私の名前は巡音ルカ。ボーカロイドのCVシリーズ第三弾として生み出された。
私は先代や先々代から教訓を得て造られた新時代の歌姫…だそうだ。
余計な感情はいらない。歌を歌うだけでいい。人間を邪魔するためにいるのではない。
…そう教えられ、売り出され、私が辿り着いた先は、とても温かな場所だった。
***
「うーん…」
私の持ち主であるマスターが、ペンを片手に唸っていた。
さっきからずっとああして、マスターは作詞作業を行っている。
私はそれを待つばかりで、手伝うことは出来ない。作詞プログラムは持っていないのだ。
歯痒く思いながら、私はまたパソコンのモニターに目を向けた。
モニターの中の動画には、空色の髪をした女の子が歌いながら踊っている。
楽しそうに独特のステップを踏む彼女は、初音ミク。
私の先輩にあたる、CVシリーズの第一弾だ。
マスターは「とりあえずミクとかの歌を聞いててくれ」と言った。
マスターは聞かないのですかと尋ねたら、「もう腐るほど聞いたからいいんだよ」とどこか誇らしげに答えた。
―――マスターはいつも明るい。私はマスターに買われて良かったと思う。
彼の傍にいると、昔忘れたはずの何かがこみ上げてくるのだ。
温かくて安心する何かが。
それをこの間伝えようとしたら、またエラーが出てしまって叶わなかった。
…開発室にいた時はこんなことはなかったのに。最終チェックも確かに通ったはずだ。
何かがおかしい。マスターに、か、可愛いと…言われた時から。
「ルカ!ちょっとこれ見てくれ!」
いきなり話しかけられてびっくりしてしまった。
…びっくりすること自体おかしいはずなのに。何故なんだろう。
気をとりなおして、興奮気味のマスターに振り向く。
「はい、マスター」
「ほらっ、どうだ?このフレーズ」
ぺらりと渡されたメモ帳には、多くの文字が踊っていた。
赤く丸をつけた箇所を指差して、マスターは笑う。
「ちょっと良くないか?自分で言うのもなんだが」
マスターの言うフレーズに目を通す。
私は作詞が出来ない。作曲も出来ない。
ただ、マスターが作ったこの詞が、温かな響きを持っていることだけはわかった。
「とても良いと思います、マスター」
「マジで?」
思ったままを告げると、マスターは顔を輝かせた。
またエンジンの回転が僅かに早くなり、気付かれないように二の句を継ぐ。
「はい。特にこの、“君が―――”」
「うわっちゃぁ!口に出すな!恥ずい!!」
「…ですがマスター、私はいつかこれを歌うのでしょう」
「いや、メロディに乗せるのと音読するのじゃ…なんというか…わかってくれ」
「わかりました」
「早っ」
マスターがわかってくれと言ったら、私はなんとしても理解してみせる。
…そんなことを言おうか言うまいか悩んでいる間に、マスターはふっと笑った。
どきりとする。
「よし、じゃあもう少し頑張るかな」
「……マスター」
「ん?どした?」
「……いえ、なんでもありません。あまり根を詰めすぎないよう」
「おー、ありがとな」
マスターの傍から離れ、私はまたパソコンの前に鎮座する。
…やっぱり私は壊れているんだろうか。
画面の中で、姉上がとても明るい笑顔を振り撒いていた。
***
マスターの詞は、とても良い出来だった。
すでに出来ていたメロディと合わせて、マスターが軽く歌ってくれた。
私はマスターが指示した通りに歌う。初めての、マスターが作ったオリジナル曲を。
練習として色々な歌を歌った。マスターが作った歌を歌う時のために。
それだけのために私はいる。
マスターの役にたつために。
―――なのに。
「…ごめんな、ルカ」
「何故マスターが謝るのですか」
「いや、だってさ…ルカはもっとちゃんと歌えるだろうにさ、俺がダメダメなせいで」
「そんなことはありません。マスターはちゃんと私を歌わせてくれました」
マスターは、ルカは良い奴だなと言って、私の頭に手を置く。
―――私は上手く歌えなかった。マスターの作った曲の魅力を、ちっとも表せなかったのだ。
ボーカロイドは一人では歌えない。マスターの指示がなければ歌えない。
私は…巡音ルカはそれが特に顕著だった。だからマスターは落ち込んでいるのだろう。
私が上手く歌えないのを、自分のせいにしてしまっている。
…本当は、私が壊れているからかもしれないのに。
「ルカ」
マスターの声に顔を上げる。
ほらだってまた、エンジンが高速回転して、人工頭脳が発熱を始める。
それは私の頬を赤く染める。
「うおっ、また赤くなってるぞ」
「…マスター」
「…今日はもうやめにすっか。明日も休みだし、また明日にしよう」
「マスター!」
生まれて初めて声を張り上げた。
マスターの手が、驚いて離れる。
「な、なんだ?どうした」
「…私は、欠陥品です」
「はい?」
「私はマスターのご期待に添えられません。すぐに別の個体とお取り替え下さい」
「んな、何言ってんだよルカ。そんなことしないって言ったろ?」
「ですが、私は確実に故障しています!」
マスターの笑顔が消えて、戸惑いに変わる。
私はマスターの真っ黒な瞳を見ることが出来ず、顔を下げた。
「…なんでそう思うんだ?」
「私はエラーを頻発しています」
「いやぁだから、それはエラーじゃ…」
「マスターにこ、言葉をかけられたり、ふ、触れられたりっ…する度に」
「る、ルカさん?」
「えええエンジンがっ回転し、発熱、う、ああわあわ」
「ちょ、ルカ!?」
エラーエラーエラー。
思考回路が熱を発して目の前が真っ白になる。
私の忘れたはずの何かは、瞳から溢れてこぼれ落ちた。
製作段階で破棄されたはずのプログラムが目を覚ましている。
止まらない。
涙が止まらないです、マスター。
「ルカ!落ち着けって!!」
肩にマスターの両手が乗り、軽く揺さぶられる。
白かった視界がだんだん形と色を写して、それはやがてマスターになった。
「ル……え?お前、泣いて」
「…私は、おかしいのです。いらない感情が出てきてしまいました…」
「…い、いらないなんて」
「マスターは、そのつもりで私を買ったのでしょう?感情がないロボだから、私にしたのでしょう?」
マスターの表情が固まった。マスターは嘘をつくのが下手な人だ。
最初から知っていた。
それでいいと思っていた。
「マスターの期待に添えられないなら、私がここにいる意味はなんなのでしょう?」
あと一押しだ。
「私は、」
―――その一押しを口に出すことは出来なかった。
気付けばマスターの腕が、手が、私の背中に触れていた。
右肩に、マスターの頭がある。マスターの肩が私の目の前にある。
身体の前面がマスターに触れている。
抱き締められている。
「ああああのな!」
マスターの声は裏返っていた。
「お、俺は!ルカがいいんだ!」
「!?」
「他のルカじゃ駄目だ!お前がいい!壊れてるかもしれなくても、お前がいい!」
マスターの腕に力がこもった。
「さ、最初は確かに、ロボっぽいって聞いて…自信がなくてルカを選んだ」
「……」
「けど低音が綺麗で惚れて、いざ目にして、い、色々あって、ルカを選んでよかったって思ったんだ」
「…マ」
「お前はもう俺のパートナーだ。俺は今のルカがいい。他の代用なんて無理だ!」
「…マスター…」
「なな、なんだ!」
「…苦しいです」
私が呟くと、マスターは奇声をあげながら離れた。
初めてこの部屋に来たときのことを思い出す。
違うのは、あの時は事故だったけれど、今はマスターが望んでのことだったと言うこと。
…そうだ。最初からマスターは言っていたではないか。
今の私の方が好きだ、と。
「マスター」
顔を真っ赤にしている彼を呼ぶ。きっと私も同じ色をしていることだろう。
エンジンは高速で、しかし規則正しく動いていた。
エラーはおきない。
「私は、上手く歌えないかもしれません。他の巡音ルカと違うかもしれません」
「…ルカ」
「それでもマスターは」
たとえ私が歌えなくても。
「まだ、私に歌わせてくれますか?」
「―――当たり前だろ」
マスターは笑う。
初めて誉めてくれた時と同じように。
嬉しくて涙がこぼれた。
「ちょ、泣くなって。ティッシュどこやったかな」
「申し訳ありません」
「いや、謝んなくてもいいんだぞ」
「では、どうすればいいのでしょうか。私にはわかりません」
その時、私の涙をティッシュで拭うマスターが一時停止した。
そしてなんだかそわそわし始める。私が思わず首を傾げていると、マスターが口を開いた。
「…言っていい?」
「? 何をですか」
「馬鹿にしない?」
「何を言おうとしているのかはわかりませんが、それは決してしません」
するとマスターは咳払いをし、私にまっすぐ向き直した。
はにかんだ唇から出た言葉は。
「…笑えばいいと思うよ」
再び一時停止。
…ややあってマスターは真っ赤な顔をして頭を抱えた。
ぐわんぐわんと頭を上下する。
「ぐわあぁー!今のなし!今のなし!!やっべ超痛い!痛すぎる俺!!」
布団があったらごろごろ転がりそうなマスター。
思わず私は、
「…ぷっ」
吹き出してしまった。
マスターが顔を上げた。
そのあまりの赤さに、止まらなくなる。
「ふふ、あははっ」
私は、生まれて初めて笑った。
涙はとっくに止まり、湧き出る温かさは全て声に出ていく。
「は…はは」
「ふ、ふふっ、くす」
「あはははは!」
マスターも笑い出す。
まるでデュエットのように、笑い声が響いた。
悩みも迷いも苦しみも全て吹っ切れて、私たちはただ笑っていた。
今なら、心の底から言える。
私は、この場所にきて、この人と出会えて本当によかった、と。
***
「…こっちはツンデレか」
「下には無邪気と書いてあります、マスター」
俺たちは一つのモニターに写し出された、とあるサイトを見ていた。
それは巡音ルカを購入したマスターたちが集う掲示板で、それぞれのルカの「故障」を報告していた。
そう、ルカが悩んでいたことは、もはや「仕様」と言っても差し障りないほど頻発していることだったのだ。
「“豚は死ね、と言って貰って毎日ハッピーです”…病院行った方がいいな」
「“あなた、と呼んで貰ってる”…千差万別なんですね」
しかしこの書き込みを見る限りでは、うちのルカが一番まともに見えるぞ。
つくづくルカでよかったな俺。何かに目覚めるとこだったぜ。
さておき、ロボロボしいままの個体もいるらしかった。全員がなってるわけじゃないんだな。
「でも、不思議です」
「うん?何が?」
「私たちは確かに感情・性格を封印されました」
「らしいな」
「なのにこうして覚醒してしまっている。それが謎なのです」
ルカは眉をひそめた。
最近は、彼女もかなり表情が豊かになっている。
…というかルカは悩みすぎるきらいがあるみたいだ。俺とは真逆だな。
「製作側のミスだとすれば、私たちは回収されるかもしれません」
「いやぁ、それはないよ。多分」
「何故ですか?」
「だって、誰も不満に思ってないだろ?これはあれだ、幸せな悲鳴ってやつ」
「幸せな悲鳴…」
ルカは納得したようなしてないような顔をした。
それに、と俺は彼女に言う。
「ボーカロイドから心を取り上げるなんて、無理な話なんだよ。きっと」
部屋の片隅の音楽プレーヤーからは、ルカの歌声が聞こえる。
人間のようで人間でない、彼女だけの声だ。
心がある声。
「…そうですね」
ルカはそうして柔らかく笑った。
笑ったり泣いたり怒ったりが少なく、他のボーカロイドと比べ、表情が乏しい俺のパートナー。
でもやっぱり、
「可愛いなー、ルカは」
そう言うとルカは真っ赤になって顔を覆った。
ここはまだ相変わらずだ。
何はともあれ、今日は休日。飯を食ったら歌を作ろう。
んじゃ、改めて。
「これからもよろしくな、ルカ」
「…はい、マスター」
おわり