ボーカロイドは愛を知ることが出来るロボットだ、と誰かが言っていた。  
確かに、介護ロボや子守りロボなども、ものによっては愛情を理解することが出来る。  
だが、愛の種類が違うらしいのだ。  
後者が「慈愛」だとすれば、ボーカロイドは「恋愛」を理解出来るという。  
歌は今も昔も恋を語るものが多い。それゆえなのだと、―――誰かが言っていた。  
 
 
***  
 
 
「へーっくしょい!!」  
 
とある休日の夜8時、情けない声が響いた。うん、俺の声なんだけど。  
と、英語の古本を読んでいたルカがそれを聞きつけて、箱ティッシュを持ってきてくれた。  
 
「お、ありがと」  
 
ありがたく受けとると、ルカは首を傾げた。  
 
「風邪でしょうか」  
「うーんどうだろな。体温計どこやったっけか」  
「確かあちらの引出しにありました。取ってきます」  
「悪いな」  
 
いえ、と小さく言って、ルカがテレビの横にある戸棚を探り始めた。  
…それにしても風邪ひくなんて何年ぶりだ?最近寒かったからか?  
インフルエンザだったらやだなぁ、とか思ってたら、ルカがいそいそと戻ってきた。手には体温計が握られている。  
 
「サンキュ」  
「いえ。…マスター、頭痛はしますか?咳は?関節は痛みませんか?」  
「今のところないけど…ってルカ、ちょっと落ち着け。テンパりすぎだ」  
「す、すみません。…心配、で」  
 
俺の恋人は青い目を伏せて、少しだけ心配を表情に滲ませた。  
俺はちょっと笑って、彼女の頭をぽんぽんと叩いてやった。  
 
「はは、大げさだなー」  
「…風邪はこじらせたら危険ですから。それにインフルエンザだったら…」  
「うぐ、まあそれが一番怖いな」  
 
いくら連休とはいえ、さすがにインフルエンザは怖い。最近ヤバいよね。  
そんなこんなしてるうちに、ピピッと電子音がした。脇の下から引っ張り出した体温計の画面には、  
 
「37.3℃…微妙だな」  
「ですが、今日はもう休まれた方がいいと思います」  
「ちぇ、曲合わせしようと思ったのに」  
 
思わず唇を尖らせると、ルカがちょっとだけ微笑んで俺の手から体温計を取り上げた。  
 
「また今度にしましょう」  
 
…な、なんだ、ナース服の幻影が見えた気がしたぞ。  
熱のせいだと思うことにした。素面でナース服妄想はちょっと危ない。  
 
「…と、とりあえず、風呂入って寝るか」  
「? 発熱時は入浴を控えた方がよいのでは」  
「でも昨日入らないで寝ちゃっただろ」  
 
そう、昨日。  
明日休みだいやっほー、と調子に乗ってネサフしていて、気が付けばモニターの前でおはよっ!だったのだ。  
したがって風呂には入っていない。…あれ?今何気に風邪の原因が見えた気がしたぞ?  
と、ルカは少し考え込んだあと、すっと立ち上がった。  
 
「…それなら、沸かしてきます」  
「え?いやいいよ俺が、」  
「いいえ、マスターは安静にしていなければなりません」  
 
鋭い眼光。強い言葉尻。優しいだけがナースさんじゃありません。  
蛇に睨まれた蛙のように縮こまって、俺は頷いた。  
 
「…はい」  
 
ルカはうやうやしく頭を下げると、風呂場の方にすたすたと歩いていった。  
…まあ、風呂くらい沸かせるよな。料理だって作れるんだし。  
お言葉に甘えるとしますか。ということでさっそくソファにダイビング…っと、うん?  
背中からソファに飛び込むと、違和感があった。というか何か背中で踏んづけた。  
何かと思ったら、それは英語の本。さっきルカが読んでたやつだ。  
実はこれ、俺が自分で読むために買ったものである。  
ルカに歌って貰うからには、英語の歌詞もいれたいと思い、勉強のため古本屋で買ってきた。  
…で、どうだったかと言うと、うん、まあ俺日本人だしね。英語出来なくたって生きていける!  
いきなり洋書はハードル高かったな…ということで、ルカにお下がりになったわけだ。  
適当に買ってきたから中身はわからなかったけど、どうやら恋愛小説だったらしく、ルカは楽しんで読んでいる。  
栞は半分以上過ぎたところに挟まれていた。読むの早いな。  
試しにペラペラめくるが全くわからん。笑えるくらいわからん。  
…そんな俺の手が、見たことのある単語を見つけて、ピタリと止まった。  
 
「……なんだっけ?これ」  
 
確かに見覚えがある。なんだっけ。なんか思い出したいような、そうでない…よう…な……  
 
「!!!」  
 
ばっちん、と思い切り本を閉じてしまった。  
風呂場からは水音がする。おそらく湯船を洗っているんだろう。ルカは出てこない。  
もう一度そのページを探す。栞よりだいぶ後ろの、ルカがまだ読んでないだろう箇所だ。  
率直に言うと、その単語は…エロいやつだった。しかも一つ二つじゃない、一ページに五つはある。  
で、何で俺がそんな単語を知っているのかと言うと。  
…誰だってあると思う。エロい単語を調べまくる時期ってやつが。そう信じたい。  
苦手なりに読んでみると、そのページは明らかに濡れ場だった。  
恋愛のちに濡れ場か。王道っちゃ王道だけどな…  
俺は本を閉じ、ソファの下に置いた。別にこれくらいで興奮したりなんかしないさハハッ。  
…ただ問題なのは、ルカがこれを読んでるってことだ。まだ濡れ場に突入してはいないが。  
 
……ルカは、どう思ってるんだろうな。そもそもボーカロイドって、そ、そういうこと出来るのか。  
うあああ読むんじゃなかったちくしょう良からぬ想像しちゃうだろおおおおおおおお!  
俺だって男だもの!ルカは恋人だもの!そういうこと考えないはずがない!  
けど率直に「ルカとくんずほぐれつしたい」とか言えるわけないだろ!  
ソファの上で悶えること数秒間。突然ルカの声がした。  
 
「マスター」  
「ひゃいっ!」  
「…?どうしたのですか」  
「い、いや、なんも」  
「熱があるのですから、運動してはいけません」  
 
運動とはちょっと違うぜマイハニー。  
とそんな阿呆なことを思っていたら、ルカが膝をついた。  
 
「お風呂が沸きました。長湯はしないでくださいね」  
 
ひやりとした手が俺の額に触れる。気持ちいい。邪なことを考えた自分が史上最大のアホに思えてくる。  
ルカと目が合った。風呂場の蒸気のせいか、髪が大人しい。  
 
「…マスター」  
 
ルカの頬が桜色に染まった。  
…いつものパターンだ。俺はルカの肩に手を乗せて引き寄せると、その唇にキスをした。  
あっさりとしたキス。脳裏にディープだのフレンチだの単語がよぎったが無視する。  
唇を離すと、ルカが嬉しそうにはにかむ。うぅ、涙が出るほど可愛い。  
 
「…じゃ、入ってくるわ」  
「はい」  
 
去り際にルカの頭を撫でた。  
…あんな顔されたら、今のままでいいとか思っちゃうよなぁ。  
 
 
***  
 
 
マスターがお風呂場に向かったのを見送ってから、そっと唇をなぞった。  
初めてのキスの時は卒倒してしまったけれど、今では逆に癖になってしまっている。  
あんまり求めすぎるとマスターが嫌がるかもしれない、と我慢した時期もあった。  
が、最近ではマスターからしてくることも少なくなかった。だから殆ど遠慮はなくなっている。  
 
幸せだ。とても。  
 
私はしばらく余韻に浸っていたが、やがて我に返った。  
お風呂を出たマスターがすぐに眠れるようにしておかなければ。  
いつも卒倒した私を介抱してくれていたのはマスターだ。こういう時くらい私がマスターを支えなくては。  
ということで、ベッドに向かった。替えのシーツを引き、毛布を整える。枕の位置も直す。  
体温計を枕元に置いておいた方がいいだろうか。…どこにやったのだったか。  
あたりを見回す。確か、その辺に置いたはず。  
 
「あった」  
 
小テーブルに置いてある体温計を手に―――取った瞬間、つるりと体温計が逃げた。  
体温計はフローリングで弾み、軽い音をたてて、あろうことかベッドの下に滑り込んでしまった。  
 
「あ…ああ」  
 
ベッドの傍に座り込み、下を覗く。が、暗くてよく見えない。  
…しょうがない、手探りだ。床にぺたりと寝そべって手を伸ばすと、すぐに何かに当たった。  
体温計…ではない気がする。本?ベッドの下に本がある。  
ベッド下の本…どこかで聞いたなと思いつつ、一思いに引っぱり出した。  
 
「…………き」  
 
悲鳴をあげそうになったけれど、なんとかこらえた。  
引っぱり出した本は肌色だったのだ。肌色がいっぱいだ。一面肌色だ。  
これが俗に言う、え、え、えええエロ本?  
表紙には悩ましい顔をした女性がいい、い、いやらしい下着を着けて座っている。  
たたた確かにマスターは男性だし、こういうのを持ってない方がおかしい。そう。これは健全な証拠なのだ。  
とはいえ私はしばらく硬直していた。本に付着した埃がふわりと飛ぶ。  
…シャワーの音。マスターはまだ出てこない。  
……興味とか、そういうのじゃない。ただマスターの女性の好みが知りたい。  
決して、そそ、そういうことに興味があるわけじゃない。私はロボットなんだから。  
 
「……う」  
 
顔が熱い。エンジンはとっくにフルスロットルだ。  
震える指でページをめくる。落ち着いて。落ち着いてルカ。  
…みんな、胸が大きい。私より大きい…ああっ、足をこんなに開いて…こんな…!  
…落ち着いて。違う。顔を見るんだ。マスターの好みは、こ、恋人として知っておかなければ。  
ええと…髪はまちまちだ。胸はやっぱり大きい人が多い……あ、ここ袋綴じ?  
 
「……あいてる」  
 
………。  
袋綴じということは、もっと過激なのだろうか…?あ、駄目、頭が熱い。  
でもあいてると言うことは、マスターは見たということだ。  
マスターは…開けた。この先を見た…。  
 
「……ちょ、ちょっとだけ…」  
 
私は一応二十歳なのだし、見ても問題はないはずだ。唯一の問題は、耐えられるかどうか。  
エンジンが鼓動する。ドクンドクンという音がうるさい。  
…よし、一気に―――  
 
「ルカー」  
「きゃあああああああああああ!!」  
「!? おいっ、ちょっ、どうした!?」  
 
慌てて振り返るがマスターはいない。声はお風呂場からだった。  
 
…び、びっくりした……シャットダウンするかと思った…  
 
「どうしたルカ!まさかエラーか!?」  
「ち、違います!だだ、大丈夫です、マスター」  
「でも悲鳴…」  
「ご、ゴ●ブリがいたような気がしただけですから…!それより、マスターこそどうかしましたか?」  
「え…ええとな、バスタオル忘れたから持ってきて欲しいんだけど…」  
 
しまった、私としたことが置くのを忘れていた。  
本をベッドの下に戻し(ぐしゃっと音がしたが気のせいだろう)、バスタオルを持ってマスターのところへ急ぐ。  
お風呂場の手前には洗面所兼脱衣場があり、リビングとそこはカーテンで区切られている。  
ブルーのカーテンからマスターの手が出ていた。その肌色に、さっきの本がフラッシュバックしてしまう。  
 
「ルカ?」  
「あ…す、すみません、マスター」  
 
カーテンを一枚隔てて、…は、裸のマスターがいる。  
今までは、こんなことは考えなかったのに。一体どうしたことだろう。本当にエラーかもしれない。  
バスタオルを受け取ったマスターの手がカーテンの向こうへ消えた。  
 
「サンキュー、ルカ」  
 
屈託のないマスターの声。  
…私は、自分を恥じた。なんて嫌なことを考えてしまったのか。  
マスターのプライバシーを侵害するような真似をして。マスターはこんなに優しいのに。  
 
「ごめんなさい…」  
「ん?なんか言ったか?」  
 
カーテンを掴み、目を閉じる。  
私は正直に言うべきだろうか?口に出して謝るべきだろうか?  
 
―――と、その時。  
 
ぶち、という音がして、急に身体が支えを失った。カーテンの金具が壊れたのだ。  
当然前のめりになる。石鹸の香りが私を包む。  
衝撃に閉じていた目を開けたら、そこには。  
 
「…うわっああああああああああ!!」  
 
ワンテンポずれて慌てふためくマスターの声。裸体。  
生まれて初めて見る男性の――――――  
 
 
そして私は意識を失った。  
マスターが私を呼んだ、気がした。  
 
 
 
 
つづく  
 

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