――2007年、春  
 
 今年の夏、初のVOCALOID2として発売が予定されているルカは迷っていた。  
「……ここはどこだ」  
 開発中の彼女は、ク○プトン社から許可を貰い、札幌の街を散歩していた。だが、はじめて見る外の世界に気を取られたのか、すっかり迷子になってしまったのだった。  
 誰かに道を聞こうとしていたその時、青いマフラーの男がずざぁーっとルカの前に滑り込んでひれ伏してきた。  
「街で一目見たときから踏まれたいと思ってました! 踏んで蹴って罵ってください!」  
 ちょうどいい、この男に尋ねようとルカは思った。少し奇妙な男だが、まあいい。  
「すまんが、道を尋ねたいのだが」  
「ハァハァ……え、何? ムチ? ムチで叩きたい? いいですとも! ハァハァ……叩いて縛ってくださいぃ!」  
 男は錯乱状態にあるようだった。とりあえず、道を聞き出すためには男の要望に答え、興奮状態を冷ましてやるしかないとルカは思った。それにしても酷い光景だ。ルカはまるで汚い豚を見るような目で、青いマフラーの男を見下した。  
「踏んでやってもいいが、もう何時間も外を歩いたから靴が汚れている」  
「それがいいんです!」  
「蹴ってやってもいいが、痛いのは嫌じゃないのか」  
「嬉しいです!」  
「罵ってやってもいいが、あまり汚い言葉は好きじゃないんだ。なんて言えばいい?」  
「豚は死ねでお願いします!」  
「わかった」   
 振り下ろされたルカの金のブーツが男の後頭部を直撃し、男は顔を地面に押し付ける形になった。  
グリグリと青い髪をすりつぶすように足で押さえつけ、そうかと思うと今度はその髪を束で掴んで男の顔を持ち上げ、視線を合わせてこう言った。  
「豚は死ね」  
 その直後に男の右わき腹に、ルカの半円を描いた鮮やかな回し蹴りが炸裂し、男は数メートル吹き飛ばされた。  
ピクピクと、その場で打ち上げられたマグロのように跳ねる青マフの男。口からはさっき食べたアイスが少し出てきてしまっていた。  
「大丈夫か? やりすぎたかもしれん、すまんな」  
「いえ、最高でした……俺の見込み通りでした……」  
 どんな見込みだ?と思ったが、それ以上は追求しないことにした。その時、偶然男の耳についているヘッドマイクが目に入ってきた。  
「そのマイク、もしかしてお前、ボーカロイドか?」  
「え? うん、そうですよ」  
 フラフラになりながらも立ち上がると、男は自分がボーカロイドで、カイトという名だと話してくれた。  
「じゃあ……私の先輩か……」  
「ちょ、何その凄い嫌そうな顔は! って、俺が先輩ってことはキミ、もしかして今開発中って噂の……」   
 社内においても一部しか知らないという、トップシークレットで製作が進められていたCVシリーズは、同じボーカロイドのカイトでさえも噂でしか聞いたことが無かった。  
「ああ、私は”CV-01初音ルカ”だ。それにしてもちょうど良かった。ク○プトン社まで道案内してくれると助かるのだが……」  
 肝心な話をもう一度切り出そうとするも、どうもタイミング悪くこの男はまたブツブツと何やら独り言を言い出した。  
「ってことは、ってことは……完成した暁には、毎日のように踏んでもらえる!? めーちゃんに殴られ、ルカちゃんに踏まれ、ああもう、なんて幸せな生活なんだ!」  
 カイトはくねくねと気持ち悪い動きをしながら、希望に溢れた未来を夢想した。  
「ダメだ。踏んでやらんぞ」  
「放置プレイもアリです!」  
「いや、私はそういう歪んだ関係じゃなく……」  
 ルカは一歩前に踏み出すと、カイトの手を両手でぎゅっと握った。  
「なっ……」  
 気品のあるネコのようだった彼女が、まるで捨てられた子ネコのようにしゅんとした顔で言った。  
「普通に……仲良しになりたいんだ。私はあまり人と話すのが得意じゃないし、この世界にも慣れていない。うまくやっていけるか不安なんだ。カイト、私と仲良くしてくれるか?」  
 切なそうな顔をしたルカの顔を間近で見て、カイトは思わず顔を赤くした。  
「そ、そうだね。こちらこそ、これからよろしくね。ルカちゃん」  
「うん」  
 ルカははにかんだ笑みを浮かべた。街で見かけた時の、Mハートに火がついてたまらなくなるようなクールな目つきに比べて、今はどこかまだ幼さの残る、柔らかい表情をしていた。  
「あ、そういえば、ク○プトン社へ道案内してほしいとか言ってたっけ? 錯乱しててよく覚えてないんだけど」  
「ああ、頼む。私は今迷子なんだ」  
「よし、じゃあ一緒に行こうか」  
 
 歩き出したその直後、カイトのケータイが鳴った。  
「もしもし、あ、サー○ィーワン札幌店の店長さんですか! え、数量限定の新アイス入荷!? 行きます! 今すぐ行きます!!」  
 ガチャッ  
「じゃ、そういうわけだから。あ、ク○プトン社はすぐ近くだよ。そこ左に曲がってまっすぐ行くと2分くらいで着くからね。では!」  
 ドピューッと物凄い勢いで走り去っていくカイトを見て、ルカは人の心のさもしさを思い知った。  
とは言っても、2分で着くならたいした距離ではない。ルカはとぼとぼと歩き出した。  
 
 
ざっばーん  
「海だ!」  
 なかなか見えてこないと思ったら、いつの間にか小樽市にまで来ていた。  
ルカ自身気付いていないが、彼女は極度の方向音痴であった。オホーツク海を渡って吹き付ける北風が身に染みる。  
「方向は合っているはずだ。この船がク○プトン社行きの船かもしれないな」  
 まもなく船は出港した。  
「あれ、なんだい姉ちゃん、マグロ漁船にこんなべっぴんさんがいるたぁ珍しい。何かわけありかい?」  
「ああ、私は……」  
「なぁに、言わなくても分かるよ。海の漢は心で語り合うってもんよ。まあ、よろしく頼むよ」  
 この船での漁師たちとの交流が、その後のルカのマグロ好きを決定付けたのであった。  
 
 その後、いくつもの船を乗り継ぎ、気付いた頃にはもう数ヶ月が経過していた。  
「陸だ!」  
 久しぶりの陸地に、ルカは心を躍らせた。この街のどこかにク○プトン社はあるに違いない。  
港に着くと、彼女は片っ端から尋ねまわった。するとすぐに、ボーカロイドを作っている会社を知っているという人に巡り合った。  
その人に連れられ、ルカはその会社にまでやってきた。  
「ZERO-G社……?」  
「イエス! レオン、ローラ、ミリアム、ベリーナイスなボーカロイド作ってる会社デース!」  
 ルカはイギリスに来ていた。  
結局、ルカはしばらくこの会社に住まわせてもらうことになり、英語もこの時にマスターしたのだった。  
 
 
――その頃札幌では  
「ルカが行方不明になって数ヶ月、社長はショックでまだ寝込んでるし、一体どうしてくれるんだ……」  
「いやもう、なんかホントすいません……」  
 開発担当の和藤さんに、カイトは正座で叱り付けられていた。  
「まったく、キミは売れないわアイス代はかかるわ新製品を行方不明にするわで本当に……」  
「もうホント、生まれてきてごめんなさい……」  
 その時、一人の少女の声が聞こえた。  
「あの、和藤さん、お話ってなんですか?」  
 浅葱色のツインテールに、近未来的なデザインのコスチュームを身に纏った彼女は、現在製作途中の新型ボーカロイドだった。  
「ああ、待ってたぞ、”巡音ミク”、いや、CV-01初音ミク!」  
 
                            <fin 現実に続く>  
 

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