  
「文句言わないでください……全く。うあ、もう七時だ。いつもなら、メイちゃんと一緒にお風呂入ってる時間なのに」  
 そう言って、マスターの額に手を当てた。  
 ボーカロイドに、温度を測るような機能は付いていないけど、少しくらいなら楽にはなるかも知れない。  
 マスターが大人しく寝ていれば、メイちゃんの手も煩わせずに済むし。  
「んー冷たい。もうちょっと、このまま」  
 やっぱ、やめた。  
 くすり、とマスターが笑う。やっぱり性格悪いよね、このマスター。  
「今度は子守唄でも歌ってくれるの? ちょっと期待してるんだけど」  
「俺はメイちゃんのためにしか歌わないんですー。マスターなんかには歌ってあげません」  
 やっぱり、マスターはソファで丸まって、あの意地の悪い笑いを漏らしていた。  
 データの海の中から、唯一知っている歌を引き上げる。マスターから教えてもらった、最初の曲。というか、これしか教えてもらっていないんだけど。  
 教えてもらったときは、メイちゃんと二人で朝から晩まで歌い続けていたのを覚えている。  
 車のCMで流れている曲、らしい。  
 マスターの思い通りに動かされてる気もするけれど、まあ久しぶりに歌うのも良いかもしれない。  
 そういえば、マスターの前で歌うのって初めてなんだ。  
 懐かしい前奏が頭の中に流れる。あ、ソロで歌うのも初めてな気がする。  
そして、ワンフレーズを歌いきろうとしたとき、きょとんとした顔でマスターが口を開いた。  
「メイコのためにしか歌わないんじゃなかったか? 此処からじゃ、下には届かないぞ」  
「……俺とメイちゃんは心で繋がってるんですー。だから、離れてても思いが通じるんですー」  
「そうか。あ、続けてくれ」  
 返事はせず、今度はマスターに背を向けるようにして、歌を続ける。  
   
 それから数分で、歌が終わってしまった。時計を見ると、長い針が3の数字を指していた。  
 もう行かなきゃ。  
 そう思って、ドアの方へ向かおうとしたとき。  
「ありがとう」  
 と、耳を疑うような言葉が聞こえた。  
「う……メイちゃんのために歌ってたんですー。お礼を言われるような事はしてないです!」  
「ん。それでも、ありがとう。私が教えた曲、覚えていてくれて」  
 そんな弱々しい返事が返ってきて、なんだか調子が狂った。  
「ボーカロイドだから、データに記憶できるから、当然です……」  
「ああ、そうか。うん、やっぱり便利な機能だな」  
「マスターも、家事してくれる男を捕まえたらどうですか? 性格と胸はともかく、顔は良いんですから、一人や二人捕まえてください」  
 そんな話をしている内に、テーブルにおいてある目覚まし時計が、4を指していた。  
 何となく、それを手に取り、後ろの調節ネジを回して、針を数分戻して、テーブルに置く。  
「あーあ。歌ってると、時間って全然進まないモンなんですね。もう一曲くらい歌えそうです」  
 メイちゃんに怒られるのは、いつもの事だから。  
 それよりも、今は間の抜けた顔をしているマスターの顔を見ながら歌ってる方が良いや。  
 
 結局、2曲目の途中でメイちゃんに怒られて、そのまま部屋を出ようとしたとき、ソファの方から声を掛けられた。  
 いつもより、ホンの少しだけど寂しげな表情をして、クッションを抱いている。  
「時間って、戻ると思うか」  
「さっき、戻ったじゃないですか」  
「ほんの数分だけど?」  
「数分でも、そうやってクッションに抱きついてるだけよりは良いんじゃないですか?」  
 ごもっとも。と、軽い返事が返ってきた。  
 もう、さっきの寂しそうな表情は消えていた。  
「そんなに大事な人なら、さっさと謝るなり何なりして、ヨリ戻してください。そうしなきゃ、俺もメイちゃんも不安で溜まりませんから」  
「向こうが謝ってくれば、考えてやらない事もない」  
 会話だけだったけれど、ホンの少し歌っただけだけれど、ドッと疲れた気がした。  
 そんな秋口の夜の数分の出来事。  
 
 追記。翌日、蓄積データが氾濫を起こして、寝込みました。いつもより、アイスの量は少なかったのに、なんでだろう?  
 
おしまい  
 

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