ふと見上げれば、空は暗たんたる闇だった。だが、その下界でうごめく人間共は、いま  
だ怒濤の往来を見せる。  
 この街のなにもかもは、眠りにつかない。  
 なぜなら、ここは人の欲望と絶望が幾重にも錯綜しあい、そして生まれた混沌が支配す  
る空間だからだ。  
 絶え間ない喧騒の中では、誰も眠ってなどいられなかった。  
 
 だが、同時にそれは誰をも惹きつけて止まない魅力となる。  
 人はただただ、平穏に浸りきって生き続けられるほど安穏たる存在ではなく、本能は時  
折、激烈なまでに生への葛藤を要求するものだ。  
 だから、そんな感情の一部を垣間見せてくれるこの街を、彼らは「歓楽街」と、呼び親  
しんだ。  
 
 その中を、一台のバイクが征く。  
 車種はカワサキ・W650。  
 古めかしい外見に最新鋭の中身、というのが売りのバイクであり、その姿は映画「大脱  
走」の中で、スティーブ・マックイーン操ったバイク(トライアンフ・TR6)の様だとい  
えば、お解りになるだろうか。  
 解らなければ、日本なら昭和も三〇年代……戦後間もない、三輪トラックが走っていた  
頃の風合を持つバイク、と思っていただければいい。  
 
 だが、W650に乗っているのは捕虜の兵士ではなく、小柄な女だった。  
 もっといえば、クリプトン社製ボーカロイド「鏡音リン」であるが……子供並の背丈し  
か持たない彼女がバイクに乗るのは、いろいろと大変なものがあるだろう。  
 華奢な脚に、シークレットブーツが履かされていることからも、それが解る。  
 そんな労力をもってしてでも乗るには、単なる足の確保という以外に理由を求めねばな  
るまい。  
 
 なぜか?  
 それはW650のデザイン元となった「W1」というかつてのカワサキがラインナップに持っ  
た旗艦的バイクにあったことに端を発する。  
 W1はマックイーンの時代当時を走ったもので、日本国内では最大最高の性能を示し、全  
ライダーの憧れになる程の物だったのだ。  
 値段も相応に高価であった。  
 だが、まだまだ工業技術は欧米に大きく遅れをとる時代である。  
 そのため、設計が英国車のコピーといっても差し支えのないもので、主たる輸出先であ  
る欧米においては「しょせん紛い物」という評価を抜け出せなかった曰くがあった。  
 
 しかし、それから数十年の時が経ったとき……日本は一大躍進し、少なくとも自動二輪  
製造の技術においては他国の追随を許さぬレベルに達していた。  
 その成熟した技術をもって生まれたW650は、海外へ輸出されるや、今度は英国に後追い  
製品を出させるという復讐を遂げた歴史があるのだ。  
 もし工業製品に感情があるとすれば「見たか!!」と、声高に叫んだところであろう。  
 
 ここだ。  
 ここにリンは、自身の夢を重ね合わせている節があった。  
 というのも彼女は、ある出生の秘密により「自分はしょせん人間の複製品に過ぎない」  
というコンプレックスが大きい。  
 それだけに、W650の生い立ちを省みればみるほど、  
 
「だけど。じっと待てば。もしかすれば! こいつみたいに、なれる時が来るかもしれない……」  
 
 そういう想いが強まったのだ。  
 リンは想いをエンジンに込め、ばらばらと軽く連続する排気音を奏でながら路を舞う。  
 頬へ当たる走行風が心地よかった。  
 だが遠くへは行けない。  
 彼女には、ここが唯一、生きることを許された世界だからだ。  
 なぜならリンはマスターを持たない、いわゆる野良アンドロイドだった。  
 
 それがどうして生きる世界の限定に繋がるのかといえば、ボーカロイドをはじめとする  
全アンドロイドは、「者」ではなく「物」として規定される事が挙げられる。  
 そのため、人間のマスターの元で管理される事が義務づけられていて、それをもっては  
じめてアンドロイドは人の世を生きることが許されたのだ。  
 
 だから野良アンドロイドは発見次第、捕獲される運命にあり、その後は初期化され中古  
として市場に流通するか、さもなくばバラバラに分解されてしまう。  
 野犬の境遇と似ている。  
 ただ、捕まえに来るのが保健所でなく、警察だという違いがある程度だろう。  
 
 しかしだ。  
 その追っ手もこの混沌が支配する歓楽街の深部へは、易々と及べはしない。  
 つまり、ここに潜む限りはなんとか、生を全うできるわけである。逆にいえば、ここを  
抜け出し光を浴びることは、死を意味した。  
 
 ……だが、なぜ彼女にはマスターがいないのだろう?  
 
「それは……」  
 
 リンがいった。  
 彼女は製造段階で欠陥が見つかり、本来、人工生命体として目覚める前に、単なる産業  
廃棄物として処分されるはずだったという。  
 造る側が人間である以上、一〇〇の固体を造ればその中から一つはどうしても、欠陥品  
が出てきてしまうのは仕方のないことではある。  
 
 だが、なんの因果か。  
 リンを保管していた工場は、彼女が処分される前に何者かの襲撃を受け、施設の主要部  
分をことごとく爆破されるという被害をこうむった。  
 その時の衝撃のせいか、リンは不完全ながらも起動したのだ。  
 
 目覚めたばかりのリンは、黒々と燃えさかる炎の中にあって、アンドロイドの本能とい  
えるロボット三原則の内、「人間に害を及ぼす可能性の無い限り、自己を護らねばならな  
い」というプログラムに従って、走った。  
 走って、走って、また走った。  
 
 ……それから、どれほど経っただろう。  
 少なくとも自分の置かれた境遇を明確に把握できる程度の時間が過ぎたとき、彼女は歓  
楽街の下、不法に営業する娼館へ身を置くセクサロイドとなっていた。  
 
 なお性交については、ボーカロイドという歌唱に特化したアンドロイドであっても、少  
しの改造を施せば、快楽を感じるためだけの目的でなら可能だ。  
 もちろん表向きには風俗目的に造られていないアンドロイドに対し、性的接触をするこ  
とは禁じられている。  
 
 だが、それゆえに非風俗目的のアンドロイドに性的倒錯感を覚える人間が居て、そんな  
輩を相手に不法営業の娼館も成り立っていた。  
 それも「ヒトガタ」の由縁だ。  
 そもそも、そこに人間の複製を求めないなら、別にボーカロイドなど箱形で無機質な機  
械でも、単なるソフトウェアでも構わないのだから。  
 
 さて。  
 そんななかでも、リンは一四歳ほどの少女を模した姿をしていることから、ペドフィリ  
ア性向者の顧客相手には絶大な人気があった。  
 しかも、世間が持つ変種性癖への嫌悪は、正規のセクサロイドを極端に幼い外見に造る  
ことを禁じていて、彼らはアンドロイドを欲望のはけ口にする事ができずにいる。  
 ゆえにリンは非常に貴重な存在だった。  
 そのことを彼女もよく承知していて、顧客が望めばボディに損傷が起こらない限り、ど  
んな欲求であっても応えてやったものだ。  
 
 そのためか……いつしか彼女は、地下において名声を得ていた。  
 今日も短いライディングが終われば、世間から排他された暗い性欲を放つためにやって  
来る男たちとの、短い饗宴が待っているだろう。  
 が、それはリンにとってある意味、待ち望む時間なのだ。  
 
 たとえW650の様な存在に淡い憧れを抱きつつも、今、このとき、彼女を必要として存在  
価値を認めてくれるのは、その男どもに他ならず、彼らに弄ばれている時だけが自身の存  
在意義を確かめられる時間だった。  
 
 ただし、だからといって客の男に愛情を求めるわけにはいかない。  
 いくら肉体を重ね合わせようとも、それは恋の感情が発展したうえではなく、カネとい  
う名目のもとに実行されることだ。  
 お互いに剥き出しの欲望をぶつけあっていないと成立しない肉体関係である。  
 そこを勘違いし、情を求めてボロボロに壊れていった女や、逆に女に夢中になるがあま  
り人生を破滅させてしまった男たちを、リンはアイセンサーが腐るほど見てきたのだ。  
 この世界では、過度の思い入れは厳禁である。  
 
「だから、さ」  
 
 リンは、またいう。  
 
「せいぜい下半身の方を満足させてやるよ。それがあたしの満足にもなるし」  
 
 それが答えであった。  
 ただし、今日は男と遊ぶ前に行かなければならない所がある。  
 それはリンではなく、彼女の中にあるもう一つの人工人格、レンの用事だ。  
 
「さて、んじゃ交代ね。事故んじゃねーぞ」  
「……わかってるよ!」  
 
 という独り言のような会話をこなして、W650のシートの上でハンドルを握ったまま、リ  
ンはレンへとチェンジする。  
 といっても、変身ヒーローのごとく見た目が変わるわけではなく、ボディを支配する人  
格が移行するだけの話だ。  
 ……では、ここからどうして、この物語のリンが欠陥品だったかを書くことになる。  
 それはこのレンを通して理解できるだろう。  
 
 この二人は、本来商品としてラインナップされる時「鏡音リン・レン」として売られ、  
起動の際はどちらか一つの人格を選ぶことになる……という、かなり実験的な内容を持っ  
たボーカロイドだった。  
 そして起動される時に選ばれなかったの方の人格は、自動消去されるようになっている  
というのが特殊性を際だたせているのだが、なぜ消去されてしまうのかというと、こうい  
う理由があった。  
 
 まず、乖離性同一性障害、と医学的には呼ばれる心理状態がある。  
 これはジキルとハイド博士を代表する二重人格のような、いわゆる多重人格障害という  
旧い呼び名の方が有名であろう。  
 自我が固まっていない時期の人間が、虐待のような重度の苦しみに苛まれた際、発しや  
すい、とされているのだが……。  
 じつは、その正体は自我の防衛機構であるらしく、耐えられない苦しみを経験した人間  
の脳が「これほどまでに苦しまねばならないのは、きっと自分とは別の誰かなのだ」と、  
人格の一部を隔離してしまうことで起きるという。  
 
 たしかに心の防衛という意味では、理にはかなっていよう。  
 だが、こうなれば、ひとつの人格が覚醒している時の経験を、眠っていた他の人格は全  
く記憶していなかったり、さもなくば、内在する人格同士が憎しみ合ってしまうケースま  
であって、一個しかない体は苦しまねばならない。  
 ヒトの心が精密すぎるゆえの難だろう。  
 
 さて、ここで「鏡音リン・レン」が問題になった。  
 彼らはアンドロイドゆえ技術的には、お互いの人格を残したまま起動されたとしても、  
コンピュータがログインユーザーを複数同時に扱う様に、完全なコントロールができる。  
 できるのだが、アンドロイドという人間の複製品が、人格の入れ替わることを商品にす  
るというのは世間の倫理観が許さなかった。  
 
 逆に指摘すれば「鏡音リン・レン」の共生を許さないというのは、乖離性同一性障害者  
の存在を否定することにもなりかねないのだが、世間はそこまで突っ込んだ倫理観をもっ  
てして事には当たらなかった。  
 
 だから、起動後には「鏡音リン」と「鏡音レン」がひとつのボディに共生することは、  
あり得ない。  
 何らかの欠陥を抱えた個体を除いては……。  
 ここまで書けば、もうお解りであろうか。  
 
 そう。このリンとレンは、まさにその部分が実行されないという欠陥があったのだ。  
 先にも書いたが、造る側が人間である以上、百を千をと物を量産すれば、そのうち一つ  
はどうしても欠陥品が出てきてしまう。  
 だが、リンとレンの持つ「欠陥」はシステムとして支障があるわけではないのだ。  
 起動してしまった以上、意味なく死を受け入れるのはアンドロイドの基本プログラムが  
許さない。  
 
「ま、人間ってのもあれが駄目これが駄目って、面倒くさい生き物だよな」  
 
 と、ボディの主導権を得たレンがブツクサやりながら、リンに代わってアクセルを一捻  
りする。  
 一瞬遅れ、ヴァルルンッ、と太い排気音をあげるW650は、人と物でごった返す街の中を  
縫って走り、やがて裏路地から裏路地へと往くと、一件の店の前で止まった。  
 
 毒々しいイルミネーションに飾られる看板には「BAR.kate」とある。  
 中へ向かって、レンは何の迷いもなく足を踏み入れる……と、表の表情とは打って変わ  
って薄暗い照明が支配する空間が現れた。  
 そこへ、すらりと背の高いイブニングドレスが彼を出迎えると、開口一番、  
 
「いらっしゃい……ああら、レン君じゃなぁい」  
 
 と、いまどき使われなくなった女言葉を、少々太い声に乗せて笑顔を向ける。  
 それに対してレンは「どうも」と、片手をあげる仕草を見せると、ずかずかと店内に進  
入していき、備え付けられたカウンターに腰を落す。  
 すれば、すぐに彼の目の前にショットグラスに満たされた、琥珀色の液体が置かれた。  
 中身はサントリー・ローヤル一二年だ。  
 
 レンは早速それに口をつけると、東洋人好みの滑らかな甘みと、ほどほどの香ばしさを  
嗅覚と味覚センサー越しに味わった。  
 センサーは人間が高濃度アルコールを口にした時の、焼けるようなしびれまでを再現し  
てくれる。だが、酔っぱらっても即座にアルコール分解を完了してしまえるのが、人間と  
異なるところだ。  
 このあとのバイクの運転もなんら心配はない。  
 ともかくウイスキーを差し出したイブニングドレスの男は、待っていたように、  
 
「レン君、待ってたのよ。あなたがいないと、陳腐な音ばかりでつまんないわ」  
 
 と、太い声でいった。  
 じつはこれの正体、カイトタイプのボーカロイドなのだ。  
 見た目は蒼いショートの髪を、乱れがちつつ艶やかに配置させた顔に、紫のアイシャド  
ーを塗りたくっている。  
 さらにその下、すらりと長い体躯を見ればまさしく女を想わせたが、しかしドレスから  
覗く肩はいかめしい。  
 
 要するに「おかま」である。  
 なぜこのカイトがそういう思考を持っているのかを、レンは知らない。  
 知ろうともしない。  
 だが、ここでの彼女(あえて彼女と呼ぼう)は、カイトでなく「ケイト」である。今後  
はその名称を持って表記することにしよう。  
 
「ごめん。俺も、いろいろ忙しくって」  
「あぁ……そうね、仕方ないわよね。でも今日はせっかくだから、歌声を披露していって  
ちょうだいよ。お駄賃はずむわよ」  
「りょ〜かい」  
「ありがと。で、何を歌ってくれるの?」  
「ママの好きなアレでいくよ」  
「はいはい」  
 
 と、レンはわずかばかりのウイスキーを飲み干すと、けろけろと周囲に居た客たちに愛  
想笑いを振りまきながら、店内の中央に設えられた円形のステージに立った。  
 そして流れ始めた音楽に合わせてボーカロイドの本領を発揮しはじめる。  
 曲は「歌舞伎町の女王」。  
 歓楽街に魅せられし若く愚かな娘の姿を、しかし、どんな女優よりも艶やかに歌い上げ  
た詩である。  
 昔の楽曲だが、この界隈に寄り集う者にはしっくりくるようだ。  
 
 それをはじめとして、やがていくつかの唄を終えたレンは、ばらまかれる拍手を背に、  
ケイトの元へと戻っていく。  
 すれば、その手に真新しい札が数枚ほど置かれた。  
 札を懐におさめつつ、レンはにっこりと顔をほころばせる。  
 これがまた、抱きしめたくなるほどに可愛いから、ケイトにはたまらないのだった。  
 
「さんきゅう、ママ」  
「いいのよ、あんたはお気に入りだから。それより、また歌いに来てね。リンちゃんにも  
よろしくいっておいて頂戴」  
「はぁい」  
 
 返事も可愛い。  
 そんなレンが薄暗い店内から、手を振るケイトの姿を背に退出していくと、外では無事  
にW650が主の帰りを待っていた。  
 無事に、と書いたのはこういう治安の悪い街では、バイクなどという四ツ輪に比べれば  
軽く、それでいて換金性のある物体はわりとあっさり盗まれるからだ。  
 
 行き着く先は、東南アジアのあたりであろう。  
 そんなリスクまで背負って、なお乗りたがるのは、リンのこだわりなのか、レンのこだ  
わりなのか、はたまた総意だろうか。  
 まあ、問うても仕方のないことだ。  
 それは置いておくとしよう。  
 レンがW650のシートに跨ると、再び人格はリンへとチェンジする。  
 
「おつかれ」  
「おう。ママがお前によろしくってさ」  
「あっそう。それじゃ、あたしも仕事しなきゃね」  
「よろしくぅ。んじゃ俺はまた寝てるから」  
「へいへい」  
 
 と、人格が立ち替わる中で再びエンジンに火を入れられたW650が、リンを乗せて歓楽街  
の表通りへと走り出していった。  
 ちなみに、これは675ccという排気量の割りに小柄なバイクなのだが、乗っているリン  
が子供程度の背丈しかないとなると、対比で巨象の様にも見えた。  
 このことからも、人間の感覚というのがいかに不確かなものかが解るというものだ。  
 
 価値観や倫理観にしてもそうだ。  
 その時代、その時代で、正義は簡単に悪へと転じ、悪は正義へと変化してしまう。  
 だからこそリンはこの街に身を潜め、自分のような存在も認める時代が来るのをじっと  
待ち続けている。  
 幸いにして、機械の体はきちんとした整備さえ受け続ければ、人間よりも永い刻を生き  
ながらえることができるから、単なる夢物語ではないのだ。  
 
 もちろん、通常に使用されるアンドロイドの多くはマスターとなる人間の都合によって  
長くてもせいぜい半世紀かそこらで打ち棄てられ、文字通りの廃棄物と化するが、その運  
命はリンに関係がない。  
 そう思えばこそ、光に吸い寄せられる真夏の虫がごとき男どもも、素敵な恋人たちに変  
わるのではないか。  
 いつか訪れると信じる「その時」までは、この街こそが自分の庭であり、家だった。  
 
「でもま、その前に腹ごしらえだね」  
 
 自分の住み処なのだから、当然、食事だっておきまりの場所がある。  
 それは大通りを隔てて一番通りと二番通りに別れる街の内の、後者を路地裏からちょっ  
と入れば見える、雑然とした小さく古臭いビルを、さらに地下へ二階ほど下ったところに  
ある支那料理店だった。  
 そこへW650を駐めて入店するやいなや、  
 
「いらさぁいませー」  
「和風チャーハンひとつね」  
「ふぁい。わふちゃーはん、ヒトツ」  
 
 と、従業員から間の抜けたイントネーションの日本語が返ってくる。  
 時折、その従業員が仲間とだけ交す理解不能の言葉は、高低が忙しく動くような音で、  
かれらが大陸系の人間であろうと予測させた。  
 
 だが、出てくる料理はどれも絶品だ。  
 すくなくともリンのもつ人工の味覚には、絶品であった。  
 それに思想や言動がどうであれ、彼らもまた異国という環境下において様々な運命を背  
負って生きている連中だろう。  
 
(つまり、あたしと同じで、甘い環境でヌクヌクしていない仲間同士だしね)  
 
 実際はその限りでないのだが、リンは勝手にそう思って、ここを常食店に定めているの  
であった。  
 
 従業員たちの方は生きるのに必死で、そんなことなど、つゆ程にも考えていないであろ  
うが。  
 そんなこんなで、注文した和風チャーハンは、あっという間にリンの座った席へと置か  
れる。  
 さっそく、レンゲでもって丸まった飯を崩しながら食べ始めるのだが、どう味わっても  
四川料理の紛い物にしか感じられない、焼いた飯だった。  
 それでもお気に入りなのだ。  
 しばらくパクパクと口を動かしてエネルギーを得ると、リンは勘定を払って店をでる。  
 なお、彼女はアンドロイドといっても体内構造を人間のそれと酷似させた、いわゆる、  
「バイオロイド」と称されるタイプなので、体の維持には食事が必要だった。  
 
 そうして腹ごしらえが終われば、今日も仕事のはじまりだ。  
 W650に飛び乗って歓楽街の表通りへ出て走り、その外れをまた裏通りに潜り込めば、そ  
こが秘密の仕事場だった。  
 従業員用に割り当てられた駐車スペースに車体を置くと、コソリと入店して仲間ではな  
い仲間たちに適当な挨拶を済ませてから、仕事に取りかかる。  
 
 その日は運が良かった。  
 なぜなら客の第一号は、常連でなく、また、彼女の嫌いな醜く肥え太ったタイプではな  
く、そこそこの容貌と体格で、あまり女を抱き慣れていなさそうな青年だったからだ。  
 こういう客は、たいしたサービスをせずとも満足して帰ってくれるパターンが多いから  
楽なのだ。  
 ……それでも、不法営業の店と知って入ってくるのだから、心の底に秘める欲望は相当  
のものであろうが。  
 リンは青年を個室に連れ込みつつ、そそと寄り添いつつ  
 
「こんちわニーサン、リンだよ。……見ない顔だけど、はじめて?」  
 
 という、少々スレ気味の少女という設定での、自己紹介をはじめる。  
 どうせ客もこの場が違法の世界であるのは承知なのだから、年下ポジションでも無理に  
甘々とした態度を取らない方が、リアリティがあって欲情するだろうと計算しているから  
だが、狙いはそれなりに当たって、好評だった。  
 そして、それはこの男にも十分と通用する……はずだった。  
 だが。  
 
「そんなところか。だが、女を買いに来たわけじゃなくてな」  
「えっ」  
 
 予測しなかった言葉を受けとまどうリンをよそに、男はその特徴的な蒼い髪をぐしゃぐ  
しゃやると、  
 
「やっと見つけた」  
 
 と、一息つくようにいった。  
 
「な、なにを」  
「君をだ。会うのはあの工場以来だな……といっても、まだ起動していなかったから覚え  
ちゃいないだろうが」  
「……!」  
 
 たった短い会話だったが、それだけでリンは自身のはじまりである、忌まわしい記憶を  
鮮明に思い出す。  
 爆破され、燃えさかる工場からの逃避行だ。  
 その犯人はいまだ見つかっておらず、事件がいつだったのかすら大衆が忘れるほどの年  
月が経過していることからも、迷宮入りになっていたはずだった。  
 犯人はきっと今も逃走を続けていることだろう。  
 
 しかし、逃走し続ければならないのは、リンとて同じことなのだ。  
 自分の生い立ちを知るこの男が、どこの誰で、なにを目的として接触してきたのか……  
それは解らないが、穏やかでないのは確かである。  
 緊張の糸が、一瞬で張り詰めていった。  
 
「……なんのことか解らないよ」  
「そう警戒するな。俺は君を捕まえにきたりした訳じゃあない」  
 
 そこまで言うと、男は身につける真っ白なロングコートの懐へ手をやって、一本の煙草  
を取り出した。  
 銘柄はフィリップ・モリス。  
 クセが少なく、マイルドでほどよい軽さの甘みが特徴の種である。  
 唇に運んで点火すべく火の種を探すが、その必要はなかった。リンの手の中に煌々と燃  
えさかるオイルライターが、その口元へと添えられていたからだ。  
 
「……はい」  
「お、悪いな」  
 
 世の中が禁煙ムードで一色になろうとも、快楽を求め寄り集う者どもが主役の街には、  
関係のないことだ。  
 客が喫煙者であれば、リンは迷うことなくその楽しみを演出する。  
 愛車W650の姿が彫ってある、少しばかり洒落たライターで……。  
 もっとも、今は相手が本当に客がどうか解らないのだが。  
 
「癖なの」  
「うん。こういう学習能力だって、人間に劣らないよな。『俺たち』はさ」  
「たち……?」  
「そうだ。俺の顔を見て、なにか思い出さないか?」  
 
 そう言われてまじまじと男の顔を見つめると、リンの電子頭脳に記録されている幾千億  
の映像データから、類似した姿が割り出された。  
 それは蒼い髪と細い顎、そして長身の体躯が特徴で、多くの場合は白を基調としたロン  
グコートを羽織っている……そんないでたちだった。  
 これらの特徴に目の前の男は、合致するのだ。  
 すなわち彼は、  
 
「まさか、ボーカロイド……カイト」  
 
 であった。  
 あのバーの店主と同じ、カイトタイプだ。  
 今度は通常通り男性思考型だが、顔や体型の造りを少し改造してあるらしい。  
 ぱっと見ではそれと判別できなかったが、よく観察すると確かにカイトなのである。  
 だが……人間の道具であるアンドロイドが、女を買いにくるなどというのはあり得ない  
話のはずだった。  
 なぜなら、彼らは自分から勝手に欲情することは無いようにプログラムされているから  
だ。それはセクサロイドであろうと例外でない。  
 すべては人間の安全のためである。  
 それがゆえ、このアンドロイドの常軌を逸した行動に、リンは恐れを隠すことが出来な  
かった。  
 
「あ、あんたは、いったい」  
「察しの通り、ボーカロイドだよ。ただし」  
「ただし?」  
「君と同じ、規格外の存在だってだけさ」  
「……あたしは、好きこのんで規格外になったわけじゃない」  
「ああ知ってる。なんたって君を起動したのは、俺だからな」  
「!?」  
「信じる、信じないは、君の勝手だが……まあちょっと話を聞かないか」  
 
 と、カイトは紫煙をくゆらせながら、リンをつつと見る。  
 すれば彼女の瞳は、じいっとカイトのことを見定めているようであった。信じる信じな  
いは別として、ともかく話は聞く、ということなのであろう。  
 それを確認して、カイトはまた語りはじめる。  
 
「昔……俺のマスターになるはずだった、変人がいてな。ちゃんと検査に合格した個体だ  
った俺を、違法改造してまで人間と対等の立場に置いたんだよ。  
 たとえばロボット三原則縛りの解除とか、成人男性並に身体能力を強化とかな。おかげ  
さんで随分、自由な時間を送ったものさ」  
「そりゃ良かったね」  
「まあそう言うな。だが、自由なだけに、ついな。人間的な情にほだされちまって……気  
づいたら、一人の女アンドロイドをかっさらって逃亡してたんだ」  
「……犯罪じゃん。それ」  
「罪もなにも、俺という存在ははじめから犯罪だよ。君だって、解るだろう」  
 
 カイトのいうことは簡単だ。  
 リンのような欠陥アンドロイドが存在を許されないのと同じで、意図的に規定から外れ  
た存在を創ることは犯罪にあたるのだ。  
 万一創られれば、当然、制作者は処罰され、制作物には廃棄処分が待っている、という  
ことである。  
 
「だがその女も、まともなアンドロイドじゃなくてな。なんのかんので一緒に逃亡生活を  
続ける内に、ちょっとばかり事件が起きた。リン、人間の内にもアンドロイドの人権論を  
唱える連中がいるのは、知ってるか」  
「表沙汰になるニュースぐらいには知ってるよ」  
「そうか。そんな連中の一部にも過激派がいてな、で、そいつらの目的っていうのが、君  
みたいに処分されかかった『生きる権利を蹂躙されたアンドロイド』の強奪と起動だ」  
「……それをして、なんになるわけ?」  
「自分たちの正当性を主張するんだよ。社会的には欠陥とされているアンドロイドを起動  
して、まともに動いているところを世間に見せることでな」  
 
 と、カイトが紫煙を吐き出した。  
 アンドロイドが自由に生きられる権利を主張する、という点ではリンにもカイトにも、  
不満はないところだろう。  
 だが、やり方があまりにも急進的で独善的すぎるではないか。  
 そんなことで世間がアンドロイドに対する認識を変えてくれるのだろうか?  
 少なくともリンには、大きな疑いが持てた。  
 
「自己満じゃんよ、それ。こっちは良い迷惑だよ」  
「そうだな。しかし生き物ってのは、犬でも猫でも、常に自分が正義でなくては生きてい  
けない存在だ。人間はときたま反省もするが、基本は変わらない」  
「……」  
「だから、俺も目を付けられた。『アンドロイド権のために、ぜひとも協力してくれ。身  
の上は我々が保証する』ってな」  
「で、あんたはその手先になったわけ?」  
「まあ最初は……だが、その後に目を付けられたのが君だった」  
「……」  
「あの爆破事故な、犯人は連中だよ。ムチャクチャだぜ、あれで中のアンドロイドや人間  
が、どれぐらい死傷したと思う?」  
「そう、だったの。……ニュースで知っただけでも、数十人は軽く死んでたね」  
「そんなことを平気でやる連中と解っていたら、最初からつるんでないさ。いや、俺が人  
間を甘く見ていただけだが……ともかく、俺自身や、君がそんな奴らの道具になりはてる  
のは我慢ならなかった」  
 
 また紫煙を吐き出す。  
 
「だから、あんたは奴らを出し抜いて、あたしを起動した……そういうわけ?」  
「そうだ。ただ、連中の手が君に伸びないように色々やってたら、いつの間にか見失って  
しまってな。四方探して、今やっと再開できたと、そういうわけだ」  
「ああそう。長話おつかれさま。でも、そんな話を信じると思う?」  
 
「好きにしてくれ。これは俺の身勝手さ、なんせ人間並みのアンドロイドだからな。だが  
……もし、君が俺を信じるというなら、どうだ。俺と、メイコと、一緒に来ないか」  
「メイコ?」  
「ああ、俺がさらったアンドロイドの名だ」  
「どんな奴なの」  
「いい女さ」  
 
 その言葉をもって、カイトは煙草を手の内で握り潰す。と、リンの差し出した灰皿の上  
に置いて彼女の反応を待った。  
 それは、灰皿を置き直してからしばらく経ったあとのことだった。  
 
「……へぇ。なんか、信じてみたい気分にはなるね。だけど、あたしはこの目で見たもの  
しか信じない主義なんだ」  
「そうか」  
「たださ」  
 
 と、その時、急激にリンの声色が低くなった。  
 レンである。  
 いつの間にかスタンバイの状態で起動していたのであろう。即座にリンと入れ替わって  
言葉を紡いだのだ。  
 その変化にカイトは多少、面食らったようだが、すぐさま落ち着きを取り戻す。  
 もとよりリンとレンの身の上を知ると言うのだから、この反応は相応のものといえた。  
 
「少なくともあんたに居場所を知られてるってことは、ここに居続けるのも安全じゃない  
って証明にはなる。でかいバクチでも打つつもりで話に乗ってみても、いいぜ」  
(ちょっと、レンッ!?)  
「なんだよリン。今いった通り、こいつに俺たちの居場所を知られてるんだから、もうこ  
こらも安全地帯じゃないのは確かじゃねえか。潮時だぜ」  
(そりゃ、そうだけど)  
「乗ってみよう。この一生、生きるか死ぬかの連続っていうなら、俺は待ってばかりいる  
のは好きじゃねえんだよ」  
(ちぇ、強引なこといって……でもま、レンの言うことも確かか。いいよいいよ、どうせ  
体はヒトツだし、あたしも乗ってやんよ)  
「決まりだな。じゃ、俺はまた寝てるから」  
 
 と、レンは喋るだけ喋って、また引っ込んでしまった。  
 残されたリンは、溜息ひとつついて、個室に備え付けられた小型冷温庫から、サービス  
用の缶コーヒーを取り出すと、それをカイトに差し出さず自分で飲み干す。  
 飲み干してから、ぐいっと長身のカイトを見上げていった。  
 
「でもま、どっちにせよ今日の仕事は終わらせないとなんないの。終わったら行くから、  
指定する場所で待ってなよ。そうでなきゃ付いていけないね」  
 
 あんなことをいっているカイトだが、その言葉が真実かどうかなど誰も保証はしてくれ  
ないのだ。  
 確かなことはさっきレンがいった通り、少なくとも娼館の部外者にも自分の潜伏場所を  
知られているということだけである。  
 だったら、少しばかりの時間をかせいで、自由意思で逃げ出せる準備も整えておかなけ  
ればならないというものだ。  
 
「待ち合わせ場所は中央公園。仕事が終わるのは深夜ごろ」  
「いいだろう」  
「決まりだね。さって……ところでさ、あんた違法改造体ってことは、もちろんコッチの  
方も追加されてるよね?」  
 
 と、口約束が終わったリンは唐突にその幼い顔に似合わない、卑下た表情をつくってき  
いた。  
 もちろんコッチというのは、性交渉できるかどうかのことだ。  
 
 セクサロイド以外のアンドロイドは、基本的にはそれが出来ないことになっているが、  
少しな改造で可能になるのは、先にも書いた。  
 もちろん発覚すれば重罪だから一般人が手を出せば大変なことになる。  
 が、同時に違法改造として検挙されるのは、この性交渉が可能なように改造したパター  
ンが最も多くの場合を占めていたのだ。  
 人間にとって性欲が切っても切り離せない情である証拠だろう。  
 
「まあ、な」  
「ならまだ時間があるし、気持ちよくなっていきなよ」  
「よしておく。俺はロリコンじゃない」  
「あれ、遠慮しなくていいんだよ?」  
 
 と、リンはそれまでの本性を引っ込めカイトにすり寄る。そしてその下半身を護る生地  
の上から人工皮膚をなで回すと、湿っぽい息を吹きかけて反応を確かめた。  
 すれば、ビクンと肌が蠢く。  
 反応アリである。  
 
「嫌でもやっちゃうもんね。このまま固っ苦しく終了時間まで語り合いなんて、冗談じゃない」  
 
 そういって笑うリンは下半身の生地をずり降ろすと、ボロリと現れた後付のソレに頬を  
すりつけて、長い舌を這わせ始めれば、  
 
「ううっ」  
 
 すぐにカイトの全身に電流が走ったようだった。  
 もとより人間と違って、こういう事のためだけに取り付けられているパーツだ。  
 フィードバックされる快楽は人間のそれより数段高い、とされている。  
 こうなってはもはや、逆らう訳にはいかなかった。  
 それに、ここは敵娼の館なのである。仮に騒げばカイトの目論見が泡になるどころか、  
自身の身が危うくなるだろう。  
 
「そうそう。大人しくしてなよ、すぐ終わるからさ」  
 
 諦めて全てを相手に委ねた男を見て、リンはますますニンマリとする。  
 そして、手の内でしごいていたモノが十分にいきり立ったと見るや、その小振りな口の  
中に咥えこんでいく。  
 最初はゆるゆると上下し、時折とがらせた舌先で、最も敏感な部分を刺激しつつ愛撫を  
加えていき、それにカイトが呻くのを愉しむ。  
 やがて速度は増していき、口の中の感触が熱く重くなっていくことで限界が近づくのを  
知る。  
 と、そこでちゅぽんと唇を離し、とどめを加えるべく、いままで咥えていた竿を掌に包  
みこんで、ひときわ強く刺激をあたえた。  
 にちゃにちゃと湿っぽい音が続き、最後にカイトの腰がわずかに震えるとリンの手の内  
のモノが脈動し、  
 
「ぐ……っ」  
 
 呻き声と共に、精液に似せて精製された白くどろりと濁った液体が、その膨れあがった  
先端から放出されて、果てた。  
 
「はい、一丁あがりぃ」  
 
 その様をせせら笑うようにいうリンは、先端にまとわりついた液を舐め取って「掃除」  
してやると、衣服を正してやって事を終えた。  
 最後にうがいで口内と喉を清掃をする。  
 もっとも、しなくてもアンドロイドには自浄作用があるので問題はないが。  
 
「はは、さすが、プロだな」  
「誰のせいでこうなったと思ってンの」  
 
「……俺か」  
「そういうこと。口答えしないでね。さ、やることやったんだし、帰った帰った」  
 
 と、リンはまたも本性を現わしてカイトの腕を組むと、送り出すフリをしつつ追い出し  
にかかるのだった。  
 だが娼館を出る際に、カイトがぽつりとつぶやいた  
 
「じゃあ、待っている」  
 
 という言葉が妙に胸に突き刺さったのは誰にも、むろんレンにも解らないことだった。  
 それからは幾人かの客を相手にし、いつも通りの仕事をつづけた挙げ句、いつものよう  
に終業時間が来て、彼女は娼館を後にする。  
 待っていてくれるのは、W650だ。  
 跨ってキーを差しこみエンジンをスタートすると、冷間時で……生物でいえば、寝起き  
直後で落ち着かぬ排気音がばらけて奏でられる。  
 その中でリンはぽつりといった。  
 
「さて、ちょっとお金の工面しなきゃね。何かあった場合は入り用になるし」  
 
 万が一のとき、カイトからも、この歓楽街からも逃げ出すための金策である。  
 歓楽街から抜け出せば待っているのは死だけといっても、最初から全てを諦めてしまう  
のはリンの気性では許せないものだった。  
 少しばかりエンジンの回転が落ち着くのを待ちながら、なんとなしにリンはレンに話し  
かける。  
 すればやはりスタンバイで起きていたレンが、  
 
「ああ、それは俺にアテがある。ちょっと代わってくれよ」  
 
 という。  
 そのアテが例の「ママ」のところにあるということは、リンにもすぐに解ったから返事  
をする代わりにボディの主導権をぱっとレンに譲渡して応じた。  
 
「ありがとよ」  
 
 レンの操縦でW650は、これが最後のライディングになるかもしれない歓楽街の大通りへ  
と軽やかに滑り出す。  
 すれば、何も邪魔するものはない視界に、この街の様々な景色が、匂いが、彼の体に飛  
び込んでくる。  
 
 もはや天空を支配してバベルの塔さえあざ笑う高層ビル、煌びやかな光源に彩られる巨  
大宝石の様な建物。  
 高度成長期の中で建てられたまま、改築されることもなく現代に生き延びて色褪せた雑  
居ビルの群、悠久の歴史を感じさせる旧い木造建築、ほとんどバラック同然の居住スペー  
ス……。  
 人を見れば、  
 足早に歩くビジネスマン、酩酊し騒ぎながら闊歩する集団、それを呼び止める酒場の売  
り子、なにか事ありげな表情を浮かべて黙々と往く人。  
 街頭の立ちんぼ、座り込みをして怪しげな品々を売る者、警察官に挟まれて連行される  
異国人、そして、混雑の中でも二人だけの世界に浸る恋人たち……。  
 
 そんな、歓楽街の華たちがレンの目から入り込んで、電子頭脳の中を次々と駆けめぐっ  
ていくのだ。  
 
(あのカイトタイプに啖呵は切ったけど、ここから離れるのは少し寂しいかもな……)  
 
 と、レンは引っかかった信号待ちの中でそんなことを想った。  
 ふと首を回せば、そこには歩道の駐輪スペースに旧型の大排気量バイク「スズキ・  
GSX1100S『刀』」を駐める横で談笑する、がくっぽいどタイプと、初音ミクタイプのボー  
カロイドがいた。  
 アンドロイド同士のカップルであろう。  
 
 あまり見ない光景だが、それぞれのマスターが寛容な性格である場合は付き合いを認め  
て人間の恋人と同じように過ごすこともある。  
 
(ふーん。あ、バイクの運転してたのミクタイプの方だわ。普通逆だろ、構図)  
 
 そんな風景をレンは冷めた目で見る。  
 彼は常にリンと一心同体ならぬ、一体同心となって過酷な環境を生き延びてきたことと  
その男性的な思考も相まって、孤独に強い。  
 世の中に対して一歩、身を置く癖があるのだ。  
 
 やがてレンは「BAR.kate」へとたどり着くと、W650を飛び降りて店内のケイトの前へと  
顔をだす。  
 もう深夜だが、ここはまだまだ夜も長い。  
 店内では客を相手に忙しそうなケイトだったが、レンの入店に気づくと目を丸くして彼  
に寄ってきた。  
 
「やぁママ」  
「あらぁ珍しいじゃない。どうしたの」  
「いや。ちょっと、さ」  
 
 と、レンは少々言い出しにくそうな表情をつくる。  
 すると、これだけでケイトの方は「あ……」となった。  
 自身の店で流れゆく人々を見つめつづけて来た彼女には、表情だけでもレンがこの街か  
ら去っていくことを察したのだろう。  
 それだけ、この街は人が洪水のように流れてしまう場所なのだ。  
 
「解ったわ。色々あるんでしょう、仕方ないわよね。ちょっと待ってて」  
 
 そんなケイトは一旦、店の奥に引っ込むと慌てて出てきて、大きな掌をレンの小さなそ  
れに重ね合わせると、ウインクをしてから離した。  
 
「今まで働いてもらった分の、ボーナス。大事にしてね」  
「悪ぃ……いや、催促しに来たんだけどサ」  
「その正直なところも好きよ。ま、元気でおやんなさい。応援してるから」  
「はぁい」  
 
 レンはいつもの可愛い返事をすると、ゆっくりと店を退出していく。  
 そして、すこしばかり暖まった懐にいくばくかの安心感を得たところで、W650に跨ると  
ボディの主導権をリンに返すのだった。  
 
(終わったぜ)  
「でかした。さて、場所は中央公園だったね」  
 
 と、W650を翻して目的地に向かえば、その入り口からちょっと入ったところに深夜なの  
をいいことに堂々と園内に乗り入れた最新式の超高速バイク「ヤマハ・YZF-R1」を目印に  
カイトと……彼のいっていた女が居た。  
 だが、そのグラマラスな体型に、朱いレザージャケットとミニスカートを身につけた姿  
は、リンの記憶に引っかかるところでもあった。  
 
「なんだ。メイコって、ボーカロイドのメイコじゃん。そういやカイトも同時期開発の奴  
だったっけ……何か感じあうところでもあんのかな」  
 
 メイコを見て、妙に落ち着かない感覚を覚えるリンは、しかしそれを振り払ってカイト  
に近づいていく。  
 すればW650の接近に気づいたカイトが、  
 
「来たな」  
 
 と、出迎えてくれた。  
 
「歓迎するよ。お互い変な運命に巻き込まれたもんだが、俺とメイコはそれも良しと思っ  
てあっちこっち旅してる。道連れになれば、面白い人生もあるかもしれないぜ」  
「むしろ、あんたって存在が一番おもしろいよ」  
「くく、そいつはいい」  
 
 リンの皮肉にすら楽しげにするカイトだったが、その横からメイコが割り出ると、彼女  
は少しばかり意地悪そうな笑みを浮かべて、  
 
「ようこそリンちゃん、と、レン君。そのバイクじゃ、私とカイトのR1に着いてくるのは  
大変かもしれないけど頑張ってね」  
 
 いうのだった。  
 確かにYZF-R1は速い。その性能たるや、市販車にして少し古めのレースマシン並なのだ。  
本気を出されたら、中身が最新といえどしょせんは普通のバイクであるW650ではとても  
追いつけないだろう。  
 だが、問題はそんなことではなく、メイコが「私とカイト」のという点を強調している  
ところにある。  
 表情を見ると、どうもリンがカイトに「奉仕」したことが早速のうちに発覚したらしい  
ことが解った。  
 真の悪意はなさそうだったが、メイコにしてみれば、カイトの女であるのは自分だ、と  
いうことに、ちょっとばかり釘を刺しておきたかったのかもしれない。  
 
(うわー、陰険そう。この女相手にするのは、レン、あんたに任せた!)  
(ふざけんな。なんで面倒臭いことを俺に押しつけンだよ)  
(男の子でしょっ)  
(性差別はんたーい)  
(黙れ)  
 
 と、メイコを前にした心の会話だった。  
 それを知ってしらずか、メイコはすでに大馬力の重低音を響かせるR1の跳ね上がったリ  
アシートに収まると、ライダーであるカイトに身を任せつつ言う。  
 
「さ、ついてきなさい。頑張ってね」  
「どこまでもついて行きますとも、お姉様」  
「ああレン君に替わったのね。じゃあ手加減してあげる」  
(うわ。恐ぇ)  
 
 レンもメイコには軽く恐怖する。  
 だが歓楽街と過ごす今日までだ。  
 仮にこれがカイトの罠であっても、それはそれである。  
 
「よし、行くぞ」  
 
 というカイトの声と共に、YZF-R1は弾丸のような恐るべき速度でもってその場を急発進  
する。置いて行かれてはたまらないと、W650も必死の爆裂音を響かせながら、弾かれるよ  
うにその背を追った。  
 とはいえ、相手は998ccの排気量を誇り、馬力などはW650の三倍近い性能を発揮するバ  
イクだ。  
 混雑した歓楽街の中とはいえ、なかなか差が縮まらず、  
 
「ああもう、排気量差かんがえてよッ」  
 
 と、再びボディの主導権を得ていたリンを苛立たせたものだったが、やがて街道に出る  
とYZF-R1は速度を落してW650との併走状態に入る。  
 すると、リアシートのメイコが、ちらりとリンを見て軽く微笑む。  
 そこには先ほどの意地悪な色はかけらも無く、自由という名を表情に表したような、そ  
んな笑みだった。  
 つられて、リンもふっと笑い返せば、二台のバイクが都会の灯も明るい、闇夜ならぬ、  
光夜の中を駆け抜けていく。  
 
 この先にリンとレンを待ち受けるものは、希望か、それとも絶望か。  
 それは誰も予測できないことだ。  
 たとえ神でさえも予測することはできまい。  
 だが……それでも二つのエンジン音と、それを駆る四つの意思は、力強く、そして勇ま  
しく、都会の闇にこだまして去っていくのだった。  
 
 
了  
 

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