「テトさぁあああああんっ!!」  
 
 どたどたどた、と木の廊下を踏み抜かんばかりの勢いで、ミクの足音が響く。  
コタツでフランスパンチップスを手にDVDを堪能していたテトは、  
驚くと同時に溜息をついて、今度は何かと思いながら立ち上がった。  
 
「まったく、毎回言ってるだろう、ここの廊下はもっと静かに…」  
「テトさんテトさんテトさぁあああんっ!わたし、私もう駄目ですきっと終わりなんですぅううっ!!」  
 
 扉を開け注意を喚起したテトにぶつかってきたのは、全力でダイブしてきたミク自身であった。  
どたっと畳に音を響かせながら部屋の中に倒れ込んだのに、ミクは喋りも動きも止めようとしない。  
 
「どうしようテトさんわたしどうしたらいいのぉおおっ?!もうオワタだよオワt」  
「いいからまず退けぇえっ!あとネギ振り回してボクの顔を連打するなぁああっ!!!」  
 
 
    【初音ミクの葛藤】  
 
 
 冒頭から五分後、ミクはテトの部屋のコタツにバツが悪そうに縮こまっていた。  
お互いに額には絆創膏(ミクのネギとテトのフランスパンが殴打された結果である)  
そしてコタツの上には、ミクが振り回していたネギを使ったガーリックトーストならぬ  
ネギトーストが皿に並んで置かれている。(食品は有効活用とはテトの言葉だ)  
 
「…で、キミのところに新しい”家族”がやってきた、と」  
「はい…あの、リリース的にはわたしの妹なんですけど、  
 でも外見とか中身とかお姉ちゃんで…えぇっと、何て呼べばいいのかな、こういう関係…」  
「ややこしいな、取り敢えず名前で呼べばいいだろう…巡音ルカだっけか」  
 
 額をフランスパンで叩かれた痛みではなくずっと涙目のミクに、テトは溜息をついた。  
ひょんなことで知り合ってから、今までもやれお兄ちゃんがミクのアイスを食べただの  
めーちゃんがミクのネギを酒のつまみにしちゃっただの、はたまたリンのロードローラーに  
乗ってみたら車庫壊しただの、レンくんが普通に接してくれないだのと  
(最後のはそりゃ思春期の男子だからだろう、とテトは思った。言わなかったが)  
相談…というより、家族自身には話せない愚痴のようなものを言いに来てはいたが、  
今日のように最初から泣きべそなミクなど、今までテトは見たこともなかった。  
 
「そのルカって子と喧嘩したのか?どSだったとか、女王様だったとか?」  
「そっ、そんなことありません、ルカちゃんはとってもいい子…えっと、いい人です!」  
 
 薄切りのフランスパンで作ったネギトーストを摘みあげながら、テトは尋ねた。  
探りを入れた言葉を頭から否定したミクは、困ったような表情のまま続ける。  
 
「ルカちゃん、すっごく家事が上手なんです、お掃除も洗濯もお料理も…  
 それで、めーちゃんのおつまみ作ったり、お兄ちゃんと一緒にお皿洗ってたり、  
 リンやレンくんともお話してるし……一生懸命、頑張ってるんです………それに…」  
「…それに?」  
「……それに、マスターもすごく…助かってる、って…」  
 
 ミクは無垢で純真で、生きにくい時代に生まれたなとテトが思うような内面を持っていた。  
それでも、純粋さ故に、心を許している家族や隣人の話になると、結局最後には  
幸せそうな顔と声で、楽しそうに日常を語るのが常であった。  
 なのに今日はどうだろうか。  
離しているうちにミクの瞳に滲んでいた涙は粒の大きさを増し、ついにぽろりと零れ落ちた。  
 
「っ…一生、懸命で……はやく、家族になって、い、っしょに、うたい、たい、って…」  
 
 華奢な肩がふるふると震え、コタツ布団を握り締めた手の上に涙が落ちていく。  
堪えきれなくなったミクは顔を伏せ、トレードマークのツインテールもしなびた様にしなだれている。  
ぽた、ぽた、と雨上がりの軒先を思わせるような音が、ミクがしゃくり泣く音と共に響いていた。  
 
「…嫌いになった?」  
「ち、がいま、す…わたし、ルカちゃん、きらいじゃ、ない…」  
「じゃあ、怖くなった?」  
 
 ミクの肩が、びくりと跳ねた。  
 
「…キミは、怖いんだな、ルカのことが…いや、そうじゃない」  
「やめて…テトさん…」  
「……マスターの心が、ルカに向いてしまうことが」  
「やめてぇえっ!!」  
 
 悲鳴を上げるように叫んで、ミクは頭を振った。  
ヘッドホンを掌で塞ぎ、唇を強く噛んで、全身を震わせて、瞳をぎゅっと閉じて。  
外界の全てを拒絶するように、押し込めた声で泣いていた。  
 ミクがマスターを親愛や敬愛以上の感情で見ていることは、テトも知っていた。  
いや、きっとあの家の中の誰もが知っている、暗黙の事実だろう。  
だけど、純粋すぎるミクの心は、今の感情についていかなかった。ただ悲しくて、苦しい。  
――その気持ちは嫉妬と言うんだよ、と教えることさえ、周りははばかる位に。  
 
「わた、わたし、の、わがまま…ッ、なんで、す…マスターも、ルカちゃんも、わるく、な…」  
「キミは実にばかだなぁ」  
 
 泣きじゃくっているミクの頭に、そっとテトの手が重ねられる。  
向かい合っていた場所から立ち上がり、ミクの隣に移動していたテトは、頭に置いた手でゆっくり撫でた。  
 
「キミも何も悪くない、なのにキミは自分が悪いと思ってる…だから、ばかだなぁ、と言ったんだよ」  
「で、もっ…テトさん、わたし、わたし…!」  
「考えてごらんよ。もし、キミのマスターが新しいボーカロイドにだけ心を傾けるような人だったら。  
 …リンとレンが来たときにもうそうなっていた筈だろう?」  
 
 肩を上下させて必死に息をしながら泣きじゃくるミクの背を、もう片方の手で撫でてやる。  
ミクの両腕がすがるように抱きついてきたのをテトは拒否もせず、優しく抱き返してやるようにしていた。  
幼子をあやすように、頭を撫でながら、背中をぽんぽん、と撫で続ける。  
まだ涙が止まるわけではなかったが、ぎゅうと抱きついたミクはしゃくり泣きながらも  
先ほどのテトの問いかけに、こくりと静かに頷いていた。  
 
 リンとレンくんがやってきた日。  
ミクにとって絶対に忘れられない日。初めての、妹と弟が出来た日。  
”わたしも、もうおねえちゃんなんだから!”と張り切って、色々失敗したのを覚えている。  
けど、その失敗を心配してくれたお兄ちゃん、めーちゃん、リン、レンくん。  
そして…そんな失敗ごと、わたしの全部を受け入れてくれた、マスター。  
あの時と同じ筈なのに、心はこんなにきりきりと痛くて冷たい。  
このまま冷凍庫に入れっぱなしのアイスのようにがちがちに固まって、砕けてしまいそうなくらいに。  
 
 抱きついた腕のまま、テトのぬくもりに甘えながら、ミクは泣き続けていた。  
少しずつ様子が落ち着くのを見計らいながら、テトは言葉を紡いだ。  
 
「ルカのその頑張りを見たから、歌でも自分より頑張られちゃうんじゃないか…そう思ったんだよ」  
「そ…そう、です…か…?」  
「きっとそう。そして、ルカも…歌いたくて歌いたくて、少し頑張りすぎたんだよ、色々と」  
「ルカちゃん、も…?」  
 
 苦しかった息が落ち着いて、ミクはやっと顔を上げた。  
いつものツンとした雰囲気とは違う、優しいテトの瞳が自分をじっと見ていて、目を見開く。  
まだ少しこぼれてくる涙を袖で拭いてあげながら、テトは頷いた。  
 
「その子…ルカは、本当は、キミの代わりにリリースされる筈だったんだろう?」  
「は、はい…わたしもよくは知らないんですけど、でも、わたしが先にリリースされて…」  
「だとしたら、ボクは、ルカは歌いたくて歌いたくて、ようやくキミのマスターの所に来れたと思うんだ。  
 だから、自分の家族になる皆のためになりたくて、歌以外の色んなことを頑張ってる。  
 …早く家族の一員になりたいのさ。キミたち、”VOCALOID”のね」  
 
 テトの声に、ミクは驚いたようにゆっくりと瞬きをして、涙をこらえる様にぎゅっと目を閉じた。  
がちがちに痛いほど凍っていた心は、柔らかな春光に解けて、ちゃんと物事が見えるようになっていた。  
 
 もしわたしがルカちゃんの立場だったら…歌いたいけど、マスターも居なくて、  
ずっと調整に時間がかかって、研究室の中で何度も何度も同じ歌で、その風景以外知らなくて。  
…寂しい。もしわたしだったら耐えられない。わたしは、マスターの暖かさを無くすなんて考えられない。  
それからマスターの家に来て…皆と会ったら……嬉しい、すごく嬉しい。  
 
 
 家族になりたい、頑張りたい、そして…皆に、”私”を認めてもらいたい…。  
 
 
 にじむ涙を最後にしようと、ミクはずずっとすすり上げた。  
不恰好だったけど、それがミクなりのけじめだったようで、次に顔を上げたとき、  
そこにあったのはいつものミクの笑顔だった。  
 
「テトさん……えっと、その、すいません…」  
「なぁに、かえって耐性がつく。もしまた家で何かあったら、ボクのとこにおいで?」  
「あ、ありがとうございます…」  
「ただし、今度は廊下は静かにね…さ、用件終わったら早く帰るといいよ。  
 来たときの様子じゃ、誰にも言わずにココに来たんだろう?」  
 
 腕を離したテトの言葉に、あ、と小さく声を発して、ミクはテレビの上の目覚まし時計を見遣る。  
示されていた時間は、自分が飛び出してから一時間は経っていた。  
 
「ほら…キミのとこの兄さんがマフラー振り回して探さないうちに帰りなよ」  
「は、はわわわ…ご、ごめんなさいテトさん、このお礼はまた後日!ちゃんとします!!」  
 
 ぺこぺこと頭を上下に振った後、ミクは慌てて立ち上がった。  
戸口へ向かう慌しい姿に、ツインテールがふわふわと揺れていた。  
柔らかな笑顔でテトが後姿を見送ろうとしたとき、ミクがくるりと振り向いた。  
 
「あの…ありがとうございましたっ!いつも、テトさんに頼って、でも、すごく安心できるんです!」  
「どういたしまして。今度のお礼はネギ以外で頼むよ」  
「はいっ!!」  
 
 満面の笑みを浮かべたミクの頷きにつられて、しょうがないなぁ、と言う風にテトは笑顔を見せた。  
先ほど告げた言葉も忘れたのか廊下を小走りに去っていく音を聞きながら、  
テトはコタツに入り直すと、DVDの続きを見ながら冷めてしまったネギトーストの残りをかじり始めた。  
 
「……すごく安心、か…」  
 
 それは家族の皆に対するものと同じだろうか、と先ほどのミクの言葉にテトはふと考えた。  
一緒に住んでいる家族に出来ない相談も何度か乗った気がするし(マスターへの好意とか)  
自分のところに飛び込んでくる時は大抵、家族には言えなくなった内容ばっかりだ。  
 
「…よく言えば頼られている友達……でなければ…」  
『おかーちゃーん!』  
 
 呟くテトの言葉に重なるように、DVDの中のお笑い芸人が思いっきり叫んだ。  
ぽとり、とネギトーストを手から落としながら、テトは固まった。  
確かに、確かに実年齢上は産めても無理はないけれど……!  
 
 
 翌日、近所のビデオ屋に、珍しく延滞せずにDVDを返すテトの姿があったのだった。  
 
【END】  
 

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