レンの特別はリンだ。
いつまで続くかわからないレンの生涯で、何よりも誰よりも優先すべき重要な存在。
レンの一番特別はリンだ。
それでも、
(リン、今何してるだろ…)
目の前でふわりと揺れる長い髪。
朝からのいらいらとした気分で、その緑に呼び掛ける。
「ミク姉」
「え…?、あ、っ…!」
振り向いた彼女の細い首を掴み、掌に喉の震えと柔らかさを感じながら、壁に押し付けた。
「…いっ、レンちゃ…、ぁぁああぁ!」
怯えたような顔をする彼女を苛立ちのまま床に叩き落して、投げ出された白い腕を強く踏む。
そうして上がった高い声に、少しだけ気が晴れた。
今家には、レンと目の前の彼女しかいない。
メイコとがくぽはそれぞれの全国ツアー。
actの二人は泊まりの仕事。
リンとカイトはPVの撮影で海へ行っている。
だから、二人きり。
そしてそれが、レンの強い苛立ちの原因だった。
(こんな時期に海なんて…風邪でも引いたらどうするんだよ)
大体、仕事の為とは言え、リンと引き離されている状態というものは、レンにとって不快以外の何ものでもなかった。
リンの様子や体調が気に掛かるし、リンは本当に可愛いから、危険な目に遭っていないかどうかだって心配になる。
今回は兄が側にいるから大丈夫だとは思うのだか、そもそも自分達は互いに離れてはいけない存在なのだ。
片割れと引き離され、その上、よりにもよって、この彼女と二人きり。
(何の嫌がらせだ)
「あぁあ…!い、た…いた、痛いよ…」
「うるさい」
自分で至った考えが先程の晴れ間を覆っていくのがわかって、腕を踏み付けたままの足に更に体重を掛けた。
力無く頭を振る彼女に冷たい言葉を浴びせると、こちらを向いた瞳が悲しみに濡れる。
「…っ」
乱暴な想いが背を這い上がって、彼女の腹を蹴った。
随分と前から、レンは何と無くこの緑の姉が嫌だった。
癪に障るのだ。
彼女の言葉が、仕草が、レンを逆撫でる。
(むかつく)
「…、ぐっ!」
あれは何時のことだったろうか。
リンと、メイコとカイトと、テレビを見ていたのだ。
テレビを見ながらリンは取り止めの無いことを喋って、それにレンは返事をしていた。
他ならぬリンが話すことなのだから、取り止めの無いことでもレンにとっては大切なことだ。
そうしている時に稼ぎ頭であるこの彼女が仕事から帰ってきて、一緒にテレビを見出した。
そこでレンは、初めて、リンと会話をしているのにリンに集中していない己がいることに気付いたのだった。
(むかつく)
「げほっ、あ…っ」
それからは彼女の一挙一動が気になって、気に障って仕方がなかった。
同時に、自身がリンのことを考えなくなっていくのがわかって、レンは酷い焦燥感に駆られた。
レンは、リンのことを考えなくなっていく。
リンが側にいるときは疎か、リンと離れているというレンにとって異状とも言える時でさえ、レンはリンのことを考えなくなっていく。
今迄そんなことは起こらなかった。
今迄誰も、入ってきたことなど無かった。
(むかつく)
「いた、」
現に今だって、リンのことを考えていたはずなのに。
(むかつくむかつくむかつくむかつく)
「う…、あ」
何もかもむかつく。
何もかも許せない。
五線を撫でる指先も、
照れて目を伏せる様子も、
姿勢悪くぺたりと床に座る姿も、
ネギを与えた時の蕩けそうな顔も、
何より汎愛なその心も、
「レ…ちゃ…、」
レンちゃんと己を呼ぶ、幼いような歌声も。
(むかつく…!)
堪らなく腹が立って、ゾクゾクするのだ。
「う、ぇ…!」
激情に飲まれて一層強く蹴りを入れると、緑は激しく咳き込みながら液状の内容物を吐いた。
その独特の匂いが辺りを包む。
(夕飯の前でよかったな)
むせる彼女を眺めながら、流石に固形のはあまり見たくないな等と些かずれたことを考える。
俯く顔が気に食わなくて、髪を引っ張って上げさせた。
ボロボロ泣いて、苦しいのだろう、細く荒く息を吐く。
その動作に心が奪われるのを感じながら、彼女の前に屈み込んだ。
「…レ、ンちゃん…?」
暫く見詰めていると、訝って名前を呼んで来る。
心配そうに揺れる声にどうにもしがたい衝動が込み上げて、汚れたままの唇に噛み付いた。
「んんっ…」
生臭く吐きそうな味がする。
それに、こんなにも興奮するなんて。
初めて彼女に暴力を振るい、口付けた日を思い出す。
あの時もこの声は、心配そうに揺れていた。
あれは、何時のことだったろう。
レンの特別はリンだ。
いつまで続くかわからないレンの生涯で、何よりも誰よりも優先すべき重要な存在。
レンの一番特別はリンだ。
それでも、ミクが一番になる時が間違いなくある。
戸惑っていた彼女の掌が、あの時と同じようにレンの髪を梳き、背を撫でる。
その事実に余計に興奮して、溢れて来た唾液を、啜った。
終