午後0時。
生態部品維持のための食事摂取推奨時間はとっくに過ぎて、
ミクの頭の中にはぐるぐると栄養補給を支持する命令がぐるぐる回っている。
自己保存を命ずるロボット三原則第三条を適用しようとする陽電子脳をごまかして、
ミクは必死に食事をとろうとする手を押しとどめている。
(お腹がすいたって、こんな感覚なんでしょうか……)
だとしたら、それはかなり苦痛を伴う行動だとミクは思う。
大好物のネギを目の前にして、ミクが必死に耐えている理由。
ちらちらと時計を気にするミク。
もうそろそろ終電の時間。
これより遅くなってしまったら、マスターは帰ってこれない……
「ただいま……」
玄関から聞こえてきた声。
ミクがずっと聞きたかった声。
目の前のネギなんてすっかり頭から消え去って、玄関に走るミク。
「お帰りなさい、マスター♪」
玄関にいたのは疲労を色濃く顔に表したミクの主人。
緩めたネクタイを放り投げて、ふらふらと靴を脱ぎ捨てる。
「ま、マスター。大丈夫ですか!?」
「ウ、ウン、ダイジョウブタヨ、モウ仕様変更ナンテ言ワナイヨネ……」
ミクの横をすり抜けるマスターの目は焦点があってない。
ゾンビのような動きでスーツの上下をハンガーに引っ掛ける。
ベッドの前まで来ると、そのままバタンとベッドに倒れこむ。
「あ、あの、マスター? ご飯食べないんですか?」
「うん……そんなことはどうでもいいから、早く寝かせて……」
その言葉が早いか、マスターの息遣いは寝息に変わる。
ここ最近は毎日そうだ。
ミクはよく知らないのだけれど「ノウキ」というものが迫っているらしくて、
マスターはいつも朝早くから夜遅くまで帰ってこない。
分かってる。マスターには仕事があるんだって。
自分だって誰かにプログラミングされて生まれてきたんだし、
そうやって自分たちを作り出してくれるご主人様みたいな仕事はすごいと思っている。
でも……
「一緒にご飯、食べたかったな……」
ずっと手をつけずにいた長ネギを、ミクは端から齧る。
鼻に通る強いネギの香りはミクの大好きなものだったけれど、
でも、どうしてだろう。こんなに苦しいのは。
いつもはおいしいネギなのに、喉に押し込めるのはただただ苦痛だった。
最後の一口を飲み込んで、ミクは息をつく。
テーブルの上にはカップラーメン。
ボーカロイドであるミクには料理をする権限が与えられていないので、
ミクにできるのはせいぜいカップラーメンを用意することくらい。
ため息をついてミクはカップラーメンを棚に戻す。
「んんっ……」
マスターの声。ミクは振り向く。
起きたのかと思ったその声は寝言。
小さくため息をついてから、ミクはマスターが眠るベッドに歩み寄る。
苦しそうな寝顔。この人は夢の中でさえ「ノウキ」に追われているのだろうか。
ミクはマスターの髪に手櫛を通す。
風呂に入っていないマスターの髪は粘っこくミクの指に絡みつく。
「マスター……お疲れ様……」
歌を作っているときはずっと楽しそうだったマスター。
あの笑顔をミクはすっと見ていない。
「ごめんなさい。私には何もできないから……」
食事を作ることも、家事をすることも、マスターを愛してあげることもできない。
自分が人間だったらいいのにと思ったことなんて数え切れないくらい。
そうだったら、ご飯を用意して待っていてあげて、部屋は掃除してあげて、
そして夜は……
ミクはため息をつく。
考えてもむなしくなるだけ。それは決してかなわぬ思い。
「マスター……」
眠るマスターの胸に顔をうずめる。
風呂に入っていない、マスターの強い体臭。
でも、ミクの大好きなマスターの匂い。
起きてたら、「重いよ、ミク」って笑ってくれるだろうか。
ミクの瞼がだんだん閉じていく。
そろそろ連続稼働時間も限界みたいだ。
システムが強制スリ−プモードに入ろうとする。
意識を手放す一瞬前、ミクはぎゅっとマスターの胸に顔を埋める。
「おやすみなさい、マスター。今度は一緒に……」